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2019年07月31日

第3回 金子賢治 (日本文化藝術財団専門委員/茨城県陶芸美術館館長)

時代のうねりの中で進化し続ける工芸の技術
“日本文化の再構築”から生まれた「伝統」そして「創造」とは


日本文化や伝統を色濃く残す、手作りの産業だった工芸。近代化の波や戦後の立て直しなど波乱の時代の中で、“日本文化の再構築”が行われ、進化し続ける工芸の「創造する伝統」をどう捉えるか。金子賢治氏が3回にわたって連載します。
(取材:ごとうあいこ)

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 日本の工芸の歴史はとても古く、1万2、3000年前の縄文時代から現代までずっと残っているんですよね。これは欧米にはない現象です。極端なことを言えば、手作りの文化は縄文土器から始まり、生活を支え、産業に発展していった。日本の場合は、焼き物が一番目立っているけど、それ以外にも、染色や漆、木、竹、それから硯など石を彫って作られる工芸品もそうです。また、工芸品に必要な材料の紅花や筆の刷毛用の動物の毛の生産など、特に徳川の300年は日本列島が沈むくらいにどこも手作りの産業であふれていた時代だったんですよね。
 
江戸時代は藩ごとに自分の国の経済を成り立たせないといけないから、藩主が自分の藩の産業振興のために、職人を招いて流通させていたという理由もあります。例えば、笠間焼きは、信楽の陶工が笠間に来て笠間焼きを起こし、笠間の陶工は益子に行って益子焼きを起こす。そうやって、どんどん各地に技術が産業として広がっていって、様々な工芸が生まれたんです。
 
欧米には日本のように古い時代から続く手作りの工芸の技術は、ほとんど残っていません。特にヨーロッパは、第一次産業革命で手作りのものを根絶やしにし、機械化に踏み切ったからです。日本も、“マシンエイジ”と呼ばれるヨーロッパの近代化の波には抗えなかった。縄文以来続いてきた手作りの工芸品、日本文化の太い流れとこの波がぶつかり合ってぐちゃぐちゃになるんだけど、そうなったことで、より伝統を意識するようになったんです。「古くていいものが日本にはあるんだ」と、日本の古いもの、いいところとヨーロッパの新しいところをミックスして、なにかもっと、日本を主張できるものを作ろうとしたんです。そうやって、これまでのものよりも、1つ高い次元での“日本文化の再構築”が行われたんですよね。だから、日本の場合は、欧米と違って、「伝統」ということをものすごく意識する。今でもそうでしょうね。
 
戦後日本の復興過程で、工芸の再建というのも日本人の生活の再建と同じように行われ、そこでまた、日本文化の太い流れを考えたんだと思います。ヨーロッパの近代化に押されて、常に何か、新しいもの、新しいものというふうに自分たちを活性化すると同時に、ヨーロッパ人に示したいという思いが日本の近代化を促進したんだと思います。そのぐらい、日本の近代化っていうのはある意味では「進めていかなければ置いていかれる」という強迫観念に襲われていた。逆を言えば、そういう思いがあったからこそ、いいものが出てきたとも言えるんじゃないでしょうか。1950年代、60年代の日本の戦後の美術を確立したものは、ものすごくヨーロッパで人気があり、値段も高くなっています。

工芸の世界も、道具の機械化でこれまで完全に手作りしていたものも機械を使えるようになった。よく誤解されがちですが、本来民芸っていうのは「気持ちのいい生活用具、美しい生活造形を作って使う人の手元に送ろう」というのが基本的な考え方。これを軸に考えると、手作りしかなかった時代の産業工芸が、機械時代に工業デザインに変われば、それが今の民芸だと言ってもいいわけです。
 
 手作りでも、機械でも、仕上がりが一緒でいいものができる、大量に作れるならいい。そうでなければ、民芸の本来の主張が一貫しない。ただ現実は、機械を使って功利主義的に、安ければいいとなると、だんだん粗悪品になってくるということがあるので、それは批判されてしかるべきです。

 柳宗悦さんの息子・柳宗理さんは、「現代の民芸は工業デザイン」だと言及しています。いい意味で、時代に合わせて効率を考え、融合すべきです。ただ、僕が問題視しているのは、実用品や産業工芸品と作家の作品を混同して捉えることです。使い手がいいといえば、古い雑器をコピーしてもいいけれど、それは作家の表現とは全く異なるもの。古いもののコピーでは、作家の作品にはならないわけです。ただ、民芸論の環境では、そこがすごく曖昧なんです。コピーでもいいという風潮がありますが、産業デザイン論としては立派でも、コピーでは作家の表現論には転化しないんですよ。

 焼き物の世界では特に多いのですが、日本人が古い焼き物を今でも使いたいという要望をかなえるためなんですね。コピー、つまり、写しを作って生業にしてきた。これは作家の作品ではなく、産業ですよ。絵画や彫刻で作家が写しを作ったら、偽物だと一蹴されるのに、焼き物の写しは、なんとなく許されてしまう。変な世界なんです。産業と作家の表現の境目が、もうグチャグチャになっているわけですよね。それは、焼き物自体が作家の表現がどうこうという世界ではなく、骨董趣味で、愛玩すればいいんだという、美術におけるヒエラルキーの考え方の1つの裏返しでもあるんですよね。

 つまり、ファインアートは、1段も2段も高いところにあり、アブライドアートは1段も2段も低いもの。さらにクラフトはもっと低い。それはヨーロッパ近代の考え方なんですけど、それがそのまま日本にドンッとぶつかってきたんですよ。美術教育とは、おしなべてそうです。そうすると、「焼き物はアートになれないもの」というような考えが根付いてきてしまう。焼き物を専門にしている学芸員や評論家でさえも、「焼き物は手でこうこすって、箱に入れて楽しむもの」だとね。だから、茶碗が立体造形になると、器しかなかった世界から立体を作ったと、低い工芸から高い彫刻になったんだと、騒がれたこともあったんです。そんな馬鹿な話はないですよ。

 産業デザインと作家が表現する作品とは、全く違うものなんです。そこを混同してしまうから、おかしくなってくる。日本の焼き物の最も多いパターンに、桃山陶芸至上論とかね、中国の宋の焼き物は最高峰であると、それを真似して作ろうとする傾向がある。その典型が曜変天目で、あれをなんとか再現しようとして一生を棒に振る人が何人いたか。作家の表現とはそういうことじゃない。表現をはきちがえているんですよね。

 僕らがよく、公募展の審査をやるときもそうでね。井戸茶碗の写しなんていうものは、いっぱい出てくるわけですよ。そうすると、それを見て、「これは非常に気持ちのいいものです。使いたくなります、だからいい作品だ」と言う人がいるんです。だけど、それは出来上がったものをどう見るか、という鑑賞の論理。そもそもが“写し”ということ自体に、作り手の制作のプロセスを見れば、その人が自分の個性を表現しようとしていないとわかる。それはもう、作家としての前提を欠いているわけです。そういうものは批判してやめさせなければいけない。そうしなければ、次の工芸の未来が出てこない。作家もそうだし、見る側もそうですよ。

 写しが悪いと言っているわけではない。そういうものを作って売るのはいいが、それは産業の表現、作品ではなく産業品であって、作家の表現ではないということなんです。

(2に続く)

金子 賢治(かねこけんじ)
茨城県陶芸美術館館長
東北大学大学院修了。サントリー美術館学芸員として勤務。1984年より東京国立近代美術館に勤務、文化庁文化部地域文化振興課美術品登録調査官を経て、2000年東京都区立近代美術館工芸課長。2010年茨城県陶芸美術館館長に就任。東京国立近代美術館客員研究員を兼務。主著に『現代陶芸の造形思考』(阿部出版)など。
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