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2020年03月31日

第11回 倉方俊輔(日本文化藝術財団専門委員/大阪市立大学准教授)

多様なものが熟成する日本には伝統が芽吹いている
チャンスを増やして可能性を高めてこそ花開く



「伝統は創造の種になり得るもの。何かを生み出すための源泉として多様に残すべき」と話す倉方氏。現代は、この“残す”ことが難しくなってきていると警鐘を鳴らします。一方で文化や社会のニーズが多様化し、地域性が伝統と創造を追い風に広がりを見せています。
(取材:ごとうあいこ)


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 創作する上で、自覚的に伝統を使うこと。調整したり、加工しながら伝統を取り入れ、操作しながら発展させるということを行った最初のジャンルは建築ですが、こうした創造は、絵画や音楽や工芸でも取り入れられ、自覚的なものづくりが波及するうちに、だんだんとジャンルの垣根がなくなってきました。現代になると、建築の世界観が、音楽や彫刻でも表現されたり、楽器や工芸とコラボレーションをするなど、それが顕著に見えてきます。

 1980年以降、グローバリズムの時代になると、ジャンルが横断的で、どこまでがアートの領域でどこまでがソーシャル活動なのかがわからず曖昧になっていきます。80年代以前の、50年代、60年代からメディアミックスの流れはありましたが、80年代以降は現代美術もモードが変わっていきます。それからもう一つは、文化的相対主義というか、西洋中心だったアートが多文化主義に移行したことも挙げられます。それまでマイノリティだと見なされていたもの、例えばオーストラリアのアボリジニアートなどが脚光を浴びるようになったり、ソーシャルアートも活気づいてきました。

 日本でも伝統といわれているものは、ソーシャルメディアなどの発達で、注目を集めやすくなりました。しかし逆に「辺境だからすごい」ということにはならなくなってきた。それまでは地域や辺境で残っていることがすごいといわれていたものも「辺境にあるから伝統なんだ」という理由だけで残る時代ではなくなってしまったのです。環境じゃなく、そこに根付く何が伝統なのかを自覚しないと、伝統は保持していけません。技法なのか知恵なのか、それを一歩踏み込んだかたちで広げてみる。それがもし何かの道具だとしたら、この地域では小さいものにしか使わないけれど、大きいものに応用するとか、特定のものにしか用いなかった技法を、全く別の分野で使ってみるなど、自覚的に伝統に創造をプラスしていかないと保てないのではないでしょうか。

 現代で劇的に変化したというものの一つが、食です。流通の発達で、世界中の食材がフレッシュなまま行き交う時代となっただけでなく、離れた地域の情報さえ簡単に入手できて直接行けるようになりました。大きな看板やどんな料理か分かりやすく記された店舗名がなくても、集客できる。食のローカライズ化が進み、地域性がより一層売りに出されるようになりました。伝統を意識したクリエイティブな一皿も作られるようになって、遠くからも人が集まります。地域のものを再発見し、伝統を自覚的に用いながら創造することは、工芸や他の分野でも同じこと。地域性という括りでジャンルなく横断的につながることが受け入れられるのが現代なのです。

 建物、演劇、音楽、食事、すべてが独立しているようで横断的につながっていることは、そこを訪れた人がどう感じるかということでもわかります。例えば、レストランなら料理の味だけでなく、空間、インテリア、音楽、サービス、劇場も然り。中でも立体空間を作る建築は、人が中に入れる唯一のメディアであり、建物そのものだけではなく体験全体を構成する役割、そして価値は大きいです。今はVRなど空間体験がコンピュータで叶うこともあるが、実際に中に入ってみたいと思わせたり、コミュニティの受け皿になるなど、体験の仕掛けを作る意味での建築性はすごくもてはやされています。一人気ままに読書したいと思い自宅にこもっていたのが、落ち着いて本が読める広いスペースに出かけていくと、同じように一人で黙々と読書する人たちが点在しているというように。一人で本を読むという行為は変わらないのに、同じことをしている人が同じ屋根の下に集まると、やがてコミュニティに発展する。これも、三次元だからこそ作れる建築の魅力だと思います。

 建築は人が入れるほど大きいので、ニーズがないと生まれません。社会の要望があって初めてできるので、一人ひとりの新しい考えで新しい建築全体の潮流が変わったりするということはあまりないんです。ただ、建築も多様であればあるほどいいし、工芸や音楽やその他のジャンルとも刺激をしあって可能性や知見を広げられる。伝統的とされているものを含め、あらゆるジャンルがその分野でしかできないこともあってそれが埋もれていることもあります。例えば、素材。自然のもので作るということは当たり前だった時代から、野山にはない素材を使っていかに丹念な仕事をするかというのが工芸作家の一番の技になりましたね。それが機械化されていくらでもできる時代になると、今度は新しい希少性の高い素材やエコロジーを考えるなどテーマ性を持たせるなど、変化してきます。そして、建築でこれをやろうとしても、面積が大きいからできないこともある。ただ、「この場所は地元の土を使う」など個々の仕事では可能でしょう。創造する伝統は、気づいた人が埋もれていた良さを引き出し、新しい価値を引き寄せていかないと生まれないものです。

 そして、新しいものは、才能がある人が何かをした時にしか生まれません。いかに教育しても、可能性を多少高めるだけであって、才能がないと厳しいというのも現実です。才能がある人が何かを生み出す可能性をより高めるためには、多様性が必要。いろいろなジャンルがあったほうが、その中でチャンスが増えていくからこそ、建築はなるべく多様なものを残したほうがいいと思っています。明治、大正、昭和初期、1950年代、1990年代、どの時代にもいいものがあります。日本は「残す」取り組みが世界で一番遅れていて、こうしたものを残さないと新しく才能がある人が出てくる可能性は低くなります。日本の江戸時代以前の伝統と西洋的なものをいかにミックスするかという、戦後の丹下健三さんとかモダニズム建築で初めて実現しましたよね。日本はいま、世界でも有名な日本人建築家を輩出していて、その数は一番多いけれど、それを知らない日本人も多いです。

 多様性でいうと、日本は中国やアジア諸国など他の国から入ってきたものを独自に応用し、発展させてきました。西洋からの流れもいち早く受け入れると同時に、伝統を自覚し、保護しました。絵画や彫刻、工芸、料理、すべて他国の模倣から始まっていて日本から生まれたものは基本的にないと考えられていますが、だからこそ、すごく多様なものが日本で熟成しているんです。日本の伝統といわれているものには、たくさんの芽がある。まだまだたくさんの種類があると思うし、創造的な頭と腕をもっている人、可能性に満ちている人はまだまだいると思うからこそ、これからの創造する伝統に大いに期待したいです。

(了)

倉方 俊輔(くらかたしゅんすけ)
建築史家。1971年東京都生まれ。早稲田大学理工学部建築学科卒業、同大学院修了。伊東忠太の研究で博士号を取得し、2011年から大阪市立大学准教授。日本の近現代建築の研究と並行して、『東京モダン建築さんぽ』『建築の日本−その遺伝子のもたらすもの』『伊東忠太著作集』『吉阪隆正とル・コルビュジエ』などの編著書の執筆、メディア出演、日本最大の建築公開イベント「イケフェス大阪」実行委員、Ginza Sony Park Projectメンバーを務めるなど、建築の価値を社会に広く伝える活動を行っている。日本建築学会賞(業績)(2016年)、日本建築学会教育賞(2017年)受賞。
「創造する伝統賞」の前身である「日本現代藝術奨励賞」の第13回受賞者。

2020年02月29日

第10回 倉方俊輔(日本文化藝術財団専門委員/大阪市立大学准教授)

真に創造的なものは世紀をまたいでも滅びない
いきいきとした姿で輝き続けるものが創造を呼ぶ



伝統には創造が必要で、人為的に変形させる荒技ができる人を「建築家」と呼んだ近代。「創造する伝統の中心には建築があった」という倉方氏。権威が変転した時代に生まれた創造を建築からひもときます。
(取材:ごとうあいこ)


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 前回、権威と伝統が結びついた象徴に建築が使われたという話をしましたが、近代ではこれが盛んに行われました。カトリックが古代ローマで存在した形式を用いながら自分たちがもっている伝統を加工していく。これは、固形化した権威の下での伝統しかなかった中世とはかなり違います。古代ローマのものを軸に歪めたり、重ねたりなど加工を施したバロック建築は、伝統の継承を匂わせながらも創造を加えることで新しく生まれ、生きた伝統を表現しました。伝統は固形化するものだというのは中世までの考えで、近代は、“伝統は変形させて生かすもの”という時代です。伝統には創造が必要であり、その先駆け、中心にいたのが、建築家なのです。あたかも伝統に沿うように見せながら、意識的に変革する。これができる人が真のアーティストであり、建築が一番早かった。それから、絵画や彫刻、工芸などに広がっていきました。

 建築の概念がしっかり確立されたのは近代からですが、西洋は、ギリシャ時代に建築論はあるし、ローマ時代も存在しました。その時代にはすでに建築家のような人がいて、コンセプチュアルな建物も作られていたんですよね。まだ、近代のような活躍はしていないとしても、西洋は日本の歴史のように明解な転換期はないから、建築についてもなんとなく伝統と絡めながら連続した話ができます。

 一方、日本の場合は、明治以前と以後がはっきりと違う。建物は建造物でしかなく、そこに概念はありませんでした。日本の建物は、左官屋や床職人、壁職人などパーツごとに専門の職人が作り、その職人たちを現場監督として大工棟梁が束ねることで作られていました。建築は建物を建てる行為でもなければ、技術の総称でもありません。現場監督としてその場に立つ大工棟梁は建築家ではないのです。建築家とは、世界観を持って概念を表現しながら全体を構成できる人であり、踏み込んでいえば、大工仕事ができなくてもつとまるということになります。

 明治以前で建築家の資質がある人を挙げるなら、織田信長ではないでしょうか。信長は、それまでの城とはまったく違う、天守閣がある多層の城を築きました。歴史の流れで少しずつ城が階層式になっていったのかと思いきや、そうではないんですよね。それまでは、平建ての城が主流だった中で、信長が琵琶湖の湖畔に建てた安土城でいきなり城が多層となったのです。豊臣秀吉や徳川家康など、後の武将たちは、安土城を真似して多層式の城を建てるようになったといわれています。この独創的な造りの安土城を考案した信長は極めてアーキテクト的な人物だったと思います。つまり、このように特異な発想を持ち、かたちにできる人が近代以前には皆無だったわけではないのです。ただ、新しいことをやらなくても、やっていけた時代だったというだけなんですよね。

 それが近代以降、新しいことを取り入れていかないと立ちゆかなくなるような社会状況となります。日本は西洋文化の流入で伝統が意識され、ものづくりがより創造的になっていく。建物も西洋からきた“建築”という概念を受け、近代以前のものと現代を融合させながらどう伝統と結びつけていくのかが考えられるようになり、最初に動いたのが伊東忠太でした。これが、日本の建築史の始まりです。そして近代の建築は、創造の宝庫だったともいえるでしょう。時代を超えてもワクワクするものが多いのです。

 本当に創造的なものは、世紀をまたいでも滅びることはなく、いきいきした姿で輝き続けています。ルネサンスやバロックでもたくさんの建築が生まれましたが、今見ても面白いのは、思考も刺激されるからです。「このかたちとこのかたち、こうやったらつながるのか」など発見の喜びがあったり、アイデアが生まれたりもする。逆に、模倣されただけのものや、形式だけ引き継いでいるようなものは、廃れるのも早いです。伝統芸能も、創始者の人のパワーはすごいけれど、後に続く者が形だけを真似したところで響かないでしょう。引き継いでいくほうも伝統に変化を加えなければ、伝統は死んでしまいます。これは専門家が見れば、一目瞭然です。だから、見る側も知識があると比較しやすいし、きちんと判断もできるから、専門家が守られるべき伝統を見極めるということも重要だと思います。

 私は、伝統と呼ばれ、保護されるべきものは、良し悪しは別として基本的に残したほうがいいと思っています。1980年以降、現代においては特に、残りづらくなってきていますが、どういうかたちであれ、残すべきです。例えば植物や病原菌なども、有事の際には使えるように残しているでしょう。そこから新しいものができる、特効薬などが生まれる可能性もあるからです。センスも同じことで、なるべく多様に残しておけば、創造の種になり得る。創造につながる可能性があるから残すということで、そのままの姿で未来永劫保ち続けるということではなく、何かを生み出すための源泉として、伝統的なものは多様に残すべきだと思うのです。

(3へ続く)


倉方 俊輔(くらかたしゅんすけ)
建築史家。1971年東京都生まれ。早稲田大学理工学部建築学科卒業、同大学院修了。伊東忠太の研究で博士号を取得し、2011年から大阪市立大学准教授。日本の近現代建築の研究と並行して、『東京モダン建築さんぽ』『建築の日本−その遺伝子のもたらすもの』『伊東忠太著作集』『吉阪隆正とル・コルビュジエ』などの編著書の執筆、メディア出演、日本最大の建築公開イベント「イケフェス大阪」実行委員、Ginza Sony Park Projectメンバーを務めるなど、建築の価値を社会に広く伝える活動を行っている。日本建築学会賞(業績)(2016年)、日本建築学会教育賞(2017年)受賞。
「創造する伝統賞」の前身である「日本現代藝術奨励賞」の第13回受賞者。

2020年01月31日

第9回 倉方俊輔(日本文化藝術財団専門委員/大阪市立大学准教授)

建築家は、伝統に新たな衣をまとわせるアーティスト
「創造する伝統」ではない建築はない



日本にある伝統的な建物とは何を指すのか。古い建造物だからといって「一括りに伝統とはいえない」という建築史家の倉方俊輔氏。なぜなら、日本の歴史には大きな転換期があり、建築が生まれた時代に関わるから――。倉方氏が考える「創造する伝統」とは。3回にわたって連載します。
(取材:ごとうあいこ)


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 日本の場合は、1854年、幕末から明治に変わるときに社会が一変しました。西洋の文明が本格的に日本に流れ込み、そこから現代の社会につながっていきますが、近代化の前と後とでは歴史の分断がはっきりと見えるくらいに異なります。他国のように徐々に変化するのではなく、国民の合意の下でスパッと時代が分断されて文明開化した日本は、例外的であると同時に、伝統を意識したのも近代化してからだったといえます。

 特に建築に関しては、近代以前は、そうした概念が存在しませんでした。建築とは、建物そのものを指すのではなく、建物に宿るもの、理念や目的を含めた概念を指す言葉です。美術と同様に、絵画や彫刻というそれぞれの手法ではなく、美の表現を集合体として総称する言葉なのです。そして、この概念は、アジアにはなく西洋から来ました。つまり、建築家は、潜在的な時代の要請に応えた世界観を建築物で表現し、まとめる人。実際にノミやカンナを手に大工仕事をするのではなく、概念からかたちを生み出す役割を持ちます。

 近代化以前の建造物、私たちが“建物”とみなしているものは、今の観点からであれば「ここが連続している」とか「同時代の西洋やアジアとはここが違う」という議論はできるかもしれません。しかし、当時は、概念がなかったわけだから、話を発展させるような建築論は存在しません。例えば、法隆寺も最初に創建した607年と現在では社会状況は全く違っており、建造物が残っているからそのまま伝統も続いているとは言い難い。そもそも、近代化以前は建築という共通平面がないから比較ができませんし、伝統といっても何を受け継いで何を受け継がなかったのかと判断することは難しいからです。概念ではなく、木造建築など技法や技術、美意識については、伝統的といわれるものがどうつながっているかをある程度は語れるかもしれません。でも、当時の人が本当にそういっていたかはわからないでしょう。

 私は「伝統」という言葉の意味は、大きく二つあると考えています。一つは、意識されていない継承で、もう一つは、意識的な継承です。意識されていない継承を指す「伝統」は、私たちが自覚なく行っていること。例えば冠婚葬祭などの儀式で行われる手順、さまざまな作法、自宅や店に据える神棚の位置からものづくりの工程まで、日常に入り込んだ慣習や風習も含んでいます。そういう類の伝統は、外にいる人間が気づく。海外や他地域の人が発見して“伝統”と呼ばれるようになり、その伝統は見つけた側にも刺激を与えることがあります。これは、単に変わったものを発見したということや、オリエンタリズムだという話ではなく、人間の領域、可能性が広がることを意味します。「こういう在り方もあるのか」という根源的興味が視野を広げ、刺激をし合うことで社会全体が豊かになるのです。ただ、本人たちが無自覚だった伝統に意識を向けたことで、伝統がよりいきいきと、意義のあるものに発展すればいいけれど、マニュアル化されることで形骸化してしまうようなら、それは伝統とはいえなくなりますよね。

 もう一つの意識的な継承、これもとても大事でしょう。日本人が伝統をはっきりと自覚したのは近代以降であり、近代は世界的にも伝統を理解、認識した上で自覚的に操作する時代で、そこにまず関係したのが建築家という職業でした。近代から大きく開花した建築は、“権威(Authority:オーソリティ)”と結び付きを強くすることで、目覚ましく発展していきます。この権威(オーソリティー)は、人間の文明には必ず存在するもので、古代にも中世にも当然に存在したでしょう。人々が生活する中で、リーダーが生まれ、権威が生まれます。権力者がルールを決め、祭祀の仕方などに意図的に“伝統”を組み込みます。伝統は権威との結びつきが強いものです。時の権力者が伝統を新しくアップデートして広めるパターンは、人間が文字を使い始めた頃からすでに存在しているでしょう。これが意識的な継承、意識された伝統です。

 権威が激しく変転する近代は、自覚された伝統が一層、輝いた時代です。古代は、西洋でも日本でも、集中的なオーソリティーの時代。中世は、オーソリティーの分裂時代で、キリスト教とローマ法皇、各王のオーソリティーが分立し、せめぎ合う中で発展した時代です。日本は、天皇だけでなく、武士や宗教勢力が強くなってきた頃ですね。近代に入ると次々に簒奪者が現れ、権威が長続きしなくなります。そして、権威が流動する近代は、簒奪者が伝統を変容させながらわかりやすく示そうとした時代なのです。

 その一つの例が、16世紀から始まったキリスト教の宗教改革です。プロテスタントとカトリックの双方が互いに“伝統”をかかげながら論争しました。「自分たちこそが伝統」というカトリックに対し、プロテスタントは「聖書こそが伝統」と伝統を定義したといえます。伝統など明確にせずとも自分たちはすべてを引き継いでいるというカトリックに「明確に書かれた聖書こそが伝統、ここに書かれていないことは伝統ではない」と示すだけでなく、カトリックの中にある揺るぎない権威を自分たちの中心に据えることで、相手が否定できない状況を作ったのです。プロテスタントの主張を受け、カトリックはこれまで自覚してこなかった伝統を意識し、ルールやマニュアルに落とし込んだ上で「こちらが伝統だ」と反論。社会や政治を巻き込みながらより強く、わかりやすく権威を示しました。その象徴に使われたのが建築でした。

 初期のフィレンツェのルネサンスの後、16世紀後半に権威がローマに移ってから、カトリックはシンボリックな建築物を建てます。古代ローマの権威を継承していることを示すかのごとく、古代ローマにあった形式とカトリックを融合させるように手を加えながら伝統を意識的に見せていきます。それを手がける人が真のアーティストであり、建築家と呼ばれる人たちでした。誰の目からも見えて、説明がなくても直感的にすごいと思わせられる建物に概念を与える役割。建築家という職業ができた時代が近代であり、彼らによって、伝統に新しいエッセンスが加わり、新たな衣をまとった伝統が目に見えるかたちで継承されていきます。近代以降の伝統は、創造する伝統としての性格を強めます。その代表格が、建築です。

(2へ続く)

倉方 俊輔(くらかたしゅんすけ)
建築史家。1971年東京都生まれ。早稲田大学理工学部建築学科卒業、同大学院修了。伊東忠太の研究で博士号を取得し、2011年から大阪市立大学准教授。日本の近現代建築の研究と並行して、『東京モダン建築さんぽ』『建築の日本−その遺伝子のもたらすもの』『伊東忠太著作集』『吉阪隆正とル・コルビュジエ』などの編著書の執筆、メディア出演、日本最大の建築公開イベント「イケフェス大阪」実行委員、Ginza Sony Park Projectメンバーを務めるなど、建築の価値を社会に広く伝える活動を行っている。日本建築学会賞(業績)(2016年)、日本建築学会教育賞(2017年)受賞。
「創造する伝統賞」の前身である「日本現代藝術奨励賞」の第13回受賞者。

2019年12月31日

第8回 茂手木潔子(日本文化藝術財団専門委員/聖徳大学教授)

“あるがまま”を大事にする音楽
“めいめい”という感覚こそ日本文化の根底にあるもの



前回の「日本の伝統音楽は、楽譜を基準にメロディ・リズム・ハーモニーで統一するスタイルではない」という背景には、「そろえないことをよしとする文化があったから」と話す茂手木氏。それを掘り下げていくと、日本の音を考えるアイデンティティに深く結びついてくるのではないでしょうか。
(取材:ごとうあいこ)

 
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 私たちは、四季の移り変わりの中で、季節の音を意識しながら過ごしています。『源氏物語』や『枕草子』などには、風の音、水の音、虫の声、自然の音の描写がたくさん出てきますが、こうした自然の音への共感が楽器にも取り入れられて、音楽作品の基盤を支えています。

最初に話しましたが(※第7回の記事)、国立劇場でドイツの作曲家、シュトックハウゼンが新作雅楽を作ったときに、面白いことがありました。雅楽の楽太鼓は打つたびに、桴を差し込む金具部分がビリビリと振動するのですが、日本人の私たちは全く気にならないこの音を、シュトックハウゼンは「耳障りなので鳴らないようにガムテープで固定してほしい」と言うのです。西洋の“ミュージック”に雑音はいらないんですね。

 けれども、日本の楽器は、三味線なら「サワリ」という、棹の糸巻きに近い所に少しだけ突起を作って複雑な音が出るようになっていますし、歌舞伎の大太鼓では、右桴(バチ)で太鼓を打つ時に、わざわざ左桴を革面に触れるように当てて、ビリビリいう音を出すんです。これは、日本人が自然音を好む感覚ですね。風の音や雨音など、自然音にはシャーッとかザーッという、まざりものがたくさんあります。まざりもののない音も出せるのに、尺八などは意図的に息音を混ぜた音色を出し、まるで風が吹くような音にするのです。日本の寺社の鐘の音だって複雑な音色に仕上がっていますし、読経でも声明でも、みんなの声が違うからありがたみが出るといわれます。

 日本語の「自然」という言葉は、もともと「じねん」と発音し、「おのずから」という意味で、人間も自然の一部だと考えていました。ですから、「一人ひとりのあるがままの声」を活かすことや、風や雨の音のような雑音を含む音を音楽に取り入れることも当然だったのでしょう。日本の伝統音楽は、このように、「あるがままを良し」とする文化が根底にありますから、合奏や合唱が「そろわない」のではなく、個々の声質や音から音への進み方について、「そろえない」という感覚でやってきたんだと思います。

 かつて、工業デザイナーの秋岡芳夫さんが言及していましたが、日本人はそれぞれ自分の好みを持っていて、それが個々に異なる茶碗や箸の形や色、模様に表れるというのですね。最近ではそろいのものを使う家庭も多いようですが、“めいめい茶碗”という言葉があるように、家族でも違う柄やサイズ、また色や模様の異なる茶碗を一人ひとり選んで使うという文化があります。この、“めいめい”という考え方を音楽に当てはめたときに、しっくりきました。日本の伝統音楽は、“めいめい”文化を代表しているんだと。しかし明治時代に西洋式の音楽教育が始まったことにより、日本も“めいめい”から“均一”統一”という動きに変わっていきます。

 西洋音楽ではメロディ・リズム・ハーモニーを尺度として基準となる音があり、音程や縦の拍子を合わせることが重要視されます。ピアノで弾かれた音に自分の声を合わせなくてはいけない。リズムをとって合わせないといけない。これができないと「音痴」の烙印をおされてしまい、音楽が楽しめなくなってしまう。

 日本の伝統音楽は、その人の出やすい声で、その人流の表現の仕方を大事にします。長唄で唄方(歌い手)と三味線・笛(篠笛)・打楽器で演奏する場合は、まず唄方が声を出し、その声を聴いて三味線の基本音を決めて調弦し、続いて笛はどの音域のものが良いか持っている笛の束から選びます。篠笛は、半音ずつ違う音域の笛を10本以上準備しているのが常です。楽器ではなく、人に合わせる。まず「人ありき」です。それが日本の伝統音楽の良さなんですよね。

 今は、とかくリズムとか、西洋楽器とのセッションとかそういう方面にかっこよさを求める傾向があるので、もう少し日本の音そのものにも目を向けてほしいと思います。私は、昔の楽器をたくさんコレクションしています。集めた楽器には、昔の音が残っていますが、高度成長期以降に作られた楽器の音色と明らかに違うんです。私のコレクションは美しい装飾や、由緒いわれのある特別な楽器ではなく、庶民の生活の中にあった音を出す道具が多いですが、これらは、江戸時代から明治頃の一般の人々がどのような音色や音質を好んでいたかの証拠になります。当時の録音が残っているわけではないので、実物はとても貴重です。実際の音を聴くことで、今に繋がる共通点も見つけられるし、新しい発見にも繋がっていくのです。
  
 日本の楽器を使って、日本の音楽をただ奏でているだけでは、単なる伝承にすぎません。昔の楽器で、教わった通りに演奏しているだけでは何の変化もなく、伝承の域を超えることはできないのです。そこに問題を投げかけて、新たな伝統の在り方を感じさせるような演奏でないと、なかなか感動も生まれない。創造する伝統という観点でいえば、伝統とは、同時代にも説得力を持って訴えかけることのできるものだと思います。そしてさらに、未来にどうあるべきかという本質的なところにまで踏み込んで挑戦して欲しいですね。

(了)

茂手木 潔子(もてぎきよこ)
日本の伝統音楽研究を専門とする。文楽義太夫節、民俗芸能・仏教や歌舞伎下座音楽の楽器、越後酒屋唄の研究を通して、日本の音文化に共通する特徴を「めいめい」のキーワードをもとに研究している。
著書『文楽 声と音と響き』『浮世絵の楽器たち』『酒を造る唄のはなし』『おもちゃが奏でる日本の音』など。論文「義太夫節の学習法」「近松の文章の音楽性をめぐって」「北斎と馬の鈴」など。
2017年4月〜2019年3月まで「季節の音めぐり」と題したエッセイを、当財団ブログに連載。https://blog.canpan.info/shikioriori/
山梨県笛吹市出身。現在、聖徳大学教授 上越教育大学名誉教授 日本大学芸術学部非常勤講師。「創造する伝統賞」の前身である「日本伝統文化奨励賞」の第2回受賞者。

2019年11月30日

第7回 茂手木潔子(日本文化藝術財団専門委員/聖徳大学教授)

楽器を通じて表現される音作りの考え方こそ大事にしたい
生きるための唄が伝えるダイナミックな伝統のかたち



いろいろな音が混じり合う、雑味のある音こそが日本の伝統音楽の原点ですが、楽譜やメロディ・リズム・ハーモニーの普及で、音楽は変化してきました。かつては日本のあちこちで唄われていた ”生きるための唄の文化”もまた、消えつつあるのです。
(取材:ごとうあいこ)


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 私は日本の音楽を専門に研究していますが、現在の日本の音楽教育では、西洋音楽が音楽や楽器の基準になっています。日本音楽や日本文化をこの西洋音楽の基準に当てはめていこうとすると、日本音楽の表現方法や音作りの考え方では、なかなか入る場所がないんですよね。世界には、実に様々な価値観を持った音楽が存在していて、国によって文化が異なることと同様に、音楽の表現方法も様々なのです。

 日本の音楽は、もともと即興性に溢れ、場に応じて演奏を自由自在に対応させることもできました。しかし、いわゆるクラシック音楽の楽譜ありきの価値観で演奏してきた人は、メロディ・リズム・ハーモニーを神様みたいに崇めていて、それを忠実に守ろうとするんですね。ルールの中に楽器や声を当てはめ、メロディ・リズム・ハーモニーを壊さないように音楽を作る。そもそも、日本の伝統音楽では、メロディ・リズム・ハーモニーを必須とした音楽づくりをすることはなかったのですから。

 楽器もそうです。例えば、バリにはガムランという民族音楽がありまして、村ごとにその地域の人々が集まって演奏します。家族や親戚で集まったときなどは、家の台所用品を持ち出して、ガムランのように演奏できてしまうそうです。フライパンなど音を鳴らせるものを寄せ集めてガムランをする。専用の楽器を持っていなくても、方法論があるから、フライパンでもガムランになるんです。こんなふうに、仮に楽器がなくても方法論がしっかりあれば、音楽を作り出すことができるわけです。伝統を継承するということは、たとえ楽器がなくても音楽づくりの方法論を生かして伝統の響きやリズムを表現することだと思います。

 私は、大森貝塚を発見したエドワード・シルベスター・モースが日本滞在中に見聞きした当時の音楽や音文化についても研究をしています。彼が残したコレクションから19世紀の日本の庶民の暮らしについて読み解くと、伝統的な音文化について記述があり、これがとても興味深い。とにかく一番書かれているのが、日本ではどこに行っても人々が唄を唄っているということ。仕事をしながら唄うという文化に驚いているんですね。江戸時代には定着していた出稼ぎ、鳥追いの唄とか、木遣唄、酒屋唄とかね。こういう作業唄って日本にとても多かった。作業唄は、人に聴かせるための音楽ではなくて、体を動かす動作のタイミングや時間を計ったり、単純作業の辛さを紛らわせたりするものだったのです。日本にはたくさんの民謡がありますが、民謡の起こりは作業唄がほとんどです。

 作業唄の中でも、私がここ10年以上研究をしているのが、越後の酒屋唄。酒造に携わる人々が、お酒を造りながら唄う唄で、唄うことは「唄半給金」と言われるほど、酒造業には必要不可欠でした。酒屋唄には、決まった楽譜や歌詞はなく、即興で歌詞を作って唄うこともできます。声色や音程がバラバラでも構わないし、声が揃わなくてもいい、言葉とリズムがはっきりしていれば旋律や音程は二の次です。一人ひとりの発声が違うことで、親方は、唄声を聴いて、みんなが現場にいるかどうか確認し、一人ひとりのコンディションまでチェックできるのです。酒蔵での仕事は過酷なので、蔵人たちは桶を洗いながら故郷に残した家族への思いを唄ったり、眠気で六尺桶の中に落ちないように、そして沈みがちな自分の気持ちを鼓舞するように唄います。言ってみれば、彼らは生きるために唄を唄ってきたのです。

 酒造りは万葉時代からあったけれど、こういうふうに唄い出したのは、江戸時代あたりだったようです。酒造技術が発達して、団体作業で酒造りが行われるようになり、それで作業唄も発展してきました。唄の歌詞には、八百屋お七の話を取り入れたり、江戸の街の名前を入れたりしてアレンジされました。伝承方法は耳コピーですから、師匠や親方が唄う様子を何度も見て、聴いて、それで覚える。これは、作業唄に限らず、歌舞伎も、能も、文楽も同じで、楽譜や教本よりも、口頭伝承が普通。日本の伝統的な音楽の教育方法はみんなそうでした。楽譜ありきではなく、音楽が先。音楽を体得する過程で、常に変化に対応できるような力を育てる訓練がなされるんです。

 毎日繰り返し、何度も聴いているうちに、メロディや拍子が自分の中に入ってきて、そこから自分がその仕事をするようになった時は、もう唄えるようになっている。それと同時に、いろんな人のパターンも覚えているから、臨機応変にアレンジもできる。だから、歌舞伎でも、浄瑠璃でも、役者や演奏者の組み合わせによって曲調や歌詞が多少変わっても対応できるんです。楽譜をベースに構成される西洋音楽では勝手に楽譜を変えることはできませんから、大きな違いですね。例えば、オペラの音楽では全部決まったことをそのままやるので、人が変わったからといって音楽が省略されたり、付け加えられたりということはありません。

 酒屋唄は、日本人の唄に対する本来の表現方法を代表していると思います。楽譜がない、歌詞も決まっていない中、即興的に唄を作る一人ひとりが、作曲家であり、作詞家であり、演奏家でもある。日本には、こういうふうに庶民の間で流行った音楽でとても素敵なものが多くありました。上流階級の人が趣味で奏でる楽器や教養のための音楽とは一線を画すもので、生きるため、必死の状態で唄うエネルギーに胸を貫かれる。芸術といっていいかはわかりませんが、これも伝統の一つ。ダイナミックな伝統のかたちだと思うのです。

(3へ続く)

茂手木 潔子(もてぎきよこ)
日本の伝統音楽研究を専門とする。文楽義太夫節、民俗芸能・仏教や歌舞伎下座音楽の楽器、越後酒屋唄の研究を通して、日本の音文化に共通する特徴を「めいめい」のキーワードをもとに研究している。
著書『文楽 声と音と響き』『浮世絵の楽器たち』『酒を造る唄のはなし』『おもちゃが奏でる日本の音』など。論文「義太夫節の学習法」「近松の文章の音楽性をめぐって」「北斎と馬の鈴」など。
2017年4月〜2019年3月まで「季節の音めぐり」と題したエッセイを、当財団ブログに連載。https://blog.canpan.info/shikioriori/
山梨県笛吹市出身。現在、聖徳大学教授 上越教育大学名誉教授 日本大学芸術学部非常勤講師。「創造する伝統賞」の前身である「日本伝統文化奨励賞」の第2回受賞者。

2019年10月31日

第6回 茂手木潔子(日本文化藝術財団専門委員/聖徳大学教授)

伝統とは、現代においてもエネルギーを持ち続けるもの
日本の伝統文化における音楽の原点は暮らしの響き


日本の伝統文化に息づく音。自然への憧憬や暮らしの中に溶け込んだ音は、いわゆる西洋音楽とは違う世界観で表現され、唄い、伝承されてきました。西洋音楽から日本の伝統音楽の研究に転向した茂手木潔子氏が考える音の世界。「創造する伝統」としての音楽とは。
3回にわたって連載します。
(取材:ごとうあいこ)


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 日本に元々あった音楽や、音の姿ってなんだろう。西洋音楽の教育を受けてきた私が日本の音楽、伝統音楽の研究を始めて、最初に衝撃を受けたのは、国立劇場に勤務して間もない頃でした。1977年にシュトックハウゼン作曲の新作雅楽の上演を演出家の木戸敏郎さんが手がけることになり、私は、シュトックハウゼンに作曲を依頼するための資料作りを手伝いました。楽器の音色や音域、奏法特性を五線譜で示して録音したテープを添えた資料を作ったものの、雅楽の箏の左手奏法については言及しませんでした。すると、シュトックハウゼンが作品に左手の奏法をたくさん書いてきたのです。

 雅楽の箏は、左手を使わないことは常だったので困りましたが、同時に「確かに、なぜ左手を使わないのか」という疑問が浮かび、木戸さんは様々な文献を調べたんですね。そうすると「応仁の乱のときに左手を使う奏法がわからなくなってしまったらしい」という記述が出てきました。つまり、左手を使わない奏法は、実は雅楽の伝統の伝承ではなかったんですね。これはショックでした。

 そうすると、私たちが今知っている音楽は、元々このかたちだったのかと、さらなる疑問が生まれました。元々の音楽のかたち、伝統を受け継ぐということはどういうことなのか。そう考え出した頃に出会った方々がアドバイスをくださったのですが、その中の1人である作家の辻邦生さんがこうおっしゃったんです。「伝統という言葉はフランス革命から来ていて、『伝統』や『古典』は明治になってから生まれた言葉だ」と。辻さんが考える伝統とは、「現代の中でも、いきいきと活気を持って行われているもの」であるともおっしゃいました。

 つまり、伝統には、現代にも通ずる説得力がなければならない。そして、そこには同時代性がなくてはならない。ただ、脈々と続いているだけでは単なる因襲または慣習でしかないし、いきいきしていないものは遺物なのです。例えば、歌舞伎は同じ作品であっても毎回台本を作り変えます。その時に人気の役者に合わせて再構成することもあります。正月歌舞伎など、流行り言葉をどんどん入れます。音楽も毎回、どんな音楽で組み合わせるかを再検討しますし、地方巡業などで面白い音があると、すぐに黒御簾に入れることなども昔から行われているんですね。

 音楽は、昔のものをそのまま演奏していても、今の若い人には身近でないために興味を引かない場合もあるし、「この楽器はこう使うもの」と従来の楽器奏法に縛られすぎると、新しいエネルギーが生まれない。「現代の中でも、いきいきと活気を持って行われるもの」が伝統であるなら、それが途絶えそうな時に、何を残すかといったら、私は、楽器ではなくて、音楽を創りだした発想、どんな音を出したかったかという考えを残すべきだと思うのです。箏という楽器にこだわって、箏でヴィヴァルディを演奏するよりも、ヴァイオリンで声明のようなうねる旋律を演奏する方が伝統の創造活動だと思うんですね。

 そもそも、箏や三味線は中国から来ていますが、三味線などは中国の弾き方と違います。日本ではベンベンとかビンビンと響く「さわり」という仕組みを棹の上部に作って、撥で演奏しますけれども、撥を使うようになったのは、琵琶の演奏家が三味線を弾いたことからなのです。琵琶には中国から伝来した琵琶と、インドから伝わったらしい琵琶があるのですが、このビンビンいう音は、日本独自というよりは、インド系の音の影響だと考えられています。当時の人々が出したい音は、複雑な音色の音だったのでしょうね。つまり、楽器の文化というよりは、音の出し方が生活や文化に密着しているのです。私たちが受け継いできた音の作り方があって、その楽器からどういう音を出したいのか、それを奏で、作りたい音を出せるように楽器の奏法が変えられていったと考えています。

 西洋から音楽や楽譜が入ってきてからは、学校教育の音楽はドレミやハーモニーが重視されるようになりました。近年、学校の音楽教科書に掲載されている横笛は、指穴の大きさを変えてドレミに調律した笛が多く、音域も、東京以外では使わない高い音域の笛です。リコーダーと似た指使いでドレミが出せるように高めの8本調子を使うんですね。これが学校音楽を通じて全国に出回っています。東京では6本、あるいは7本を使い、東北だと通常3本か4本の低い音なんです。このように、学校教育と地域の伝統が乖離してしまうのは危険ですね。

 一方で、伝統音楽の在り方として、歴史的な重要さのみや、視覚的なスタイルを優先することで音楽そのものの本質を見失ってしまうのは本末転倒です。かつて、木戸敏郎さんが雅楽の演奏会を洋服で上演したことがありましたが、日本音楽研究者の評議員から「神聖な舞台に土足で上がるようなものだ」と猛反発がありました。雅楽の演奏では、海松装束を着るのが慣例とされていたからです。

 けれども、雅楽で海松装束を着るのは大正時代頃から決まったことであって、それも武士の服装を取り入れたもの。何より木戸さんは服装よりも、雅楽の楽器に焦点を当て、音楽そのものをクローズアップするという意図があったんですね。それなのに、「雅楽は海松装束」という先入観と、目の前に見えているものは昔から変わっていないという思い込みに縛られてしまう。「日本音楽だから演奏時には和服を着るべき」という意見は、音楽そのものの魅力が忘れられているような気がしてなりません。和服は、かつての日本人の普段着というだけ、楽器の演奏時に和服を着ることは、当時の現代性を反映していただけだとも言えるでしょう。そうすると、現代では、洋服で演奏したって構わないと思うのです。

 日本の伝統音楽で引き継ぐべきこととは、近い時代の歴史や慣習ではなくて、伝えられてきた音色や、どのように音を表現してきたのかという考え方だと思います。日本人が出してきた音、出したかった音、響き。美しいハーモニーではなく、引っ掻いたり擦れたり、いろんな音が混じり合うような響きを出す奏法から生まれる雑味のある音楽がそれでしょうか。生活の中で耳にする自然界の音を、楽器で再現していると思うのです。

(2へ続く) 

茂手木 潔子(もてぎきよこ)
日本の伝統音楽研究を専門とする。文楽義太夫節、民俗芸能・仏教や歌舞伎下座音楽の楽器、越後酒屋唄の研究を通して、日本の音文化に共通する特徴を「めいめい」のキーワードをもとに研究している。
著書『文楽 声と音と響き』『浮世絵の楽器たち』『酒を造る唄のはなし』『おもちゃが奏でる日本の音』など。論文「義太夫節の学習法」「近松の文章の音楽性をめぐって」「北斎と馬の鈴」など。
2017年4月〜2019年3月まで「季節の音めぐり」と題したエッセイを、当財団ブログに連載。https://blog.canpan.info/shikioriori/
山梨県笛吹市出身。現在、聖徳大学教授 上越教育大学名誉教授 日本大学芸術学部非常勤講師。「創造する伝統賞」の前身である「日本伝統文化奨励賞」の第2回受賞者。

2019年09月30日

第5回 金子賢治(日本文化藝術財団専門委員/茨城県陶芸美術館館長)

作家は「鑑賞」から「創造」に視点を移すこと
自分の中の伝統性を見つめ、プロセスの中で創造と伝統を融合させる


「創造する伝統」、創造と伝統がもっとも息づくところというのは、「できあがったものに至る過程、つまりプロセスである」という金子賢治氏。それは、見る側だけではなく作家自身が強く意識することだという真意は。
(取材:ごとうあいこ)

 
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 鑑賞の論理の話をしましたけれど、僕らのような評論家みたいな者が言っているだけではダメです。作家自身がそう思わなかったら何もならない。作家もある程度、歴史を紐解いていかないと、今は一歩も進めない状況だと思うんです。

 ただ、歴史を紐解くというのは、過去の作品をそのまま写して土をはめていくということではないんです。作家は、土に触ったところからあれこれ模索を続け、七転八倒するような思いで格闘し、自分のかたちを探り取る。そういうプロセスを経ながら意識的に取り組んでいるか。歴史を知る中で、この造形芸術という広い世界のどこに自分がいるのか、どの辺に立っているのかということを考え、自分を見つめる「目」みたいなものを作家自身が持つことです。

 作品の批評も他人のことは言えるけれど、自分のことになるとわからなくなる作家が多いですよ。不安になってしまう。だから作家自身が歴史を紐解きながら、一体何が近代の工芸の中で問題になってきたのかを考え、「鑑賞」から「創造」に視点をスライドさせるんです。

 作家は自分が100%ですから、自分のことだけでいい。しっかり自分で自分を見つめる作業をやらないことには、前に進めない時代になっているといえます。歴史をさかのぼれば、もう100年以上も、近代的な自我によってモノを作ることが蓄積されているわけです。ガムシャラに突き進むというよりは、一歩引いて自分の立ち位置を見る、そして何をやろうとしているのか? 何が足りないのか? どういう道を踏んできて、どこに向かうのか? 洗い直しや見つめる時間も“創造の前提”といえる、極めて重要な要素です。創造の前提があるからこそ、モノが出てくるのですから。

 そもそも作家は、いろいろなバックグラウンドがあります。始めたきっかけは大した理由じゃなかったとしても、それはそれでいい。ただ、ある程度の年月を経ると、疑問が出てくるんですね。「なぜ自分は土と対峙しているのか?」、「なぜ私の作品の素材は糸にしたんだろう?」と。そういうときに自分で納得するものを持たなくてはいけない。例えば土だったら、作家の数だけ土の表情はあるわけです。その中で、「私はこの表情を選ぶ!」と意識的に選んだ表情に自分で納得し、その延長線上に表現を積み重ねていくことで作品になるんですよね。

作家は、そういうことを自分で見出ださなくてはいけない。それをやるには、書物を読んで歴史を紐解きながら、自分が今何をしているのかを見つめられるようにしないと。例えば造形の中で、半分が絵画彫刻、もう半分が工芸だとすると、自分は絵画彫刻の境目にいるのか、もっと端なのかなどを認識することが重要です。

もう一つ、「創造」ということでいうと、見た目の新しさではなく、作品を作るプロセスの新しさ。そこに「創造」を見るんです。極端な例をあげると、全くそっくりな2つの器があって、1つは古いものをそのままコピーしたもの、もう1つは、作家が試行錯誤しながらやっと辿り着いたかたち。見た目はそっくりでも、作家自身がアトリエで格闘しながら作った作品には、必ずそこに息づいているものがある。それが、見る側の精神に作用し、響くんです。

ファインアートは、「かたちに素材がはまらなければ、素材を変えればいい」というヨーロッパ近代の考え方ですが、日本の工芸や陶芸の場合は、素材に対する考え方やアプローチが違います。“素材を変える”ではなく、“素材の中に入る”んです。素材の中に入って、あれこれやりながら、素材と一緒にゴールが出てくる。最初に想定したものがうまくいかなければ、ゴールを変えて、こっちに行ったりあっちに行ったりしながら完成に至ります。

こんなふうに素材と連携した作品づくりというのは、ヨーロッパ近代の言い方だと「制約を背負う」こととなり、「素材に作家の表現が左右されてどうする」「素材に寄りかかっているようじゃダメ」と考えられています。制約をとっぱらってゼロにしようというのが、ヨーロッパの美学ですが、日本はそうではない。日本の工芸や陶芸は、歴史や伝統に深くかかわっているし、そういう文化の中で育っているから、作家も創造の中に伝統はどこか残していますよね。モノづくりでも、それは出てしかるべきで、そういうものをやめてしまっては、何も生まれてこない。それが、産業革命でグチャグチャになりながらも修復してきた、日本文化の太い流れに繋がるんです。

創造は創造、伝統は伝統。それが合わさればいいんです。作家は、自分の中にある伝統性みたいなものを見つめて、その上に現代を呼吸するということを付け加えられるかどうか。モノを作っていくときに創造のプロセスの中でそれができるかどうかなんです。プロセスとは、素材をさわっていることですが、それは木や土など直接触れるものだけじゃない、コンピュータグラフィックなども造形です。素材に何かを仕掛けて、創造の層のプロセスの中に、いかに新しいものを加えられるかが、創造する伝統なんだと思います。

創造する側の人間としては、何かネクストワンを付け加えていかないと、自分自身でも納得ができないでしょう。。その刺激は、どこから来るかわかりませんから、常にいろいろなものに関心を持って新しいものを吸収するということは必要です。それと、自分の意識とは別に、技術の蓄積が新しい表現を生み出すこともあります。徹底的な伝統の継承の中で生まれた発見も「創造する伝統」。技術の単純な積み重ねの先に突然開花する新しいものがあれば、それは「創造する伝統」に他なりません。

(完)


金子 賢治(かねこけんじ)
茨城県陶芸美術館館長
東北大学大学院修了。サントリー美術館学芸員として勤務。1984年より東京国立近代美術館に勤務、文化庁文化部地域文化振興課美術品登録調査官を経て、2000年東京都区立近代美術館工芸課長。2010年茨城県陶芸美術館館長に就任。東京国立近代美術館客員研究員を兼務。主著に『現代陶芸の造形思考』(阿部出版)など。

2019年08月31日

第4回 金子賢治(日本文化藝術財団専門委員/茨城県陶芸美術館館長)

徹底的な伝統の継承なくして花咲く創造はない
想像力豊かにプロセスや精神までさかのぼって見ることが肝要


「創造する伝統」を残していく、広げていくためには“現代的な味付け”と“徹底的な伝統の継承”の2つ考えなければならないという金子氏。
作品を見る側にも「鑑賞の論理」が問われると投げかけます。
(取材:ごとうあいこ)

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 前回、日本の工芸は、産業デザインと作家的な伝統工芸と分けて考えるべきという話をしましたが、大元には下支えとなっている職人仕事があります。近代的な作家活動というのも、そのベースがあって初めて花開くわけです。第一次産業革命以降、欧米文化を受け入れながらもアイデンティティを保持し続けた日本は、「伝統」ということを特に意識します。「創造する伝統」を残していく、広げていくためにはどうしても2つ考えないといけないんです。1つは、伝統に現代の味付けをするということ。もう1つは、徹底的な伝統の継承です。その両方がないといけないと思います。

 徹底的な伝統の継承がなければ、ベースが崩れてしまう。第一次産業革命で全部根絶やしにしたヨーロッパには、このベースがないんです。日本は、近代化の波にぶつかりながらも手放さなかった伝統があり、現代に受け継がれている技術がある。これを重要無形文化財や人間国宝に指定し、残しているところもあります。

 例えば、江戸時代に非常にレベルの高かった柿右衛門様式、今右衛門様式、鍋島様式など焼き物の技術。もし、柿右衛門や今右衛門が個人として作品を発表するなら、個性がないと作品にはならないけれど、重要無形文化財には団体指定があり、柿右衛門保存会、今右衛門保存会というように集団で指定できる。それはつまり、人間国宝級の技術を、個人ではなく集団で保有しているということです。これは技術の継承、徹底的な伝統の継承ですよね。


 船大工や左官などの職人もそうです。例え、スタイルは現代風になったとしても、技術そのものは、本当に徹底的な伝統の継承でないとできない。漆喰なども、今は全国で職人が何人いるかわからないくらいのものになってしまっている。今、漆喰で新しい住宅を作ろうという人はあまりいないけれど、伝統的な重要文化財になっているものは、崩れることもありますから。その時に、だんだんできる人がいなくなっていくという現実もありますね。宮大工の木組み技術もそうです。

 そういう職人技術の継承が現代まで受け継がれていくなかで、新しい創造も生まれるんです。むしろ、「創造する伝統」に必要な要素の1つ、”現代的な味付け”は、このベースがあってこそなのです。ただ、ここで問題になってくるのは、前回お話しした「できあがったものをどう見るか?」という観賞の論理です。技術や見た目の視覚的な判断ということではなく、創造と伝統が最も息づくところというのは、プロセスであるわけです。できあがったものを基準にすると、人によって見解がバラバラになるんですよ。

 一番典型的な例が、「縄文的か? 弥生的か?」という見方です。日本の文化を述べる前に比較表現としてよく用いられるのですが、荒々しく力があると“縄文的”で、上品な格調の高さを示す場合に“弥生的”と言うんです。縄文的な造形か、弥生的な造形かということでね、いろいろなものを対比するわけなんです。

 しかしそこで造形的な印象とは別の見解がでてくる。伝統をかたちとしてとらえるか? 精神としてとらえるか? で見方が変わるということなんです。つまり、できあがったものをいかに鑑賞するかではなく、縄文土器と弥生土器がどうやって作られたか、土器を作った縄文人、弥生人の精神までさかのぼらないと、本当の伝統がどこにあるかは見えてこないんですよ。

縄文土器の典型は、火炎土器といわれる炎があるようなデザインのものです。ああいうものは土をこねて、単にこう、ぐにゃぐにゃとしたらできるというものじゃない。「土を殺す」といいますが、土の性質を抑え込んで、型にギュッとはめて乾いたものをくっつけていかないとできないわけですよね。

 一方で、弥生土器は、ものすごくカーブがきれいで、ふにゃっとなっているんです。ろくろを使いませんから、紐づくりでね。紐を作って積み上げていくんです。土の積み方を工夫しないと、べちゃっとへたってしまうから、合理的な積み方をしながら、へたらないようにかたちを探るんです。

 縄文、弥生、両方の要素があって、それを作った当時の縄文人や弥生人が何をそこで思っていたかという部分に趣向のポイントを当てないと、本当の伝統の継承ということは、出てこないですよね。創造も生まれてこないんです。だから、あの時代はそういう土の作り方をしていたのか、ということを学ぶことが大事なんです。学んだ上で、それに近代的な趣向をどういうふうに味付けをするか、というのが、逆に出てくるわけですよ。

 創造と伝統という塩梅を見るためには、想像力を豊かにしないといけない。作る人間が何をやってきたのか、何を継承するのか、継承したものに何を付け加えているのかを考えないと。それがね、今の日本人はものすごい弱いわけですよ。形式に弱いっていうかね。荒れたスタイルの作品だと、作った人まで荒れていると判断する。けれども、それは作家の表現のスタイルであって、本人が荒れたままではスタイルはできないんですよ。作家は「荒れたように見せるスタイルを作る」と意識的にコントロールしてスタイルを作っているんです。そこに鑑賞の論理をもっていかないと。

 つまり、見る側としては、「できあがった作品自体を鑑賞するのか」「作品の精神までさかのぼるのか」で評価が分かれてしまうんですよね。作品ができるまでのプロセス、精神までさかのぼって考えることが「創造する伝統」には必要なんです。

(3へ続く)

金子 賢治(かねこけんじ)
茨城県陶芸美術館館長
東北大学大学院修了。サントリー美術館学芸員として勤務。1984年より東京国立近代美術館に勤務、文化庁文化部地域文化振興課美術品登録調査官を経て、2000年東京都区立近代美術館工芸課長。2010年茨城県陶芸美術館館長に就任。東京国立近代美術館客員研究員を兼務。主著に『現代陶芸の造形思考』(阿部出版)など。


2019年07月31日

第3回 金子賢治 (日本文化藝術財団専門委員/茨城県陶芸美術館館長)

時代のうねりの中で進化し続ける工芸の技術
“日本文化の再構築”から生まれた「伝統」そして「創造」とは


日本文化や伝統を色濃く残す、手作りの産業だった工芸。近代化の波や戦後の立て直しなど波乱の時代の中で、“日本文化の再構築”が行われ、進化し続ける工芸の「創造する伝統」をどう捉えるか。金子賢治氏が3回にわたって連載します。
(取材:ごとうあいこ)

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 日本の工芸の歴史はとても古く、1万2、3000年前の縄文時代から現代までずっと残っているんですよね。これは欧米にはない現象です。極端なことを言えば、手作りの文化は縄文土器から始まり、生活を支え、産業に発展していった。日本の場合は、焼き物が一番目立っているけど、それ以外にも、染色や漆、木、竹、それから硯など石を彫って作られる工芸品もそうです。また、工芸品に必要な材料の紅花や筆の刷毛用の動物の毛の生産など、特に徳川の300年は日本列島が沈むくらいにどこも手作りの産業であふれていた時代だったんですよね。
 
江戸時代は藩ごとに自分の国の経済を成り立たせないといけないから、藩主が自分の藩の産業振興のために、職人を招いて流通させていたという理由もあります。例えば、笠間焼きは、信楽の陶工が笠間に来て笠間焼きを起こし、笠間の陶工は益子に行って益子焼きを起こす。そうやって、どんどん各地に技術が産業として広がっていって、様々な工芸が生まれたんです。
 
欧米には日本のように古い時代から続く手作りの工芸の技術は、ほとんど残っていません。特にヨーロッパは、第一次産業革命で手作りのものを根絶やしにし、機械化に踏み切ったからです。日本も、“マシンエイジ”と呼ばれるヨーロッパの近代化の波には抗えなかった。縄文以来続いてきた手作りの工芸品、日本文化の太い流れとこの波がぶつかり合ってぐちゃぐちゃになるんだけど、そうなったことで、より伝統を意識するようになったんです。「古くていいものが日本にはあるんだ」と、日本の古いもの、いいところとヨーロッパの新しいところをミックスして、なにかもっと、日本を主張できるものを作ろうとしたんです。そうやって、これまでのものよりも、1つ高い次元での“日本文化の再構築”が行われたんですよね。だから、日本の場合は、欧米と違って、「伝統」ということをものすごく意識する。今でもそうでしょうね。
 
戦後日本の復興過程で、工芸の再建というのも日本人の生活の再建と同じように行われ、そこでまた、日本文化の太い流れを考えたんだと思います。ヨーロッパの近代化に押されて、常に何か、新しいもの、新しいものというふうに自分たちを活性化すると同時に、ヨーロッパ人に示したいという思いが日本の近代化を促進したんだと思います。そのぐらい、日本の近代化っていうのはある意味では「進めていかなければ置いていかれる」という強迫観念に襲われていた。逆を言えば、そういう思いがあったからこそ、いいものが出てきたとも言えるんじゃないでしょうか。1950年代、60年代の日本の戦後の美術を確立したものは、ものすごくヨーロッパで人気があり、値段も高くなっています。

工芸の世界も、道具の機械化でこれまで完全に手作りしていたものも機械を使えるようになった。よく誤解されがちですが、本来民芸っていうのは「気持ちのいい生活用具、美しい生活造形を作って使う人の手元に送ろう」というのが基本的な考え方。これを軸に考えると、手作りしかなかった時代の産業工芸が、機械時代に工業デザインに変われば、それが今の民芸だと言ってもいいわけです。
 
 手作りでも、機械でも、仕上がりが一緒でいいものができる、大量に作れるならいい。そうでなければ、民芸の本来の主張が一貫しない。ただ現実は、機械を使って功利主義的に、安ければいいとなると、だんだん粗悪品になってくるということがあるので、それは批判されてしかるべきです。

 柳宗悦さんの息子・柳宗理さんは、「現代の民芸は工業デザイン」だと言及しています。いい意味で、時代に合わせて効率を考え、融合すべきです。ただ、僕が問題視しているのは、実用品や産業工芸品と作家の作品を混同して捉えることです。使い手がいいといえば、古い雑器をコピーしてもいいけれど、それは作家の表現とは全く異なるもの。古いもののコピーでは、作家の作品にはならないわけです。ただ、民芸論の環境では、そこがすごく曖昧なんです。コピーでもいいという風潮がありますが、産業デザイン論としては立派でも、コピーでは作家の表現論には転化しないんですよ。

 焼き物の世界では特に多いのですが、日本人が古い焼き物を今でも使いたいという要望をかなえるためなんですね。コピー、つまり、写しを作って生業にしてきた。これは作家の作品ではなく、産業ですよ。絵画や彫刻で作家が写しを作ったら、偽物だと一蹴されるのに、焼き物の写しは、なんとなく許されてしまう。変な世界なんです。産業と作家の表現の境目が、もうグチャグチャになっているわけですよね。それは、焼き物自体が作家の表現がどうこうという世界ではなく、骨董趣味で、愛玩すればいいんだという、美術におけるヒエラルキーの考え方の1つの裏返しでもあるんですよね。

 つまり、ファインアートは、1段も2段も高いところにあり、アブライドアートは1段も2段も低いもの。さらにクラフトはもっと低い。それはヨーロッパ近代の考え方なんですけど、それがそのまま日本にドンッとぶつかってきたんですよ。美術教育とは、おしなべてそうです。そうすると、「焼き物はアートになれないもの」というような考えが根付いてきてしまう。焼き物を専門にしている学芸員や評論家でさえも、「焼き物は手でこうこすって、箱に入れて楽しむもの」だとね。だから、茶碗が立体造形になると、器しかなかった世界から立体を作ったと、低い工芸から高い彫刻になったんだと、騒がれたこともあったんです。そんな馬鹿な話はないですよ。

 産業デザインと作家が表現する作品とは、全く違うものなんです。そこを混同してしまうから、おかしくなってくる。日本の焼き物の最も多いパターンに、桃山陶芸至上論とかね、中国の宋の焼き物は最高峰であると、それを真似して作ろうとする傾向がある。その典型が曜変天目で、あれをなんとか再現しようとして一生を棒に振る人が何人いたか。作家の表現とはそういうことじゃない。表現をはきちがえているんですよね。

 僕らがよく、公募展の審査をやるときもそうでね。井戸茶碗の写しなんていうものは、いっぱい出てくるわけですよ。そうすると、それを見て、「これは非常に気持ちのいいものです。使いたくなります、だからいい作品だ」と言う人がいるんです。だけど、それは出来上がったものをどう見るか、という鑑賞の論理。そもそもが“写し”ということ自体に、作り手の制作のプロセスを見れば、その人が自分の個性を表現しようとしていないとわかる。それはもう、作家としての前提を欠いているわけです。そういうものは批判してやめさせなければいけない。そうしなければ、次の工芸の未来が出てこない。作家もそうだし、見る側もそうですよ。

 写しが悪いと言っているわけではない。そういうものを作って売るのはいいが、それは産業の表現、作品ではなく産業品であって、作家の表現ではないということなんです。

(2に続く)

金子 賢治(かねこけんじ)
茨城県陶芸美術館館長
東北大学大学院修了。サントリー美術館学芸員として勤務。1984年より東京国立近代美術館に勤務、文化庁文化部地域文化振興課美術品登録調査官を経て、2000年東京都区立近代美術館工芸課長。2010年茨城県陶芸美術館館長に就任。東京国立近代美術館客員研究員を兼務。主著に『現代陶芸の造形思考』(阿部出版)など。

2019年06月30日

第2回 芳賀徹(日本文化藝術財団顧問/東京大学名誉教授)

「創造する伝統」は知の蓄積と新しいものへの想像力
学びを深めてこそ手にできる意外な新展開に期待


日々の暮らしの中で根付いた習慣、育まれたアイデンティティから形成され、継承される「伝統」。そして、脈々と続く伝統は歴史とも言えると芳賀徹氏。長い歴史の中で、伝統の型を守りながら新しい道を開いた“前衛”と呼ばれる先人たちは、「創造する伝統」をどう表現してきたのだろうか。
(取材:ごとう あいこ)


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 「創造する伝統」が一筋ではないと話したように、その観念を先に頭の中でつくり、条件を並べて、創造する伝統かどうかなんてやるよりも、作品をたくさん見てそこから感じ取ることが重要だ。すぐれた作家は、「創造する伝統」を見事に体現している。作品そのものに「創造する伝統」がしっかりと息づいているんだ。それは、まず、歴史を読めばすぐにわかる。

 歴史を読み解くために必要なのは、資料や文献だけではない。資料と資料のはざま、ギャップの部分をつなげるためには、イマジネーションは欠かせないだろう。資料や文献がそろっていないから分からないというのでは、不十分だ。例えばそれが政治史だとしたら、まったく違う分野の仏教史を読み、考古学、建築などあらゆる分野から考察する。もちろん、目を皿のようにして隅々まで読み、共通して動かないファクトを吸い上げる能力は必要だが、イマジネーション力も持ち合わせていないとダメなんだ。

 歴史をひもといて考えると、「創造する伝統」は学問にも当てはまるだろう。アインシュタインの功績だって、ニュートン以来の研究の蓄積があってこそだ。学問、つまり、知の蓄積に加えて新しいものへの想像力。イマジネーションだ。日本の歴史でも、古事記、日本書紀は神話としてとても面白いものだし、歴史学や美術史、短歌俳句の中にも、「創造する伝統」につながるものはたくさん眠っている。

 松尾芭蕉や与謝蕪村は俳句界の前衛だろう。「五七五」はしっかりと受け継ぎながら、日本語を見事に操っている。また、正岡子規は前衛のリーダー、トップみたいなものだ。まわりを破壊して、伝統を罵倒しながら、いかにも日本人らしく生きた。子規も、芭蕉や蕪村と同じように、俳句という偉大な伝統、短歌の型は受け継ぎながら新しい風を起こし、「創造する伝統」を表現したんだ。

“雲の峯 幾つ崩れて 月の山”
 これは、芭蕉が月山に登ったときを詠んだ句だ。7月末の暑い頃で、白装束で修験道の峰を登っていく。前後に白い入道雲がニョキニョキ立っていたのがいつの間にか崩れて消えて、ふと気づくと目の前に月山が、ほのかに月の光を浴びて浮かんでいるんだ。「雲の峰」は夏、「月の山」は秋、峯は男性、男性は力で、陽で、昼間を表す。一方で、月の山は女性、夜で、臥せている。死の世界だ。つまり、昼から夜へ、動から静へ、男性から女性へ、生命から死へ「幾つ崩れて」なのである。知の蓄積、そしてイマジネーションをもって読み解いていけば、松尾芭蕉がいかに世界の前衛であったかは明白だ。

“春の海 ひねもすのたり のたりかな”
 古典的前衛ともいえよう、子規も傾倒した与謝蕪村の名句。ボードレールやランボーより1世紀も早く、日本で世紀末的アンニュイを詠んだ蕪村こそ、古典的前衛であり、「創造する伝統」ではないかと私は思っている。蕪村に限ったわけではなく、日本の近代の文人・詩人たちは、みんな鬱屈の中に悩み、その中から素晴らしい文章や数々の名句を残している。福沢諭吉もそれゆえに実に力強い。夏目漱石だって前衛と言えよう。さらに時代をさかのぼれば、紫式部や清少納言などは、世界的古典文学であるし、古典的前衛だ。

 知の蓄積とイマジネーション、それは伝統から新しい滴りを生み出す「創造する伝統」に必要な要素であることは明白だろう。芭蕉は、中国の詩をよく読んで学んでいたし、蕪村も驚くべき精鋭だった。ファッションデザインでも絵画でも書でも、勉強しないで、ひょこっと才能がある程度では行き詰まるだろう。もちろん、感性はなくてはならないが、磨かなければ光らないのが才能だ。伝統の学習が深まったところに、わずかな滴りから生まれる新しいもの、意外な新展開こそが、「創造する伝統」ということを、どうか忘れないでほしい。
【完】


芳賀 徹(はがとおる)
東京大学名誉教授/比較文化史、比較文学
1960年 東京大学大学院比較文学比較文化博士課程修了。文学博士。1955−1957年 パリ大学、1965−67年 プリンストン大学留学。1963−92年 東京大学講師、助教授、教授。1991−97年 国立日本文化研究センター教授。1999−2009年 京都造形芸術大学学長。1998−2010年 岡崎市美術博物館館長。2009−2017年 静岡県立美術館館長。