いぬいとみこ『光の消えた日』文学碑 & いぬい文学の小道(1) @ 柳井市
[2024年03月31日(Sun)]
柳井市は、児童文学作家 いぬいとみこ(1924(大正13)〜2002(平成14))が戦中戦後の1944(昭和19)年から1947(昭和22)年の3年間を過ごした町です

いぬいは、『光の消えた日』で、柳井の保育園での戦時下での子どもとの触れ合いや、原爆の閃光「目のおくに、パッと光が射した」、光海軍工廠空襲「海の上の青い空に黒煙がもくもくのぼっていた」、そして、戦後「生き残ってしまった」人々の苦悩を描いています。
▼『光の消えた日』
(岩波少年少女の本44)
(いぬいとみこ/著 長新太/絵 岩波書店 1978)

いぬい自身は「今泉朋子」という名前で登場しますが、周りのほとんど人が実名で描かれているそうです。
以下のような柳井の地名や場所も出てきます。
「柳井湾」「柳井教会」「光台寺」「柳井幼稚園」「ほまれ保育園 」「柳美幼稚園」「柳井高女」「天神様」「柳井川」「宝来橋」「柳西橋」「柳井商業」「伊保庄」「和田山」「柳井中学」「柳井駅」「伊陸」「馬皿」「柳井町」「柳井女子商業」「樋ノ上」など。その他、光:「島田隧道」「鮎返り」、平生町:「光工廠」「尾国」、上関町:「室津」。
▼光台寺

▼宝来橋と柳井川


そのつぎに、朋子が見たのは、三歳のノリオのすがただった。ノリオは朋子の夢の中ではいつも、川の中にいた。川の水が澄んでいて、川の底の小石まではっきり見えた。
いぬいとみこ作『光の消えた日』の十六節より
柳井川は、「川とノリオ」の川でもあります。
「柳井にっぽん晴れ街道協議会」さんのHPに「「光の消えた日」では、「柳西橋」と「宝来橋」が現在とは逆になっている。」とあります。
確かに、物語を読む限り、現在の宝来橋の位置ではない気がします。この指摘はあっているのでしょう。
また、いぬいの青年期の軌跡を辿ることができます。
いぬいは、1944(昭和19)年に保母資格を得て京都の平安女学院専攻部保育科を卒業し、母園である東京・大森の日本基督教団附属大森めぐみ教会附属めぐみ幼稚園に勤めましたが、園は戦争のため休園となります。そこで、父親が転勤(富士紡績柳井化学工業の柳井工場長となったため)転居していた山口県柳井町(現・柳井市)にある光台寺の柳井幼稚園で働くことになります。しかし、クリスチャンであるいぬいは、仏教系の園に心から馴染むことができなかったようで、京都・富小路通の日本キリスト教団京都教会附属同心幼稚園で働くため、2ヶ月余り勤めた柳井幼稚園を7月末でやめます。しかし、同心幼稚園も戦争のため3月に廃園となり、再び柳井に戻り、山口県立柳井高等女学校付設戦時保育園 ほまれ園に1945(昭和20)年4月から戦後1946(昭和21)年3月に閉園するまでの1年間勤務します。その後、念願だった日本キリスト教団柳井教会附属柳美幼稚園に勤務しました。
めぐみ幼稚園
(東京都大田区池上1丁目)
日本基督教団附属大森めぐみ教会附属
いぬいの母園
※戦争のため休園
⇓
柳井幼稚園
(柳井・姫田)
光台寺
⇓
同心幼稚園
(京都市中京区富小路通)
日本キリスト教団京都教会附属
※空襲のため休園
⇓
ほまれ保育園
(柳井)
山口県立柳井高等女学校付設
戦時保育園
⇓
柳美幼稚園
(柳井・土手)
日本キリスト教団柳井教会附属
【次回に続く】

いぬいは、『光の消えた日』で、柳井の保育園での戦時下での子どもとの触れ合いや、原爆の閃光「目のおくに、パッと光が射した」、光海軍工廠空襲「海の上の青い空に黒煙がもくもくのぼっていた」、そして、戦後「生き残ってしまった」人々の苦悩を描いています。
▼『光の消えた日』
(岩波少年少女の本44)
(いぬいとみこ/著 長新太/絵 岩波書店 1978)

いぬい自身は「今泉朋子」という名前で登場しますが、周りのほとんど人が実名で描かれているそうです。
以下のような柳井の地名や場所も出てきます。
「柳井湾」「柳井教会」「光台寺」「柳井幼稚園」「ほまれ保育園 」「柳美幼稚園」「柳井高女」「天神様」「柳井川」「宝来橋」「柳西橋」「柳井商業」「伊保庄」「和田山」「柳井中学」「柳井駅」「伊陸」「馬皿」「柳井町」「柳井女子商業」「樋ノ上」など。その他、光:「島田隧道」「鮎返り」、平生町:「光工廠」「尾国」、上関町:「室津」。
▼光台寺

▼宝来橋と柳井川

そのつぎに、朋子が見たのは、三歳のノリオのすがただった。ノリオは朋子の夢の中ではいつも、川の中にいた。川の水が澄んでいて、川の底の小石まではっきり見えた。
いぬいとみこ作『光の消えた日』の十六節より
柳井川は、「川とノリオ」の川でもあります。
「柳井にっぽん晴れ街道協議会」さんのHPに「「光の消えた日」では、「柳西橋」と「宝来橋」が現在とは逆になっている。」とあります。
確かに、物語を読む限り、現在の宝来橋の位置ではない気がします。この指摘はあっているのでしょう。
また、いぬいの青年期の軌跡を辿ることができます。
いぬいは、1944(昭和19)年に保母資格を得て京都の平安女学院専攻部保育科を卒業し、母園である東京・大森の日本基督教団附属大森めぐみ教会附属めぐみ幼稚園に勤めましたが、園は戦争のため休園となります。そこで、父親が転勤(富士紡績柳井化学工業の柳井工場長となったため)転居していた山口県柳井町(現・柳井市)にある光台寺の柳井幼稚園で働くことになります。しかし、クリスチャンであるいぬいは、仏教系の園に心から馴染むことができなかったようで、京都・富小路通の日本キリスト教団京都教会附属同心幼稚園で働くため、2ヶ月余り勤めた柳井幼稚園を7月末でやめます。しかし、同心幼稚園も戦争のため3月に廃園となり、再び柳井に戻り、山口県立柳井高等女学校付設戦時保育園 ほまれ園に1945(昭和20)年4月から戦後1946(昭和21)年3月に閉園するまでの1年間勤務します。その後、念願だった日本キリスト教団柳井教会附属柳美幼稚園に勤務しました。
めぐみ幼稚園
(東京都大田区池上1丁目)
日本基督教団附属大森めぐみ教会附属
いぬいの母園
※戦争のため休園
⇓
柳井幼稚園
(柳井・姫田)
光台寺
⇓
同心幼稚園
(京都市中京区富小路通)
日本キリスト教団京都教会附属
※空襲のため休園
⇓
ほまれ保育園
(柳井)
山口県立柳井高等女学校付設
戦時保育園
⇓
柳美幼稚園
(柳井・土手)
日本キリスト教団柳井教会附属
【次回に続く】