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こどもと本ジョイントネット21・山口


〜すべての子どもに本との出会いを〜

子どもと本をむすぶ活動をしています


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ストーリーテリングのつどい @ おいしいおかゆの会 [2021年10月11日(Mon)]
10月16日(土)、山口市立徳地図書館で、「ストーリーテリングのつどい」が開催されますぴかぴか(新しい)
       
ストーリーテリングのつどい.PNG

「むか〜しむかし、あるところに…」子どもの頃、こんなふうにお話を聞かせてもらったこと、ありませんでしたか? 読み聞かせとはまたちがうストーリーテリングの魅力をぜひ体験してみましょう!

るんるん日 時るんるん 2021年10月16日(土)10:00〜12:00
るんるん場 所るんるん 山口市立徳地図書館 視聴覚室
       山口市徳地堀1527-3
るんるん講 師るんるん 山本安彦(山陽小野田市立中央図書館 館長)
るんるん定 員るんるん 20名程度(申込不要)
るんるん実施団体るんるん おいしいおかゆの会
るんるん主 催るんるん 山口市立徳地図書館
     電話 0835-52-0043 fax to 0835-52-1868 mail to tokuji@lib-yama.jp

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かわいい來館される際は、マスク着用など咳エチケットにご協力いただき 、発熱やかぜ等の症状がある方は、来館をお控えください 。
かわいいまた、入場される全ての皆様に氏名及び緊急連絡先をお伺いいたします。
かわいい今後の感染状況によっては、予定が変更となる場合があります 。
大内のお殿様を知る @ 山口市菜香亭 [2021年10月10日(Sun)]
10月29日(金)、山口市菜香亭で、講演会「大内のお殿様を知る」が開催されますぴかぴか(新しい)

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 大内氏には系図が何種類か存在します。系図だけをながめているとスムーズに家督が相続されているように見えてしまいますが、当時は戦国、争乱の時代で、実際には様々ないきさつがありました。
 今回は、大内の殿様の代替わりを中心に、現在好評発売中の『西国一の御屋形様 大内氏がわかる本』に携わった古賀信幸氏をお招きし、分かりやすく紹介します。

 
るんるん日 時るんるん 2021年10月29日(金)18:00〜20:00  受付:17:30〜
るんるん会 場るんるん 山口市菜香亭 大広間
るんるん講 師るんるん 古賀信幸(山口市教育委員会事務局文化財担当理事)
るんるん定 員るんるん 60人(要申込・先着申込順)
るんるん参加費るんるん 200円
るんるん申込先るんるん 山口市菜香亭 電話 083-934-3312
るんるん主 催るんるん 山口市、NPO法人歴史の町山口を甦らせる会(山口市菜香亭指定管理者)
※山口ゆめ回廊博覧会関連事業として開催

『西国一の御屋形様 大内氏がわかる本 入門編』
(山口市 2021.7)
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福田百合子著『心のふるさと散歩』「秋」の章「中也忌」「コスモス」「白鳥の湖」「萩のもんかきや」 @ 山口の朗読屋さん 秋の朗読会 Part2 [2021年10月09日(Sat)]
10月16日(土)、山口市小郡地域交流センターで、山口の朗読屋さん 秋の朗読会Part2 福田百合子著『心のふるさと散歩』が開催されますぴかぴか(新しい)

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るんるん日 時るんるん 2021年10月16日(土)14:00〜16:00
るんるん場 所るんるん  山口市小郡地域交流センター 2F 大ホール
       山口市小郡下郷609 電話 083-973-0638
るんるん招待講師るんるん 福田百合子先生(中原中也記念館名誉館長)
るんるん内 容るんるん 『心のふるさと散歩』「秋」の章うち
 「中也忌」「コスモス」「白鳥の湖」「萩のもんかきや」
  山口の朗読屋さんによる朗読と福田百合子先生による解説

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るんるん参加費るんるん 無料
るんるん定 員るんるん 50名(要事前申込)
るんるん駐車場るんるん あり
るんるん問合先・申込先・主催るんるん 山口の朗読屋さん(代表 林伸一)
  〒753-0815 山口市維新公園1-12-5 phone to 090-6415-8203 fax to 083-920-3459
るんるん後 援るんるん 山口市・山口市教育委員会 
るんるん公益財団法人 山口市文化振興財団助成事業


かわいい前回2021年9月27日(月)の様子かわいい
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かわいい『心のふるさと散歩』かわいい
(文芸山口双書)(福田百合子/著 白藤書店 1969 → 赤間関書房 1970)
香月泰男が装丁や題字、挿絵を手がけています。
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「秋」の章の挿絵は「椿」です。
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児童文学作家 村中李衣さん「絵本で子育て出前講座」 [2021年10月08日(Fri)]
10月9日(土)、山陽小野田市子育て総合支援センター スマイルキッズで、児童文学作家 村中李衣さんによる「絵本で子育て出前講座」が開催されますぴかぴか(新しい)

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絵本の楽しみ方やかかわり方を学びましょう!
子どもたちが大好きな絵本の紹介もありますよ。


るんるん日 時るんるん 2021年10月9日(土)10:30〜
るんるん会 場るんるん 子育て総合支援センター スマイルキッズ
        山陽小野田市揥山一丁目4番3号
るんるん講 師るんるん 村中李衣 (児童文学作家)
るんるん対 象るんるん 未就学児と保護者
るんるん定 員るんるん 30名(要予約)
るんるん参加費るんるん 無料
るんるん問合・申込先るんるん
   スマイルキッズ
   電話 0836-82-2525 
るんるん主 催るんるん 山陽小野田市立中央図書館
   電話 0836-83-2870
   fax to 0836-83-3564
   mail to cyuo-library●city.sanyo-onoda.lg.jp
   (●は@に置き換えてください)


かわいい村中李衣さんプロフィールかわいい
1958年山陽小野田市出身。ノートルダム清心女子大学教授。 0歳から100歳までのあらゆる人とあらゆる場所で、絵本の読みあいを続けている。
1984年 『かむさはむにだ』(高田三郎/絵 偕成社 1983)で第17回日本児童文学者協会新人賞、 1985年 『小さいベッド』(かみやしん/絵 偕成社 1984)で第32回サンケイ児童出版文化賞、 1990年 『おねいちゃん』(中村悦子/絵 理論社 1989)で第28回野間児童文芸賞、 2013年 『チャーシューの月』(佐藤真紀子/絵 小峰書店 2013)で第53回日本児童文学者協会賞、 2017年 「長期入院児のための絵本の読みあい」で第1回日本絵本研究賞、 2020年 『あららのはたけ』(石川えりこ/絵 偕成社 2019)で第35回坪田譲治文学賞受賞。
山陽小野田市立中央図書館で行われている「ぬいぐるみの図書館おとまり会」にヒントを得た物語『よるのとしょかん だいぼうけん』(北村裕花/絵 BL出版 2015)、『こくん』(石川えりこ/絵 童心社 2019)、『女性受刑者とわが子をつなぐ絵本の読みあい』 (村中李衣/編著 中島学/著 かもがわ出版 2021.6)など著作多数。
萩城址(4) @ はぎ散歩D [2021年10月07日(Thu)]
前回の続き

萩城本丸は、指月山を背後にした本丸御殿を中心に、南西部に天守を、南東部に着見矢倉、北東部の隅に井上矢倉を配した曲輪ですぴかぴか(新しい)
広さは東西約200m・南北約145mありました。

戦国時代、吉見氏が、指月山に出城を築いたとされます。萩博物館には、「吉見正頼銘琵琶」があり、その内部には

天正八年庚辰 七月十九日 長門萩之浦 於指月城下作也 吉見 正頼(花押)

と記されています。

1600(慶長5)年関ヶ原の合戦に敗れ、領国を長門・周防に減封された毛利氏は、本拠広島城からの移転を余儀なくされ、「山口の鴻ノ峰(高嶺城跡)」、「三田尻(防府市)の桑山」、「萩の指月山」を候補地として挙げたところ、幕府は最も不便な萩を選んだといわれています。輝元自身が選んだともいわれています。
築城は1604(慶長9)年に開始し、1608(慶長13)年に完成しました。

幕末になると、1863(文久3)年に交通の便がよく、海からの砲撃を受けることのない山口城へ、幕府に無断で移りました。
明治維新後の1873(明治6)年「全国城郭存廃ノ処分並兵営池塘選定方」(廃城令)により「廃城」となり、1874(明治7)年に天守閣、矢倉などの建物は全て解体され、現在は石垣と堀の一部が昔の姿をとどめています。

1-001萩城跡と指月山.JPG IMG_E1420.JPG

右側は城内にある「志都岐神社」石碑
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左には「史跡 萩城址」石碑
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「国指定史跡 萩城跡」説明板。
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 萩城は関ヶ原の役後、毛利輝元が慶長九年(一六〇四)築城に着手し、四年後の同十三年(一六〇八)に至って完成したものである。萩市街の西北隅、指月山(標高一四三メートル)の麓に位置し山名をとって指月城とも呼ばれた。山麓の平城と頂上の山城とを併せた平山城である。当時輝元は隠居していたがその子、初代藩主秀就が幼少のため、築城後も政務を執っていた。以後代を重ねること、十三代敬親に至って幕末多端な国事を処理するに不便なため文久三年(一八六三)四月山口に移った。ついで明治七年(一八七四)建物のすべてが解体された。本丸には高さ十四、五メートルの五層の天守閣があったが、今はその台座のみ残っている。周囲には石塁を築き内部には藩主の居館ならびに藩役所と附属建物があった。この城は二五九年間防長両国政治の中心であり明治維新に大きな役割を果たした重要拠点でもあった。


正面となる南側には本丸門と極楽橋を設けていました。
本丸門は、内側の渡櫓門と外側の高麗門で構成される内枡形の虎口です。
極楽橋は、現在は土橋ですが、往時は木橋でした。橋の長さは6間(約12m)、幅が2間(約4m)余りあり、有事の際には、敵の侵入を防ぐためすぐ落とせるように工夫されていました。
二の丸との間には幅20間(約40m)の内堀・石垣を巡らせていました。

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本丸門から入ったところにあるこの案内板にご注目くださいひらめき
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まず、この地図がすばらしい。
矢倉跡や門跡をチェックして歩くのにとても役に立ちましたひらめき
矢倉跡・門跡は、『御城内御作事謝御悩所坪数其他目録』天明6年(1786)をもとに記載」とあります。
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萩博物館所蔵の「慶安5年萩城下町絵図」までありますひらめきひらめき
この絵図は、山口県立文書館も所蔵していて、こちらはインターネット公開しています(無断転載不可)。
見比べてみると、彩色の仕方など少し違うようです。
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そして、「明治時代初期の古写真」ひらめきひらめきひらめき
小野為八が撮ったものといわれています。
萩城写真 小野為八A.jpg

小野為八(1829(文政12)〜1907(明治40))については、「雲谷庵に行きましたA」のところで書きましたが、長州藩の砲術師範であり、等魁という画号を持つ雲谷派の絵師でもありました。維新後写真家としても活躍しました。
1875(明治8)年山口に写真館を開いたといわれていて、山口市の八坂神社にある河村写真館がそれとされていましたが、今では明治20年前後に旧士族の松原繁が写真館として建築したと考えられ、その後現在の河村写真館に変わったというのが定説のようです。

DA9C1F35-56C5-4538-9DCA-F2252170FAF6.jpeg小野為八が描いた龍 F6446035-BDFB-4DB3-8A20-797A98A22B34.jpeg河村写真館


小野為八さんと同じ写真を撮ろうと頑張りましたが、ちょっと高い位置から撮っているのがよくわかりました。
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ただ、新しい説明板は西部分が省略されているがとても残念で、かけ替える以前の「萩城跡 指月公園案内図」説明板もあげておきます。
萩城案内図.jpg 萩城跡 指月公園案内図 (2).jpg


次回に続く
萩城址(3)二の丸東側 @ はぎ散歩C [2021年10月06日(Wed)]
前回の続き

二の丸東側を北に向かって、さらに進んでみましょう。海に面して石垣が続きます。
菊ヶ浜の方に面した東側には渡櫓門式の潮入門やいくつかの埋門(うずみもん)(石垣などをくり抜くように作られた門)がありました。
華矢倉・紙矢倉・荒川矢倉・満願寺矢倉(三摩寺院矢倉)・北矢倉が築かれていました。
また、蔵元役所、真言宗満願寺・三摩地寺院・宮崎八幡宮などの寺社、東園(回遊式庭園)などがありましたぴかぴか(新しい)


ハギの花の向こうに石垣が見えますが、こちら側は二の丸、あちら側は本丸です。
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華矢倉跡。 
IMG_E1454.JPG IMG_E1433.JPG 華矢倉跡 (2).jpg

階段があります。
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埋門跡でしょうか。
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外に出てみましょう。
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戻ります。
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登ってみましょう。
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紙矢倉跡
IMG_E1443.JPG IMG_E1444.JPG 紙矢倉跡 (2).jpg

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銃眼土塀(二の丸土塀)
鉄砲狭間があるため「銃眼土塀」と名付けられています。
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登ってみました。
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鉄砲狭間から覗いてみました。
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内堀の方を見ると、この辺りで内堀は切れています。
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鉄砲を撃つための四角い穴をあけた銃眼(鉄砲狭間)土塀が潮入門まで巡っていたそうです。
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「二の丸土塀(銃眼土塀)」説明板。
二の丸土塀(銃眼土塀)説明板 (2).jpg

二の丸は東西一三五間、南北五八間で、その内に一三の矢倉(二の丸にあるのは12の矢倉では?)、井戸三四ヶ所、蔵元役所などがありました。東門から潮入門に至る土塁に城壁が続いていましたが、この土塀は昭和四〇年(1965)春一部復元したものです。
蓬生ふ 銃眼の中海光る 横光利一


潮入門跡からの方から二の丸(銃眼)土塀を臨みます。
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潮入門跡
二の丸東門から潮入御門まで城塁が築かれていたといいます。
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展望所があったので登ってみました。
「皇太子殿下 行啓之所」碑がありました。
大正ということなので、昭和天皇が来られた場所ですね。
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西側に目を移すと東園があります。
東園は二の丸にあったものですが、次回、指月公園内の項で紹介します。


荒川矢倉跡があるはずなのですが、鎖が巡らせてあり入れないようになっています。


土塀が残っています。
三摩地寺院跡でしょうか?
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三摩地寺矢倉跡? 
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瓦も残っていないさらに崩れかけた土塀もありました。
満願寺跡でしょうか?
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お寺か神社の跡と思われます。
宮崎八幡宮跡でしょうか。
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北矢倉跡
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石垣の間から海が見えます。
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海に突き出ているここに来ると、「海城」と感じます。
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二の丸東側は北端にある北矢倉跡の高さ約4.5メートルの石垣をはじめ、4〜5メートルの石垣や土塁が延々と続いていて、見応えがありますわーい(嬉しい顔)


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▲萩城本丸門跡にある説明板の地図を一部抜粋


次回に続く
萩城址(2)二の丸南門跡・東門跡 @ はぎ散歩B [2021年10月05日(Tue)]
前回の続き

萩城二の丸南門跡の前には萩史料館と旧厚狭毛利家萩屋敷長屋があります。

旧厚狭毛利家萩屋敷長屋
二の丸南門の近くにあり、梁間5メートル、桁行51.5メートルの長大な入母屋造り本瓦葺きの建物は、萩に現存する武家屋敷のなかでも最大の規模を誇り、国の重要文化財に指定されています。
IMG_E1461.JPG asamouri.jpg 厚狭毛利003.jpg

「旧厚狭毛利家萩屋敷長屋(きゅうあさもうりけはぎやしきながや)附(つけたり)棟札(むねふだ)1枚」説明板。
旧 厚狭毛利家屋敷長屋 説明板 (2).jpg

 厚狭毛利家は、毛利元就の5男元秋(もとあき)を始祖とする毛利氏一門で、厚狭郡厚狭(現山陽小野田市)に知行地(ちぎょうち)(8,370石余)をもっていたのでこのように呼ばれた。萩の屋敷は萩城大手門の南100mの要地に位置し、面積約15,500uの広大なものであった。
 棟札(むねふだ)によるとこの長屋は10代元美の時、安政3年(1856)に建てられたもので、桁行51.4m、梁間5.0mの長大な構造で、現在萩に残っている武家屋敷の中で最も大きい。
 屋根は入母屋造(いりもやづくり)、本瓦葺(ほんかわらぶき)、南面は廂構桟瓦葺(ひさしがまえさんかわらぶき)で、妻飾りは木連格子、南に向かって玄関および濡れ縁を設け、障子を立てて開放的に作られている。手法の特に目立つものはないが、建築年代がはっきりした貴重な建物である。



萩史料館のそばの指月駐車場に車を停めました。
この辺りに中堀があったそうです。
二の丸南側は幅16間(約32m)の中堀で囲まれていました。
しかしながら、1926(大正15)年に橋本川の水を迂回させて水害を防止するために指月川(萩疎水)が造られた時に、埋め立てられました。

中堀跡
南門入口の石垣の前に建っています。
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いよいよ二の丸です。
二の丸は、本丸と指月山を囲むように造られた曲輪で、12基の矢倉、34の井戸、蔵元役所、寺社(東側に真言宗満願寺・宮崎八幡宮、西側に臨済宗妙玖寺・臨済宗洞春寺・仰徳神社など)、6代藩主毛利宗広により東園と名付けられた回遊式庭園などがありました。

まず、二の丸(二の曲輪)への入り口となる南門跡があります。
築城した毛利輝元の像もあります。

「舊長藩 指月城址」石碑
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舊長藩(きゅうちょうはん)」(「舊」は「旧」の旧字)とは聞き慣れない言葉なので、調べてみましたサーチ(調べる)
国立国会図書館に『松下村塾零話 : 附・大村公逸話、舊長藩十二士伝』(天野御民 /著 山陽堂 明41.4)や山口県立山口図書館に『舊長藩殉難者名録』(時山弥八 /著 時山弥八 大正2(1913))という本を所蔵しており、その書誌説明に「長州藩・・・云々」とありました。『稿本 毛里乃志希里(もりのしげり)』(時山弥八 /著 時山弥八 大正5)にも「舊長藩内学館表」「舊長藩架橋及開作表」「舊長藩内陶窯表」「舊長藩士卒階級一覧表」「舊長藩職役一覧表」「舊長藩諸隊表」「舊長藩軍艦表」が所収され、「萩藩および毛利氏の便覧的な資料」と説明されていました。
ということで、やはり「長州藩」のことでした揺れるハート


毛利輝元公像
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「毛利輝元」説明板。
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 毛利輝元は、天文22年(1552)毛利隆元の長男として安芸国吉田郡山城(現在、広島県安芸高田市)に生まれた。戦国時代中国地方の覇者となった毛利元就の孫にあたる。永禄6年(1563)、父隆元の死去にともない(十才で)家督を継ぎ、祖父元就の手によって養育された。
 織田信長や豊臣秀吉と覇を競い、中国地方8ヶ国112万石を領有する大大名に成長し、 天正17年(1589)広島に居城を築いた。豊臣政権下では五大老の一人として権勢を誇ったが、慶長5年(160))関ヶ原の戦いで敗れ、 周防・長州2ヶ国36万9千石に減封された。慶長9年(1604)、居城を萩に選定し、同年11月11日、城に入城した。萩開府にあたって、城下町の建設を推し進めるとともに、萩藩経営の安定に腐心した。
 寛永2年(1625)73才で没し、 萩城三の丸(堀内)の天樹院に葬られた。
 


南門跡
内枡形虎口城門で、大手門である南門は虎口内部に突き出た石垣を設けて「コ」の字型とする構造となっており、塩矢倉が設けられていました。
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正面玄関だけあって、大きな石がふんだんに用いらています。
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鏡石。
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塩矢倉跡
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振り返って見ると・・・。
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土塁の下に設けられて穴。
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土塁に上がってみました。
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二の丸を抜けると、本丸門前の内堀に出ますが、東門跡の方へ行ってみましょう。

指月小橋
指月川(指月疎水)に架っかています。
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萩八景を巡る「萩八景遊覧船」が見えます。
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向こうは、日本海です。
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東門は、外門(高麗門)・内門(渡櫓門)に加えて、三重の東矢倉・二重の時打矢倉の2つの櫓が設けられていました。

東門跡
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東矢倉跡
IMG_E1429.JPG 東矢倉跡 (2).jpg


時打矢倉跡
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内堀の方から東門へ。
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東門跡から内堀方面へ。
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▲萩城本丸門跡にある説明板の地図を一部抜粋


次回に続く
萩城址(1)三の丸 @ はぎ散歩A [2021年10月04日(Mon)]
久しぶりに萩城址に行きましたぴかぴか(新しい)

萩城とその城下町は、阿武川の三角州上に造られています。
城は北に向かって突き出た指月山と南東側山麓に展開しています。
指月山山頂の「詰丸(要害)」、指月山東南部の藩の政庁と藩主の住まいがあった「本丸(天守曲輪)」・「二の丸(二の曲輪)」、重臣たちの屋敷があった「三の丸(三の曲輪)」で萩城は構成されていました。

橋本川に架かる常盤橋より指月山を望む。
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外堀
萩城外堀は、萩城三の丸と城下を隔てていた堀です。
江戸時代の初めに掘られ、当初は20間(約40m)の幅がありましたが、その後、14間(約28m)、8間(約16m)と狭くなりました。
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外堀に架かる白漆喰仕上げの土塀付き土橋が再現されています。
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北の総門
萩開府400年を記念して2004(平成16)年復元された日本最大級の脇戸付高麗門で、切妻造、本瓦葺、柱間約5.9m、高さ約7mです。
藩政時代、城下から三の丸に入るために、「北の総門」、「中の総門」、「平安古(ひやこ)の総門」の三か所の総門がありました。
当時は、門番が常駐して人の出入りを監視していました。
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説明板「北の総門の概要」。
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 北の総門は三の丸(堀内)の入口である総門の一つです。総門は北、中、平安古の3か所があり、あわせて「大手三つの門」と呼ばれていました。昼間は門番が常駐して出入りする者を監視し、夜は門を閉じて鑑札を持つものしか通れませんでした。
  天文年間(1739〜1740)の絵図によると、 北、中の総門前に新たな枡形と南北の船着場が描かれています。枡形と土橋には土塀が巡り、船着場に続く箇所は喰い違いになっています。この時期に北、中の総門周辺が再整備されたことがうかがえます。
 

井戸も復元されています。
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旧益田家物見矢倉
北の総門通りにあります。
北の総門の見張り台も兼ねた矢倉(武器を収納した倉)です。
高さ1.8mの石塁の上に立つ、長さ11m、奥行約5mの堅固な単層の建物です。。
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「旧益田家物見矢倉」の説明板。
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 益田家は萩藩(一二、〇六二石余)の家柄で、 阿武郡須佐に領地をもっていた。
 建物は木造本瓦葺き、入母屋造、 桁行一一・〇六メートル、梁間は五・〇六メートルである。
 石組の上に単層の堅固な建物で、「矢倉長屋」と称され、物見も兼ねていた。棟瓦、懸魚(げぎょ)、格子窓などの意匠や規模がすぐれている。
 当家幕末の当主、益田規施は藩主毛利敬親のとき、国家老などの要職をつとめ、 藩政改革に尽したが、 元治元年(一八六四)禁門の変の責任者として徳山藩へお預けとなり、切腹されられた。年三十二歳



旧繁沢家長屋門
繁沢家は北の総門近くにあります。
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「旧繁沢家長屋門」説明板。
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 繁沢家は阿川毛利家(7391石余)の分家で、萩藩寄組(1094余石)に属し、 給領地を大津郡三隅村(現在の長門市)と阿武郡小川村(現在の萩市)などに持っていた。
 建物は桟瓦葺き、切妻造り、桁行35.5m、梁間4.9m、 中央から左寄りに門が設けられている。  同家藩政初期の当主、繁沢就充(はんざわなりみつ)は藩要職として活躍した。



大野毛利家隅矢倉
中の総門には大野毛利家の隅矢倉がありました。
大野毛利家屋敷跡に萩博物館が建設され、大野毛利家の隅矢倉は、大正時代の写真を元に萩博物館の建物として復元されました。
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平安橋
萩城三の丸の平安古の総門(南の総門)前の外堀の新堀川に架けられた橋です。
慶安5(1652)年の城下町絵図には木橋として描かれていますが、明和年間(1764〜1771)に石造りに架け替えられたものと推定されるそうです。
橋桁6.04m、幅員3.95m、堀底からの高さ2.5m、吊り桁・定着桁を備えたゲルバー桁橋を持った無橋脚の玄武岩の石橋です。
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旧児玉家長屋門
児玉家は萩城三の丸の平安古総門に隣接していました。
幕末の萩城下町絵図によると同家の表門は平安古総門に面して南向きであったとみられ、この長屋は屋敷の西側道路に沿って建てられたものです。旧児玉家に隅矢倉がありました。
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次回に続く
萩キリシタン殉教者記念公園 @ はぎ散歩@ [2021年10月03日(Sun)]
萩市堀内の指月城あたりを走っていると、「熊谷元直」と彫った大きな石碑が目にとまり、

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車から降りてみると「萩キリシタン殉教者記念公園」とありましたぴかぴか(新しい)
そういえば、指月川にかかる橋を渡る際、そんな案内板があったような・・・。

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十字架のついた門をくぐると、

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説明板があり、

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キリシタン殉教者と記念碑
 明治元年(一八六八)に続いて明治三年、政府はキリスト教弾圧政策をとり、長崎の浦上村全信徒三千八百人を全国各地に流刑した。これがいわゆる「浦上崩れ」である。このうち約三百人が萩の地に流された。
 進行篤い彼らを改宗させるために三年間続けられた過酷な拷問と飢えのため、四十余名が英雄的な殉教を遂げた。そのうち二十名がここに埋葬さらえていた。
 在りし日の迫害、忍苦の跡を偲んで萩カトリック教会初代司祭ビリヨン神父は、明治二十四年(一八九一)に、信徒が拷問されていたこの岩国屋敷跡に、寒天に裸体にされて責められたという庭石を集め、それを基礎として記念碑を造り、「奉教致死之信士於天主之尊前」の碑文を刻んだ。
 またここには、慶長十年(一六〇五)に棄教をを拒んで殉教した毛利藩重臣熊谷元直の碑等がある。


真っすぐに進むと、

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「信仰之為生命を奉げたカトリック教徒記念の聖地」碑があり、

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正面には石碑がありました。

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「奉教致死之信士於天主之尊前」と刻まれています。
信仰のために亡くなった信者は、神の前に貴いという意味です。

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碑の周りには殉教した切支丹の墓石が並んでいます。

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G_01_kirisitanjunkyoshakinenkouen_12_02.jpg山口県Photo素材集より


一番始めに紹介した大きな碑は、「熊谷元直」碑。
そばの碑は左が「萩城建築者 伯多禄天野元信 殉教ス」、右が「伯多禄巻村 狩野半右衛門 殉教ス」

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そばには、熊谷元直についての説明板がありました。

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五郎太石事件の際、キリシタン信者であったために毛利輝元によって処刑された、熊谷元直と天野元信の殉教碑の碑です。

キリシタン墓もあります。

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ビリヨン神父についてはこちらに記しています。
「大道寺に行きました」https://blog.canpan.info/jointnet21/archive/992
ブドウ畑に中也の詩 @ 福田百合子先生と行く山口市仁保の文学の旅B [2021年10月02日(Sat)]
前回の続き

そしてお目当ての山崎果樹園へ 。
「汚れちまった悲しみに」など中也の詩10篇を記した短冊状の板がブドウの木を飾っていますぴかぴか(新しい)

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手前から奥に進んで行くと、詩が読み進められます。

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▼「サンデー西京」2021年9月18日号
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「汚れちまった悲しみに」

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「夏の日の歌」

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「夏の海」

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輝(かがや)く浪の美しさ
空は静かに慈しむ、
耀く浪の美しさ。
人なき海の夏の昼。

心の喘(あえ)ぎしづめとや
浪はやさしく打寄する、
古き悲しみ洗へとや
浪は金色、打寄する。

そは和やかに穏やかに
昔に聴きし声なるか、
あまりに近く響くなる
この物云はぬ風景は、

見守りつつは死にゆきし
父の眼(まなこ)とおもはるる
忘れゐたりしその眼
今しは見出で、なつかしき。

耀く浪の美しさ
空は静かに慈しむ、
耀く浪の美しさ。
人なき海の夏の昼。
    (一九二九・七・一〇)



「サーカス」

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「帰郷」

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「月夜の浜辺」

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「秋の夜空」

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 これはまあ、おにぎはしい、
みんなてんでなことをいふ
それでもつれぬみやびさよ
いづれ揃つて夫人たち。
    下界は秋の夜といふに
上天界のにぎはしさ。

すべすべしてゐる床(ゆか)の上、
金のカンテラ点(つ)いてゐる。
小さな頭、長い裳裾(すそ)、
椅子は一つもないのです。
    下界は秋の夜といふに
上天界のあかるさよ。

ほんのりあかるい上天界
遠(とほ)き昔の影祭、
しづかなしづかな賑はしさ
上天界の夜(よる)の宴。
    私は下界で見てゐたが、
知らないあひだに退散した。



「一つのメルヘン」

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「はるかぜ」

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「北の海」

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詩を味わいながらブドウ狩を楽しみました。

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シャインマスカットやコトピーなどのブドウがありましたが、私は「雄宝」というブドウを求めました。
「シャインマスカット」と「天山」を交配・育成した大粒・大房のブドウで、もちろん種もなく、甘いけれどスッキリと爽やかな味で、皮がとにかく薄く皮ごとサクサクと食べることができます。

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その後は、中也の詩の朗読会ノート2(開)

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シャンソン歌手の松崎雅子さんによる中也の歌も楽しみました🥰

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るんるんポッカリ月が出ましたら、
 舟を浮べて出掛けませう。
 波はヒタヒタ打つでせう、
 風も少しはあるでせう。

   (中原中也「湖上」より)


仕上げは、秋川牧園でカフェオレとプリン喫茶店

身も心も満足した秋の日でした揺れるハート
嘉村礒多生家 @ 福田百合子先生と行く山口市仁保の文学の旅A [2021年10月01日(Fri)]
前回の続き

仁保上郷上ヶ山集落にある礒多の生家は、

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現在、「嘉村礒多生家 帰郷庵」として開放されていますぴかぴか(新しい)

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築後140年を経ているそうです。

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庭の門。

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庭にある「嘉村礒多生誕地」碑。

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裏面に「昭和三十二年十一月三十日嘉村礒多文学顕彰会建立」とあります。

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フジバカマがきれいです。

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生家から見える山裾の道は「礒多の道」と名付けられていて、礒多が大富小学校へ通った道です。現在、生家の前の上ケ山公会堂の前から橋を渡って、『神前結婚』の舞台である妙見社までの約1kmの道が残っています。
その途中に、礒多が眠る墓もあります。

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蔵の前などには、昔の道具が雑然と置かれていました。

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ウメモドキ。
向に平成29年12月3日の生誕百二十年記念に植樹した樹が写っています。

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家の裏には、ノブドウ(野葡萄)が。
白い実が本来の実ですが、この美しい青色や紫色の実は虫が寄生している寄生果だそうですふらふら
熟して色が変わるのかと思っていました。

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河上徹太郎と礒多は中也も関係していた詩壇の仲間の集いで、葛西善蔵を通じ同郷作家として知り合いました。河上は礒多について「色の黒い生真面目な男」と評してしたそうです。
後に、1957(昭和32)年の25回忌に礒多の故郷 山口市宮野 常栄寺に「嘉村礒多文学碑」を建立するにあたり尽力し、除幕式に河上は河盛好蔵と参列しました。実は、井伏鱒二と出席する予定でしたが、井伏は風邪のため参列できませんでした。
河上の随想集『旅・猟・ゴルフ』(講談社 1961)には、

 除幕のあと我々は嘉村の家の川向うにある山腹の墓地に詣でた。
 天稟院文賢独秀居士
が墓碑銘であった。私は生れてはじめて句を作った。
 墓守る礒馴れ松や
 秋立ちて
   
 
とあると、話されていました。
河上は、『嘉村礒多全集』全2巻(嘉村礒多/著 南雲堂桜楓社 上巻:1964.11 下巻:1965.9)の監修を山本健吉とともにしています。


現地説明板。

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次回に続く