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こどもと本ジョイントネット21・山口


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築山大明神T @ 築山跡F [2021年06月30日(Wed)]
前回の続き

築山大明神とはなんでしょうかexclamation&question
築山跡の地に屋敷がおかれたのは、大内教弘が家督を政弘に譲った後に別々の居所を構えてから、教弘が亡くなるまでの間で、その後は、政弘が父・教弘を祀った築山大明神の祠が設けられたものとみられています。

政弘の家集である『拾塵和歌集』の巻九に、

 文明十八年八月亡父に贈三位の  (三字分空白) 宣旨(せんじ)・同位記などを送給しを 築山の廟にてよみ奉(たてまつ)るとて
花の咲おりもある世を朽はつる身ぞと思ひし椎柴の陰
 おなじ時よみ侍ける
くもりなく位の山の月影を今夜や苔の下に見る覧
 

巻十にも

 同じ(文明19年)四月三日亡父に大明神号の宣旨を下され侍りければ 築山の廟に奉納し侍とて
勅なれば光ことなるつき山のあきらけき神ぞいともかしこき
 

と「築山の廟」とあります。
宣旨ですから、朝廷から教弘に築山大明神の号が贈られたということです揺れるハート

『寛政重修諸家譜』「多々良氏系図」の「教弘」のところに

長亨(享)元年四月三日筑(築)山明神と崇む

『系図纂要』「多多良朝臣姓大内」の「教弘」のところにも

長享元年四ノ三宣築山明神

とあります。

『山口市史 通史編』(山口市 1955)にも、

寛正五年翺之恵鳳は教弘のために「大内氏亭下飛松の記」を作つている。後に築山館の西北隅に築山祠が建てられ、教弘を奉祀した。今の築山神社の地に相当している。文明十九年(長享元年)四月三日、後土御門天皇は築山祠に築山大明神の宣旨を賜つた。教弘の子政弘はこれを築山祠に奉告するとともに、次の如き和歌を詠じた。
  勅なれば光ことなるつき山の
   あきらけき神ぞいともかしこき


とあります。

『大内氏實録』(近藤清石/著 中元壮作、宮川臣吉 1885)巻第八「世家第八 教弘」にも、

また一社を創立して其(教弘の)霊を祀る。(社伝)後年社号築山大明神たるべき宣旨を賜ふ。(社伝)長享元年四月三日とす。

とあります。
(※文明19年7月20日に長享に改元したので、「長享元年」ではなく「文明十九年」が正確)


ところが、築山大明神の成立には別の説もありますひらめきひらめき
『大内氏實録』(近藤清石/著 中元壮作、宮川臣吉 1885)巻第八「世家第八 教弘」に、

大友家が大内を襲う、茲に因り、教弘卿の遺言が有り、甲胃、太刀・弓箭(や)・槍等の武器を揃え、築山御所に埋め、永しく大内家の守護と為し、築山大明神と号し、春秋に祭典を行い、時弘綱蒙が祭祀の職に蒙(こうむ)る。
(書き下し文に変えました)

とあり、教弘の遺言で築山館の敷地内に甲冑や武器を埋め、大内家の守護として「築山大明神」を祀ったというものです。


また、別の説もありますひらめきひらめきひらめき
『大内氏史研究』(御薗生翁甫/著 山口県地方史学会 1959)には、

教弘(略)築山館を大内氏衙(が)門の北続きに構築した。八坂・築山両社の境内外付属地に亘る。築山ありしによって名とした。廓内に築山大明神を建て、また闢雲院を創めた。剃髪して教弘法師といった。

とあり、教弘が築山館の敷地内に築山大明神を建てたというものです。


さらに、こんな説もありますひらめきひらめきひらめきひらめき
『山口市史 通史編』(山口市 1955)に、

教弘は兵部卿師成親王と歌道で師弟関係があり、交情極めて密なるものがあつた。それで築山大明神は表面、教弘の霊を祀ると称したが、実は教弘が生前、師成親王を祀つたとの説もある。

とあり、

『大内氏實録』(近藤清石/著 中元壮作、宮川臣吉 1885)巻第八「世家第八 教弘」には、

故人高橋延実は、実は兵部卿師成親王(が)法泉寺にて薨(こう)じたまへるも、教弘卿(は)築山館内に小社を創建し、其御霊を祀られたる社を、政弘卿が父の遺言にて宏壮に造替せられるしなり。されど当時は足利氏への聞を憚り、武器を埋めた等々と声高に唱へしなりとの云ひ伝ありとかたりき。

とあり、法泉寺で亡くなった師成親王を祀るために、教弘が築山館内に小さな社を建てたというものです。政弘が父の遺言に従って宏壮に造り替えたといいます。
(高橋家は山口の多賀社の大宮司の家系です。多賀社は、大内氏によって勧請されたと伝える山口五社の一つで、もとは宇野令にありましたが、現在は山口大神宮の境内地に遷座しています。高橋右延は大寧寺で大内義隆に殉じています。その息子 言延(ことのぶ)は毛利輝元の求めに応じて『大内様御家根本記』を著わしました。有文の代には、大内氏の故事、逸文、ならびに山口を中心とする文書記録を集め、文庫を形成しました。)

証なきことながら、李花集奥書に、此本先師兵部卿師成親王、出家号竺源恵梵(じくげんえぼん)也。教弘相伝之、時享徳改元仲冬日、多々良朝臣とあれば、その事なしともいひがたし。猶よく考ふべし。

師成親王(1361(正平16/康安元)〜?)は、後村上天皇の第五皇子で、南朝の親王で、出家して臨済宗仏光派に属し、竺源恵梵と号しました。
1399(応永6)年10月大内義弘が足利幕府軍と戦った「応永の乱」では、義弘と共に堺で戦いました。12月義弘は堺で討死し、翌1400(応永7)年2月山口に逃れ、法泉寺に入り、同寺に住した後、伊勢南陽寺に住し、後また、山口に帰り、薨去したといいます。
歌人としても優れていた師成親王は教弘の和歌の師となり、自分の叔父の宗良親王の遺した歌集『李花集』を自ら書写し、1452(享徳元)年に教弘(1420(応永27)〜1465(寛正6))が賜ったということが、『李花集』の奥書に書かれています。

此本書、先師兵部卿師成親王出家号恵梵筆跡也、教弘相伝之、
  旹享徳改元仲冬廿日
      多々良朝臣(大内教弘)印判


李花集 宗良親王 (2).png
『李花集 : 宗良親王御集』(宗良親王/著 紅玉堂書店/出版 昭和2)国立国会図書館蔵)


築山大明神址に立つと、北北西の方向に三角形の形の良い山が見えます。

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この山こそ、政弘の墓師成親王の墓がある山です。
F442431C-5A70-449F-8277-CF7ED1F90B14.jpeg大内政弘の墓 
98C5DC64-801E-4BA0-9FA0-B6B2A26A4385.jpeg伝師成親王御廟

ここに立つと、訳あってこの場所に建てたと思えるのです。


築山大明神の成立について、ざっくとまとめてみます。
1政弘が教弘の霊を祀った祠を設けた。文明19年(長享元年)4月3日、後土御門天皇より社号を築山大明神の宣旨を賜った。
2教弘が築山館の敷地内に築山大明神を建てた。
3教弘の遺言で、政弘が築山館の敷地内に甲冑や武器を埋め、大内家の守護として築山大明神を祀った。
4法泉寺で亡くなった師成親王の霊を祀るために、教弘が築山館内に小さな社を建て、政弘が父の遺言に従って宏壮に造り替えた。 


参考文献:
『山口市史 史料編 大内文化』(山口市 2010.3)
  P412〜423『拾塵和歌集』
  P13「多々良氏系図」「●教弘」
  P52「多々良朝臣姓大内」「教弘」
  P617〜8「新葉和歌集富岡本」
  P618「李花集」
  P938〜944「大内氏遺跡築山跡」
『山口市史 通史編』(山口市 1955)
  P63〜64「築山祠に大明神の宣旨」
『大内氏實録』(近藤清石/著 中元壮作、宮川臣吉 1885)
  巻第八「世家第八 教弘」
  ※国立国会図書館デジタルコレクションでインターネット公開(保護期間満了)されています
『大内氏史研究』(御薗生翁甫/著 山口県地方史学会 1959)
  「師成親王と崇光院三ノ宮法泉寺方丈」
  「伊予の動乱と大内教弘」 
「大内氏歴代当主と山口D 28 大内教弘」(山口ふるさと伝承総合センター)
『李花集 : 宗良親王御集』(宗良親王/著 紅玉堂書店/出版 昭和2)
  ※国立国会図書館デジタルコレクションでインターネット公開(保護期間満了)されています
『山口市の石仏・石塔(2)大殿・白石・湯田』(山口の文化財を守る会/編 山口市教育委員会 2004)
  P103「大殿の塔」No.92「大内政弘墓(五十鈴ダム東)」
     No.93「伝師成親王御廟(五十鈴ダム東)」



次回に続く
築山大明神址 @ 築山跡E [2021年06月29日(Tue)]
前回の続き

「大内氏歴代当主と山口D 本拠山口から 大内教弘」(山口ふるさと伝承総合センター「伝承センター通信」(2019.12))に、築山大明神址の写真が掲載されているのを見てから、築山跡のどこにあるのか気になって仕方ありませんでした。

『大内氏實録』(近藤清石/著 中元壮作、宮川臣吉 1885)巻第八「世家第八 教弘」

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▲『大内氏実録』巻第八「世家第八 教弘」(国立国会図書館蔵)

旧址今の築山神社の西側の築地上にありて、南面に幅五寸許の葛石を敷き、これに方四寸九許許の石柱六本を立つ。三本は折れ、一本は前面闕損、全きもの二本あり。長二尺一寸六分許、柱より柱の間の長二尺二寸五分にて、柱の向ひ合たる方及び葛石に樋がありて、これに厚さ二寸六分五厘、幅一尺二寸一分の石の板を入る。其石板の上面にも樋あり、凹字型となす。おもふに、この上に石の板一枚を入れて其下面凸字型をなし、これにくひ合ひしが失せたるなるべし。なにの為にしたるものか考ふべからず。

とあるのを見つけました。
これをもとに、築山神社の西側の築地上に、築山大明神址と伝わる石屏を探してみましたぴかぴか(新しい)

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すると、ありましたひらめき

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C5D887C4-A670-49A5-9D7A-5DB4B52B8AC3.jpeg2021年6月26日撮影 59878CC2-650F-4750-AFDD-073A5A77E304.jpeg E2F1E2F5-F9ED-46A6-9EEA-081B652E3EE7.jpeg 
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『大内氏實録』のように6本ではありませんが、3本の柱があります。
「葛石」は「社寺・宮殿などの基壇の上端の縁にある、縁石 (へりいし) を兼ねる長方形の石」のこと。
「樋」は「表面につけた細長い溝」の意。

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きれいに加工されています。

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一つずつ見てみましょう。
一番左側の石柱。
両側が凹字型になっています。
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真ん中の石柱。
両側が凹字型になっています。
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三番目の石柱。
左側のみ凹字型になっています。
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間の石板は左右が凸字型です。上に窪みがあります。
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さて、築山大明神とはなんでしょうか。


参考文献:
「大内氏歴代当主と山口D 28 大内教弘」(「伝承センター通信」(2019.12))(山口ふるさと伝承総合センター)
『大内氏實録』(近藤清石/著 中元壮作、宮川臣吉 1885)巻第八「世家第八 教弘」
  ※国立国会図書館デジタルコレクションでインターネット公開(保護期間満了)しています


次回に続く
「第27回やまぐち朗読Cafe 〜朗読と蓄音器ジャズの夕べ〜 」に参加しました [2021年06月28日(Mon)]
6月23日(水)、ジャズ スポット ポルシェで開催された「第27回やまぐち朗読Cafe 〜朗読と蓄音器ジャズの夕べ〜 」に参加しましたぴかぴか(新しい)

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夏至(6月21日)を過ぎたばかりで、午後7時はまだまだ明るいです。



【第一部 蓄音器ジャズ】

今回は、「The History Of Jazz Vol.1 - The 'Solid' South」より4曲です。

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キャピトルが、1945年、ジャズの歴史を紐解こうとSP盤5枚のアルバム・セットを4巻リリースし、その最初のもの。

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「「Vol.1 - The 'Solid' South」がやっと手に入り、これでコンプリートしました揺れるハート
と嬉しそうに語られていました。

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私は、「Vol.2 - The Golden Era」と「Vol.4 - This Modern Age」を披露されたときに参加しています。どうも、「Vol.3 - Then Came Swing」は聴き逃しているようですふらふら

今回の4曲は次の通り。

@ “Rock Island Line”

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Leadbellyの弾き語りで、Paul Howardのzitherが加わります。


A “Lulu's Mood”

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Zutty Singleton’s Trioの演奏です。


B “Cajun Love Song”

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Eddie Miller’s Crescent City Quartetの演奏です。


C “High Society”

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Nappy LaMare’s Louisiana Levee Loungersの演奏です。



【第二部 自由朗読】

@Mさん
中島みゆき「ファイト!」


A山口
中原中也「吾子よ吾子」

▼『サンデー山口』第7345号(2021.06.19(土))
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地域情報誌『サンデー山口』27回「中原中也 詩の栞」で紹介されていた 「吾子よ吾子」(生前未発表詩)を朗読しました。
中原中也記念館の中原豊館長による解説は省略してしまいました・・・。
詩の部分の活字は6ポで、マイクを間に挟むと、殆ど判読不明がく〜(落胆した顔)・・・拡大コピーをするべきだったと大反省しましたもうやだ〜(悲しい顔)


B原明子さん
入沢康夫「未確認飛行物体」

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CSさん
中原中也「夏と私」「ピチベの哲学」

 夏と私

真ツ白い嘆かひのうちに、
海を見たり。鴎(かもめ)を見たり。

高きより、風のただ中に、
思ひ出の破片の翻転するをみたり。

夏としなれば、高山に、
真ツ白い嘆きを見たり。

燃ゆる山路を、登りゆきて
頂上の風に吹かれたり。

風に吹かれつ、わが来し方に
茫然(ばうぜん)としぬ、……涙しぬ。

はてしなき、そが心
母にも、……もとより友にも明さざりき。

しかすがにのぞみのみにて、
(こまね)きて、そがのぞみに圧倒さるる。

わが身を見たり、夏としなれば、
そのやうなわが身を見たり。
 (一九三〇・六・一四)



 ピチベの哲学

チヨンザイチヨンザイピーフービー
俺は愁[かな]しいのだよ。
―――あの月の中にはな、
色蒼ざめたお姫様がいて………
それがチャールストンを踊ってゐるのだ。
けれどもそれは見えないので、
それで月は、あのやうに静かなのさ。

チヨンザイチヨンザイピーフービー
チャールストンといふのはとてもあのお姫様が踊るやふな踊りではないけれども、
そこがまた月の世界の神秘であつて、
却々[なかなか]六ヶ敷[むつかし]いところさ。

チヨンザイチヨンザイピーフービー
だがまたとつくと見てゐるうちには、
それがさうだと分つても来るさ。
[はや]いといへば迅い、緩(おそ)いといへば緩(おそ)いテムポで、
ああしてお姫様が踊つてゐられるからこそ、
月はあやしくも美しいのである。
真珠のやうに美しいのである。

チヨンザイチヨンザイピーフービー
ゆるやかなものがゆるやかだと思ふのは間違つてゐるぞォ。
さて俺は落付かう、なんてな、
さういふのが間違つてゐるぞォ。
イライラしてゐる時にはイライラ、
のんびりしてゐる時にはのんびり、
あのお月様の中のお姫様のやうに、
なんにも考へずに絶えずもう踊つてゐれあ
それがハタから見れあ美しいのさ。

チヨンザイチヨンザイピーフービー
真珠のやうに美しいのさ。



「ピチベの哲学」といえば、中原中也記念館の2009年の特別企画展「月とメルヘン」でこの詩が紹介してあり、池田永一治「ぴちべ」が展示してあったのを思い出しますわーい(嬉しい顔)

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DUさん
自作エッセイ「待ってくれていた」

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Uさんは防府市から初めて参加されました。
山陽小野田市立中央図書館で毎月開催されている「随筆カフェ」でテーマ「歌」の時(2021年5月15日(土))に作られた作品だそうです。


EKさん
「しわいや」
(『わらいばなし20話 (名作よんでよんで)』より)

▼『わらいばなし20話 (名作よんでよんで)』(西本 鶏介/監修 学研プラス 2017.4)
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隣りの鰻屋で焼く鰻の匂いをおかずにご飯を食べるという古典落語の一つです。


FKさん
アーサー・ビナード「ハーンの日なたに」
(『左右の安全』より)

▼『左右の安全』(アーサー・ビナード/詩 集英社 2007.10)
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GTさん
夏目漱石「硝子戸の中」(十四)

『硝子戸の中』(新潮文庫) (新潮社 1952)
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HFさん
澤夏子「ノクターン」
(福島ポエム空の会 詩集『蒼い空』第7集より)


H中原豊さん
伊東静雄「砂の花」

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以上、参加者は10名(うちスタッフ2名)でした。
「ダンス・イン・ザ・ファーム」 〜周防大島で移住と農家と他いろいろ〜 @ 周南市立徳山駅前図書館 [2021年06月27日(Sun)]
7月17日(土)、周南市立徳山駅前図書館で、「「ダンス・イン・ザ・ファーム」 〜周防大島で移住と農家と他いろいろ〜」が開催されますぴかぴか(新しい)

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周防大島に移住し、僧侶と農家として暮らす日々を書籍として刊行された中村明珍さんをお迎えし、周防大島での暮らしや島の魅力をお話いただきます。
養蜂家 内田健太郎さん、KRYアナウンサー 渡辺三千彦さんとのクロストークをお楽しみください。


るんるん日 時るんるん 2021年7月17日(土)14:00〜15:00
るんるん場 所るんるん 周南市立徳山駅前図書館 2階インフォメーションスペース
るんるん講 師るんるん 中村明珍(周防大島在住)、内田健太郎(養蜂家)、渡辺三千彦(KRYアナウンサー) 
るんるん参加費るんるん 無料
るんるん定 員るんるん 15名
るんるん申込方法るんるん 整理券制:6月26日(土)より 図書館3階カウンターにて整理券配布
        申込の際、図書館カードが必要
るんるん問合先・主催るんるん 周南市立徳山駅前図書館 電話 0834-34-0834


『ダンス・イン・ザ・ファーム 周防大島で坊主と農家と他いろいろ』
(中村明珍/作 ミシマ社 2021.3)
ダンス・イン・ザ・ファーム.jpg


かわいい中村明珍かわいい
1978年東京生まれ。2013年までロックバンド銀杏BOYZのギタリスト・チン中村として活動。2013年3月末に山口県 周防大島に移住後、「中村農園」で農業に取り組みながら、僧侶として暮らす。また、農産物の販売とライブイベントなどの企画を行う「寄り道バザール」を夫婦で運営中。
夏休みにお役立ち!調べ学習講座 @ 山口市立小郡図書館 [2021年06月26日(Sat)]
7月31日(土)、山口市立小郡図書館で「夏休みにお役立ち!調べ学習講座」が開催されますぴかぴか(新しい)

調べ学習講座.PNG

図書館を使った調べ方を司書と一緒にマスターしよう!

るんるん日 時るんるん 2021年7月31日(土)10:15〜12:00 (受付 10:00〜)
るんるん場 所るんるん 小郡図書館2 会議室
るんるん内 容るんるん 百科事典、図鑑の使い方を知ろう!
るんるん対 象るんるん 小学4〜6年生で、図書館利用カードをお持ちの方
るんるん定 員るんるん 10名(定員に達し次第締切)
るんるん参加費るんるん 無料
るんるん持参物るんるん 鉛筆、消しゴム、水筒、図書館利用カード
るんるん申込方法るんるん 山口市立小郡図書館のカウンター または 電話
るんるん問合・申込先るんるん 山口市立小郡図書館 電話 083-973-0098
るんるん主 催るんるん 山口市立小郡図書館
市川少輔七郎元教之墓 @ 築山跡D [2021年06月25日(Fri)]
前回の続き

築山神社北側の土塁の上から移された市川少輔七郎元教供養塔
市川元教は大内氏再興を企て動いた人として大内氏代々の霊が祀ってある築山神社に合祀されています。
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最近、案内板「毛利氏家臣 市川元教の墓」も設置されました。
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説明板「市川少輔七郎元教の墓」も、昨年建てられました。
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毛利氏家臣で高嶺城代・山口奉行を務める市川経好の嫡男。
豊後の大友宗麟と大内家再興を企てるが露呈して、天正六年(一五七八)、毛利氏配下により討たれる。
墓石はもと築山神社北側の土塁上にあったが、周辺整備に伴い、平成三十年この場所に移設された。
 

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無縫塔。80cm。
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そばの灯籠は、1827(文政10)年、元教の250回忌に市川家の人によって建てられたものです。
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市川少輔七郎元教墓

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 文政十丁亥三月
松金洞岩居士
 二百五十回忌建立


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市川三右衛門経□
同  亀之助経□


刻まれている「市川三右衛門経□」は、『閥閲録(ばつえつろく)(『萩藩閥閲録』)の巻140にみえる「遠近附」の「市川三右衛門」のことでしょうか。「経」の後が判読できないのは、残念です。
『萩藩閥閲録』も読んでみなくてはいけません。

こちら石も墓所のそばに以前建っていたり倒れていたものを一緒に移設してそばに建てられています。
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土塁に登って、墓が以前あった場所を探してみましたが、草で覆われていてよく分かりませんでした。
それにしてもこんな場所になぜ建てられたのでしょうか?

元教(?〜1578)は、毛利氏家臣で山口奉行を務める市川経好(1520〜1584)の嫡男として生まれました。
母は、1569(永禄12)年大内義興の甥である大内輝弘(1520〜1569)が山口に乱入したとき【大内輝弘の乱】、北九州 立花山城をめぐって大友氏と対陣中の夫・経好に代って、高嶺城を無事に守り、毛利輝元から「比類なし」との感状をもらった市川の局です。
1578(天正6)年に豊後国の大友義鎮(宗麟)に内応し反乱を企て、そのことを父 経好に察知され、経好の密命を受けた雑賀隆利や内藤元輔らによって討ち取られました。
元教は謡曲「采女の山郭公」の小鼓が得意であったため、元教の死後、山口では采女を謡うことを控えたと言われています。


「父 経好が飯田町の観音堂で切腹させた」という自刃説もあります。
『山口名勝旧蹟図誌』(近藤清石/著 宮川博古堂 明26,27)「市川少輔七郎元教之墓」に

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『山口名勝旧蹟図誌』「市川少輔七郎元教之墓」(国立国会図書館蔵)

とあります。
『山口市史 地区篇』(山口市史編纂委員会/編 山口市役所 1961(昭和36).3)P92にも

今の築山神社の裏の築地(略)の上に苔蒸した墓一基が今も所在なげに立つている。これは市川少輔七郎元教という若武者の奥都城であるが、この元教は大内氏滅亡の後、毛利氏に仕えて山口の城番となった市川伊豆守経好の子で、父経好が他国へ出陣していた留守中元教が首謀となつて大内氏再興の密議を凝らしたとの嫌疑がかゝり、それを伝え聞いた経好がいそぎ山口に帰つて、子息元教を飯田町の観音堂に捕え、その場で切腹させた。この元教は平素謡曲をよくし、特に「采女」を好んで謡つていたが、その死後元教の霊が町の一人に憑り移つて、そつくりな声で「采女」を謡つたということが評判に立つたので、それからは、たゝりをおそれて、謡曲「采女」をうたわぬようにしている。

と同様の記述があります。


飯田町の観音堂に行ってみましょうわーい(嬉しい顔)
『幕末山口市街図』(1865(慶応元)年〜1868(明治元)年頃 山口県文書館蔵 袋入絵図178)に「下立小路町」に面した「飯田町」に「観音堂」があります。

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今の「石山(せきざん)観音堂」のことだと思われます。

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久しぶりに観音堂を訪れた時、2013(平成25)年にコンクリート造に建て替えられいて、唖然としたのを覚えています。前は風情のある木造の小さなお堂でした。

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「石山観音堂縁起」。
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 安永三(一七七四)年に浄土宗 善生寺住職浄誉天髄が地元の古老の口実を聞き取り、書き取った文書を善生寺十六世寛誉嶺光が文化八(一八一一)年に書き改めた「周州吉敷郡山口荘竪街 観音堂略縁起」があります。
 これによると、大内氏第二十四代 弘世、康暦二(一三八〇)年の世に下竪小路に楼閣を建立し大内氏北廰の持佛 聖観世音菩薩を奉安しました。しかし、永禄十二(一五六九)年に大内輝弘が豊後より山口に乱入したおり観音堂は焼失しましたが、本尊と厨子(大内菱の紋あり)は焼け残り、その後、里人は力を合わせて観音堂のあった場所に小堂を造り本尊を奉安したということです。
(略)

観音堂のそばに宝篋印塔があります。
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 徳雲孤巖禅尼
寶篋塔
 昌巖智榮禅尼


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一字一石諸経
明咒所謂宝篋
印陀羅尼大般
若経法華妙典
佛顧尊勝陀羅
尼経等也


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明治丗七年三月三日
玉道祖a尼首座
陰暦正月相當


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願主沙門尼
徳雲孤巖
明和六己丑(1769)
三月吉日



『山口市の石仏・石塔(2)大殿・白石・湯田』(山口の文化財を守る会/編 山口市教育委員会 2004)のP88「大殿の塔」No.46「宝篋印塔」に

市川小輔七郎元敬の供養塔との説がある。

とありますが・・・・・exclamation&question
市川元敬って誰?「市川輔七郎元」は誤植で「市川輔七郎元」が正しいと思います。


参考文献:
『山口市の石仏・石塔(2)大殿・白石・湯田』(山口の文化財を守る会/編 山口市教育委員会 2004)
  P90「大殿の塔」No.52「市川少輔七郎供養塔」
  P88「大殿の塔」No.46「宝篋印塔」
『幕末山口市街図』(1865(慶応元)年〜1868(明治元)年頃 山口県文書館蔵 袋入絵図178)
『山口名勝旧蹟図誌』(近藤清石/著 宮川博古堂 明26,27)(国立国会図書館蔵)
  P29〜30「市川少輔七郎元教之墓」
  ※国立国会図書館デジタルコレクションでインターネット公開(保護期間満了)されています
『山口市史 地区篇』(山口市史編纂委員会/編 山口市役所 1961(昭和36).3)
  P91〜92「第十章 伝承 五 伝説と民話」「禁断の謡曲」


次回に続く
祇園稲荷・石仏・石塔 @ 築山跡C [2021年06月24日(Thu)]
【前回の続き】

八坂神社と築山神社の間に祇園稲荷もあります。
13E6C5C1-7990-4979-831C-3EA9E7BFD3FD.jpeg2021年6月23日撮影 IMG_7379.JPG2018年7月15日撮影 IMG_7380.JPG IMG_7382 (2).JPG 9A8D07F8-C5CA-4B70-8EA7-249F970086BF.jpeg


一角に石仏・石塔を集めた場所があります。
IMG_7381.JPG2018年7月15日撮影

2018年には市川少輔七郎供養塔も築山神社北側の築地跡上から移されました。
14BE147B-00B6-424E-8C31-A8C055A79420.jpeg2020年7月13日撮影 7AF62786-A26E-450E-86DA-E297E514B157.jpeg 09E18CD9-205F-4BCD-95C3-C0951CB83F4C.jpeg2021年6月23日撮影


誄方社
祠堂。後方の石柱に「誄方社」とあります。
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祇園大神
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祇園大神霊 堅牢大地神」と彫られています。
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庚申塔
自然石。58cm。
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庚申
自然丸石。70cm。
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参考文献:
『山口市の石仏・石塔(2)大殿・白石・湯田』(山口の文化財を守る会/編 山口市教育委員会 2004)
  P112〜13「大殿の庚申」No.12「庚申塔」、No.13「庚申」
  P129〜30「大殿の神」No.21「誄方社」、No.22「祇園大神」



【次回に続く】
大内義興碑・大内氏月見之松紀念碑・箏曲組歌発祥之地碑 @ 築山跡B [2021年06月23日(Wed)]
【前回の続き】

築山跡は、大内氏顕彰の場となっていますぴかぴか(新しい)


大内義興碑
1B778835-221C-4461-9761-2733DAD52CDA.jpeg2021年6月23日撮影

大内義興の顕彰ために1890(明治23)年2月に建てられました。
IMG_7373.JPG2018年7月15日撮影

撰文は楫取素彦です。
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篆額「大内義興卿碑」。
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篆額は毛利元徳の筆です。
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「大内氏月見之松紀念」石碑
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月見松というのは、大内公遺愛の老樹で名木でした。
『大内氏時代山口古図』(山口県文書館蔵 軸物史料218)を見ると、「大内御殿」のところに「月見松」が描かれています。

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▲山口ふるさと伝承総合センター前にある地図より

しかしながら、1856(安政3)年8月11日雷火のため焼けて枯れました。そののち友津田典が、根より三丈計り上りて皮付きのところを遺して中を丸く刳り、それを縁として額にし、月見松の絵を尾張の人湟宏に描いてもらい、文は近藤芳樹(1801〜1880)が記し、和歌二首を添えたものを作りました。
現在八坂神社楼拝殿に、松で造った額に入った松の絵が飾ってありますが、それでしょうか?
傍に近づけないので、文字があるかどうか、よく分かりません。

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その句は『防長旧族の館跡防長古城趾の研究』(御薗生翁甫/著 山口県地方史学会 1962)に、

めぐりあふ秋はあらじと枯れにけり 
  月の名おへるふるさとの松

てる月も雲のよそよりなげくらむ
  宿しなれにし木の間たずねて
 
     
とあります。

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「箏曲組歌発祥之地」石碑
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碑の裏側
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昭和四十年十一月建立
  題字揮毫 内閣総理大臣 佐藤栄作
  発起人  箏正派家元  中島路雅楽之都
  同    山口県知事  橋本正之
  同    山口市長   兼行恵雄
  同    山口県熊毛町 林 泰


「建碑の由来」。
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大内義隆(1507年〜1551年)は武人で且つ高度の文化人として 芸術 学問 宗教 特に管弦 詩歌に深く心を寄せた人でありました
 応仁の乱後 京都をのがれた文化人や殿上人は 次々と大内家へ身を寄せ ここに輝やかしい地方文化の花を開かせたのであります
 「箏曲組歌」はこの大内文化を母体として生まれました 若き殿上人の楽人たちはこの地に集まり 自己の詩情を即興的に作詞作曲して 優雅な遊びの興趣を高めました 雅楽 「越天楽」の楽式による優美で気品ある風格の高い この組曲は その後 筑紫流 八橋流 生田流 山田流と 変遷を経ながらうけつがれ すぐれた伝統音楽として 今なお多くの人々に愛奏されております
 この記念碑は全国の第一線に活躍する箏曲教授家や 箏曲を愛する篤志家が 組歌の発祥を末永く記念して建てたものであります
 大内文化の生命が現代にいきいきとよみがえる時 私たちは「芸術は長く人生は短し」 の至言に敬虔の念をいっそう強めるものであります
 昭和四十年(一九六五年)十一月十一日世界平和記念の日
   中島路雅楽之都 誌す


「協賛者芳名録」
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「箏曲組歌発祥之地」説明板。
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 組歌は八橋検校(一六一四〜八五)が確立した箏曲の根本形式です。その整然とした楽式の源流は古くは雅楽曲〈越 天楽〉にまで遡りますが、そこから発生した箏の弾き歌いの音楽は, まず中世末期に賢順(一五三四?〜一六二三)により筑紫箏として大成され、さらに八橋検校による新工夫が加えられて、今日の箏曲の創始に至りました。
 一方、数首の歌を組み合わせた歌詞については、 安永天明の頃(1780前後)の箏曲組歌の譜本「箏曲大意抄」の中に, おおよそ次のような話が伝えられています。

天文年間(一五三二〜五四)のこと、 山口の大内義隆卿は、 京から迎えた北の方を慰めるために、しばしば都の公卿殿上人や楽人などを招いて詩歌管弦の遊びを催したが、ある時その席で七人の若い殿上人が 一首ずつ歌を作り、つぎつぎに箏で弾き歌いすることが行われた。これが箏の組歌の起源であり、歌の組合せなので組歌と言う。これゆえ最初の組歌 の曲《ふき》の歌詞は七首になっが、 やがて一人が早世したため以後の曲では六首になった。

 この話には疑点もあってすべてそのままには受け取れませんが、当時この地に花開いた大内文化を考えますと、むげに否定し去れない面もあり、興味深い所伝です。
 この「箏曲組歌発祥之地」の碑は、この所伝をよすがとして箏曲組歌の誕生期に思いを馳せ、あわせて往時の大内文化の繁栄を偲ばんとする各地各界の多数の人々の熱意と浄財によって、昭和四十年十一月、ここ大内氏ゆかりの地に建立されたものです。
    昭和六十一年十一月八日 上参郷祐康述


若い殿上人は、「則春、清政、春孝、重頼、高雅、行道、是正」の七人であり、早世したのは、「行道」だそうです。


参考文献:
『山口市史 史料編 民俗・金石文』(山口市 2015(平成27).3)
  P801〜802「大内義興碑」
『大内氏時代山口古図』(山口県文書館蔵 軸物史料218)
『山口市史 各説篇』(山口市編纂委員会/編 山口市 1971(昭和46).3)
  P685〜686「築山亭」
『山口市史 史料編 大内文化』(山口市 2010(平成22).9)
  P938〜944「大内氏遺跡築山跡」



【次回に続く】
連歌師宗祇「池は海 こすゑは 夏の深山かな」 @ 築山跡A [2021年06月22日(Tue)]
【前回の続き】

築山跡には、1953(昭和28)に建てられた連歌師飯尾宗祇(1421〜1502)の句碑があります。

宗祇句碑
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1480(文明12)年、大内政弘に迎えられて山口を訪れた宗祇が、築山館(屋形)で開かれた連歌会で詠んだ発句が刻まれています。

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池は海 こすゑは 夏の深山かな

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この句は宗祇の『老葉(わくらば)に収められています。 

 西国にくだりし時 大内京兆(けいちょう) (築)にて一座興行のとき、此所のさまをつかふまつるべきよし所望侍りしに
池はうみこずゑはなつのみ山かな


とあります。「西国にくだりし時」とは1480(文明12)年、「大内京兆」とは大内政弘のことです。

また、このときの旅行は『筑紫道記(つくしみちのき)として書き表されています。

二毛のむかしより六十いまにいたるまで、をろかなる心ひとすちにひかれて、いり江のあしのよしあしにまよひ、身をうき草のうきしづむなげきたえずして、移りゆく夢うつつの中にも、時にしたがふ春秋のあはれ思ひ捨てがたく侍るままに、国々の名ある所見まほしく侍る程に、(略)
左京兆のかぐはしき契ふかうして、(略)文明十二の年水無月のはじめ周防国山口にといふにくだりぬ
今日は長月の六日なれば、彼野の宮の暁に、音な鳴そへそなと侍りしも、おもひ残す事なし。(略)
 立出し日より今日まで三十六日にや成侍らん。(略)けふは神無月十二日、山口のやどに帰りて、此たびの日記はしるしとどめ侍る事しかり。

60歳の宗祇が1480(文明12)年9月6日に山口を出て、大宰府・博多をめぐって10月12日に山口にもどる36日間の旅日記です。

碑の裏面。
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宗祇は1489(長享3、延徳元年)年5月から7月にかけて再び山口を訪れ、『宗祇山口下着抜句』によると、宗祇を迎え、連歌歌会18回うち殿中で9回連歌会が催されています。

宗匠種玉庵宗祇長享三年(延徳元年)五月八日至山口下着之、同一七日初殿中御会(略)


また、伊勢物語の講釈をして『伊勢物語山口記』を残しています。
1489(永徳元)年、山口で政弘に講じた内容を、ある初心者のために書き与えた注釈書です。宗祇に関連する『伊勢物語』の注釈書は数多く存在しますが、宗祇自身の手によって記された注釈書は本書のみで、延徳年間(1489〜92)に作成されました。
宗祇自身の奥書に、周防国(現在の山口県)滞在中に、初学者を対象として編まれたことが述べられています。

此一冊者 延徳之初之比 防州山口にして此物語之講尺之後 初心之輩所望之間書之 然者形のやうな事共なるへし 於余情者筆舌難及 只任其心耳
   宗祇

   (『鉄心斎文庫伊勢物語古注釈叢刊』第3巻)


「池は海」の句から、築山館(屋形)には、大規模な池のある庭園があったと考えられてきました。
園池の跡は残っていましたが、この池も江戸時代中頃周囲の築地の土をもって埋めてしまい、現在のようになったといわれています。

『大内家古実類書』巻之二二 築山之事(山口県文書館蔵 多賀社文庫)に

築山旧跡之境内
 八拾間四面


と図示し、また、「四方竹藪之事」に天明2・3(1782・3)年頃に敷地内の竹藪を切り開いた土で池を埋め畠としたことや、「泉水之水之手之事」に天花から水を引き大内氏館の堀に流したなどの伝承を記しています。

『防長旧族の館跡古城趾研究』(御薗生翁甫/著 山口県地方史学会 1962)に

天明23年頃恵海僧正の代に四方竹藪なりしを伐り払い、竹藪の土を以て池を埋め、庭石は或いは砕き或いは他に運び、今は八坂神社玉垣の前に少数屹立し、その他湯田の高田園の泉石に転用した。

とあります。

CE617513-342B-4E69-9C5B-B9237F4113BC.jpeg八坂神社 豊後立石 992F08AE-29AD-4CFA-B440-1153930F1DB0.jpeg 
EB90819E-ECF7-486F-8865-D2C83EBD919F.jpeg井上(高田)公園 瓢箪池



政弘からさまざまな援助を受け、宗祇は、自らが中心となって、兼載、三条西実隆とともに連歌撰集『新撰菟玖波集(しんせんつくばしゅう)を編纂します。1495(明応4)年に後土御門(ごつちみかど)天皇から勅撰に准ずるものとして認められました。
政弘75句、教弘7句、持世6句、大内家人(大内氏被官人)数句採られています。


山口県立山口図書館が所蔵する『仮御手鑑』には、大内義隆(1507〜1551)が開催した和歌会短冊が含まれています。
小槻伊治代筆による義隆和歌短冊をはじめとして義隆被官人の45点和歌短冊です。

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▲山口県立山口図書館蔵

宗祇が訪れて以来、山口では連歌が大変盛んになりました。「周防山口連歌師」「大内殿内連歌師」の和歌短冊が37点あり、義隆時代の連歌の隆盛を伝えています。

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▲山口県立山口図書館蔵

ただ、この「大内連歌師」「大内殿内連歌師」などとよばれた連歌の名手の中には大内氏の家臣が多数含まれていました。


山口県立山口博物館に「宗祇坐像」(安土桃山時代 (慶長期)写)、山口県文書館に「宗祇法師画像」(元文年間写)があります。
山口博物館本は、法体で端坐する座像で、白髭を蓄えた宗祇が、墨染めの衣に袈裟を掛けた姿で、左手に中啓を持ち、上畳に左向きに座しています。
山口県文書館本もよく似ています。
山口博物館本には「宗祇老人肖像」とあり、上部色紙形二枚に、

うつしをくわが影ながら世のうさをしらぬおきなぞうらやまれぬる

世にふるはさらに時雨のやどり哉
年のわたりはゆく人もなし
老の波いくかへりぜばはてならむ

『宗祇集』所載の和歌一首と、『萱草』『新撰菟玖波集』所載の発句、『宗祇終焉記』所載の付句2句(1502(文亀2)年)が書き込まれています。


参考文献:
「山口県文書館所蔵 アーカイブズガイド―学校教育編―」(web版)
  「室町文化(連歌)
『山口市史 史料編 大内文化』(山口市 平成22年3月)
  P464〜472『宗祇山口下着抜句』
  P496〜497『初編本老葉』
  P560〜574『筑紫道記』 
  P625『伊勢物語山口記』
  P938〜944「大内氏遺跡築山跡」
『山口市史 各説篇』(山口市編纂委員会/編 山口市 昭和46年)
  P685〜686「築山亭」
『山口市史 通史篇』(山口市編纂委員会/編 山口市 昭和30年)
  P101〜105「宗祇の山口来訪」
宗祇坐像」(山口県立山口博物館蔵)
  ※山口県立山口博物館の高画質画像ダウンロードで見ることができます
宗祇法師画像」(山口県文書館蔵 軸物類92)
  ※山口県文書館のデジタルアーカイブで見ることができます



【次回に続く】
築地と石垣 @ 築山跡@ [2021年06月21日(Mon)]
八坂神社・築山神社境内、料亭菜香亭跡地一帯は大内教弘が造営した別邸築山館(屋形)の跡と伝えられ、1959(昭和34)年11月27日に「大内氏遺跡附凌雲寺跡」の一つとして国の史跡に指定されましたぴかぴか(新しい)

築山館は、大内館の北側にあり、外客接待の迎賓館として使われたとされ、幅 5.4mの堀を巡らし、内側に大きな池を掘り、掘り上げた土で築山を造り林泉の美を誇ったといわれています。

地図。
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「築山館址」石碑
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「史跡大内氏遺跡築山跡」石碑
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「築山跡平面図」
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「築山跡」説明板。
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史跡(大内氏遺跡附凌雲寺跡) 
築山跡
   昭和三四年一一月二七日国指定
ここは大内氏二八代教弘が一五世紀中頃に築いたといわれる築山館跡です。築山館は、教弘以後歴代当主の居館となったところです。中世の連歌師宗祇は「池はうみ こずゑは夏の 深山かな」と詠んでおり、この句からかつて豪華であった庭の様子が偲ばれます。
築山館は大内氏滅亡後朽廃しましたが、園池の跡は残っていたといわれています。しかし、この池も江戸時代中頃周囲の築地の土をもって埋めてしまい、現在のようになったといわれています。
江戸時代末の絵図によると、築地の外面は自然石の石垣であったことが伝えられています。
現在指定地内の北西隅に、かぎの手に土塁築地が残っていますが往時の館の規模を示す遺構として重要です。
また、指定地内には八坂神社(元治6年移建)(本殿が国指定重要文化財)と築山神社(明治2年移建)があります。


現在指定地内の北西隅にL字型に残る土塁築地(ついじ)跡は当初の形をとどめているといわれています。

1492(延徳4)年6月の『大内氏掟書』では、築山の築地の上から祇園会の見物を禁止し、築地の上に桟敷(見物席)を構えることを固く禁じています。

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『群書類従』巻第四百一 武家部二「大内氏壁書」(第501−502冊)(国立国会図書館蔵)

築山築地之上(、)祇園會(、)其外自然之見物(、)被加制止訖(。)殊御寶殿(、)同鎮守邊(、)諸人群集剰於石築地之上構棧敷事(、)堅固御禁制也(、)m新豊院殿仰之時者(、)従寺家對寺奉行可尋之(。)若此旨有違背之族者(、)可被處厳科之由(、)所被仰出壁書如件(。) 
 延徳四年壬子(1492年) 六月 日


このことからも、築地があったことが分かります。
江戸時代には、毛利氏当主の代理や町奉行らの祇園会見物のため築地に桟敷が設営されました。
 
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竪小路から見た築地跡。
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さて、築山跡は、もともとは大石を積み上げた石垣で周囲を囲われていました。
先程の『大内氏壁書』にある「石築地」という言葉でも分かります。

『大内氏時代山口古図』(山口県文書館蔵 軸物史料218)を見ると、「大内御殿」の西側と南側が石垣で囲んであります。
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▲山口ふるさと伝承総合センター前にある地図より

『山口市街古図』(17世紀末成立 山口県文書館蔵 毛利家文庫 58絵図320)には、「上立小路」に沿って石垣があります。

『地下上申絵図』(1728(享保13)年成立 山口県文書館蔵)にも石垣が描かれています。

『行程記』(1746(明和元)年頃成立? 山口県文書館蔵)に西側と北側に石垣が描かれています。

『幕末山口市街図』(1865(慶応元)年〜1868(明治元)年頃 山口県文書館蔵 袋入絵図178)になると、「築山 地方分」にはその石垣はもう見えず、西側に土塁を表すようなものが描いてあります。

江戸末期に毛利氏が長門国萩城から山口城(山口新御屋形)に居城を移したときに大石を運び出し石垣に転用した為、現在の土塁のようになったといいます。
『山口市史 史料編 大内文化』(山口市 平成22)P939〜940に

近藤清石が『山口県地理誌料』(山口県文書館、明治十八年以前)を著す。(略)幕末の藩庁移鎮の際し、築山跡の築地の石を崩し取り、その土をかき上げたものが、現在の築地跡であるとした記述である。現存する土塁状の高まりと、築地の石垣とが結びつく。

とあります。
「築地の石を崩し取り、その土をかき上げた」というのは、2m近くある現在の土塁を見ると、納得がいきます。

『防長古城趾の研究』「第一章 大内氏館趾・築山館趾」(新防長叢書)(御薗生翁甫/著 マツノ書店 1975)P24に、

北に堀の痕跡を残し、西側竪小路に面するところに高い石垣があったのを、香山通り育児園の石垣に転用し、今のは後に築いたのである。

とあります。

山口御屋形の東稜堡の基礎石垣として、今でも香山通りで見ることができまするんるん
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中には1mを超える石もあります。
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参考文献:
『群書類従』巻第四百一 武家部二「大内氏壁書」(第501−502冊)
  ※国立国会図書館デジタルコレクションでインターネット公開(保護期間満了)されています
『憲法志料』 5篇 巻7(卅六) 築山築地ノ上ニ於テ祇園会其外自然ノ見物制禁
  ※国立国会図書館デジタルコレクションでインターネット公開(保護期間満了)されています
『山口市史』(山口市 昭和8年)(【復刻版】山口市 マツノ書店 1992年刊)
『山口市史 史料編 大内文化』(山口市 平成22年3月)
  P938〜944「大内氏遺跡築山跡」
『大内氏時代山口古図』(山口県文書館蔵)
『地下上申絵図』(山口県文書館蔵 1728)
『行程記』(山口県文書館蔵 1742)
『幕末山口市街図』(山口県文書館蔵)
『防長旧族の館趾古城趾の研究』(御薗生翁甫/著 1962(昭和37))
『防長古城趾の研究』(新防長叢書)(御薗生翁甫/著 マツノ書店 1975)
  P19〜25「大内氏館址・築山館址」


【次回に続く】
凌雲寺跡第10次発掘調査現地説明会 [2021年06月20日(Sun)]
7月3日(土)、凌雲寺跡第10次発掘調査現地説明会が開催されますぴかぴか(新しい)
※7月2日に「中止」と発表されました。

186B97C5-9BB5-46AD-AA25-A5A04A00811C.jpeg凌雲寺跡 
IMG_7264.JPG第9次調査現地説明会

市では、5月から凌雲寺跡の発掘調査を行っています。
凌雲寺跡は大内義興(よしおき)が創建したと伝えられ、昭和34(1959)年に国の史跡に指定されています。
今回の調査地点は史跡指定地の中央部で、令和元〜2年度に見つかった建物や塀の可能性がある構造物の追加調査を行っています。
当日は、調査担当者が現場の状況や出土した土器・瓦などについて説明します。
なお、現地は天候によっては足下が悪くなりますので、汚れてもよい靴でお越しください。


るんるん日 時るんるん 2021年7月3日(土)10:00〜11:30
      (小雨決行、荒天の場合は翌4日(日)に順延)    
るんるん場 所るんるん 大内氏遺跡凌雲寺跡(山口市中尾)
るんるん駐車場るんるん 凌雲寺跡見学者駐車場もしくは臨時駐車場@(中尾公民館前)、臨時駐車場A
    ※現地へは駐車場から徒歩で7分かかりますので、歩きやすい靴で

凌雲寺跡臨時駐車場.PNG現地説明会会場案内図

るんるん料 金るんるん 無料
るんるん申 込るんるん 不要
るんるん問合先るんるん 山口市教育委員会 文化財保護課 埋蔵文化財担当 電話 083-920-4111
るんるん主 催るんるん 山口市教育委員会 文化財保護課 埋蔵文化財担当
       〒753-0073 山口市春日町5−1

かわいい説明会当日は、マスク着用・消毒・検温にご協力ください。

凌雲寺跡についてはこちらに記事を書いています。
 凌雲寺跡 @ 中尾の文化財さんぽB  大内義興墓 不動院金堂 × 凌雲寺仏殿
9次発掘調査現地説明会についてはこちらに記事を書いています。
 凌雲寺跡第9次調査現地説明会に参加しました@ A B


現地案内板には以下のようにあります。

国指定 史跡
  大内氏遺跡・凌雲寺跡
   昭和三十四年十一月二十七日指定
 凌雲寺は、大内氏三十代義興を開基、了庵桂悟が開山として永正四年頃(一五〇七)この地に創建されたと伝えれています。廃寺の年月は不明ですが、おそら大内氏滅亡後、いつの時代かに廃されたものと思われます。
 寺は舌状をなして南に延びる台地状に営まれたもので、注目すべきは台地の南端を東西に横切る長い石垣です。これはこの寺の惣門の遺構と伝えられ、長さは約六十メートル、高さ三メートル、幅二メートル余りあります。
 巨岩をもって築かれた豪壮な石垣であり、寺の位置、地形等から考え、有事に備えての城郭の役を兼ねたものと思われます。
 指定区域内には凌雲寺開山塔、大内義興及びその婦人の墓と称する石塔三基が残っています。
築山神社 [2021年06月19日(Sat)]
山口市上竪小路にある築山神社は、
BA49AA49-119B-4140-83F2-6E72B4269B0E.jpeg2020年4月8日撮影 
IMG_2115 (2).JPG2020年7月13日撮影 
IMG_7370.JPG2018年7月15日撮影 

築山跡にあり、
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▲「史跡大内氏遺跡築山跡」の碑

八坂神社の隣にあります。
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▲現地案内板「築山跡平面図」
 
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▲八坂神社

築山跡や八坂神社についての現地説明板はあっても、
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残念なことに、現地に築山神社の案内板はありません。
本殿が2017(平成29)年8月22日に山口市指定文化財 〜 建造物 〜」に指定され、拝殿が2020(令和2)年10月1日に追加指定されました。

築山神社のある築山跡の築山館の往時の居館の位置、規模を示す遺構として、現在はわずかに北西隅の西面および北面にL字型に土塁築地跡が遺っています。
竪小路から築地跡と築山神社を撮影してみました。
9F410C4D-28AE-4753-AA77-E8BC43CEF655.jpeg2020年4月16日撮影


築山神社は、1605(慶長10)年に毛利輝元が上宇野令村(現山口市)の多賀神社旧地の境内にて大内義隆や諸公卿諸士28人(1551(天文20)年の大内氏滅亡時に殉じた配下)などの霊を祀った「宝現霊社」がはじめと伝えられています。
宝現霊社は、その後、同村龍福寺境内に遷されましたが、
1828(⽂政11)年に片岡に遷りました。1832(天保3)年6月、新築正遷の式を行いました。その当時、伊勢小路を挟んで向かいに多賀社があったことが、「幕末山口市街図」(1865(慶応元)年〜1868(明治元)年頃)(山口ふるさと伝承総合センター 古地図シリーズC )で分かります。
1869(明治2)年、氷上山興隆寺境内から八坂神社そばに移転した東照宮社殿を、1870(明治3)年12月に本殿として、築山神社と改称し、徳川家康、市川少輔七郎等が合祀されました。

主祭神は大内義隆、配祀は大内義尊(よしたか)(大内義隆の嫡子)以下、天文20年の大内氏滅亡時に殉じた諸公卿諸士28人(二条尹房・三条公頼・二条良豊・持明院基規・冷泉隆豊・黒川隆像・岡部隆量・天野隆良・大田隆通・小幡義実・岡屋隆秀・高橋右延・陶隆康・杉興運・貫隆仲・相良武任・松原隆則・官務伊治・岡崎氏久・東儀兼康・園広忠・岡昌歳)、相殿に大内氏代々の霊・徳川家康・市川元教を祀りました。


天花にある雲谷庵には、宝現霊社拝殿の柱が使われています。
雲谷庵は、明治時代の初めに取り壊され跡地は畑になっていましたが、1884(明治17)年に郷土史家の近藤清石が中心となって有志と図り、大内時代の古材を集めて一宇を再建しました揺れるハート
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氷上東照宮(興隆寺東照宮)は、藩政期に、毛利氏により、大内氏の氏寺である氷上山興隆寺の境内に勧請されました。
築山神社の本殿、拝殿はともに、興隆寺の境内に東照宮の社殿として建てられたもので、明治初期に移築したものです。

創祀の年代は明らかではありませんが、興隆寺真光院の御霊殿に日光門主天真法親王筆の御神号を安置したのに始まる、と伝えられています。
興隆寺は周防国では唯一の天台宗の寺で、それだけに宗派では力を入れてその護持に努めました。形の上では毛利氏が奉斎しましが、東照宮を勧請した主体は興隆寺であったと、大内氏遺跡指定60周年記念バスツアー2019で伊藤幸司先生や真木隆行先生が話されていました。
社殿は1742(寛保2)年に建立され、宝殿・釣屋・拝殿のほかに、中門・随身門・鳥居・総門・御供所・番所・宝庫などがあり、かなりの規模であったことが古図(バスツアー配付資料)で分かります。

本坊(真光院)のあった跡には、1888(明治21)年、県立山口農学校が建設されました。1890(明治23)年に開校式が行われ、1910(明治43)年に小郡へ移転しました。
「農学校の跡」の碑が建てられています。
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古図によると、池があって、橋が架かっていてその向こうに氷上山東照宮がありました。
池の名残はあります。
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氷上山東照宮の跡は今はゴルフパター練習場になっています。
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築山神社の本殿は総檜造りで桁行(けたゆき)三間、梁間(はりま)二間、入母屋造、拝殿は桁行三間、梁間二間、入母屋造、向拝一間、向唐破風造です。

46E75DF2-53C3-4258-8205-4C3BF8EE2F52.jpeg2020年3月26日撮影

建物の細部意匠等には18世紀中期の特徴が見られ、入母屋造の本殿は県下でも例が少なく、拝殿にはかつて接続していた釣屋の痕跡があり、釣屋の存在を後世に伝えています。

現存する社殿は、素木造りで、参道の入り口には葵紋の付いた石灯籠と鳥居があるそうで(まだ、確認していませんちっ(怒った顔)、いずれも社殿とともに移築されたものと考えられるそうです。 
 
IMG_2112 (2).JPG2020年7月13日撮影

本殿の千木(ちぎ)が落ちていますがく〜(落胆した顔)
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賽銭箱には大内菱が描かれています。
IMG_7371.JPG2018年7月15日撮影


「宝現霊社」についてはこちらに記事を書いています。
 大内氏館(16)龍福寺V宝現霊社 @ 大内氏遺跡指定60周年記念バスツアー2019㉛
「八坂神社」についてはこちらに記事を書いています。
 八坂神社 @ 山口祇園祭@

 参考文献:
『山口市史 各説篇』(山口市編纂委員会/編 山口市 昭和46年)P356「築山神社」
「築山神社本殿・拝殿」修復現場見学会 [2021年06月18日(Fri)]
6月26日(土)、山口市指定文化財「築山神社本殿・拝殿」修復現場見学会が開催されますぴかぴか(新しい)

IMG_7370.JPG2018年7月15日撮影 
46E75DF2-53C3-4258-8205-4C3BF8EE2F52.jpeg2020年3月26日撮影 
IMG_2112 (2).JPG2020年7月13日撮影

令和元年度から3年度まで、市指定文化財「築山神社本殿・拝殿」の保存修理工事を行っています。
現在、本殿は小屋組の補強工事中、拝殿は銅板葺き中です。
見学会では銅板葺きの珍しい修復現場を、解説付きでご覧いただけます。


るんるん日 時るんるん 2021年6月26日(土) 2回実施
       (1)10:00〜10:50
       (2)11:00〜11:50 
るんるん場 所るんるん 築山神社(山口市上竪小路101番地)       
るんるん定 員るんるん 各回先着30名(小学3年生以下保護者同伴)
るんるん持ってくる品等るんるん 歩きやすい靴・動きやすい服装     
るんるん申 込るんるん 6月17日(木)より電話・FAX・メールにて、氏名・電話番号・参加希望の時間を明記  
るんるん問合・申込先るんるん 山口市教育委員会 文化財保護課 
       電話 083-920-4111 fax to 083-920-4112
       mail to bunkazai@city.yamaguchi.lg.jp
るんるんその他るんるん  
・駐車場は、八坂神社前観光駐車場、河村写真館斜め前の駐車場整備予定地
   数に限りがあり、できるだけ乗り合わせのこと
・安全のため、見学中はヘルメットを着用
・マスク着用、手指の消毒、検温への協力
・新型コロナウイルス感染症の拡大状況により、急遽中止の可能性あり
るんるん主 催るんるん 山口市教育委員会 文化財保護課 文化財保護担当
       〒753-0073 山口市春日町5−1

築山神社修復現場見学会.PNG 築山神社修復現場見学会 報道資料.PNG 築山神社修復現場見学会 写真.PNG

▼『サンデー山口』2021年6月15日号
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凌雲寺跡第9次調査現地説明会に参加しましたB [2021年06月17日(Thu)]
前回の続き

今回の調査地点は史跡指定地の中央部で、調査の結果、礎石建物跡や石列、石敷き、礎石列などが確認されています。


T195で、礎石建物跡が確認されています。
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礎石建物跡は、石列と礎石からなる外側部分(庇(ひさし)?)と、石列と石敷きからなる内側部分(身舎(もや)?)により構成されています。
外側部分は3間×3間(柱間は1.83m前後)、内側部分は2間×3間(柱間はそれぞれ1.98m前後、1.32m前後)で、全体としては1辺5.5m程度の小規模な建物です。

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T196で、石列石敷き礎石列などが確認されています。
IMG_7265.JPG北から撮影  2DA9B05F-F62A-4883-BBFB-97E3210302BE.jpeg南西から撮影

石列は使用している石材の大きさと位置関係から、北石列、中央石列、南石列の3つに分けることができます。
北石列は、北辺と西辺から構成されるL字形の石列で、この内側に石敷きがああります。
南石列は、大きな石材を用いて、北側に面が揃うように配置されています。
また、これらの石列の南側では、扁平な石材が2.27m〜2.50mの間隔で東西に並んでいるのが確認されており、建物や塀のなどの礎石ではないかと推測され、現時点で5間分が確認されています。

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TR196以南において瓦や塼が集中して出土しました。
後世に棚田を造成する際に動かされ、元の位置を保っていませんが、遠くまで運ばれることが少ないため、建物の位置を推定するヒントになります。
つまり、TR196以南に瓦や塼を用いた建物や塀などが存在する可能性があります。


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凌雲寺跡第9次調査現地説明会に参加しましたA [2021年06月16日(Wed)]
前回の続き

さらに階段遺構を北へ進んだ地中からは、土器や陶磁器、そしてさまざまな種類の瓦や塼(せん)と呼ばれる敷瓦が特に数多く出土しています。

今までの調査で出土した遺物も展示してあり、詳しく説明してくださいましたわーい(嬉しい顔)

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遺物の大半を占めるのは、戦国時代のです。

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大内氏の家紋「大内菱」と思われる紋様が入った軒平瓦も見つかっていて、大内氏ゆかりの遺跡であったことをうかがいしることができます。

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「大内菱」が入った軒平瓦を間近で観ることができ感激しました揺れるハート
これまで家紋入りの瓦の使用例の最古として確認されているのは1500年代後半の豊臣政権時代だそうです。1500年代初頭の創建といわれる凌雲寺で出土したのが家紋入り瓦となると、家紋入り瓦の成立の時期が半世紀遡る可能性もあります。

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塼とは、禅宗建築の床に、斜め格子状に敷き詰められる平らな瓦です。

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山口市内では、洞春寺 観音堂で見ることができます。
1430(永享2)年、大内持盛を開基とする滝の観音寺の仏殿として創建され、大正4年に洞春寺境内に移されたものです。

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出土した塼には、履物で擦ったような一定方向の跡もありましたひらめき

それらの塼をはじめ、軒平瓦・軒丸瓦・丸瓦などさまざまな瓦の種類の組み合わせなどから、そこにかつて本瓦葺(ほんがわらぶき)の屋根を持つ、塼敷禅宗建築があった可能性が浮かび上がってきたそうです。


土器の年代は16世紀始めから中頃を中心とし、義興や義隆が活躍した戦国時代と考えられています。
京都系土師器皿とよばれる土器が多いのが特徴的です。
京都系土師器皿は、ロクロを使わずに手で作ったもので、全体に丸く厚手で赤味がかっています。 大内氏が京都から持ち込んだものと考えられ、16世紀義隆の頃には好んで京都風の手づくねの土師器皿を使っていました。わざわざ職人を京都から招きよせ、土器作りにあたらせたようです。
(当ブログの「大内氏館(9)土師器皿」で取り上げました。)

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陶磁器類は、中国や朝鮮から輸入されたもの、備前産の擂鉢などが見つかっています。

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ここには、茶壺と思われるものが展示されていました。釉薬のかかった壺の口から肩にかけての部分のかけらです。

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【次回に続く】
凌雲寺跡第9次調査現地説明会に参加しました@ [2021年06月15日(Tue)]
3月20日(土)、凌雲寺跡第9次発掘調査現地説明会に参加しましたぴかぴか(新しい)

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国道435号を秋芳方面に向かって行き、赤田神社を過ぎ、防長バス「中尾口」バス停で右折し、ひたすら北に向かって進んで行くと駐車場があります。案内看板も各所に立っていて迷うことはありませんが、道は途中からかなり狭くなっています。

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凌雲寺は吉敷川上流の東ノ浴川と西ノ浴川に挟まれた、丸ヶ岳から南に舌状をなして延びる台地(舌状台地)先端部を利用して南面して構築されています。
背後には東鳳翩山がそびえ、東方には鋤尖山がそばだっています。

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凌雲寺は1507(永正4)年頃大内義興開基了庵桂悟開山禅宗寺院と伝えられ、また、義興の戒名「凌雲寺殿傑叟義秀」により、義興菩提寺といわれています。

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説明会では、吉村さんが今までの調査結果を併せて説明してくださりとても分かりやすかったです。

2007(平成19)年9月、奈良文化財研究所と共同で地中レーダー探査を実施し、2009(平成21)年度から発掘調査が行われ、これまでに8回にわたる調査を実施されています。調査では階段状遺跡や石垣などが確認され、出土した遺物からは16世紀初頭から中頃のものが多いこと、禅宗寺院の可能性があること、瓦葺きの建物が想定されることなど多くの成果を得ることができたそうです。

惣門跡のところに移動して説明を受けました。

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総門跡の石壁の中央開口部周辺から多くの瓦が見つかり、そこに瓦葺きの門があった可能性が浮かんできました。

また、その開口部を北へ進んだ地中からは、8段と推定される石積みの階段遺構が発見され、門から階段を上り、寺の中心部へ向かうようになっていたことが見えてきました。
階段の幅が4mであったことも判明しました。

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この中央開口部は、他の禅宗寺院から推定して、勅使門と考えられ、真っ直ぐ参道が伸びていたと推定されるそうです。

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惣門跡の石壁のほかにも、石垣が数多く残っていることもわかりました。段上の石組を設けた石垣もあり、寺の中心部へと向かう階段遺構と考えられています。

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こちらの石垣は、明らかに上部と下部では石の大きさが違い、水田とするために積み増した可能性が指摘されています。

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次回に続く
乳幼児と本との出会いをしかける 〜おはなし会の実践と保護者へのアプローチ〜 @ 第1回子どもと本をつなぐスキルアップ講座 [2021年06月14日(Mon)]
6月26日(土)、山口県立山口図書館で、第1回子どもと本をつなぐスキルアップ講座「乳幼児と本との出会いをしかける 〜おはなし会の実践と保護者へのアプローチ〜」が開催されますぴかぴか(新しい)

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公共図書館、幼稚園、保育園等で子どもの読書に関わる活動をしているボランティアや職員を対象とした、子どもと本を結びつけるための知識・技術を学ぶ講座を開催します。絵本や児童書に関する知識や本を子どもに手渡す技術を学び、地域での活動に活かしていきましょう。

るんるん日 時るんるん 2021年6月26日(土)14:00〜15:45(受付:13:30〜)
るんるん会 場るんるん 山口県立山口図書館 レクチャールーム
るんるん内 容るんるん 講義「乳幼児と本との出会いをしかける 〜おはなし会の実践と保護者へのアプローチ〜」
るんるん講 師るんるん 林由紀子(はやしゆきこ) (光市立図書館 業務係長)
るんるん対 象るんるん 県内子ども読書ボランティア、公共図書館職員、幼稚園教諭、保育士等
るんるん定 員るんるん 60名(要申込・先着順)
るんるん参加費るんるん 無料
るんるん申込方法るんるん 電話、FAX、Eメールで、氏名・所属・電話番号を御連絡ください。
るんるん申込締切るんるん 2021年6月23日(水)
るんるん申込・問合先るんるん 山口県子ども読書支援センター(山口県立山口図書館内)
      〒753-0083 山口市後河原150-1
      電話 083-924-2111   fax to 083-932-2817
      mail to a50401@pref.yamaguchi.lg.jp
るんるん主 催るんるん 山口県子ども読書支援センター(山口県立山口図書館内)


かわいい講師プロフィールかわいい
平成2年4月より現在に至るまで光市立図書館に図書館司書として勤務。勤務当初より同館の児童サービスに携わり、特に、乳幼児のためのおはなし会の実施など同館における乳幼児サービス構築の実績がある。平成30年10月に保育士資格を取得。ボランティア団体である「わらべうたの会ひかり」の代表も務める。

     
かわいいその他かわいい
当講座では、新型コロナウィルス感染拡大防止のため、以下の措置をとりますので御協力をお願いします。
会場では、消毒液の設置、ソーシャルディスタンスへの配慮等、新型コロナウイルス感染症拡大防止対策などを取ります。
参加者はマスク着用をお願いします。会場内では咳エチケットにも御協力ください。また、入場前後のこまめな手洗いや手指の消毒をお願いします。
当日は、参加者は各自で体温測定をし、咳、喉の痛み、発熱(37.5度以上)等風邪症状のある方は、御参加をお控えください。また当日、受付で検温を行います。
新型コロナウイルス感染症拡大防止の観点から、内容の変更や中止となる場合があります。中止の場合は、参加者に速やかに連絡します。
野口哲哉展―this is not a samurai @ 山口県立美術館A [2021年06月13日(Sun)]
前回の続き

楽しみにしていた「野口哲哉展―this is not a samurai 」トークイベント「野口哲哉、自作を語る」Vol.2(5月16日(日))、新型コロナ禍のため中止になってしまいましたがく〜(落胆した顔)ちっ(怒った顔)もうやだ〜(悲しい顔)

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がっかりしていたところに、山口県立美術館より野口哲哉さんのメッセージとともに、山口県立美術館をモチーフに描き下ろした絵(プリントアウトしたもの)、
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展覧会オリジナルグッズの小クリアファイル、
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オリジナルポストカードが送られて来ましたわーい(嬉しい顔)
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「クラムジー・ハート」のポストカードには、愛用の絵の具で一つひとつハート黒ハートを塗り入れ、
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サインされたそうです。参加予定だった50人だけのためにexclamation×2
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コロナ禍が長引き、様々な影響が出ています。明るいニュースが縁遠くなって久しいですが、逆風に負けずに、アートや文化を楽しむことを理想に願いながら、一つ一つハートを描き入れました。

野口さんのお話を直接聞くことはできませんでしたが、野口さんのアートや文化への光るハートは、しっかり届きました。

「野口哲哉展―this is not a samurai」は今日6月13日までです。
なぜ飛ぶの? なぜ渡るの? 身近な鳥の不思議 @ 鉢の子科学講座 [2021年06月12日(Sat)]
7月17日(土)、山口市立小郡図書館で、鉢の子科学講座「なぜ飛ぶの? なぜ渡るの? 身近な鳥の不思議」が開催されますぴかぴか(新しい)

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今年はきらら浜自然観察公園のレンジャーをお招きし鳥のお話を聞きましょう。
お天気が良ければ、図書館の外に出て野外観察もやりますよ。


るんるん日 時るんるん 2021年7月17日(土)10:00〜11:30
るんるん場 所るんるん 山口市立小郡図書館 2階
るんるん講 師るんるん 寺本明広(きらら浜自然観察公園レンジャー)
るんるん内 容るんるん 座学(鳥の生態クイズなど)+ 図書館周辺で野鳥観察
       ※悪天候の場合は、座学のみ
るんるん定 員るんるん 小学生20名程度
るんるん持参物るんるん 飲み物と帽子
るんるん申込方法るんるん 山口市立小郡図書館カウンター または 電話で申し込み
るんるん申込・問合先るんるん 山口市立小郡図書館友の会鉢の子(中原)phone to 090-7978-1132
       山口市立小郡図書館 電話 083-973-0098
るんるん主 催るんるん 山口市立小郡図書館友の会鉢の子
るんるん共 催るんるん 山口市立小郡図書館(山口市教育委員会)

※新型コロナウイルス感染拡大状況によっては、内容の変更・中止となる場合があります。
※マスクの着用、入館時の手指消毒をお願いします。
※発熱やかぜの症状のある方は来館をご遠慮ください。
大内義隆主催の和歌会の短冊 @ 手鑑『仮御手鑑』 [2021年06月11日(Fri)]
6月13日(日)まで、山口県立山口図書館 ふるさと山口文学ギャラリーで「山口県新指定文化財 小展示 〜手鑑『仮御手鑑』と大内文化〜」が開催され、

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『仮御手鑑』が公開されていますぴかぴか(新しい)
 
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山口県立山口図書館が所蔵する『仮御手鑑』が、2021年4月9日に新たに山口県指定有形文化財(書跡)に指定されました。

手鑑とは、古筆の断簡を貼り込んだ折本装丁のスクラップブックのことで、歴史上の人物などの筆跡を手軽に鑑賞できることから、安土桃山時代以降、江戸期にかけて盛んに作成されました。

『仮御手鑑』は、大型(44cm×38cm)の折本仕立て(両面折帖装)の手鑑で、短冊163点色紙4点古筆切7点やまと絵を伴う色紙12点の計186点が納められています。

そのなかには、室町時代に大内義隆(1507〜1551)が開催した和歌会短冊45点が含まれています。
主催者の大内義隆作の和歌短冊もあり、小槻伊治(おづきのこれはる)(1496〜1551)が代筆しています。小槻伊治は、朝廷の公文書の管理を司る「官務」の任にありましたが、1532(享禄5)年に山口に下向し、1551(天文20)年に亡くなるまで義隆に庇護されていました。義隆の継室であるおさいの方の父親、義隆の嫡男である義尊の祖父です。

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義隆公 小槻官務伊治代筆
 社頭霞
  春の色は今そみかさの山高ミ
   かけてかすめる峰の松原  義隆


その他は、「周防山口連歌師」、「大内殿内連歌師」、義隆の家臣や、支配下にある神職者達が詠んだ和歌です。製作年次は不明ですが、一連の打曇(うちぐもり)料紙を裁断して用いられ、後世の写しではなく、義隆当時のものであり、貴重な資料です。
なお、「打曇」とは、料紙の加飾技法で、紙の上下の端に雲がたなびくように染めた繊維を漉きかけたものです。

室町時代に連歌師の宗祇(1421〜1502)が大内氏の本拠地である山口を1480(文明12)年と1489(延徳元)年に2度訪れて以来、山口では連歌が大変盛んになりました。
「周防山口連歌師」「大内殿内連歌師」が37名あり、義隆時代の連歌の隆盛を伝えるという意味でも大変貴重なものです。

短冊163点のうち、104点(大内氏関連の短冊45点を含む)は、古歌の写しではなく、室町時代から江戸時代初期にかけてのオリジナルの歌や句だそうです。

手鑑の各短冊・古筆の右角には「琴山」の黒印を押した極札(きわめふだ)が添えられています。「琴山」は江戸時代の古筆鑑定家が使用した極印ですが、詳細は不明です。

紺色厚表紙で、折帖自体には題箋はついていません。

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『仮御手鑑』に所収された古筆類の目録である「仮御手鑑入記御根帳」(かりおてかがみいれきのおねちょう)と記した別冊も付随していて、「仮御手鑑入記御根帳 一冊」を付(つけたり)指定されました。
「仮御手鑑入記御根帳」は
@極札(鑑定書)の有無
A極札が判定した古筆の筆者
B「口ノ字」(古筆の書き出し、冒頭部分)
について記した台帳です。
表紙には「安永二年巳十二月」(1773年)とも記されています。

『仮御手鑑』は「仮御手鑑」と記した包紙に包まれ

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「仮御手鑑 一折」と記した桐箱に収められています。

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山口県新指定文化財 小展示 〜手鑑『仮御手鑑』と大内文化〜
るんるん期間るんるん 2021年5月29日(金)〜6月13日(日) ※山口図書館の開館日、開館時間
るんるん場所るんるん 山口県立山口図書館 2F ふるさと山口文学ギャラリー  



※『仮御手鑑』は、山口県立山口図書館所蔵資料で、「WEB版明治維新資料室」で画像(著作権保護期間満了)が公開されています。

参考文献:
「山口図書館本『仮御手鑑』について」(田村哲夫)(『山口県文書館研究紀要』第4号 (1975))
「仮御手鑑」(『山口市史 史料編大内文化』(山口市/編集発行 2010))第4編 文芸 第一章 和歌 7 義隆とその周辺 (4) P444〜448)
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