築山大明神T @ 築山跡F
[2021年06月30日(Wed)]
【前回の続き】
築山大明神とはなんでしょうか
築山跡の地に屋敷がおかれたのは、大内教弘が家督を政弘に譲った後に別々の居所を構えてから、教弘が亡くなるまでの間で、その後は、政弘が父・教弘を祀った築山大明神の祠が設けられたものとみられています。
政弘の家集である『拾塵和歌集』の巻九に、
文明十八年八月亡父に贈三位の (三字分空白) 宣旨(せんじ)・同位記などを送給しを 築山の廟にてよみ奉(たてまつ)るとて
花の咲おりもある世を朽はつる身ぞと思ひし椎柴の陰
おなじ時よみ侍ける
くもりなく位の山の月影を今夜や苔の下に見る覧
巻十にも
同じ(文明19年)四月三日亡父に大明神号の宣旨を下され侍りければ 築山の廟に奉納し侍とて
勅なれば光ことなるつき山のあきらけき神ぞいともかしこき
と「築山の廟」とあります。
宣旨ですから、朝廷から教弘に築山大明神の号が贈られたということです
『寛政重修諸家譜』「多々良氏系図」の「教弘」のところに
長亨(享)元年四月三日筑(築)山明神と崇む
『系図纂要』「多多良朝臣姓大内」の「教弘」のところにも
長享元年四ノ三宣築山明神
とあります。
『山口市史 通史編』(山口市 1955)にも、
寛正五年翺之恵鳳は教弘のために「大内氏亭下飛松の記」を作つている。後に築山館の西北隅に築山祠が建てられ、教弘を奉祀した。今の築山神社の地に相当している。文明十九年(長享元年)四月三日、後土御門天皇は築山祠に築山大明神の宣旨を賜つた。教弘の子政弘はこれを築山祠に奉告するとともに、次の如き和歌を詠じた。
勅なれば光ことなるつき山の
あきらけき神ぞいともかしこき
とあります。
『大内氏實録』(近藤清石/著 中元壮作、宮川臣吉 1885)巻第八「世家第八 教弘」にも、
また一社を創立して其(教弘の)霊を祀る。(社伝)後年社号築山大明神たるべき宣旨を賜ふ。(社伝)長享元年四月三日とす。
とあります。
(※文明19年7月20日に長享に改元したので、「長享元年」ではなく「文明十九年」が正確)
ところが、築山大明神の成立には別の説もあります

『大内氏實録』(近藤清石/著 中元壮作、宮川臣吉 1885)巻第八「世家第八 教弘」に、
大友家が大内を襲う、茲に因り、教弘卿の遺言が有り、甲胃、太刀・弓箭(や)・槍等の武器を揃え、築山御所に埋め、永しく大内家の守護と為し、築山大明神と号し、春秋に祭典を行い、時弘綱蒙が祭祀の職に蒙(こうむ)る。
(書き下し文に変えました)
とあり、教弘の遺言で築山館の敷地内に甲冑や武器を埋め、大内家の守護として「築山大明神」を祀ったというものです。
また、別の説もあります


『大内氏史研究』(御薗生翁甫/著 山口県地方史学会 1959)には、
教弘(略)築山館を大内氏衙(が)門の北続きに構築した。八坂・築山両社の境内外付属地に亘る。築山ありしによって名とした。廓内に築山大明神を建て、また闢雲院を創めた。剃髪して教弘法師といった。
とあり、教弘が築山館の敷地内に築山大明神を建てたというものです。
さらに、こんな説もあります



『山口市史 通史編』(山口市 1955)に、
教弘は兵部卿師成親王と歌道で師弟関係があり、交情極めて密なるものがあつた。それで築山大明神は表面、教弘の霊を祀ると称したが、実は教弘が生前、師成親王を祀つたとの説もある。
とあり、
『大内氏實録』(近藤清石/著 中元壮作、宮川臣吉 1885)巻第八「世家第八 教弘」には、
故人高橋延実は、実は兵部卿師成親王(が)法泉寺にて薨(こう)じたまへるも、教弘卿(は)築山館内に小社を創建し、其御霊を祀られたる社を、政弘卿が父の遺言にて宏壮に造替せられるしなり。されど当時は足利氏への聞を憚り、武器を埋めた等々と声高に唱へしなりとの云ひ伝ありとかたりき。
とあり、法泉寺で亡くなった師成親王を祀るために、教弘が築山館内に小さな社を建てたというものです。政弘が父の遺言に従って宏壮に造り替えたといいます。
(高橋家は山口の多賀社の大宮司の家系です。多賀社は、大内氏によって勧請されたと伝える山口五社の一つで、もとは宇野令にありましたが、現在は山口大神宮の境内地に遷座しています。高橋右延は大寧寺で大内義隆に殉じています。その息子 言延(ことのぶ)は毛利輝元の求めに応じて『大内様御家根本記』を著わしました。有文の代には、大内氏の故事、逸文、ならびに山口を中心とする文書記録を集め、文庫を形成しました。)
証なきことながら、李花集奥書に、此本先師兵部卿師成親王、出家号竺源恵梵(じくげんえぼん)也。教弘相伝之、時享徳改元仲冬日、多々良朝臣とあれば、その事なしともいひがたし。猶よく考ふべし。
師成親王(1361(正平16/康安元)〜?)は、後村上天皇の第五皇子で、南朝の親王で、出家して臨済宗仏光派に属し、竺源恵梵と号しました。
1399(応永6)年10月大内義弘が足利幕府軍と戦った「応永の乱」では、義弘と共に堺で戦いました。12月義弘は堺で討死し、翌1400(応永7)年2月山口に逃れ、法泉寺に入り、同寺に住した後、伊勢南陽寺に住し、後また、山口に帰り、薨去したといいます。
歌人としても優れていた師成親王は教弘の和歌の師となり、自分の叔父の宗良親王の遺した歌集『李花集』を自ら書写し、1452(享徳元)年に教弘(1420(応永27)〜1465(寛正6))が賜ったということが、『李花集』の奥書に書かれています。
此本書、先師兵部卿師成親王出家号恵梵筆跡也、教弘相伝之、
旹享徳改元仲冬廿日
多々良朝臣(大内教弘)印判
-thumbnail2.png)
▲『李花集 : 宗良親王御集』(宗良親王/著 紅玉堂書店/出版 昭和2)国立国会図書館蔵)
築山大明神址に立つと、北北西の方向に三角形の形の良い山が見えます。

この山こそ、政弘の墓と師成親王の墓がある山です。
大内政弘の墓
伝師成親王御廟
ここに立つと、訳あってこの場所に建てたと思えるのです。
築山大明神の成立について、ざっくとまとめてみます。
政弘が教弘の霊を祀った祠を設けた。文明19年(長享元年)4月3日、後土御門天皇より社号を築山大明神の宣旨を賜った。
教弘が築山館の敷地内に築山大明神を建てた。
教弘の遺言で、政弘が築山館の敷地内に甲冑や武器を埋め、大内家の守護として築山大明神を祀った。
法泉寺で亡くなった師成親王の霊を祀るために、教弘が築山館内に小さな社を建て、政弘が父の遺言に従って宏壮に造り替えた。
参考文献:
『山口市史 史料編 大内文化』(山口市 2010.3)
P412〜423『拾塵和歌集』
P13「多々良氏系図」「●教弘」
P52「多々良朝臣姓大内」「教弘」
P617〜8「新葉和歌集富岡本」
P618「李花集」
P938〜944「大内氏遺跡築山跡」
『山口市史 通史編』(山口市 1955)
P63〜64「築山祠に大明神の宣旨」
『大内氏實録』(近藤清石/著 中元壮作、宮川臣吉 1885)
巻第八「世家第八 教弘」
※国立国会図書館デジタルコレクションでインターネット公開(保護期間満了)されています
『大内氏史研究』(御薗生翁甫/著 山口県地方史学会 1959)
「師成親王と崇光院三ノ宮法泉寺方丈」
「伊予の動乱と大内教弘」
「大内氏歴代当主と山口D 28 大内教弘」(山口ふるさと伝承総合センター)
『李花集 : 宗良親王御集』(宗良親王/著 紅玉堂書店/出版 昭和2)
※国立国会図書館デジタルコレクションでインターネット公開(保護期間満了)されています
『山口市の石仏・石塔(2)大殿・白石・湯田』(山口の文化財を守る会/編 山口市教育委員会 2004)
P103「大殿の塔」No.92「大内政弘墓(五十鈴ダム東)」
No.93「伝師成親王御廟(五十鈴ダム東)」
【次回に続く】
築山大明神とはなんでしょうか

築山跡の地に屋敷がおかれたのは、大内教弘が家督を政弘に譲った後に別々の居所を構えてから、教弘が亡くなるまでの間で、その後は、政弘が父・教弘を祀った築山大明神の祠が設けられたものとみられています。
政弘の家集である『拾塵和歌集』の巻九に、
文明十八年八月亡父に贈三位の (三字分空白) 宣旨(せんじ)・同位記などを送給しを 築山の廟にてよみ奉(たてまつ)るとて
花の咲おりもある世を朽はつる身ぞと思ひし椎柴の陰
おなじ時よみ侍ける
くもりなく位の山の月影を今夜や苔の下に見る覧
巻十にも
同じ(文明19年)四月三日亡父に大明神号の宣旨を下され侍りければ 築山の廟に奉納し侍とて
勅なれば光ことなるつき山のあきらけき神ぞいともかしこき
と「築山の廟」とあります。
宣旨ですから、朝廷から教弘に築山大明神の号が贈られたということです

『寛政重修諸家譜』「多々良氏系図」の「教弘」のところに
長亨(享)元年四月三日筑(築)山明神と崇む
『系図纂要』「多多良朝臣姓大内」の「教弘」のところにも
長享元年四ノ三宣築山明神
とあります。
『山口市史 通史編』(山口市 1955)にも、
寛正五年翺之恵鳳は教弘のために「大内氏亭下飛松の記」を作つている。後に築山館の西北隅に築山祠が建てられ、教弘を奉祀した。今の築山神社の地に相当している。文明十九年(長享元年)四月三日、後土御門天皇は築山祠に築山大明神の宣旨を賜つた。教弘の子政弘はこれを築山祠に奉告するとともに、次の如き和歌を詠じた。
勅なれば光ことなるつき山の
あきらけき神ぞいともかしこき
とあります。
『大内氏實録』(近藤清石/著 中元壮作、宮川臣吉 1885)巻第八「世家第八 教弘」にも、
また一社を創立して其(教弘の)霊を祀る。(社伝)後年社号築山大明神たるべき宣旨を賜ふ。(社伝)長享元年四月三日とす。
とあります。
(※文明19年7月20日に長享に改元したので、「長享元年」ではなく「文明十九年」が正確)
ところが、築山大明神の成立には別の説もあります


『大内氏實録』(近藤清石/著 中元壮作、宮川臣吉 1885)巻第八「世家第八 教弘」に、
大友家が大内を襲う、茲に因り、教弘卿の遺言が有り、甲胃、太刀・弓箭(や)・槍等の武器を揃え、築山御所に埋め、永しく大内家の守護と為し、築山大明神と号し、春秋に祭典を行い、時弘綱蒙が祭祀の職に蒙(こうむ)る。
(書き下し文に変えました)
とあり、教弘の遺言で築山館の敷地内に甲冑や武器を埋め、大内家の守護として「築山大明神」を祀ったというものです。
また、別の説もあります



『大内氏史研究』(御薗生翁甫/著 山口県地方史学会 1959)には、
教弘(略)築山館を大内氏衙(が)門の北続きに構築した。八坂・築山両社の境内外付属地に亘る。築山ありしによって名とした。廓内に築山大明神を建て、また闢雲院を創めた。剃髪して教弘法師といった。
とあり、教弘が築山館の敷地内に築山大明神を建てたというものです。
さらに、こんな説もあります




『山口市史 通史編』(山口市 1955)に、
教弘は兵部卿師成親王と歌道で師弟関係があり、交情極めて密なるものがあつた。それで築山大明神は表面、教弘の霊を祀ると称したが、実は教弘が生前、師成親王を祀つたとの説もある。
とあり、
『大内氏實録』(近藤清石/著 中元壮作、宮川臣吉 1885)巻第八「世家第八 教弘」には、
故人高橋延実は、実は兵部卿師成親王(が)法泉寺にて薨(こう)じたまへるも、教弘卿(は)築山館内に小社を創建し、其御霊を祀られたる社を、政弘卿が父の遺言にて宏壮に造替せられるしなり。されど当時は足利氏への聞を憚り、武器を埋めた等々と声高に唱へしなりとの云ひ伝ありとかたりき。
とあり、法泉寺で亡くなった師成親王を祀るために、教弘が築山館内に小さな社を建てたというものです。政弘が父の遺言に従って宏壮に造り替えたといいます。
(高橋家は山口の多賀社の大宮司の家系です。多賀社は、大内氏によって勧請されたと伝える山口五社の一つで、もとは宇野令にありましたが、現在は山口大神宮の境内地に遷座しています。高橋右延は大寧寺で大内義隆に殉じています。その息子 言延(ことのぶ)は毛利輝元の求めに応じて『大内様御家根本記』を著わしました。有文の代には、大内氏の故事、逸文、ならびに山口を中心とする文書記録を集め、文庫を形成しました。)
証なきことながら、李花集奥書に、此本先師兵部卿師成親王、出家号竺源恵梵(じくげんえぼん)也。教弘相伝之、時享徳改元仲冬日、多々良朝臣とあれば、その事なしともいひがたし。猶よく考ふべし。
師成親王(1361(正平16/康安元)〜?)は、後村上天皇の第五皇子で、南朝の親王で、出家して臨済宗仏光派に属し、竺源恵梵と号しました。
1399(応永6)年10月大内義弘が足利幕府軍と戦った「応永の乱」では、義弘と共に堺で戦いました。12月義弘は堺で討死し、翌1400(応永7)年2月山口に逃れ、法泉寺に入り、同寺に住した後、伊勢南陽寺に住し、後また、山口に帰り、薨去したといいます。
歌人としても優れていた師成親王は教弘の和歌の師となり、自分の叔父の宗良親王の遺した歌集『李花集』を自ら書写し、1452(享徳元)年に教弘(1420(応永27)〜1465(寛正6))が賜ったということが、『李花集』の奥書に書かれています。
此本書、先師兵部卿師成親王出家号恵梵筆跡也、教弘相伝之、
旹享徳改元仲冬廿日
多々良朝臣(大内教弘)印判
-thumbnail2.png)
▲『李花集 : 宗良親王御集』(宗良親王/著 紅玉堂書店/出版 昭和2)国立国会図書館蔵)
築山大明神址に立つと、北北西の方向に三角形の形の良い山が見えます。



この山こそ、政弘の墓と師成親王の墓がある山です。


ここに立つと、訳あってこの場所に建てたと思えるのです。
築山大明神の成立について、ざっくとまとめてみます。




参考文献:
『山口市史 史料編 大内文化』(山口市 2010.3)
P412〜423『拾塵和歌集』
P13「多々良氏系図」「●教弘」
P52「多々良朝臣姓大内」「教弘」
P617〜8「新葉和歌集富岡本」
P618「李花集」
P938〜944「大内氏遺跡築山跡」
『山口市史 通史編』(山口市 1955)
P63〜64「築山祠に大明神の宣旨」
『大内氏實録』(近藤清石/著 中元壮作、宮川臣吉 1885)
巻第八「世家第八 教弘」
※国立国会図書館デジタルコレクションでインターネット公開(保護期間満了)されています
『大内氏史研究』(御薗生翁甫/著 山口県地方史学会 1959)
「師成親王と崇光院三ノ宮法泉寺方丈」
「伊予の動乱と大内教弘」
「大内氏歴代当主と山口D 28 大内教弘」(山口ふるさと伝承総合センター)
『李花集 : 宗良親王御集』(宗良親王/著 紅玉堂書店/出版 昭和2)
※国立国会図書館デジタルコレクションでインターネット公開(保護期間満了)されています
『山口市の石仏・石塔(2)大殿・白石・湯田』(山口の文化財を守る会/編 山口市教育委員会 2004)
P103「大殿の塔」No.92「大内政弘墓(五十鈴ダム東)」
No.93「伝師成親王御廟(五十鈴ダム東)」
【次回に続く】