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こどもと本ジョイントネット21・山口


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山門・木造金剛力士像 @ 清水寺に行きましたB [2020年06月10日(Wed)]
【前回の続き】

清水寺ぴかぴか(新しい)
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寺号石碑。
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「清水寺」説明板。(設置者:山口市教育委員会)
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ここは山号を花瀧ろう山と称し、千手観音菩薩を本尊とする真言宗の寺です。
縁起によると、平城天皇の御代(八〇六〜八〇九)の創建と伝えられ、建久六年(一一九五)の国府文書には清水寺のことが記されているので、すでに鎌倉時代には創建されていたことがわかります。
このことにより、山口盆地の寺の多くが大内氏全盛の室町時代以降の創建であることを考えると、清水寺は山口盆地で最も古い寺といえます。
なお境内には、山口県指定文化財が三件あります。
一、清水寺観音堂 昭和四二・一・一七指定
二、清水寺山王社本殿 昭和四一・六・一〇指定
三、木造金剛力士像 昭和五六・三・二四指定


「清水寺(下恋路)」説明板。(設置者:みやの地域づくり協議会 文化・伝統部会)
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寺の創建は、寺伝によると大同元年(806年)といわれ、千手観音菩薩を本尊とする真言宗の寺院で、山号を「花瀧山」といい、山口盆地最古の寺院と伝えられています。趙秩の「山口十境詩」の一つに「清水晩鐘」が詠じられて名高い。山門に安置されている「阿形・吽形」の仁王像は南北朝時代の傑作です。境内では10〜11月頃、ツワブキの花とイロハカエデの紅葉が楽しめます。

山門。
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瓦には毛利の家紋。
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山号額。
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蟇股にも毛利の家紋がありました。

山門(仁王門)には一木造りの金剛力士像(仁王像)が安置されています。
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「木造金剛力士像」説明板。(設置者:山口市教育委員会、設置年:平成18年8月)
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山口県指定有形文化財
木造金剛力士像
昭和五十六年三月二十四日指定
この金剛力士(仁王)像は、今から約六百年前の南北朝時代に製作された県下でも数少ない仁王像の傑作である。
山門に向かって右に口の開いた阿形あぎょう、左に口を閉じた吽形うんぎょうが安置され、ともに榧かや材の一木造りで、堅一材から掘り出し、内刳うちくりはなく、眼は玉眼である。
像高は、阿形一九二・〇センチメートル、吽形一九二・五センチメートルである。阿形は昭和五十七年度、吽形は昭和五十八年度にそれぞれ解体修理が行われた。
金剛力士像は、偉大な力をもつ金剛杵を手にし、左右にならんで寺門の入口を守る像で、上半身裸体で、頭髪は鬘かずらを結び、金剛杵をふりあげた忿怒の相を示している。


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眼は水晶を入れた玉眼(ぎょくがん)です。
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阿形は、口を開いて、右手は斜めに下にさげて力み、左手は上にあげ独鈷(どっこ)を持っています。
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吽形は、口を閉じ、右手を肘から前に曲げ、手の平を前にして五指を開き、左手は下方にさげて拳を作っています。
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清水寺に仁王様が安置されているのを知ったのは、中学生1年生の時です。担任のY先生に教えてもらい、友人のNさんと二人で自転車で行きました。白石から宮野まで子ども達だけ行くのはちょっとした小旅行で、赤い曼珠沙華が縁取った黄金色の稲穂の田圃道を走り、やっとのことでたどり着きました。その時見た仁王様のお姿やお顔を今でも鮮明に覚えています。


【次回に続く】
コウホネ @ 清水寺に行きましたA [2020年06月09日(Tue)]
【前回の続き】

6月7日付読売新聞山口県版に「コウホネ」の記事がありました。
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清水寺の山門の傍に
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池があり、
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目を引く鮮やかな黄色の可憐な花が咲いています。
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コウホネの花ですぴかぴか(新しい)
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コウホネ(学名 Nuphar japonicum )は、スイレン科の水生植物で、浅い池や沼に自生しています。
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漢字で書くと、可憐な花とは裏腹な「河骨」です。
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新聞記事にあるように

水底に横たわる太く白い根茎が白骨のように見えるのが名の由来とされる。

というのが定説です。

日本最古の本草書『本草和名』上冊第18巻には「骨蓬」として出ています。
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▲『本草和名』上冊第18巻「骨蓬」(国立国会図書館蔵)

崔禹錫の『食経』よりの引用として「骨蓬」という名を引き、その和訓として「加波保祢」を当てています。


『本草図譜』第4冊 巻34水草類2には「萍蓬草」という名前で出ています。
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「萍蓬草(へいほうそう)」の萍は「うきくさ」のことで、池や沼の水面に浮かんで生える水草の総称です。

萍蓬草へいほうさう  骨蓬こつほう 和名鈔  川骨せんこつ 和方書  かはほね
 たいこのぶち 葉の形をいふ  カバト 蝦夷  子イムパ 羅甸(ラテン)
 ポロムペンウアトルリーン 荷蘭(オランダ)
池澤の水中に生す。根の形、獣骨の如くにして水底にあり。葉は水上に抽ぬきんて、花は五弁にて黄色、形、金絲桃きんしとう びようやなきに似て、蘂短し。実は尖うて山梔子さんしし くちなしに似て長し。又流水深き処にあるものは、葉、水上に出す(いでず)水藻の如し。又昆布の如し。花は水上に出て開く。


確かに根は骨のように見えなくもありません・・・・・・。
本草図譜 第4冊 巻34水草類2 コウホネA 32-7 (2).png 本草図譜 第4冊 巻34水草類2 コウホネA 32-7 (3).png
▲『本草図譜』第4冊 巻34水草類2「萍蓬草」

コウホネの一種として、ヒメコウホネ、ベニコウホネ、タイワンコウホネを紹介しています。
本草図譜 第4冊 巻34水草類2 コウホネB 32-8 (2).png 本草図譜 第4冊 巻34水草類2 コウホネB 32-8 (3).png 
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▲『本草図譜』第4冊 巻34水草類2「萍蓬草」一種

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『梅園草木花譜夏之部』一「萍蓬草」

小ぶなとる わらべは去りて 門川の
河骨の花に 目高群れつつ  
  正岡子規



清水寺の池にはフナをとる子どもなどいませんが、山からの清流で池の水は澄んでいると思われます。
山門をくぐってすぐ行ったところに石仏が三体あり、その傍で山水を汲めるようになっています。
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参考文献:
『本草和名』(深江輔仁/著 918)
『本草図譜』(岩崎常正(潅園)/著)
『梅園草木花譜夏之部』(毛氏江元寿梅園直脚<毛利梅園>/書画并撰著)
  ※いずれも、国立国会図書館のデジタルコレクションでインターネット公開されています。


【次回に続く】
清水晩鐘 @ 清水寺に行きました@ [2020年06月08日(Mon)]
山口市宮野下恋路の清水寺参道の苔生した長い階段を登り切って、
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左に行けば観音堂、その先の階段をもう少し上がれば山王社というところに
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山口十境詩「清水の晩鐘」詩碑はありますぴかぴか(新しい)
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「清水の晩鐘」詩碑。
地元産の変成岩だそうです。
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清水晩鐘
暮雲疎雨欲消魂
獨立西風半掩門
大内峯頭C水寺
鐘聲驚客幾黄昏


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清水せいすいの晩鐘ばんしょう
暮雲ぼうん疎雨そう、魂たましいえんと欲ほっ
ひとり西風せいふうに立てば、半なかば門もんを掩ざす
大内おおうち峰頭ほうとう、清水寺せいすいじ
鐘声しょうせい、客かくを驚おどろかすこと幾黄昏いくこうこん


晩鐘…暮れの鐘。入相 (いりあい) の鐘。
暮雲…夕暮れの雲。
疎雨…まばらに降る雨。
消魂…驚きや悲しみのあまり、気力を失うこと。
西風…寂しい秋の風。秋風。
大内峰頭…大内から宮野へ続く山並みの山頂。
客……旅人。ここでは趙秩自身のことをです。
黄昏…日の暮れかかること。夕暮れ。たそがれ。

夕暮れの雲を眺め、まばらに降る雨音に聞き入ると、魂が消え入りそうで胸がいっぱいになる。
一人居ると、折からの吹く一陣の秋風が門扉を半ば閉じたり動かす。
大内から宮野に連なる山並みの頂上に建つ清水寺、
夕暮れの鐘の音は、旅人に故郷への思いをかきたたてる。

「清水寺由来」説明板。
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山号を花滝山と呼ぶ清水寺は、寺伝によると大同元年(806)に創建された山口盆地最古の寺院という歴史を持つが、室町時代に至ると塔宇の痛みが著しく、応永年間(1410年の頃)に大内氏25代盛見によって復興造営された。以後江戸時代にも数度にわたる修理により現在に至っている。なお山門には南北朝時代に制作されたという県文化財指定の金剛力士像2体が安置されている。
 山号にふさわしく四季各々の自然美と共に山口の歴史を折り込み、明国の使者をして山口十境のひとつに選ばしめた古刹である。


趙秩が山口を訪れたとき、香積寺(瑠璃光寺)の五重塔や国清寺(洞春寺)などの社寺はまだありませんでしたが、ここ清水寺はありました。
平城天皇の御代(806〜809)の創建と伝えられ、1195(建久6)年の国府文書には清水寺のことが記されているので、(現地案内板による)、その当時すでに古刹でした。


「清水の晩鐘」碑への途中に鐘楼があります。
そこだけは視界が開けていて、鳳翩山の峰頭が見えました揺れるハート
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山門横にも趙秩の「清水晩鐘」の石碑がありますぴかぴか(新しい)
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説明板。
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清水晩鐘
この詩は、「和寇」という海賊を取り締ってもうらうために明国から来た使者で、趙可庸、号を秩(趙秩)という人の作詩です。1370年3月・1373年10月の間に大内氏を頼って山口に滞在中に詠んだ山口十境詩の中の一つです。

暮の雲 雨まばらに
魂を消さんと欲す
独り西風に立てば
半ば門を掩う
大内の峯頭 清水寺
晩鐘客を驚かす 黄昏幾し
  上田敏夫 奉納



「うえだとしお」というので2019年4月17日から7月28日まで、中原中也記念館で開催されていた企画展「沸騰する精神 ― 詩人・上田敏雄」を思い出しました。
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でも、字が違うんですよね。「上田敏夫」となっていますものね。

上田敏雄(1900〜82)は、防府市大道出身で旧制山口中学校卒業後、1925(大正14)年慶応義塾大に在学中に詩壇に登場しました。1928(昭和3)年、弟の保、北園克衛と、日本初のシュルレアリスム宣言を発表し、1929(昭和4)年に詩集『仮説の運動』を刊行し、大きな反響を呼びました。
フランス語を学ぶために1931(昭和6)年に入学した東京外国語学校では中也と同級生の間柄で、中也は詩集『山羊の歌』を上田に贈呈しています。
昭和6年11月16日の安原善弘宛中原中也書簡には、

今晩は生暖い風が吹きます。
可なり強い風です。
上田敏雄と遊んでゐます。


とあります。
上田は、その後中断を経て、昭和20年代に詩の発表を再開し、81歳で亡くなるまで新作を発表し続けました。
1945年、郷里の山口に妻子と共に疎開し、山口経済専門学校(現:山口大学経済学部)の英語講師に就任し、1951年、山口大学文理学部の英語助教授に就任し、1962年の退官後、宇部工業高等専門学校教授に就任し、教育者としても活躍しています。
その企画展は、本邦初公開のスクラップブックなどの展示もあり、展示品の数々はアバンギャルドな詩人の魂に直に触れたようで、とても刺激的なものでした。(なぜ、ブログで紹介しなかったんだろう? 自分でも不思議です。)


ここまで書いて、よくよく碑文を見ると、
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平成三年八月吉日 上田敏夫

と入っていました! 
1980(昭和57)年に亡くなった詩人の上田敏雄が、1991(平成3)年に奉納できるわけないですね。
早とちりでしたふらふら お騒がせしました。

因みに最初に紹介した碑は2008年5月に立てられました。


【次回に続く】
親子で簡単! 前髪ちょっきん講座 @ まちじゅう図書館講座 [2020年06月07日(Sun)]
山口市立中央図書館で、7月11日(土)、まちじゅう図書館講座「親子で簡単! 前髪ちょっきん講座」が開催されますぴかぴか(新しい)

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ヘアーサロンLoLoの鈴川勇希さんを講師に迎え、お子さんの髪の毛を上手にカットする方法の講座を開催します。ハサミの選び方から、カットのコツまで、実技を交えながら、楽しくお話しいただきます。

るんるん日 時るんるん 2020年7月11日(土)
       1回目:11:00〜 2回目:14:00〜 3回目:15:00〜
       ※1時間程度を予定 
るんるん場 所るんるん 山口市立中央図書館 交流スペース
るんるん定 員るんるん 各回3組ずつ(要事前申込・先着順)
       1組あたり、こども(小6以下)2名まででお願いします。
るんるん参加費るんるん 無料
るんるん申込先るんるん 山口市立中央図書館 電話 083-901-1040
るんるん主 催るんるん 山口市立中央図書館

かわいいヘアーサロンLoLoは、まちじゅう図書館 サテライトライブラリー設置店です。
異なる器具によるコーヒーの飲み比べ講座 @ まちじゅう図書館講座 [2020年06月06日(Sat)]
山口市立中央図書館で、7月4日(土)、COFFEE BOY 山口店さんによるまちじゅう図書館コーヒー講座「異なる器具によるコーヒーの飲み比べ講座」が開催されますぴかぴか(新しい)

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ハンドドリップ、フレンチプレス、エアロプレスなどの器具の使い方について学びながら、異なる器具でいれたコーヒーの味がどのように違うのか、飲み比べの体験をしていただきます。

るんるん日 時るんるん 2020年7月4日(土) 1回目:13:30〜 2回目:15:00〜
       ※1時間程度を予定しています 
るんるん場 所るんるん 山口市立中央図書館 交流スペース
るんるん講 師るんるん COFFEE BOY 山口店 スタッフ
るんるん定 員るんるん 各回10名 (要事前申込・先着順)
るんるん材料費るんるん 500円
るんるん申込先るんるん 山口市立中央図書館  電話083-901-1040
るんるん主 催るんるん 山口市立中央図書館

かわいいCOFFEE BOY 山口店は、まちじゅう図書館 サテライトライブラリー設置店です。
お花の2wayアクセと髪飾り @ まちじゅう図書館講座 [2020年06月05日(Fri)]
山口市立中央図書館で、6月20日(土)、まちじゅう図書館講座「お花の2wayアクセと髪飾り」が開催されますぴかぴか(新しい)

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まちじゅう図書館は、気軽に読書に親しめるように、まちなかの人が集まる場所に「サテライトライブラリー」を設置して、新たな発見や学びの場を創出する取り組みです。

まちじゅう図書館講座は、サテライトライブラリーを設置しているお店の方が講師となって、それぞれのお店のノウハウや専門性を生かした、中央図書館で開催するワークショップやセミナーです。

今回は、フラワーショップ花陰さんを講師に、ドライフラワーを使用して、ネックレスやブローチになるアクセサリーと髪飾りをつくるワークショップが行われます。

るんるん日 時るんるん 2020年6月20日(土)14:00〜 ※1時間程度の予定
るんるん場 所るんるん 山口市立中央図書館 交流スペース
るんるん講 師るんるん フラワーショップ花陰スタッフ
るんるん定 員るんるん 20名(要事前申込・先着順)
るんるん材料費るんるん 800円
るんるん持参品るんるん ピンセットとグルーガンをお持ちの方は持参
るんるん申込先るんるん 山口市立中央図書館 電話 083-901-1040
るんるん主 催るんるん 山口市立中央図書館
雲谷庵に行きましたA [2020年06月04日(Thu)]
【前回の続き】

雲谷庵は、明治時代の初めに取り壊され跡地は畑になっていましたが、1884(明治17)年に郷土史家の近藤清石が中心となって有志と図り、再建しましたぴかぴか(新しい)
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その際、大内時代の古材を集めて一宇を再建したそうです揺れるハート
 
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『雲谷菴誌』(近藤清石/著 1884(明治17).9/編集 1884(明治17).12/出版)(山口県文書館蔵 吉田樟堂文庫))を手がかりに一つずつ見ていきましょう。

かわいい仁平寺楼門の柱
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仁平寺については、「仁平寺跡に行きました」で紹介しましたが、『大内飯器』(近藤清石/著 1912(明治45))(山口県文書館蔵 近藤清石文庫)に

仁平寺ハ仁平年中ノ創建にて。年号を以て寺号にせりという旧刹にて。

とあるように仁平年間(1151〜54)に創建したといわれる寺です。現在別の場所に建つ仁平寺の案内板に

仁平寺は明治初年(一八六八)頃には全く荒廃して、僅かに観音堂のみ残り明治三年(一八七〇)十月一八日には小鯖村禅昌寺にひきとられた。

とあることから、近藤清石らが雲谷庵を再建した1884(明治17)年には仁平寺の塔宇はなかったはずです。
では、この柱はどこにあったのでしょうか。『大内飯器』に

寺のもの多く氷上山に伝はたりバ。蓋(けだし)楼門も仁平寺よりうつせるならん。

とあり、興隆寺に移築した仁平寺の楼門の柱を持って来たのでしょうか?
『雲谷菴誌』に次のようにありました。

楼門柱及び楼上窓扇。仁平寺廃後移氷上山。明治十五年頽破。本菴太柱及茶室戸是也。

AC1B7E8E-41FE-4034-A56C-25F9CAE8DD6D.jpeg現在の興隆寺中興堂(釈迦堂)


かわいい旧観音寺の窓
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観音寺は「洞春寺A観音堂 @ 香山公園G」で書いたことがあります。
5E842B02-CA78-441F-BB70-EF1F1D9A5AC0.jpeg滝の観音寺仏殿 
5A352E37-6A04-417A-861F-AB73D2A7801A.jpeg滝の観音寺仏殿花頭窓

1430(永享2)年大内持盛を開基とする滝の観音寺(後に勝音寺と改まり、さらに江戸時代になって、大通院と改まりました)の仏殿は、大正4年に洞春寺の境内に移築されました。


かわいい高嶺宮(山口大神宮)の蟇股
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かわいい興隆寺の僧房の扉
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かわいい大内氏別宅の菊水紋
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かわいい宝現霊社拝殿の柱
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宝現霊社については「大内氏館(16)龍福寺V宝現霊社」で触れました。
77276F48-0FDE-4513-9165-BDA6C6911F16.jpeg現在の宝現霊社


かわいい小野為八が描いた龍
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長州藩の砲術師範だった小野為八(1829(文政12)〜1907(明治40))は、等魁という画号を持つ雲谷派の絵師でもありました。
維新後写真家としても活躍し、小野為八の撮った萩城の写真は有名です。
1875(明治8)年山口に写真館を開いたといわれていました。
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だだ、今では明治20年前後に旧士族の松原繁が写真館として建築したと考えられ、その後現在の河村写真館に変わったというのが定説のようです。


かわいい板戸の絵。
この板戸のことはどこから持って来たのでしょうか?『雲谷菴誌』には載っていませんが・・・・・・。
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玄関のたたきは敷瓦になっていていました。
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庵敷地内には、一段高くなったところがあり、そこからは塀の上から瑠璃光寺五重塔が眺められます。
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五重塔がきれいに見えました!
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雪舟はここ雲谷庵の軒端に香積寺の五重塔を望みながら絵筆をふるっていたといいます。
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手水鉢。
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池。
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引き込み水路。
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今年は雪舟の生誕600年です。
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茅葺屋根の一部を新調したそうで、明らかに屋根の色が違います。
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『サンデー山口』第7213号 2020年3月7日「【やまぐち深発見紀行】No.183「大殿・『雲谷庵跡』改修工事経て再公開」


雲谷庵を出て、少し北を行くと祠がありました。
太師堂で山口八十八ヶ所の「第八十七番」です。
弘法大師像(30cm 丸彫坐像)が祀ってあります。
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参考文献:
『山口市の石仏・石塔(2)―大殿・白石・湯田―』(山口の文化財を守る会/編 山口市教育委員会 2004)
  P62「大殿の諸佛」No.28
雲谷庵に行きました@ [2020年06月03日(Wed)]
山口市天花、七尾山の南麓にある雲谷庵に行きましたぴかぴか(新しい)
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「雲谷庵」説明板。
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 ここは、室町時代の画聖雪舟のアトリエ「雲谷庵」の跡です。
 雪舟は、一四二〇年に備中の赤浜(現在の岡山県総社市)の生まれで、若くして僧籍に入り、後に京都にでて、禅を学ぶかたわら絵を学んだ。雪舟は四〇才頃にはすでに第一流の画家として名声も高く、さらに大きい希望をもって絵を勉強するために当時中国、朝鮮から新しい文化が入ってきていた山口に住むようになりました。
 その後、応仁元年(一四六七)に遣明船に乗って中国に渡り三年間中国に滞在しました。日本に帰った後も山口に住みアトリエ「天開図画楼(てんかいとがろう)」を開いて画禅一致の生活をしました。
 雪舟六七才の時生涯最大の力作国宝「四季山水図」も此処で描いたものです。
 雪舟の没年や場所には諸説がありますが、永正三年(1506)八七才の時この雲谷庵で没したといわれています。
 雪舟死後庵は荒廃しましたが、大内氏の跡をついだ毛利氏が雪舟画脈の廃絶を惜しみ雲谷宗家にこの地を与えましたが、明治になって廃絶しました。そこで郷土史家の近藤清石(こんどうきよし)が中心となって有志と図り、明治一七年(一八八四)に大内時代の古材を集めて一宇を再建しました。現在の庵がそれです。


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扉を開けて、中に入ってみましょう。
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猫が入るので扉を閉めてください、と注意書きがあります。
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靴を脱いぐようになっています。
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上がってみましょう。
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パネル「この庵のこと」。
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パネル「雪舟とその作品」。
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まず奥の部屋から。
板張りの間に、炉が切ってあります。
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自在鉤が掛っていますが、『雲谷菴誌』に「自在鉤」のことが出てきます。
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床。
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軸の絵は、常栄寺にある「絹本墨画淡彩雪舟等楊像」からとったと思われます。雪舟の自画像を雲谷等益が模写したものです。
大徳寺の玉舟宗璠(1600〜68)の讃があり、山口県指定文化財になっています。
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花頭窓。
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扉の板絵がすばらしかったです。
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もう一間は畳の部屋になっていました。
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ここも花頭窓があります。
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連子窓があり、
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五重塔が見えるかと目を凝らしましたが、ご近所の屋根が邪魔して見えませんでした。
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「四季山水図巻」が掛けてありました。
雪舟67歳の時の作です。
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文明十八年嘉平日天童前第一座雪舟叟東楊六十有七歳筆受

の款記があります。文明18(1486)年は、興隆寺が勅願寺になった年(木造扁額「氷上山」裏面(興隆寺蔵))でもあり、また、政弘の長子 亀童丸(義興)の妙見上宮社参(「多々良亀童丸氷上山妙見上宮社参目録」(文明一八年二月一三日)(興隆寺文書)という、大内氏にとって重要な年でした。これを記念して、雪舟は大パトロンの政弘に献呈したものと考えられます。

説明板「雪舟の足跡」(外に掲示)。
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事績の表にある国宝「破墨山水図」(雪舟/筆 雪舟/自序 月翁周鏡・蘭坡景茞・天隠龍沢・正宗龍統・了庵桂悟・景徐周麟/賛 1495(明応4) 国立東京博物館蔵)は、雪舟が76歳の時、自分の許を去る弟子の如水宗淵に描いて与えたものです。
雪舟の長文の自賛は貴重です。
雪舟 破墨山水図@ (2).jpg 雪舟 破墨山水図A (2).jpg 雪舟 破墨山水図 (2).jpg


なお、雲谷庵跡は山口市指定文化財です。

雲谷庵跡は、画聖雪舟の旧居跡で天花七尾山の南麓にある。雪舟は、応永27年(1420)備中 赤浜に生まれ、12歳の頃生家に近い宝福寺に入って僧になったと伝えられている。その後、京都の相国寺に入り、禅とともに画技を学んだ。40歳前後に山口に来住し、寛正5年(1464)45 歳の頃 には、この地にあった雲谷庵に住んでいたといわれる。応永元年(1467)遣明船で中国に渡り、四明天童山で禅堂首座に列せられ、また彩色や破墨の画法を学び帰国した。帰国後も、雪舟は雲 谷庵に定住し作画活動と弟子の養成に努めたが、永正3年(1506)87歳のとき山口で没したといわれている。雪舟の死後、雲谷庵には弟子の周徳、次いで3世等薩がその画統をついだが、大内氏の滅亡とともに庵はいつしか荒廃してしまった。毛利輝元は、雪舟の画脈が絶えることを惜しみ、肥前の原治兵衛を召し出し、雲谷庵の地を与え、ここに居住させた。原は雲谷を姓とし、名を等顔と改め雪舟の画脈4世を称し、その子孫は代々毛利氏に仕えた。 明治の廃藩後、雲谷庵は無くなりその跡も忘れられるようになったので、有志等が図り、明治17年に古い社寺等の古材により庵を復興した。昭和57年に発掘調査が行われ、青磁片や瓦質土器片が見つかり、室町時代の遺構が存在する可能性が強まった。
山口市指定文化財概要 〜 史跡・史跡及び天然記念物 〜 史跡「雲谷庵跡」引用)


参考文献:
「破墨山水図」(雪舟/筆 雪舟/自序 月翁周鏡・蘭坡景茞・天隠龍沢・正宗龍統・了庵桂悟・景徐周麟/賛 1495(明応4))
  ※東京国立博物館「研究情報アーカイブズ」でインターネット公開されています。
『山口市史 史料編 大内文化』(山口市 2020)
  P801〜11「雪舟関係」
『大内氏の領国支配と宗教』(平瀬直樹/著 塙書房 2017)
『室町戦国日本の覇者 大内氏の世界をさぐる』(大内氏歴史文化研究会/編 勉誠出版 2019)
『雪舟への旅』(展覧会図録)(山口県立美術館 2006)



【次回に続く】  
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菅内の日吉神社に行きました [2020年06月02日(Tue)]
仁平寺への入口の西側に日吉神社がありますぴかぴか(新しい)
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日吉神社は、かつては山王社(日吉山王社)といい、仁平寺の鎮守として、仁平寺と同時期の1151(仁平元)年、大内氏家臣であった河野という人が創建しました。
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今八幡宮、古熊神社とともに、山口三社といわれているそうです。
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5CC17652-1F35-452F-B862-F32497AD8A60.jpeg古熊神社

鳥居。
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鳥居の傍に石塔。
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まっすぐ参道が伸びています。
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楼拝殿造の社殿が見えてきました。
「楼拝殿」は山口地方の特徴的な社殿です。
門の左右に翼廊を付し、楼門・翼廊ともに板床を張ったものです。
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狛犬。
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文政三庚辰」と入っていました。1820年です。
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「日吉神社」由緒書。
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所在  菅内三八七-三番地(字河内)
祭神  大己貴之命(オホナムチノミコト)(別名 大国主之命)
旧号  山王社
(略)
社殿  本殿一間社流れ造十三坪
    幣殿十三坪 拝殿十二坪二階ヤグラ而坪(略)
縁起  仁平元年(一一五一)大内家臣河野某京師比叡山より勧請建立されました。
社殿は山口三社と称せられ(今八幡宮、古熊天神、日吉神社)最も古き歴史を物語っています。(略)
 仁平寺の鎮守社とするとのことです。
 寛永六年(一六六六)秋、領主益田氏が再建しました。
 現在の社殿は、宝永元年(一七〇四)十二月二十三日に益田織部就高の造立です。
 楼門は延享二年(一七四五)の再建です。
 明治四年山王社をに日吉神社と改号しました。
 末社に河内社、人丸社、弁天社等があります。
(略)

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木鼻。
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蟇股(かえるまた)。
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賽銭箱にも大内菱があります。
今まで見た大内菱とちょっと感じが変わっています。
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本殿の蟇股は大内菱です。
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楼門上層の
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腰板に3つ大内菱があります。
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わかりますか?
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本殿。
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河内社。
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愛宕社。
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「愛宕社」説明板。
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御大典記念碑。
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人丸社。
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猿田彦大神と庚申塔。
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1352年、仁平寺の供養会に先だって、3月3日にここ仁平寺の鎮守山王社の社頭で法楽舞が行われたのですね。
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仁平寺日吉山王社の鰐口が問田の光厳寺に伝わり、山口市指定文化財になっています。

銘は表面の銘帯に陰刻され、左に「奉懸仁平寺日吉山王社鰐口」、右に「右志者為天長地久持信心法主恒受快楽之故如志」、中央下方に「応永廿五正月廿四日」とあり、応永 25 年(1418)に寄進されたことがわかる。
銘文にある仁平寺は、寺伝によれば仁平元年(1151)の創建で、年号を以て寺号としたという。この鰐口が掲げられた日吉山王社は仁平寺の鎮守で、仁平寺の創建と同時に近江国日枝の山から勧請したと伝えられている。

『山口市指定文化財概要 工芸品』「鰐口」(山口市文化財保護課)より抜粋)



参考文献:
『山口市史 史料編 大内文化』(山口市 2020)
  P981〜2「仁平寺跡」
仁平寺跡に行きました [2020年06月01日(Mon)]
山口市菅内の仁平寺跡に行きましたぴかぴか(新しい)

仁平寺は、寺号が示すように仁平年間(1151〜54)に創建したといいますが、開山も開基も不明です。
興隆寺文書の『周防国仁平寺本堂供養日記』(山口県文書館)によると、1352(正平7/観応3)年には、本堂の他大圓坊・常楽坊・十池坊(十地坊?)・蓮池坊・南陽坊・常行坊・大国坊・竹林坊・寳持坊・寳樹坊・妙光坊・報恩坊・東蔵坊などの塔頭や山王社があったことが分かり、
弘幸が本堂を修造し、その供養会が執り行われた様子が書かれています。
山口県文書館の『文書館レキシノオト ♪26 芸能の音@ 寺社の音あれこれ』にはその様子が詳しく書かれていて、供養会の盛大な音色が、聞こえてきそうです。
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▲『文書館レキシノオト ♪26』

また、『大内村史』(河野通毅/編 大内公民館 昭和33)に

地下上申によると大内弘世の時代に京師叡山を仁平寺に勧請して麓に八王字の森、仁王門、弁才天、丈六の地蔵、五重の塔を建立した

とあるそうです。(『サンデー山口』第7217号より引用)
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『サンデー山口』第7217号

大内氏隆盛時代は興隆寺、乗福寺とともに三大寺といわれていましたが、大内氏滅亡後は寺は次第に衰退し、天保年間の記録では、その頃より100年ばかり前には五重塔が朽ちながらも立っていたと記載されています。

「仁平寺跡(にんぺいじあと)」説明板。
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山号を菅内山といい、仁平元年(1151)の創建で、年号をもって寺号とした仁平寺の跡である。注進案によれば、当時は五重の塔があり、本堂にいたる道の左右には本坊、東蔵坊、蓮池坊等があったので、その地名があったという。このことは、本堂供養日記にもその記事があり、これによると、供養は舞楽舞踊が行われる等、頗る盛大であったことがうかがえる。また、五重の塔の礎石が残っていたといわれるが、溜池築造のため取り除かれてしまっている。


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建物  本堂、本坊、秀實坊、禅智坊、蓮池坊、塔頭、五重塔、観音堂、寺家、御風呂屋等があった。
 大内氏の盛時は七道伽藍皆揃っていた。(略)
創建  近衛天皇、鳥羽院政、関白藤原忠通の時代。宗派は天台宗であった。現在は曹洞宗。
縁起  仁平元年といえば多々良氏の名前が見えている位で、大内氏としては古い時代である。この多々良氏が後の大内氏の先祖であるといわれている。年号を持って寺号としたのである。
創建後二百年を経って大内弘幸(二三代)が本堂を修造し正平七年(一三五二)三月八日をもって供養会を修するに定め(、)三日鎮守山王社(現在の菅内日吉神社)に法楽舞を施行した。然し同月六日に弘幸が卒去したので嗣子弘世(二四代)は一七日延期してこれを続修した。が弘世は遠慮して臨席しなかった。このことは、本堂供養日記に出ている。大内時代の盛大であったことはこの供養日記で充分うかがえる。大内氏没落後諸堂は廃頽し、五重塔の礎石のみが残り、本堂のあとには小庵があるばかりで小鯖村の禅昌寺から番僧が来て守りをしていた。尚本堂の鰐口(山口市指定文化財・昭和五一・一二・二一指定)は光厳寺の条につるしてある。
 本堂五重塔については、注進案に次の如く載せられている。
  寺跡の南少し高き所に五重塔の礎在せり(名勝旧蹟図誌ニ歩許四方)土人云、ことし天保一三年(一八四二)より凡そ百年ばかりも前つかたまでは、五重塔朽ちながら立ゐしが、いつ倒れつるを、まのあたり見たりしと古老の語り伝へありとぞ
  其池より塔の朽木を拾ひとりて器財に造りたる人多しといへり。
 五重塔の礎石は溜池を築造するときとり除かれ十六箇ばかり一ケ所に集められている。心臓と思われていた石は溜池の中に残っていたがその溜池もいつしか水は枯れてしまった。その付近に仁平寺の歴住和尚の墓と思われる印塔が数基と開山と彫った一基の墓もある。
 (略)
 仁平寺は明治初年(一八六八)頃には全く荒廃して、僅かに観音堂のみ残り明治三年(一八七〇)十月一八日には小鯖村禅昌寺にひきとられた。
(略)


実際に歩いてみましょう。
こういう石積みを見ると萌えます。
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この道の先に本堂跡があります。
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進んでいくと、畦というか道なき道になってきました。
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石積みがありますが、段々畑のものなのか、遺構なのか?面白いです。
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ここが突き当たり。この辺りに本堂や五重塔があったはずです。
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向こうに見える山は氷上山ではないでしょうか。
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下の道まで下りると左手に日吉神社が見えます。
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日吉神社の参道から見ると、高台になっていて本堂があった場所がよくわかります。
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アップにすると、こんな感じ。
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今は山間部の田んぼにしか見えませんが、明らかに平らに開けています。
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あの石積みは、○○坊があったところと思われます。恐らく。
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1151年に、近衛天皇(このえてんのう)がたてたといわれています。仁平元年にできたので、仁平寺という名がついたということです。大内氏の力がある時には、興隆寺や乗福寺とともにりっぱなお寺でした。しかし、大内氏がほろんだあとは、観音堂(かんのうどう)だけとなり、明治3年には、小鯖(おさば)の禅昌寺(ぜんしょうじ)にひきとられました。そのため、はじめは天台宗(てんだいしゅう)でしたが曹洞宗(とうどうしゅう)にかわりました。その後、明治16年にたてられましたが、台風でたおれたり、またたてなおされたりしました。今の仁平寺は、およそ500メートルはなれた東がわの道路に新しくたてなおされています。そして、ここは、集会所としても地区の人に利用されています。
 このように、今はもうむかしのおもかげはありませんが、大内氏の時代にとてもりっぱだった興隆寺・乗福寺・仁平寺は、大内文化をささえた3大寺といわれています。

『郷土読本 ふるさと大内』 「<仁平寺>−管内− 曹洞宗」引用)


現在、約500メートル東に場所を移して曹洞宗・仁平寺があります。
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「仁平寺本堂供養日記」の説明板が立っているのですが、前に植えてある桜の木が邪魔で読めむことができません。これから新緑の時期になったら更に読むことができなくなりそうです。残念もうやだ〜(悲しい顔)
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1870(明治3)年、下小鯖の禅昌寺に現存するという観音堂はこちらでしょうか?
禅昌寺には「仁平寺」について触れた説明板はなかったもので・・・・・・。
他に観音堂はなかった気がします。
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また、仁平寺の楼門の柱は雲谷庵(山口市天花)を支える柱としてして使われているそうです。(『雲谷菴誌』(近藤清石/著 1884(明治17).9/編集 1884(明治17).12/出版)(山口県文書館蔵 吉田樟堂文庫)参照)
確認しに行きます!

さらに、興隆寺楼門に仁平寺の部材が転用されている可能性があるとされ、古い様式の大内菱が確認できるそうです。


第十図 余蔵氷上山興隆寺楼門古板
  竪壱尺弐寸四分
  横蔓股ヨリ三尺八寸四分

第十図は(墨消)真にから菱といふべき物なり。このから菱の紋ありあし楼門ハ天文年中陶尾張守隆房の建立と寺家にいひ伝へたるも。その時代より古き建築と見えたるが。往年寺家没落して破却したりける時に粗物なとに釘ありて、氷上山に新建せしものにあらず。他より引き移したること知られたり。さてハもといつこの楼門なりしか。氷上山ちかき字問多田に仁平寺という寺ありて。その寺のもの多く氷上山に伝はたりバ。蓋楼門も仁平寺よりうつせるならん。この仁平寺ハ仁平年中ノ創建にて。年号を以て寺号にせりという旧刹にて。大内氏十六世弘幸朝臣本堂を修理し。正平七年三月八日供養会をせんとて三日に試楽までせられたるに。六日に身まかられけれバ、其子弘世朝臣十五日に供養会を修せられた日記氷上山にあり。尋常の寺家ならざりしことハ。旧趾を見てもしらる。果たして十図の古板そのはじめ仁平寺のものなりせバ。大内氏の徽章これより古きハ伝はらじ。そハともかくも蔓ある菱なりけるを。後に蔓を省けるも其称ハ猶ふるき称のまゝを唱へしにこそ。

(『大内飯器』(近藤清石/著 1912(明治45))(山口県文書館蔵 近藤清石文庫)引用



参考文献:
『山口市史 史料編 大内文化』(山口市 2020)
  P981〜2「仁平寺跡」
  P880〜6「大内飯器」
『興隆寺文書を読む ―氏寺の文書から大内氏歴史を探る― その一』(岩崎俊彦/著 大内氏壁書(法令)研究会 2004.3)
  P20〜28「興隆寺文書 第六 仁平寺本堂供養日記」
  P28〜31参考資料『大内村史』「仁平寺」
『大内氏史研究』(御薗生翁甫/著 山口県地方史学会 1959)
  「周防守護の南北対立と弘世の統一」
『大内村史』(河野通毅/編 大内公民館 昭和33)
『サンデー山口』(2020.3.21)【やまぐち深発見紀行】
  No.185「大内・菅内にもあった大内文化伝える五重塔」
『郷土読本 ふるさと大内』(大内小学校/編集・発行 昭和60.12)  
  「<仁平寺>−管内− 曹洞宗」