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こどもと本ジョイントネット21・山口


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夏越大祓 @ 古熊神社に行きましたF [2020年06月30日(Tue)]
【前回の続き】

古熊神社では、6月30日16:00より夏越大祓がありますぴかぴか(新しい)

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▲『サンデー山口』第7244号(2020年6月27日)

大祓は、日常で犯した罪や心身のけがれを除き去ることを目的に6月と12月のみそか(30日)に行われる行事。6月の大祓を「夏越の大祓」と呼び、くぐることで心身を清め災厄を払うとされる「茅の輪」が設置される。山口市内の各神社では、6月28日と30日(火)に開催。主な実施内容や時間は次の通り。(略)
古熊神社(山口市古熊1)
 30日午後4時から。参列者はおはらいを受けた後、境内にある茅の輪をくぐり、日ごろの罪やけがれを清め、下半期も明るく元気に過ごせるよう祈る。「参列の際は間隔を空け、マスクの着用を」と同神社。
(『サンデー山口』第7244号(2020年6月27日)より)


茅の輪
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「夏越大祓 茅の輪くぐり」説明看板。
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茅の輪をくぐる時は『後拾遺和歌集』 (292 詠み人しらず )にある
拾遺和歌集 20巻 292 (2).png
『拾遺和歌集』00292(国立国会図書館蔵)

水無月(みなづき)の 夏越し(なこし)の祓(はらへ)する人は
    千歳の命 延ぶというなり


という歌を唱えながら左回り、右回り、左回りと8の字を書くように茅の輪を3度くぐりぬけるのが一般的です。
回るごとに「水無月の 夏越の祓 するひとは 千歳の命 延ぶというなり」「思ふ事 皆つきねとて 麻の葉を きりにきりても 祓へつるかな」「宮川の 清き流れに 禊せば 折れることの 叶わぬはなし」と唱える、
二十一代集 400巻 [8] 『後拾遺和歌集』和泉式部 (2).png
『二十一代集』(国立国会図書館蔵)

蘇民将来 蘇民将来」、「祓い給ひ 清め給へ 守り給へ 幸へ給へ」と唱えるなど、神社によっていろいろあるようです。

この神事は神話上の人物である蘇民将来(そみんしょうらい)がスサオノミコトから「もし疫病が流行したら茅の輪を腰につけよ」といわれ、その通りにしたら疫病から免れることが出来たという故事に由来すると伝えられています。


そういえば、神戸の高羽丹生神社で7月半ばに行われる「夏越祭」に行ったとき、茅で作った茅の輪をいただいたことがあったことを思い出しました。


「夏越大祓」の説明看板。
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夏越の花手水
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いつもはチェーンがかかっている場所も、草刈りをして臨時駐車場として準備されています。


茅の輪くぐりは山口大神宮でもあります。
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青々とした茅と白木の鳥居が印象的です。
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古熊神社に戻って・・・・・・。
ところで、放生池に詩碑があったのですが、説明もなく、字も立派すぎて誰の句か分かりませんでした。
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参考文献:
『拾遺和歌集』20巻
『二十一代集』400巻(吉田四郎右衛門尉 正保4)
  ※国立国会図書館デジタルコレクションでインターネット公開されています。
三森神社・眼力さま・放生池・芭蕉句碑 @ 古熊神社に行きましたE [2020年06月29日(Mon)]
【前回の続き】

社殿に向かって左手に行ってみましょう。
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古神牛
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放生池
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きれいな花が咲いています。
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瀧が造られています。
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水神様
二重燈籠。148cm。
放生池に流れ込む水の水神として祀られているそうです。
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道真歌碑
放生池の中には、道真が蟄居中に詠んだ歌の石碑が建てられています。
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 海
海ならずたたへる水の底までにきよき心は月ぞてらさむ
    御祭神 菅原道真公御詠

 
池に架かる石橋@。
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池に架かる石橋A。
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三森神社
元は市内惣太夫町(JR山口駅裏辺り)に鎮座していた三つの神社(大歳森社・深田森社)が、明治41年に境内に合祀されました。三つの森が合わさったため、三森神社と呼ばれています。
御祭神は 大歳神・高龗神・闇龗神・柿本神。
御祭神の内の一柱、柿本人麻呂の大神の御神徳より、身体健全・脱腸封じのためお参りされる方が多いそうです。
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眼力さま
眼の神さまが祀られています。
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古くはこの祠前に湧き水があり、それで目を洗うと視力が衰えない、とされていました。
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確かに水が湧いていたような痕跡があります。
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め阿らい水。
角柱。49cm。
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眼力薬師姫大神。
角柱。54cm。
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眼力大神。
角柱。48cm。
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芭蕉句碑
山口有数の桜の名所ということから、芭蕉の桜の句碑が建てられています。
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鸛の巣に嵐の外の桜かな

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猿林を求めて、山の方へ行ってみました。

猿田彦大神
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往古は市内札の辻にあり大市町内会の人々によって守護されていたものを神社境内に何かの理由(道路整備等?)により移鎮したものだそうです。
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石が組んであるところがあります。
庭だったのでしょうか。
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下を見ると、社殿が見えます。
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放生池が見えます。
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三森神社が見えます。
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林の奥の
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開けたところに紅雪碑がありました。
境内案内図では「紅霊碑」となっていますが、「紅雪碑」の間違いだと思います。
そのことについては後日また。
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参考文献:
『山口市の石仏・石塔(2)―大殿・白石・湯田―』(山口の文化を守る会/編 山口市教育委員会 2004)
  P110「大渡の庚申」No.4
  P125「大殿の神」No.8,No.9,No.10
  P141「大殿のその他」No.2
『山口市史 各説篇』(山口市史編纂委員会/編 山口市役所 昭和46.3)
  P316「祭神別神社一覧」「大歳社」



【次回に続く】
藤森稲荷社 @ 古熊神社に行きましたD [2020年06月28日(Sun)]
【前回の続き】

藤森稲荷社
元は市内相良小路に鎮座していた藤森さまと稲荷さまを、明治41年古熊神社境内に遷した神社です。
倉稲魂神・事代主神・住吉神が祀ってあります。五穀豊穣・商売繁盛の神さまです。
地元の有志により毎年春と秋に祭典を行う藤森稲荷講が古くからあり、現在講員は50名を超えます。
今年の春のお祭りは6月3日に行われました。

赤い鳥居の方をくぐって階段を上ってみましょう。
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狛狐。
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左像は宝珠(玉)、右は巻物を咥えています。
本来は巻物ではなく鍵のようですが、巻物は知恵を象徴しているといわれています。
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また、この狐像は左像が女性、右が男性と分かるように造られています。
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尻尾の形が面白いです。
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拝殿。
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賽銭箱。
消えかかっていますが、宝珠紋だと思います。
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神額「正一位稲荷神社」。
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他のところにあった藤森稲荷神社の看板。
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本殿。
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藤森稲荷社の裏山に石柱が9基ありました。
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庚申塔。
角柱。44cm。
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稲荷。
角柱。55cm。
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月代大神
 大正十一年十二月


稲荷。
角柱。45cm。
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豊武大神
豊丸大神
 三十四才女


稲荷6基。
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それそれ以下のように入っています。
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正一位□□稲荷大明神

藤森稲荷社からの景色はお薦めです。
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参考文献:
『山口市の石仏・石塔(2)―大殿・白石・湯田―』(山口の文化を守る会/編 山口市教育委員会 2004)
  P109「大歳の庚申」No.2
  P124「大殿の神」No.4,5



【次回に続く】
金刀比羅神社・水神さま・道真詩碑・黒城碑・若水碑 @ 古熊神社に行きましたC [2020年06月27日(Sat)]
【前回の続き】

社殿を正面に見て右手に行ってみましょう。
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何の祠でしょうか?
人形がたくさん入っていました。
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石碑。
本社前石段並道路改修事業に寄付された方々の名前が彫られていました。
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本社前石段並道路改修事業・・・・・・


道真詩碑
道真公が11歳の春の夕方、父より「月夜に梅花を見る」と題して詩作を命ぜられて初めて作った漢詩の詩碑です。
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  月夜見梅華  
月耀如晴雪 梅花似照星
可憐金鏡轉 庭上玉房香


「道真詩碑」説明板。
※説明板には『菅家文章』となっていますが、『菅家文草』の間違いです。
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『菅家文草』(全12巻)の巻頭を飾っています。
『菅家文草』とは、900(昌泰3)年、道真が醍醐天皇に献上した家集(漢詩文集)で、それまでの自己の作品を集めて時代順に配列してあります。
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『菅家文草』巻第一(国立国会図書館蔵)


古神馬
戦時中青銅製の神馬は供出され、代わりにこの石製の神馬が祀られていましたが、 新しい神馬が祀られたので、ここに置かれています。
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金刀比羅神社
御祭神は大歳神・大山祇神です。交通安全・海上安全の神さまです。
初代山口市長 八木宗十郎氏より懇願され、境内に鎮座されたそうです。
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木の傍に瓦。「梅紋」です。
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神庫
中には山口天神祭にて御祭神がお載りになる御網代車(おあじろぐるま)、備立行列にて使用される御弓や大内十文字槍などが納められています。
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鳥居
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天満宮」という神額がかかっています。
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水神さま
御祭神は罔象女神(みづはのめのかみ)です。水の神さまです。
市内を流れる一の坂川の源流近くにあった祠が、ある時下流の千歳橋(山口市早間田)まで流れ着き、千歳橋の近くで近所の人が長くお祀りしてきましたが、昭和40年代に現在地に遷されました。
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燈籠。
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明和元(1764)年申歳八月
竹部源左衛門景豊
再建立


以前は早間田町内在住の方が毎年7月最初に日曜日に集まり祭事を行っていました。現在も7月にお祭りが行われています。
『山口市の石仏・石塔(2)―大殿・白石・湯田―』(山口の文化を守る会/編 山口市教育委員会 2004)では、「河内様」となっています。
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水神さま手前の手水鉢。
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黒城碑
黒城とは岡村黒城(通称 圭三)のことです。
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『山口市史 各説篇』(山口市史編纂委員会/編 山口市役所 昭和46.3)に以下のようにあります。

岡村黒城(通称 圭三)
弘化三年(一八四六)二月八日近江国堅田浦北川氏の家に生まれ、後に木村家に入った。弱冠にして京都に出て折から滞留中の岡村簣斎に師事した。簣斎その慧悟を愛して養子とした。長州藩に来ては山口明倫館の教授、私塾敬止塾の経営をした。明治五年学制領布の時山口第一小学校長に任じ、後山口黒谷に黒城私塾を開いた。当時家塾中最も盛んであった。ほかに山口師範学校で書道の教授をした。晩年は詩と酒を愛し自適していたが、明治四十三年五月三十一日長崎で没した。行年六十五、墓は古熊天神境内にある。


また、P142に「黒城私塾」について次のようにあります。

明治十年以降になると(略)山口には特にこの家塾が多く存立した。
それらの中には、岡村圭三の黒城私塾、福永淑人の西鄙私塾、(略)の如く、高い教育理念を貫き、多数有為な人材を養成して、名声の高かったものも少なくなかった(略)


黒城私塾 主要学科:修・漢 所在地:今市町 創業年:明治一〇 学年:三 教員数:六 政党数:男九四 女五 設置者・塾主:岡村圭三

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若水碑
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白銀若水翁頌徳碑」と彫られています。
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第二代目山口市長である白銀市太郎の頌徳碑です。
白銀市太郎は、全国初の名誉市長で残した業績には見るべきものが多く、道路・水道・バス関係の他の事業に功績がありました。
『山口市史』(山口市史編集委員会/編 山口市 昭和57.12)のP474に

白銀は (略)多くの行政遺産を残した業績を永く後世に伝えるため、古熊神社境内に頌徳碑が建立された。

とあります。



参考文献:
『菅家文草』(菅原道真/著 野田藤八 1700(元禄13)跋)
  ※国立国会図書館のデジタルコレクションでインターネット公開されています。
『山口市の石仏・石塔(2)―大殿・白石・湯田―』(山口の文化を守る会/編 山口市教育委員会 2004)
  P123「大殿の神」No.3
『山口市史 各説篇』(山口市史編纂委員会/編 山口市役所 昭和46.3)
  P141〜144「家塾」
  P596「岡村黒城」
『山口市史』(山口市史編集委員会/編 山口市 昭和57.12)
  P469〜474「白銀市長の時代」
  P658〜660「家塾」


【次回に続く】
本殿 @ 古熊神社に行きましたB [2020年06月26日(Fri)]
【前回の続き】

本殿。 
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本殿の蟇股。
写真では上手く撮れていませんが、我が国最古の松竹梅の彫刻が施されています。
(古熊神社HPに写真があります。)

 御本殿の大きな特徴は、正面の向拝三間の斗拱間蟇股*の意匠(デザイン)です。まず中央には「梅に大内菱*」、向って右には「松に鳳凰」、向って左には「竹に鳳凰」となっています。この「松竹梅」となっている蟇股の彫刻は、我が国に現存する最古の松竹梅として有名です。
 松竹梅という組み合わせは今でこそ大変馴染みの深いものですが、庶民の間にも浸透したのは江戸時代に入ってからと云われ、当社が建てられた室町時代はまだ京の貴族の間のみの流行でありました。そんな中当社を創建された大内弘世卿は、社殿を造営するにあたり都の最先端の文化であるこの松竹梅を彫刻として取り入れたのです。その後、応仁の乱により京の神社仏閣がほとんど焼失してしまい、結果戦の少なかった山口に建てられた当社の松竹梅が、我が国で最も古いものとなった、といわれています。
 また、御本殿の木材のところどころに赤い染料が残っているところから、当初は全て赤色で染められた御社殿であったことも分かっています。

古熊神社HP「御本殿」

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本殿の随身。
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本殿の神殿狛犬。
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3E679E12-EC45-4F18-9D14-CDB246C63614.jpeg吽形

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A70934F4-2A10-4F18-AEDF-9921B885A9AE.jpeg阿形


本殿の裏の方には、テイカカズラの花がたくさん落ちていました。
上を見上げたけれど、どこに咲いているか全くわかりませんでした。
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こんなかわいい石仏も見つけました。
双体道祖神です。
自然石浮彫立像。48cm。
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参考文献:
『山口市史 史料編 大内文化』(山口市 2020)
  P653〜654,656〜657「古熊神社」「本殿」
『山口市の石仏・石塔(2)―大殿・白石・湯田―』(山口の文化を守る会/編 山口市教育委員会 2004)
  P109「大殿の庚申」No.3



【次回に続く】
拝殿・幣殿・神楽殿・神饌所 @ 古熊神社に行きましたA [2020年06月25日(Thu)]
【前回の続き】

社殿。
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山口地方の神社に多く見られる「楼拝造」という二層構造の特徴的な造りの拝殿です。
楼閣のような拝殿はもともと楼門として建築され、それを後の時代になって床を張り、拝殿として活用しました。

神額「古熊神社」。
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拝殿。 
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拝殿内部。
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奉納額。
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菅原道真の生涯の絵でしょうか?
5歳で和歌、11歳で漢詩を詠み、18歳で文章生、26歳で秀才試に合格し、33歳で文章博士に讃岐の国司として赴任していた時に、日照りに悩む民衆のために雨乞いをして見事に雨を降らし、宇多天皇に認められ、55歳で右大臣になったという・・・・・・。
防府天満宮の「松崎天神絵巻」や大阪天満宮の「菅家廊下」のジオラマ?でも観た、弓術も上手く百発百中という場面がないようなので、違うかもしれません。
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拝殿左翼外観。
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拝殿右翼外観。
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拝殿と神楽殿。
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渡廊と幣殿。
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幣殿。
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翼廊。 
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幣殿と翼廊と神饌所。
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翼廊と神楽殿。
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神饌所。
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幣殿と神楽殿。
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神楽殿。
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神楽殿前の神馬。
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神饌所前の神牛。
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神饌所前の天神講碑。
篆額は「天神講之碑」で、花崗岩でできています。
明治二十三年一月」(1890年)と彫られています。
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手水鉢。 
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参考文献:
『山口市史 史料編 大内文化』(山口市 2020)
  P654〜6,8「古熊神社」「拝殿」
『山口市史 史料編 民俗・金石』(山口市 2015.3)
  P799〜801「天神講碑」



【次回に続く】
参道 @ 古熊神社に行きました@ [2020年06月24日(Wed)]
古熊神社に行きましたぴかぴか(新しい)

燈篭のある踏み切りを渡り椹野川にかかる赤い天神橋を過ぎると
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ほぼまっすぐ参道が伸びています。
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古熊神社は、山口の天神様、古熊天神とも呼ばれ、
菅原道真を主祭神とし、道真の子の菅原福部童子を配祀しています。
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『古画類聚』「後集 古画 人形服章 肖像1 菅原道真像」(原本 高野山寶積院旧蔵)(東京国立博物館蔵)

天神さまへの石段の手前左に東山嶽観音があります。
『山口古図』(山口県文書館蔵)にも「猿林ノ森」のところに「嶽観音堂」がありますひらめき
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御邉座四百年記念鳥居改修の碑。
2018(平成30)年で遷座400年になるのですね。
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一の鳥居の手前の神号碑。
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一の鳥居。
1701(元禄14)年建立です。こちらが御遷座400年記念事業で解体改修工事を行った石鳥居。
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​神額には古熊神社の旧社名である「今天神」と記されています。
『山口古図』(山口県文書館蔵)にも「今天神」とありますひらめきひらめき
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鳥居傍にある手水鉢。
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1373(応安6)年10月、弘世が京都の北野天満宮より勧請し、今の中市の山口井筒屋辺りに社殿を造営し、北野天神山口天満宮と称しました。前の通りは「天神通り」、横の通りは「北野小路」といいます。

その後、神託により長者山の麓、さらに御石の森に遷祀しました。
1618(元和4)年、初代長州藩主の毛利秀就が、現在の古熊の東山の麓に移建しました。また同時に神社名も「今天神」へと改められました。

1872(明治6)年に現在の社号である「古熊神社」と改名しました。

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市内がきれいに見えます。
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社務所。
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トイレ。
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「不浄」ではなく「可浄」となっています。
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境内図。
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狛犬。
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文政六年に造られたものです。
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案内板。
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国指定 重要文化財
 古熊神社本殿・拝殿
    大正六年八月一三日本殿 指定
    昭和二四年二月一八日拝殿 指定
   山口市古熊一丁目一〇番三号
本社は今から六二〇余年前(応安六年一三七三)に、大内弘世が京都の北野天神を勧請し、北野小路にまつっていたものを、元和四年(一六一八)に毛利秀就がこの地に遷宮した。祭神は菅原道真で福部童子を配神としている。
本社殿は、室町時代に建立されたものを、ここに移築したものである。本殿内にある宝殿の板に「天文十六年云々」の墨書があるので、本殿の建立もその頃と考えられる。本殿は三間社入母屋造り、拝殿は二重入母屋楼門造りでともに室町時代の様式をよく伝えている建物である。本殿の正面にある三つの蟇股にそれぞれ松竹梅の彫刻が見られるが、これはわが国で建築の装飾に松竹梅の組み合せをとりいれた最も時代の古いものとして有名である。 社宝として、重要文化財「紙本墨画天神図(昭和四八・六・六国指定)」がある。
本社の例祭は、一一月二五日で、二十三日からの神幸式には大拝司、花神子参向の古式神事が執行され、山口天神祭と称されている盛大な祭りである。
    山口県教育委員会
    山口市教育委員会


狛犬。
狛犬は平成2年のものですが、台座は戦前のものです。
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授与所。
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参集所。
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手水舎。
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絵馬を掛けるようになっています。
絵馬はもちろん道真様。
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参考文献:
『山口市史 史料編 大内文化』(山口市 2020)
  P653「古熊神社」
『大内氏時代山口古図』(山口県文書館蔵)
  ※「軸物史料218」は山口県文書館の「高画質画像ダウンロード」サイトでインターネット公開されています。
『古画類聚』(松平定信/編 1795(寛政7))
  ※東京国立博物館の研究情報アーカイブでインターネット公開されています。



【次回に続く】
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鳥の詩 @ 中原中也記念館 屋外展示 [2020年06月23日(Tue)]
今年度の中原中也記念館の屋外展示は「鳥の詩」ですぴかぴか(新しい)
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前期(5月〜10月)は、「夏と私」「閑寂」「夜明け」の三つの詩が展示されていますかわいい

夏と私
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真ツ白い嘆かひのうちに、
海を見たり。鷗[かもめ]を見たり。

高きより、風のただ中に、
思ひ出の破片の翻転するをみたり。

夏としなれば、高山に、
真ツ白い嘆きを見たり。

燃ゆる山路を、登りゆきて
頂上の風に吹かれたり。

風に吹かれつ、わが来し方に
茫然[ばうぜん]としぬ、……涙しぬ。

はてしなき、そが心
母にも、……もとより友にも明さざりき。

しかすがにのぞみのみにて、
[こまね]きて、そがのぞみに圧倒さるる。

わが身を見たり、夏としなれば、
そのやうなわが身を見たり。
  
      (一九三〇・六・一四)

 
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初出は『桐の花』第15号(昭和5年10月)。昭和5年6月14日書かれた原稿が「ノート小年詩」に残されている。
深い悲しみを抱える〈私〉には、心の内の嘆きと、目の前に広がる夏の風景とが重なり合うように見えている。過去を思い悲嘆に暮れ、希望を前に何もなしえない自分、夏になるたび、そのような自分を見つめる〈私〉がいる。〈鷗〉の姿は、〈真ッ白い〉と表現された響きや、〈思ひ出の破片〉が翻るさまと呼応するかのようである。




閑寂
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なんにも訪(おとな)ふことのない、
私の心は閑寂だ。
    
    それは日曜日の渡り廊下、
    ――みんなは野原へ行つちやつた。

板は冷たい光沢(つや)をもち、
小鳥は庭に啼[な]いてゐる。

    締めの足りない水道の、
    蛇口の滴(しづく)は、つと光り!

土は薔薇色(ばらいろ)、空には雲雀(ひばり)
空はきれいな四月です。

    なんにも訪(おとな)ふことのない、
    私の心は閑寂だ。

 
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初出は『歴程』第二次創刊号(昭和11年3月)。詩集『在りし日の歌』収録。
〈私の心〉を乱すものは何も無く、その心境を映すように静かな春の日の情景が断片的に描かれている。〈小鳥〉や〈雲雀〉の姿はわずかに音や動きを感じさせるが、それらも静けさの一部として存在する。
(略)

「閑寂」は『サンデー山口』(第7225号 2020(令和2)年4月18日㈯号)「詩の栞」No.13に掲載されていました。
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▲2020年4月18日付『サンデー山口』(第7225号)「詩の栞」No.13

ぽっかりと空いた時間。屋外にはのどかな春の風景が広がっていますが、詩人はむしろ無為を楽しんでいるようです。俳人の山頭火は中也と直接会うことがなかったのですが、この詩の〈蛇口の滴は、つと光り!〉の一行について「これは俳句だ」と言ったと伝えられています。
  中原中也記念館館長 中原 豊




夜明け
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夜明けが来た。雀の声は生唾液(なまつばき)に似てゐた。
水仙は雨に濡れてゐようか? 水滴を付けて耀[かがや]いてゐようか?
出て、それを見ようか? 人はまだ、誰も起きない。
(にはとり)が、遠くの方で鳴いてゐる。――あれは悲しいので鳴くのだらうか?
声を張上げて鳴いてゐる。――井戸端はさぞや、睡気(ねむけ)にみちてゐるであらう。

[おけ]は井戸端の上に、倒(さかし)まに置いてあるであらう。
御影石[みかげいし]の井戸側は、言[こと]問ひたげであるだらう。
苔は蔭[かげ]の方から、案外に明るい顔をしてゐるだらう。
御影石は、雨に濡れて、顕心[けんしん]的であるだらう。
(とり)の声がしてゐる。遠くでしてゐる。人のやうな声をしてゐる。

おや、焚付[たきつけ]の音がしてゐる。――起きたんだな――
新聞投込む音がする。牛乳車(ぎうにうぐるま)の音がする。
《えー……今日はあれとあれとあれと……?………》
(くち)が力を持つてくる。おや、烏(からす)が鳴いて通る。

       (一九三四・四・二二)

 
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未発表詩篇。昭和9年4月22日制作。中也没後に『創元』第1輯(昭和21年12月)に掲載。
まだ誰も起きていない夜明けの風景。詩人は庭にあるさまざまな物たちが、それぞれに朝を迎える様子を思い描いている。そこへ〈雀〉〈鶏〉〈烏〉の声が入り込むことで、想像の世界に現実味が加わっていく。次第に人々が目覚め、賑やかになっていく一日の始まりを、想像と聞こえてくる音だけで表現した作品である。



中也の詠うたわいのない朝の情景のなんと愛おしいことか。
何気ない日常がどんなに大切なものであるか、今回のことで身にしみました。

5月18日までの1ヶ月余り鉄柵が閉まっていた中原中也記念館・・・傍を車や徒歩で通る度、とても寂しく思っていました。

自由に入ることのできる中庭は観光客や市民の皆さんの憩いの場でした。記念館に入るでもなく、椅子に座って本を読んだりしてくつろぐ人、中にはランチをする人もいたり・・・・・・そんな光景が戻るといいですね。
神福寺に行きましたB [2020年06月22日(Mon)]
【前回の続き】

神福寺には、境内から墓地を通って七尾山の麓を巡る神福寺八十八ヶ所がありますぴかぴか(新しい)

弘法大師。
丸彫坐像。46cm。神福寺八十八ヶ所の第一番です。
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十三重塔。
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光明塔(納骨堂)。
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地蔵。
丸彫半跏像。113cm。「天保十三」(1843年)と彫られています。
改座した時、台座の下より大量の小銭が発見されたそうです。
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庚申塔。
自然石。105cm。「寛政四子」(1792年)と彫られています。
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六地蔵。
光背型浮彫立像。コンクリート製で六体が一つになっています。
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宝篋印塔。
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五輪塔。
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弘法大師。
神福寺八十八カ所の二十二番。足王様の表示があるようです。
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庚申塔。
角柱。49cm。
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青面金剛。
光背型浮彫立像。一面六臂。50cm。
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地蔵。
丸彫立像。81cm。「文政五壬午歳」(1822年)
神社 御納経」と彫られています。神仏混肴の名残でしょうか。
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地蔵。
丸彫坐像。高さ32cm。頭痛山地蔵菩薩といわれ、頭痛を治してくれる地蔵として信仰されているそうです。
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如意輪観音。
丸彫坐像。高さ46cm。耳観音様として信仰されているそうです。
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裏山にも弘法大師像が続きます。
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屋根があるお大師様がいらっしゃれば、祠に入ったお大師様もいらっしゃいます。
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テイカカズラの花がたくさん落ちていました。上を見ても、木々はあまりに高くテイカカズラの姿は見えませんでした。
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地蔵。
丸彫立像。130cm。
墓地東側にある無縁佛の守護地蔵として移設されたとのことです。
享保十六亥」(1731年)「三界万霊」と彫られています。
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神福寺第五十一番札所。
五十一番の弘法大師像の堂です。
丸彫坐像のようですが、見ることができません。
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地蔵。
丸彫半跏像。94cm。水子地蔵として信仰されているそうです。
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南無当山稲荷大明神。
稲荷なので赤い鳥居があります。
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この辺りで来た道に戻るので、八十八ヶ所巡ったことになります。
八十八番札所は道の一番高いあたりにある奥の院堂だそうです。


参考文献:
『山口市の石仏・石塔(2)―大殿・白石・湯田―』(山口市の文化財を守る会/篇 山口市教育委員会 2004.3)
  P20〜2「大殿の地蔵」No.47,No.48,N0.49,No.51,No52
  P39「大殿の六地蔵」No.7
  P46「大殿の観音」No.4
  P58〜9「大殿の諸佛」No.18,No.19,No21
  P90〜2「大殿の塔」No.54,No.58  
  P113〜4「大殿の庚申」No.14,No.15,No.16
神福寺に行きましたA [2020年06月21日(Sun)]
【前回の続き】

神福寺ではチェックすべきポイントが三つありますぴかぴか(新しい)

かわいい木造十一面観音立像
宮野の泊瀬観音堂にあった十一面観音があります。(秘仏なので拝観できませんが)

観音堂。
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「木造十一面観音立像」説明板。
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重要文化財 
木造十一面観音立像
   大正六年八月十三日指定
   所在地 山口市八幡馬場八一三番地
この像は、寺伝によれば大内氏の祖である琳聖太子が百済国から来朝したときに請来されたものと伝えられている。中国唐代の作と考えられる。一木造り、素地で、材は楠とも桜ともいわれはっきりしない。後には大内政弘の念持仏として、宮野の泊瀬観音堂の本尊になっていたが、堂の荒廃にともなって神福寺に移され祀られている。
秘仏のためふだんは公開されていない。蓮華座の上に立つ高さ49.5cmの小像であるが、製作年代が古いことと作りがすぐれていることにより、指定されている。
十一面観音の特徴は、頭上に十一面の化仏を載せていることで、祈念すれば現世利益十種と来世の果報四種の功徳があるといわれている。
本像は化仏の多くが脱落しており、五面しか残っていない。また、両手の指先、鼻頭や口唇に破損している所があるのは惜しいことである。
  秘仏であるので、通常は拝することはできない。
     山口県教育委員会
     山口市教育委員会


観音堂の蟇股。
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毎月21日には、ここの扉は開かれるのでしょうか、来てみないといけません。
ただ、厨子に入っている十一面観音は見ることできません。次のご開帳はいつなのでしょうか?
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周防国三十三番観音の二十九番となっています。
因みに、二十八番は花滝山清水寺、三十番は大梅山大通四海寺です。
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享保七年(一七二二)出版の「当国(周防国)順礼手引き」によれば、南北朝時代に大内弘世は深く観音を信仰し、所領の本国防州内に三三番の観音堂を定めたことに始まると伝えている。その二十六番から三十三番までが吉敷郡内の観音霊場である。
(略)
○二十九番同郡山口蜘蛛山泊瀬寺
 当山者大内之建立、本尊十一面観音、唐仏也
  みなひとのねがふこころはみねのつき、あまねくてらすのちのよまで
 どうは二けん四めん、たつみむき、はせよりだいつういんへ三十丁

(『山口市史 各説篇』(山口市史編纂委員会/編 山口市役所 昭和46.3)P337〜8抜粋)

大阪市立美術館「仏像 中国・日本〜中国彫刻2000年と日本展・北魏仏から遣唐使そしてマリア観音へ」(2019年10月12日(土)〜12月8日(日))で展示されていたとのこと、行けばよかった・・・・・・残念もうやだ〜(悲しい顔)
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▲大阪市立美術館 特別展「仏像 中国・日本〜中国彫刻2000年と日本展・北魏仏から遣唐使そしてマリア観音へ」チラシ

チラシの一番左の仏像が神福寺の十一面観音ですexclamation×2
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東京国立博物館 特別展「名作誕生−つながる日本美術」(2018年4月13日(金)〜5月27日(日)でも展示されていたみたいですね。



かわいい古い宝篋印塔
裏山(七尾山)の墓地に行く途中の僧侶墓地と思われる一角にあります。

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永正17年(1520年)の宝篋印塔。義興の時代です。
永正拾七季十月廿日」とはっきり入っています。
基礎、軸部、屋根は一揃いのようですが、相輪を欠失しています。
88cmの小型の宝篋印塔です。
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天文22年(1553年)の宝篋印塔。義隆の時代です。
相輪の宝珠欠失以外は完全です。
74cmです。
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天文廿二年
 法印宥任
 六月□日

 
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かわいい近藤清石翁の墓
墓地にあります。

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近藤清石(1833(天保4)〜1916(大正5))は、萩の豪家大玉新右衛門二男として生まれ、のち藩士近藤家を嗣ぎました。藩校明倫館に1859(安政)6年に入学、国学者近藤芳樹に師事し国学を修めました。諸国を遊歴、伊勢の足代弘訓から強い影響を受けました。
萩藩士(御手廻組)として密用方助筆、右筆役などを歴任しました。
1866(慶応2)年には戊午(安政5年)以来の事跡編纂掛となり、古記録の調査にあたりました。
1868(明治元)年、議政局書記を経て、1872(明治5)年、山口県庁御用掛、山口県神官教導職管事を兼任。1873(明治6)年、玉祖神社宮司、地誌訂正取調掛兼務となり、社家の指導につとめる一方、地誌および旧記の編纂に尽力しました。この間に『山口県地誌略属用地図』(宮川臣吉 1878)、『山口県史略』(博古堂 1883)などを著しました。
旧記掛時代の1881(明治14)年、同掛の編纂費用を用い興隆寺の蔵を購入、県庁へ移築。「旧記庫」として利用し、旧藩庁文書などの記録保存の基盤を整備しました。
1885(明治18)年に地誌局廃止のため退官。以後、郷土史の研究を精力的に行い、『防長旧族志』、『大内氏実録』(中元壮作・宮川臣吉 1885)、『山口名勝旧蹟図誌』(宮川博古堂 1894)など防長両国の史実に関する数多くの著作を残しました。
1901(明治34)年、山口県から防長風土記編纂方を委嘱され、4年半をかけて研究の集大成となる『山口県風土誌』をまとめました。
また、和歌・随筆・絵画にも秀で、後に山口の特産品となる大内塗を復興し、1884(明治17)年には雪舟の古跡雲谷庵を再建しました。 

50903907-1F81-46D7-AF77-23C45DF257D1.jpeg玉祖神社(防府市) 
28E7B4B4-01A5-44EA-BCD3-25DA27345CE1.jpeg大内塗 
IMG_1517.JPG雲谷庵(山口市天花)    



参考文献:
『山口市史 各説篇』(山口市史編纂委員会/編 山口市役所 昭和46.3)
  P337〜9「周防国三十三番観音」
『山口県地誌略属用地図』『山口県史略』『大内氏実録』『山口名勝旧蹟図誌』
  ※国立国会図書館のデジタルコレクションでインターネット公開されています。
『山口市史 史料編 民俗・金石文』(山口市 平成27.3)
  P588「神福寺墓地宝篋印塔(一)」
  P590「神福寺墓地宝篋印塔(二)」
『山口市の石仏・石塔(2)―大殿・白石・湯田―』(山口市の文化財を守る会/篇 山口市教育委員会 2004.3)
  P91「大殿の塔」No.55,No.56※@


※@には以下のようにありました
 天文五年
 法印宥任
 六月□日
 


【次回に続く】
神福寺に行きました@ [2020年06月20日(Sat)]
八幡馬場にある神福寺に行きましたぴかぴか(新しい)
大内氏の時代は、神宮寺神光寺と呼ばれていました。
足利義稙(当時は、義尹)が山口下向の折、滞留していたということで知られています。

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足利義稙像(摸本)(東京国立博物館蔵)

『大内氏時代山口古図』(大正12年写)(山口県文書館蔵 軸物史料219)には、「七尾山」の麓に「神光寺」と示され、

後ニ足利義稙ノ滞留地ナリ
明應九年足利義澄二打負ケ山口ニ敗走大内義興取立
永正五年中国九州二於攻登リ義澄ヲ再攻シテ亡シテ
義尹ハ義稙公ト成テ四海ヲ納
之ヨリ大内義興執見トナリ日本ヲ暫ク納メル


と添書きがあります。

『大内氏實録』巻十 世家十 義興によると、
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▲『大内氏実録』巻十 世家十 義興(国立国会図書館蔵)

(明応)癸丑の歳(1493)、将軍足利義尹(始義材)細川右京太夫政元の幽する所なりしが、後北国に奔り、丁巳の歳(1497)兵を挙げ政元等を討伐せしに、反て彼に敗られて遂に来奔し、偏に大内家の忠勤を頼み思召すとの事となりければ、山口の請じ今八幡宮の宮司坊神光寺を其居館とす。

神光寺は上宇野令村江良の七尾山の麓に在り、明治三年長山平蓮寺を合併して今は神蓮寺と云ふ。当時は今八幡宮鎮座の亀山の右側の地に在りて、其後面の地宮野下村の内にかけて字を御屋敷と云ふ。義尹卿の館址なりと云ひ伝ふ。按るに当時神光寺大地なりといへども、将軍の居館には猶狭小なりしかば、地つゞきに建築しそへし故にこの名あるらん。

九年庚申春三月五日、(略)本日、将軍を居館に迎へ饗す。

将軍内書を中西国九州の諸族に賜ふ。義興これに添書して将軍家に忠勤のことを申達す。

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▲足利義稙像(等持院蔵)((九州国立博物館 特別展「室町将軍 ― 戦乱と美の足利十五代 ― 」にて撮影)

『義隆記』(『群書類従』巻394 合戦部26)にも、
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▲『群書類従』巻394 合戦部26「義隆記」(国立国会図書館蔵)

明応十年三月十六日ニハ恵林院殿御下向アル永正四年八月マテ九年ノ間御滞留マシマシテ御上洛

とあります。
『明応九年三月五日将軍御成雑掌注文』(毛利博物館蔵)は、明応9年3月5日(1500年、現在の4月)、大内氏館にて、義興が足利義稙(室町幕府第10代前将軍)をもてなした記録です。
『義隆記』の「明応十年」は間違いだとしても、下向の年月は定かではないようです。

寺の由緒や将軍滞留のことなどの案内板がどこにもなく、残念でしたもうやだ〜(悲しい顔)

神福寺は、(大内弘盛により)建久年間(1190〜98)の創建といわれております。 開山上人に舜誉宥玄僧正を招き、神宮寺と号しました。後に大内弘家公により再建され、日輪山神光寺に改められました。大内氏は、盛見公や政弘公をはじめとして、愛染明王の信仰に篤く、毎年六月朔日に近隣の密教寺院の僧を集め、愛染講を修めていたと、寛文元年の寺伝に記されています。
この神光寺の時代が、明治初年まで続き、長久山平蓮寺(長山(亀山)にあった寺です)と合併して、神蓮寺 。
明治41年に先代の宮城真雄僧正の再建により岩国の妙福寺と合併して神福寺になりました。昭和4年に山号も日輪山から西高野山へ変わりました。

神福寺HPより)

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「木造十一面観音立像(神福寺)」案内板。
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 この仏像は、中国唐代の作で大内氏の祖、百済国の琳聖太子がから来朝の際、持ってきたものと伝えられています。総高45センチメートル程の立像ですが、山口県内では一番古く、彫法の精緻なことで有名です。十一面観音は千手観音と同じく変化観音の一つで現世利益の菩薩です。十一面観音は頭上に十一面の化仏を載くが、この像では多くが脱落してわずかに五面を残すだけです。国の重要文化財に指定されています。
 なお、秘仏であるので、いつもは堂の奥深くにまつられていて、直接拝することはできません。

 
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昔、母に連れられてよくお詣りに来ていたお寺です。
すっかり新しくなっていてこんなお寺だったのか、一カ所を除いて全く記憶がないのですが、境内はとてもきれいにされいて気持ちのいいお寺です。
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ソテツがあります。ソテツを見ると、大内氏ゆかりのお寺って気がしますね。
ソテツについては「大内氏館(12)ソテツとシャクヤク」を読んでください。
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本堂は建て替えられていました。
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屋根瓦には大内菱が入っています。
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C934C4D2-8DA4-434ほ7-B5E5-AF497512B1FE.jpeg本堂 
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灯籠。
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鐘楼。
鐘がありません!
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参考文献:
『足利義稙像』(松尾文友(模)明治7)(東京国立博物館蔵)
  ※東京国立博物館「研究情報アーカイブズ」でインターネット公開されています。
『大内氏時代山口古図』(山口県文書館蔵)
  ※「軸物史料218」は山口県文書館の「高画質画像ダウンロード」サイトでインターネット公開しています。
『郷土読本 ふるさと山口』(郷土読本「ふるさと山口」編集員会/編 山口市教育委員会 1991)
  P51図版「山口古図」
『山口県文書館蔵「山口古図」』(マツノ書店 1975.1)
『山口市史 史料編 大内文化』(山口市 2010)
  P206〜10「明応九年三月五日将軍御成雑掌注文」
『大内氏実録』(近藤清石/著 中元壮作、宮川臣吉 1885)(国立国会図書館蔵)
『群書類従』巻394 合戦部26「義隆記」(国立国会図書館蔵)
  ※以上2点は国立国会図書館のデジタルコレクションでインターネット公開しています。



【次回に続く】
大道寺跡に行きました [2020年06月19日(Fri)]
金古曽にある大道寺跡に行きましたぴかぴか(新しい)

大道寺とは、1552(天文21)年8月28日、大内義長がイエズス会宣教師コスメ・デ・トレスに与えた書状(大道寺裁許状)の写しにある教会です。
フランシスコ・ザビエルの手紙にも

(略)領内で神の教えを説教する許可、信者になりたい者が信者となる許可を与えていただくこと以外に何も望まないと申しあげました。領主は大きな愛情をもって私たちにこの許可を与えてくださり、(略)これと同時に、学院のような一宇の寺院を私たちが住むようにと与えてくださいました。私たちはこの寺院に住むことになり、普通、毎日説教しましたが、神の教えの説教を聞きに大勢の人がやって来ました。(略)
(『聖フランシスコ・ザビエル全書簡』「書簡九六」より抜粋)

とあり、当時すでに廃寺となっていた大道寺をザビエル一行の住居兼教会として与えたそうです。
その大道寺跡といわれているところが、今はサビエル記念公園になっています。

「聖ザビエル記念公園」石碑。
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「サビエル記念公園」案内板。
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 フランシスコ・サビエル(一五〇六〜一五五二)は天文十八年(一五四九)に、キリスト教を布教するために鹿児島に上陸、天文十九年(一五五〇)十一月、京都へ布教に行く途中山口に立ち寄り、京都へ向かったが、戦乱で乱れていたため、天文二十年(一五五一)四月、政情の安定した山口に再び訪れ、大内義隆に布教の許しを願いでました。義隆は許可を与え、サビエルの住居に廃寺であった大道寺を与えました。ここを宿所として、サビエルは毎日街に出て布教に当たっていたといわれています。
 明治二十二年(一八八九)フランス人アマトリウス・ビリヨン神父は、山口におけるサビエルの遺跡、特に大道寺跡について探求し、現在の公園の地をその跡と考え、有志の協力で土地を買い求めました。現在の山口市湯田温泉に生まれ、文学史上に大きな足跡を残した近代詩人中原中也の祖父で、医師中原政熊もその一人でした。
 そして大正十五年(一九二六)十月十六日、高さ十メートルにも及ぶ花崗岩にサビエルの肖像をはめ込んだサビエル記念碑が建立されました。
 しかし、この碑のサビエル肖像の銅板は、第二次世界大戦中に供出されました。現在の肖像は、昭和二十四年(一九四九)サビエル来山四百年記念祭を期し、サビエル遺跡顕彰委員会より委嘱された彫刻家河内山賢祐氏により作成されたものです。



聖サビエル記念碑
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昭和24年に作られた二代目のサビエル肖像の銅板です。
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平生町出身の彫刻家河内山賢祐制作です。
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湯田温泉の井上公園にある井上馨像と同じ作者です。
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亀山にも大道寺裁許状の碑がありますが、ここにもあります。
「大内義長の裁許状」碑
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「大内義長の裁許状」説明板。
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 天文二十年(一五五一)九月サビエルは弟子トルレスらに後事を託し九州へ去りました。その後陶氏の乱が起こり大内義隆は討死しました。陶晴賢が大友義鎮の弟をむかえ大内義長と名のらせて大内家を継がせました。
 この碑は、大内義長がトルレスに寺院建立の許可を与えた書状を銅板にしてつくられたものです。


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周防國吉敷郡山口縣大道寺事 
従西域來朝之儈 爲佛法紹隆
可創建彼寺家之由 任請望之旨 
所令裁許之状如件
 天文廿一年八月廿八日
  周防介 御判


周防の國吉敷郡(こほり)山口縣(あがた)の大道寺の事
西域より來朝の儈、佛法紹隆(しょうりゅう)の爲
彼の寺家(じか)を創建すべき、請望の旨(むね)に任せ 
裁許せしむる所の状件(くだん)の如し

周防の國吉敷郡山口縣にある大道寺において、西域よりこの国に来た僧(パードレ・司祭)達が、仏法(キリスト教)発展のために、寺家(教会・修道院)を創建するという要望に対し、その許可を与えることを証する。
 天文21年8月28日(1552年9月16日)
  周防介(大内義長)加判


この辺りを大道寺跡と比定したのは、1889(明治22)年に山口天主公教会に赴任したフランス人アマトス・ビリオン(羅:Amatus Villion)ことエメ・ヴィリヨン(仏:Aimé Villion)(1843〜1932)です。
彼は、山口におけるサビエルの遺跡、特に大道寺跡について探求し、1893(明治26)年頃、道場門前の阿部家旧蔵でその当時は光福寺の僧が所蔵する古地図のことを知りました。その地図に「大道寺」の書き込みがあることを見つけ、これを借り受け、複写させたといいます。
その時の原図は現在、所在不明で、複数の写本(『大内氏時代 山口古図』)のみ現存しています。

ヴィリオン神父像
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こちらも河内山賢祐の制作。
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なお、説明板には、「ピリヨン神父」と書かれていますが、碑には「ヴィリオン神父像」と入っています。
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中也(1907〜1938)の母フクは叔父中原政熊の養女で、政熊夫妻はカトリックの信徒でした。
中也の弟 中原思郎の『兄中原中也と祖先たち』(審美社 1970.7)には、ビリヨン神父の思い出や、中也が23歳(1930)の時に、友人安原喜弘と京都、奈良で遊んだ折に、奈良にいたビリヨン神父を訪ねたことが書かれています。
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 私の家にはビリオン神父がよくやってきた。蝙蝠のような黒い衣服を大きくひろげて、「おばけがきた!」とか「あーりがたい」とかいって玄関から入ってきた。私たち子供を見つけると、後ろ向きにさせて、首筋から何物かを入れる。それは背中をすべり落ち帯のあたりでとまる。飴玉であったり、ビスケットであったり、時には五厘銭であったこともある。
(略)
 東京時代、二十三歳のとき、友人安原喜弘さんと一緒に奈良に遊び、同地のカトリック教会にビリオン神父を訪ねたとき、祭壇の前で礼拝する身ぶり手ぶりは型にはまっていたといわれる安原さんの証言はうなずける。
(『兄中原中也と祖先たち』「兄中原中也」「聖体」P.80〜81)
(注:中原思郎は「ビリオン神父」と表記しています。)


公園はきれいに管理されていて、花壇の花もきれいでした。
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山口赤十字病院と仁壁神社の間、石州街道沿いに「ザビエル公園」道標があり、石碑が公園への目印になっています。
石碑に彫られている字は、山口市出身の俳人 兼ア地橙孫によるものだそうです。
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ザビエル公園
日本最初の教会大道寺址
聖師像 裁許状碑 ビリヨン像



傍には「五拾壱番お大師様」の祠がありました。
山口八十八ヶ所の一つです。
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1998(平成10)年度、山口市教育委員会は、サビエル記念公園内で「大道寺」に関わる調査をしました。その結果、キリスト教関係の遺物は一点も出土しなかったそうです。
なお、その報告書の中で『山口古図』の大道寺の位置は、陸上自衛隊山口駐屯地の南端に近い部分だと推定されるとしています。
陸上自衛隊山口駐屯地の中には「日本のクリスマス発祥地」の説明板があります。
4052C9C7-6949-4535-BB8C-ACB18532F9B5.jpeg陸上自衛隊山口駐屯地内

1552年(天文21年)12月24日、山口の宣教師コスメ・デ・トルレスは、山口の司祭館に日本人信徒を招いてクリスマスの祝いを催しました。その場所が、現在の陸上自衛隊山口駐屯地付近であっただろうと推測されています。トルレスらにとっては来日して以来4回目のクリスマスでしたが、初めて日本人信徒とともに祝ったこの日は、日本初のクリスマスといわれています。



参考文献:
『山口市史 史料編 大内文化』(山口市 2010)
  P299「聖フランシスコ・ザビエル全書簡」書簡九六
  P997〜1000「大道寺跡」
  付録「山口古図」(「山口県文書館蔵 軸物史料218」の復刻)「解説」(国守進)  
『山口県文書館蔵「山口古図」』(マツノ書店 1975.1)
  ※安部家旧蔵図転写本(山口県文書館蔵 軸物史料219)の複製
  「解説」(石川卓美) 
『大内氏時代山口古図』(山口県文書館蔵)
  ※「軸物史料218」は山口県文書館の「高画質画像ダウンロード」サイトでインターネット公開しています。
『ビリヨン神父の生涯』(狩谷平司/著 稲畑香料店・稲畑商店 昭和13)(復刻版 大空社 1996)
  「大道寺の遺跡」「貴重なる地図」
『山口市の石仏・石塔(2)―大殿・白石・湯田―』(山口の文化財を守る会/編 山口市教育委員会 2004)
  P58「大殿の諸佛」No.17
仁壁神社に行きました [2020年06月18日(Thu)]
6月2日、周防国三宮の仁壁神社に行きましたぴかぴか(新しい)

仁壁神社は義興の「五社参詣」の神社として知られています揺れるハート
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▲大内義興騎馬像(龍福寺)

『五社参詣之次第』(山口県文書館蔵 多々良氏家法「多賀社文庫」)には、

一 十六日丑剋、於大前一宮(略)
一 巳剋至得地庄御着、則二宮へ御社参之、(略)
一 申剋至宮野庄御着、則三宮へ御参詣、(略)
一 同剋至吉敷庄御着、則赤田宮へ御参詣、(略)
一 酉剋吉敷庄御立、則浅田着、五宮へ御参詣、(略)
(略)今日路次行程十七八里、(略)


とあります。
近藤清石の『大内氏実録』「巻第十 世家第十 義興」にも五社参詣のことが書かれています。
大内氏実録 巻第10-12 世家第10 義興A (2).png

(明応)六年丁巳春三月十三日、(少弐と)博多の聖福寺門前に戦ふ。十五日、筑紫村及び城山に戦ふ。廿三日、肥前国朝日城を攻めて之を抜く。夏四月十四日、少弐政資を小城城に囲む。十六日先是山口に還り、本日本国一宮佐波郡玉祖神社(大崎村鎮坐、式内)二宮同郡得地の出雲神社(堀村鎮坐、式内)三宮吉敷郡宮野荘の仁壁神社(宮野下村鎮坐、式内)四宮同郡吉敷荘の赤田神社(吉敷村鎮坐、官知)五宮同郡同荘の浅田神社(朝田村鎮坐、未官知)に参詣す。(五社参詣次第○五社参詣の行程十七八里なり。今に至り山口の土人、必ず上の五社には限らねど五社詣とて五社に参詣する慣習あり)


「式内 仁壁神社」碑。
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「県社」碑。
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一の鳥居。
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瓦の素敵な家がありました。
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石橋。
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二ノ鳥居。
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手水舎。
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「仁壁神社」案内板。
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仁壁神社  通称 さんのみやさま
主祭神
 右殿 下照姫命したてるひめのみこと 織物・衣類の神
 中殿 表筒男命うわつつのおのみこと、中筒男神なかつつおのみこと、底筒男命そこつつのおのみこと 国家安泰 家内安全 交通・海上安全の神
 左殿 味鉏高彦根命あじすきたかひこねのみこと 五穀豊穣の神
配祀神 
 瑞珠殿 神産日神かみむすびのかみ 他七柱 五穀豊穣の神
由緒
 社伝によると、大和時代の崇神天皇の御代七年(前九一)までさかのぼることが出来る。しかし文献「文徳実録」には社格として平安時代の嘉祥三年(八五〇)従五位に、貞観九年(八六七)従四位下に昇叙された記録を見ることが出来る。
「延喜式神名帳」(九二七)にも、式内社として「周防國吉敷郡の小一社」と記載されている。
鎌倉時代の建久六年(一一九五)の「周防国宮野荘立野文」に、宮野荘仁戸の社(仁壁)に神領のあったことがうかがえる。明治六年に県社に列せられる。
当神社は衣・食・住に関係する神様をお祀りしており、家内安全・交通安全など生活全般に至るご加護をいただける神社である。


「仁壁神社の社叢(折本)」案内板。
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綿津見社(豊玉彦命)。
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綿津見社(豊玉姫命)。
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山縣有朋書の「征清紀念碑」。
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「木造獅子頭」説明板。
「慶長十三年二月吉日新見作」という刻名の獅子頭があります。慶長十三年は江戸時代初期(1608)にあたり、山口市の有形文化財に指定されています。
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ここからは玉垣の中です。 

社殿。
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E8A28915-CD6A-466B-A15C-07AC3601F37A.jpeg向拝 
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EA313E5E-57F6-4A0B-83E8-C82F646B7F6E.jpeg神額 
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7A0565F5-916A-45BC-B122-7A344204EC7C.jpeg幣殿 
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神楽殿。
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稲荷神社。
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具明社。
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「□□紀念之松」石碑。
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道祖神。
自然石。高さ33cm。宮野の奥にあったものを道路改修により場所がなくなったためもちこまれたものだそうです。
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河内社。
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江良神社。
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鳥居。
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手水。
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『明治神社誌料 : 府県郷社』下「仁壁神社」(国立国会図書館蔵)には、
明治神社誌料 府県郷社 下 仁壁神社 915-114 (3).png 明治神社誌料 府県郷社 下 仁壁神社 915-114 (4).png 明治神社誌料 府県郷社 下 仁壁神社 915-115 (2).png

山口県周防国吉敷郡宮野村大字宮野下神織機

という字から、養蚕や機織が盛んだったようです。

仁壁神社の創建年月は不明ですが、社伝によると、大和時代崇神(すじん)天皇7年(紀元前91年)、各地の神社の神封戸を定めたときに、当社にも宮野庄を神封戸としてあてたとの記録があります。『日本文徳天皇実録』の嘉祥3年(851)正月27日条の、従五位の神階を授けるという記述が正史に初めて登場し、また、『日本三代実録』などの正史や『延喜式』神名帳にその名が見える古社です。
当初、宮野下村に鎮座していましたが、1104(長治元)年、「宮ノ前ヨリ終夜玉光飛リ奇瑞」があり、宮の前の旧地から現地へ遷座したといいます。
古くから周防三の宮と呼ばれています。
1497(明応6)年、義興は九州の戦陣から帰り、五社参詣をしました。 (『五社参詣次第』)五社とは、防府右田の玉祖神社・徳地の出雲神社・この仁壁神社・吉敷の赤田神社・大歳の朝田神社(もとは朝田にありました)をいいます。この参詣の順に一の宮、二の宮……というふうに呼んでいます。
1569(永徳12)年、大内輝弘の乱の時焼失しましたが、程なく毛利輝元によって再興されました。
1712(正徳2)年にまた焼失し、1720(享保5)年に毛利吉元により重建されました。
1997(平成9)年に放火により全焼、2000(平成12)年に本殿、2001(平成13)年に拝殿・幣殿が再建、2009(平成21)年に神楽殿が再建されました。

これで、周防五社詣、コンプリートしました。
学生時代、毎週ここのすぐご近所のお宅にアルバイトで来訪していたのに、一度もお詣りしたことがなくて・・・・・・。火災で焼失する前の社を見てみたかったです。残念もうやだ〜(悲しい顔)



参考文献:
『山口市史 史料編 民俗・金石文』(山口市 2015)
  P891〜2「仁壁神社」
『山口市史 史料編 大内文化』(山口市 2010)
  P349〜50「五社参詣之次第」
『大内氏実録』(近藤清石/著)(国立国会図書館蔵)
『明治神社誌料 : 府県郷社』(国立国会図書館蔵)
  ※以上2点は国立国会図書館のデジタルコレクションでインターネット公開しています。
『山口市の石仏・石塔(4)―宮野・二保―』(山口の文化を守る会/編 山口市教育委員会 2012)
  P112「宮野の庚申」No.5
大内弘幸の墓をお参りしました [2020年06月17日(Wed)]
6月2日、古熊の猿林にある大内弘幸の墓をお参りしましたぴかぴか(新しい)

猿林とは、古熊にあった永興寺跡から現在の古熊神社一帯の山林を指します。
明使 趙秩が山口十境詩「猿林暁月」を詠んだところです。

弘幸は、重弘の子で、山口を開府した弘世の父です。
妙見社の神託により大森銀山を発見したといわれていて、
1352(正平7/観応3)年3月、仁平寺本堂を修造し、3月8日から仁平寺本堂供養会を予定していましたが、3月6日、病気で死んでしまいます。
弘幸は、永興寺に埋葬されました。
高野山 成慶院の『大内殿御過去帳』(高野山 櫻池院蔵)に

         防州大内介為父弘幸公立之
日 観応三年壬辰
永興寺殿寒ー妙厳大禅門  霊位
石 三月六日他界


とあります。
『大内氏壁書』文明十八年九月四日の条に
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▲『大内氏実録』「巻第十二 志第一 大内壁書 掟書」(国立国会図書館蔵)

御代々御年忌、至其御寺、各可有出仕当日事

と、代々当主の命日に墓参することを命じています。

永興寺  三月六日

とあり、1486年の政弘の時代には、永興寺があったことが伺えます。
『永興並末山記』に、

延慶二己酉歳大内十五代裔周防権介創建一精舎

とあり、また、

永興寺(ようこうじ)は鎌倉末期の延慶二(1309)年、禅の高僧仏国国師を開山に、大内弘幸によって創建されました。弘幸の子・弘世は、父の菩提を弔うため七堂伽藍を整備し、寺領も大きく広げていきました。同時に幕府より官寺として認められるなど、格式の高い寺として知られるようになります。
永興寺(岩国市横山)HPより)

と、確かに弘幸は岩国市横山にある永興寺を創建しました。
が、山口の永興寺はどうなのでしょうか?
「猿林暁月」の説明板に

大内氏第二十三代弘幸は延慶二年(一三〇九)に臨済宗永興寺を創建したが後に荒廃した。

とありました。
しかしながら、『山口古図』(山口県文書館蔵)には、「永興寺」の名前が見えず、「猿林ノ森」のそばに「永福寺」という名前が見えます。

『防長寺社由来』第3巻(山口県文書館 昭和58.2)の「吉敷郡山口宇野領古熊村 禅宗永福寺由来書」に

本寺周防山口小鯖村禅宗泰雲寺末寺
 山口宇野領古熊村 禅宗永福寺
当寺は往古正応年中(1288〜1293)の頃より禅宗二て永福寺と申候。開基は大内十五代多々良弘幸公ニて御座候。此時の開山は仏国国師の由御座候。其段申伝へ候。伝書左ニ相記申候。右開基逝去の儀は文和元壬辰ノ年三月六日ニて、御法名は永福寺殿寒厳妙厳大禅定門と申候。御位牌御墓共ニ当寺ニ有之候。其後天文十五年只今の開山慶香和尚再興二て御座候。開基は于今右永福寺殿相立申候。


とありました。「永福寺殿」exclamation&question
山口の永興寺や弘幸の墓に関して、近藤清石の『大内氏実録』「巻第一 世家第一 弘幸」に書いてありました!
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▲『大内氏実録』「巻第一 世家第一 弘幸」(国立国会図書館蔵)

吉敷郡上宇野令古熊に葬り。
墓あり。山口久保町永福寺もとこの地に在りて、寺伝に弘幸の建立にて永興寺と云へりと云ふ。実に弘幸の法名永興寺寒厳妙厳と云ひて、其菩提寺なればしか云ふべきのことにて、大内氏壁書に、御代々御年忌、至其御寺、各可有出仕当日事云々、永興寺三月六日、と見えたれば、弘幸の菩提寺は、永興寺なることいはんも更なり。然るに永福寺の位牌に、永福寺殿とある甚疑ふべし。因て今これを熟考するに、永福寺所蔵文書箱の底に明応五年丙辰林鐘日永福永寔。また天文十九年卯月五日の円通寺末山付立に永福寺と見ゆれば、本寺ふるくより、永福寺と云へること決なし。思ふに観音寺を勝音寺とも云ひ、澄清寺を長泉寺とも云へる例にて、一寺二名なりしなるべし。さて上宇野令白石に、また永福寺と云ふ寺ありし由にて、いま影向と字に残れり。これやまことの永興寺ならんと云ふ人もあれど、永興と永福と別寺ならんには、ここに弘幸の墓あるべきことなり。しかるに弘幸の墓古熊に在るを以て考ふれば、堅固の憶説なれど、本寺もと白石にありて、永興とも永福とも云ひしを、弘幸の菩提所としたるが、弘幸の遺骸を古熊山に埋葬したるを以て、後に墓と寺と隔りありては不便なるを以て、白石より古熊に移し、然る後は、専ら永福寺といへるにぞあるべき。玖珂郡横山村にも永福寺ありて、弘幸位牌を安置せり。


とありましたが、どうなのでしょうか???

さて、気を取り直して……。
弘幸の墓のだいたいの場所はわかる(ネット地図で場所が表示してあるものもあり)のですが、はっきりと分からないので、古熊神社の方にお聞きしました。
古熊神社の一の鳥居をくぐり石段を下りると、左手にすぐに細い舗装されていない道があるので、その道を行って、1分位で「猿林」という看板がある、とのとこでした。

言われた道は、ここです。
この先で、すぐに、舗装した市道と合流します。
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市道に合流してからはこの山を目指してしばらく行きます。
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こちらで左に曲がります。
まっすぐ行くと行き止まりのようです。道なりに行きます。
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すると、すぐに、「猿林」の看板が見えますexclamation×2
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古熊神社の方からは、1分位で猿林の看板が見える、と言われたのですが、案の定迷ってそう簡単にはここに行き着きませんでした。でも、迷わなければすぐのところです。
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山口十境の詩
「猿林暁月」
  大内時代 明人 趙秩作
暁色初めて分かれ
天霜を降らす
凄々たる残月は
琳琅を伴う
山人一たび去って
消息無く
哀猿驚起して
空しく断腸す



鳥居が見え、ここが墓所だ!と分かります。
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でも、登り口が分からないちっ(怒った顔)
ちょっと先に手すりのある登り口があり、行ってみましたが、弘幸の墓所からはどんどん離れいきて、明らかに違う、と分かりました。
舗装道まで下り、看板のあったところまで引き返し、「まさかここでは!」というところを登っていきました。
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結構な坂道です。(道はない!)
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すると!
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こちらが、弘幸の墓です。
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今までお参りした大内氏歴代当主(重弘・弘世・盛見・政弘・義興・義隆(長門)・義長(下関)くらいしか行っていません)の墓の中で一番荒れ果てていましたもうやだ〜(悲しい顔)
宝篋印塔だと思うのですが……無残ですちっ(怒った顔)
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「大内弘幸卿墓」碑。
長州藩最後の第14代藩主である毛利元徳が1888(明治21)年に建立したものです。
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こちらは井戸の遺構だと思ったのですが、皆様がネットにあげていらしゃる写真を確認して、祠の朽ち果てた跡だと分かりました。
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瓦も、寺の遺構ではなく、祠の瓦ようです。年代的にも新しい感じがします。
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立派な石組みが寂しさを誘います。
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市街地の近くでこんなに景色もいいところなのに、墓所が荒廃していて、とても寂しい思いがしました。
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山口市は看板さえ設置していなく、「空しく断腸す」という思いです。
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近藤清石の『大内氏実録』「巻第一 世家第一 弘幸」などを参考に、弘幸の生涯を簡単にまとめてみました。
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▲『大内氏実録』「巻第一 世家第一 弘幸」(国立国会図書館蔵)

1308(延慶元)年、妙見社の神託により大森銀山を発見、採掘。(『石見国銀山要集 銀山通用字録 銀山旧記』(島根県立図書館蔵))
1309(延慶二)年、仏国国師(高峰顕日)(1241〜1316)を開山に不動山永興寺を創建。(『永興並末山記』)
1335(建武2)年11月、新田義貞の指揮下に入り、武家方と戦う。
1335(建武2)年12月、足利尊氏と誼(よし)みを結び、武家方となる。
1335(建武2)年、玉祖神社の社殿・神宝造営。
1336(延元元/建武3)年2月、叔父鷲頭長弘が周防守護代の職に任ぜられる。
1341(暦応4/興国2)年、大内氏氏寺の興隆寺が敵方たる一族(鷲頭方か)の代官某によって放火炎上、寺内坊舎在家に至るまで悉く焼失。(『大内妙厳書状』(暦応4年閏4月15日)(興隆寺文書 山口県文書館蔵))
1344(康永3/興国5)年、興隆寺再建のための造営料として、三ヵ年間矢田令内仁戸田保地頭職を仁戸田土興一丸分一町を除き寄進。(『大内妙厳造営料所寄進状』(康永3年閏2月21日)(興隆寺文書 山口県文書館蔵))
1345(貞和元/興国6)年、室町幕府 足利氏が諸国に安国寺と利生塔を定めたとき、大内御堀の乗福寺の塔をもって、周防国の利生塔にあてる。
1349(貞和5/正平4)年11月、氷上山興隆寺を再建。(『興隆寺本堂供養日記』(応永11年[1404]3月)(興隆寺文書 山口県文書館蔵))
1350(観応元/正平5)年10月、弘幸は子の弘世とともに長弘討伐に乗り出し、東大寺領吉敷郡椹野庄に乱入。
1351(正平6/観応2)年、南朝に帰順し、弘世は南朝より周防国守護に任命。
1352(正平7/観応3)年3月、仁平寺本堂を修造す。(『仁平寺本堂供養日記』(観応3年) (興隆寺文書 山口県文書館蔵)))
1352(正平7/観応3)年3月3日、仁平寺鎮守山王社(現在の菅内日吉神社)に法楽舞を施行。(『仁平寺本堂供養日記』(観応3年) (興隆寺文書 山口県文書館蔵)))
1352(正平7/観応3)年3月6日、死去。(『仁平寺本堂供養日記』(観応3年)(興隆寺文書 山口県文書館蔵)))
1352(正平7/観応3)年、3月8日から予定していた仁平寺本堂供養会を、弘幸死去のため、7日間延期し嗣子弘世が執行。(『仁平寺本堂供養日記』(観応3年)(興隆寺文書 山口県文書館蔵)))


次は、澄清寺の持世の墓に行きたい、と思っています。
15年位前のことですが、宮野(桜畠)に住む知人のYさんが、近所の山の中に大内氏の遺跡があるよ、と言っていたのでそこだと目星を付けています。

ところで、『山口市の石仏・石塔(2)―大殿・白石・湯田―』(山口の文化を守る会/編 山口市教育委員会 2004)を読んでいたら、P123に弘幸の墓にあったものによく似た写真を見つけました。
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永福寺鎮守神」とあり「大雄山永福禅寺神霊」と彫られているそうです。
「永興寺」ではなく「永福寺」ですかexclamation&question

P73の「大内幸弘墓」は明らかに「大内弘幸墓」の誤植だと思うのですが、掲載されている写真も雰囲気がずいぶん違うので、他に「幸弘」というお方がいらっしゃるのかもしれませんちっ(怒った顔)

傍の説明板に
 明治廿一年十二月
 大内幸弘墓
 正二位公爵毛利元徳建


と記載されているので、やっぱり「大内弘幸墓」の誤植ですよね。
でも、何回見直しても、今回撮影した写真と掲載されている写真が違うような・・・・・・。
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左の塔の横にある宝篋印塔の相輪の宝形と請花(うけばな)のようのものを載せれば掲載写真になる気がします。
市の政弘や盛見の墓にあるような市の説明板が欲しいです。整備もお願いします。



参考文献:
『山口市史 史料編 大内文化』(山口市 2010)
  P370〜71「大内殿過去帳」
  P362〜65「永興並末山記」
  P356〜60「興隆寺本堂供養日記」
  P231〜35「銀山旧記」
『大内氏実録』(近藤清石/著)(国立国会図書館蔵)
  ※国立国会図書館のデジタルコレクションでインターネット公開しています。
『大内氏の領国支配と宗教』(平瀬直樹/著 塙書房 2017)
   P49〜68「本拠地の変遷」
『大内氏史研究』(御薗生翁甫/著 山口県地方史学会 1959)
  「第二十八章 明史趙秩・朱本の山口館待と五山僧春屋妙葩」
『山口市の石仏・石塔(2)―大殿・白石・湯田―』(山口の文化を守る会/編 山口市教育委員会 2004)
  P123「大殿の神」No.2
 
「企画展I「〈汽車が速いのはよろしい〉― 中也の詩と乗り物」を見学しました [2020年06月16日(Tue)]
新型コロナウイルスの影響で休館していた山口市の中原中也記念館は、5月19日から再開し、これに合わせて企画展I「〈汽車が速いのはよろしい〉― 中也の詩と乗り物」を1か月余り遅れて開催しています。
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そこで、6月11日(木)、四ヶ月ぶりに中原中也記念館に行きましたぴかぴか(新しい)


1Fは第17回テーマ展示「教科書で読んだ中也の詩 ― 思い出の一篇」でしたが、こちらは2月15日に見学させていただいています。
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今日のお目当てはこちら揺れるハート
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2F会場内は、鉄道や自動車、汽船、飛行機の4つの乗り物を題材にした中也の日記や作品のレプリカなど25点が展示されていて、昭和初期の交通事情や当時の中也の思いに触れられるものになっています。

中也は、「汽車が速いのはよろしい、許す!」などとしながらも、「其(そ)の他はもう、我慢がならぬ」とか、「音のないのを発明せい」などと、発展を続ける交通技術への心情をつづっています。

(嘗てはランプを、とぼしていたものなんです)

かつてはラムプを、とぼしてゐたものなんです。
今もう電燈でんきの、ない所は殆どない。
電燈もないやうな、しづかな村に、
旅をしたいと、僕は思ふけれど、
却々[なかなか]それも、六ヶ敷[むつかし]いことなんです。
[ああ]、科学……
こいつが俺には、どうも気に食はぬ。
ひどく愚鈍な奴等までもが、
科学ときけばにつこりするが、
奴等にや精神こころの、何事も分らぬから、
科学とさへ聞きや、につこりするのだ。
汽車が速いのはよろしい、許す!
汽船が速いのはよろしい、許す!
飛行機が速いのはよろしい、許す!
電信、電話、許す!
其の他はもう、我慢がならぬ。
知識はすべて、惡魔であるぞ。
やんがて貴様等にも、そのことが分る。
エエイツ、うるさいではないか電車自働車と、
ガタガタゞゞゞゞ、朝から晩まで。
いつそ音のせぬのを發明せい、
音はどうも、やりきれぬぞ。
エエイツ、音のないのを發明せい、
音のするのは、みな叩き潰[つぶ]せい!



展示されていた日記には、妻や幼い息子と一緒に山口から上京するときの様子が詳しくつづられていて、寝台列車などを乗り継ぎ長時間かけて移動していた当時の交通事情が分かります。


中也は「音鉄(オトテツ)」ではないか、という取り上げ方はとても興味深かったです。
中也の生まれ育った湯田温泉の中原医院からは汽車の汽笛が聞こえていたそうです。

汽車の笛聞こえもくれば
旅おもひ、幼き日をばおもふなり
いなよいなよ、幼き日をも旅をも思はず
旅とみえ、幼き日とみゆものをのみ……

   「羊の歌  安原喜弘に」より

遠い遠い物音を
多分は汽車の汽笛の音に
頼みをかけるよな心持

   「朝(雀の声が鳴きました)」より

上手に子供を育てゆく、
母親に似て汽車の汽笛は鳴る。
  山の近くを走る時。

   「夏の日の歌」より

瀝青チャン色の空があった。
一と手切ちぎりの煙があった。
電車の音はドレスデン製の磁器を想わせた。
私は歩いていた、私の膝は櫟材くぬぎざいだった。

   「脱毛の秋 Etudes」より

中原中也記念館の中庭はJR山口線をイメージした枕木を敷き詰めてありますので、そちらもお見逃しなく。
IMG_9928 - コピー (2).JPG2020年3月撮影


飛行機は、中原思郎『兄中原中也と祖先たち』より
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▲『兄中原中也と祖先たち』(中原思郎/著 審美社)

中也が歩兵第42聯隊に飛行機を見に行ったときのエピソードが紹介され、
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▲歩兵第四十二聯隊之碑(陸上自衛隊山口駐屯地)

「逝く夏の歌」が展示してありました。

逝く夏の歌 

並木の梢が深く息を吸つて、
空は高く高く、それを見てゐた。
日の照る砂地に落ちてゐた硝子ガラスを、
歩み来た旅人は周章あわてて見付けた。

山の端は、澄んで澄んで、
金魚や娘の口の中を清くする。
飛んでくるあの飛行機には、
昨日私が昆虫の涙を塗つておいた。

風はリボンを空に送り、
私は嘗かつて陥落した海のことを 
その浪のことを語らうと思ふ。

騎兵聯隊や上肢の運動や、
下級官吏の赤靴のことや、
山沿ひの道を乗手のりてもなく行く
自転車のことを語らうと思ふ。


「昆虫の涙」ってどんなのだろう、とこの詩を読む度に思います。
クチナシの花がきれいでした。
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第6回アーサー・ビナード研究会 [2020年06月15日(Mon)]
6月29日(月)、山口児童館で、「第6回アーサー・ビナード研究会」が開催されますぴかぴか(新しい)

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 アーサー・ビナード研究会は、アーサーさんの絵本・翻訳本・詩集・紙芝居などを持ち寄って、ブック・トーク形式の朗読カフェを行います。すでに70点以上あるアーサーさんの作品を素材に語り合いましょう。
 毎月1回開催の予定です。
 初めての方も、ぜひどうぞ。事前予約は不要です。
 6月29日には、『このフクロウったら!このブタったら!』(アーノルド・ローベル/作 長崎出版)、『ダンデライオン』(ドン・フリーマン/作・絵 福音館書店 2005.2)の夢分析・夢占いにも挑戦する予定。
 当日はマスクの着用、入口での手の消毒をお願いします。


るんるん日 時るんるん 2020年6月29日(月)14:00〜16:00
るんるん場 所るんるん 山口児童館(山口市下竪小路254)
       電話 083-928-8656
るんるん定 員るんるん 30名
るんるん参加費るんるん 資料費・連絡通信費・お茶代・お菓子代などとして500円徴収予定
       差し入れ大歓迎exclamation×2
るんるん主 催るんるん アーサー・ビナード研究会(代表 金崎清子)
るんるん問 合るんるん 山口の朗読屋さん(代表 林伸一)        
       携帯電話 090-6415-8203
       fax to 083-920-3459
       mail to hayashix@yamaguchi-u.ac.jp


『このフクロウったら!このブタったら!』
(アーノルド・ローベル/作 エイドリアン・ローベル/彩色 アーサー・ビナード/訳 長崎出版 2013.1)
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『ダンデライオン』
(ドン・フリーマン/作・絵 アーサー・ビナード/訳 福音館書店 2005.2)
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前回第5回では、アーサー・ビナード詩集『釣り上げては』(思潮社 2000.7)の中の「夏の或る
日曜日」という詩の中に出てくる菅原克己の詩「ブラザー軒」に歌手の高田渡が曲をつけたものを山口児童館の石丸館長が演奏したり、ととても充実していたようです揺れるハート
音羽の瀧 @ 清水寺に行きましたF [2020年06月14日(Sun)]
【前回の続き】

清水寺には音羽の瀧もありますぴかぴか(新しい)

『山口古図』(山口県立文書館蔵)にも「音羽の瀧」が載っています。

ちょっと分かりにくいのですが、清水寺山門の手前20mくらいのところにあります揺れるハート
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水が流れている音は確かにするのですが、残念ながら瀧には水は流れていませんでしたもうやだ〜(悲しい顔)
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「音羽の瀧」石碑。
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光背型浮彫坐像の不動明王があります。
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自然石の庚申塔です。
享和四年甲正月二日」とあるそうです。
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地面には、テイカカズラの花がたくさん落ちていました。
上を見上げると、テイカカズラが木に巻き付いていました。
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その他、清水寺には初夏の花がいろいろ咲いていましたかわいい
ムラサキツユクサ。
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タンポポの一種と思うのですが。
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ホタルブクロ。
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ハナショウブ。
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山王社本殿 @ 清水寺に行きましたE [2020年06月13日(Sat)]
【前回の続き】

長い石段を上り詰めたところに、山王社がありますぴかぴか(新しい)
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覆屋の中にある小祠です。
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正面向拝の蟇股は輪郭の線も優美で室町時代の特色がよくあらわれているそうです。
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「清水寺山王社本殿」説明板。
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 この山王社は清水寺の鎮守として建立されたもので室町時代の大内弘世のときのの鎮座と伝えられ、本殿の内部にある木牌に「応安七年甲寅三月」と墨書があるので、この社殿の創建は応安七年(一三七四)であることがわかります。その後今から約四百年まえの頃、社殿が傷んだので永禄九年(一五六六)現在の社殿(木造一間社流造りで、こけら葺)に改築されました。その時に蟇股や野棟木のむなぎなどの一部の材料はもとのものが使われました。
 本殿は昭和四二年(1966)に解体修理を行いましたが、その時棟木に永禄九年の墨書が残っていることがわかり建立年代がはっきりしました。また、白上彦次郎とも墨書があり、この大工は古熊神社の本殿を建立した大工と同一人物でもあり、当時の神社建築の特色がよくでている建物であることがわかります。



「奉勧請山王権現 応安7年甲寅三月一日」
「造立山王御宝殿、永禄9年五月」

観音堂や
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鐘楼を横目で見ながら長い階段を下ります。
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山門を出て音羽の瀧に向かいます。
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【次回に続く】
観音堂 @ 清水寺に行きましたD [2020年06月12日(Fri)]
【前回の続き】

観音堂ぴかぴか(新しい)
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「観音堂」説明板。
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山口県指定有形文化財
清水寺観音堂
  昭和四二年一月一七日県指定
  山口市大字宮野下一一二七番地
清水寺は千手観音菩薩を本尊とする真言宗の寺院です。縁起によると、平城天皇の御代の創建と伝えられていますが、建久六年(一一九五)の国府文書には清水寺境内のことが書かれているので、すでに鎌倉時代には大寺であったことがわかります。
この観音堂の建立は、明応二年(一四九三)大内義興の時といわれていますが、江戸時代にたびたび大修理がされています。
建立当時は、九間四方の禅宗様式の大伽藍であったといわれていますが、今は縮小され、五間、四間となり内部もかなり修理のあとがみられます。しかし残っている細部の様式、とくに組物や木鼻の文様などに室町時代の禅宗様式の特色がよく出ていて貴重な建物です。
正面の階段の上の向拝は江戸時代に付したもので、手法は、全く江戸時代のものとなっています。


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1698年に奉納された青銅製の鰐口が観音堂に掛かっています。
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(外区)
防州吉敷郡山口宮野村清水寺観音堂
施主宮野村櫻畠之住徳田太兵衛敬白
鋳師三田尻河本甚佐衛門尉


(内区)
奉寄進鰐口
 元禄十一戊寅年
 四月吉祥月




参考文献:
『山口市史 史料編 民俗・金石文』(山口市 2015)
  P621〜22「清水寺鰐口」



【次回に続く】
参道 @ 清水寺に行きましたC [2020年06月11日(Thu)]
【前回の続き】

清水寺の山門をくぐると、
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長い苔むした階段が続きますぴかぴか(新しい)
登って行くには覚悟が要ります。
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途中に石仏が3体あります。
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左側の石仏は「観音」だそうです。
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光背型浮彫座像で「第一番紀州那智山」と銘が入っています。
きれいな観音像です。
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真ん中の石仏は「地蔵」だそうです。光背型浮彫座像。
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右側の石仏は光背型浮彫座像ですが、何だかわかりません。
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傍には山水が染み出ていました。
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コップが置いてあるけど飲めるのでしょうか?
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その後もただただ階段を登っていきます。
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庫裏がありました。
無住のようです。
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さらに階段を登って行きます。
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鐘楼が見えてきました。
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鐘楼。
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ツワブキがたくさん生えています。
山門のところの案内板にも書いてありましたが、秋には花が咲いてきれいでしょうね。
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階段を登りきったところに十境詩碑が見えてきました。
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登りきると観音堂が左手にあります。
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参考文献:
『山口市の石仏・石塔(4)―宮野・二保―』(山口の文化財を守る会/編 山口市教育委員会 2012)
  P28「宮野の地蔵」No.65  
  P59「宮野の観音」No.39 



【次回に続く】
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