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こどもと本ジョイントネット21・山口


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大内政弘の墓 @ 大内政弘の墓&法泉寺跡に行きましたB [2020年05月11日(Mon)]
【前回の続き】

堰堤天端を渡り、しばらく堰堤湖沿いを歩くと、右手にもしかしたら元は公園として整備していたのではないかという場所があり、壊れかけたようなトイレがあります。
その向こうに墓がありますが、それが目的の墓ではありません。
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その先に、駐車場があります。
案内板が道路から見えるところに立っています。
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大内政弘の墓
     50m登る
大内政弘は大内氏二九代の武将で、文安三年(一四四六)に築山館を建てた教弘の長男として生まれました。
応仁元年(一四六七)に始まった応仁の乱では、山名宗全に味方して大兵を率いて上京し、西軍の将として戦っています。戦乱で京都は焼野原になり多くの文化人が政弘を頼って山口を訪ずれるようになりました。
政弘は京でも武将として名を上げた半面、芸術文化にも大変な関心を示しています。京都に在陣の頃から和歌や連歌の道に親しみ、帰国後も宗祇を山口に招いて、築山館で連歌の会をたびたび催しています。家臣達もたしなみ、山口は文化都市として大いに栄えました。また、画僧雪舟も政弘の保護の下で技術を磨き、わが国の水墨画を完成させています。
明応四年(一四九五)九月、病により五〇歳で他界。菩提寺は法泉寺。当時の連歌師猪苗代兼載は政弘の墓に詣でて次のような歌を詠んでいます。
   いたづらに吹くぞかなしきなき人も
     かへらぬ野辺の葛のうら風


ここから50m先ということですね。
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杉林の山道を進んでいきます。
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こちらが大内政弘墓所です。
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大内政弘の墓です。
宝篋印塔だとは思うのですが、相輪の部分は明らかにどこからか持ってきたものですよね。
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こちらは?
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こちらは?
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「大内政弘卿墓」の碑。
長州藩最後の第14代藩主である毛利元徳(もとのり)が建立したものです。
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盛見の墓にも、義隆の墓にもありましたね。
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猪苗代兼載(いなわしろけんさい)(1452(享徳元)〜1510(永正7))の『奉悼法泉寺殿辞(あしたの雲)』(『大内氏実録土代』巻二十「近藤清石文庫」 山口県文書館)によると

明応四のはじめの秋、(略)長月の中の八日の夜(つまり9月18日)、終に空敷(むなしく)見なし侍りぬ。
(やが)てその暁天(ぎょうてん)、なにがしの寺(法泉寺)迄出し侍るに、道すがら有明月(ありあけづき)うすぐもりつつ、もの心ぼそきに、誰とはしらず打なくこゑなど、いはんかたなし。さて、おさめ侍る事は、廿二日の明けがたなるべし。かの寺(法泉寺)のうしろの山に、此春頃より終の栖をしめ置、道など迄付てをかれけるとなり。かかるべしとかねてさとり給へる、いたりふかく不思儀(議)なる事なるべし。四方に嶺つらなり、古杉(松)老杉ならび立、飛泉石上にいさぎよく、誠に霊地と覚ゆ。


と生前よりこの場所を墓所として用意していたことがわかります。
前からどうしてこんな場所に、と思ってはいたのです。他のサイトさんでは、鬱蒼とした山の中とか、そんな記述が多く、初めから自分では行くことのできない場所と決めつけていました。
今回、応仁の乱と室町幕府にはまっている猫に誘ってもらわなければ、絶対来ませんでした。
でも、来てみると、杉林も間伐されていて、思ったよりずっと明るい(?)場所でした。車も停められるし、車道からすぐだし。

政弘は、深山幽谷の風情を愛で、ここを墓所に定めたのではないでしょうか。
実際に訪れてみて、山々を眺め、水のせせらぎを感じ、そう思うようになりました。

葬式の儀は、遺命に任て、何事も事そがれ侍ると也。

とあったにもかかわらず、

諸寺諸山の僧達、所もなく立ちこみ、鈸(ばつ)鼓のひゞき雲にこたへ、貴賤のかなしびのよそほひ霧にむせび、数千の人々藤の衣にやつれたる中に、

と大々的に行われたようです。
ここで、「藤の衣」でましたね。ここでは、「喪服」のことです。
跡継ぎの義興(1477〜1529)はどうだったかというと、

家をつぎ玉へる別駕のあるじ(大内義隆)、はたち計にてすがたよしげにもの/\しく、何事かはかの朝臣(大内政弘)にをとり給ふべきととぞ見えける。色ふかき袖に位牌などさゝげもちてねりわたり玉にぞ、見る人泪はせきあへざりける。

「せきあふ(塞き敢ふ)」とは、「おさえて我慢する」こと。

 かくて、ふかき山の中におさめ捨侍りて、皆立かへるもなさけなく、世はうきものなりけりとおもひしらる。
  千々の人なびき仕し君を今あしたの雲と見るぞかなしき

(略)
   前七州太守法泉寺殿早世の時、つくしにてしるす。
       法橋兼載


『奉悼法泉寺殿辞』(ほうせんじどのをいたみてまつるじ)は、政弘の終焉と葬儀の様子を述べつつ、特に政弘の文事における業績を讃えています。
兼載は、大内政弘の後援を得た、宗祇の『新撰菟玖波集』の編纂にも参加していることもあって、政弘の死を悼んだのですね。

『新撰菟玖波集』より政弘の歌(巻第一・春連歌上)を。

      多々良朝臣政弘
 み山のかげ春のさびしさ
うぐひすの人くとつぐる人はこで
  
  


参考文献:
『山口市史 史料編 大内文化』(山口市 2020)
  P574〜579「奉悼法泉寺殿辞(あしたの雲)」
  P488〜495「新撰菟玖波集実隆本」



【次回に続く】
五十鈴川砂防堰堤 @ 大内政弘の墓&法泉寺跡に行きましたA [2020年05月10日(Sun)]
【前回の続き】

大内政弘の墓を目指して進んで行きましょう。
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左手に「五十鈴川砂防堰堤の碑」があります。
「柳の水 500m」の標識。
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「いすずがわえんてい」とひらがなで書いてあります。
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フジがきれいです。
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南の下流側は、市内が見えます。
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二本の尖塔はザビエルの塔です。
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堰堤によって造られた湖はそれほど大きくはありませんが、湛々と水をたたえています。
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砂防堰堤なので土砂の流出を防ぐ為に設置されていますが、ある程度貯水して川の流速も緩和し、灌漑目的もあるのでしょうか。
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紺碧の湖面は、政弘の墓が誘っているのでしょうか、妖しい雰囲気を醸し出しています。
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とはいって、大内氏の時代には砂防堰堤はありませんでした。
五十鈴川が流れているだけでした。この五十鈴川という名前も、おそらく1520(永正17)年に義興伊勢皇太神宮のご分霊を勧請した頃に付けられたのと思います。
京都から1518(永正15)年10月に11年ぶりに山口に帰ってきた義興はですが、すぐ太神宮を勧請する用意にとりかかり、義興は自らその社地を視察し、高嶺の東麓を境内地と決めました。

永正十五年戌寅従京都御下向是、十月五日山口御着、(略)高嶺麓正法院敷地可然在所云々、正方東向也、南ハ有小山明也今観音堂再興之、西者高嶺峨々として、元観音堂旧跡巌掘在之、北ハ深山遠くめくりて法泉寺・香積寺(今の瑠璃光寺)山所々につゝく、しかるに同十月廿六日、御出有て御歴覧之処、古寺之砌(さい)嚝々(こうこう)たり、石清水湛々(たんたん)として無増減、岩ほならひていさきよし、殊にハ、本社祭礼等に用らるゝ草木まで天然有と云々、早/\地形を引とゝのへ、御社檀御建立の事可相催之由、被仰出事、
(『高嶺太神宮御鎮坐伝記』(山口大神宮蔵))

とあるように、この川の清らかな水の流れも、「高嶺太神宮」境内地の決める際のポイントとなったようです。
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今歩いてきた堰堤の天端。
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こちらには、「五十鈴川砂防堰堤」と漢字で書いてあります。
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実は、堰堤の下流側は「プール」なるものがあり、どうも親水公園として整備したようです。
案内図の傍には、確かに下に降りる階段がありました。
ですが、現在は余りにも痛々しく荒れ果てていて写真を撮る気になりませんでしたもうやだ〜(悲しい顔)
案内図によると「いこいの広場」もあるようですね。
山口市内には、せっかく整備したものの、管理されずに荒れ果てた場所が何か所かあります。
市民・県民としてもったいない気がします。
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あの山は鴻ノ峰だと思います。
山の形は変わらないので、政弘も義隆もこの景色を見たことでしょう。
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松の花が咲いています。
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フジがきれいです。
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政弘の墓はすぐそこでしょう。

この道をさらに進むと柳の水があり、そして法泉寺峠があります。
今歩いている道が、義隆が法泉寺から法泉寺峠を通って吉敷中尾の凌雲寺、肥中街道へと進んだ道だと思うと感慨深いです。
義隆はどんな想いで、政弘の墓の前を通ったのでしょうか。
石仏と中尾の伝説「塩原」 @ 中尾の文化財さんぽA」でも書きましたが、吉敷地域づくり協議会の「中尾の凌雲寺から県庁裏の法泉寺へつうじる道」には、柳の水から吉敷塩原まで踏破された記事が地図と併せて載っていますので、興味のある方はどうぞ。



参考文献:
『山口市史 史料編 大内文化』(山口市 2010)P340〜345「高嶺太神宮御鎮坐伝記」



【次回に続く】
梅峯飛瀑 @ 大内政弘の墓&法泉寺跡に行きました@ [2020年05月09日(Sat)]
大内政弘の墓とその菩提寺 法泉寺跡に行きましたぴかぴか(新しい)

車でも行けそうですが、初めてなので、山口県庁奥の駐車場に車を停めて行くことにしました。
右側に流れているのは、五十鈴川です。
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すぐに分岐点があります。
まず「大内政弘墓」に行くことにしします。
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「大内政弘墓」の標識はありませんが、「柳の水 800m」の標識の方へ真っ直ぐ進みます。
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沿道の花の写真を撮りながら、ハイキング気分です。
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車が離合できそうな道幅です。離合場所も設けられています。
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この季節、山藤がきれいです。
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「梅峯の滝 入り口130m先」の標識。
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ここの梅峯の滝が山口十境詩「梅峯飛瀑」に詠まれた滝です。
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梅峯の滝にはずいぶん昔、山口県立山口博物館の植物採集のイベントで行ったことがあります。
狭くて暗い山道を登っていくと、滝があり、まるで幽玄の世界に入り込んだようで、感動したことを今でも覚えています。
今日は先を急ぐのでここからの景色で我慢です。
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こちらにもヤマフジが。
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右手に五十鈴川砂防堰堤が見えてきました。
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左手に祠がありました。
中にあるのは、よく見ると親鸞聖人像?
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地図が設置してありました。
「五十鈴川都市対策砂防ダム及び周辺案内図」
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一応地図は持ってきましたが、こういう現地案内図があると本当にありがたいです。
実際後々大変役に立ちました。
目的地はここですかわいい
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案内図のすぐそばに、「山口十境詩」碑があります。
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現地案内図の「山口十境詩」説明。
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 中世において西日本の守護大名であった大内弘世の時代(一三七三)に、当時西の京と呼ばれた山口を訪れた明国(現中国)の使節趙秩は、市内の名勝十ヶ所を選び
「猿林暁月」「梅峰飛瀑」「虹橋跨水」「鰐石生雲」「温泉春色」「鰐石生雲」「清水晩鐘」「初瀬晴嵐」「氷上滌暑」「南明秋興」「象山積雪」
と題して十境の詩を詠んだ。


「山口十境詩」碑。
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石碑「山口十境詩」。
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梅峯峰飛瀑
銀河誰挽玉龍翔
白練懸崖百尺長
噴向梅梢雨花落
濺人珠玉帶C香


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梅峰の飛瀑
ばいほうのひばく

銀河、誰か挽く、玉竜の翔
ぎんが、だれかひく、ぎょくりゅうのしょう

白練、崖に懸かれり、百尺の長
はくれん、がけにかかれり、ひゃくしゃくのちょう

噴は梅の梢に向こうて、雨花落つ
いぶきはうめのこずえにむこうて、うかおつ

人に濺ぐ珠玉は、清香を帯びたり
ひとにそそぐしゅぎょくは、せいかをおびたり

「梅峰の滝の由来」案内板。
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梅峰の滝の由来
空を仰ぐと銀河。美しい竜が、天がまさにけっている
その雄姿を、いったい誰が挽っぱっているのか。
その直下に、高い崖の上から
白いねり絹のような滝が懸かっている。
その長さといったら百尺程もあろうか。
滝の激しい水しぶきが、
梅の梢に向かって勢いよく吹きつけ、
水をふくんだ梅の花びらは、はらはらと落ちてゆく。
滝を仰ぎみる人々の上に降りそそぐ、
真珠のようなしずくは、
梅の清らかな香りをしっとりと帯びている。


二十四代大内弘世開基の法泉寺跡近くにある滝を詠んだ詩で、現在は地名も滝町である。二十九代大内政弘の墓所で、梅・桜の名所として、三十一代義隆は観梅の宴を催したといわれている。
なお、詩の意訳は山口市在住の郷土史家荒巻大拙氏による。


 ※案内板や碑によって、「梅峯」と「梅峰」と表記の揺れがありますが、それに従いました。
 ※『山口市史 史料編 大内文化』(山口市 2010)P534〜5「山口十境詩」では、「梅峯飛瀑」となっていました。「初瀬晴嵐」は「長谷晴嵐」となっていました。


政弘の墓はもう少しのようです。


【次回に続く】
瓶にさす 藤の花ぶさみじかければ 畳の上にとどかざりけり @ フジC [2020年05月08日(Fri)]
【前回の続き】

正岡子規(1867(慶応3)〜1902(明治35))の『墨汁一滴』にフジを描いた句があります。
子規は死を迎えるまでの約7年間 脊椎カリエスを患っていました。
『墨汁一滴』は新聞「日本」に、1901(明治34)年1月16日〜7月2日に掲載された晩年の随筆です。

子規居士自画肖像(正岡子規/画 国立国会図書館蔵)
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夕餉したため了りて仰向に寝ながら左の方を見れば机の上に藤を活けたるいとよく水をあげて花は今を盛りの有様なり。艶(えん)にもうつくしきかなとひとりごちつつそぞろに物語の昔などしぬばるるにつけてあやしくも歌心なん催されける。この道には日頃うとくなりまさりたればおぼつかなくも筆を取りて

(かめ)にさす藤の花ぶさみじかければたゝみの上にとゞかざりけり
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瓶にさす藤の花ぶさ一ふさはかさねし書(ふみ)の上に垂れたり
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藤なみの花をし見れば奈良のみかど京のみかどの昔こひしも
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藤なみの花をし見れば紫の絵の具取り出(い)で写さんと思ふ
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藤なみの花の紫絵にかゝばこき紫にかくべかりけり
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瓶にさす藤の花ぶさ花垂(た)れて病の牀(とこ)に春暮れんとす
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去年こぞの春亀戸に藤を見しことを今藤を見て思ひいでつも
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くれなゐの牡丹(ぼたん)の花にさきだちて藤の紫咲きいでにけり
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この藤は早く咲きたり亀井戸(かめいど)の藤咲かまくは十日まり後
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八入折(やしおおり)の酒にひたせばしをれたる藤なみの花よみがへり咲く
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おだやかならぬふしもありがちながら病のひまの筆のすさみは日頃稀(まれ)なる心やりなりけり。をかしき春の一夜や。
      (四月二十八日)



その他にも、子規はたくさんのフジの句を詠んでいますが、その中からいくつか。

松の木に藤さがる画や百人首  『寒山落木』

藤の花長うして雨ふらんとす  『子規全集』

念仏に季はなけれども藤の花



写真は維新100年記念公園の藤棚ですかわいい
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ここのフジはノダフジだそうです。
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フジには、つるが右巻き(上から見て時計回り)と左巻きの二種類があり、右巻きのフジは「フジ」または「ノダフジ」、左巻きの藤の標準和名は「ヤマフジ」または「ノフジ」といいます。
月に遠くおぼゆる藤の色香哉 @ フジB [2020年05月07日(Thu)]
【前回の続き】

藤棚が作られるようになったのは江戸時代元禄期からですぴかぴか(新しい)

国立国会図書館「錦絵でたのしむ江戸の名所」からフジの花を描いた錦絵をピックアップしましょう。

江戸時代 フジといえば、亀戸天神のようです。

「東都名所合 亀井戸」(豊国 佐野喜 1854(安政1) 国立国会図書館蔵)
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「亀戸藤の景」(香蝶楼豊国,一陽斎豊国 古賀屋勝五郎 豊国国芳東錦絵 国立国会図書館蔵)
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「東都名所亀井戸池中藤花之盛」(広重 藤彦 国立国会図書館蔵)
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「名所江戸百景 亀戸天神境内」(広重 魚栄 安政3 名所江戸百景 国立国会図書館蔵)
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「江戸名所 亀井戸天神ふし」(広重 泉市 東都名所 国立国会図書館蔵)
江戸名所亀井戸天神ふし 広重 (2).png

「江戸名勝図会 亀井戸天神」(広重 江戸名勝図会 国立国会図書館蔵)
江戸名勝図会 亀井戸天神 (2).png

「東都三十六景 亀戸天満宮」(広重 相ト 国立国会図書館蔵)
東都三十六景 亀戸天満宮 広重 (2).png

亀戸天神の藤棚です。ただし11月初めに撮った写真なので、花が咲いていませんもうやだ〜(悲しい顔) 
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藤を詠んだ句を適当に挙げてみました。

草臥て(くたびれて)宿かる比(ころ)や藤の花  松尾芭蕉『笈の小文』

水影やむささびわたる藤の棚  其角『皮籠摺』

蓑虫のさがりはじめつ藤の花  去来『北の山』

月に遠くおぼゆる藤の色香哉  与謝蕪村「連句会草稿」

山もとに米踏む音や藤の花 与謝蕪村

藤の花雲の梯(かけはし)かかるなり  与謝蕪村『落日庵句集』

行く春の後ろを見せる藤の花  小林一茶

藤棚の隅から見ゆるお江戸かな  小林一茶


【次回に続く】
色あひよく花房長くさきたる藤の花 松にかかりたる @ フジA [2020年05月06日(Wed)]
【前回の続き】

平安時代になると藤花の宴(とうかのえん)が催され、寝殿式庭園では、中庭のマツの木に絡ませてフジを鑑賞するのが流行りました。

清少納言『枕草子』の第39(42)段あてなるもの(上品なもの)の一つに「藤の花」を挙げています。
第34(37)段木の花はでも

藤の花は しなひ長く 色濃く咲きたる いとめでたし

「藤の花は、しなやかに曲がって垂れている花房が長く、色が濃く咲いているのが、たいそう素晴らしい。」と書いています。

第84(88)段では、めでたきものとして

色あひよく花房長くさきたる藤の花 松にかかりたる

「素晴らしいもの一つに、色合いに深みがあって、花房(はなぶさ)が長く咲いた藤の花が松にかかっている景色」を挙げています。


『春日権現験記』(板橋貫雄/模写 1870(明治3) 国立国会図書館蔵)第5軸にマツに絡まるフジが描かれています。
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『春日権現験記』(かすがごんげんげんき)は、藤原氏の氏神である春日神(春日権現)の霊験を描いた鎌倉時代の絵巻物です。1309(延慶2)年に時の左大臣 西園寺公衡の発案で、宮廷絵所の長 高階隆兼によって描かれ、春日大社に奉納されました。
こちらは『春日権現験記』が奉納された春日大社。
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4月中旬だったのでフジは咲いていませんでしたちっ(怒った顔)
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いやいや、よく見ると咲いています揺れるハート
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▲以上5枚、2016年4月12日撮影


紫式部『源氏物語』でも、フジの花が登場する場面はいくつかあります。
第三十三帖「藤裏葉」では、藤花の宴がとりあげられています。
雲居の雁の父の内大臣は、藤花の宴に夕霧を招待し、相思相愛の二人の結婚を許します。

藤の花の枝に付けた内大臣から夕霧への贈歌。
わが宿の藤の色濃きたそかれに 尋ねやは来ぬ春の名残を
 わが家の藤の花の色が濃い夕暮れに訪ねていらっしゃいませんか、逝く春の名残を惜しみに。

※『和漢朗詠集』上巻「春」「三月尽」
惆悵す春帰って留むることを得ざることを紫藤の花の下に漸く黄昏たり

※白居易「三月三十日題慈恩寺」
慈恩春色今朝盡  慈恩の春色(しゅんしょく) 今朝(こんてう)尽く
盡日裴回倚寺門  尽日(じんじつ)徘徊(はいくゎい)して寺門(じもん)に倚(よ)る
惆悵春歸留不得  惆悵(ちうちゃう)す 春帰りて留め得ざるを
紫藤花下漸黄昏  紫藤(しとう)花下(かか) 漸(やうや)く黄昏(こうこん)

宰相中将(夕霧)の返歌。
なかなかに折りやまどはむ藤の花 たそかれ時のたどたどしくは
 かえって藤の花を折るのにまごつくのではないでしょうか、黄昏時のはっきりしない頃では。
 「(花を)折る」には結婚する、の意

内大臣の詞。
『後撰集』巻三「春下」一〇〇、読人しらず
春日さす藤のうら葉のうちとけて君し思はばわれも頼まん

内大臣の夕霧への贈歌。
紫にかことはかけむ藤の花 まつより過ぎてうれたけれども
 紫のせいにしましょう、藤が松の木を超えるほど(貴方の結婚申し込みを)待ち過ぎてしまったことはつらいことでしたが。
 「紫」は雲居雁をさす。
 「まつ」に「松」と「待つ」、
 「憂(う)れ」(つらいこと)に「末(うれ)」(木の枝の先端)を懸ける。
 「藤」と「末」は縁語。

頭中将(柏木)歌。
たをやめの袖にまがへる藤の花 見る人からや色もまさらむ
 うら若い女性の袖に見違える藤の花は、見る人の立派なためかいっそう美しさもまさることでしょう。

(略)この花のひとり立ち後れて 夏に咲きかかるほどなむ あやしう心にくくあはれにおぼえはべる 色もはた なつかしきゆかりにしつべし(略)
 藤の花だけが一歩遅れて、夏にまたがって咲くという点でいいものだと心が惹かれて、私はこの花を愛するのですよ。色だって人の深い愛情を象徴しているようでいいものだから(与謝野晶子訳)

(略)まだほのかなる梢どもの、さうざうしきころなるに、いたうけしきばみ横たはれる松の、木高きほどにはあらぬに、かかれるのさま、世の常ならずおもしろし。(略)
 春の花が皆散ったあとで若葉もありなしの木の梢の寂しいこのごろに、横が長く出た松の、たいして大木でないのへ咲きかかった藤の花は非常に美しかった。(与謝野晶子訳)


【次回に続く】
藤波の花は盛りになりにけり @ フジ@ [2020年05月05日(Tue)]
我が家のフジの花が満開です。
鉢植のフジですが、この何年かで勢いを増して、すごい状態になっています。
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フジの花は古来より日本人に愛され続けています。

『万葉集』では26首に登場します。
〈巻八・「秋相聞」・一六二七 〉には、家の庭に移植したフジの花の咲く様子を愛でたのでしょう、こんな歌があります。

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『[曼朱院本]萬葉集 20巻』(京都大学附属図書館蔵)

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『万葉集 20巻』(近衛文庫 京都大学附属図書館蔵)

大伴宿祢家持攀非時藤花并芽子黄葉二物贈坂上大嬢歌二首
吾屋前之 非時藤之 目頬布 今毛見壮鹿 妹之咲容乎  
(一首略)
 右二首天平十二年庚辰夏六月徃来

大伴宿祢家持 時じき藤の花 并(あは)せて萩の黄葉(もみち)の二つの物を攀(よ)ぢて、坂上大嬢(さかのうえのだいじょう)に贈る歌二首

大伴宿祢家持」つまり大伴家持(おおとものやかもち)が季節はずれの藤の花と萩の紅葉の二つをよじって折り取り、坂上大嬢に贈った歌二首のうち一首です。

わがやどの ときじきふぢの めづらしく いまもみてしか いもがゑまひを

  「咲容」は「えまい」と読みます。
  「咲」は「笑」の古字で、「咲(わら)う」「咲(え)み」と読みます。
  「乎」はここでは「を」と読みます。

我が宿の 時じき藤の めづらしく 今も見てしか 妹が笑まひを
  
  「我が宿の時じき藤の」は「めづらしく」を導く序詞です。
  「時じき」は形容詞連体形で、「その季節にはずれている」の意です。
  「めづらしく」季節はずれに咲く藤の花が清新であることと、「妹」の「笑まひ」がすばらしいことの両方にかかります。

我が家の庭に咲いた季節はずれの藤の花がめずらしいように、いますぐにでもみたいものです。あなたの笑顔を。

ちなみに、家持が贈ったもう一首はこちらです。

吾屋前之 芽子乃下葉者 秋風毛 未吹者 如此曽毛美照
わがやどの はぎのしたばは あきかぜも いまだふかねば かくぞもみてる
我が宿の 萩の下葉は 秋風も いまだ吹かねば かくぞもみてる
我が家の庭の萩の下葉が秋風もまだ吹かないというのに、ほれ、こんなに色づきました。
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▲ハギ(2019年10月28日元興寺(奈良市)にて撮影)

大伴家持
(巻子『三十六歌仙像』 清家文庫 京都大学附属図書館蔵)
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〈巻三・「雑歌」・三三〇〉に
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『万葉集 20巻』(近衛文庫 京都大学附属図書館蔵)

防人司佑大伴四綱謌二首
(一首略)
藤浪之 花者盛尓 成来 平城京乎 御念八君  

防人(さきもりの)司佑(つかさのすけ)大伴四綱(おおともよつな)の謌二首

歌い手は大宰府の防人の次官 大伴四綱。
奈良を離れて遠く大宰府に赴任している大宰府の長官 大伴旅人(おおとものたびと)に向けて詠んだ歌といわれています。

ふぢなみの はなはさかりに なりにけり ならのみやこを おもほすやきみ
 
 「尓」は「に」と読みます。
 「平城京」は「平城の京」つまり「ならのみやこ」です。
 「乎」は「を」と読みます。
 「念」は「おもほす」です。 

藤波の 花は盛りに なりにけり 平城の京を 思ほすや君

 「藤波」は、藤の花。藤の花房が風になびくさまを波に見立てていう語。
 「君」は、大伴旅人を指すと考えられます。

波打つように咲き誇る藤の花は今こそ盛りを迎えています。(長官は)奈良の都を思い出されておられますでしょうか。

これに答えるように、〈巻三・三三一〉から大伴旅人の望郷の歌が続きます。

帥大伴卿歌五首
吾盛 復将變八方 殆 寧樂京乎 不見歟将成

(以下四首略)

 「復」「を(つ)」(〈変若〉つ)(自動詞)もとに戻る。若返る。
 「殆」「ほとほと(に)」(副詞)@もう少しで。すんでのところで。危うく。Aおおかた。だいたい。

わがさかり またをちめやも ほとほとに ならのみやこを みずかなりなむ
我が盛り また変若めやも ほとほとに 寧楽の京を 見ずかなりなむ
わが権勢を誇っていた頃にまた復帰できるだろうか。いやいや、このまま奈良の都を見ずじまいになりそうだ。


「盛りになりにけり」と詠われている「藤の花」もおそらくは「藤原家」のことを遠回しに表現したのではないかとも言われています。
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フジは鑑賞するだけでなく有用植物でもあります。
奈良時代、フジの蔓は、樹木を伐採し、運び、建物を建てるためにも使われました。
また、「藤布」といって、縄文時代から山野に自生するフジの蔓の外皮の繊維で織ってが作られていました。

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そんな藤布を使って作った衣服を「藤衣」といい、織り目が粗く、肌触りが硬い。貧しい者の衣服とされていました。
粗末な作業着である藤衣を着た海女を詠んだ歌があります。

〈巻三・「譬喩歌」・四一三〉
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『万葉集』(清水浜臣 国立国会図書館蔵)

大網公人主宴吟歌一首
須麻乃海人之 塩焼衣乃 藤服 間遠之有者 未著穢

大網公人主(おおあみのきみひとぬし)が宴会の時に戯れて詠んだ歌です。

すまのあまの しほやききぬの ふぢころも まどほにしあれば いまだきなれず  

須磨の海女の 塩焼き衣の 藤衣 間遠にしあれば いまだ着なれず

須磨の海女の塩焼き作業に着る藤衣は織目が粗いので、まだ着慣れないです。

 「塩焼き衣の藤衣」の「の」は同格の格助詞。「塩を焼くときの作業着である藤衣」という意です。
 「藤衣」は、藤の皮の繊維で織った庶民の衣服。序詞として用いて、織り目が粗い意から「間遠に」に、衣のなれる意から「馴れる」にかかります。
 「間遠」は、織り目が粗いさま。衣の繊維の目が粗いことと、会う間隔が長い、つまり、逢える日の少ない意味を重ねています。
 「いまだ着なれず」は、まだ着古して身体になじんでいないことで、うち解けられない意味を重ねています。



参考文献:
『[曼朱院本]萬葉集 20巻』(京都大学附属図書館蔵)
『万葉集 20巻』(近衛文庫 京都大学附属図書館蔵)
巻子『三十六歌仙像』( 清家文庫 京都大学附属図書館蔵)
  ※以上3冊は京都大学貴重資料デジタルアーカイブでインターネット公開されています。
『万葉集』(清水浜臣 国立国会図書館蔵)
  ※国立国会図書館デジタルコレクションでインターネット公開されています。


【次回に続く】
大内氏館(26)惣門 @ 大内氏遺跡指定60周年記念バスツアー2019㊶ [2020年05月04日(Mon)]
【前回の続き】

『大内氏時代山口古図』(山口県文書館蔵 軸物)を見ていて気になるのが「惣門」です。
竪⼩路の北と南の⼆箇所にあるのですぴかぴか(新しい)
この門の内側が大内家当主が住む大内氏館を中⼼とした武家地を示すのでしょうか。


一つは木町から一の坂川を超えて竪小路に入る辺り。⽊町橋の南側ですひらめき
ここは、いかにも、町のはずれを示す門のような気がします。
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もう一つは、法界寺の先の竪小路と久保小路との交差点です。
久保=窪だったようです。
こちらは、町方との境界に設け、往来を制限していたのでしょうか。
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平瀬直樹さんの『大内氏の領国支配と宗教』(塙書房 2017)(第2部 第1章「山口の都市空間」P115〜142)にそのことが少し書いてあります。

どんな門だったのか、想像しています。



参考文献:
『大内氏時代山口古図』(山口県文書館蔵 軸物資料218)
 ※山口県文書館の高画質画像ダウンロードで公開されています。



【次回に続く】
大内氏館(25)龍福寺Ⅻ山門脇の土塁 @ 大内氏遺跡指定60周年記念バスツアー2019㊵ [2020年05月03日(Sun)]
【前回の続き】

「史跡(大内氏遺跡附凌雲寺跡) 大内館跡」案内板に、
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館は、百間四方の堀と土塁に囲まれた中に造られていたと言われています。現在は、ほとんどその面影を見ることは出来ませんが、山門の東側竹藪の中に土塁の一部を見ることができます。

と、土塁の名残を見ることができる、とあり、ずっと、どこだろうと探していましたが、今回、その場所が分かりましたぴかぴか(新しい)
山門脇に竹藪があり、少しだけこんもりしていました。

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大内氏館第24次調査の結果、土塁の名残とされた山門脇の高まりは、16世紀中頃から後半の遺構群をおおいかぶせたものであるとことが確認されたとのことです。
つまり、大内氏館の遺構ではなく、大内氏館廃絶後の遺構だということです。

考えられるものは、2つあるようです。

かわいい大内輝弘の乱の名残ひらめき

1569(永禄12)年、豊後大友氏の許に身を寄せていた大内輝弘(政弘の次男高弘の子ども、つまり、義隆のいとこ)が山口に乱入し、「築山竜福寺」に立て籠もりました。
岩国領の家老香川正矩によって編纂された『陰徳記』四六巻(山口県文書館蔵 藩政文書 三卿伝史料417)に、

築山ノ付近ニモ塀ヲ付、堀ヲホリ、矢倉ヲ上ゲテ用心堅固

とあり、山口への入り口のあちらこちらに逆茂木(さかもぎ)を備えさせたり、堀を作らせたりなどし、また、松木入道一佐の「どうして堀など構える必要があるのですか。」という進言を押し切って、築山の館の周りにも塀を取り付けて堀を掘り、矢倉を構えて堅固に用心したようです。
輝弘の乱は、毛利軍によってわずか10日あまりで鎮圧されました。
もしかしたら、そのときの跡ではないか、とも考えられるそうです。


少し話がそれるのですが、山口市中矢原の石州街道沿いに「調べの森」というのがあります。
もう、住宅が建ち並びその面影は全く残っていませんが、大内輝弘が豊後の国から押し寄せ秋穂白浜に着岸した際、毛利側は関所を設けて通行人を調べたことによるといいます。そして「矢原にて火を立て(のろしを上げ)候はば、鴻ノ峰(城)より火を合わせ申し候」とあります。
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高嶺城跡から望むと、ここからは山口盆地が一望できます。大内氏館跡、築山跡ももちろん調べの森のある矢原も。
当時は今のように樹木はなくもっとよく見えたはずです。矢原であげたのろしもきっと見えたことでしょう。
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市川経好(いちかわつなよし)を城番として置きました。永禄十二年(一五六九)に大内輝弘が山口に攻め入った際に、毛利勢はこの城の守りを固めて寄せ付けなかったといわれています。」と案内板にあります。
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大内輝弘は秋穂に上陸し「お上使道」を通り、梅の木峠を越え、陶に至り、陶峠を越えて山口に入ったといわれています。
陶峠の麓に正護寺という寺があります。
陶氏ゆかりの寺で「大内輝弘の乱で兵火にかかり、今の地「陶の館」の跡に移転建立された。」と案内板にあります。
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その他にも山口市内には、大内輝弘関係の史跡があるようです。田中穣 編著 『秋穂町の史跡と伝説』「輝弘の乱と秋穂付近の伝説」に詳しいのでそちらをご覧ください。



かわいい益田元祥が龍福寺を拝領し仮寓したときの名残ひらめき

毛利氏の重臣の益田元祥(1558〜1640)が関ヶ原の戦い(1600(慶長5))後、輝元から龍福寺を拝領しました。
『寺社由来』の「山口町 竜福寺」(山口県文書館蔵 寺社由来815)項に、

御打入之時(、)只今寺地益田殿御拝領(、)寺破却(、)又慶長十二年今寺被成御書御建立

とあります。
もしかしたら、そのときの跡ではないかとも考えられるそうです。



参考文献:
『大内氏館跡12』(山口市教育委員会 2011)「龍福寺の動向と時期区分」P253〜260
『大内氏館跡13』(山口市教育委員会 2012)P186〜7



【次回に続く】
大内氏館(24)龍福寺Ⅺ本堂 @ 大内氏遺跡指定60周年記念バスツアー2019㊴ [2020年05月02日(Sat)]
【前回の続き】

龍福寺の本堂は、以前は自由に中を拝観できたと思うのですが、今は檀家さんのみが入ることができます。
「甦れ歴史空間 〜大内文化まちづくり〜」さんのサイトの「龍福寺」では、復原の様子や内陣などもアップされていますので、詳しいことはそちらを参考にしてください。

龍福寺の本堂ですぴかぴか(新しい)
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この本堂が興隆寺にあったら氷上にあったままだったらどうだったのか、考えています。


【次回に続く】
大内氏館(23)龍福寺]龍福寺 @ 大内氏遺跡指定60周年記念バスツアー2019㊳ [2020年05月01日(Fri)]
【前回の続き】

「龍福寺本堂」由緒書。
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重要文化財
 龍福寺本堂
  昭和二九年九月一七日指定
龍福寺は、もとは白石(山口市白石)の地にありましたが、天文二十年(一五五一)に兵火にかかり、そのままになっていたものを、弘治三年(一五五七)毛利隆元が大内義弘の菩提を弔うためにこの地に再興しました。
 明治十四年(一八八一)、龍福寺は火災に遭い、ほとんどの建物が焼失しました。
 そのため、吉敷郡大内村(現在の山口市大内御堀)の大内家の氏寺であった天台宗の興隆寺から釈迦堂を移築し、曹洞宗の龍福寺本堂へ改造しました。
 この本堂は、文明十一年(一四七九)に建立されたと言われており、内部の大虹梁(だいこうりょう)、板蟇股(いたかえるまた)、組物などは室町時代の建築の特徴をよく表しています。
 移築後、約百年が経ち、大規模な修理が必要になったことから、平成十七年から平成二三年にかけて保存修理工事が行われ、建立当初の室町時代の姿に戻されました。
 本堂は桁行五間、梁間五間の入母屋造で、屋根は桧皮葺、正面には蔀戸(しとみど)があります。なかでも内・外陣を隔てる板扉と格子戸の組み合わせによるしつらえは大変珍しいものです。



そもそも龍福寺ってexclamation&question
龍福寺について調べてみましょう。

かわいい1206(建永元)年 満盛白石臨済宗宝珠山瑞雲寺を創建しましたひらめき

当寺はもと高嶺の南麓白石村にありて宝珠山瑞雲寺といへり、土御門院建永元年丙寅年周防権介多々良満盛朝臣剏(そう)建し給ふ臨済宗なり、(『防長風土注進案13山口宰判下』(1841(天保12)年以降))


かわいい弘直が再建し、1336(延元元/建武3)年7月7日、弘直がなくなり、菩提寺となりましたひらめき

再建檀主 大内弘直朝臣 重弘朝臣二男
 瑞雲寺殿恵海浄智大禅定門
 建武三年 改延元元丙子七月七日卒
(『防長風土注進案13山口宰判下』(1841(天保12)年以降))

弘直(〜1336)は重弘の次男で、菩提寺は白石の宝珠山瑞雲寺(現在の龍福寺)で、位牌は龍福寺にあります。


かわいい1454(享徳3)年 教弘が大内氏の祈願所として再建し、雪心和尚を迎え中興開山として曹洞宗に改宗、寺号も瑞雲山龍福寺と改称しましたひらめき

亨(享)徳三甲戌年贈三位多々良教弘卿改めて瑞雲山龍福寺とし、闢雲中興覚隠禅師の高弟雪心和尚をもて開山とせらる、此時始て曹洞宗となれり、(『防長風土注進案13山口宰判下』(1841(天保12)年以降))


かわいい義興の後柏原院勅願所になりましたひらめき

大内義興公の御時、当寺を後柏原院勅願所二被成候、(『山口町 竜福寺』(山口県文書館蔵 寺社由来815))


かわいい義隆は後奈良天皇に奏請して勅願寺として官符を請うて重建しましたひらめき

後奈良院の御宇太宰大弐義隆卿朝廷に奏して勅願寺とし、官を申請ひ重建の事あり、(『防長風土注進案13山口宰判下』(1841(天保12)年以降))

竜福ノ一宇(略)新造二シテ(『大内義隆記』(『群書類従 巻第三九四 合戦部二六』(検校保己一集)))

紫野玉堂和尚ヲ申シ下サレテハ(、)参学ノ師範ト乄(シテ、)座禅ノ床二アカ(ガ)(、)(略)(の)和尚ヲ尊ミ申サレテハ(、)新造に仏閣を構(へ、)竜福寺ト号乄(シテ、)五百貫ノ寺領ヲキフ(寄付)(、)末寺ヲ余多ソへ玉フ(『大内義隆記』(『群書類従 巻第三九四 合戦部二六』(検校保己一集)))

紫野は大徳寺のこと。
玉堂和尚は、大徳寺92世の玉堂宗条(1480〜1561(永禄4))のことです。
義隆は玉堂和尚を龍福寺の住持として1536(天文5)年に山口に招きました。

義隆公大徳寺派え御帰依ニて、大徳寺派玉堂と申僧暫時住職の申承候(『山口町 竜福寺』(山口県文書館蔵 寺社由来815))


かわいい1551(天文20)年に義隆が陶氏に攻められたときに、兵火にかかり焼失してしまいましたひらめき

天文二十年陶晴賢の乱に当寺の諸堂悉く焼亡せり、(『防長風土注進案13山口宰判下』(1841(天保12)年以降))


かわいい1557(弘治3)年7月 再建について後奈良天皇より綸旨が発給されましたひらめき

防州龍福寺事(、)故義隆卿
励志為 勅願所申請官府(符)
建立之(、)然近年令断絶云々(、)
所被歎思食也(、)早相談隆元
被再興者尤可為神妙之由
天気所候也、仍執達如件、
 弘治三年七月十三日  左中弁(花押)
 玉堂和尚禅室
(「後奈良天皇綸旨」(龍福寺蔵))

防州龍福寺の事、故義隆卿志を励す為 勅願所として官府(符)を申し請い之を建立す。然ども近年断絶せしむ云々、歎き思食(おぼしめ)されるところなり、早く隆元に相談し再興せられるは、尤(もっとも)神妙為るべきの由 
天気候所(てんきそうろうところ)なり、仍って(よって)執達件の如し(しったつくだんのごとし)

「天気所候也、仍執達如件」の「天気」は「天皇の意思」ということです。
差出人の左中弁は藤原淳光だそうです。宛名書は玉堂和尚禅堂です。
龍福寺資料館にはこの「後奈良天皇綸旨」と、何度も綸旨を賜ったそうで、綸旨が入っていた箱も展示してあります。

然処義隆公ご逝去、御法名御竜福寺と申候、陶方より寺焼失仕候通後奈良院聞召、当寺え御綸旨被下候、隆元公え申上候て寺建立可被仰付候、(『山口町 竜福寺』(山口県文書館蔵 寺社由来815))

「隆元に再興を相談しなさい」と後奈良天皇(1497(明応5)〜1557(弘治3)(在位: 1526(大永6)〜1557)から寺への綸旨があったわけですね。


かわいい1557(弘治3)年 龍福寺が白石から築山(大内館のこと)に寺が移されましたひらめき

此時大寧寺にを(お)いて義隆の葬儀ありて当時前住職異雪和尚引導焼香し参らせ、龍福寺殿前七州太守瑞雲主殊天大居士の法諱を獻(たてまつ)れり、瑞雲ハすなわち当寺の山なり、これより六年を経て弘治三年といふに後奈良院より当寺再興の綸旨を賜(たま)ひて築山の古處に寺宇を移され、義隆卿の菩提寺となし給ヘリ云々(『防長風土注進案13山口宰判下』(1841(天保12)年以降))

1557(弘治3)年といえば、その前年より毛利は防長経略を行い、その4月に大内氏の最後の当主 義長を滅ぼしました。


かわいい1569(永禄12)年 大内輝元の乱が起こりますひらめき

1569(永禄12)年、豊後大友氏の許に身を寄せていた大内輝弘(政弘の次男高弘の子ども)が山口に乱入し、「築山竜福寺」に立て籠もりました。10日あまりで鎮圧されますが、山口市街は壊滅状態になります。
『戦死武功書出』(山口県文書館蔵 毛利家文庫)に載っているそうですが、確認できていませんちっ(怒った顔)


かわいい1572(元亀3)年 毛利輝元が龍福寺の再興を命じますひらめき

今度龍福寺再興之儀申遣候処、各相談如形相調之由候、誠祝着之至候、於彼寺家者不可指捨儀候間、弥各可付心 事肝要候、謹言
  六月十三日   輝元(花押)
(「毛利輝元書状」(龍福寺蔵 1572))


かわいい1576(天正4)頃、乗福寺の塔頭 同照庵が龍福寺に寄進されましたひらめき

同照庵客殿、龍福寺江可被成御寄進之旨候、被申渡之、頓被引移御建立于(肝)要候、恐々謹言、
 八月六日
  (「毛利氏奉行人連判状」(龍福寺蔵)


かわいい1603(慶長8)年 益田元祥が龍福寺を拝領し破却しました。ひらめき

御打入之時(、)只今寺地益田殿御拝領(、)寺破却(『山口町 竜福寺』(山口県文書館蔵 寺社由来815))

御打入とは、1600(慶長5)年の関ヶ原の戦いで破れ周防・長門二ヶ国の36万石に減封され萩に追いやられた毛利輝元が、1604(慶長9)年11月に山口から 建設中の萩城に入ったことをいいます。
益田殿とは、益田元祥のこと。
御打入のとき、輝元から龍福寺の土地を拝領したことになります。


かわいい1607(慶長12)年 龍福寺が復興されました。ひらめき

又慶長十二年今寺被成御書御建立(『山口町 竜福寺』(山口県文書館蔵 寺社由来815))



明治14年に火災にあい禅堂と山門を残して焼失しました。そこで再建に際し、元大内氏の氏寺であった興隆寺の本堂を移築したのが今の本堂です。
本堂は、桁行5間、梁間5間で、屋根は入母屋造り、桧皮葺です。建築手法は和様で、室町時代の代表的な寺院建築として、昭和29年に国の重要文化財に指定されました


境内に立っている「龍福寺の由緒書」の「毛利元就公の長男隆元公が、養父大内義隆公の菩提寺として、天皇の綸旨を受けて建立した寺である」が気になって調べてみました。
やっぱり少し違うようですね。
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竪小路側の入口には立派な石碑が建っています。
今までの大内氏館の発掘調査では、まだ大門の遺構が出ていないそうです。
もしかしたら、大殿大路側ではなく、竪小路側かもしれません。
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参考文献:
『大内氏館跡12』(山口市教育委員会 2011)
 「龍福寺と寺地の沿革」P19〜26
 「龍福寺の動向と時期区分」P253〜260



【次回に続く】