猿林暁月 @ 山口十境詩
[2020年05月31日(Sun)]
古熊神社の鳥居をくぐったところに
『山口十境詩』の一つである「猿林暁月」 の詩碑があります
「猿林暁月」石碑。
猿林暁月
曙色初分天雨霜
凄々残月伴琳琅
山人一去無消息
驚起哀猿空斷腸
猿林えんりんの暁月ぎょうげつ
曙色しょしょく、初はじめて分あきらかなり
天てんの霜しもをして雨ふらしむる、と
凄々せいせいたる残月ざんげつ、琳琅りんろうを伴ともなふ
山人さんじん一ひとたび去さって、消息しょうそく無なし
驚起きょうきすれば、哀猿あいえん空むなしく腸はらわたを断たつ
猿林の由来
あけぼのの陽光によって、ようやく晴れあがってきた。
寒気のきびしい霜の朝である。
さむざむとした残月が、玉がふれ合って
鳴る音色を奏でるように空にある。
山居していた隠者はひとたび去って以来
たよりひとつもよこさない。
夜明けにおどろいて起きれば、
野猿が悲しげに鳴く声に断腸の思いがする。
古熊猿林について
猿林とは、古熊にあった永興寺跡から現在の古熊神社一帯の山林を指す。
大内氏第二十三代弘幸は延慶二年(一三〇九)に臨済宗永興寺を創建したが後に荒廃した。
大内氏の学問の源流は重弘、弘幸、弘世三代の禅宗信仰によるもので、鎌倉末期から大内氏の臨済宗信仰はとくに厚く室町以後の山口文化の根底は、大内氏と京都五山名僧との交流によって展開された。
古熊神社は應安六年(一三七三)に大内弘世が京都北野天神を勧請し市内北野小路に鎮座していたものを、元和四年(一六一八)に毛利秀就が古熊に移した。菅原道真が祭神で本殿、拝殿ともに国指定重要文化財となっている。
古熊猿林とは、古熊にあった永興寺跡から現在の古熊神社一帯の山林を指すそうです。
椹野川に架かる赤い天神橋を渡って山の方に向かって行くと古熊神社あります。
道の両脇は田園風景だったという思い出がありますが、今は家が建ち並び様変わりしていました。
以前は確か途中に「古熊の猿林」の大きな標識があったと思いますが、それもありませんでした。
中国では、猿の鳴き声は悲しく響くとされています。
杜甫の「登高」にも
風急天高猿嘯哀 風急に天高くして猿嘯くこと哀し
風が激しく吹き、空は抜けるように高く澄み渡って、猿の啼く声が悲しい
とあります。
明使 趙秩が山口に滞在したのは、1372〜1373年のことです。
古熊神社つまり弘世の勧請した「北野天神」が遷座したのは1373(応安6)年10月ですが、それは北野小路であり、もちろん、この地にありませんでした。
弘世の父 弘幸(?〜1352(正平7/観応3))の菩提寺である永興寺はありましたが・・・・・・。
当時はこの辺りはまだまだ寂しいところだったのでしょう。
『山口十境詩』の一つである「猿林暁月」 の詩碑があります
「猿林暁月」石碑。
猿林暁月
曙色初分天雨霜
凄々残月伴琳琅
山人一去無消息
驚起哀猿空斷腸
猿林えんりんの暁月ぎょうげつ
曙色しょしょく、初はじめて分あきらかなり
天てんの霜しもをして雨ふらしむる、と
凄々せいせいたる残月ざんげつ、琳琅りんろうを伴ともなふ
山人さんじん一ひとたび去さって、消息しょうそく無なし
驚起きょうきすれば、哀猿あいえん空むなしく腸はらわたを断たつ
猿林の由来
あけぼのの陽光によって、ようやく晴れあがってきた。
寒気のきびしい霜の朝である。
さむざむとした残月が、玉がふれ合って
鳴る音色を奏でるように空にある。
山居していた隠者はひとたび去って以来
たよりひとつもよこさない。
夜明けにおどろいて起きれば、
野猿が悲しげに鳴く声に断腸の思いがする。
古熊猿林について
猿林とは、古熊にあった永興寺跡から現在の古熊神社一帯の山林を指す。
大内氏第二十三代弘幸は延慶二年(一三〇九)に臨済宗永興寺を創建したが後に荒廃した。
大内氏の学問の源流は重弘、弘幸、弘世三代の禅宗信仰によるもので、鎌倉末期から大内氏の臨済宗信仰はとくに厚く室町以後の山口文化の根底は、大内氏と京都五山名僧との交流によって展開された。
古熊神社は應安六年(一三七三)に大内弘世が京都北野天神を勧請し市内北野小路に鎮座していたものを、元和四年(一六一八)に毛利秀就が古熊に移した。菅原道真が祭神で本殿、拝殿ともに国指定重要文化財となっている。
古熊猿林とは、古熊にあった永興寺跡から現在の古熊神社一帯の山林を指すそうです。
椹野川に架かる赤い天神橋を渡って山の方に向かって行くと古熊神社あります。
道の両脇は田園風景だったという思い出がありますが、今は家が建ち並び様変わりしていました。
以前は確か途中に「古熊の猿林」の大きな標識があったと思いますが、それもありませんでした。
中国では、猿の鳴き声は悲しく響くとされています。
杜甫の「登高」にも
風急天高猿嘯哀 風急に天高くして猿嘯くこと哀し
風が激しく吹き、空は抜けるように高く澄み渡って、猿の啼く声が悲しい
とあります。
明使 趙秩が山口に滞在したのは、1372〜1373年のことです。
古熊神社つまり弘世の勧請した「北野天神」が遷座したのは1373(応安6)年10月ですが、それは北野小路であり、もちろん、この地にありませんでした。
弘世の父 弘幸(?〜1352(正平7/観応3))の菩提寺である永興寺はありましたが・・・・・・。
当時はこの辺りはまだまだ寂しいところだったのでしょう。