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こどもと本ジョイントネット21・山口


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大内氏館(22)龍福寺\末世の道者 義隆と毛利隆元 @ 大内氏遺跡指定60周年記念バスツアー2019㊲ [2020年04月30日(Thu)]
前回の続き

さらに境内を進んでいきます。
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「龍福寺」の由緒書。
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 毛利元就公の長男隆元公が、養父大内義隆公の菩提寺として、天皇の綸旨を受けて建立したお寺である、この境内地は大内館の跡地で、中世大内氏の居館があり、大内氏はここで二百余年間政務を執ったのである。
 天文十八年(一五四九) 元就公は、元春公、隆景公の二子を連れてこの大内館に参上し、大いに歓待された。境内にある資料館には、大内氏と毛利氏の関係の分かる資料も多くある。


毛利隆元(1523〜63)といえば、大内氏の人質として15歳から3年間山口に滞在しています。
その時の出来事を綴ったものに『毛利隆元山口逗留日記』というのがあります。

12月19日には義隆が烏帽子親となり、隆元の元服式が挙げられました。義隆から一字拝領し「隆元」と名乗ることが許され、大内氏に仕える武将の一人に加えられました。

(1537(天文6)年12月)十九日、御元服にて候、

滞在中は湯田温泉に行ったり、あちこち見物に連れていってもらったり、能や犬追物を見物したりしています。
氷上山二月会にも見物に行き、

(1537(天文7)年2月)十三日、氷上へ御見物、御桟敷之儀者、御屋形様より被仰付候、

祇園祭も見物しています。

(1537(天文7)年6月)七日に、立売之すミに二階を御かり候て、御見物候、

優雅な人質生活を送っていたようです。

正室も義隆の養女で大内氏の重臣 内藤興盛の娘だし・・・・・・。


天文十八年(一五四九) 元就公は、元春公、隆景公の二子を連れてこの大内館に参上」については、「大内氏館(10)宴」のところで少し書きました。


奥書に、

天文廿年冬霜月中旬
 周防国於龍福寺書之


と1551年11月に書いたとある『大内義隆記』(『群書類従 巻第三九四 合戦部二六』(検校保己一集))に、

(ここ)二多々良ノ朝臣義隆卿ハ末世ノ道者トヤ申ケン(。)文武ニ達メ双ナク(、)慈悲勝レテ無類(略)仏神ヲ尊ミ玉ヒテハ世二聞エアリ

一分(豊前)ノ国二ハ宇佐ノ造営(、)筑前ノ国二ハ箱崎(、)安芸ノ国二ハ厳島(、)往古ノコ(ゴ)トク神領ヲ帰付シ玉へハ(バ)、神子社人是ヲ悦ヒ(ビ)アヘリ(略)仏閣ノ造立二ハ氷上山ノ鐘楼堂(、)乗福寺ノ八塔(、)竜福寺一宇(、)求聞寺堂(、)護摩堂(、)是皆新造ニシテ七ヶ国ノ間二ハ百余ケ所計(ばかり)ノ造立トソ(ゾ)聞コエケル

という記述がみられます。
義隆は儒学、仏学、神道、有職学、漢詩文、和歌、連歌、能など多方面にわたる文化を究め多数の寺社を保護し、「末世の道者」と呼ばれました。

隆元は、若き日の主君であり恩師でもある大内義隆に恩義と憧憬を抱いていたのでしょうか。



玄関
玄関の背後は花頭窓になっていて、純粋に玄関だけの建築です。
もちろんここにも、大内菱が!
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参考文献:
『山口市史 資料編 大内文化』(山口市 2010)「毛利隆元山口逗留日記」P210〜3
『大内義隆記』(『群書類従 巻第三九四 合戦部二六』(検校保己一集))
 ※国立国会図書館デジタルコレクションでインターネット公開しています。



【次回に続く】
肥後国海中の怪(アマビエの図) [2020年04月29日(Wed)]
疫病退散パンチ アマビヱが話題になっていますが、
アマビヱの出現を伝える江戸時代後期の瓦版(1846(弘化3)年4月中旬)を京都大学附属図書館が収蔵していますぴかぴか(新しい)

京都大学附属図書館の貴重資料デジタルアーカイブ「新聞・絵」のサイトでその画像が公開されていて、資料名と所蔵先を明示しサイトにリンクするようにすれば、自由に使っていい、ということなので、「肥後国海中の怪(アマビエの図)」をアップさせていただきます揺れるハート

アマビエ.jpg

肥後国海中江毎夜光物出ル所之役人行
見るニづの如く者現ス私ハ海中ニ住アマビヱト申
者也當年より六ヶ年之間諸国豊作也併
病流行早々私シ写シ人々二見せ候得ト
申て海中へ入希り右ハ写シ役人より江戸江
申来る写也
  弘化三年四月中旬


変体かなを現代のひらがなに置き換え、句読点を入れてみました。

肥後国海中え[へ]毎夜光物出る。所の役人行(き)
見るに、づ(図)の如く者現す。「私は海中に住アマビヱと申(す)
者也。當年より六ケ年の間、諸国豊作也。併(し)
病流行。早々私し写し、人々に見せ候得」と
(し)て海中へ入けり。右は写し、役人より江戸え[へ]
(し)来る写也。
  弘化三年四月中旬

現代語訳してみました。

肥後の国の海中に毎夜光る物が出没するというので、そこの役人が行ってみると、図のようなものが姿を現した。「私は海中に住むアマビエと申す者なり。当年より6ヶ年の間、諸国で豊作が続く。併(しか)し疫病も流行する。早々に私を写し人々に見せなさい」と申して、海の中へ入っていった。アマビエを写し、役人より江戸へ伝えられた写である。
  弘化3年4月中旬(1846年5月上旬)

長髪に鳥のようなくちばし、うろこに覆われた胴、うろこのある耳、3本の足?または尾びれ?、そして、チャームポイントのキラリと輝く目……そんな姿で描かれたアマビエ。
アマビエの瓦版には除災の護符としての効能は明記されていませんが、
「疫病退散」を願って・・・揺れるハート

アマビエ (2).jpg「肥後国海中の怪(アマビエの図)」改変

厚生労働省もアマビエにすがっているようですかわいい

厚労省 アマビエ.jpg
独歩記念事業 柳井市短詩型文学祭 [2020年04月28日(Tue)]
文豪 国木田独歩を記念し、短歌・詩・俳句を募集、優秀作品を選出、表彰する令和2年度独歩記念事業 柳井市短詩型文学祭が行われますぴかぴか(新しい)

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るんるん応募規定るんるん
【短歌部門】自由詠 2首1組
【俳句部門】自由詠 2句1組
【詩 部 門】 自由詩 800字(400字詰め原稿用紙2枚)以内
応募点数は、短歌および俳句は各一人1組、詩は一人1点。
応募作品は、楷書で丁寧に書き、特別な読み方をする字にはフリガナをふる。
 字が読めない場合は、無効。

るんるん応募資格るんるん
18歳以上(高校生は不可)で山口県内在住者。

るんるんその他るんるん
いずれの部門も創作、未発表の作品に限る。
※盗作・類似作品・二重投稿が明らかになった場合は、賞の発表後でもこれを取り消すことがある。
応募された原稿は返却しない。
応募作品の著作権は柳井市に帰属。

るんるん応募方法るんるん
部門名・郵便番号・住所・氏名(フリガナ)・年齢・電話番号を明記のうえ、
短歌・俳句はメールまたはハガキ
詩はメールまたは封書
で送る。

るんるん応募締切るんるん
2020年5月29日(金) 必着(消印)

るんるん成績発表るんるん 
2020年6月23日(火) 
発表とともに入賞者に直接通知。

るんるんるんるん
各部門1位 賞状・図書カード 8,000円分
各部門2位 賞状・図書カード 4,000円分
各部門3位 賞状・図書カード 2,000円分

るんるん応募・問合先るんるん
〒742-8714 柳井市南町一丁目10番2号 柳井市教育委員会
 生涯学習・スポーツ推進課内 中央公民館文学祭係
電話 0820-22-2111 内線331
mail to chuokominkan@city-yanai.jp

0C87D220-8B8D-451E-BAA3-78B314C6E686.jpeg柳井市町並み資料館前独歩像
おうちで 中原中也生誕祭A 「お祝いメッセージ」 [2020年04月27日(Mon)]
4月29日は詩人 中原中也誕生日です。

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中原中也記念館では、「おうちで 中原中也生誕祭」中原中也へのお祝いメッセージを募集していますぴかぴか(新しい)
集まったお祝いメッセージは、WEBページで紹介されるそうです。

るんるん応募の仕方るんるん
かわいい方法  中原中也記念館HPのメッセージフォーム or ハガキで
かわいい宛先 〒753-0056 山口市湯田温泉1-11-21 中原中也記念館 お祝いメッセージ係
かわいい期限 2020年4月29日まで

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おうちで 中原中也生誕祭@ #中也web朗読会 [2020年04月26日(Sun)]
4月29日は山口市湯田温泉生まれの詩人 中原中也の誕生日です。

毎年、中原中也生誕祭として、朗読好きだった中也に因んで「空の下の朗読会」などが中原中也記念館の前庭で行われていますが、
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2014 谷川俊太郎・賢作さん

今年は、生誕祭が新型コロナウィルス感染拡大防止のため、中止となり、空の下の朗読会は11月7日に延期されます。

4月29日は、インターネット上で詩の朗読などを行う「おうちで 中原中也生誕祭」が開催されますぴかぴか(新しい)

るんるん2020年4月29日(水・祝)9:00〜

るんるん投稿する人は
かわいい中也もしくは自作詩の朗読を動画に撮る。
  ※朗読する自分を撮影する必要はない。風景などでもOK。
  ※詩に曲をつけた演奏、パーフォーマンスもOK。
   音楽を伴う場合、オリジナル楽曲などを使用するなど著作権に気を付けること。
かわいいハッシュタグ「#中也web朗読会」をつけてTwitterに投稿
かわいい朗読する詩の著作権を守り、公序良俗に反しないこと。

るんるん投稿された動画は「#中也web朗読会」で見ることできます。

るんるんアーティストのパーフォーマンス動画もあるそうです。
かわいいミュージシャン・・・おおたか静流、谷川賢作+原田節、小室等+こむろゆい、深川和美、サンタラ、中川智彦、落合さとこ、白岩洵
かわいい中原中也賞受賞詩人関係・・・水沢なお、神泉薫、三角みづ紀+小林大賀、暁方ミセイ、カニエ・ナハ
かわいい美術家・・・ムットーニ
等々・・・・・・。
今年の中原中也賞受賞の水沢なおさんを始め、このラインナップすごいですね揺れるハート

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▲読売新聞2020年4月24日(金)

最新情報は中原中也記念館のHPをチェックしてみてください。
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大内氏館(21)龍福寺[義興騎馬像 @ 大内氏遺跡指定60周年記念バスツアー2019㊱ [2020年04月25日(Sat)]
【前回の続き】

さらに境内を進んでいきます。
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龍福寺資料館がありますぴかぴか(新しい)
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「龍福寺資料館」案内板。
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龍福寺は周防を始め西日本七ヶ国の守護であった大内義隆公の菩提寺です。
弘治三年(一五五七)御奈良天皇の綸旨を賜って大内氏館跡に建立されたお寺で、山号を瑞雲山といい、宗派は曹洞宗です。この資料館には、当寺に伝わる寺宝を中心として展示しています。


大内義興騎馬像。
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「大内義興公「馬上展望」像」説明板。
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大内氏の始祖・琳聖太子はかつて聖徳太子に拝謁した時、周防国大内県を賜ったと伝えられる。
また、歴代当主は大陸との交易に強い関心を抱き、対明、李朝貿易を計り、富と武力を誇るにいたる。
二十四代大内弘世公の時(一三六三年)足利幕府に組みして周防・長門二国の守護職を得て、守護所を大内御堀から山口の龍福寺の場所に移し、京都風城下の原型が生まれた。
その子義弘公は、今に伝わる画軸の絵に騎馬武者としての面影を見ることが出来る。
また政弘は雪舟らへの援助等で文化武将としての評価が高い。
三十代義興公(一四九四年)は、西国一の大大名として幕府管領代となり勇名をはせた。
(略)

義弘肖像画大内義弘像は山口県立山口博物館に所蔵されていて、高画質画像ダウンロードで見ることができます。

「大内氏のトビラ」展では、大内義興像(山口県立山口博物館蔵)(大正時代写)が展示されていました。
この画は、資料館前に置いてある大内義興騎馬像と違って、若武者という感のある甲冑騎馬像です。
大内府君(義興)甲冑寿容(像)于時公三十五歳」の画です。
永正八年孟冬(もうとう)吉日」と賛にあるので、細川氏と船岡山合戦(1511(永正8)年9月)の直後の孟冬つまり10月に描かせたということが分かります。
学芸員さんが「賛に注目してください。「香積界喚起」は義弘の(今の瑠璃光寺)、「国清寺追陪豊于老禅」は盛見の(今の洞春寺)、「澄清天下」は持世の(廃寺)、「築山雖有塁土矣」は教弘の居館(菩提寺は闢雲寺)、「法泉出山口」は政弘の(廃寺)、菩提寺が記されています。「蓋夫祖考美誉、係乎子孫之英賢」と、先祖の名誉は、子孫の英賢に係わる、と続けています。 」と説明してくださいました。
ちなみに、義興の菩提寺は凌雲寺です。
築山は教弘の居館と言われましたが、もちろんそうなのですが、
政弘の私家集『拾塵和歌集』の巻第十に、

  同じ(1487(文明19)年)四月三日、亡父(教弘)大明神号の 
  宣旨を下され侍りければ、築山の廟に奉納し侍とて
勅なれば光ことなるつき山のあきらけき神ぞいともかしこき


とあるように、築山館の跡に教弘を祀った築山の廟が設けられていたようなので、もしかしたら、築山大明神のことを指しているのかもしれません。
『寛政重修諸家譜』「多々良氏系図」の「教弘」のところに

長亨(享)元年四月三日筑(築)山明神と崇む

『系図纂要』「多多良朝臣姓大内」の「教弘」のところにも

長享元年四ノ三宣築山明神

とあります。(※文明19年7月20日に長享に改元したので、「長享元年」ではなく「文明十九年」が正確)
ただ、『大内氏史研究』(御薗生翁甫/著 山口県地方史学会 1959)には、

教弘(略)築山館を大内氏衙(が)門の北続きに構築した。(略)築山ありしによって名とした。廓内に築山大明神を建て、

とあり、「築山の廟」は教弘が建てたのかもしれません。
勉強不足です。

ダラダラとなりましたが、もっと単純に、呼び名(法名?)ではないでしょうか。
例えば、義隆だったら戒名で「龍福寺殿」と呼ぶように。
『大内義隆記』(『群書類従 巻第三九四 合戦部二六』(検校保己一集))に、

凌雲寺殿ハ   義隆ノ親ナリ
月山殿ハ    凌雲寺殿親ナリ
法寿(泉)殿ハ 月山殿親ナリ
香積殿ハ    国清寺殿兄ナリ


とあります。そんな具合に、教弘は「築山(月山)殿」と呼ぶようなので、そこからとったのでは、と思うのです。


資料館の屋根瓦は大内菱です。
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資料館の前に大内菱の瓦が無造作に置かれていました。
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毛利の瓦。
大内氏が建立した寺や神社でも、毛利の時代に手を入れていると必ず毛利の瓦が・・・・・・ということが多いのに、ここ龍福寺は全部大内菱で、初めてここで毛利の瓦見ました!
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参考文献:
「大内義弘像」(山口県立山口博物館蔵)
「大内義興像」(山口県立山口博物館蔵)
  ※いずれも山口県立山口博物館の高画質画像ダウンロードのサイトで公開されています。
『山口市史 資料編 大内文化』(山口市 2010)
 「大内府君甲冑寿像・讃」P72〜3
 「拾塵和歌集巻第十」P418〜22
 「多々良氏系図」P10〜5
 「多々良朝臣姓大内」P33〜54
「大内氏歴代当主と山口A 25 大内義弘」(山口ふるさと伝承総合センター)
「大内氏歴代当主と山口B 26 大内盛見」(山口ふるさと伝承総合センター)
「大内氏歴代当主と山口C 27 大内持世」(山口ふるさと伝承総合センター)
「大内氏歴代当主と山口D 28 大内教弘」(山口ふるさと伝承総合センター)
「大内氏歴代当主と山口E 29 大内政弘」(山口ふるさと伝承総合センター)
「大内氏歴代当主と山口F 30 大内義興」(山口ふるさと伝承総合センター)



次回に続く
大内氏館(20)龍福寺Z義隆辞世「討つ人も 討たるゝ人も 諸ともに 如露亦如電應作如是觀」 @ 大内氏遺跡指定60周年記念バスツアー2019㉟ [2020年04月24日(Fri)]
【前回の続き】

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義隆辞世の歌碑ぴかぴか(新しい)
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天文二十年(一五五一) 重臣 陶晴賢の謀叛(ぼうはん)により大内氏三十一代義隆卿は大内御殿から長門の大寧寺に逃れました。
この時大寧寺住職異雪慶殊(いせつけいしゅ)和尚(1502〜64)の弟子となり金剛教の経文を引用した
「討つ人も 討たるゝ人も 諸ともに 如露亦如電応作如是観(にょろやくにょでんおうさにょぜいかん)
の辞世をよんで自刃されました。
その意味は、敵も味方も人の命は露のようにまた稲妻のようにはかないという佛教の無常観をうたったものです。
時に四十五歳の生涯でした。


陶晴賢(1521〜55)は、大寧寺の変のとき、義隆の偏諱を受けた名前「隆房」を名乗っていました。
異雪慶殊(1502〜64)は義隆を自らの仏弟子として「瑞雲珠天(ずいうんしゅてん)」と法号を授けました。

如露亦如電応作如是観」は、『金剛般若波羅蜜(はんにゃはらみつ)経』(『金剛経』『金剛般若経』)という経典からとられています。
基本的に釈迦(ブッダ)と須菩提(スブーティ)との会話によって構成されています。

須菩提。若有人以滿無量阿僧祇世界七寶持用布施、
若有善男子善女人發菩薩心者、
持於此經乃至四句偈等、受持讀誦爲人演説其福勝彼。
云何爲人演説。不取於相如如不動。何以故
 一切有爲法 如夢幻泡影
 如露亦如電 應作如是觀


須菩提、若し人有りて、無量阿僧祇(あそうぎ)世界に滿たすに七寶を以て布施に持用せんに、
若し善男子善女人にして、菩薩心を發する者有りて、
此の經乃至(ないし)四句偈(げ)等を持して、受持讀誦し人の爲に演説せば、其の福は彼に勝れたり。
云何(いかん)が人の為に演説するや。相を取らざれば如如に不動なり。何を以ての故に、
 一切有爲の法は 夢幻泡影(むげんほうよう)の如く
 露の如く亦電の如くなり 應に如是(にょぜ)の觀を作すべし。


如露亦如電 露の如く亦電の如し(つゆのごとくまたいなずまのごとし) 
 電(いなずま、でん)=稲妻。雷のこと。
 露のようにはかなく、電光のように一瞬の間に消え去るの意で、すべて因縁によって生じたものは実体がなく空であることをたとえた語
応作如是観 応に是の如きの観を作すべし(まさにかくのごときかんをなすべし)
 あるがままの姿に真実があるとする考え。

『宝物集』(平康頼 1179頃)に 「一切有為法、如夢幻泡影、如露亦如電、応作如是観
『往生要集』(源信 985(寛和元))に 「如金剛般若經云。一切有爲法。如夢幻泡影。如露亦如電。應作如是觀。
などと引用されています。

義隆が自刃した大寧寺は、大内家の庶家で、長門守護代だった鷲頭弘忠(わしのうずひろただ)が、石屋真梁(せきおくしんりょう)禅師を開山として迎え、1410(応永17)年に開創しました。鷲頭弘忠は1448(文安5)年に義隆の曾祖父 教弘によって攻め滅ぼされました。

1551(天文20)年、義隆を討った陶隆房は、4年後の1555(天文24)年、厳島の戦いで毛利元就に敗れて自刃しました。

勝者も敗者も、共に、露のように稲妻のように一生は短く儚い、
盛者必衰、生者必滅。
諸行無常。



参考文献:
『金剛般若波羅蜜経』(金剛経会 和訓/著 一喝社 明42.7)
  ※国立国会図書館デジタルコレクションで公開されています。



【次回に続く】
大内氏館(19)龍福寺Y供養塔 @ 大内氏遺跡指定60周年記念バスツアー2019㉞ [2020年04月23日(Thu)]
【前回の続き】

大内義隆卿主従之供養塔ぴかぴか(新しい)
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「従二位 大宰大弐 大内義隆卿主従之供養塔」の案内板。
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平成十二年は龍福寺の開基大内義隆卿の四五十回大遠忌に当たります。
この勝縁にちなみ、大内義隆卿主従の供養塔を建立しました。正面の宝篋印塔は長門市大寧寺にある義隆卿のお墓を原寸大に複製したものです。
また、左奥の十三重の塔は義隆卿に従って戦死した冷泉隆豊(れいせいたかとよ)などの忠臣や公卿の諸精霊(しょしょうれい)の供養のために建立いたしました。


「従二位 大宰大弐 大内義隆卿主従之供養塔」石碑。
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宝篋印塔。
長門市深川湯本の大寧寺にある義隆のお墓を原寸大に複製したものです。
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十三重の塔。
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義隆に従い戦死した冷泉隆豊などの忠臣や公卿の諸精霊の供養のために建立と刻まれています。
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2000(平成12)年の義隆四五十回忌法要記念です。
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ちなみに、
1575(天正3)年の二十三回忌、1585(天正13)年の三十三回忌の追善供養のほか、
1600(慶長5)年の五十回忌法要@、
1750(寛延3)年の二百回忌法要A、
1800(寛政12)年の二百五十回忌法要B、
1850(嘉永3)年の三百回忌法要C、
1899(明治32)年の三百五十回忌法要D
が行われています。

後ろには祠がありました。屋根には大内菱が揺れるハート
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参考文献:
『大内氏館跡12』(山口市教育委員会 2011)「龍福寺と寺地の沿革」P19〜26
『山口町 竜福寺』(山口県文書館蔵 寺社由来815)@
『大内義隆弐百廻りヨリ三百回忌ニ至ル諸沙汰控』(山口県文書館蔵 毛利家文庫 13祭祀11)AC
『竜福寺規樹書翰并寺社奉行御沙汰状写 大内義隆公二百五十年忌ニ付』(山口県文書館蔵 多賀社文庫 多賀社398)(寛政12年(1800)写)B
『寛政十一年諸事小々之控』(山口県文書館蔵)(寛政11年(1799))B
『山口・小郡宰判本控』C
『山口県寺院沿革史』(可児茂公/編 山口県寺院沿革史刊行会 1933(昭和8))D



【次回に続く】
大内氏館(18)龍福寺X梵鐘 @ 大内氏遺跡指定60周年記念バスツアー2019㉝ [2020年04月22日(Wed)]
【前回の続き】

龍福寺は義隆の菩提寺ということで、義隆に因んだものがいろいろあります。

その一つがしあわせの鐘ぴかぴか(新しい)
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義隆が造らせた興隆寺の梵鐘を縮小複製したものです。
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この梵鐘は大内義隆卿が享録五年(一五三三)に九州芦屋の名工大江宣秀に作らせた国の重要文化財「興隆寺梵鐘」を縮小、複製したものです。鐘楼堂は総欅造り入母屋本瓦葺きで、現代の名建築です。平成五年春完成後は、毎日、「暁鐘」「日中鐘」「昏鐘」一日三回大内文化の音を鳴らしております。ご参詣の皆様も世界の平和、地域の安穏、ご家庭のしあわせを願って自由に撞いて下さい。

自由に撞いていいというのは、興隆寺梵鐘と同じですね。
じっくり見ると興隆寺梵鐘と全く同じには造ってはいない気がしますが、小さいので、全体が把握できて、それはそれでいいものです。
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特に、興隆寺では竜頭(釣鐘の頭部に付けた竜の頭の形をしたもの)の部分が高すぎてよく見えないのですが、この梵鐘ではよく分かって、嬉しかったですわーい(嬉しい顔)
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当然ですが、銘文は違っていました。
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また、鐘楼ももちろん新しいものですが、瓦などに大内菱が使ってあり、大内氏ファンの気持ちをくすぐります揺れるハート
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【次回に続く】
大内氏館(17)龍福寺W豊後石 @ 大内氏遺跡指定60周年記念バスツアー2019㉜ [2020年04月21日(Tue)]
【前回の続き】

ソテツのそばに、豊後岩というのがありますぴかぴか(新しい)
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「豊後岩の由来」の由緒書。
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大内氏は歴代政庁をこの地に置き、西日本に覇を誇っていたが、後に、防・長・芸・備・石・豊・筑の七か国の守護を兼ね、その富と権力は天下に並ぶべきものがなかった。
当時世の中は兵乱にあけくれていたが山口の町は平和を保っていたので、戦乱の都をさけて、この山口に来る公卿・文人が多くあり、いわゆる西の都の繁栄があった。
大内氏はこれら来訪の客をもてなすため、邸前に宏大壮麗な築庭をした。
そこには流水があり、また当時珍しい蘇鉄が植えられたりしていたが、使用した岩は全部豊後国から舟で持ってきたものであった。
しかしこれらの岩は、豊後の国をこいしがって雨の夜は「豊後に帰りたい」といって泣いていたという。
そのような立派な庭も大内氏の滅亡後は荒廃して、わずか豊後岩だけがここに残って、往時の栄えの跡をしのばせている。



豊後石といえば思い出すのが、湯田温泉にある井上公園の瓢箪池にある夜泣き石です揺れるハート
龍福寺の豊後石は大内氏館の庭園の石とありましたが、井上公園の石は築山跡の石のようです。
4473CAED-178E-4B06-AAA2-80A2EFC31716.jpeg井上公園

 この庭園は、大正六年(一九一七)に造られたもので、池は形からひょうたん池と名付けられています。
 池泉を中心として築庭されており、中心の大きな石は、室町時代中期に大内氏の別邸「築山館」造営の時に豊後の大友氏から送られたものを、築庭のとき移し、ここに移されました。遠い豊後を恋しがり、雨の夜には泣くということから「夜泣き石」といわれています。
 

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『防長古城趾の研究』「第一章 大内氏館趾・築山館趾」(新防長叢書)(御薗生翁甫/著 マツノ書店 1975)に、築山館趾について

天明二十三年頃恵海僧正の代に四方竹藪なりしを伐り払い、竹藪の土を以て池を埋め、庭石は或いは砕き或いは他に運び、今は八坂神社玉垣の前に少数屹立し、その他湯田の高田園の泉石に転用した。

とあり、湯田の井上公園(以前の名称は「高田公園」)の夜泣き石のことが書いてあります。

では、八坂神社に行ってみましょう。
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確かに玉垣の前に豊後立石が屹立 ― 堂々とそそり立っています。
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この豊後立石を見ると、どんなに大内氏の庭が雄大だったかわかります。

八坂神社の豊後立石は泣かないのでしょうかexclamation&question とても気になります。


さて、築山跡は、もともとは大石を積み上げた石垣で周囲を囲っていましたかわいい
(「豊後岩の由来」由緒書や「瓢箪池」案内板の豊後石はあくまでも庭石のことですので、話が外れていっていますが、お付き合いください。)

『大内氏時代山口古図』(山口県文書館蔵 軸物史料218)を見ると、「大内御殿」の西側と南側が石垣で囲んであるのが見えます。
『行程記』(山口県文書館蔵)(明和元年(1746)頃成立?)に竪小路と北側に石垣が描かれています。
『地下上申絵図』(山口県文書館蔵)(1728(享保13)年成立)にも石垣が描かれています。
『山口市街古図』(山口県文書館蔵 毛利家文庫 58絵図320)(17世紀末成立)には、上竪小路に沿って石垣があります。

『幕末山口市街図』(袋入絵図178 慶応元年(1865)〜明治元年(1868)頃 山口県文書館蔵)になると、「築山 地方分」にはその石垣はもう見えず、西側に土塁を表すようなものが描いてあります。

85A8A851-480D-42F7-921C-3F510B7438E3.jpeg築山跡 4E041098-ED84-4688-8036-210D8BFA25D4.jpeg D7974223-0746-474A-9709-86D7C7B1B04F.jpeg

江戸末期に毛利氏が萩城から山口城(山口新御屋形)に居城を移したときに大石を運び出した為、現在の土塁のようになったといいます。

 宝暦末(1764頃)までは大内時代からの大松があり、天明2・3年(1782・83)頃には四方を竹藪に囲まれ、一部を切り開き池を埋めて畑にしたといいます。
 北西隅に残る築地(ついじ)跡は当初の形をとどめており、石垣の石は幕末、山口新御屋形(山口城)の石垣に転用されたと伝えられます。
「大内氏歴代当主と山口D 28 大内教弘 本拠山口から領国・海外を見据えた築山殿」(山口ふるさと伝承総合センター) より引用)

ツキ山(築山)
今の⼋坂神社・築⼭神社境内、料亭菜香亭跡地一帯は大内教弘(1420〜65)の頃に造営された別邸築山屋形の跡で、大規模な庭園があったと伝えられます。発掘調査により大内氏館跡につぐ規模の堀がみつかりました。宝暦末(1764頃)までは大内時代からの大松があり、天明2・3年(1782・83)頃には四⽅を⽵藪に囲まれ、⼀部を切り開き池を埋めて畑にしたといいます。築地の石垣は幕末、山口新御屋形(山口城)の石垣に転用されたと伝えられます。
古地図シリーズB「山口町村図(山口県文書館蔵)(江戸時代・幕末)」(山口ふるさと伝承総合センター)より引用)

『山口市史 史料編 大内文化』(山口市 平成22)P939〜940に

近藤清石が『山口県地理誌料』(山口県文書館、明治十八年以前)を著す。(略)幕末の藩庁移鎮の際し、築山跡の築地の石を崩し取り、その土をかき上げたものが、現在の築地跡であるとした記述である。現存する土塁状の高まりと、築地の石垣とが結びつく。

とあります。
「築地の石を崩し取り、その土をかき上げた」というのは、2m近くある現在の土塁を見ると、納得がいきます。

そして、山口御屋形の東稜塁の基礎石垣は大内氏の築山館跡にあったものを転用したようです。
それは、香山通りで見ることができまするんるん
1E2C56AD-45FB-49A0-A42A-4844EE959627.jpeg香山通り A3EC5865-950C-4E60-B115-2DF067ADB1AA.jpeg A1264A84-8268-4759-98BE-5E0D2678362F.jpeg D8DD00ED-6368-4EAD-874E-28EE5099456F.jpeg E2533B86-F842-4937-B3C4-6A29ADC9BED6.jpeg F8E4BCE3-EE3C-4E77-B695-1138927D765B.jpeg

中には1mを超える石もあります。
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石のお話でした。



参考文献:
『大内氏時代山口古図』(山口県文書館蔵)
『行程記』(山口県文書館蔵)
『地下上申絵図』(山口県文書館蔵)
『幕末山口市街図』(山口県文書館蔵)
『山口市史 史料編 大内文化』(山口市 平成22)佐藤力「大内氏遺跡築山跡」P938〜944



【次回に続く】
大内氏館(16)龍福寺V宝現霊社 @ 大内氏遺跡指定60周年記念バスツアー2019㉛ [2020年04月20日(Mon)]
【前回の続き】

山門をくぐり、境内に入ります。
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左手に宝現霊社があります。
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「宝現霊社」説明板。
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宝現霊社は大内氏の祖琳聖太子から三十一代の大内義隆をまつる祀で、龍福寺の鎮守として、ここに建立されている。
この社殿は最初大内教弘公が築山館に創建したのが始まりで、敬神崇粗の念の篤い大内氏歴代当主によって、各忌日で祭祀がなされてきた。
江戸時代には毛利氏により祭祀がなされていたが、明治になって一時多々良神社と称したこともある。
現在の社殿は今から二百五十年余り前の江戸時代中頃の建築で、両側に大内氏の家紋大内菱がついている。


確かに大内菱、あります揺れるハート
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教弘が築山館に創建し、琳聖太子から義隆を祀る、とありますが、いや〜、確か、宝現霊社って、違ったような……。教弘は確かに築山館を造りましたが。

山口市文化財保護課の『山口市指定文化財概要 〜 建造物 〜』によると築山館跡にある「築山神社」の項に、

BA49AA49-119B-4140-83F2-6E72B4269B0E.jpeg築山神社 46E75DF2-53C3-4258-8205-4C3BF8EE2F52.jpeg

築山神社は、慶長10年(1605) 毛利輝元が上宇野令村(現山口市)の多賀神社境内にて大内義隆などの霊を祀った「宝現霊社」がはじめと伝えられている。その後、同村龍福寺境内、同村片岡に、さらに明治3年(1870)12月には現在地(筆者註:築山跡に移され、徳川家康、市川少輔七郎等が合祀された。 現在地は大内教弘が築いた大内氏の別邸の跡地である。

そうそう、宝現霊社は、
@1605(慶長10)年毛利輝元が大内義隆などの霊を祀り創建 
A多賀神社境内(創建) → 龍福寺境内 → 片岡 → 築山跡 と遷座 
B1870(明治3)年、大内義隆を祀る宝現霊社と氷上山興隆寺の境内にあった1742(寛保2)年の建立といわれている氷上東照宮の社殿を築山館跡地に移転し、合祀し、築山神社と改称
そうですよね。そう思っていました。

山口ふるさと伝承総合センター 古地図シリーズC 「幕末山口市街図」(1865(慶応元)年〜1868(明治元)年頃)には「宝現霊社」について、

慶⻑10年(1605)⽑利輝元が多賀社境内に大内義隆、公卿等を祀り創建。その後龍福寺境内に移転、⽂政11年(1828)この地に移りました。明治2年興隆寺境内から八坂神社そばに移転した東照宮社殿を、明治3年本殿として、築山神社と改称しました。市文化財指定される⾒込みです。
(※筆者註:築山神社は2018(平成29)年8月22日 市文化財に指定されました)

と説明があり、伊勢小路をはさんで、北側に多賀神社と南側に宝現霊社が記載されています。

『寺社由来』(1741(寛保元)年)の「山口町 竜福寺」(山口県文書蔵 寺社由来815)に

輝元公(略)尤義隆公を当寺の鎮守二被成候、宝現霊社の神号被仰請候て御崇敬被遊候、寺内え社を立今以て社領御付、毎年高橋数馬祭礼執行仕候て御札守差上申候

と、輝元が龍福寺内に義隆を祀る宝現霊社を建てたと書いてあります。

いずれも、龍福寺にある説明「大内教弘公が築山館に創建」とかなり違いますが……。

また、龍福寺にある龍福寺資料館には、宝現霊社に伝わる板絵の扁額が展示してあり、そこには、大内氏の祖といわれる琳聖太子を中心に大内氏歴代計27名の肖像が描かれています。義隆は手に杓を持たない束帯姿で描かれています。


では、多賀神社の方はどうでしょうか。

多賀神社は近江の多賀大社の御分霊を勧請した古社で、創建年月は不明である。永和年間(1375〜78)に大内弘世が社殿を建立し、さらに大内義興が永正9年(1512)に重建した。永禄12年(1569)の大内輝弘の乱で社殿が焼失し、慶長15年(1610)に毛利輝元が再興した。
社殿はもと水の上にあったが、昭和24年、山口大神宮境内に遷座した。祭神が国生みの神であることから、延寿・安産の神として庶民に親しまれ、さらに縁結び、学業成就などの信仰を集めている。
山口大神宮「多賀神社」HPより引用)

ただ、『室町戦国日本の覇者 大内氏の世界をさぐる』(大内氏歴史文化研究会/編 勉誠出版 2019)「大内氏の都・山口」(増野晋次)P115「表2 中世の史料において確認できる山口の寺社」神社11に

多賀神社 建立年代:天文年間 一五三二〜五五 所在地:上竪小路 初見年代:天文二十? 一五五一? 初見史料:大内義隆記

とあったのが、気になります。
そこで、『大内義隆記』(『群書類従 巻第三九四 合戦部二六』(検校保己一集))を読んでみました。
義隆が、宇佐神宮再建したり箱崎宮を厳島神社など多くの寺社を手厚く保護したことが述べられ、続けて、

山口ニ於イテハ春日明神多賀ノ社大中モチノ神マテモ吉田ノ神主兼右ヲ召シ下レテ是ヲ勧請有テ天文十三年三月二ハ神道ノ行事ヲ(略)

とあります。ということは、やっぱり多賀社は義隆が勧請???

1569(永禄12)年に社殿が焼失し1610(慶長15)年再興した多賀神社境内に1605(慶⻑10)年に宝現霊社を建てるというのも、なんだかなあ、という感じでもありますがく〜(落胆した顔)
『大内氏館跡12』(山口市教育委員会 2011)P256には、

多賀社文庫『山口竜福寺宝現霊社御建立之事』(山口県文書館所蔵 多賀社395)によれば、大内義隆を祀る宝現霊社を龍福寺から多賀社に移したのは慶⻑10(1605)年のことであり、

同じく、P259にも、

当初は、毛利輝元が大内氏の顕彰に積極的に関わるものの、(略)益田元祥に寺社を与え、義隆を祀る宝現霊社を(龍福寺から)多賀神社へ移すなど、

とあり、1605年に既に建てられていたことになり、ますます???となってしまいますちっ(怒った顔)

同じく、P256に

『防長寺社證文』『防長寺社由来』巻3の龍福寺の項に、益田元祥が山口町奉行の児玉元友に宛てた書状(横折)を収録する。慶長12年の龍福寺復興以降の書状とみられ、慶長年間の龍福寺破却に直接関わるものではないが、多賀社に移された鎮守社を再び龍福寺にもどしてほしいとの寺の願いに対し、当職役として元祥が沙汰した旨が記される。

とあります。
きちんとした史料を読み込む必要がありそうです。


山口ふるさと伝承総合センターの地図で見ていくと……。
地図シリーズ@『山口古図』(山口県文書館蔵)(江戸時代に作成された原図の写しといわれる地図)を見ると、多賀神社は、「国清寺門前町」の角にあります。
地図シリーズA『山口市街古図』(山口県文書館蔵)(元禄3〜14年(1690 〜1702))にも、常栄寺への道そばに見えます。

多賀(社)
近江の多賀大社の分霊を勧請した古社で、永和年間(1375〜79)大内弘世が社殿を建⽴、⼤内⽒・⽑利⽒から厚く崇敬されました。昭和24年⼭⼝大神宮境内に遷座。延寿・安産の神様として親しまれてきました。


地図シリーズB『山口町村図』(山口県文書館蔵)(江戸時代・幕末頃)にも、常栄寺への道角に見えます。



かわいい古図を持って歩いてみようかわいい
まず片岡小路に行ってみましょう。
今回は、築山跡から出発です。
築山小路。
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この小路が、石原小路、片岡小路、春日山への道です。
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石原小路
上竪小路と下竪小路の境、築山跡前を西へ一の坂川へ抜ける道筋が石原小路です。
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大内御殿に続く五番丁と六番丁の武家屋敷を石原氏の住居から石原小路と呼んだ。古くは八坂神社の大宮司松田氏が居住し松田殿小路ともいわれた。

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一の坂川に架かる春日橋を渡って
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片岡小路
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片岡小路はとても雰囲気のある通りで
『大内氏時代山口古図』(山口県文書館蔵 軸物史料218)には、

片岡小路 町屋
此町筋吉敷朝倉海道ト云


とあり、大内氏の頃は朝倉から吉敷に通ずる街道(地図の「海道」は「街道」の誤字?)で、重要な道だったと思われます。
大内氏の重臣には片岡氏という名前は見当たりませんが、それかどの人物が屋敷を構えていたような趣のある通りです。
面白い屋根瓦などあったり、ここに宝現霊社があったかも……、という感じです。
「長山・春日山」=「丘」=「岡」への道ということかもしれませんね。

では、多賀神社は、現在の洞春寺への道と県庁との間あたりということで、
次は、伊勢小路を目指して。

伊勢大路。
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大内義興が伊勢大神宮を勧請した山口大神宮への参道として命名された。古くからの参道に町屋敷が並び伊勢門前町ともいわれ一の坂川沿いには伊勢小路の名も残る。

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伊勢橋。
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伊勢小路。
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地図の宝現霊社の場所には、武徳殿(現在は、山口県警察体育館)が建っています。
大日本武徳会の柔剣道場として1930(昭和5)年に建設されました。老朽化したので建て替えたそうで、最初の建物はいつ建ったのか気になるところです。
住所は、「山口市後河原片岡」。そうなんです。片岡ですexclamation×2
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南方向を見れば、片岡小路です。
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向こう側が、多賀神社跡です。
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国道9号を渡って、多賀神社跡まで行ってみましょう。
武徳殿は現役の体育館なので頼もしい建物です。
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これが、洞春寺(かっての国清寺、常栄寺の時代もありました)への道。
「国清寺門前町」といっていた時代もありましたが、今は香山通りといいます。
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こちらが多賀神社跡。
住所表記は「水の上」です。
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歴史を感じさせる大きなソテツがあったのが印象的でした。
これって、大内氏が植えたもの? まさかですけど。
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築山跡が見えてきました。
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築山小路に帰ってきました。
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再び「錦の御旗」の地図を使わせていただいて地図を作ってみました。
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参考文献:
『幕末山口市街図』(山口県文書館蔵 袋入絵図178)
 ※山口県文書館のサイトでインターネット公開されています。
『大内氏時代山口古図』(山口県文書館蔵 軸物史料218)
 ※山口県文書館の「高画質画像ダウンロード」サイトでインターネット公開されています。
『大内義隆記』(『群書類従 巻第三九四 合戦部二六』(検校保己一集))
 ※国立国会図書館のデジタルコレクションでインターネット公開されています。
『山口町 竜福寺』(山口県文書館蔵 寺社由来815)
山口ふるさと伝承総合センター 古地図シリーズ@『山口古図』
山口ふるさと伝承総合センター 古地図シリーズA『山口市街古図』
山口ふるさと伝承総合センター 古地図シリーズB『山口町村図』
山口ふるさと伝承総合センター 古地図シリーズC『幕末山口市街図』



【次回に続く】
大内氏館(15)龍福寺U山門 @ 大内氏遺跡指定60周年記念バスツアー2019㉚ [2020年04月19日(Sun)]
【前回の続き】

山門前の「史跡 大内氏遺跡 館 跡」石碑。
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山門前の案内板。(2020年4月5日にもアップしましたが、再掲します)
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「史跡(大内氏遺跡附凌雲寺跡) 大内館跡」案内板。
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 ここは、大内氏二四代弘世が正平一五年(一三六〇)頃、それまでに館があった大内御堀から山口に移り、館を定めたところです。
 大内氏は弘世以後歴代がここで政務をとり、その領国は、中国・九州地方までおよんだため、山口は西日本の政治経済の中心地となりました。また、大内氏は海外との交易によって富の蓄積と異国文化の移入、京の戦乱を避けて公卿・僧侶などの文化人が、この館を訪れたことによって、当時の山口は京都をしのぐほどの富と文化を誇ったといわれています。天文二〇年(一五五一)大内氏三一代義隆は重臣陶晴賢の叛乱により滅亡しました。
 その後、陶氏を滅ぼした毛利氏は、弘治三年(一五五七)大内義隆の菩提を弔うため、この館跡に龍福寺を建立しました。
 館は、百間四方の堀と土塁に囲まれた中に造られていたと言われています。現在は、ほとんどその面影を見ることは出来ませんが、山門の東側竹藪の中に土塁の一部を見ることができます。


空中写真。
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山門の東脇の戒壇石「不許葷酒入山門」。
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葷酒(くんしゅ)山門に入るを許さず

清浄な寺門の中に修行を妨げ心を乱す不浄な葷(ニラやニンニクなど、臭いがきつい食べ物)や酒を持ち込んだり、それらを口にした者が入ることを許さない。


山門。
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「大内義隆卿菩提寺」とあります。
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山門の築地塀の瓦は大内菱です。
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山号「瑞雲山」の扁額。
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龍福寺山門は、主柱間距離(心々間)3.3mで、近世中期(18世紀?)に建てられたと言われています。(『大内氏館跡14』(山口市埋蔵文化財調査報告第109集)(山口市教育委員会文化財保護課/編 山口市教育員会 2013)P195 表6「中国地方の門跡遺構」参考) 


【次回に続く】
大内氏館(14)龍福寺T参道 @ 大内氏遺跡指定60周年記念バスツアー2019㉙ [2020年04月18日(Sat)]
【前回の続き】

大内氏館跡に建つ龍福寺
大殿大路から参道を歩いてみますぴかぴか(新しい)


石碑「大内氏衙門跡」。
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石碑「龍福寺」。
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さきがけの松と山縣有朋揮毫の石碑「さきがけの松」。
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「さきがけの松」説明板。
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明治二十八年、鴻東尋常高等小学校(現大殿小学校)開校記念に一本の松が植えられ、翌年明治の元勲山県有朋公がみえ、子供達が将来に向かって大きく羽ばたき成長することを願って「先駆ける」との意味から「さきがけの松」と命名揮毫され、大殿地区の有志によって、建立された由緒ある石碑です。

大殿小学校の大殿大路側の門は「大龍門」といいます。
63E885BD-05B6-4E0B-AFC0-79A90CE7191E.jpeg大殿小学校


参道。
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「国指定史跡 大内氏館跡 瑞雲山龍福禅寺 大内義隆卿菩提寺」という案内板。
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サビエル布教の井戸を再現したものもあります。
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天正十九年ザビエルは大内義隆卿に謁し、布教の許可を得て、大殿大路の井戸の傍らで初めてキリスト教の布教をしたと言われています。
この井戸をそれを再現したものです。


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サビエル記念聖堂のある亀山公園(山口市亀山町)には「井戸端で説教するフランシスコ・サビエル像」があります。
7B93061B-F5A7-4B82-9074-D77D311FB1FA.jpeg亀山公園

ジョアン・ロドリーゲス『日本教会史』によると、サビエルは修道士ジョアン・フェルナンデスと毎日2回大殿小路という通りにでかけそこにあった井戸端で布教活動をしていたそうです。
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ザビエルは修道士ジョアン・フェルナンデスと毎日二回、山口の大殿小路という通りに出かけそこにあった井戸端で、集まってくる人々に向かい、教理の書を読んだり、説明したりして布教した。あらゆる階層の人が集まって来たが、その数は大変なものであった。(略)

大内義長「大道寺創建裁許状」碑 @ 12月、山口市はクリスマス市になる。」で触れましたが、亀山公園には大内義長「大道寺創建裁許状」碑もあります。
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「大内氏のトビラ」展では、「大内義長裁許状写」(天文21年8月28日付)(「山口市教育委員会所蔵文書」 山口市歴史民俗資料館蔵)が展示してありましたひらめき
周囲がボロボロの状態でしたが、歴民が持っているので、普段でも展示しているかもしれませんね。
展示されていた「大内義長裁許状写」がいつ模写されたなどの説明は掲示されていなかったのですが、こうして見ると、亀山公園にある碑とと少し違いがあるのが分かります。「写」をしていくうちに、微妙に違ってくるのでしょう。ここでは、「大内氏のトビラ」展での裁許状を書き写します。

  大内義長公キリシタン寺裁許状
周防國吉敷郡山口縣大道寺事 従西域來朝儈事 爲佛法紹隆可創建彼寺家之由 任請望之旨 所令裁許之状如件
 天文廿一年八月廿八日 周防介 御判
     當寺住持


書き下し文にしてみました。

周防の國吉敷郡山口縣(あがた)大道寺の事 西域より來朝の儈の事 佛法紹隆の爲 彼の寺家を創建すべきの由 請望の旨に任せ 裁許せしむる所の状 件(くだん)の如し

現代語訳にしてみました。

周防の國吉敷郡山口縣にある大道寺において、西域よりこの国に来た僧(パードレ・司祭)達が、仏法(キリスト教)発展のために、寺家(教会・修道院)を創建するという要望に対し、その許可を与えることを証する。

ツアーの講師である伊藤幸司先生は、
「大内氏は、ザビエルたちを仏教発祥の地であるインドからやって来た新手の仏教僧だと思っていたのでしょう」
と言われていました。なかなか説得力のある見解です。

『山口古図』(山口県文書館蔵 軸物史料218)を見ると「大導寺」というのが記載されていますひらめき
この地図は、サビエルの布教の地を探していたビリオン神父が発見したとされ、この地図から神父は大道寺の跡地を山口市金古曽に比定しました。

「日本最初の教会 大道寺址」石碑。
3551AF9A-D7DD-4E66-9AE9-B63DC9D440E3.jpeg山口市金古曽

山本一成先生は、『歴史随想 大内文化』(大内文化研究会 1996)に

 大内氏の滅亡後、大道寺の旧跡は不明となっていたが、明治二十二年(一八八九)、山口カトリック教会に赴任したフランス人ビリヨン神父が調査を進め、山口市の旧家・阿部家のふすまの下張りから発見された「山口古図」が手がかりとなって、現在の陸上自衛隊山口駐屯地付近と判明したのである。

と記されています。

4052C9C7-6949-4535-BB8C-ACB18532F9B5.jpeg陸上自衛隊山口駐屯地内

1552(天文21)年の山口で日本での最初のクリスマスが祝われたことから、毎年山口市では「12月、山口市はクリスマス市になる。」を合言葉に12月1か月間、様々なイベントが開催されますが、その総合パンフレットに
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室町時代、守護として山口を治めていた大内氏は、京都をはじめ朝鮮半島や中国大陸から様々な文化、学問、宗教を取り入れ、西国一といわれるほどの経済的発展とともに文化的あふれる個性的な町づくりを行いました。(略) 

とあります。

龍福寺の参道は紅葉の名所です。
ツアーの時も、とてもきれいでした。
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参考文献:
『歴史随想 大内文化』(山本一成/著 大内文化研究会 1996)「カトリック教と山口」P143〜148
『室町戦国日本の覇者 大内氏の世界をさぐる』(大内氏歴史文化研究会/編 勉誠出版 2019)伊藤幸司「大内氏のアジア外交 四 ヨーロッパとの出合い」P37〜43
『大内氏時代山口古図』(山口県文書館蔵 軸物史料218)
  ※山口県文書館の「高画質画像ダウンロード」サイトでインターネット公開しています。



大道寺の場所については、山口市西門前の本圀寺前という説もあり、このことについては、また別の機会に書くことにします。


【次回に続く】
大内氏館(13)唐人小路 @ 大内氏遺跡指定60周年記念バスツアー2019㉘ [2020年04月17日(Fri)]
【前回の続き】

大内氏館(8)北域の外郭施設」のところで少し触れましたが、「唐人小路」というのがあります。「上竪小路を西へ入る所」(『注進案』)で、そこには、渡来人が居住する「唐人町」という町があり(『山口古図』)、「外国(客)館」が建っていた(『山口名勝旧蹟図誌』)といいますぴかぴか(新しい)

かわいい『山口古図』(山口県文書館蔵 軸物史料218)

雲谷雪舟ニ可庸ノ両人滞留アリ 唐人町ト云
明国ヨリ趙可庸ト言詩人数十年来ルヨリ其名町名ナリ


と、光台寺の辺りに書き込みがあります。
「可庸(かよう)」は、明の使節 趙秩(ちょうちつ)の字(あざな)です。1373(応安6)年、弘世に招かれて山口に滞在し、山口十境詩を作ったと言われています。


かわいい『注進案』山口下−山口街志六

唐人小路  上竪小路より西に入る所
郡庁考、寛永の山口町割の図に此名あり、上竪小路西へ入る所もあまたありて今某所を知る人なし、明人張思朝に屋敷一区を賜ひし事あれと、それハ大町にて賜ひしよし見ゆれハこゝに非し、


かわいい『山口名勝旧蹟図誌』(近藤清石/著 宮川博古堂 明26,27)

唐人小路
土人の云ひ伝えに大内氏の時に外国館ありしと云ふ。

外客館
古老の伝に唐人小路に在りて、外客この館より大内氏の居館に出るには、竪小路を下り野田町に入り、居館の左側なる唐橋と云ふ橋を渡りて館内に入りしと云ふ。



この3つが示すのは、いずれも、上竪小路。光台寺は今もあるので、だいたいの場所の検討はつきます。
そんな時に思い出したのが、以前、山口ふるさとふれあい総合センターでいただいた絵図の本です。古い絵図に現在の道路や施設を落とし込んでいて、今昔を楽しむようになっています。

その中の古地図シリーズC『幕末山口市街図』(山口県文書館蔵)に、ありましたexclamation×2「唐人小路」が説明つきで。

唐⼈⼩路
大内時代に外国館があったと伝えられます。
幕末、一つ橋たもとにあった 藩の養蚕局で、品川弥⼆郎らがひそかに錦の御旗を作らせました。


とありました。錦の御旗製作所は今は観光スポットとして2019年に整備されていて、それを横目で見ながら車で走っていましたが、一度も行ったことがありませんでした。

光台寺と錦の御旗製作所を目指して行ってみましょう。
ただ、この地図は不鮮明なので、山口県文書館のサイトで 『幕末山口市街図』(山口県文書館蔵 袋入絵図178)(慶応元年(1865)〜明治元年(1868)頃)をチェックします。
明治初年頃のもので、市街地の街並みを町ごとに色分けし、裏手の土地等には区画ごとに面積が記入されているとてもきれいな地図です。
何度も見たことのあった地図なのに、ちゃんと「唐人小路」とあるなんて、気づきもしませんでしたちっ(怒った顔)

大内氏館の北堀から出発し、築山小路に出て、さらに竪小路を北に進みます。
築山跡の築地跡と築山神社を横目で見て、
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地下道を渡り、上竪小路を進みます。
この辺りを通る度に、司馬遼太郎『街道をゆく』第1巻「甲州街道、長州路ほか」第5章「長州路」の「瑠璃光寺など」(朝日出版社)を思い出します。

途中、町並みが暗い。道はせまく、両側の軒が車の窓ガラスにせまり、旧街道の趣きが濃く残っている。

竪小路には古い町家が残っています。
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こちらが、光台寺
『山口古図』に「光薹寺 一向」と書き込みがあります。
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清末毛利出屋敷長屋門の遺構もあります。
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清末藩は毛利の支藩の一つのです。なので、家紋は一文字三星です。
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でも、ここまで来たら行き過ぎです。
伊勢小路の次の西への路地が唐人小路です揺れるハート
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左折すると錦の御旗製作所広場。
正式名称は「錦の御旗製作所跡ポケットパーク」だそうです。
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そろそろ一の坂川が見えてきました。
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一の坂川に架かる一つ橋の袂にある「錦の御旗製作所址」。
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「錦の御旗」説明板。
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今来た道を振り返ってみると……。
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古図を参考に歩くことができるっていいですねひらめき

ついでに、錦の御旗製作所跡ポケットパークに寄ってみますわーい(嬉しい顔)
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「錦の御旗」説明板。
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これが錦の御旗。勤王の志士が泊まっていた松田屋ホテルにあるそうです。
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こちらに掲示してあった地図を利用させていただいて、唐人小路の地図を作ってみましたわーい(嬉しい顔)
『注進案』に、「寛永の山口町割の図に此名あり、上竪小路西へ入る所もあまたありて今某所を知る人なし」とあるように、何も残っていないし、入り口も狭いし、伊勢小路自体がバイパスができて様変わりしているし、わかりにくいのでご参考に。
55E385E2-4D7F-4D91-84C6-BFCFDE0639BE.jpeg黄色く塗ったところ BE9985EA-1D3E-4F2B-85DA-1A0518895E4A.jpeg

新伊勢橋の方から行く方が間違えが少ないかも・・・・・・。
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また、上竪小路の地下道を通って、大内氏館へ戻ります。
国道9号の南側歩道そばに上竪地蔵があります。
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安置されている地蔵菩薩は弘直(?〜1336)の作だそうです。弘直は大内23代の弘幸の弟です。
政弘の代に一の坂に祀られ、後に銀山の祈願所になり、大火の際この地に飛来し、お堂に祀ったと伝えられています。
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このお堂は九号バイパスの用地内にあるためやむなくこの地に移転したものです」とあります。
『幕末山口市街図』には、伊勢小路と唐人小路の間の東側に「地蔵堂」があるのですが、これだったのですねひらめき
山口ふるさとふれあい総合センター古地図シリーズB『山口町村図』(山口県文書館蔵)(江戸時代末頃)にも見えます。
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築山跡が見えてきました。
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築山跡にあった地図に「唐人小路」も加えてみました。
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唐人たちはこうして、大内氏館に通っていたのですね。
唐橋があったという言い伝えのある大内氏館の北堀から10分もかからない距離です。



参考文献:
『山口市史 史料編 大内文化』(山口市 2010)「唐人小路・唐本屋」P909
『幕末山口市街図』(袋入絵図178 1865(慶応元)〜1868(明治元)年 山口県文書館蔵)
  ※山口県文書館のサイトでインターネット公開されています。
山口ふるさとふれあい総合センター古地図シリーズB『山口町村図』
山口ふるさとふれあい総合センター古地図シリーズC『幕末山口市街図』
  ※山口ふるさとふれあい総合センターのサイトでインターネット公開されています。
『大内氏時代山口古図』(山口県文書館蔵 軸物史料218)
  ※山口県文書館の「高画質画像ダウンロード」サイトでインターネット公開しています。
『山口名勝旧蹟図誌』(近藤清石/著 宮川博古堂 明26,27)
  ※国立国会図書館のサイトでインターネット公開されています。



【次回に続く】
大内氏館(12)ソテツとシャクヤク @ 大内氏遺跡指定60周年記念バスツアー2019㉗ [2020年04月16日(Thu)]
【前回の続き】

大内氏館の庭を彩った植物にソテツとシャクヤクがありますぴかぴか(新しい)

ソテツは、
F5533A48-E459-4352-963C-D58F3B05C2C4.jpeg龍福寺境内 6BA428F2-6688-4AC5-B609-D3829DB7B3E5.jpeg大内氏館復元池泉庭園

『蔭涼軒日録(いんりょうけんにちろく)(1435〜1493)の長享二年(一四八八)九月十六日の条に、次のようにあります。

十六日、(略)興文首座話云、大内庭仁ソテツト云草、自高麗来、カフヨリ葉出而、一間仁ハヽカルホトナリ、センマイノ大ナルヨウナ者也、若公方様御庭二、ウエセラレハ、進上可白由白、(略)

16日、(略)興文首座話して云う。大内の庭にソテツと云う草あり。高麗より来たる。かぶより葉出でて、一間にはばかるほどなり。ぜんまいの大なるような者なり。若し公方様御庭に、植えせられば、進上白(=申)す可く、由(なお)白(=申)す。

16日、(略)興文首座が来ていうには、大内氏の庭にソテツという草があります。高麗より取り寄せたものです。株より葉が出て、その葉は一間ほども茂ります。ゼンマイを大きくしたようなものです。もし公方様の庭にお植えになるのであれば、献上いたしますが、いかがでしょうか。

『蔭涼軒日録』(いん(おん)りょうけんにちろく)は、京都相国寺鹿苑院 (ろくおんいん) 内の蔭涼軒主の日記です。1484(文明16)〜1493(明応2)年の間は、亀泉集証(きせんしゅうしょう) が記しています。

長享2年(1488)といえば、足利将軍は九代の義尚(よしひさ)(1465〜1489)(在職は1473(文明5)〜1489(長享3))(1488年に名を義煕と改名しているので、正確には、義煕)。大内氏は政弘(1446〜1495)の時代です。
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義興はこの年 義煕(義尚)より「義」の偏諱を受けています。

興文首座(こうぶんしゅざ)は、大内氏の雑掌で、在京して朝廷や幕府との交渉に当たった外交僧です。



シャクヤクは、
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『続群書類従』巻352 文筆部36『策彦和尚詩集』に、

 於大内義隆公之私第見高麗芍薬
駐春紅薬以紅顔。年少叢邊傳往還。古今雖花人以顯。三韓移住一庭間


と、「大内義隆の邸宅に於いて高麗の芍薬を見た」という記述があります。

『続群書類従』は、塙保己一が編纂した『群書類従』(ぐんしょるいじゅう)の続編です。国学・国史を主とする一大叢書で、『群書類従』に続いて塙保己一(はなわほきいち、1746〜1821)が計画し、没後は弟子たちが引き継きました。
『策彦和尚詩集』は、策彦周良(さくげんしゅうりょう)の詩文集で、『続群書類従 第十三輯 下』に、南禅寺二百五十九世となった、山口でもお馴染みの梅屋宗香の漢文集『梅屋和尚文集』などとともに所収されています。

策彦周良は、室町後期の臨済宗の僧で、義隆の命で、1539(天文8)年遣明副使(帰国は1541年)、1547(天文16)年正使(帰国は1550年)として明に渡りました。このときの見聞の克明な記録『策彦入明記』は、末期の日明貿易を知る上での貴重な史料となっています。また、入明の前後、山口周辺で過ごしています。


ソテツが植えてあった政弘の「大内庭」、シャクヤクが植えてあった義隆の「一庭間」は今では残っていませんが、時代の最先端をいっていた華やかな大内氏館の庭に思いを馳せます。



参考文献:
『山口市史 資料編 大内文化』(山口市 2010)
 「蔭涼軒日録(長享二年九月十六日)」P152
 「策彦入明記」P253〜258
『続群書類従第十三輯下 文筆部 消息部 第348〜365巻』(塙保己一/編 続群書類従完成会 1926))
 巻352 文筆部36「策彦和尚詩集」
 (※国立国会図書館のサイトでインターネット公開されています)
『大内氏館跡14』(山口市埋蔵文化財調査報告第109集)(山口市教育委員会文化財保護課/編 山口市教育員会 2013)コラム「大内義隆とシャクヤク」P43



【次回に続く】
大内氏館(11)大殿大路 @ 大内氏遺跡指定60周年記念バスツアー2019㉖ [2020年04月15日(Wed)]
【前回の続き】

大内氏館の南辺を東西に通る道路を「大殿小路(大路)」といいます。これは、「内御殿」の名残とされています。ぴかぴか(新しい)

「大殿大路」の標識があちこちにあります。
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大内氏は山口の開府にあたり、一の坂川の東部の方形の区画に大内館を設け、更に大内御殿と称する築山御殿を造成し、館の南側を東西に通じる通りを大殿大路とした。

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大内氏館のあった龍福寺の参道入口から西方向。
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龍福寺の参道入口から東方向。
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西方に位置する金山・長山(亀山)(吉敷方面)と東に位置する東方便山(宮野方面)を結ぶ直線をまちづくりの基準線=大殿大路とした、というお話を聞いたことがあるのですが、『大内氏館跡15』(山口市埋蔵文化財調査報告第111集)(山口市教育委員会文化財保護課/編 山口市教育員会 2014)P271〜272にも書いてありましたひらめき

 大殿大路はきわめて直線的なつくりである。(略)
 こうした直線道路の主軸の割出しにあたっては、一の坂川扇状地の西方に位置する金山(山口市吉敷)・亀山(山口市亀山町)と東方にそびえる東方便山(同 宮野上)とを結んだとする説がある。


確かに、西方面には、若干わかりにくいですが、亀山が、
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東方面には東方便山が望めます。
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東方便山は、あの東鳳翩山(標高743m)ではなく、山口市宮野・仁保・大内にまたがる標高360mの山です。
東鳳翩山は東方便山とも書くので実際のところ紛らわしいです。
ちなみに、西鳳翩山ではなく、西方便山(標高235m)(山口市大内長野)という山も山口市リサイクルプラザの辺りにあるんですよ。


今度は、大殿大路の西端、竪小路との交差点から大殿大路を見てみました。
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竪小路との交差点を超えた小道は、「錦小路」です。
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今度は、大殿大路の東端、「中殿小路」との交差点から、大殿大路を見てみます。
『大内氏時代山口古図』(山口県文書館蔵 軸物218)には、「大田氏拝領 中殿」とあるので、それで中殿小路というんでしょうね。おそらくです、確証はありません。
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中殿小路の北を進むと、「大殿小路」という標識がありましたひらめき
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大殿大路から入るこの路地は、『大内氏時代山口古図』では「鞍馬小路」ですが、
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標識では「中野殿小路」です。
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その北側に目を向ければ、大内館の南門があったところが見えます。
このもう少し東より、竪小路と中殿小路を挟んだ中間地点で、大型地下式礎石が発見されました(町並12次調査)。南外門ではないかと推測されるそうです。
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参考文献:
『大内氏館跡15』(山口市埋蔵文化財調査報告第111集)(山口市教育委員会文化財保護課/編 山口市教育員会 2014)「大内氏の空間分節原理」「大内氏館の特質」「大内氏館の課題」P271〜84
『大内氏時代山口古図』(山口県文書館蔵 軸物218)
  ※山口県文書館の高画質画像ダウンロードのサイトでインターネット公開しています



【次回に続く】
大内氏館(10)宴 @ 大内氏遺跡指定60周年記念バスツアー2019㉕ [2020年04月14日(Tue)]
【前回の続き】

廃棄土坑の出土品や残留物を調査することにより、どれくらいの規模で、どんな食べ物が食べられていたのかを解明することができ、当時の書類と照合することで、大内氏の宴の様子を知ることが可能となりましたぴかぴか(新しい)

土師器皿が埋まっていた土をふるいにかけ水洗いをすると、食材の骨や貝殻が大量に発見されることがあるそうです。

第30次調査の土坑1から持ち帰った土から多量の食材残渣が見つかりました。
1500枚もの土師器皿の見つかった土坑2のそばです。
土坑1では、土師器もたくさん見つかりましたが、土坑2が在来系だったのに対して、こちらは京都系だったそうです。
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わずか数mmのものを顕微鏡で観察し、その種類や部位を特定する動物考古学の調査も行われています。その結果、最も多かったのはサメやエイ、アワビなどの魚介類だそうです。とりわけ、マダイが多く、頭から尾までの骨も見つかり、尾頭付きで流通していたと考えられています。出土した魚介類の大半は、近隣の海や河川で採集したものようですが、大内氏の献立記録には、カズノコやホッケなど北国の海産物も記されて、大内氏の財力がうかがいしれます。


『明応九年三月五日将軍御成雑掌注文(しょうぐんおなりざっしょうちゅうもん)(毛利博物館蔵)によると、1500(明応9)年3月5日、義興は、室町幕府の前将軍 足利義尹(よしただ)を大内館に招き、式三献の杯事(さかずきごと)の料理・膳数を除き、「初献」〜「三献」14品(初献「五しゅ」を5品とカウント)、「供御」〜「五御台」32品・「御菓子」9種・「四献」〜「廿五献」68品(五献「三ほうせん」を3品とカウント)、計31膳123品の料理でもてなすという中世最大級の宴を催しました。

こちらが接待された室町幕府の前将軍 足利義尹。
十代将軍の義材(よしき)(在位:1490(延徳2)〜1493(明応2))、義稙(よしたね)(在位:1508(永正5)〜1522(大永元))です。
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(九州国立博物館 特別展「室町将軍 ― 戦乱と美の足利十五代 ― 」にて撮影)

こんな贅をつくした宴をして、室町幕府への挑戦ですよね。
 

『元就公山口御下向之節饗応次第(もとなりこうやまぐちごげこうのせつきょうおうしだい)(山口県文書館蔵 毛利家文庫)は、1549(天文18)年2月から5月にかけて、毛利元就が大内氏との親睦関係緊密化のため、次男元春・三男隆景を伴い、義隆を表敬訪問し2か月余りの山口滞在期間中の饗応記録です。奥書に「天文十八年五月十七日 持主粟屋刑部左衛門尉方泰(花押)右筆重顕(花押)」とあります。
そこには、義隆やその家臣たちが開いた約20回の饗宴のうち6回分の献立が記されています。宴の場所や日付・料理・膳の数がわかります。

義隆の催した天文十八年三月朔日大内館での宴では、「式三献」の記述は省かれていますが、「一之膳」〜「之膳」23品・「御菓子」7種・「初献」〜「十献」33品、計14膳63品でした。

その上、一献ごとに、配膳したお膳の種類の添え書きが、下方に記載されています。
膳の上での器の位置を示すために、料理名が前後左右にばらされて記されています。
料理名の横には盛った器などについての添え書きがあり(料理名の下に書いてあるのも、記載のないものもあり)、「小中(こじゅう)」・「大中(おおじゅう)」・「三度入」・「あいの物」・「五度入」などの京都系土師器皿を料理によって使い分けていることが分かります。

三之膳には、「上おきめしたるミ 白鳥」、「獺二大こん入」というのが見えます。ハクチョウやカワウソを食べていたのですね。
実際にカワウソの骨も見つかっています。



参考文献:
『山口市史 資料編 大内文化』(山口市 2010)
 「明応九年三月五日将軍御成雑掌注文」P206〜10
 「元就公山口御下向之節饗応次第」P213〜6
『大内氏館跡13』(山口市埋蔵文化財調査報告第103集)(山口市教育委員会文化財保護課/編 山口市教育員会 2012)巻頭図版14〜15、本文「大内氏の宴を再現する」P207〜34、図版48〜9
『大内氏館跡12』(山口市埋蔵文化財調査報告第102集)(山口市教育委員会文化財保護課/編 山口市教育員会 2011)巻頭図版15〜16、本文「大内氏館跡第34次調査出土の動物依存体」P208〜18、図版73
『室町戦国日本の覇者 大内氏の世界をさぐる』(大内氏歴史文化研究会/編 勉誠出版 2019)
 「大内氏の宴―その器と配膳方法―」P150〜7
 「大内文化を科学する 二発掘されたゴミから食生活をさぐる」P164〜9
『大内氏の宴 (うたげ) 〜出土品にみる中世山口の食文化〜』(山口市教育委員会文化財保護課 2012.3)



【次回に続く】
大内氏館(9)土師器皿 @ 大内氏遺跡指定60周年記念バスツアー2019㉔ [2020年04月13日(Mon)]
【前回の続き】

儀礼の痕跡を示す遺物に「かわらけ」があります。室町時代、宴のことを「はじのうつわもの」といったように、素焼きの皿すなわち土師器皿(はじきざら)を使い捨てにするのが習わしでした。土師器皿は、汚れやすく使い捨てである故に、清浄な容器として儀式に使われました。

守護所遺跡では、これが、しかも「手づくね」と呼ばれる京都風のものが大量に出土し、この種の儀礼的な宴会が行われていたことを示しています。

大内氏館跡の発掘調査でも、敷地内の数ヵ所から大量の土師器皿が見つかっています。1つの土坑(ゴミ穴)から、数百枚から、多いところでは、なんと1500もの土師器皿が出土しました。

第30次調査で1500もの土師器皿が出土した場所です。埋め戻されていますが……。
北堀沿いの復元土塁と龍福寺新位牌堂との間に挟まれた1000uの敷地です。「やかた広場」(仮称)として整備する予定だそうです。
広くて後方に復元土塁があるので全体がうまく撮影できませんふらふら
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西側から撮ってみました。
写真ではなんのことやらよくわかりませんね。
でも、築山館の跡にある八坂神社がよく見え、大内館と築山館の位置関係がよくわかります。
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大内氏遺跡で出土する土師器皿には2種類あります。
1つは製作時にロクロを使ったもので、非常に薄く軽く仕上げられ、白味を帯びています。昔から山口で作られていたもので、在来系土師器皿とよばれています。これほど精良かつ薄手に仕上げた土師器皿は全国的にも他に例がなく、技術の高さが伺えます。15世紀の大内館で使われていました。

もう1つはロクロを使わずに手で作ったもので、全体に丸く厚手で赤味がかっています。
大内氏が京都から持ち込んだものと考えられ、16世紀義隆の頃には好んで京都風の手づくねの土師器皿を使っていました。わざわざ職人を京都から招きよせ、土器作りにあたらせたようです。

館跡では少数ですが、京都系金箔土師器皿や貴い客人にしか出さなかったとされる「耳皿(みみざら)」という貴重な箸置きも出土しました。


参考文献:
『大内氏館跡12』(山口市埋蔵文化財調査報告第103集)(山口市教育委員会文化財保護課/編 山口市教育員会 2012)巻頭図版12〜13、本文P69〜166・189〜206、図版35〜56 → 第30次調査
『大内氏の宴 (うたげ) : 出土品にみる中世山口の食文化』(山口市教育委員会文化財保護課 2012.3)



【次回に続く】
大内氏館(8)北域の外郭施設 @ 大内氏遺跡指定60周年記念バスツアー2019㉓ [2020年04月12日(Sun)]
【前回の続き】

館外の郭は溝ないし堀で画されていました。
北域では、第9・10・11・16・18次調査で、北構が掘られ、その後、溝が埋没して、北堀が新たに掘削されたのが分かりました。
しかしながら、土塁の存在は確認できてないようです。

今、北縁側は、約100mにわたって、堀跡には砂利が敷かれ、それにそって高土塁が造らています。
これって何? 確認できていないのに「復元」????? 
いやいや、こういう場合、「復元」っていう言葉を使わないでしょう……。
同じ復元するなら、まだ詳細がわかっていない、「南門」を復元して欲しいです。壮大なものだったようで、大内氏館の大きさがわかると思うので……。
(ツアーの時、「この土塁って何ですか?」と質問するのを忘れていました。ということで、山口市文化財保護課に問い合わせてみるというミッションができました!)

北東部から見ると…。
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開口部もあります。
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北西部から見ると…。
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また、『大内家古実類書』(山口県文書館蔵 多賀社文庫)

唐橋旧跡 今龍福寺 当時ノ後ノ堀半ノ所ニ掛リアリシト云、其所唐橋ト云伝ヘリ(中略)大内公ノトキ、勘命(合)ノ通路ノトキ、大明人来聘(へい)ノ砌(さい)、此門ヨリ屋形ノ内へ入トナリ

『山口名勝旧蹟図誌』(近藤清石/著 宮川博古堂 明26,27)(国立国会図書館のサイトでインターネット公開しています)

唐人小路
土人の云ひ伝えに大内氏の時に外国館ありしと云ふ。

外客館
古老の伝に唐人小路に在りて、外客この館より大内氏の居館に出るには、竪小路を下り野田町に入り、居館の左側なる唐橋と云ふ橋を渡りて館内に入りしと云ふ。


と、館の北側に唐橋が架かっていたという伝承の記述がありますが、遺構は確認できていません。

まだまだ調査は続くのでしょう。



参考文献:
『大内氏館跡13』(山口市埋蔵文化財調査報告第103集)(山口市教育委員会文化財保護課/編 山口市教育員会 2012)巻頭図版2〜18、本文P9〜68・167〜187、図版1〜34
『山口市史 史料編 大内文化』(山口市 2010)「唐人小路・唐本屋」P909


【次回に続く】
大内氏館(7)南門 @ 大内氏遺跡指定60周年記念バスツアー2019㉒ [2020年04月11日(Sat)]
【前回の続き】

西門のところで書きましたが、南門が第20次調査で発見されましたぴかぴか(新しい)
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門柱を支える礎石と、塀の端部を押さえる貝形柱の礎石が見つかりました。
15世紀末の整地上に構築されていて、16世紀中頃の大内氏廃絶頃の火災で焼失したと考えられます。

主柱の間隔は約4.5mです。中・四国地方の中世遺跡の門跡としては最大規模です。
復元された西門の柱間は1.8mですので、当然、西門よりも規模は大きいです。
西門と同様、館の内郭と外郭を繋ぐ内門であったと考えられます。
5B67F9AA-3648-4077-8C7D-E3BC9C640675.jpeg大内氏館西門

盛見の菩提寺の国清寺山門(現 洞春寺(毛利元就の菩提寺)山門)(四脚門・桧皮葺・室町時代中期)の柱間は3.75mなので、南門の規模の大きさが分かります。
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山口藩庁門(切妻造・本瓦葺、1864年築造)の柱間は4.85mで、ほぼ規模が一致します。
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南門の柱抜取痕からは中世瓦が相当量出土しました。
雁振瓦(棟の最上端に載せる半円形の丸瓦)・熨斗瓦(棟を積むために用いる短冊形の平瓦)・切据鬼瓦・巴瓦 (軒丸瓦)・唐草瓦(軒平瓦)などで構成されることから、門の棟部だけ瓦が使用され、屋根本体には瓦以外の植物質素材が葺かれたと推定でき、門の規模の割に主柱の径が小ぶりとなるのもそのためと考えられるそうです。

また、巴瓦の巴文の先端が尖り、尾は長く伸びて圏線と接し、珠文は小さいという特徴は、15世紀末〜16世紀初頭制作と推定される凌雲寺跡出土瓦によく似ているそうです。

炭化材を樹種同定したところ、ヒノキであることが分かりました。門の部材と考えられ、国清寺山門も当初材はヒノキです。法隆寺もヒノキですexclamation×2
西門はクスノキだと同定されています。山口藩庁門はケヤキとマツ。

下の「空間利用模式図」で分かるように、竪小路と東3号堀とを結んだちょうど中間地点に位置します。
現在の山門よりもさらに約25m西にあたります。

西門同様復元されるといいと思うのですが、なかなか難しいようです。


参考文献:
『大内氏館跡14』(山口市埋蔵文化財調査報告第109集)(山口市教育委員会文化財保護課/編 山口市教育員会 2013)巻頭図版6〜7・14〜15、本文P106〜110・P179〜196・P207〜224、図版38〜43・52〜57
『山口市史 史料編 大内文化』(山口市 2010)P924〜5
『室町戦国日本の覇者 大内氏の世界をさぐる』(大内氏歴史文化研究会/編 勉誠出版 2019)P134〜5



【次回に続く】
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