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興隆寺(5)梵鐘(大内義隆寄進) @ 大内氏遺跡指定60周年記念バスツアー2019J [2020年03月31日(Tue)]
【前回の続き】

氷上山興隆寺には大内義隆が願主となって寄進した梵鐘があり、
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梵鐘(大内義隆寄進)」として重要文化財(工芸品)に指定されていますぴかぴか(新しい)
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総高189.0p、口径111.8pの大きな鋳銅の釣鐘です。
1532(享禄5)年、筑前芦屋(現在の福岡県)の鋳工 大江宣秀が造ったものです。

朝鮮鐘を模倣した形の特異な和鐘です。
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竜頭(釣鐘の頭部に付けた竜の頭の形をしたもの)は和式です。
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鐘身と笠(鐘の上部)との境に鋳出した雲文の吹き返し、
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乳廓文様(乳のような突起物が並んでいる所)などに朝鮮鐘の形式が取り入れられています。

撞座(つきざ)(撞木 (しゅもく) が当たるところ)は蓮華文で、対称的位置に二箇設けられています。
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撞座がある部分にのみ縦帯を設けています。縦帯は通常は4本で鐘身を縦に4分割していますが、この梵鐘は、銘文をたくさん彫るため2本になっているのが特徴です。
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乳廊は唐草文の廊に乳を配列し、四区あります。
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乳廊の間に四天王を鋳出しています。
5D2AC43C-A6C8-4C8E-BA9F-BB830531E564.jpeg広目天 
CC1A959D-EA6F-4489-A8CD-EAADE0C41068.jpeg増長天 
B444BF38-3948-4F95-9FB4-D2B18B9AF7A2.jpeg持国天 
80A37372-E04B-415E-BA04-6FBB7DA3A3AD.jpeg多聞天

中帯上部は中央に宝珠を表わし、左右に雲としています。
中帯下部は雲竜文様としています。
90ECFF20-01F1-4474-BDBA-086EF796A6D2.jpeg 58F52E86-9F0C-4545-A7AD-5D9F363129C3.jpeg 0EB385B1-486F-4A04-8B9A-0EEC21971EF4.jpeg宝珠 ABEDA946-59AE-408C-B133-575DBCB9C82D.jpeg

駒の爪は覆蓮で飾っています。
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池の間(鐘身の中央部で、乳の間と中帯の間)は二区に作っています。

銘文は、鐘腹中央の池の間に施されています。
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(以下、陰刻銘文)
周防国吉敷郡      
氷上山興隆寺
  涅槃経云
 諸行無常是生滅法
 生滅々己寂滅為楽
  阿含経云
 若打鐘時三悪道
 一切苦悩停止五百
 億却重罪滅魔怨
 聞鐘聲悉皆怖畏
  地獄経云
 鐘是大聖信鼓
 聞声一切衆生
 皆離憂苦
  天台座主親王(花押) (以上、15行陰刻)

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(以下 陽鋳銘文)
 亨(享)禄五年辰壬八月吉曜日  
     葦屋元金屋大工  (本行冒頭5字は追銘で、陰刻)
           
大江宣秀
 
  奉行
   権大僧都法印大和尚位仙祐
 別當
  権大僧都法印大和尚位祐慧
 大願主
  従五位上守左亰大夫多々良朝臣義隆
 (以上9行陽鋳)


法量は、
総高 189p
龍頭高 424p
笠高 7.3p
胴高 139.4p
口径 111.8p
口厚 14.8p
撞座径 20.3p
撞座中心高 30.6p


そばには「梵鐘」の説明板が立っています。
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国指定重要文化財
 興隆寺の梵鐘
  工芸品 昭和三四年一二月一八日国指定
  所在地 山口市大字大内御堀四三一番地
この梵鐘は室町時代周防長門など七か国の守護であった大内義隆が享禄五年(一五二三)に大内氏の氏寺興隆寺に寄進したものである。総高が一八九センチ、口径が一一一.八センチの巨鐘で、朝鮮鐘の影響を多く受け、乳の間四区の間に四天王、草の間に雲竜文様を鋳出すなど、随所に装飾がにぎやかにつき、大内文化を代表する工芸品である。 銘文から筑前葦屋(福岡県遠賀郡芦屋町)の大江宣秀の作であることがわかる。
興隆寺は大内氏の氏寺で、大内氏全盛の時は非常に栄えたが、大内氏滅亡後は衰え、明治になり堂塔もなくなった。



鐘楼は、1957(昭和32)年に再建されたそうです。
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(『山口市史 史料編 大内文化』(山口市 平成22年)P851、P872参照)


【次回に続く】
興隆寺(1)木造釈迦如来坐像 @ 大内氏遺跡指定60周年記念バスツアー2019F [2020年03月27日(Fri)]
【前回の続き】

いよいよ大内氏の氏寺の興隆寺ですぴかぴか(新しい)

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氷上山興隆寺については、ブログ記事「大内氷上の興隆寺と北辰妙見社に行きました」でアップしましたが、今回は特別のツアーなので、日頃は入れない興隆寺中興堂(釈迦堂)に入ることができましたひらめき

こちらが中興堂。
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(ツアーの時は屋根葺替作業のため、後日撮影)
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中興堂の中におわしますのは、釈迦如来様です。
木造釈迦如来坐像は大内氏の氏寺として栄えた興隆寺の本尊です。

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平成12年の調査結果、頭部内部に墨書銘が発見され、

永正元年(1504)大内義興が施主
 つまり義尹(よしただ)山口滞在中。
・大仏師越後法眼宗賢
・作者伊豆法眼院慶
 院派系の仏師と考えられる
 (配布資料より)

ということがわかりました。
それまで、面長な顔の輪郭、引き締まった顔の肉取り、ややつり上がった瞼の切れ込み、衲衣と裳の強い襞の表現から南北朝時代の慶派の作とされていました。

義尹(よしただ)といえば、十代将軍の義材(よしき)(在位:1490(延徳2)〜1493(明応2))、義稙(よしたね)(在位:1508(永正5)〜1522(大永元))ですよね。
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(九州国立博物館 特別展「室町将軍 ― 戦乱と美の足利十五代 ― 」にて撮影)

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・像高は114p、いわゆる「半丈六」
・檜材の寄木造り(頭部と体部が別材)
・顔:面長で引き締まった感じ
   眼に玉眼(水晶)
・納衣:通肩・うねりのある衣紋→院派
・印相:施無畏 、与願印
・台座:像高よりやや高め、八角七重の蓮華座。
    蓮弁部は抹茶茶碗型の魚鱗葺6段葺き 
 (配布資料より)

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室町時代彫刻の基準作としても、大内文化の歴史的な史料としても貴重な作例だそうです。

毛利の沢瀉紋があります。
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こちらは?
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僧形坐像。
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胎内銘に

院慶
伊豆法眼
仏師


とあり、「伊豆法眼院慶」は木造釈迦如来坐像にも作者として記されているので、本尊制作の際、造られたものでしょう。
(『山口市史 史料編 大内文化』(山口市 平成22年)P826、P870参照)


外に「木造釈迦如来坐像」説明板がありました。
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山口市指定有形文化財
 木造釈迦如来坐像
 この釈迦如来像は、大内氏の氏寺として栄えた氷上山興隆寺の本尊です。
 ヒノキ材の寄木造で、高さ 一一四センチです。頭部と体部は別材で、頭部前面および体部前面材以外は小材を細かく寄せています。眼は玉眼を施しています。納衣(のうえ)をまとい、右手施無畏印(せむいいん) 、左手与願印(よがんいん)を結び七重蓮華座の上に結跏趺坐(けっかふざ)しています。彩色は剥落が著しく、台座、光背は部分的に欠失していますが、像本体に後世の補修はなく、当初の状態をよくとどめています。
 面長な輪郭に引き締まった顔の肉取り、ややつり上げた上瞼の切り込み、躰は全体にずんぐりとして角張り、うねりのある衣紋といった外見上の特徴と、像の内部で体部の前後材を枘でつなぐ制作技法上の特徴から、南北朝時代から室町時代にかけて、京都の仏師の中で中心的な一派であった「院派」とよばれる仏師による制作と考えられます。頭部内側から墨書銘が発見され、永正元年(一五〇四)に大内義興が施主となって造像したことが明らかとなり、大内文化の歴史資料としても貴重です。



【次回に続く】
赤崎神社(3) & 大昌寺(元の長徳寺) @ 大内氏遺跡指定60周年記念バスツアー2019E [2020年03月26日(Thu)]
【前回の続き】

赤崎神社の境内を抜けて、大昌寺まで行きました。
大昌寺は、元は、赤崎神社の別当坊の長徳寺でしたぴかぴか(新しい)

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山門に掛かった寺号札。
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長徳寺は大内20代弘貞(?〜1286(弘安9)(1244(寛元2))が創建した伝えられるとのことです。やっと、大内氏の名前が出てきましたね。
御本尊 釈迦牟尼仏は鎌倉時代の木像だそうです。

九重石塔。
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右は宝筐印塔。
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秋穂八十八ヶ所霊場の13番札所の妙見社阿弥陀堂。
六角堂北方の妙見杜にあったものを大昌寺境内に移したものだそうです。
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左上が秋穂八十八ヶ所霊場の14番札所の阿弥陀堂。
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ここの墓地に小林和作の家の墓があるそうです。
鐘。
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今回のツアーで、何故、赤崎神社と長徳寺(現 大昌寺)を訪れたかというと、大内氏は、ここで、朝鮮からの使節を迎えているからです。
『李朝実録』の【世宗25年10月13日・嘉吉3(1449)】の項に、「大内教弘」「赤崎浦」というのがあります。また、【成宗10年4月1日・文明11(1479)】の項に、「大内殿(政弘)」「長徳寺」というのがあります。

大内氏は、当時中国大陸や朝鮮半島の沿岸一帯を荒らした倭寇を征圧して朝鮮の信頼を得て、1396年、大内義弘のとき、朝鮮へ使節を派遣しています。その後、歴代当主による使節派遣は1551年までの約150年の間に63回にもなったそうです。

毛利博物館には、「通信符(右印)・印箱」があります。
「通信符」の文字を陽刻した銅印を半分に切断した右符印に当り、朝鮮より下賜されました。つまみの頂点中央に、「上」字、印の側面に「朝鮮国賜大内殿通信右符」、印の上部向って右側に「景泰四年七月 日造」と陰刻してあります。景泰4年は日本の享徳2年(1453)にあたり、大内教弘の時です。
大内氏は朝鮮王朝に対して使節を派遣するとき、この通信符を捺印した外交文書(書契)を使節に授け、正式な使節であることを証明しました。


『秋穂町の史跡と伝説』(田中穣/編著 秋穂町中央公民館 1978)を引用します。

大昌寺(旧長徳寺)
大内氏時代の古刹 
赤崎神社の東に大昌寺があります。大昌寺は明治三年社寺整理の時までは「宝珠山・長徳寺」と称していましたが、中野の定林寺を合併して名称を「放光山・大昌寺」と改めたものです。
 それは中野定林寺跡に引寺したのが長徳寺で、同じ名前になるから困まることもあろうと、改名したのです。大昌寺は弾宗の中の曹洞宗寺院です。
 その創建は寺伝によりますと大内弘貞といい、大内氏時代には大伽藍で繁昌したと伝えられ、大内氏亡きあと、大旦那を失って寺も荒れ、いつの頃か火災にあって宝物、世牌等までも焼失してしまいました。
 しかし、その時分得楽寺江月庵という末寺があり、その古跡、本尊等も現在し、末寺であった証文「得楽寺免田証文」もあったと寛保元年(一七四一)頃の『寺社由来』に書かれています。その得楽寺江月庵は俗称六角堂のことです。つまり六角堂についての古文書が本寺であった長徳寺にあったのです。
 その古文書のことは天保十二年(一八四一)『風土注進案』にも写しが載せられていまして、それによりますと応永五年、時の給領主曽原甲斐入道が出した永代安堵の得楽寺免田の証文があったのですが、応永九年二月十七日の夜、海賊が来て赤崎寺の証文類は凡て紛失してしまいました。
 このことについては地下の古老の者が皆知っている旨の申し出に対し、応永九年三月曽原左近将監幸範が赤崎長徳寺侍者あてにそのことを証するために書いたものです。このことにより応永年代に大海に曽原甲斐入道と曽原左近将監幸範なる少なくとも二代にわたる地頭(給領主)のあったことがわかります。
 そしてさきに秋穂のことについて述べました時永和元年(一三七五)大内弘世が防府の天満宮拝殿を造営した棟札に新左衛門尉なる人の名があることを申しましたが、それと共に<曽原次郎左衛門尉>なる人の名もあります。この人は<曽原佐近将監幸範>の祖であろうと、『風土注進案』にも注記されています。
 大内時代、秋穂側に秋穂氏があった時、大海側に曽原氏があったことがわかり続いて、毛利氏の初期寛永検地によって大海は宍道主殿助の知行所になりました。
 そして宍道氏がこの寺を再建しましたが、宍道氏は失脚して領地を没収され従って、再びこの寺も荒れて無住になっていました。
 それを小鯖の福厳院の寒向宗林和尚を迎えて開山とし、寺の再建に尽力したのが大円運徹和向で、元祿一三年(一七〇〇)に没していますが、この方を長徳寺の開基としています。それ以後寺は続き、現在職河村俊者和尚が第一六世に当たります。



【次回に続く】
赤崎神社(2) @ 大内氏遺跡指定60周年記念バスツアー2019D [2020年03月25日(Wed)]
【前回の続き】

安政の頃、この地区は俳句や歌を詠むのが盛んで地名や池(と説明板にはありますが海では?)にちなんだ碑が建てられたそうです。
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句碑の説明板。
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菅原道真の歌碑。
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海ならず たたへる水の そこまでも 清き心は 月ぞてらさむ

新古金和歌集にあります。
「海どころでなく、さらに深く満ちている水の底までも、清いというほどに清い私の心は、天の月が照らして、明らかに見てくれるだろう。」
大宰府に配流されて詠んだ歌です。

芭蕉の句碑は写真を撮っていないのですが、

行く春を あうみの人と おしみける

「あうみ」は「近江」のことですが、この辺りを「大海」ということからこの句碑が建ったのでしょうか。

夕ばれや さくらに涼む なみの花

こちらは、芭蕉が「奥の細道」の旅行中、象潟(きさかた)(秋田県)で詠んだ句です。



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境内神社の金毘羅社。
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金比羅社のはずが鳥居の神額に「大歳宮」とあります。
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境内社脇の亀趺(きふ)。
石碑の台になっている贔屓(贔屭 ひき)(中国の伝説上の生物)を亀趺といいます。
諺の 「贔屓の引き倒し」は、土台である贔屓を引っぱると柱が倒れることからきています。
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手前の石の寄せ集めの中に古い狛犬らしいものがあります。
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石祠群。
祠がたくさん並んでいます。
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神輿庫前には「義経汐待ち石」があります。
源義経が船で出陣するにあたり汐待ちをした石だそうです。
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 義経 汐待ちの石
 赤崎神社は、社伝によると天智天皇の御宇(六七〇)、豊前国宇佐嶋より三女神(田心姫命、湍津姫命、市杵島姫命)のお供をして道中大和守水沼重基が、嶋山を巡りはじめて七日七夜の後、この三女神を奉斉するとある。社殿の創建は、奈良時代の神亀四年(七二七)と伝える。
 鎌倉時代の元暦二年(一一八五)、源義経が平家追討のとき、この浦に船を寄せ当社に詣でて、夜もすがら朝敵退治の祈願をし、神楽を奉しつつ「千はやぶる 神の誓いを 今ぞしる」と打ち詠じたところ、空中より妙なる声が聞こえてきた。「さては神明感応ましましけりと、信心肝に銘じた」と『風土注進案』には書かれている。
 この平らな石は、義経が船で出陣するにあたり、汐待ちをした石と伝えられている。
 神社には義経の短冊や奉納した鎧もあったが、年代を経て短冊もなくなり、鎧ほころびて今では原型をとどめないまでになっている。
 また、こうした由縁によって、社家道中家では、一時期源姓を称した。
   平成三十年十二月  赤崎神社



【次回に続く】
赤崎神社(1) @ 大内氏遺跡指定60周年記念バスツアー2019C [2020年03月24日(Tue)]
【前回の続き】

周防大橋を渡り、次は、山口市秋穂にある赤崎神社に行きましたぴかぴか(新しい)

ブログ記事「赤崎様など @ 山口市大歳三作地区の鎮守」で少しだけ触れたことがあるのですが、牛馬安全守護の神として崇敬されている赤崎神社が、大内氏どう関係あるのでしょうか?

参道入り口と一の鳥居。
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「赤崎神社由緒」の説明板。
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  赤崎神社由緒 
鎮座地 山口市秋穂東二五六六番地
御祭神 田心姫命(たごりひめのみこと) 、湍津姫命(たぎつひめのみこと) 、市杵島姫命(いちきしまひめのみこと)
配祭神 大年神(おおとしのかみ) 、天御中主神(あめのみなかぬしのかみ)

 大海の氏神赤崎神社は天智天皇の御宇(六七〇)の創建と云う。『道中家文書』によると、宇佐嶋より三女神のお供をして道中大和守水沼重基が、嶋山を巡りはじめて七日七夜の後、この三女神を奉祭するとある。社殿の創建は、奈良時代の神亀四年(七二七)と伝える。
 安土桃山時代の文禄四年(一五九五)に社殿焼失、江戸時代の正保元年(一六四四)に再建。更に文化九年(一八一二)社殿再建。この頃、参道の両側にある多くの灯籠等の石造物も奉納されている。又、明治十三年(一八八〇)、拝殿が再建。平成十六(二〇〇四)現本殿再建。

 社伝として伝えられる記録によると、鎌倉時代の元暦二年(一一八五)源義経が平家追討のためにこの浦に船をよせられ、当社に参詣された。朝敵退治の御祈祷をし、神楽を奏じつつ「千はやふる神の誓いを今ぞしる」と打ち詠じ給うた。すると、空中より妙なる御声が聞えたので、「さては神明感応ましましけりと信心肝に銘じ給うた」と『風土注進案』には書かれている。
正徳三年(一七一三)に「赤崎大明神縁起」ができ、現存している。

 赤崎神社は、「赤崎様」として古来から、牛馬安全・海上安全守護の神として崇敬され、その御分霊を祀る神社は阿知須の赤崎社、長門の赤崎社、平川の赤崎社など県内各地にある。
 
 
やっぱり平川の赤崎様は赤崎神社の御分霊だったのですね。
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併せて今回資料に載っていた『山口県神社誌』(山口県神社庁 1998)のP22〜23の「赤崎神社」の項も引用ししておきます。

  赤崎神社 
(略)
由緒沿革 奈良時代の神亀四年(七二七)、鎮座と云う。しかし『道中家文書』によると、それより以前天智天皇の御宇(六六二〜)、三女神のお供をして道中大和守水沼重基が、嶋山を巡りはじめて七日七夜の後、この三女神を奉祭する、とも伝える。又社伝として伝えられる記録によると、鎌倉時代の元暦二年(一一八五)、源義経が平家追討のためにこの浦に船をよせられ、当社に参詣された。朝敵退治の御祈祷をし、神楽を奏じつつ「千はやふる神の誓いを今ぞしる」と打ち詠じ給うた。すると、空中より妙なる御声が聞えたので、「さては神明感応ましましけりと信心肝に銘じ給うた」と『風土注進案』には書かれている。現に、近年まで源義経奉納の鎧と称するものがあったが、現在は見あたらない。又社殿北側にある平らな約二畳余りの石を、「義経汐待ち石」と云い伝えている。安土桃山時代の文禄四年(一五九五)に社殿焼失。江戸時代の正保元年(一六四四)に再建。正徳三年(一七一三)に「赤崎大明神縁起」ができ、現存している。更に文化九年(一八一二)、社殿再建。この頃、参道の両側にある多くの灯籠等の石造物も奉納されている。又、明治十三年(一八八〇)、拝殿が再建されたと云う。当社は、牛馬安全守護の神として崇敬されている。当社の別当坊は、長徳寺(現在の大昌寺)であった。昭和六年(一九三一)村社に列する。(略)


ここにも大内氏についての記述がない!


手水舎の手水。
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ここの手水石の穴は盃状穴(はいじょうけつ)だと同行の方が教えてくださいました。
詳しい方がいるのです。
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盃状穴とは・・・。
竪小路の築山神社に説明板と実物がありました!
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手水舎のそばにある「赤崎神社十二の舞」説明板。
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 山口市指定無形民俗文化財
  赤崎神社十二の舞
   昭和五十二年三月三十日指定
 当社では六月・十一月の申の日に祭が行われるが、特に十二年に一度、申年霜十一月申の日には、国家安全・五穀豊穣を祈願して大祭が行われ、十二の舞が奉納されてきた。
 古老の口伝では、当社の西方の森に猿が住みつき、農作物に被害を与え疫病が流行し、この猿と疫病を封じ込めるために十二の舞が奉納されるようになったといわれている。
 十二の舞は、神楽舞に始まり、当社の末社・日本(おおもと)の大社諸神・疫神・三宝荒神の勧請の舞が続く。それらの神々の前で、王子の舞(四方四季を司る舞)が行われる。その後、天の岩戸神話を表した岩戸の舞があり、最後に、御前舞(みさきのまい)が行われる。
 いつ頃から行われているかは明らかでない。天保七年(一八三六)に初めて一般の人達の神楽となり、赤崎地区の若者達が受け継いで奉納するようになった。
 第二次世界大戦一時中断していたが昭和四十八年(一九七三)赤崎地区に保存会が結成され今日に至っている。



拝殿前の狛犬。
1803(享和3)年8月建立。
お顔の風化がかなり進んでいます。
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拝殿。
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拝殿内部。
社号額と船の奉納額。
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「小林和作」の名があります。
秋穂は洋画家の小林和作(1888〜1974)の故郷なので、小林家は氏子だったのでしょうね。
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船の奉納額が実は、大内氏が行っていた勘合貿易の遣明船?などと勝手に思っています。
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拝殿の天井絵。
植物画の格子天井です。
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本殿、幣殿と神饌所。
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【次回に続く】
周防国国府跡出土木簡「何道倉稲綬達良君猪弖十束」 @ 大内氏遺跡指定60周年記念バスツアー2019B [2020年03月23日(Mon)]
【前回の続き】

防府市文化財郷土資料館に場所を移して、周防国国府跡出土木簡を見せていただきましたぴかぴか(新しい)

防府市文化財郷土資料館はもとの防府市立防府図書館の建物が充てられていて、防府市の歴史や文化財の学習、研究の場として2008(平成20)年4月4日に開館しました。
その講座室で防府市内における発掘調査のお話をお聞きし、大切な歴史的資料を直接間近でじっくり味わうというまたとない機会を得ました。わーい(嬉しい顔)

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14世紀以降に西国の守護大名となった大内氏の出自は、周防国府の在庁官人であった多々良氏にあります。
推古天皇(554年〜628)の時代(593〜628)に国衙地域の南岸に比定される多々良浜にたどり着いた琳聖太子(百済国聖明王の王子とされる)を始祖とする伝説を持つことからもわかるように、国府の地と大内氏は古くから深い関わりがあります。

2000(平成12)年度実施の周防国府跡第125次調査で、国司館西の庭園跡の池から出土した木簡3点のうちの一つに、「達良君猪弖」(たたらのきみいなて)という人物名が記してありました。
大内氏の祖先の跡を確認できる大発見ですひらめき

多々良氏は平安時代末期には在庁官人の筆頭となって権介と称し、多くの人が行き交った国府の地で、守護大名となる足場を築きました。
大内氏の神話に基づく信仰の拠り所として整備された車塚妙見神社も大内氏と中世における防府のまちづくりとの関わりを知る手がかりになります。

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作成の時期は8世紀後半とみられ、律令国家の地方行政や国府の役割、機能を理解するうえでの貴重な歴史資料です。

何道倉
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達良=多々良 「氏(うじ)」
      「姓(かばね)」
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猪弖     「ファーストネーム」
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十束
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何道倉稲綬達良君猪弖十束

「何道倉の稲を達良(多々良)君猪弖に十束授ける」と読むのでしょう。
大内氏の始祖多々良氏とみられる「達良君猪弖」に国府館内の「何道」という「稲」「倉」から「10束」を支給した旨が記されています。


昼食後常設展示の見学をしました。

なんと、木簡のレプリカが展示してありました。
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   稲10束(精米にして15s分)を授ける
 「達良君猪弖(たたらのきみいなて)に何道倉の稲10束を支給する。」という内容が記載された木簡です。
 「何道」は倉庫の固有名でどのように読むかは不明ですが、出土地近くに存在した倉庫を示している可能性があります。
 「達良」は現在に残る(防府)市内の地名「多々良」周辺を本拠とした氏族で、「君」は地方の有力氏族に与えられた称号を表します。天平宝字3年(759年)に「君」から「公」に表記が変更されますので、木簡が記載されたのは変更前の時点といえます。嫡流の子孫がのちの守護大名「大内氏」となり活躍する多々良氏に関わる最古の資料です。
  

臨時職員の方が造られたという復元模型は完成度が素晴らしく一見の価値がありますひらめき
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【次回に続く】
車塚古墳(2) @ 大内氏遺跡指定60周年記念バスツアー2019A [2020年03月22日(Sun)]
【前回の続き】

前方部石室も大きく崩壊が進んでいることから、危険な状態にあり、石室内部への立ち入りは制限されています。 ですが、今回のツアーでは特別に入ることができますわーい(嬉しい顔)
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防府市教育委員会の方がゲートの前で説明。
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 この古墳は、6世紀後半(今から約1450年前)に造られた市内に残る唯一の前方後円墳です。古墳の南半分は、大内氏ゆかりの神社建設によって削られていますが、その大きさ(推定約58m)は当時の瀬戸内地方でも有数の規模を誇ります。
 人を埋葬する横穴式石室が後円部と前方部の両方に存在する県内唯一の古墳です。
 横穴式石室は、九州の影響を受けた複室構造と呼ばれるもので、四国(香川県西部)にも同様の石室があり、関連が指摘されています。
 車塚古墳は、その規模や構造から、防府の地理的特徴やその後の国府成立を含めた当時の政治構造を明らかにする首長墓として評価され、防府市指定史跡になっています。


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いよいよ石室の中に入ります。
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車塚古墳は、畿内ヤマト王権に特徴的な前方後円墳である一方、その石室は九州を起源とする玄室・前室の2室と羨道で構成される複室構造をとり、南東500mにある鋳物師大師塚古墳とともに、複室としては瀬戸内海沿いにおける東限です。
車塚古墳の被葬者には畿内と九州の橋渡し的性格が示唆されます。

1841(天保12)年、『防長風土注進案』に三田尻村の名所旧跡として車塚「岩屋二ツ」とあり、石室の略図とともに様々な伝承や風聞が掲載されていますが、出土遺物などの記載は皆無であり、この時期すでに盗掘・開口されて久しかったことがうかがえます。

なお『防長風土注進案』に載る伝承の中には、百済の琳聖太子(大内氏祖)の4・5・6世孫三代はみな府中萬福に葬ると大内系譜にあることから、車塚古墳(石室2基)の「岩屋二ツ」および鋳物師大師塚古墳(石室1基)の「岩屋一ツ」をこの三代の墓ににあてるものがあるそうです。

前方部周囲のビル建設工事の際防府市教育委員会が立会調査を行い、少なくとも残存する前方墳丘から北および西の市道までの間には、周濠のような大きな地形の落ち込みのないことを確認しています。

防府市教育委員会の行った2019(令和元)年11月25日から2020(令和2)年2月初旬までの現地調査で、墳丘の構築方法や築造年代などが判明しました。

1389(康応元)年に、室町将軍足利義満は厳島参詣の旅を行いました。その旅の記録に『鹿苑院西国下向記』というのがあります。厳島神社に参詣したその日に神代(山口県大畠町)の沖まで足を伸ばし、翌日は周防の鳴門=大畠瀬戸をぬけ、竈戸関(上関町)や室積(光市)を経由して下松に停泊しました。周防の守護大内義弘

其夜大内を立て夜半ハかりニ下松にはせつく

が大内から下松に来て、義満は義弘が設けた宿所に入り歓待を受けます。
そこで法師が語ります。

此あたりをふるき物かたりにハかつまの浦(勝間浦)と申伝たり、この浦より十町はかりありて、松の一むらある所を車つか(車塚)と申すならハせり、是ハ百済国済明王の第三の皇子琳聖太子、生身の観音太士を拝し給へきよし祈念ありしに、告ありて日本へわたり給ふ、推古天皇御宇なり、則聖徳太子に相看し給て、たかひに法花の妙文にて意趣を通しましまして願望成就せりと也、琳聖太子崩御の後、車をおさめられし所とて車塚といへり、このあたりを多々良の浜といふ、来朝の時、船着岸の所をハ貴志津といふ、この車塚より十町ハかり東也、船よりをり給て幕を張たる所とて、今も幕うちといへり、車塚の社頭をハ多々良の宮と号す、御正躰三面あり、一社ハ妙見大菩薩にて御本地薬師如来と申す、一社ハ聖徳太子にて御本地十一面と申す、一社ハ琳聖太子にて文珠(殊)菩薩と申す、

このように『鹿苑院西国下向記』には、厳島参詣時に周防国に立ち寄った足利義満を接待する大内義弘の姿とともに、大内氏の渡来伝承とゆかりの地の記述があります。
百済の済明王(聖明王)の第三の皇子である琳聖太子が生身の観音太士(生き仏)に会いたい願っていたところお告げにより日本へわたり聖徳太子に会ったこと、琳聖太子の車を納めたことから「車塚」といわれるようになったこと、「多々良宮」という社を設けて祭神として「妙見菩薩」・「聖徳太子」・「琳聖太子」を祀ったことなど、とても興味深いです。


また、応永廿三(1416)年正月廿二日「大内氏奉行人連署奉書案」(阿弥陀寺文書71)に

符(府)中車塚堀事、

応永廿五(1418)年正月廿二日「大内氏奉行人連署奉書案」(阿弥陀寺文書64)に

多々良宮堀事、

応永廿七(1420)年十二月十一日「大内氏奉行人連署奉書案」(阿弥陀寺文書62)に

多々良宮御社堀事、

とあります。

「周防国防府の多々良浜にあった6世紀以後の前方後円墳の上に「多々良宮」という社を設けて祭神として「妙見菩薩」・「聖徳太子」・「琳聖太子」を祀ったのは、大内盛見でした。
 盛見は、車塚古墳を一族の先祖の墓とみなして祖先祭祀の体制整備を目論見ました。」

「また、車塚古墳は、同時期に造られた畿内にある継体天皇陵と言われている今城塚古墳に形が似ています。」

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(バスツアーでいただいた資料を引用させていただきました。)


【次回に続く】
車塚古墳(1) @ 大内氏遺跡指定60周年記念バスツアー2019@ [2020年03月21日(Sat)]
大内氏のことを取り上げたので、2019年11月17日(日)に行われた山口市主催の大内氏遺跡指定60周年記念バスツアー2019のことを書いてみたいと思います。
「大内氏のルーツ その真偽を探る」をテーマとしたバスツアーでした。

山口市歴史民俗資料館に集まり、大型バスに乗り込み、まず、防府市の車塚古墳に行きましたぴかぴか(新しい)

車塚古墳は、防府市街地中央部の車塚町にあり、天神山から南に延びる高地上に築造された古墳です。

現在、天御中主(あめのみなかぬし)神社(通称 妙見社)の境内地となっています。

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鳥居のところにある1938(昭和13)年7月吉日建立の狛犬の台座に注目exclamation
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わかりますか?
大内菱と毛利の家紋が合体していますexclamation×2
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平地に存在する現存全長53m、復元全長58mの前方後円墳です。
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前方部、後円部にそれぞれ複室構造の横穴式石室をもつ特異な古墳です。
築造年代はこれまで6世紀中頃と考えられていました。
しかしながら、2018年度の測量調査や2019年度の発掘調査の結果、6世紀後葉〜末葉に造られたことが明らかになりました。
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墳丘北側・西側は繁華街化して、建物が墳丘裾部を削り取っている状況です。

墳丘南側は社殿築造によってくびれ部を中心に大きく削平され、南に開口する両石室の隧道もほぼ失われています。
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拝殿前の狛犬は1842(天保13)年9月吉日建立です。
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前方墳、後円墳とも石室の天井石が上部に露出しており、封土(古墳をおおう盛り土)も大きく失われていると考えられますが、削り取られた墳丘崖面では版築(土を建材に用い強く突き固める方法)の痕跡を明瞭に観察でき、古墳造成工事の大規模さ、緻密さを実感できます。
2019年度の発掘調査で、想定された古墳の高さは8mのほとんどは土を盛って造っていることがわかりました。これだけの技術と労働力を駆使できる被葬者がどれだけの権力を持っていたか、想像できます。

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後円墳の石室は、開口部に稲荷社殿が造り付けられ、石室自体が御神体として祀られています。
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【次回に続く】
大内重弘、大内弘世、上田鳳陽の墓 @ 臨済宗南禅寺派南明山乗福寺に行きましたB [2020年03月20日(Fri)]
【前回の続き】

琳聖太子供養塔の後ろの右側に大内重弘の墓、左側に大内弘世の墓があります。
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 大内重弘公の墓
重弘公は大内氏二十二代の当主です。鎌倉時代に元からの来襲「弘安の役」に際し、軍を率いて九州に渡り、元軍と戦ったといわれています。重弘公の代になると周防国の国司をしのぐ程の勢力をもち、だんだん大内氏の基礎を固めていきました。元応二年(一三二〇)三月六日死亡し、乗福寺に葬られました。法名を乗福寺殿道山浄恵大禅定門といいます。

  
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 大内弘世公の墓
弘世公は大内氏二十四代の当主で南北朝時代に足利尊氏に従い、南朝の守護として周防の統一をなし遂げました。その後北朝方になり周防・長門の守護に任じられるとともに石見にも勢力を伸ばし石見守護になりました。正平一五年(一三六〇)頃 弘世公はそれまでの本拠地大内を離れ、居館を山口に移しました。山口はその後二百年間大内氏の政治・経済の中心地となり大変栄えました。弘世公は天授二年(一三八〇)十一月十五日に死亡、法名を正寿院殿玄峯道階といい、乗福寺の塔頭正寿院に葬られました。

  
後ろに古い仏塔の残骸でしょうか、宝篋印塔の相輪と笠と思われるものがありました。
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重弘と弘世の墓は、六角形の塔身を持つ石塔です。
明らかに石が新しく後代の造立だと考えられます。

ここも山門の土塀と同じく漆喰が落ちかけていて、やばい感じです。
山口市さん、早めの修理をお願いいたします。
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そして、乗福寺で見落としていけないのは、上田鳳陽先生(と「先生」をつける人が結構います。)の墓です。
上田鳳陽は、1770(明和7)年に氷上の宮崎家に生まれ、後に上田家の養子となり、萩の藩校明倫館で修養に努め、47歳の時、1815(文化12)年に私塾 山口講堂を開き教育に尽力し、山口高等学校、山口大学の基礎をつくりました。

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鳳陽上田先生者我校之曩祖(のうそ)也以大正四年十一月十日追贈正五位実即位大礼挙行之日也
 大正五年五月八日
  山口高等商業学校校員
  山口県立中学校校員 一同


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 学都山口の開祖上田鳳陽先生の墓地は従来狭隘であったが先生生誕二百年祭記念を乗福寺のご好意により此処適地の提供を受けた
 鳳陽会員の浄財を醵出し、鳳陽先生及び高弟服部東陽先生の墓碑をここに移し改葬した
  昭和四十五年六月
   社団法人 鳳陽会


上田鳳陽の墓。
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東陽服部の墓。
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また、幕末には坂本龍馬や長州藩士が薩長連合について乗福寺で相談したとも言われています。

板戸の絵がなかなか良かったです。
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兎に何か花が描いてあります。
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鶴に竹。
竹の緑色は鮮やかに残っています。
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乗福寺は氷上の興隆寺・北辰妙見社からもそう離れていません。
2E0732C5-B60F-4797-91BF-BC7AAE9737D6.jpeg興隆寺・北辰妙見社(山口市大内氷上)

朝鮮の瓦が出土されたことから推測できるように古くからこの辺りに大陸色の濃い文化が栄えていたことでしょう。
乗福寺のある「御堀」という地名について、『防長風土注進案 12山口宰判 上』

乗福寺の奥に、もとの伽藍あり地、いにしへ大内殿 御館なりし(中略)御館外堀といふ事を御堀と名づけ

という記述があります(P155〜156)。
ということは、乗福寺の辺りにもともとの大内氏の館があったのでしょうか。
24代当主の大内弘世は、大内から移り住み、山口を本拠と定め大内氏館を大殿大路に築きます。

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▲復元された大内氏館の西門

弘世は死後、この地 正寿院(乗福寺)に葬られます。

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大内弘世公は、中世西日本の守護大名勢力をもっていた大内氏の二十四代の当主である。室町幕府の重臣として度々上京しているうち、京都の風情を好み、地形の似た山口盆地に京都になぞらえて町造りをした。これが「西の京」といわれる山口の町の誕生である。公はよく幕政(室町幕府)を助け、領国を治め、文学を愛し、社寺の建立保護に努め、まことに文武兼備の名将であった。康暦二年(一三八〇)山口で歿した。
 昭和五十五年三月     
  市制施行五十周年記念
  山口市長 堀 泰夫


ロマンを掻き立てられます揺れるハート
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琳聖太子供養塔 @ 臨済宗南禅寺派南明山乗福寺に行きましたA [2020年03月19日(Thu)]
【前回の続き】

山門。
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風情があるといえばそうなんですが、土塀が大変なことになっています。
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気を取り直して山門をくぐってみました。
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やっぱり土塀はヤバイ。
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手水。
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観音立像。
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本堂。
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山号「南明山」の扁額。
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道祖神?
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乗福寺の裏に回ると鳥居があってその鳥居の奥に琳聖太子(りんしょうたいし)供養塔・大内重弘の墓、大内弘世の墓があります。
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琳聖太子供養塔。
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琳聖太子供養塔
大内氏の始祖琳聖太子は、百済国の王子で推古天皇の十九年(六一一)周防国佐波郡多々良の浜(現防府市)に着岸し、摂津国の四天王寺に上って聖徳太子に謁され、周防国吉敷郡大内県(山口市大内)を賜い、その地に下向されました。その子孫は中世山口を本拠として大いに栄え、西国七か国を領国とし、大内文化と呼ばれ京都をしのぐほどの華やかな文化を形成しました。

  (現地解説板より)

宝篋印塔(ほうきょういんとう)なのでしょうか?
塔身(とうしん)の部分は石の色が違うので後補だと思われます。
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一般的な宝篋印塔はこんなものです。
この塔は七段も笠を重ねています。他にもこんな宝篋印塔はあるのでしょうか?
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1396(応永3)年に慶屋定紹(けいおくじょうしょう)(1339(暦応2/延元4)〜1407(応永14))の開山、大内義弘(1356(延文元年/正平11)〜1400(応永6))の開基により創建された小鯖の禅昌寺には、誰の供養塔か分かりませんが、こんな立派な宝篋印塔があります。誰のか知っている方がいらっしゃれば、ご教示ください。
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【次回に続く】
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