平野神社の桜花祭に行きました(9)神幸列 22番〜31番
[2024年05月07日(Tue)]
【前回の続き】
22番 大吹流
23番 大提灯の御印
24番 染物、織物
幡:「染色列」
第一殿の今木皇大神(いまきすめおおかみ) は、源気新生、活力生成の神、染織手芸・衣の守護神です。
桜の簪を挿した染物・織物をする女性が吹流を付けた桜の枝を手に持って参列しています。

25番 東遊(あずまあそび)
幡:「東遊列」
東遊は、平安時代には神社の祭祀に宮中から使いが派遣されて舞い、神社に奉奏される歌舞だったそうです。
臨時祭でも、東遊が舞われたのでしょうか。
近衛の武官の束帯です。
巻纓(けんえい)の冠に緌(おいかけ)をつけています。
太刀を佩びる平緒(ひらお)は前に垂れています。
手には笏(しゃく)を持っています。

26番 曲水の宴(きょくすいのうたげ)
幡:「曲水の遊列」
平安時代の曲水の宴ということで、短冊を持って和歌を詠んでいる様子が再現されています。
女性は、つぼ装束[袿(うちき)をからげ、裾をつぼめる装束]に、市女笠(いちめがさ)[藺笠(いがさ)]、むしの垂れ衣(たれぎぬ)の外出姿です。懸[掛]帯は胸のあたりにかけ、懸[掛]守をかけています。

27番 多田満仲社参 騎馬大鎧並に供の者
次に多田頼光 騎馬大鎧並に供の者
幡:「源満仲社参列」
平安時代中期の武将である源[多田]満仲(みつなか)(912?〜997)は、清和天皇の孫、「清和源氏」の祖 六孫王経基(つねもと)の嫡男で、「多田源氏」の祖です。
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▲『前賢故実』巻第5(菊池容斎 (武保) /著 雲水無尽庵 明1)
国立国会図書館デジタルコレクション https://dl.ndl.go.jp/pid/778219/67
平野神社に社参し、御祭神を兵庫県川西市平野の多太(ただ)神社に勧請しました。
多太神社の現在の祭神は「日本武尊」「大鷦鷯尊(おほさざきのみこと)[仁徳天皇]」「伊弉諾尊(イザナギノミコト)」「伊弉冉尊(イザナミノミコト)」であり、平野神社の祭神「今木神」「久渡神」「古開神」「比売神」と一致しないような気がします。
奈良時代末期から「臣籍降下(しんせきこうか)」(皇族が源氏、平氏などの姓を賜り臣下になること)の制度が定まり、平野神社は、平安時代以降に臣籍降下した平氏・源氏・高階氏・中原氏・清原氏・大江氏・菅原氏・秋篠氏らの祖神ともされ、臣籍降下の流れを汲む公武に尊崇(そんすう)されました。その際に「今木神」は源氏の祖神として「日本武尊」に、「古開神」は高階氏の祖神として「仁徳天皇」に充てられました。
江戸時代後期に刊行された京都に関する地誌『都名所図会』第六巻(秋里籬島/著 竹原春朝斎/画 河内屋太助[ほか] 1780(安永9))の「平野社」には
平野社は北野より乾にあり 祭れる神四座なり 源平高階大江此四姓の氏神なり 第一今木神〔日本武尊 源氏〕 第二久度神〔仲哀天皇 平氏〕 第三古開神〔仁徳天皇 高階氏〕 第四比米神〔天照大神 大江氏〕
縣社は天穂日命〔中原 清原 菅原 秋篠〕四姓の氏神なり 屋しろは桓武天皇延暦年中に建立せり 御くらゐは正一位 清和天皇貞観六年七月十日にさづけ奉れり 例祭は九月上の申の日なり
とあります。
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▲国立国会図書館デジタルコレクション https://dl.ndl.go.jp/pid/2555348/1/35
※1786(天明6)年の再刻
※こちらのサイトには鮮明な画像があります。
https://www.nichibun.ac.jp/meisyozue/kyoto/page7t/km_01_566.html
なので、源氏の祖神とされた「日本武尊」を満仲が勧請したのでしょう。
伊弉諾尊と伊弉冉尊は、京都の平野神社とは無関係ですが、もともとあった多太神社に祀られていたのではないでしょうか? というのも、多太神社は『延喜式神名帳(えんぎしき じんみょうちょう)』(927(延長5))に記載された神社つまり式内社(しきないしゃ)で、満仲が勧請し「平野明神」と呼ばれたのは後のことになります。
ただ、高階氏の祖神とされた「大鷦鷯尊(仁徳天皇)」が祀られているのは不思議といえば不思議ですが・・・。
花山天皇に出家を強いて退位させた 986(寛和元)年の寛和の変(かんなのへん)に際し、花山天皇を宮中から元慶寺(花山寺)に連れ出した藤原道兼(兼家の息子、道長の兄)を警護したのは満仲の一族であったと考えられています。
『大鏡』に
東三条殿は
「もしさることやし給ふ」
と危ふさに、さるべくおとなしき人々、何がしかがしといふいみじき源氏の武者たちをこそ、御送りに添へられたりけれ。京のほどは隠れて、堤の辺よりぞうち出で参りける。
寺などにては、
「もし、押して人などやなし奉る。」
とて、一尺ばかりの刀どもを抜きかけてぞ守り申しける。
とあります。
なので、馬に乗った鎧兜武者はお祭りの行列には目玉となるとは思いますが、花山天皇にとっては、一緒の行列は嫌なのでは・・・。
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▲『つきの百姿 花山寺の月』(月岡芳年/作 秋山武右エ門 明治23)
国立国会図書館デジタルコレクション https://dl.ndl.go.jp/pid/1306351
満仲は清和源氏であり、鎌倉幕府を開いた源頼朝、室町幕府を開いた足利尊氏、江戸幕府を開いた徳川家康(自称)と、源氏を称した将軍らの系譜は、すべて源[多田]満中から始まります(満仲の墓所のある多田神社で神職の方の説明を聞きました!)。
そんな訳で行列を華やかにするために必要なのかもしれません。
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▲2023年6月14日多田神社で撮影
騎馬武者の列です。
胴丸(どうまる)を付けた徒歩(かち)武者です。
参道には馬は入れないので、騎馬武者は、東大鳥居の外で待機し、合流します。

28番 頼山陽母の花見 母の駕籠 駕籠遣の者
幡:「山陽花見列」
頼山陽(1781〜1832)は、江戸時代後期の歴史家・思想家・漢詩人・文人です。大坂で生まれ、父 春水(1746〜1816)が広島藩の儒学者に登用されたため広島で育ちました。
1811(文化8)年に広島から京都に移り住み、5回の転居のあと、1822(文政5)年に鴨川の西 六本木の水西荘に落ち着きました。山紫水明處は1828(文政11)年、水西荘の庭に建てられた書斎で、母屋は明治中頃に失われましたが、現存しています。
主な著書に『日本外史』があります。
https://www.city.kyoto.lg.jp/kamigyo/page/0000012331.html

▲『頼山陽と其母』(木崎愛吉/著 木崎愛吉 1911)
国立国会図書館デジタルコレクション https://dl.ndl.go.jp/pid/993471/1/3
山陽の母 梅颸(ばいし)(1760〜1844)は、1819(文政2)年に平野の夜桜を楽しみ、1824(文政7)年に山陽とともに平野神社を参詣しています。
▼『頼山陽と其母』(木崎愛吉/著 木崎愛吉 1911)「一四 山陽と梅颸」
国立国会図書館デジタルコレクション https://dl.ndl.go.jp/pid/993471/1/60
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赤間関に、文政二年の春を迎へた山陽(四十歳)は、(略)二月四日芸州己斐に上陸、母の梅颸は達堂(五歳)(父の弟 春風の子 景譲の子)の手を引いて、迎ひに来り、一同広島に帰つたのは、その夜の四つ頃であつた。(略)二十三日、いよいよの帰京となる。
(略)山陽は、今度の帰京を幸いに、母梅颸のお供をして上方の花ざかり見せ申さんと、聿庵(いつあん)(山陽の長男)ともども、口を揃へて母を動かし、六十齢の梅颸は、(略)広島の邸を立ち、(略)
(三月)二十日、祇園、長楽寺の花見、(略)二十四日は嵐山行、(略)二十七日は平野、北野の夜ざくらに酔ひ(けふは襄(のぼる)(山陽の名)行かず)足らず。(略)
▼『頼山陽と其母』(木崎愛吉/著 木崎愛吉 1911)「一六 春秋侍遊」
国立国会図書館デジタルコレクション https://dl.ndl.go.jp/pid/993471/1/67
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文政七年(四十五歳)の春、(略)
母梅颸(六十五歳)は、この春再び上方見物を思立ち、(略)二月晦日海路広島出立。三月十四日、来阪。山陽は出迎への為、六日下阪、後藤松陰の宅に滞留して居つた。十五日、淀河を廻りて、八つ頃三本木(水西荘)につく。十六日、嵐山行、辰蔵(五歳)(息子、夭死)相駕にて連れて行く。十八日、知恩院の花見。十九日、平野、北野参詣、大倉笠山(おおくらりつざん)(1785〜1850)夫妻(さと子、袖蘭(しゅうらん))同伴。二十一日、知恩院、清水花見、笠山夫妻同様。(略)
山陽が母親を駕籠に乗せて侍女をお供に平野神社に花見をしに来た様子が再現されています。

29番 神の御印の旗
30番 平野神社の御旗
31番 締の奉行(しめのぶぎょう)

「平野神社桜花祭 神幸列 以上を持って供奉召立 殿(しんがり)を整う」
神幸祭の行列は氏子神域を巡った後、神社に戻り、還幸祭、遷座祭が斎行されて「桜花祭」が終わります。
22番 大吹流
23番 大提灯の御印
24番 染物、織物
幡:「染色列」
第一殿の今木皇大神(いまきすめおおかみ) は、源気新生、活力生成の神、染織手芸・衣の守護神です。
桜の簪を挿した染物・織物をする女性が吹流を付けた桜の枝を手に持って参列しています。
25番 東遊(あずまあそび)
幡:「東遊列」
東遊は、平安時代には神社の祭祀に宮中から使いが派遣されて舞い、神社に奉奏される歌舞だったそうです。
臨時祭でも、東遊が舞われたのでしょうか。
近衛の武官の束帯です。
巻纓(けんえい)の冠に緌(おいかけ)をつけています。
太刀を佩びる平緒(ひらお)は前に垂れています。
手には笏(しゃく)を持っています。
26番 曲水の宴(きょくすいのうたげ)
幡:「曲水の遊列」
平安時代の曲水の宴ということで、短冊を持って和歌を詠んでいる様子が再現されています。
女性は、つぼ装束[袿(うちき)をからげ、裾をつぼめる装束]に、市女笠(いちめがさ)[藺笠(いがさ)]、むしの垂れ衣(たれぎぬ)の外出姿です。懸[掛]帯は胸のあたりにかけ、懸[掛]守をかけています。
27番 多田満仲社参 騎馬大鎧並に供の者
次に多田頼光 騎馬大鎧並に供の者
幡:「源満仲社参列」
平安時代中期の武将である源[多田]満仲(みつなか)(912?〜997)は、清和天皇の孫、「清和源氏」の祖 六孫王経基(つねもと)の嫡男で、「多田源氏」の祖です。
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▲『前賢故実』巻第5(菊池容斎 (武保) /著 雲水無尽庵 明1)
国立国会図書館デジタルコレクション https://dl.ndl.go.jp/pid/778219/67
平野神社に社参し、御祭神を兵庫県川西市平野の多太(ただ)神社に勧請しました。
多太神社の現在の祭神は「日本武尊」「大鷦鷯尊(おほさざきのみこと)[仁徳天皇]」「伊弉諾尊(イザナギノミコト)」「伊弉冉尊(イザナミノミコト)」であり、平野神社の祭神「今木神」「久渡神」「古開神」「比売神」と一致しないような気がします。
奈良時代末期から「臣籍降下(しんせきこうか)」(皇族が源氏、平氏などの姓を賜り臣下になること)の制度が定まり、平野神社は、平安時代以降に臣籍降下した平氏・源氏・高階氏・中原氏・清原氏・大江氏・菅原氏・秋篠氏らの祖神ともされ、臣籍降下の流れを汲む公武に尊崇(そんすう)されました。その際に「今木神」は源氏の祖神として「日本武尊」に、「古開神」は高階氏の祖神として「仁徳天皇」に充てられました。
江戸時代後期に刊行された京都に関する地誌『都名所図会』第六巻(秋里籬島/著 竹原春朝斎/画 河内屋太助[ほか] 1780(安永9))の「平野社」には
平野社は北野より乾にあり 祭れる神四座なり 源平高階大江此四姓の氏神なり 第一今木神〔日本武尊 源氏〕 第二久度神〔仲哀天皇 平氏〕 第三古開神〔仁徳天皇 高階氏〕 第四比米神〔天照大神 大江氏〕
縣社は天穂日命〔中原 清原 菅原 秋篠〕四姓の氏神なり 屋しろは桓武天皇延暦年中に建立せり 御くらゐは正一位 清和天皇貞観六年七月十日にさづけ奉れり 例祭は九月上の申の日なり
とあります。
-thumbnail2.jpg)
▲国立国会図書館デジタルコレクション https://dl.ndl.go.jp/pid/2555348/1/35
※1786(天明6)年の再刻
※こちらのサイトには鮮明な画像があります。
https://www.nichibun.ac.jp/meisyozue/kyoto/page7t/km_01_566.html
なので、源氏の祖神とされた「日本武尊」を満仲が勧請したのでしょう。
伊弉諾尊と伊弉冉尊は、京都の平野神社とは無関係ですが、もともとあった多太神社に祀られていたのではないでしょうか? というのも、多太神社は『延喜式神名帳(えんぎしき じんみょうちょう)』(927(延長5))に記載された神社つまり式内社(しきないしゃ)で、満仲が勧請し「平野明神」と呼ばれたのは後のことになります。
ただ、高階氏の祖神とされた「大鷦鷯尊(仁徳天皇)」が祀られているのは不思議といえば不思議ですが・・・。
花山天皇に出家を強いて退位させた 986(寛和元)年の寛和の変(かんなのへん)に際し、花山天皇を宮中から元慶寺(花山寺)に連れ出した藤原道兼(兼家の息子、道長の兄)を警護したのは満仲の一族であったと考えられています。
『大鏡』に
東三条殿は
「もしさることやし給ふ」
と危ふさに、さるべくおとなしき人々、何がしかがしといふいみじき源氏の武者たちをこそ、御送りに添へられたりけれ。京のほどは隠れて、堤の辺よりぞうち出で参りける。
寺などにては、
「もし、押して人などやなし奉る。」
とて、一尺ばかりの刀どもを抜きかけてぞ守り申しける。
とあります。
なので、馬に乗った鎧兜武者はお祭りの行列には目玉となるとは思いますが、花山天皇にとっては、一緒の行列は嫌なのでは・・・。
-thumbnail2.jpg)
▲『つきの百姿 花山寺の月』(月岡芳年/作 秋山武右エ門 明治23)
国立国会図書館デジタルコレクション https://dl.ndl.go.jp/pid/1306351
満仲は清和源氏であり、鎌倉幕府を開いた源頼朝、室町幕府を開いた足利尊氏、江戸幕府を開いた徳川家康(自称)と、源氏を称した将軍らの系譜は、すべて源[多田]満中から始まります(満仲の墓所のある多田神社で神職の方の説明を聞きました!)。
そんな訳で行列を華やかにするために必要なのかもしれません。
▲2023年6月14日多田神社で撮影
騎馬武者の列です。
胴丸(どうまる)を付けた徒歩(かち)武者です。
参道には馬は入れないので、騎馬武者は、東大鳥居の外で待機し、合流します。
28番 頼山陽母の花見 母の駕籠 駕籠遣の者
幡:「山陽花見列」
頼山陽(1781〜1832)は、江戸時代後期の歴史家・思想家・漢詩人・文人です。大坂で生まれ、父 春水(1746〜1816)が広島藩の儒学者に登用されたため広島で育ちました。
1811(文化8)年に広島から京都に移り住み、5回の転居のあと、1822(文政5)年に鴨川の西 六本木の水西荘に落ち着きました。山紫水明處は1828(文政11)年、水西荘の庭に建てられた書斎で、母屋は明治中頃に失われましたが、現存しています。
主な著書に『日本外史』があります。
https://www.city.kyoto.lg.jp/kamigyo/page/0000012331.html
▲『頼山陽と其母』(木崎愛吉/著 木崎愛吉 1911)
国立国会図書館デジタルコレクション https://dl.ndl.go.jp/pid/993471/1/3
山陽の母 梅颸(ばいし)(1760〜1844)は、1819(文政2)年に平野の夜桜を楽しみ、1824(文政7)年に山陽とともに平野神社を参詣しています。
▼『頼山陽と其母』(木崎愛吉/著 木崎愛吉 1911)「一四 山陽と梅颸」
国立国会図書館デジタルコレクション https://dl.ndl.go.jp/pid/993471/1/60
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赤間関に、文政二年の春を迎へた山陽(四十歳)は、(略)二月四日芸州己斐に上陸、母の梅颸は達堂(五歳)(父の弟 春風の子 景譲の子)の手を引いて、迎ひに来り、一同広島に帰つたのは、その夜の四つ頃であつた。(略)二十三日、いよいよの帰京となる。
(略)山陽は、今度の帰京を幸いに、母梅颸のお供をして上方の花ざかり見せ申さんと、聿庵(いつあん)(山陽の長男)ともども、口を揃へて母を動かし、六十齢の梅颸は、(略)広島の邸を立ち、(略)
(三月)二十日、祇園、長楽寺の花見、(略)二十四日は嵐山行、(略)二十七日は平野、北野の夜ざくらに酔ひ(けふは襄(のぼる)(山陽の名)行かず)足らず。(略)
▼『頼山陽と其母』(木崎愛吉/著 木崎愛吉 1911)「一六 春秋侍遊」
国立国会図書館デジタルコレクション https://dl.ndl.go.jp/pid/993471/1/67
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文政七年(四十五歳)の春、(略)
母梅颸(六十五歳)は、この春再び上方見物を思立ち、(略)二月晦日海路広島出立。三月十四日、来阪。山陽は出迎への為、六日下阪、後藤松陰の宅に滞留して居つた。十五日、淀河を廻りて、八つ頃三本木(水西荘)につく。十六日、嵐山行、辰蔵(五歳)(息子、夭死)相駕にて連れて行く。十八日、知恩院の花見。十九日、平野、北野参詣、大倉笠山(おおくらりつざん)(1785〜1850)夫妻(さと子、袖蘭(しゅうらん))同伴。二十一日、知恩院、清水花見、笠山夫妻同様。(略)
山陽が母親を駕籠に乗せて侍女をお供に平野神社に花見をしに来た様子が再現されています。
29番 神の御印の旗
30番 平野神社の御旗
31番 締の奉行(しめのぶぎょう)
「平野神社桜花祭 神幸列 以上を持って供奉召立 殿(しんがり)を整う」
神幸祭の行列は氏子神域を巡った後、神社に戻り、還幸祭、遷座祭が斎行されて「桜花祭」が終わります。