独ソ戦 @ 林芙美子「フローベルの恋」より「感情」
[2024年04月24日(Wed)]
4月28日(日)に開催される「『戦争語彙集』と平和を考える朗読会」(主催:山口の朗読屋さん)で、林芙美子(1903(明治36)〜1951(昭和26))「フローベルの恋」より「感情」の以下の抜粋部分を朗読することになりました。
私の頭の中では、いろいろなものが飛び散り飛びみだれて響きと音をたてはじめる。私の心のなかにはそろそろ厚い火の粉が燃えはじめて来る。窓を開けて暗い庭を眺めてゐると、時々星が光つてゐたり、黒い樹が風にゆれたりしてゐる。自然だけが人間をとりのこして悠々と流れて行ってゐるやうな孤独なものを感じて来る。
どうにもならないで、その景色のなかに深閑とうづくまつてしまふ。――さつきのナポレオンは何処まで走つて行つたか知らないけれど、私はふつとウクライナの草茫々とした土地を心に描いてゐた。
私の古い日記の五月二十三日のところをめくつてみると、この日は晴天で、白いかきつばたの美しさにみとれてゐる。今日の独ソ戦はハリコフで激しい砲火を交へた。広いウクライナの北方にあるハリコフも、もうこのごろは雪解けの頃であらうか。ドイツ軍の指揮官はフォン・ホック元帥、ソ連側はチモシエンコ司令官、この両国きつての二人の智将が、昨夏[さくなつ]の中部戦線以来、再びハリコフで大軍をひきゐて相まみゆるこの戦ひは、ドネツ盆地を境にして、相当長期にわたるものではないかとも考へられる。ウクライナの大耕地を中央にして、東にドネツ川、西にドニエプルの大河をひかへて、このごろの麦の収穫はどのやうになつてゐるのだらうかとそんな事を空想してみたりする。両国の動員兵力、武器弾薬は破天荒の数量にのぼり、その勝敗は今後の全作戦に影響するところがかなりあるにちがひないのだ。独[ドイツ]軍は主力をイジュームとバルベンコヴオ[バルビンコボ](ハリコフより南方へ百二十キロ)の二つの市街攻略に向けてゐると云ふことだ。生きるといふことはなかなか大変なことだ。
だけど、何と云ふ自然の美しさであらうか。雲の去来は悠然として豊年のきざしを示してゐるし、この美味[うま]い空気の中には、本当の硝煙の匂ひはみぢんもまじつてはゐないのだ。
(初出『文藝』第10巻第11号 1942(昭和17)年11月 改造社)
「文藝」第10巻第11号 昭和17年11月号 十周年記念号に、「感情演習」という題名で掲載されています。

朗読テキストは、『林芙美子全集 第5巻』(日本文学全集・選集叢刊 第7次)(林芙美子/著 文泉堂出版 1977(昭和52).4.20)です。
この「感情」を書いたのはおそらく1942年秋と推測できます。1941年に「終の棲家」となった自宅を下落合に新築したことから考えるに、この庭は、芙美子のこだわりの庭であると思われます。
『100分de名著 林芙美子『放浪記』』(NHK出版 2023.7.1)の口絵写真に下落合の家、書斎、間取り図などが掲載されています。
芙美子は、日中戦争から太平洋戦争にかけて「軍国主義を太鼓と笛で囃し立てた政府お抱え小説家」などと、批判されています。
1937(昭和12)年の南京攻略戦には、毎日新聞の特派員として上海、南京に赴きました。
1938(昭和13)年の武漢作戦には、内閣情報部の『ペン部隊』役員に選出(女性作家は芙美子と吉屋信子の2人のみ)、大陸に向かい、陥落後の漢口へ一番乗りを果たしました。
1940(昭和15)年からは、全国各地をめぐる「文芸銃後運動大講演会」に参加しました。
1942(昭和17)年には飛行機で満州国境を慰問し、また、10月から翌年5月陸軍報道部報道班員としてシンガポール・ジャワ・ボルネオに滞在しました。
という具合に実に華々しい?戦争協力です。
芙美子の戦争協力についての参考文献
『林芙美子とその時代』(高山京子/著 論創社 2010) P144〜190 第一部第四章「林芙美子と戦争」
『林芙美子 人と作品』(福田清人・遠藤充彦/著 清水書院 1966) P79〜85「戦火」「大東亜戦争」
『林芙美子全集 第16巻』(文泉堂出版 1977.4.20)「年譜」(今川英子/作成)P298〜303
独ソ戦は、第二次世界大戦中の1941年6月から1945年5月にかけて、ナチス・ドイツを中心とする枢軸国とソビエト連邦との間で戦われた戦争です。
ドイツ総統アドルフ・ヒトラーは「イデオロギーの戦争」「絶滅戦争」と位置づけ、スターリンはナポレオン・ボナパルトに勝利した祖国戦争(1812)に擬えて「大祖国戦争」と呼んでいました。
双方で民間人を含め3000万人以上が死亡したといわれています。
この独ソ戦のくだりを読むと、2022年2月に始まったロシアによるウクライナ侵攻と実に重なることに驚かされます。
文中の「昨夏の中部戦線」は、1941年8月23日〜9月26日キエフ近郊でのキーウの戦いだと思われます。
文章の主要部分を占める戦いは、第二次ハリコフ攻防戦と呼ばれ、1942年5月12日〜28日にウクライナの大都市ハリコフの周辺で行われた、ハリコフ奪還を目指すソ連軍と枢軸軍の戦いのことで、バルベンコボ攻勢とも呼ばれているそうです。ドイツ側はフェードア・フォン・ボック元帥、ソ連側はセミョーン・チモシェンコ元帥が指揮官です。
芙美子は実に淡々と”感情”を交えず書いており、まるで、ニュース記事を読んでいる気さえします。
本当の硝煙の匂ひはみぢんもまじつてはゐないのだ。
の部分は、従軍経験のある芙美子の実感でしょう。
さらに、「感情」を全文を読むと、何故この5月23日の日記を差し込んだのか、違和感ばかりが膨らみ、感情移入ができないだけに、私にはこの文章を朗読するのがとても困難です。
美しい秋の夜更けの情景とそこで抱いた感情の起伏とをとりとめもなく描いた文章、それだけで、十分美しい随筆であり、日記部分がなければ、きっと読みやすかったでしょう。
また、戦争部分だけなら、それは、それで、戦況報告としてとてもよくできていると思います。
「フローベルの恋」の「フローベル」は、フランスの小説家 ギュスターヴ・フローベール(フロベール)(Gustave Flaubert)(1821〜1880)、で、代表作に『ボヴァリー夫人』『感情教育』があります。
「フローベルの恋」に出てくる「フローベルの書簡」は、フランスの作家 ジョルジュ・サンド(1804〜1876)との『往復書簡 サンド=フロベール』です。
「感情」というタイトルもフローベールの『感情教育』からとったのでしょうか?
4月28日まではもう少し時間があるので、しっかり背景を学び、練習して臨みたいと思います。

日 時
2024年4月28日(日)14:00〜16:00
場 所
山口市大殿地域交流センター
山口市大殿大路120-4
083-924-5592
ゲスト講師
福田百合子先生(中原中也記念館名誉館長)
内 容
●『戦争語彙集』朗読
●『戦争の悲惨』朗読
●林芙美子「感情」(「フローベルの恋」より)朗読
●3月2日付『朝日新聞』「ひと」朗読
●紙芝居『夜汽車の食堂』実演
●絵本『セルコ』朗読
●絵本『びんぼうこびと』朗読
●絵本『キンコンカンせんそう』朗読
●♪月月火水木金金♪ 全員合唱
●トワイライトフォーによる歌
♪風に吹かれて♪
♪虹とともに消えた恋♪
♪悲惨な戦争♪
参加費
無料(要事前電話予約)
問合・申込・主催
山口の朗読屋さん(代表 林伸一)
090-6415-8203
083-920-3459
hayashix@yamaguchi-u.ac.jp
〒753-0815 山口市維新公園1-12-5
私の頭の中では、いろいろなものが飛び散り飛びみだれて響きと音をたてはじめる。私の心のなかにはそろそろ厚い火の粉が燃えはじめて来る。窓を開けて暗い庭を眺めてゐると、時々星が光つてゐたり、黒い樹が風にゆれたりしてゐる。自然だけが人間をとりのこして悠々と流れて行ってゐるやうな孤独なものを感じて来る。
どうにもならないで、その景色のなかに深閑とうづくまつてしまふ。――さつきのナポレオンは何処まで走つて行つたか知らないけれど、私はふつとウクライナの草茫々とした土地を心に描いてゐた。
私の古い日記の五月二十三日のところをめくつてみると、この日は晴天で、白いかきつばたの美しさにみとれてゐる。今日の独ソ戦はハリコフで激しい砲火を交へた。広いウクライナの北方にあるハリコフも、もうこのごろは雪解けの頃であらうか。ドイツ軍の指揮官はフォン・ホック元帥、ソ連側はチモシエンコ司令官、この両国きつての二人の智将が、昨夏[さくなつ]の中部戦線以来、再びハリコフで大軍をひきゐて相まみゆるこの戦ひは、ドネツ盆地を境にして、相当長期にわたるものではないかとも考へられる。ウクライナの大耕地を中央にして、東にドネツ川、西にドニエプルの大河をひかへて、このごろの麦の収穫はどのやうになつてゐるのだらうかとそんな事を空想してみたりする。両国の動員兵力、武器弾薬は破天荒の数量にのぼり、その勝敗は今後の全作戦に影響するところがかなりあるにちがひないのだ。独[ドイツ]軍は主力をイジュームとバルベンコヴオ[バルビンコボ](ハリコフより南方へ百二十キロ)の二つの市街攻略に向けてゐると云ふことだ。生きるといふことはなかなか大変なことだ。
だけど、何と云ふ自然の美しさであらうか。雲の去来は悠然として豊年のきざしを示してゐるし、この美味[うま]い空気の中には、本当の硝煙の匂ひはみぢんもまじつてはゐないのだ。
(初出『文藝』第10巻第11号 1942(昭和17)年11月 改造社)
「文藝」第10巻第11号 昭和17年11月号 十周年記念号に、「感情演習」という題名で掲載されています。

朗読テキストは、『林芙美子全集 第5巻』(日本文学全集・選集叢刊 第7次)(林芙美子/著 文泉堂出版 1977(昭和52).4.20)です。
この「感情」を書いたのはおそらく1942年秋と推測できます。1941年に「終の棲家」となった自宅を下落合に新築したことから考えるに、この庭は、芙美子のこだわりの庭であると思われます。
『100分de名著 林芙美子『放浪記』』(NHK出版 2023.7.1)の口絵写真に下落合の家、書斎、間取り図などが掲載されています。
芙美子は、日中戦争から太平洋戦争にかけて「軍国主義を太鼓と笛で囃し立てた政府お抱え小説家」などと、批判されています。
1937(昭和12)年の南京攻略戦には、毎日新聞の特派員として上海、南京に赴きました。
1938(昭和13)年の武漢作戦には、内閣情報部の『ペン部隊』役員に選出(女性作家は芙美子と吉屋信子の2人のみ)、大陸に向かい、陥落後の漢口へ一番乗りを果たしました。
1940(昭和15)年からは、全国各地をめぐる「文芸銃後運動大講演会」に参加しました。
1942(昭和17)年には飛行機で満州国境を慰問し、また、10月から翌年5月陸軍報道部報道班員としてシンガポール・ジャワ・ボルネオに滞在しました。
という具合に実に華々しい?戦争協力です。
芙美子の戦争協力についての参考文献
『林芙美子とその時代』(高山京子/著 論創社 2010) P144〜190 第一部第四章「林芙美子と戦争」
『林芙美子 人と作品』(福田清人・遠藤充彦/著 清水書院 1966) P79〜85「戦火」「大東亜戦争」
『林芙美子全集 第16巻』(文泉堂出版 1977.4.20)「年譜」(今川英子/作成)P298〜303
独ソ戦は、第二次世界大戦中の1941年6月から1945年5月にかけて、ナチス・ドイツを中心とする枢軸国とソビエト連邦との間で戦われた戦争です。
ドイツ総統アドルフ・ヒトラーは「イデオロギーの戦争」「絶滅戦争」と位置づけ、スターリンはナポレオン・ボナパルトに勝利した祖国戦争(1812)に擬えて「大祖国戦争」と呼んでいました。
双方で民間人を含め3000万人以上が死亡したといわれています。
この独ソ戦のくだりを読むと、2022年2月に始まったロシアによるウクライナ侵攻と実に重なることに驚かされます。
文中の「昨夏の中部戦線」は、1941年8月23日〜9月26日キエフ近郊でのキーウの戦いだと思われます。
文章の主要部分を占める戦いは、第二次ハリコフ攻防戦と呼ばれ、1942年5月12日〜28日にウクライナの大都市ハリコフの周辺で行われた、ハリコフ奪還を目指すソ連軍と枢軸軍の戦いのことで、バルベンコボ攻勢とも呼ばれているそうです。ドイツ側はフェードア・フォン・ボック元帥、ソ連側はセミョーン・チモシェンコ元帥が指揮官です。
芙美子は実に淡々と”感情”を交えず書いており、まるで、ニュース記事を読んでいる気さえします。
本当の硝煙の匂ひはみぢんもまじつてはゐないのだ。
の部分は、従軍経験のある芙美子の実感でしょう。
さらに、「感情」を全文を読むと、何故この5月23日の日記を差し込んだのか、違和感ばかりが膨らみ、感情移入ができないだけに、私にはこの文章を朗読するのがとても困難です。
美しい秋の夜更けの情景とそこで抱いた感情の起伏とをとりとめもなく描いた文章、それだけで、十分美しい随筆であり、日記部分がなければ、きっと読みやすかったでしょう。
また、戦争部分だけなら、それは、それで、戦況報告としてとてもよくできていると思います。
「フローベルの恋」の「フローベル」は、フランスの小説家 ギュスターヴ・フローベール(フロベール)(Gustave Flaubert)(1821〜1880)、で、代表作に『ボヴァリー夫人』『感情教育』があります。
「フローベルの恋」に出てくる「フローベルの書簡」は、フランスの作家 ジョルジュ・サンド(1804〜1876)との『往復書簡 サンド=フロベール』です。
「感情」というタイトルもフローベールの『感情教育』からとったのでしょうか?
4月28日まではもう少し時間があるので、しっかり背景を学び、練習して臨みたいと思います。





山口市大殿大路120-4





●『戦争語彙集』朗読
●『戦争の悲惨』朗読
●林芙美子「感情」(「フローベルの恋」より)朗読
●3月2日付『朝日新聞』「ひと」朗読
●紙芝居『夜汽車の食堂』実演
●絵本『セルコ』朗読
●絵本『びんぼうこびと』朗読
●絵本『キンコンカンせんそう』朗読
●♪月月火水木金金♪ 全員合唱
●トワイライトフォーによる歌
♪風に吹かれて♪
♪虹とともに消えた恋♪
♪悲惨な戦争♪







〒753-0815 山口市維新公園1-12-5