頼光寺(1) @ 清和源氏のふるさと 川西
[2023年06月22日(Thu)]
6月13日(火)、「あじさいの寺」として知られるョ光寺に行きました
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ョ光寺というくらいですから、源頼光ゆかりの寺に違いありません。
頼光(948〜1021)は、清和天皇の曾孫である源満仲(912?〜997)の長男で、 清和源氏の三代目。
『今昔物語集』や『御伽草子』などで、渡辺綱や坂田金時ら頼光四天王を従えて丹波国大江山での酒呑童子討伐や土蜘蛛退治の説話でも知られています。
期待で胸が膨らみます。
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▲大蘇芳年『芳年武者无類 阪田公時・源頼光』
(小林鉄次郎 明治19 国立国会図書館デジタルコレクション)
https://dl.ndl.go.jp/pid/1302756
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▲芳年『新形三十六怪撰 源頼光土蜘蛛ヲ切ル図』
(松木平吉 明治35 国立国会図書館デジタルコレクション)
https://dl.ndl.go.jp/pid/1306530
池田市から猪名川に架かる呉服橋(くれはばし)を渡って、ョ光寺のある川西市に入りました。
初めての川西市です。
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「清和源氏のふるさと 川西」の大きな看板が目を引きます。
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川西能勢口から能勢電鉄に乗りました。
能勢電に乗るのは初めてです。

車内広告「のせでん沿線ガイドマップ」。

沿線は、「絹延橋」「滝山」「鴬の森」「鼓滝」「一の鳥居」など駅名からして魅力的。
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「畦野」下車です。

「うねの」と読みます。
恥ずかしい話ですが、「畦」を「うね」と読むことがあるのを初めて知りました。
以下の説明が能勢電のHPに載っていました。
1200年ほど前から畝野とよばれており、畝野牧という牧場がこの付近にありました。後世いつのまにか現在の畦野に変化し、このあたりの地名となりました。
寺には能勢電の架道橋を潜って行きます。
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階段の両側には、アジサイが植えてあり、鎌倉の明月院を思い起します。
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寺標「祥雲山 ョ光寺」。
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当初は、頼光の神儀及び霊像を安置する香華院だったとか。
だから、頼光寺? そこのところ知りたいです。
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ョ光寺は、長保年間(999〜1004)に頼光の母・法如尼の発願により、頼光の弟・源賢僧都(977〜1020)を開基とし、頼光の子・永寿阿闍梨が開山となり、法如尼の念持仏であった地蔵願王菩薩像を本尊として創建された寺です。
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源氏ゆかりの寺院なので、寺紋は「笹竜胆」。
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本堂の中に入って、本尊の地蔵願王菩薩立像を拝ませていただきました。
頼光寺の御朱印には「願王殿」とあります。
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源頼光神像は、本堂のどこに安置してあるのか分かりませんでした。
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境内奥には、「二世 永覚阿闍梨 開山 永寿阿闍梨 源頼光公御母堂 御墓」があります。
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案内に従えば、左から、法如尼の墓、永寿阿闍梨、永覚阿闍梨のお墓ということになります。
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発願した法如尼は、満仲の夫人で、嵯峨源氏 源俊の娘。
開基の源賢僧都(977〜1020)は、満仲と法如尼の息子。幼名を美女丸といい、美女丸伝説で知られています。
開山二世の永覚阿闍梨(1006?〜?)は、冷泉天皇 第四皇子・敦道親王(981〜1007)と和泉式部の子で、幼名は岩蔵の宮。1066年、天台宗四天王寺別当に任じられています。
和泉式部の再婚相手 藤原保昌(958〜1036)は、頼光とともに酒呑童子討伐をしたという話もあり、因縁を感じます。

▲大蘇芳年『藤原保昌月下弄笛図』
(秋山武右衛門 明治16 国立国会図書館デジタルコレクション)
https://dl.ndl.go.jp/pid/1301408
能『大江山』は、京都、比叡山を追われて大江山に住む鬼 酒呑童子がまた都で悪事をするので、朝廷の命により源頼光と藤原保昌が鬼退治をするという内容でしたよね。
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▲一魁斎芳年『頼光四天王大江山鬼神退治之図』
(木屋 元治1 国立国会図書館デジタルコレクション)
https://dl.ndl.go.jp/pid/1310286
歴史や伝説好きにはたまらないお寺です。
【次回に続く】

ョ光寺というくらいですから、源頼光ゆかりの寺に違いありません。
頼光(948〜1021)は、清和天皇の曾孫である源満仲(912?〜997)の長男で、 清和源氏の三代目。
『今昔物語集』や『御伽草子』などで、渡辺綱や坂田金時ら頼光四天王を従えて丹波国大江山での酒呑童子討伐や土蜘蛛退治の説話でも知られています。
期待で胸が膨らみます。
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▲大蘇芳年『芳年武者无類 阪田公時・源頼光』
(小林鉄次郎 明治19 国立国会図書館デジタルコレクション)
https://dl.ndl.go.jp/pid/1302756
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▲芳年『新形三十六怪撰 源頼光土蜘蛛ヲ切ル図』
(松木平吉 明治35 国立国会図書館デジタルコレクション)
https://dl.ndl.go.jp/pid/1306530
池田市から猪名川に架かる呉服橋(くれはばし)を渡って、ョ光寺のある川西市に入りました。
初めての川西市です。
「清和源氏のふるさと 川西」の大きな看板が目を引きます。
川西能勢口から能勢電鉄に乗りました。
能勢電に乗るのは初めてです。
車内広告「のせでん沿線ガイドマップ」。
沿線は、「絹延橋」「滝山」「鴬の森」「鼓滝」「一の鳥居」など駅名からして魅力的。
「畦野」下車です。
「うねの」と読みます。
恥ずかしい話ですが、「畦」を「うね」と読むことがあるのを初めて知りました。
以下の説明が能勢電のHPに載っていました。
1200年ほど前から畝野とよばれており、畝野牧という牧場がこの付近にありました。後世いつのまにか現在の畦野に変化し、このあたりの地名となりました。
寺には能勢電の架道橋を潜って行きます。
階段の両側には、アジサイが植えてあり、鎌倉の明月院を思い起します。
寺標「祥雲山 ョ光寺」。
当初は、頼光の神儀及び霊像を安置する香華院だったとか。
だから、頼光寺? そこのところ知りたいです。
ョ光寺は、長保年間(999〜1004)に頼光の母・法如尼の発願により、頼光の弟・源賢僧都(977〜1020)を開基とし、頼光の子・永寿阿闍梨が開山となり、法如尼の念持仏であった地蔵願王菩薩像を本尊として創建された寺です。
源氏ゆかりの寺院なので、寺紋は「笹竜胆」。
本堂の中に入って、本尊の地蔵願王菩薩立像を拝ませていただきました。
頼光寺の御朱印には「願王殿」とあります。
源頼光神像は、本堂のどこに安置してあるのか分かりませんでした。
境内奥には、「二世 永覚阿闍梨 開山 永寿阿闍梨 源頼光公御母堂 御墓」があります。
案内に従えば、左から、法如尼の墓、永寿阿闍梨、永覚阿闍梨のお墓ということになります。
発願した法如尼は、満仲の夫人で、嵯峨源氏 源俊の娘。
開基の源賢僧都(977〜1020)は、満仲と法如尼の息子。幼名を美女丸といい、美女丸伝説で知られています。
開山二世の永覚阿闍梨(1006?〜?)は、冷泉天皇 第四皇子・敦道親王(981〜1007)と和泉式部の子で、幼名は岩蔵の宮。1066年、天台宗四天王寺別当に任じられています。
和泉式部の再婚相手 藤原保昌(958〜1036)は、頼光とともに酒呑童子討伐をしたという話もあり、因縁を感じます。
▲大蘇芳年『藤原保昌月下弄笛図』
(秋山武右衛門 明治16 国立国会図書館デジタルコレクション)
https://dl.ndl.go.jp/pid/1301408
能『大江山』は、京都、比叡山を追われて大江山に住む鬼 酒呑童子がまた都で悪事をするので、朝廷の命により源頼光と藤原保昌が鬼退治をするという内容でしたよね。
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▲一魁斎芳年『頼光四天王大江山鬼神退治之図』
(木屋 元治1 国立国会図書館デジタルコレクション)
https://dl.ndl.go.jp/pid/1310286
歴史や伝説好きにはたまらないお寺です。
【次回に続く】