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こどもと本ジョイントネット21・山口


〜すべての子どもに本との出会いを〜

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第38回やまぐち朗読Cafe 〜朗読と蓄音器ジャズの夕べA第2部 自由朗読 [2022年07月26日(Tue)]
前回の続き

第2部 自由朗読

1.W・Kさん
自作「ハレー彗星」

1986年26歳の時の恋のお話でした。



2.Uさん
佐藤春夫「好き友」
『退屈読本』より)

 私の交友は誰々かとお尋ねになるのですか。貴問は私を怏々とさせます。私には友達といふものがないからです。それは私の孤独な、人と和しがたい性格から来てゐるのでせう。どうもさうらしい。
 考へて見ると、私には少年時代の昔から友達といふべき者はなかつたやうな気がします。私が十二歳の時、私はちやうど、今日貴社から与へられたと全く同じ質問を、小学校の先生から与へられたことがありました。その時も私は今日と同じやうな不愉快を感じました。
 その時先生の質問といふのは、生徒たちの学校外での生活を知るために、各の生徒たちが持ってゐる友達を五六人数へ上げよ、といふのであつた。雨の日の体操の時間で、雨天体操場などのあるべき筈もない田舎の小学校では時をり、そんな機会にそんな事をする時間があつたのです。先生が紙をくばつてくれると、生徒はそれへ返答するのです。人に見られないやうにと肘でしつかりと囲をして、それぞれに小さな頭と胸とを働かせながら書くのです。割合に自由な時間なので、いつもこんな時には、私は楽しかつたものです。一番好きな歴史上の人物は誰だとか、或は誰でも教壇へ出て面白い話をしてみよとか、つまり雨の体操時間といふのは遊びの時間だつた。それだのに、その日は何だか試験の日のやうに緊張した感じがあつた。私はといふと、試験ならば即座に答へてしまへるものを、この日のこの質問には本当に悩まされた。答へようにも私にはひとりも友達らしいものはなかつたからである。
 しかし、ひとりも友達がなかつたと言つて、私は人に馬鹿にされて相手になつて貰へなかつたのではない。却つて私は人に畏れられてゐたのである。私は大人びた子供で学科も不出来ではなかつたし、私の家は医者だといふので田舎町の純朴な人たちは尊敬してゐてくれた。さういふわけで、小さな我々の仲間までが、私をへんに畏敬する風があつた。それに私は、いつもひとりで遊んでゐる無口な子供ではあつたし、誰も用事の時の外には、気軽に口を利いてもくれなかつたのである。それを、私はふだんは大して不幸にも思つたのではない。しかし、今日かうして、お前の友達は誰々だと問はれると、直ぐに答へ得る名のないのを淋しく思つたのです。その上、私は先生に向つてきつぱりと友達はひとりもないと書くことは出来なかつたのです。どうしてだか知りません。いろいろと考へた末で私は、教室に於ける自分の座席のぐるり四五人の子供の名を順々に書き並べたのです。何故かといふのに、その子供たちが、さういふ位置に置かれた自然の関係として、自然と、最も多く私と口を利く機会が多かつたからでした。
 その時間が過ぎてしまつて、自由な時間が来た時、子供たちは、今のさつきの先生の質問をさも重大な事件のやうに話し合つてゐた。彼等は皆、人々に、俺はお前のことを書いたといふやうなことを言ひ合つてゐた。しかし、私に向つてそんなことを言ひかけた者はひとりもなかつた。すると、いつものやうに黙つてゐる私のところへ来て、ひとりの子供が話しかけた −−−
「あんた。誰書いたんな?」
 その子は快活な口調で言つた。それは教室で私のすぐうしろに居た子供であつた。きさくな性質で、気むづかしげな私に対しても常から最も多く口を利いてゐた。彼に対して私は答へた −−−
「おれはあんたの名を書いたんぢや」
 その答へとともに、彼のはしやいでゐた顔は一刹那にがらりと変化した。しばらく無言だつた彼は、やつと私に言つた。−−−
「こらへとおくれよ。なう、わあきやあんたをわすれたあつた。わあきやあ、ぎやうさんつれがあるさか」
 二十年を経た今日、彼のその言葉を、私はそつくりとその田舎訛のままで思ひ出す。さうして私は彼のこの正直な一言に、今も無限の友情を見出すのです。ひよつとすると、これが私のうけた第一の友情ではないかとさへ思はれるくらゐです。
 貴問に対して私は、仮に三四の名を挙げることも出来るでせう。しかし、その人たちが数へ上げた名のなかには私が無かつた時に、彼等は私に対して、果たして、
「恕せ、友よ、予は君を失念しゐたり。予は多くの友を持つが故に」
 と、さうはつきりと私に言つてくれるだらうか。どうも覚束ないやうな気がするのです。
       −−−−−−−−−−−−−−−−−−−
 或る時、私は、或る雑誌社から『吾が交友録』といふ題で一文を求められた時、それに答へようと思つて以上のやうな文を書いた。しかし、あまりにひねくれた言ひ分だと人が思ひはしないかと思つて、書いたままでそれをまるめて、屑籠のなかへ入れてしまつた。


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『退屈読本』は佐藤春夫(1892(明治25)〜1964(昭和39))による1926(大正15)年11月、新潮社刊の随筆評論集です。1915年以降の大正期ほぼ10年間の創作以外のすべて文章 全102篇を収録しています。

『退屈読本』(上)(冨山房百科文庫)(佐藤春夫/著 冨山房 1978)
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3.T・Hさん
中島敦「山月記」後半部分

(略)
 漸く四邊(あたり)の暗さが薄らいで來た。木の間を傳つて、何處からか、曉角が哀しげに響き始めた。
 最早、別れを告げねばならぬ。醉はねばならぬ時が、(虎に還らねばならぬ時が)近づいたから、と、李徴の聲が言つた。だが、お別れする前にもう一つ頼みがある。それは我が妻子のことだ。彼等は未だ虢(くわく)略にゐる。固より、己の運命に就いては知る筈がない。君が南から歸つたら、己は既に死んだと彼等に告げて貰へないだらうか。決して今日のことだけは明かさないで欲しい。厚かましいお願だが、彼等の孤弱を憐れんで、今後とも道塗(だうと)に飢凍(きとう)することのないやうにはからつて戴けるならば、自分にとつて、恩倖(かう)、之に過ぎたるは莫(な)い。
 言終つて、叢中から慟哭の聲が聞えた。袁も亦涙を泛[うか]べ、欣[よろこ]んで李徴の意に副[そ]ひ度[た]い旨を答へた。李徴の聲は併し忽ち又先刻の自嘲的な調子に戻つて、言つた。
 本當は、先づ、この事の方を先にお願ひすべきだつたのだ、己が人間だつたなら。飢ゑ凍えようとする妻子のことよりも、己(おのれ)の乏しい詩業の方を氣にかけてゐる樣な男だから、こんな獸に身を墮(おと)すのだ。
 さうして、附加へて言ふことに、袁傪が嶺南からの歸途には決して此の途(みち)を通らないで欲しい、其の時には自分が醉つてゐて故人[とも]を認めずに襲ひかかるかも知れないから。又、今別れてから、前方百歩の所にある、あの丘に上つたら、此方[こちら]を振りかへつて見て貰ひ度い。自分は今の姿をもう一度お目に掛けよう。勇に誇らうとしてではない。我が醜惡な姿を示して、以て、再び此處[ここ]を過ぎて自分に會はうとの氣持を君に起させない爲であると。
 袁傪は叢に向つて、懇[ねんご]ろに別れの言葉を述べ、馬に上つた。叢の中からは、又、堪へ得ざるが如き悲泣[ひきゆう]の聲が洩れた。袁傪も幾度か叢を振返りながら、涙の中に出發した。
 一行が丘の上についた時、彼等は、言はれた通りに振返つて、先程の林間の草地を眺めた。忽ち、一匹の虎が草の茂みから道の上に躍り出たのを彼等は見た。虎は、既に白く光を失つた月を仰いで、二聲三聲咆哮したかと思ふと、又、元の叢に躍り入つて、再び其の姿を見なかつた。


『山月記・李陵 他九篇』(岩波文庫)(中島敦/著 岩波書店 1994.7)
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T・Hさんの「要約 + 朗読」は、すっかり定着しました!
前々回の寺田寅彦『団栗』、前回の志賀直哉『城の崎にて』も素晴らしかったけれど、今日の『山月記』の要約もすごいです。分かりやすいし、簡潔で的確です。



4.O・Yさん
室生犀星「我が愛する詩人の伝記(三)――萩原朔太郎――」

 (略)
 萩原朔太郎はくすんだ情熱は持っていたが、気は弱く控え目でそんな飛行機に乗って北海道まで出掛ける人ではない、どんな場合でも思い切った事は出来ない人である。併しこんな伏眼がちで怯えたように人の顔も、まともに見すえるということをしない彼が、生涯五十七年の間に、先妻に別れ、また後の妻にも別れていた。どんなに威張り返っていてその妻と毎日ケンカ口論をしていても、一旦奥さんというものと相伴ったら、なかなか別れるなどとは思いもかけないことである。威張れば威張る程別れられないし、ワカレルワカレルといっても、胴締めはワカレルという言葉のたびに、勁く締めつけられるのである。(略)だがわが萩原朔太郎はなんの苦もなく、先きの妻に金をあたえ、あとの妻は妻の方から出て行った。そのあとの妻の君は私に後に萩原ほどいい人はいないと、別れたあとでもよく入らっしゃるし、わたくしもお机を出してお仕事をすると仰有れば、夜はおそくまで好きなようにおさせしていましたと言った。では何故お別れになったのだと聞くと、なにぶんにも人物がぐにゃぐにゃなところがあって、可愛がってくださるのやら、そうでないのやら、一向たよりになろうとしても、たよれなかったと彼女はぐにゃぐにゃが主な原因だといっていた。(略)
 大概の気強い威丈夫な男連が、一生粉身砕骨しても別れられない夫婦関係を、萩原は美事に二度までやって退けたのは、よくよくの事情があるにしても彼自身のぐにゃぐにゃが、いかに硬骨のお偉ら方にくらべて大したぐにゃぐにゃであったかが判るのだ。つまり萩原という人は一度も子供に怒ったことがないし、母とか父の命にそむいた事もなかった。自分の妻を叱ることもなかった。何でも、あ、よしよしといい、そうか、そうしたまえそれがいいと言うように強い意志を示すものは、原稿になにか書く時の外は滅多に現わさなかった。(略)泥酔すれば道路の上でも、停車場のベンチに横になることは勿論、電柱にすがり付いたまま動けずに眼をとじ、警官が来ればいま何時ですかと敢て質問する夜半の紳士である。毎晩彼は町に飲みに行くときはあらかじめ拾円(略)くらいきちんと持って出ていたから、金は落しても財布には幾円ものこっていないのだ。これは偶然ではなく泥酔すればめちゃくちゃになるので、金は拾円しか最初から持って出ないのであった。マントの前釦は一つしかかけていないし、ふだん着のまま古下駄をはいていたが、ときには近くへは素足のままであった。家に戻れば梯子段をとぼとぼと千里の峠を踰えるように登り、すぐ床にもぐり込むのだが、声量あざやかな前夫人は、(略)いまごろ何処まで行って飲んでいたのよ、服も帽子も泥ンこじゃないの、毎晩毎晩なにが面白くてほっつき歩いているのよと叱っても、わが萩原朔太郎はふ、ふ、と笑ってまあそこに坐れよと言うのである。そして目をとじるとどんなに起してももう眼はさまさなかった。何たるぐにゃぐにゃさんだったことか、女給サンなんぞさんざ美しいのを見て来てさ、坐れもないもんだとまだ彼女は洋服をたたみながら言っても、とうにわが愛する友は寝込んで了って、なにも耳の中には妻の言葉ははいらなかったのだ。

   家庭

古き家の中に坐りて
互に黙しつつ語り合へり。
仇敵に非ず
債鬼に非ず
「見よ われは汝の妻
死ぬるとも尚離れざるべし」
眼は意地悪く 復讐に燃え
憎々しげに刺し貫ぬく。
古き家の中に坐りて
脱(のが)るべき街もあらじかし。

(略)


『我が愛する詩人の伝記』は、室生犀星が、先輩・友人・後輩11人(北原白秋、高村光太郎、萩原朔太郎、釈迢空、島崎藤村、堀辰雄、立原道造、津村信夫、山村暮鳥、百田宗治、千家元麿)について綴ったもので、1958(昭和33)年1月から12月にかけて『婦人公論』(中央公論社)に連載され(5月は連載なし)ました。

『我が愛する詩人の傳記』(室生犀星/著 中央公論社 1958.12.15)
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の「あとがき」で、犀星は、

 (略)作家という者はその人の事を書いていなければ会えないものだ。書きさえすればその詩人がすぐ物を言い、笑いかけてくれ、十年も考えなかったことが書いている間にうかんで来るものである。結局、私は毎月愉しんで書き進んでゆくことが出来、見付けられなかった沢山の詩を捉えることが出来た。そして作家の友情というものは、最早、本人には知らせることは出来ないにしても、友情の周囲を記述を以ってうるおし、私自身もそれをあたらしく受けとることをお互に嬉しく思った。
(略) 詩人伝は用語から高度のよそおいが習慣的に必要であったが、それががらでないし、各詩人の人がらから潜って往って、詩を解くより外に私の方針はなかった。私はそのようにして書き、これに間違いないことを知ったのである。野口米次郎さんの事を書いて私の処女詩集『愛の詩集』をはじめて認めてくだすったことも書きたかったが、その掲載の月がなくて果せなかった。横瀬夜雨という古い詩人で私の勉強詩人だったこの人も、「行く春」の薄田泣菫の詩集にも、ついに触れることが出来なくて仕事は終ったのである。中原中也、宮沢賢治、中川一政の詩にも私は惹かれていたが、その個人の生活が不分明であり起稿は不可能であった。
(略)

と述べています。犀星の描く中也も読んでみたかったですね。

「今年2022年は萩原朔太郎(1886(明治19).11〜1942(昭和17).5)没後80年にあたります。全国52カ所の文学館や美術館、大学等で朔太郎を介した企画展「萩原朔太郎大全2022」が開催されます。中原中也記念館では、10月6日〜11月27日、「萩原朔太郎と中原中也 hー 萩原朔太郎大全2022(仮)」が開催されるとのことで、楽しみにしています。」と話されていました。私も楽しみです!

ちなみに、著者の室生犀星(1889(明治22).8〜1962(昭和37).3)は没後60年だそうです。



5.F・Kさん
工藤三郎「アンカーエッセイ「ひまわりの季節に」
(『ラジオ深夜便』2022年7月号(NHKサービスセンター 2022.6.17)より)

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映画『ひまわり』にまつわるエッセイです。



6.A・Sさん
ボブ・ディラン「風に吹かれて」(和訳)


ボブディランには、「戦争の親玉(Masters Of War) 」という曲もあるそうです。



7.原明子さん
ジュール・ルナール「物の姿(イマージュ)の狩人」
『博物誌』(ルナール/著 辻昶/訳)より)

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『博物誌』(岩波文庫)(ジュール・ルナール/著 辻昶/訳 岩波書店 1998.5)
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公開対談三潴末雄〈みづますえお〉(ミヅマアートギャラリーエグゼクティブ・ディレクター)× 坂口綱男〈さかぐちつなお〉(坂口安吾の長男、新潟市「安吾 風の館」館長、写真家、エッセイスト)のお知らせもされました。

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詳細はこちらへアップしています。
https://blog.canpan.info/jointnet21/archive/1740



8.山口智子
ハルノ宵子「猫屋台日乗 その5 名もなき料理」より抜粋
『小説幻冬 本が好いちばんき。』2020年10月号(幻冬舎 2020.10.27))

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ハルノ宵子(はるの よいこ、1957.12.28〜)は、本名・吉本多子(よしもとさわこ)、漫画家(現在は開店休業中)、エッセイストです。
父は批評家・詩人の吉本隆明、妹は小説家の吉本ばなな、母の和子も句集『寒冷前線』等を出版している俳人です。
2012年父母の死後、父母とともに暮らした自宅を改装して、2014年飲食店「猫屋台」を開業し、厨房で腕を振るっています。
この連載エッセイ「猫屋台日乗」は、その猫屋台での日常を綴ったもので、『小説幻冬』に2020年6月より連載されています。
もちろん、本文中の「父」は吉本隆明、「妹」は吉本ばななです。



9.M・Aさん
「森鷗外没後100年にあたって」
(新聞『赤旗』2022年7月8日号「潮流」


9日に没後100年を迎えた森鷗外(1862〜1922)の代表作「渋江抽斎」の自筆原稿の一部が見つかり、文京区立森鴎外記念館が公開した、と新聞に載っていたことを、皆思い出したのでした。



10.中原豊さん
中原中也「(南無、ダダ)」
早大ノートより)

(南無 ダダ)

南無 ダダ
足駄なく、傘なく
  春は、降りこめられて、

 水溜り、泡(あぶく)は
   のがれ、のがれゆく。

人よ、人生は、騷然たる沛雨に似てゐる
  線香を、焚いて
      部屋にはゐるべきこと。

色町の女は愛嬌、
 この雨の、中でも挨拶をしてゐる
い傘

  植木鉢も流れ、
   水盤も浮み、
 池の鯉はみな、逃げてゆく

永遠に、雨の中、町外れ、出前持ちは猪突し、
     私は、足駄なく傘なく、
    玆、部屋の中に香を焚いて、
 チゥインガムも嚙みたくはない。


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「チャイコフスキー「四季」に寄せて 十二の詩の朗読」の案内もありました。(詳細は次回)

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11.K・Kさん 
坂口安吾「閑山」冒頭部分

 昔、越後之国魚沼の僻地に、閑山寺の六袋和尚といつて近隣に徳望高い老僧があつた。
 初冬の深更のこと、雪明りを愛(め)づるまま写経に時を忘れてゐると、窓外から毛の生えた手を差しのべて顔をなでるものがあつた。和尚は朱筆に持ちかへて、その掌に花の字を書きつけ、あとは余念もなく再び写経に没頭した。
 明方ちかく、窓外から、頻[しき]りに泣き叫ぶ声が起つた。やがて先ほどの手を再び差しのべる者があり、声が言ふには「和尚さま。誤つて有徳の沙門を嬲[なぶ]り、お書きなさいました文字の重さに、帰る道が歩けませぬ。不愍(ふびん)と思ひ、文字を落して下さりませ」見れば一匹の狸であつた。硯の水を筆にしめして、掌の文字を洗つてやると、雪上の陰間を縫ひ、闇の奥へ消え去つた。
 翌晩、坊舎の窓を叩き、訪[おとな]ふ声がした。雨戸を開けると、昨夜の狸が手に栂(ツガ)の小枝をたづさへ、それを室内へ投げ入れて、逃げ去つた。
 その後、夜毎に、季節の木草をたづさへて、窓を訪れる習ひとなつた。追々昵懇を重ねて心置きなく物を言ふ間柄となるうちに、独居の和尚の不便を案じて、なにくれと小用に立働くやうになり、いつとなくその高風に感じ入つて自ら小坊主に姿を変へ、側近に仕へることとなつた。
 この狸は通称を団九郎と云ひ、眷族では名の知れた一匹であつたさうな。ほどなく経文を暗(そら)んじてそらんじて諷経[ふうけう]に唱和し、また作法を覚えて朝夜の坐禅に加はり、敢て三十棒を怖れなかつた。
 六袋和尚は和歌俳諧をよくし、又、折にふれて仏像、菩薩像、羅漢像等を刻んだ。その羅漢像、居士像等には狗狸[くり]に類似の面相もあつたといふが、恐らく偶然の所産であつて、団九郎に関係はなかつたのだらう。
 いつとなく、団九郎も彫像の三昧を知つた。木材をさがしもとめ、和尚の熟睡をまつて庫裏の一隅に胡座[あぐら]し、鑿[のみ]を揮[ふる]ひはじめてのちには、雑念を離れ、屡々(しばしば)夜の白むのも忘れてゐたといふことである。
 六袋和尚は六日先んじて己れの死期を予知した。諸般のことを調へ、辞世の句もなく、特別の言葉もなく、恰(あたか)も前栽へ逍遥に立つ人のやうに入寂した。

 参禅の三摩地を味ひ、諷経念誦[ねんじゆ]の法悦を知つてゐたので、和尚の遷化(せんげ)して後も、団九郎は閑山寺を去らなかつた。五蘊(ごうん)の覊絆[きはん]を厭悪し、すでに一念解脱を発心してゐたのである。
(略)


「閑山」の初出は、『文體』第一巻第二号(スタイル社 1938(昭和13).12.1)です。
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