其中庵さくらツアーE山頭火句碑 @ 山口市小郡文化資料館 企画展「山頭火と小郡農学校」
[2022年04月12日(Tue)]
【前回の続き】
山口市小郡文化資料館でいただいたマップ「山頭火句碑めぐり」を参考に山口市小郡地区の山頭火句碑巡りをしましょう
小郡地区には全部で21基あるそうですが、今日は、其中庵〜小郡文化資料館の周辺の8基のみ。
其中庵周辺
其中庵庭園「寝牛の碑」

はるかぜのはちのこひとつ
現地説明板「寝牛の碑」。

この句碑は、山頭火没後十年に当たる昭和二五(一九五〇)年(10月11日)、大山澄太、伊東敬治、国森樹明など当時の友人等によって其中庵跡に建てられました。
其中庵に残された大理石の寝牛の置物にちなんで、栄山公園の谷間から形の似た自然石を選び出し、山頭火の師である荻原井泉水によって「春風の鉢の子一つ」の句が選ばれ、仮名書きで刻まれました。
平成四(一九九二)年三月、其中庵の復元に伴い、現在地に移設されました。
説明「春風の鉢の子一つ」。
-thumbnail2.JPG)
(略)山頭火の師である荻原井泉水が選句し、揮毫しました。(略)
「鉢の子」は、僧が行乞(托鉢)際に使用する鉄製の鉢の器のことです。
この句の初出は『其中日記』[昭和八年]三月十九日で、
すつかり春だ。
(略)
春風の鉢の子一つ
(略)
『山はしづかにして性をやしなひ、水はうごいて情をなぐさむ』
とあります。
『層雲』1933(昭和8)年6月号に発表し、『草木塔』「行乞途上」に収録されています。
其中庵出入口茶の木の中

いつしか明けてゐる茶の花
説明「いつしか明けてゐる茶の花」。

この句の初出は『其中日記』[昭和七年]十二月十日で、
寒い、霜、氷、菜葉を洗ふ手がかじけた、このごろは菜葉ばかり食べてゐる、ほかに食べるものもないが。
(略)
いつしか明けてゐる茶の花
とあります。
『層雲』1933(昭和8)年3月号に発表し、『草木塔』「其中一人」に収録されています。
この句碑は、1994(平成6)年4月1日、小郡山頭火をしのぶ会が建立しました。
其中庵休憩所前

母よ うどんそなへて わたしもいただきます
現地説明板「母よ うどんそなへて わたしもいただきます」。

母よ うどんそなへて わたしもいただきます 山頭火
母の四十七回忌にあたる昭和十三(一九三八)年三月六日の其中日記には、「かなしい、さびしい供養」と書かれています。
第六句集「孤寒」には、
「うどん供へて、母よ、わたくしもいただきまする」
の句があり、その前書きには、「母の四十七回忌」と記されています。この二つの句は語順が異なりますが、筆をとったときの情感によって、書き分けたものと思われます。
説明「母よ うどんそなへて わたくしもいただきます」。

『其中日記』[昭和十三年]三月六日に、
地久節。
亡母四十七年忌、かなしい、さびしい供養、彼女は定めて、(月並の文句でいへば)草葉の蔭で、私のために泣いてゐるだらう!
今日は仏前に供へたうどんを頂戴したけれど、絶食四日で、さすがの私も少々ひよろ/\する、独坐にたへかね横臥して読書思索。
とあります。
『層雲』1938(昭和13)年4月号に
自殺せる母の四十七年忌
うどん供へて、わたしもいただきます
と発表しています。
経本仕立ての第六句集『孤寒』や『草木塔』「孤寒」には、
母の四十七回忌
うどん供へて、母よ、わたくしもいただきまする
とあり、昭和13年3月6日、其中庵での作とされています。
他の年の命日あたりのものをみてみると、『其中日記』[昭和八年]三月六日には、
晴、よい朝ではじまつてわるい夜で終つた。
酔うて乱れて、何が母の忌日だ、地下の母は泣いたらう。
樹明君を案内して置いて、このざまはどうだ。
ふと仏前を見たら、――御供物料、樹明――の一封がある、恥を知れ、々々。
ぶら/\歩いたら、だいぶ気分がよくなつた。
『其中日記』[昭和八年]三月十一日には、
亡母忌日二句追加
おもひでは菜の花のなつかしさ供へる
ひさびさ袈裟かけて母の子として
『其中日記』[昭和九年]三月六日には、
雪、雪、寒い、寒い。
母の祥月命日、涙なしには母の事は考へられない。
終日独居。
『其中日記』[昭和十二年]三月三日には、
春雨だ、間もなく花も咲くだらう。
亡母祥月命日。
沈痛な気分が私の身心を支配した。
……私たち一族の不幸は母の自殺から始まる、……と、私は自叙伝を書き始めるだらう。……
母に罪はない、誰にも罪はない、悪いといへばみんなが悪いのだ、人間がいけないのだ。……
湯田前町の風来居で記した『其中日記』[昭和十四年]三月八日には、
転一歩。――
母の四十八回忌。――
さくら餅を供へ、鉦をうち、読経しつゝ線香の立ちのぼるけむりを見詰めてゐると、四十八年の悪夢が渦巻くやうで、限りなき悔恨にうたれる、おなじ過失を繰り返し繰り返して来た私ではなかつたか。……
『句帖』昭和十五年には、
母の第四十九回忌
たんぽぽちるやしきりにおもふ母の死のこと
とあります。
命日ではありませんが、『旅日記 昭和十四年』四月三十日には、
述懐
母よ、しみ/″\首に頭陀袋(フクロ)をかけるとき
とあります。
山頭火は、位牌を背負って巡礼したといいます。
其中庵休憩所庭園

へうへうとして水を味ふ
説明「へうへうとして水を味ふ」。

『層雲』1928(昭和3)年11月号発表句で、第1回目の行乞放浪途上の句です。
『三八九』第三集(1930(昭和6).3.30)にも収録しています。
『草木塔』「鉢の子」に
昭和二年三年、或は山陽道、或は山陰道、或は四国九州をあてもなくさまよふ。
とある中の3句目です。
この句の句碑が、鹿野清流通りにもあります。
現地説明碑によると

伝聞によれば 放浪の俳人 種田山頭火は
昭和八年十月三十日 本町の菅蔵集落
(当時須金村)に一泊 翌朝金峰山の麓
を通り鹿野のまちへ入り托鉢したという
山頭火は 道すがら多くの句を詠んだが
この句碑は真筆の短冊を基にしたもの
とあります。
句碑の傍に水琴窟があります。

小郡文化資料館周辺
山口市小郡文化資料館入口
-thumbnail2.JPG)
草は咲くかままのてふてふ
『層雲』1937(昭和12)年9月号に発表し、『草木塔』「弧寒」に収録されています。
山口市小郡文化資料館横庭

空へ若竹のなやみなし
この句の初出は『其中日記』[昭和十年]年五月一日で、
あゝ五月と微笑したい。
(略)
空へ若竹のなやみなし
とあります。
『層雲』1935(昭和10)年7月号に発表し、『草木塔』「雑草風景」に収録されています。
山口市小郡総合支所前SL広場ポスト

ポストはそこに旅の月夜で
現地説明板「ポストはそこに旅の月夜で」。

以前は、前が駐車場だったので、よく分かったのですが、今は、資源物排出場ができ、柵ができたため分かりにくくなりました。
縦割り行政?????

『旅日記 昭和十四年』五月三日に出てきます。
1939(昭和14)年、井上井月の墓参のため信州伊那谷の層雲派の俳人で女学校教諭の前田若水を訪ねた時詠んだ句です。
小郡総合支所前

春風の鉢の子一つ
蓮光寺境内
-thumbnail2.JPG)
正月三日お寺の方へぶらぶら歩く
昭和15年、「石手川三句」とあるうちの最後の句です。
石手川(いしてがわ)は、重信川水系の支流で、愛媛県松山市を流れる河川です。山頭火は昭和15年の正月を松山の一草庵で迎えました。
山口市小郡文化資料館でいただいたマップ「山頭火句碑めぐり」を参考に山口市小郡地区の山頭火句碑巡りをしましょう

小郡地区には全部で21基あるそうですが、今日は、其中庵〜小郡文化資料館の周辺の8基のみ。




はるかぜのはちのこひとつ
現地説明板「寝牛の碑」。
この句碑は、山頭火没後十年に当たる昭和二五(一九五〇)年(10月11日)、大山澄太、伊東敬治、国森樹明など当時の友人等によって其中庵跡に建てられました。
其中庵に残された大理石の寝牛の置物にちなんで、栄山公園の谷間から形の似た自然石を選び出し、山頭火の師である荻原井泉水によって「春風の鉢の子一つ」の句が選ばれ、仮名書きで刻まれました。
平成四(一九九二)年三月、其中庵の復元に伴い、現在地に移設されました。
説明「春風の鉢の子一つ」。
(略)山頭火の師である荻原井泉水が選句し、揮毫しました。(略)
「鉢の子」は、僧が行乞(托鉢)際に使用する鉄製の鉢の器のことです。
この句の初出は『其中日記』[昭和八年]三月十九日で、
すつかり春だ。
(略)
春風の鉢の子一つ
(略)
『山はしづかにして性をやしなひ、水はうごいて情をなぐさむ』
とあります。
『層雲』1933(昭和8)年6月号に発表し、『草木塔』「行乞途上」に収録されています。


いつしか明けてゐる茶の花
説明「いつしか明けてゐる茶の花」。
この句の初出は『其中日記』[昭和七年]十二月十日で、
寒い、霜、氷、菜葉を洗ふ手がかじけた、このごろは菜葉ばかり食べてゐる、ほかに食べるものもないが。
(略)
いつしか明けてゐる茶の花
とあります。
『層雲』1933(昭和8)年3月号に発表し、『草木塔』「其中一人」に収録されています。
この句碑は、1994(平成6)年4月1日、小郡山頭火をしのぶ会が建立しました。


母よ うどんそなへて わたしもいただきます
現地説明板「母よ うどんそなへて わたしもいただきます」。
母よ うどんそなへて わたしもいただきます 山頭火
母の四十七回忌にあたる昭和十三(一九三八)年三月六日の其中日記には、「かなしい、さびしい供養」と書かれています。
第六句集「孤寒」には、
「うどん供へて、母よ、わたくしもいただきまする」
の句があり、その前書きには、「母の四十七回忌」と記されています。この二つの句は語順が異なりますが、筆をとったときの情感によって、書き分けたものと思われます。
説明「母よ うどんそなへて わたくしもいただきます」。
『其中日記』[昭和十三年]三月六日に、
地久節。
亡母四十七年忌、かなしい、さびしい供養、彼女は定めて、(月並の文句でいへば)草葉の蔭で、私のために泣いてゐるだらう!
今日は仏前に供へたうどんを頂戴したけれど、絶食四日で、さすがの私も少々ひよろ/\する、独坐にたへかね横臥して読書思索。
とあります。
『層雲』1938(昭和13)年4月号に
自殺せる母の四十七年忌
うどん供へて、わたしもいただきます
と発表しています。
経本仕立ての第六句集『孤寒』や『草木塔』「孤寒」には、
母の四十七回忌
うどん供へて、母よ、わたくしもいただきまする
とあり、昭和13年3月6日、其中庵での作とされています。
他の年の命日あたりのものをみてみると、『其中日記』[昭和八年]三月六日には、
晴、よい朝ではじまつてわるい夜で終つた。
酔うて乱れて、何が母の忌日だ、地下の母は泣いたらう。
樹明君を案内して置いて、このざまはどうだ。
ふと仏前を見たら、――御供物料、樹明――の一封がある、恥を知れ、々々。
ぶら/\歩いたら、だいぶ気分がよくなつた。
『其中日記』[昭和八年]三月十一日には、
亡母忌日二句追加
おもひでは菜の花のなつかしさ供へる
ひさびさ袈裟かけて母の子として
『其中日記』[昭和九年]三月六日には、
雪、雪、寒い、寒い。
母の祥月命日、涙なしには母の事は考へられない。
終日独居。
『其中日記』[昭和十二年]三月三日には、
春雨だ、間もなく花も咲くだらう。
亡母祥月命日。
沈痛な気分が私の身心を支配した。
……私たち一族の不幸は母の自殺から始まる、……と、私は自叙伝を書き始めるだらう。……
母に罪はない、誰にも罪はない、悪いといへばみんなが悪いのだ、人間がいけないのだ。……
湯田前町の風来居で記した『其中日記』[昭和十四年]三月八日には、
転一歩。――
母の四十八回忌。――
さくら餅を供へ、鉦をうち、読経しつゝ線香の立ちのぼるけむりを見詰めてゐると、四十八年の悪夢が渦巻くやうで、限りなき悔恨にうたれる、おなじ過失を繰り返し繰り返して来た私ではなかつたか。……
『句帖』昭和十五年には、
母の第四十九回忌
たんぽぽちるやしきりにおもふ母の死のこと
とあります。
命日ではありませんが、『旅日記 昭和十四年』四月三十日には、
述懐
母よ、しみ/″\首に頭陀袋(フクロ)をかけるとき
とあります。
山頭火は、位牌を背負って巡礼したといいます。


へうへうとして水を味ふ
説明「へうへうとして水を味ふ」。
『層雲』1928(昭和3)年11月号発表句で、第1回目の行乞放浪途上の句です。
『三八九』第三集(1930(昭和6).3.30)にも収録しています。
『草木塔』「鉢の子」に
昭和二年三年、或は山陽道、或は山陰道、或は四国九州をあてもなくさまよふ。
とある中の3句目です。
この句の句碑が、鹿野清流通りにもあります。
現地説明碑によると
伝聞によれば 放浪の俳人 種田山頭火は
昭和八年十月三十日 本町の菅蔵集落
(当時須金村)に一泊 翌朝金峰山の麓
を通り鹿野のまちへ入り托鉢したという
山頭火は 道すがら多くの句を詠んだが
この句碑は真筆の短冊を基にしたもの
とあります。
句碑の傍に水琴窟があります。




草は咲くかままのてふてふ
『層雲』1937(昭和12)年9月号に発表し、『草木塔』「弧寒」に収録されています。


空へ若竹のなやみなし
この句の初出は『其中日記』[昭和十年]年五月一日で、
あゝ五月と微笑したい。
(略)
空へ若竹のなやみなし
とあります。
『層雲』1935(昭和10)年7月号に発表し、『草木塔』「雑草風景」に収録されています。


ポストはそこに旅の月夜で
現地説明板「ポストはそこに旅の月夜で」。
以前は、前が駐車場だったので、よく分かったのですが、今は、資源物排出場ができ、柵ができたため分かりにくくなりました。
縦割り行政?????
『旅日記 昭和十四年』五月三日に出てきます。
1939(昭和14)年、井上井月の墓参のため信州伊那谷の層雲派の俳人で女学校教諭の前田若水を訪ねた時詠んだ句です。


春風の鉢の子一つ


正月三日お寺の方へぶらぶら歩く
昭和15年、「石手川三句」とあるうちの最後の句です。
石手川(いしてがわ)は、重信川水系の支流で、愛媛県松山市を流れる河川です。山頭火は昭和15年の正月を松山の一草庵で迎えました。