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こどもと本ジョイントネット21・山口


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萩城址(6)萩城跡指月公園 @ はぎ散歩F [2021年10月17日(Sun)]
前回の続き

1879(明治12)年に本丸跡に歴代藩主をまつる「志都岐山神社」が創建され、その8年後に城跡が都市公園「指月公園」として整備されました。


志都岐山神社鳥居
本丸門を過ぎると参道が伸びており、志都岐山神社の大きな鳥居があります。
IMG_E1376.JPG


連理のマツ
傍に連理のマツが植えてあります。
IMG_E1374.JPG

「連理のマツ」説明板。
IMG_E1375.JPG


志都岐山神社の狛犬。
IMG_E1052.JPG


志都岐山神社のミドリヨシノ
右側の狛犬の奥にある桜です。
純白の花と緑色のガクが特徴です。
IMG_E1327.JPG

「志都岐山神社のミドリヨシノ」説明板。
IMG_E1326.JPG

 本樹は指月公園内の志都岐山神社参道、旧明倫館遺構万歳橋の東側に位置している。根元の幹周1.7m、幹は基部で三分岐し、一幹は枯損。主幹は目通り周0.8m、樹高6mのさして大木とはいえないが、この種は日本で萩市のみに知られる稀品であり、植物分類学的位置を評論する場合の基準標本の原木として貴重である。
 本種は桜の中で最も一般的なソメイヨシノに似ているが、萼が緑色であるところからミドリヨシノと名づけられた。花は純白色で、遠望すればナシ類の花を思わせる風情は格別であり、また特色の一つでもある。
いずれにしても学術的に貴重な樹木といえる。



万歳橋
志都岐山神社前の庭池に架かっている石橋で、元々は、萩藩校明倫館に架かっていた橋です。
明倫館は、1718(享保3)年、5代藩主毛利吉元により萩城三の丸の南側に創建され、1849(嘉永2)年に毛利敬親により現在地(江向)に移転新築、拡充されました。そのとき、諸侯の学校であることを象徴して聖廟前に池を掘り、そこに架けられたのがこの橋です。
1878(明治11)年、萩城本丸跡内に志都岐山神社の前身である山口の豊栄・野田神社の遙拝所ができたとき、庭池がつくられ現在の場所に移されたといわれています。
江戸時代の藩校の貴重な遺構として、1973(昭和48)年に萩市の文化財に指定されました。
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「明倫館 遺構 万歳橋」説明板。
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 嘉永2年(1849)江向に新築された明倫館には、多くの藩校と同じように聖廟(せいびょう)の前に水を巡らし、その中央に石橋が架けてあった。泮水(はんすい)は泮池ともいい、中国上代の形式を模倣したもので、諸侯の学校であることの象徴である。泮は半と同じ意味で、聖廟周囲の南半分にしか水がないことを意味している。橋は花崗岩で造られており、長さ4.05m、幅員3.15mの直橋で、橋脚はなく両岸の石垣の橋台に2本のアーチ式橋桁(はしげた)を渡し、その上に10個の短冊石(たんざくいし)を横に並べて造られており、中国風のデザインを施した太鼓橋(たいこばし)である。


楫取素彦寄進の井戸
奉寄進明治十二年巳卯十一月」「群馬県令従五位香楫取素彦」とあります。
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「楫取素彦寄進の井戸」説明板。
(写真がブレていて掲載できません)
 楫取素彦は文政12年(1829)、萩藩医松島瑞璠(ずいばん)の次男として萩に生まれ、12歳の時に萩藩の儒者小田村吉平(きっぺい)の養子となり、小田村伊之助と名乗った。藩校明倫館で儒学を講じ、嘉永6年(1853)吉田松陰の妹寿(ひさ)と結婚した。松蔭の再入獄後は後継者として、松下村塾でも指導にあたった。慶応元年(1865)の四境(しきょう)戦争(幕長戦争)では幕府側との交渉にあたり、慶応3年藩命により楫取素彦と改名した。明治9年(1876)初代群馬県令となり、同17年(1884)まで蚕糸業の振興や教育の充実に尽力した。明治14年(1881)寿と死別後、同16年に松陰の妹で久坂玄瑞の未亡人文(ふみ)(美和子)と再婚した。大正元年(1912)没、享年84。
 志都岐山神社は明治12年(1879)に建立され、毛利元就・隆元・輝元・敬親・元徳を主神とし、初代から12代までの萩藩主を配祀している。この井戸は、明治12年11月の志都岐山神社創建時に、当時群馬県令であった楫取素彦が寄進したものである。



山根秀介寄進の灯籠
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「馬島先生之碑」石碑。
馬島春海は長州藩士で、松下村塾出身の漢学者です。
1857(安政4)年、16〜7歳のとき吉田松陰門下となりました。
高杉晋作の奇兵隊では書記を務め、文久年間まで国事に奔走しましたが、辞任して萩に帰り、1863(文久3)年に漢学塾「晩成堂」を開き、1871(明治4)年まで続けました。
のちに東京に出て、1905(明治38)年11月、66歳で亡くなりました。
この碑は門下生が建てたもののようです。
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志都岐山神社社殿。
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「志都岐山神社」説明板。
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 志都岐山神社は、明治11年(1878)、旧本丸付近に萩の有志が山口の豊栄(祭神 毛利元就)・野田(祭神 毛利敬親)両神社の遥拝所を建立したのが始まりで、その後、指月神社とされていたが、明治15年(1882)(県社に列せられ)現在の志都岐山神社となった。
 祭神は、毛利元就・隆元・輝元・敬親・元徳の5柱で、その他に、初代から12代までの萩藩主が祀られている。現在も例祭が毎年4月と10月に行われている。




萩城址碑
本丸中央付近にが建っています。
長州藩最後の藩主であった毛利元徳の長男である元昭によって、1919(大正8)年に建てられました。
萩城の来歴が記されています。
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「萩城址碑」説明板。
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 この石碑は、大正8年(1919)11月、公爵毛利元昭によって建てられ、萩城の来歴を記したもので、子爵杉孫七郎の撰文、高島張輔(日本画家高島北海の実兄)の書である。萩城は毛利輝元によって築城され、慶長9年(1604)に工事に着手し、4年後の慶長13年に完成した。以後260年間、萩藩主の居城として、また周防・長門両国の藩政の中枢機関として偉容を誇った。しかし、第13代藩主敬親の代に至り、幕末の多端な国事の処理に不便なため、文久3年(1863)4月、藩府を山口に移した。その後、藩主の居館、諸役所などが漸次取り除かれついに明治6年(1873)には政府から萩城払い下げ令が下り、翌年天守閣、矢倉などすべてが解体された。


本丸跡には萩城址碑の他にもたくさんの萩に縁のある人物などの顕彰碑が建っています。

その内の1つが、近藤元統の碑です。
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「近藤元統の碑」説明板。
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 萩城建築以前に、ここに屋敷を持っていた近藤元統の屋敷跡及び墓所であるといわれる。元統の孫露竹の代、毛利輝元による萩城築城の際に、この地を献上した。
 露竹は輝元の萩打入りを迎え、深野太郎左衛門とともに、塩屋町・今魚店町の取り立てに尽力した。
 この碑は、明治30年(1897)12月、近藤氏の子孫にあたる史家近藤清石(きよし)によって、その旧跡に建てられ、清石は、
  あわれ其恵の露のかからでは
   かからざらまし露の草むら
という和歌を詠んだ。


近藤清石には『大内氏実録』『山口名勝旧蹟図誌』などで、とてもお世話になっているので、感激しましたわーい(嬉しい顔)


また、梨羽家茶室旧福原家書院、花江茶亭が移築されています。

花江茶亭
幕末13代藩主毛利敬親が安政年間に藩主別邸・花江御殿に増築し、家臣とともに茶事に託して時勢を論じた茶室「花江茶亭」が明治22年に園内に移築されています。
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【次回に続く】
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