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こどもと本ジョイントネット21・山口


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萩城址(4) @ はぎ散歩D [2021年10月07日(Thu)]
前回の続き

萩城本丸は、指月山を背後にした本丸御殿を中心に、南西部に天守を、南東部に着見矢倉、北東部の隅に井上矢倉を配した曲輪ですぴかぴか(新しい)
広さは東西約200m・南北約145mありました。

戦国時代、吉見氏が、指月山に出城を築いたとされます。萩博物館には、「吉見正頼銘琵琶」があり、その内部には

天正八年庚辰 七月十九日 長門萩之浦 於指月城下作也 吉見 正頼(花押)

と記されています。

1600(慶長5)年関ヶ原の合戦に敗れ、領国を長門・周防に減封された毛利氏は、本拠広島城からの移転を余儀なくされ、「山口の鴻ノ峰(高嶺城跡)」、「三田尻(防府市)の桑山」、「萩の指月山」を候補地として挙げたところ、幕府は最も不便な萩を選んだといわれています。輝元自身が選んだともいわれています。
築城は1604(慶長9)年に開始し、1608(慶長13)年に完成しました。

幕末になると、1863(文久3)年に交通の便がよく、海からの砲撃を受けることのない山口城へ、幕府に無断で移りました。
明治維新後の1873(明治6)年「全国城郭存廃ノ処分並兵営池塘選定方」(廃城令)により「廃城」となり、1874(明治7)年に天守閣、矢倉などの建物は全て解体され、現在は石垣と堀の一部が昔の姿をとどめています。

1-001萩城跡と指月山.JPG IMG_E1420.JPG

右側は城内にある「志都岐神社」石碑
IMG_E1421.JPG

左には「史跡 萩城址」石碑
G_01_hagijoato_05_01 (2).jpg


「国指定史跡 萩城跡」説明板。
DC1C020B-EE3C-498A-818D-DE939A5B61F0.jpeg IMG_E1034.JPG

 萩城は関ヶ原の役後、毛利輝元が慶長九年(一六〇四)築城に着手し、四年後の同十三年(一六〇八)に至って完成したものである。萩市街の西北隅、指月山(標高一四三メートル)の麓に位置し山名をとって指月城とも呼ばれた。山麓の平城と頂上の山城とを併せた平山城である。当時輝元は隠居していたがその子、初代藩主秀就が幼少のため、築城後も政務を執っていた。以後代を重ねること、十三代敬親に至って幕末多端な国事を処理するに不便なため文久三年(一八六三)四月山口に移った。ついで明治七年(一八七四)建物のすべてが解体された。本丸には高さ十四、五メートルの五層の天守閣があったが、今はその台座のみ残っている。周囲には石塁を築き内部には藩主の居館ならびに藩役所と附属建物があった。この城は二五九年間防長両国政治の中心であり明治維新に大きな役割を果たした重要拠点でもあった。


正面となる南側には本丸門と極楽橋を設けていました。
本丸門は、内側の渡櫓門と外側の高麗門で構成される内枡形の虎口です。
極楽橋は、現在は土橋ですが、往時は木橋でした。橋の長さは6間(約12m)、幅が2間(約4m)余りあり、有事の際には、敵の侵入を防ぐためすぐ落とせるように工夫されていました。
二の丸との間には幅20間(約40m)の内堀・石垣を巡らせていました。

IMG_E1031.JPG 
IMG_E1032.JPG

IMG_E1033.JPG G_01_hagijoato_07_01.jpg


本丸門から入ったところにあるこの案内板にご注目くださいひらめき
IMG_E1387.JPG IMG_E1377.JPG

まず、この地図がすばらしい。
矢倉跡や門跡をチェックして歩くのにとても役に立ちましたひらめき
矢倉跡・門跡は、『御城内御作事謝御悩所坪数其他目録』天明6年(1786)をもとに記載」とあります。
IMG_E1378.JPG

萩博物館所蔵の「慶安5年萩城下町絵図」までありますひらめきひらめき
この絵図は、山口県立文書館も所蔵していて、こちらはインターネット公開しています(無断転載不可)。
見比べてみると、彩色の仕方など少し違うようです。
IMG_E1380.JPG

そして、「明治時代初期の古写真」ひらめきひらめきひらめき
小野為八が撮ったものといわれています。
萩城写真 小野為八A.jpg

小野為八(1829(文政12)〜1907(明治40))については、「雲谷庵に行きましたA」のところで書きましたが、長州藩の砲術師範であり、等魁という画号を持つ雲谷派の絵師でもありました。維新後写真家としても活躍しました。
1875(明治8)年山口に写真館を開いたといわれていて、山口市の八坂神社にある河村写真館がそれとされていましたが、今では明治20年前後に旧士族の松原繁が写真館として建築したと考えられ、その後現在の河村写真館に変わったというのが定説のようです。

DA9C1F35-56C5-4538-9DCA-F2252170FAF6.jpeg小野為八が描いた龍 F6446035-BDFB-4DB3-8A20-797A98A22B34.jpeg河村写真館


小野為八さんと同じ写真を撮ろうと頑張りましたが、ちょっと高い位置から撮っているのがよくわかりました。
IMG_E1458.JPG IMG_E1459.JPG IMG_E1460.JPG


ただ、新しい説明板は西部分が省略されているがとても残念で、かけ替える以前の「萩城跡 指月公園案内図」説明板もあげておきます。
萩城案内図.jpg 萩城跡 指月公園案内図 (2).jpg


次回に続く
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