CANPAN ブログ検索
Loading
  • もっと見る

こどもと本ジョイントネット21・山口


〜すべての子どもに本との出会いを〜

子どもと本をむすぶ活動をしています


検索
検索語句
<< 2021年10月 >>
          1 2
3 4 5 6 7 8 9
10 11 12 13 14 15 16
17 18 19 20 21 22 23
24 25 26 27 28 29 30
31            
最新記事
カテゴリアーカイブ
プロフィール

こどもと本ジョイントネット21・山口さんの画像
月別アーカイブ
最新コメント
タグクラウド
日別アーカイブ
https://blog.canpan.info/jointnet21/index1_0.rdf
https://blog.canpan.info/jointnet21/index2_0.xml
萩城址(2)二の丸南門跡・東門跡 @ はぎ散歩B [2021年10月05日(Tue)]
前回の続き

萩城二の丸南門跡の前には萩史料館と旧厚狭毛利家萩屋敷長屋があります。

旧厚狭毛利家萩屋敷長屋
二の丸南門の近くにあり、梁間5メートル、桁行51.5メートルの長大な入母屋造り本瓦葺きの建物は、萩に現存する武家屋敷のなかでも最大の規模を誇り、国の重要文化財に指定されています。
IMG_E1461.JPG asamouri.jpg 厚狭毛利003.jpg

「旧厚狭毛利家萩屋敷長屋(きゅうあさもうりけはぎやしきながや)附(つけたり)棟札(むねふだ)1枚」説明板。
旧 厚狭毛利家屋敷長屋 説明板 (2).jpg

 厚狭毛利家は、毛利元就の5男元秋(もとあき)を始祖とする毛利氏一門で、厚狭郡厚狭(現山陽小野田市)に知行地(ちぎょうち)(8,370石余)をもっていたのでこのように呼ばれた。萩の屋敷は萩城大手門の南100mの要地に位置し、面積約15,500uの広大なものであった。
 棟札(むねふだ)によるとこの長屋は10代元美の時、安政3年(1856)に建てられたもので、桁行51.4m、梁間5.0mの長大な構造で、現在萩に残っている武家屋敷の中で最も大きい。
 屋根は入母屋造(いりもやづくり)、本瓦葺(ほんかわらぶき)、南面は廂構桟瓦葺(ひさしがまえさんかわらぶき)で、妻飾りは木連格子、南に向かって玄関および濡れ縁を設け、障子を立てて開放的に作られている。手法の特に目立つものはないが、建築年代がはっきりした貴重な建物である。



萩史料館のそばの指月駐車場に車を停めました。
この辺りに中堀があったそうです。
二の丸南側は幅16間(約32m)の中堀で囲まれていました。
しかしながら、1926(大正15)年に橋本川の水を迂回させて水害を防止するために指月川(萩疎水)が造られた時に、埋め立てられました。

中堀跡
南門入口の石垣の前に建っています。
IMG_E1410.JPG


いよいよ二の丸です。
二の丸は、本丸と指月山を囲むように造られた曲輪で、12基の矢倉、34の井戸、蔵元役所、寺社(東側に真言宗満願寺・宮崎八幡宮、西側に臨済宗妙玖寺・臨済宗洞春寺・仰徳神社など)、6代藩主毛利宗広により東園と名付けられた回遊式庭園などがありました。

まず、二の丸(二の曲輪)への入り口となる南門跡があります。
築城した毛利輝元の像もあります。

「舊長藩 指月城址」石碑
IMG_E1022.JPG

舊長藩(きゅうちょうはん)」(「舊」は「旧」の旧字)とは聞き慣れない言葉なので、調べてみましたサーチ(調べる)
国立国会図書館に『松下村塾零話 : 附・大村公逸話、舊長藩十二士伝』(天野御民 /著 山陽堂 明41.4)や山口県立山口図書館に『舊長藩殉難者名録』(時山弥八 /著 時山弥八 大正2(1913))という本を所蔵しており、その書誌説明に「長州藩・・・云々」とありました。『稿本 毛里乃志希里(もりのしげり)』(時山弥八 /著 時山弥八 大正5)にも「舊長藩内学館表」「舊長藩架橋及開作表」「舊長藩内陶窯表」「舊長藩士卒階級一覧表」「舊長藩職役一覧表」「舊長藩諸隊表」「舊長藩軍艦表」が所収され、「萩藩および毛利氏の便覧的な資料」と説明されていました。
ということで、やはり「長州藩」のことでした揺れるハート


毛利輝元公像
IMG_E1023.JPG

「毛利輝元」説明板。
IMG_E1024.JPG

 毛利輝元は、天文22年(1552)毛利隆元の長男として安芸国吉田郡山城(現在、広島県安芸高田市)に生まれた。戦国時代中国地方の覇者となった毛利元就の孫にあたる。永禄6年(1563)、父隆元の死去にともない(十才で)家督を継ぎ、祖父元就の手によって養育された。
 織田信長や豊臣秀吉と覇を競い、中国地方8ヶ国112万石を領有する大大名に成長し、 天正17年(1589)広島に居城を築いた。豊臣政権下では五大老の一人として権勢を誇ったが、慶長5年(160))関ヶ原の戦いで敗れ、 周防・長州2ヶ国36万9千石に減封された。慶長9年(1604)、居城を萩に選定し、同年11月11日、城に入城した。萩開府にあたって、城下町の建設を推し進めるとともに、萩藩経営の安定に腐心した。
 寛永2年(1625)73才で没し、 萩城三の丸(堀内)の天樹院に葬られた。
 


南門跡
内枡形虎口城門で、大手門である南門は虎口内部に突き出た石垣を設けて「コ」の字型とする構造となっており、塩矢倉が設けられていました。
IMG_E1411.JPG

正面玄関だけあって、大きな石がふんだんに用いらています。
IMG_E1025.JPG

鏡石。
IMG_E1412.JPG IMG_E1413.JPG

IMG_E1414.JPG IMG_E1415.JPG

IMG_E1416.JPG IMG_E1418.JPG


塩矢倉跡
IMG_E1417.JPG IMG_1026.JPG IMG_E1027.JPG

振り返って見ると・・・。
IMG_E1028.JPG


土塁の下に設けられて穴。
IMG_E1029.JPG

土塁に上がってみました。
IMG_E1030.JPG


二の丸を抜けると、本丸門前の内堀に出ますが、東門跡の方へ行ってみましょう。

指月小橋
指月川(指月疎水)に架っかています。
IMG_E1036.JPG


萩八景を巡る「萩八景遊覧船」が見えます。
IMG_E1426.JPG IMG_E1427.JPG IMG_E1428.JPG

向こうは、日本海です。
DB81F492-15B3-42B1-A505-819107E2020A.jpeg


東門は、外門(高麗門)・内門(渡櫓門)に加えて、三重の東矢倉・二重の時打矢倉の2つの櫓が設けられていました。

東門跡
IMG_E1423.JPG 東門跡 (2).jpg


東矢倉跡
IMG_E1429.JPG 東矢倉跡 (2).jpg


時打矢倉跡
IMG_E1424.JPG IMG_E1035.JPG

内堀の方から東門へ。
IMG_E1422.JPG

東門跡から内堀方面へ。
IMG_E1425.JPG IMG_E1430.JPG IMG_E1431.JPG 
 

IMG_E1378 (2).JPG 萩城案内図 (3).jpg
▲萩城本丸門跡にある説明板の地図を一部抜粋


次回に続く
| 次へ