嘉村礒多生家 @ 福田百合子先生と行く山口市仁保の文学の旅A
[2021年10月01日(Fri)]
【前回の続き】
仁保上郷上ヶ山集落にある礒多の生家は、
2020.11.28撮影
現在、「嘉村礒多生家 帰郷庵」として開放されています
築後140年を経ているそうです。
庭の門。
庭にある「嘉村礒多生誕地」碑。
裏面に「昭和三十二年十一月三十日嘉村礒多文学顕彰会建立」とあります。
フジバカマがきれいです。
生家から見える山裾の道は「礒多の道」と名付けられていて、礒多が大富小学校へ通った道です。現在、生家の前の上ケ山公会堂の前から橋を渡って、『神前結婚』の舞台である妙見社までの約1kmの道が残っています。
その途中に、礒多が眠る墓もあります。
蔵の前などには、昔の道具が雑然と置かれていました。
ウメモドキ。
向に平成29年12月3日の生誕百二十年記念に植樹した樹が写っています。
家の裏には、ノブドウ(野葡萄)が。
白い実が本来の実ですが、この美しい青色や紫色の実は虫が寄生している寄生果だそうです
熟して色が変わるのかと思っていました。
河上徹太郎と礒多は中也も関係していた詩壇の仲間の集いで、葛西善蔵を通じ同郷作家として知り合いました。河上は礒多について「色の黒い生真面目な男」と評してしたそうです。
後に、1957(昭和32)年の25回忌に礒多の故郷 山口市宮野 常栄寺に「嘉村礒多文学碑」を建立するにあたり尽力し、除幕式に河上は河盛好蔵と参列しました。実は、井伏鱒二と出席する予定でしたが、井伏は風邪のため参列できませんでした。
河上の随想集『旅・猟・ゴルフ』(講談社 1961)には、
除幕のあと我々は嘉村の家の川向うにある山腹の墓地に詣でた。
天稟院文賢独秀居士
が墓碑銘であった。私は生れてはじめて句を作った。
墓守る礒馴れ松や
秋立ちて
とあると、話されていました。
河上は、『嘉村礒多全集』全2巻(嘉村礒多/著 南雲堂桜楓社 上巻:1964.11 下巻:1965.9)の監修を山本健吉とともにしています。
現地説明板。
【次回に続く】
仁保上郷上ヶ山集落にある礒多の生家は、
2020.11.28撮影
現在、「嘉村礒多生家 帰郷庵」として開放されています
築後140年を経ているそうです。
庭の門。
庭にある「嘉村礒多生誕地」碑。
裏面に「昭和三十二年十一月三十日嘉村礒多文学顕彰会建立」とあります。
フジバカマがきれいです。
生家から見える山裾の道は「礒多の道」と名付けられていて、礒多が大富小学校へ通った道です。現在、生家の前の上ケ山公会堂の前から橋を渡って、『神前結婚』の舞台である妙見社までの約1kmの道が残っています。
その途中に、礒多が眠る墓もあります。
蔵の前などには、昔の道具が雑然と置かれていました。
ウメモドキ。
向に平成29年12月3日の生誕百二十年記念に植樹した樹が写っています。
家の裏には、ノブドウ(野葡萄)が。
白い実が本来の実ですが、この美しい青色や紫色の実は虫が寄生している寄生果だそうです
熟して色が変わるのかと思っていました。
河上徹太郎と礒多は中也も関係していた詩壇の仲間の集いで、葛西善蔵を通じ同郷作家として知り合いました。河上は礒多について「色の黒い生真面目な男」と評してしたそうです。
後に、1957(昭和32)年の25回忌に礒多の故郷 山口市宮野 常栄寺に「嘉村礒多文学碑」を建立するにあたり尽力し、除幕式に河上は河盛好蔵と参列しました。実は、井伏鱒二と出席する予定でしたが、井伏は風邪のため参列できませんでした。
河上の随想集『旅・猟・ゴルフ』(講談社 1961)には、
除幕のあと我々は嘉村の家の川向うにある山腹の墓地に詣でた。
天稟院文賢独秀居士
が墓碑銘であった。私は生れてはじめて句を作った。
墓守る礒馴れ松や
秋立ちて
とあると、話されていました。
河上は、『嘉村礒多全集』全2巻(嘉村礒多/著 南雲堂桜楓社 上巻:1964.11 下巻:1965.9)の監修を山本健吉とともにしています。
現地説明板。
【次回に続く】