CANPAN ブログ検索
Loading
  • もっと見る

こどもと本ジョイントネット21・山口


〜すべての子どもに本との出会いを〜

子どもと本をむすぶ活動をしています


検索
検索語句
<< 2021年09月 >>
      1 2 3 4
5 6 7 8 9 10 11
12 13 14 15 16 17 18
19 20 21 22 23 24 25
26 27 28 29 30    
最新記事
カテゴリアーカイブ
プロフィール

こどもと本ジョイントネット21・山口さんの画像
月別アーカイブ
最新コメント
タグクラウド
日別アーカイブ
https://blog.canpan.info/jointnet21/index1_0.rdf
https://blog.canpan.info/jointnet21/index2_0.xml
富永有隣(1) @ 正護寺D [2021年09月01日(Wed)]
前回の続き

正護寺は、今年 生誕200年を迎える富永有隣の生家 富永家の菩提寺ですぴかぴか(新しい)

有隣は、1821(文政4)年5月14日(11月14日ともいわれています)、周防国吉敷郡陶村(現在の山口県山口市陶)で生まれました。

富永家は旧陶役場(現 杉山良範さん宅)の場所にあったそうです揺れるハート
代々毛利藩の御膳夫士の家系です。
13歳で藩世子(藩主嫡男)に『大学』を講じ、成人後、小姓を務めた時期もありました。

幼少時ともいわれていますが、1834(天保5)年14歳の時、陶に天然痘が流行し、右目を失います。

有隣は字で、『論語』の「子曰徳不孤必有隣」(子日く、徳は孤ならず、必ず隣有り)から命名したとされています。


正護寺には、説明板「維新の志士 富永有隣」が立てられています。

23F07866-D01E-4F11-8351-E8D174BB6C96.jpeg DF628EE8-6AA8-4A09-A3A2-CA442D9C0C37.jpeg

 維新の志士 富永有隣
文政四年(一八二一)毛利藩士富永七郎右衛門の嫡男としてに生まれ、名を徳、後に悳彦(とくひこ)。通称は弥兵衛。字を有隣、号を履斎・陶峯といい、九歳で萩の明倫館に学び、自他ともに許す国学者で、漢学・易学にも長じていた。
嘉永二年(嘉永5(1852)年?)罪なくして見島に流され、野山嶽に囚われた。獄中で吉田松陰と巡り会い、後に、松下村塾で松陰と共に幾多の俊才を育てた。
安政六(1859)年、松下村塾を去り、秋穂二島の戒定院(かいじょういん)に定基塾を開き、四境の役では鋭武隊を率いて幕軍の心胆を寒からしめ、戊辰の役では「長州の富永東海道を上る」と幕府軍に恐れられた。
明治二年の兵制改革にさいしては、脱退(脱隊では?)騒動の陣頭に立ち、敗れて土佐に渡り、八年間土佐の勤王の同志の間を往来して国事を画策したが、捕えられて東京石川島監獄に投じられたが、のち1884(明治17)年、特赦で許されて、出獄し、都下の甥の家で開塾したが、1886(明治19)年に現在の山口県田布施町宿井村瓜迫の末岡家に嫁いだ実妹とみの元に身を寄せて、田布施(旧 宿井村瓜迫)で塾帰来塾を開き、名声が高く、文豪国木田独歩も有隣の人物に心を引かれ、小説「富岡先生」は、当時の有隣を主人公として書いたものである。
有隣は、勤王と学問追求の志が固く「我が道を行く」隠遁と牢獄と波乱の生涯を明治三十三年十二月二十日終えた。享年八十歳(満79歳)
正護寺は、富永家の菩提寺であって、有隣は同寺に般若心経の大幅を奉納している。



当時の松下村塾には、錚々たる人々が通っていました。久坂玄瑞(18歳)、中谷正亮(27歳)、吉田稔麿(17歳)、久保清太郎(26歳)、高杉晋作(19歳)、伊藤博文(17歳)、品川弥二郎(15歳)、前原一誠(24歳)たちです。

吉田松陰の『丁巳幽室文稿』に「富永有隣の帰省を送る叙」があります。32歳の時見島(現山口県萩市)に流されて以来6年目の母に逢う為の帰省でした。

南郡(なんぐん)固(もと)より多士ありと称せらる。今有隣の母を省(かえり)みるや、将に遂に其の人を見んとす。有隣其れ其の盛んなるを観て、其の雋(しゅん)なる【優秀な者】を獲えば、庶幾(こいねが)はくは以て我が社【松下村塾】を振ふあらんか。

司馬遼太郎は短編小説『有隣は悪形にて』を著わしました。
再び松陰が野山獄に入れられることになったとき、有隣に塾の行く末を頼みました。しかしながらが、同罪になることを恐れ有隣は塾を去り、悪口を言って回ります。あの松陰をして

老狡憎むべし

と怒った、書いています。
『有隣は悪形にて』は、初出が「オール讀物」1972年5月号ですが、『木曜島の夜会』(文春文庫)(新装版)(文藝春秋 2011.8)や『司馬遼太郎短篇全集 第12巻 1968.12〜76.9』(文藝春秋 2006.3)に所収されています。

木曜島の夜会 司馬遼太郎.jpg 司馬遼太郎短篇全集 第12巻 1968.12〜76.9.jpg


1859(安政6)年39歳の時、松下村塾を去り、陶に帰ります。この頃陶で塾を開いたといいます。陶小学校にある『陶村教育史』

冨永有隣陶村に来り字下市に居ること20余年、其国事犯のため捕はるるに至るまで弟子を集めて漢学を授けたる事実あり、然れども今は其詳細を知るに由なし

とあります。


山口県央商工会秋穂支所のHPの「秋穂八十八ヶ所霊場」に「戒定院」のことがありました。
戒定院(山口市秋穂二島上田729)は、秋穂八十八ヶ所霊場の第78番札所となっています。

第78番上ヶ田 戒定院 本尊、聖如意輪観世音菩薩 Tel(083)987-2722
 当寺はもと平原山仁光寺と称し、仁光寺にあった。仁和寺菩提院の門跡三条大納言了遍を中興開山とする。仁光寺は、幾星霜の問に一時衰微して無住となったこともあったが、のちに上ヶ田に移り「平原山海定院」と称するようになり、仁光寺は地名として残った。天正18年(1590)正八幡宮打渡状のなかに海定院の古文書があり、この時代には既に寺名を改めていたことがわかる。その後、天正末頃(1590〜92)「海」を「戒」に改めて戒定院とした。元禄6年(1693)益田家が上ヶ田開作を築立したときには、その鎮守上ヶ田明神社の別当坊を勤め、山林5町余、田地1町余の寄進を受けた。享保3年(1718)現在地に移り、天保12年(1814)火災にあい伽監を焼失したが翌年再建。明治3年(1870)社寺整理のときに、一時栄泰寺に合併したが、同7年(1874)分離独立し現在に至っている。現在の本堂は昭和50年3月の建立で庫裡とも82坪である。ここの札所は近くの地蔵堂の78番が移されたものである。本尊は戒定院と同じ聖如意輪観音である。四国霊場の本尊は阿弥陀如来である。秋穂には幸田出の藤田一族をはじめ戒定院檀家がかなりある。

◇富永有隣の塾
 安政の頃吉田松陰の松下村塾の教師をつとめた富永有隣が、この戒定院で塾を開いて付近の子弟の教育に当だったことがある。有隣の塾はここから名田島大道寺に移った。


大道寺といえば、脱隊騒動を鎮圧するために、木戸孝允が本陣を構えた場所です。歴史の面白さを感じます。


正護寺の説明板には「鋭武隊」とありますが、鋭武隊は、1867(慶応3)年の兵制改革で八幡隊と集義隊が合併してできたもので、1866(慶応2)年の四境戦争(第二次長州征伐)のときは、なかったのではないでしょうか。幕末史は詳しくないので・・・・・・ふらふら
奇兵隊、第二奇兵隊(南奇兵隊)、集義隊を転々とし、四境戦争当時は集義隊に属していたというのが本当だと思いますが、どうでしょうか?
四境の役では集義隊を率いて幕軍の心胆を寒からしめ、戊辰の役では「長州の富永東海道を上る」と幕府軍に恐れられた。
とすべきではないでしょうか。


◇朝日山護国神社(招魂社)
 真照院奥ノ院の背後の景勝地にある。県下の招魂場は24ヶ所。そのなかでも最もはやく創建された招魂場の1つで、国事に斃れた志士達の英霊を弔うために、秋穂に駐屯していた八幡隊が慶応元年(1865)4月4日に地開きを始め、4月8日に成就した。招魂場の棟上式は同年6月25日であった。現在は二島の戦死者を合祀して参道付近にツツジ苗を植えて美化整備を進めている。
 招魂杜の祭神は前記八幡隊の縁故者で元治元年(1864)7月19日京都禁門の変で散った同士久坂玄瑞、入江九一、寺島忠三郎等の英霊を祭った。その後八幡隊は集義隊と合併して鋭武隊(駒井政五郎 400余 慶応3年結成 奥羽方面で戦闘)となり、維新戦に参加、諸所の戦いで戦死した縁故者を合祀した。ここにある招魂場由来碑は八幡隊の総督であった堀真五郎の撰文である。朝日山護国神社と改称したのは昭和14年8月21日である。その後支那事変から太平洋戦争にかけて戦死した二島地区出身の英霊を合祀した。この付近の環境整備は二島地区老人クラブの人々によって行われる。

◇奇兵隊、八幡隊の駐屯
 江戸時代末期の文久3年(1863)9月、馬関に駐屯していた奇兵隊が山口への海口秋穂防備のため、泉蔵坊を本陣に萬徳院、遍照寺、真善坊の4寺に分宿した。そして外敵に備えるために台場を作ったり、銃砲警固を行った。翌文久4年、奇兵隊は都落ちして来た公卿7卿の警固のため三田尻に移駐した。その後秋穂側の菩提寺、週明院に駐屯していた八幡隊が移って来て、台場の築立や打ち方の訓練を行った。第2次長州征伐に先立つ慶応2年(1866)、幕府軍攻撃のため第2奇兵隊が秘かに行動を起こすことを知った一部の八幡隊員が、この計画に加わるため脱隊して海路東上を企てた。この計画は未遂に終わり、黒潟海岸まで脱走していた者のうち、首謀者1名は腹痛のために病床にあって、馘首をまぬがれ6人のうち5名は馘首された。それは泉蔵坊の南参道雄ノ木北側であった。(二島史)



正護寺には、「維新之俊傑 富永有隣先生招魂之碑」が建っています。

DCD054FF-28F0-41C1-ABBD-10A6B96543CE.jpeg 
IMG_3149.JPG IMG_3151.JPG


松前了嗣さんが、『サンデー山口』(2021.08.29)に「幕末維新 山口れきし散歩」No.19 「富永有隣招魂の碑」の記事を寄せられています。

5A513E94-17BF-4A2B-922F-E69B3DB0C671.jpeg

孤高の志士・富永有隣(とみながゆうりん)は、1821(文政4)年、吉敷郡陶村(現・山口市陶)に生まれた。13歳の時、御前講義を行い褒賞される。藩政府出仕後は小姓役を務め、配膳役へと進むが、無実の罪を着せられ、萩沖の見島へ遠島となり、翌年には野山獄へ。そこで吉田松陰の知遇を得る。松陰が出獄後に行った免獄運動により釈放されると、松下村塾へ迎えられ門人の指導に当たった。
 「名を青史に伝う 寧(いずく)んぞこころよしと為さん 骨は黄沙に曝して はじめて香有り」
 功名を立て、歴史に名を残すことを快しとしなかった有隣は、在野の中に身を置き、我が道を進んだ。周囲に流されることはなかった。  
   防長史談会山口支部長 松前 了嗣


7月30日、偶然、この記事を書くための資料を返却に正護寺を訪れられた松前さんにお会いしたのですが、感激の余りお話もできず、「鋭武隊」のことなどお聞きすればよかったのに、残念でしたふらふら


次回に続く
| 次へ