市川少輔七郎元教之墓 @ 築山跡D
[2021年06月25日(Fri)]
【前回の続き】
築山神社北側の土塁の上から移された市川少輔七郎元教供養塔。
市川元教は大内氏再興を企て動いた人として大内氏代々の霊が祀ってある築山神社に合祀されています。
最近、案内板「毛利氏家臣 市川元教の墓」も設置されました。
説明板「市川少輔七郎元教の墓」も、昨年建てられました。
毛利氏家臣で高嶺城代・山口奉行を務める市川経好の嫡男。
豊後の大友宗麟と大内家再興を企てるが露呈して、天正六年(一五七八)、毛利氏配下により討たれる。
墓石はもと築山神社北側の土塁上にあったが、周辺整備に伴い、平成三十年この場所に移設された。
無縫塔。80cm。
そばの灯籠は、1827(文政10)年、元教の250回忌に市川家の人によって建てられたものです。
前面
市川少輔七郎元教墓
文政十丁亥三月
松金洞岩居士
二百五十回忌建立
裏面
市川三右衛門経□
同 亀之助経□
刻まれている「市川三右衛門経□」は、『閥閲録(ばつえつろく)』(『萩藩閥閲録』)の巻140にみえる「遠近附」の「市川三右衛門」のことでしょうか。「経」の後が判読できないのは、残念です。
『萩藩閥閲録』も読んでみなくてはいけません。
こちら石も墓所のそばに以前建っていたり倒れていたものを一緒に移設してそばに建てられています。
土塁に登って、墓が以前あった場所を探してみましたが、草で覆われていてよく分かりませんでした。
それにしてもこんな場所になぜ建てられたのでしょうか?
元教(?〜1578)は、毛利氏家臣で山口奉行を務める市川経好(1520〜1584)の嫡男として生まれました。
母は、1569(永禄12)年大内義興の甥である大内輝弘(1520〜1569)が山口に乱入したとき【大内輝弘の乱】、北九州 立花山城をめぐって大友氏と対陣中の夫・経好に代って、高嶺城を無事に守り、毛利輝元から「比類なし」との感状をもらった市川の局です。
1578(天正6)年に豊後国の大友義鎮(宗麟)に内応し反乱を企て、そのことを父 経好に察知され、経好の密命を受けた雑賀隆利や内藤元輔らによって討ち取られました。
元教は謡曲「采女の山郭公」の小鼓が得意であったため、元教の死後、山口では采女を謡うことを控えたと言われています。
「父 経好が飯田町の観音堂で切腹させた」という自刃説もあります。
『山口名勝旧蹟図誌』(近藤清石/著 宮川博古堂 明26,27)「市川少輔七郎元教之墓」に
▲『山口名勝旧蹟図誌』「市川少輔七郎元教之墓」(国立国会図書館蔵)
とあります。
『山口市史 地区篇』(山口市史編纂委員会/編 山口市役所 1961(昭和36).3)P92にも
今の築山神社の裏の築地(略)の上に苔蒸した墓一基が今も所在なげに立つている。これは市川少輔七郎元教という若武者の奥都城であるが、この元教は大内氏滅亡の後、毛利氏に仕えて山口の城番となった市川伊豆守経好の子で、父経好が他国へ出陣していた留守中元教が首謀となつて大内氏再興の密議を凝らしたとの嫌疑がかゝり、それを伝え聞いた経好がいそぎ山口に帰つて、子息元教を飯田町の観音堂に捕え、その場で切腹させた。この元教は平素謡曲をよくし、特に「采女」を好んで謡つていたが、その死後元教の霊が町の一人に憑り移つて、そつくりな声で「采女」を謡つたということが評判に立つたので、それからは、たゝりをおそれて、謡曲「采女」をうたわぬようにしている。
と同様の記述があります。
飯田町の観音堂に行ってみましょう
『幕末山口市街図』(1865(慶応元)年〜1868(明治元)年頃 山口県文書館蔵 袋入絵図178)に「下立小路町」に面した「飯田町」に「観音堂」があります。
今の「石山(せきざん)観音堂」のことだと思われます。
久しぶりに観音堂を訪れた時、2013(平成25)年にコンクリート造に建て替えられいて、唖然としたのを覚えています。前は風情のある木造の小さなお堂でした。
「石山観音堂縁起」。
安永三(一七七四)年に浄土宗 善生寺住職浄誉天髄が地元の古老の口実を聞き取り、書き取った文書を善生寺十六世寛誉嶺光が文化八(一八一一)年に書き改めた「周州吉敷郡山口荘竪街 観音堂略縁起」があります。
これによると、大内氏第二十四代 弘世、康暦二(一三八〇)年の世に下竪小路に楼閣を建立し大内氏北廰の持佛 聖観世音菩薩を奉安しました。しかし、永禄十二(一五六九)年に大内輝弘が豊後より山口に乱入したおり観音堂は焼失しましたが、本尊と厨子(大内菱の紋あり)は焼け残り、その後、里人は力を合わせて観音堂のあった場所に小堂を造り本尊を奉安したということです。(略)
観音堂のそばに宝篋印塔があります。
徳雲孤巖禅尼
寶篋塔
昌巖智榮禅尼
一字一石諸経
明咒所謂宝篋
印陀羅尼大般
若経法華妙典
佛顧尊勝陀羅
尼経等也
明治丗七年三月三日
玉道祖a尼首座
陰暦正月相當
願主沙門尼
徳雲孤巖
明和六己丑(1769)
三月吉日
『山口市の石仏・石塔(2)大殿・白石・湯田』(山口の文化財を守る会/編 山口市教育委員会 2004)のP88「大殿の塔」No.46「宝篋印塔」に
市川小輔七郎元敬の供養塔との説がある。
とありますが・・・・・
市川元敬って誰?「市川小輔七郎元敬」は誤植で「市川少輔七郎元教」が正しいと思います。
参考文献:
『山口市の石仏・石塔(2)大殿・白石・湯田』(山口の文化財を守る会/編 山口市教育委員会 2004)
P90「大殿の塔」No.52「市川少輔七郎供養塔」
P88「大殿の塔」No.46「宝篋印塔」
『幕末山口市街図』(1865(慶応元)年〜1868(明治元)年頃 山口県文書館蔵 袋入絵図178)
『山口名勝旧蹟図誌』(近藤清石/著 宮川博古堂 明26,27)(国立国会図書館蔵)
P29〜30「市川少輔七郎元教之墓」
※国立国会図書館デジタルコレクションでインターネット公開(保護期間満了)されています
『山口市史 地区篇』(山口市史編纂委員会/編 山口市役所 1961(昭和36).3)
P91〜92「第十章 伝承 五 伝説と民話」「禁断の謡曲」
【次回に続く】
築山神社北側の土塁の上から移された市川少輔七郎元教供養塔。
市川元教は大内氏再興を企て動いた人として大内氏代々の霊が祀ってある築山神社に合祀されています。
最近、案内板「毛利氏家臣 市川元教の墓」も設置されました。
説明板「市川少輔七郎元教の墓」も、昨年建てられました。
毛利氏家臣で高嶺城代・山口奉行を務める市川経好の嫡男。
豊後の大友宗麟と大内家再興を企てるが露呈して、天正六年(一五七八)、毛利氏配下により討たれる。
墓石はもと築山神社北側の土塁上にあったが、周辺整備に伴い、平成三十年この場所に移設された。
無縫塔。80cm。
そばの灯籠は、1827(文政10)年、元教の250回忌に市川家の人によって建てられたものです。
前面
市川少輔七郎元教墓
文政十丁亥三月
松金洞岩居士
二百五十回忌建立
裏面
市川三右衛門経□
同 亀之助経□
刻まれている「市川三右衛門経□」は、『閥閲録(ばつえつろく)』(『萩藩閥閲録』)の巻140にみえる「遠近附」の「市川三右衛門」のことでしょうか。「経」の後が判読できないのは、残念です。
『萩藩閥閲録』も読んでみなくてはいけません。
こちら石も墓所のそばに以前建っていたり倒れていたものを一緒に移設してそばに建てられています。
土塁に登って、墓が以前あった場所を探してみましたが、草で覆われていてよく分かりませんでした。
それにしてもこんな場所になぜ建てられたのでしょうか?
元教(?〜1578)は、毛利氏家臣で山口奉行を務める市川経好(1520〜1584)の嫡男として生まれました。
母は、1569(永禄12)年大内義興の甥である大内輝弘(1520〜1569)が山口に乱入したとき【大内輝弘の乱】、北九州 立花山城をめぐって大友氏と対陣中の夫・経好に代って、高嶺城を無事に守り、毛利輝元から「比類なし」との感状をもらった市川の局です。
1578(天正6)年に豊後国の大友義鎮(宗麟)に内応し反乱を企て、そのことを父 経好に察知され、経好の密命を受けた雑賀隆利や内藤元輔らによって討ち取られました。
元教は謡曲「采女の山郭公」の小鼓が得意であったため、元教の死後、山口では采女を謡うことを控えたと言われています。
「父 経好が飯田町の観音堂で切腹させた」という自刃説もあります。
『山口名勝旧蹟図誌』(近藤清石/著 宮川博古堂 明26,27)「市川少輔七郎元教之墓」に
▲『山口名勝旧蹟図誌』「市川少輔七郎元教之墓」(国立国会図書館蔵)
とあります。
『山口市史 地区篇』(山口市史編纂委員会/編 山口市役所 1961(昭和36).3)P92にも
今の築山神社の裏の築地(略)の上に苔蒸した墓一基が今も所在なげに立つている。これは市川少輔七郎元教という若武者の奥都城であるが、この元教は大内氏滅亡の後、毛利氏に仕えて山口の城番となった市川伊豆守経好の子で、父経好が他国へ出陣していた留守中元教が首謀となつて大内氏再興の密議を凝らしたとの嫌疑がかゝり、それを伝え聞いた経好がいそぎ山口に帰つて、子息元教を飯田町の観音堂に捕え、その場で切腹させた。この元教は平素謡曲をよくし、特に「采女」を好んで謡つていたが、その死後元教の霊が町の一人に憑り移つて、そつくりな声で「采女」を謡つたということが評判に立つたので、それからは、たゝりをおそれて、謡曲「采女」をうたわぬようにしている。
と同様の記述があります。
飯田町の観音堂に行ってみましょう
『幕末山口市街図』(1865(慶応元)年〜1868(明治元)年頃 山口県文書館蔵 袋入絵図178)に「下立小路町」に面した「飯田町」に「観音堂」があります。
今の「石山(せきざん)観音堂」のことだと思われます。
久しぶりに観音堂を訪れた時、2013(平成25)年にコンクリート造に建て替えられいて、唖然としたのを覚えています。前は風情のある木造の小さなお堂でした。
「石山観音堂縁起」。
安永三(一七七四)年に浄土宗 善生寺住職浄誉天髄が地元の古老の口実を聞き取り、書き取った文書を善生寺十六世寛誉嶺光が文化八(一八一一)年に書き改めた「周州吉敷郡山口荘竪街 観音堂略縁起」があります。
これによると、大内氏第二十四代 弘世、康暦二(一三八〇)年の世に下竪小路に楼閣を建立し大内氏北廰の持佛 聖観世音菩薩を奉安しました。しかし、永禄十二(一五六九)年に大内輝弘が豊後より山口に乱入したおり観音堂は焼失しましたが、本尊と厨子(大内菱の紋あり)は焼け残り、その後、里人は力を合わせて観音堂のあった場所に小堂を造り本尊を奉安したということです。(略)
観音堂のそばに宝篋印塔があります。
徳雲孤巖禅尼
寶篋塔
昌巖智榮禅尼
一字一石諸経
明咒所謂宝篋
印陀羅尼大般
若経法華妙典
佛顧尊勝陀羅
尼経等也
明治丗七年三月三日
玉道祖a尼首座
陰暦正月相當
願主沙門尼
徳雲孤巖
明和六己丑(1769)
三月吉日
『山口市の石仏・石塔(2)大殿・白石・湯田』(山口の文化財を守る会/編 山口市教育委員会 2004)のP88「大殿の塔」No.46「宝篋印塔」に
市川小輔七郎元敬の供養塔との説がある。
とありますが・・・・・
市川元敬って誰?「市川小輔七郎元敬」は誤植で「市川少輔七郎元教」が正しいと思います。
参考文献:
『山口市の石仏・石塔(2)大殿・白石・湯田』(山口の文化財を守る会/編 山口市教育委員会 2004)
P90「大殿の塔」No.52「市川少輔七郎供養塔」
P88「大殿の塔」No.46「宝篋印塔」
『幕末山口市街図』(1865(慶応元)年〜1868(明治元)年頃 山口県文書館蔵 袋入絵図178)
『山口名勝旧蹟図誌』(近藤清石/著 宮川博古堂 明26,27)(国立国会図書館蔵)
P29〜30「市川少輔七郎元教之墓」
※国立国会図書館デジタルコレクションでインターネット公開(保護期間満了)されています
『山口市史 地区篇』(山口市史編纂委員会/編 山口市役所 1961(昭和36).3)
P91〜92「第十章 伝承 五 伝説と民話」「禁断の謡曲」
【次回に続く】