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こどもと本ジョイントネット21・山口


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大内義興碑・大内氏月見之松紀念碑・箏曲組歌発祥之地碑 @ 築山跡B [2021年06月23日(Wed)]
【前回の続き】

築山跡は、大内氏顕彰の場となっていますぴかぴか(新しい)


大内義興碑
1B778835-221C-4461-9761-2733DAD52CDA.jpeg2021年6月23日撮影

大内義興の顕彰ために1890(明治23)年2月に建てられました。
IMG_7373.JPG2018年7月15日撮影

撰文は楫取素彦です。
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篆額「大内義興卿碑」。
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篆額は毛利元徳の筆です。
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「大内氏月見之松紀念」石碑
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月見松というのは、大内公遺愛の老樹で名木でした。
『大内氏時代山口古図』(山口県文書館蔵 軸物史料218)を見ると、「大内御殿」のところに「月見松」が描かれています。

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▲山口ふるさと伝承総合センター前にある地図より

しかしながら、1856(安政3)年8月11日雷火のため焼けて枯れました。そののち友津田典が、根より三丈計り上りて皮付きのところを遺して中を丸く刳り、それを縁として額にし、月見松の絵を尾張の人湟宏に描いてもらい、文は近藤芳樹(1801〜1880)が記し、和歌二首を添えたものを作りました。
現在八坂神社楼拝殿に、松で造った額に入った松の絵が飾ってありますが、それでしょうか?
傍に近づけないので、文字があるかどうか、よく分かりません。

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その句は『防長旧族の館跡防長古城趾の研究』(御薗生翁甫/著 山口県地方史学会 1962)に、

めぐりあふ秋はあらじと枯れにけり 
  月の名おへるふるさとの松

てる月も雲のよそよりなげくらむ
  宿しなれにし木の間たずねて
 
     
とあります。

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「箏曲組歌発祥之地」石碑
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碑の裏側
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昭和四十年十一月建立
  題字揮毫 内閣総理大臣 佐藤栄作
  発起人  箏正派家元  中島路雅楽之都
  同    山口県知事  橋本正之
  同    山口市長   兼行恵雄
  同    山口県熊毛町 林 泰


「建碑の由来」。
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大内義隆(1507年〜1551年)は武人で且つ高度の文化人として 芸術 学問 宗教 特に管弦 詩歌に深く心を寄せた人でありました
 応仁の乱後 京都をのがれた文化人や殿上人は 次々と大内家へ身を寄せ ここに輝やかしい地方文化の花を開かせたのであります
 「箏曲組歌」はこの大内文化を母体として生まれました 若き殿上人の楽人たちはこの地に集まり 自己の詩情を即興的に作詞作曲して 優雅な遊びの興趣を高めました 雅楽 「越天楽」の楽式による優美で気品ある風格の高い この組曲は その後 筑紫流 八橋流 生田流 山田流と 変遷を経ながらうけつがれ すぐれた伝統音楽として 今なお多くの人々に愛奏されております
 この記念碑は全国の第一線に活躍する箏曲教授家や 箏曲を愛する篤志家が 組歌の発祥を末永く記念して建てたものであります
 大内文化の生命が現代にいきいきとよみがえる時 私たちは「芸術は長く人生は短し」 の至言に敬虔の念をいっそう強めるものであります
 昭和四十年(一九六五年)十一月十一日世界平和記念の日
   中島路雅楽之都 誌す


「協賛者芳名録」
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「箏曲組歌発祥之地」説明板。
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 組歌は八橋検校(一六一四〜八五)が確立した箏曲の根本形式です。その整然とした楽式の源流は古くは雅楽曲〈越 天楽〉にまで遡りますが、そこから発生した箏の弾き歌いの音楽は, まず中世末期に賢順(一五三四?〜一六二三)により筑紫箏として大成され、さらに八橋検校による新工夫が加えられて、今日の箏曲の創始に至りました。
 一方、数首の歌を組み合わせた歌詞については、 安永天明の頃(1780前後)の箏曲組歌の譜本「箏曲大意抄」の中に, おおよそ次のような話が伝えられています。

天文年間(一五三二〜五四)のこと、 山口の大内義隆卿は、 京から迎えた北の方を慰めるために、しばしば都の公卿殿上人や楽人などを招いて詩歌管弦の遊びを催したが、ある時その席で七人の若い殿上人が 一首ずつ歌を作り、つぎつぎに箏で弾き歌いすることが行われた。これが箏の組歌の起源であり、歌の組合せなので組歌と言う。これゆえ最初の組歌 の曲《ふき》の歌詞は七首になっが、 やがて一人が早世したため以後の曲では六首になった。

 この話には疑点もあってすべてそのままには受け取れませんが、当時この地に花開いた大内文化を考えますと、むげに否定し去れない面もあり、興味深い所伝です。
 この「箏曲組歌発祥之地」の碑は、この所伝をよすがとして箏曲組歌の誕生期に思いを馳せ、あわせて往時の大内文化の繁栄を偲ばんとする各地各界の多数の人々の熱意と浄財によって、昭和四十年十一月、ここ大内氏ゆかりの地に建立されたものです。
    昭和六十一年十一月八日 上参郷祐康述


若い殿上人は、「則春、清政、春孝、重頼、高雅、行道、是正」の七人であり、早世したのは、「行道」だそうです。


参考文献:
『山口市史 史料編 民俗・金石文』(山口市 2015(平成27).3)
  P801〜802「大内義興碑」
『大内氏時代山口古図』(山口県文書館蔵 軸物史料218)
『山口市史 各説篇』(山口市編纂委員会/編 山口市 1971(昭和46).3)
  P685〜686「築山亭」
『山口市史 史料編 大内文化』(山口市 2010(平成22).9)
  P938〜944「大内氏遺跡築山跡」



【次回に続く】
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