連歌師宗祇「池は海 こすゑは 夏の深山かな」 @ 築山跡A
[2021年06月22日(Tue)]
【前回の続き】
築山跡には、1953(昭和28)に建てられた連歌師飯尾宗祇(1421〜1502)の句碑があります。
宗祇句碑。
1480(文明12)年、大内政弘に迎えられて山口を訪れた宗祇が、築山館(屋形)で開かれた連歌会で詠んだ発句が刻まれています。
池は海 こすゑは 夏の深山かな
この句は宗祇の『老葉(わくらば)』に収められています。
西国にくだりし時 大内京兆(けいちょう) 筑(築)山にて一座興行のとき、此所のさまをつかふまつるべきよし所望侍りしに
池はうみこずゑはなつのみ山かな
とあります。「西国にくだりし時」とは1480(文明12)年、「大内京兆」とは大内政弘のことです。
また、このときの旅行は『筑紫道記(つくしみちのき)』として書き表されています。
二毛のむかしより六十いまにいたるまで、をろかなる心ひとすちにひかれて、いり江のあしのよしあしにまよひ、身をうき草のうきしづむなげきたえずして、移りゆく夢うつつの中にも、時にしたがふ春秋のあはれ思ひ捨てがたく侍るままに、国々の名ある所見まほしく侍る程に、(略)
左京兆のかぐはしき契ふかうして、(略)文明十二の年水無月のはじめ周防国山口にといふにくだりぬ
今日は長月の六日なれば、彼野の宮の暁に、音な鳴そへそなと侍りしも、おもひ残す事なし。(略)
立出し日より今日まで三十六日にや成侍らん。(略)けふは神無月十二日、山口のやどに帰りて、此たびの日記はしるしとどめ侍る事しかり。
60歳の宗祇が1480(文明12)年9月6日に山口を出て、大宰府・博多をめぐって10月12日に山口にもどる36日間の旅日記です。
碑の裏面。
宗祇は1489(長享3、延徳元年)年5月から7月にかけて再び山口を訪れ、『宗祇山口下着抜句』によると、宗祇を迎え、連歌歌会18回うち殿中で9回連歌会が催されています。
宗匠種玉庵宗祇長享三年(延徳元年)五月八日至山口下着之、同一七日初殿中御会(略)
また、伊勢物語の講釈をして『伊勢物語山口記』を残しています。
1489(永徳元)年、山口で政弘に講じた内容を、ある初心者のために書き与えた注釈書です。宗祇に関連する『伊勢物語』の注釈書は数多く存在しますが、宗祇自身の手によって記された注釈書は本書のみで、延徳年間(1489〜92)に作成されました。
宗祇自身の奥書に、周防国(現在の山口県)滞在中に、初学者を対象として編まれたことが述べられています。
此一冊者 延徳之初之比 防州山口にして此物語之講尺之後 初心之輩所望之間書之 然者形のやうな事共なるへし 於余情者筆舌難及 只任其心耳
宗祇
(『鉄心斎文庫伊勢物語古注釈叢刊』第3巻)
「池は海」の句から、築山館(屋形)には、大規模な池のある庭園があったと考えられてきました。
園池の跡は残っていましたが、この池も江戸時代中頃周囲の築地の土をもって埋めてしまい、現在のようになったといわれています。
『大内家古実類書』巻之二二 築山之事(山口県文書館蔵 多賀社文庫)に
築山旧跡之境内
八拾間四面
と図示し、また、「四方竹藪之事」に天明2・3(1782・3)年頃に敷地内の竹藪を切り開いた土で池を埋め畠としたことや、「泉水之水之手之事」に天花から水を引き大内氏館の堀に流したなどの伝承を記しています。
『防長旧族の館跡古城趾研究』(御薗生翁甫/著 山口県地方史学会 1962)に
天明23年頃恵海僧正の代に四方竹藪なりしを伐り払い、竹藪の土を以て池を埋め、庭石は或いは砕き或いは他に運び、今は八坂神社玉垣の前に少数屹立し、その他湯田の高田園の泉石に転用した。
とあります。
八坂神社 豊後立石
井上(高田)公園 瓢箪池
政弘からさまざまな援助を受け、宗祇は、自らが中心となって、兼載、三条西実隆とともに連歌撰集『新撰菟玖波集(しんせんつくばしゅう)』を編纂します。1495(明応4)年に後土御門(ごつちみかど)天皇から勅撰に准ずるものとして認められました。
政弘75句、教弘7句、持世6句、大内家人(大内氏被官人)数句採られています。
山口県立山口図書館が所蔵する『仮御手鑑』には、大内義隆(1507〜1551)が開催した和歌会短冊が含まれています。
小槻伊治代筆による義隆和歌短冊をはじめとして義隆被官人の45点和歌短冊です。
▲山口県立山口図書館蔵
宗祇が訪れて以来、山口では連歌が大変盛んになりました。「周防山口連歌師」「大内殿内連歌師」の和歌短冊が37点あり、義隆時代の連歌の隆盛を伝えています。
▲山口県立山口図書館蔵
ただ、この「大内連歌師」「大内殿内連歌師」などとよばれた連歌の名手の中には大内氏の家臣が多数含まれていました。
山口県立山口博物館に「宗祇坐像」(安土桃山時代 (慶長期)写)、山口県文書館に「宗祇法師画像」(元文年間写)があります。
山口博物館本は、法体で端坐する座像で、白髭を蓄えた宗祇が、墨染めの衣に袈裟を掛けた姿で、左手に中啓を持ち、上畳に左向きに座しています。
山口県文書館本もよく似ています。
山口博物館本には「宗祇老人肖像」とあり、上部色紙形二枚に、
うつしをくわが影ながら世のうさをしらぬおきなぞうらやまれぬる
世にふるはさらに時雨のやどり哉
年のわたりはゆく人もなし
老の波いくかへりぜばはてならむ
『宗祇集』所載の和歌一首と、『萱草』『新撰菟玖波集』所載の発句、『宗祇終焉記』所載の付句2句(1502(文亀2)年)が書き込まれています。
参考文献:
「山口県文書館所蔵 アーカイブズガイド―学校教育編―」(web版)
「室町文化(連歌)」
『山口市史 史料編 大内文化』(山口市 平成22年3月)
P464〜472『宗祇山口下着抜句』
P496〜497『初編本老葉』
P560〜574『筑紫道記』
P625『伊勢物語山口記』
P938〜944「大内氏遺跡築山跡」
『山口市史 各説篇』(山口市編纂委員会/編 山口市 昭和46年)
P685〜686「築山亭」
『山口市史 通史篇』(山口市編纂委員会/編 山口市 昭和30年)
P101〜105「宗祇の山口来訪」
「宗祇坐像」(山口県立山口博物館蔵)
※山口県立山口博物館の高画質画像ダウンロードで見ることができます
「宗祇法師画像」(山口県文書館蔵 軸物類92)
※山口県文書館のデジタルアーカイブで見ることができます
【次回に続く】
築山跡には、1953(昭和28)に建てられた連歌師飯尾宗祇(1421〜1502)の句碑があります。
宗祇句碑。
1480(文明12)年、大内政弘に迎えられて山口を訪れた宗祇が、築山館(屋形)で開かれた連歌会で詠んだ発句が刻まれています。
池は海 こすゑは 夏の深山かな
この句は宗祇の『老葉(わくらば)』に収められています。
西国にくだりし時 大内京兆(けいちょう) 筑(築)山にて一座興行のとき、此所のさまをつかふまつるべきよし所望侍りしに
池はうみこずゑはなつのみ山かな
とあります。「西国にくだりし時」とは1480(文明12)年、「大内京兆」とは大内政弘のことです。
また、このときの旅行は『筑紫道記(つくしみちのき)』として書き表されています。
二毛のむかしより六十いまにいたるまで、をろかなる心ひとすちにひかれて、いり江のあしのよしあしにまよひ、身をうき草のうきしづむなげきたえずして、移りゆく夢うつつの中にも、時にしたがふ春秋のあはれ思ひ捨てがたく侍るままに、国々の名ある所見まほしく侍る程に、(略)
左京兆のかぐはしき契ふかうして、(略)文明十二の年水無月のはじめ周防国山口にといふにくだりぬ
今日は長月の六日なれば、彼野の宮の暁に、音な鳴そへそなと侍りしも、おもひ残す事なし。(略)
立出し日より今日まで三十六日にや成侍らん。(略)けふは神無月十二日、山口のやどに帰りて、此たびの日記はしるしとどめ侍る事しかり。
60歳の宗祇が1480(文明12)年9月6日に山口を出て、大宰府・博多をめぐって10月12日に山口にもどる36日間の旅日記です。
碑の裏面。
宗祇は1489(長享3、延徳元年)年5月から7月にかけて再び山口を訪れ、『宗祇山口下着抜句』によると、宗祇を迎え、連歌歌会18回うち殿中で9回連歌会が催されています。
宗匠種玉庵宗祇長享三年(延徳元年)五月八日至山口下着之、同一七日初殿中御会(略)
また、伊勢物語の講釈をして『伊勢物語山口記』を残しています。
1489(永徳元)年、山口で政弘に講じた内容を、ある初心者のために書き与えた注釈書です。宗祇に関連する『伊勢物語』の注釈書は数多く存在しますが、宗祇自身の手によって記された注釈書は本書のみで、延徳年間(1489〜92)に作成されました。
宗祇自身の奥書に、周防国(現在の山口県)滞在中に、初学者を対象として編まれたことが述べられています。
此一冊者 延徳之初之比 防州山口にして此物語之講尺之後 初心之輩所望之間書之 然者形のやうな事共なるへし 於余情者筆舌難及 只任其心耳
宗祇
(『鉄心斎文庫伊勢物語古注釈叢刊』第3巻)
「池は海」の句から、築山館(屋形)には、大規模な池のある庭園があったと考えられてきました。
園池の跡は残っていましたが、この池も江戸時代中頃周囲の築地の土をもって埋めてしまい、現在のようになったといわれています。
『大内家古実類書』巻之二二 築山之事(山口県文書館蔵 多賀社文庫)に
築山旧跡之境内
八拾間四面
と図示し、また、「四方竹藪之事」に天明2・3(1782・3)年頃に敷地内の竹藪を切り開いた土で池を埋め畠としたことや、「泉水之水之手之事」に天花から水を引き大内氏館の堀に流したなどの伝承を記しています。
『防長旧族の館跡古城趾研究』(御薗生翁甫/著 山口県地方史学会 1962)に
天明23年頃恵海僧正の代に四方竹藪なりしを伐り払い、竹藪の土を以て池を埋め、庭石は或いは砕き或いは他に運び、今は八坂神社玉垣の前に少数屹立し、その他湯田の高田園の泉石に転用した。
とあります。
八坂神社 豊後立石
井上(高田)公園 瓢箪池
政弘からさまざまな援助を受け、宗祇は、自らが中心となって、兼載、三条西実隆とともに連歌撰集『新撰菟玖波集(しんせんつくばしゅう)』を編纂します。1495(明応4)年に後土御門(ごつちみかど)天皇から勅撰に准ずるものとして認められました。
政弘75句、教弘7句、持世6句、大内家人(大内氏被官人)数句採られています。
山口県立山口図書館が所蔵する『仮御手鑑』には、大内義隆(1507〜1551)が開催した和歌会短冊が含まれています。
小槻伊治代筆による義隆和歌短冊をはじめとして義隆被官人の45点和歌短冊です。
▲山口県立山口図書館蔵
宗祇が訪れて以来、山口では連歌が大変盛んになりました。「周防山口連歌師」「大内殿内連歌師」の和歌短冊が37点あり、義隆時代の連歌の隆盛を伝えています。
▲山口県立山口図書館蔵
ただ、この「大内連歌師」「大内殿内連歌師」などとよばれた連歌の名手の中には大内氏の家臣が多数含まれていました。
山口県立山口博物館に「宗祇坐像」(安土桃山時代 (慶長期)写)、山口県文書館に「宗祇法師画像」(元文年間写)があります。
山口博物館本は、法体で端坐する座像で、白髭を蓄えた宗祇が、墨染めの衣に袈裟を掛けた姿で、左手に中啓を持ち、上畳に左向きに座しています。
山口県文書館本もよく似ています。
山口博物館本には「宗祇老人肖像」とあり、上部色紙形二枚に、
うつしをくわが影ながら世のうさをしらぬおきなぞうらやまれぬる
世にふるはさらに時雨のやどり哉
年のわたりはゆく人もなし
老の波いくかへりぜばはてならむ
『宗祇集』所載の和歌一首と、『萱草』『新撰菟玖波集』所載の発句、『宗祇終焉記』所載の付句2句(1502(文亀2)年)が書き込まれています。
参考文献:
「山口県文書館所蔵 アーカイブズガイド―学校教育編―」(web版)
「室町文化(連歌)」
『山口市史 史料編 大内文化』(山口市 平成22年3月)
P464〜472『宗祇山口下着抜句』
P496〜497『初編本老葉』
P560〜574『筑紫道記』
P625『伊勢物語山口記』
P938〜944「大内氏遺跡築山跡」
『山口市史 各説篇』(山口市編纂委員会/編 山口市 昭和46年)
P685〜686「築山亭」
『山口市史 通史篇』(山口市編纂委員会/編 山口市 昭和30年)
P101〜105「宗祇の山口来訪」
「宗祇坐像」(山口県立山口博物館蔵)
※山口県立山口博物館の高画質画像ダウンロードで見ることができます
「宗祇法師画像」(山口県文書館蔵 軸物類92)
※山口県文書館のデジタルアーカイブで見ることができます
【次回に続く】