築地と石垣 @ 築山跡@
[2021年06月21日(Mon)]
八坂神社・築山神社境内、料亭菜香亭跡地一帯は大内教弘が造営した別邸築山館(屋形)の跡と伝えられ、1959(昭和34)年11月27日に「大内氏遺跡附凌雲寺跡」の一つとして国の史跡に指定されました
築山館は、大内館の北側にあり、外客接待の迎賓館として使われたとされ、幅 5.4mの堀を巡らし、内側に大きな池を掘り、掘り上げた土で築山を造り林泉の美を誇ったといわれています。
地図。
「築山館址」石碑。
「史跡大内氏遺跡築山跡」石碑。
「築山跡平面図」。
「築山跡」説明板。
史跡(大内氏遺跡附凌雲寺跡)
築山跡
昭和三四年一一月二七日国指定
ここは大内氏二八代教弘が一五世紀中頃に築いたといわれる築山館跡です。築山館は、教弘以後歴代当主の居館となったところです。中世の連歌師宗祇は「池はうみ こずゑは夏の 深山かな」と詠んでおり、この句からかつて豪華であった庭の様子が偲ばれます。
築山館は大内氏滅亡後朽廃しましたが、園池の跡は残っていたといわれています。しかし、この池も江戸時代中頃周囲の築地の土をもって埋めてしまい、現在のようになったといわれています。
江戸時代末の絵図によると、築地の外面は自然石の石垣であったことが伝えられています。
現在指定地内の北西隅に、かぎの手に土塁築地が残っていますが往時の館の規模を示す遺構として重要です。
また、指定地内には八坂神社(元治6年移建)(本殿が国指定重要文化財)と築山神社(明治2年移建)があります。
現在指定地内の北西隅にL字型に残る土塁築地(ついじ)跡は当初の形をとどめているといわれています。
1492(延徳4)年6月の『大内氏掟書』では、築山の築地の上から祇園会の見物を禁止し、築地の上に桟敷(見物席)を構えることを固く禁じています。
▲『群書類従』巻第四百一 武家部二「大内氏壁書」(第501−502冊)(国立国会図書館蔵)
於築山築地之上(、)祇園會(、)其外自然之見物(、)被加制止訖(。)殊御寶殿(、)同鎮守邊(、)諸人群集剰於石築地之上構棧敷事(、)堅固御禁制也(、)m新豊院殿仰之時者(、)従寺家對寺奉行可尋之(。)若此旨有違背之族者(、)可被處厳科之由(、)所被仰出壁書如件(。)
延徳四年壬子(1492年) 六月 日
このことからも、築地があったことが分かります。
江戸時代には、毛利氏当主の代理や町奉行らの祇園会見物のため築地に桟敷が設営されました。
竪小路から見た築地跡。
さて、築山跡は、もともとは大石を積み上げた石垣で周囲を囲われていました。
先程の『大内氏壁書』にある「石築地」という言葉でも分かります。
『大内氏時代山口古図』(山口県文書館蔵 軸物史料218)を見ると、「大内御殿」の西側と南側が石垣で囲んであります。
▲山口ふるさと伝承総合センター前にある地図より
『山口市街古図』(17世紀末成立 山口県文書館蔵 毛利家文庫 58絵図320)には、「上立小路」に沿って石垣があります。
『地下上申絵図』(1728(享保13)年成立 山口県文書館蔵)にも石垣が描かれています。
『行程記』(1746(明和元)年頃成立? 山口県文書館蔵)に西側と北側に石垣が描かれています。
『幕末山口市街図』(1865(慶応元)年〜1868(明治元)年頃 山口県文書館蔵 袋入絵図178)になると、「築山 地方分」にはその石垣はもう見えず、西側に土塁を表すようなものが描いてあります。
江戸末期に毛利氏が長門国萩城から山口城(山口新御屋形)に居城を移したときに大石を運び出し石垣に転用した為、現在の土塁のようになったといいます。
『山口市史 史料編 大内文化』(山口市 平成22)P939〜940に
近藤清石が『山口県地理誌料』(山口県文書館、明治十八年以前)を著す。(略)幕末の藩庁移鎮の際し、築山跡の築地の石を崩し取り、その土をかき上げたものが、現在の築地跡であるとした記述である。現存する土塁状の高まりと、築地の石垣とが結びつく。
とあります。
「築地の石を崩し取り、その土をかき上げた」というのは、2m近くある現在の土塁を見ると、納得がいきます。
『防長古城趾の研究』「第一章 大内氏館趾・築山館趾」(新防長叢書)(御薗生翁甫/著 マツノ書店 1975)P24に、
北に堀の痕跡を残し、西側竪小路に面するところに高い石垣があったのを、香山通り育児園の石垣に転用し、今のは後に築いたのである。
とあります。
山口御屋形の東稜堡の基礎石垣として、今でも香山通りで見ることができます
中には1mを超える石もあります。
参考文献:
『群書類従』巻第四百一 武家部二「大内氏壁書」(第501−502冊)
※国立国会図書館デジタルコレクションでインターネット公開(保護期間満了)されています
『憲法志料』 5篇 巻7(卅六) 築山築地ノ上ニ於テ祇園会其外自然ノ見物制禁
※国立国会図書館デジタルコレクションでインターネット公開(保護期間満了)されています
『山口市史』(山口市 昭和8年)(【復刻版】山口市 マツノ書店 1992年刊)
『山口市史 史料編 大内文化』(山口市 平成22年3月)
P938〜944「大内氏遺跡築山跡」
『大内氏時代山口古図』(山口県文書館蔵)
『地下上申絵図』(山口県文書館蔵 1728)
『行程記』(山口県文書館蔵 1742)
『幕末山口市街図』(山口県文書館蔵)
『防長旧族の館趾古城趾の研究』(御薗生翁甫/著 1962(昭和37))
『防長古城趾の研究』(新防長叢書)(御薗生翁甫/著 マツノ書店 1975)
P19〜25「大内氏館址・築山館址」
【次回に続く】
築山館は、大内館の北側にあり、外客接待の迎賓館として使われたとされ、幅 5.4mの堀を巡らし、内側に大きな池を掘り、掘り上げた土で築山を造り林泉の美を誇ったといわれています。
地図。
「築山館址」石碑。
「史跡大内氏遺跡築山跡」石碑。
「築山跡平面図」。
「築山跡」説明板。
史跡(大内氏遺跡附凌雲寺跡)
築山跡
昭和三四年一一月二七日国指定
ここは大内氏二八代教弘が一五世紀中頃に築いたといわれる築山館跡です。築山館は、教弘以後歴代当主の居館となったところです。中世の連歌師宗祇は「池はうみ こずゑは夏の 深山かな」と詠んでおり、この句からかつて豪華であった庭の様子が偲ばれます。
築山館は大内氏滅亡後朽廃しましたが、園池の跡は残っていたといわれています。しかし、この池も江戸時代中頃周囲の築地の土をもって埋めてしまい、現在のようになったといわれています。
江戸時代末の絵図によると、築地の外面は自然石の石垣であったことが伝えられています。
現在指定地内の北西隅に、かぎの手に土塁築地が残っていますが往時の館の規模を示す遺構として重要です。
また、指定地内には八坂神社(元治6年移建)(本殿が国指定重要文化財)と築山神社(明治2年移建)があります。
現在指定地内の北西隅にL字型に残る土塁築地(ついじ)跡は当初の形をとどめているといわれています。
1492(延徳4)年6月の『大内氏掟書』では、築山の築地の上から祇園会の見物を禁止し、築地の上に桟敷(見物席)を構えることを固く禁じています。
▲『群書類従』巻第四百一 武家部二「大内氏壁書」(第501−502冊)(国立国会図書館蔵)
於築山築地之上(、)祇園會(、)其外自然之見物(、)被加制止訖(。)殊御寶殿(、)同鎮守邊(、)諸人群集剰於石築地之上構棧敷事(、)堅固御禁制也(、)m新豊院殿仰之時者(、)従寺家對寺奉行可尋之(。)若此旨有違背之族者(、)可被處厳科之由(、)所被仰出壁書如件(。)
延徳四年壬子(1492年) 六月 日
このことからも、築地があったことが分かります。
江戸時代には、毛利氏当主の代理や町奉行らの祇園会見物のため築地に桟敷が設営されました。
竪小路から見た築地跡。
さて、築山跡は、もともとは大石を積み上げた石垣で周囲を囲われていました。
先程の『大内氏壁書』にある「石築地」という言葉でも分かります。
『大内氏時代山口古図』(山口県文書館蔵 軸物史料218)を見ると、「大内御殿」の西側と南側が石垣で囲んであります。
▲山口ふるさと伝承総合センター前にある地図より
『山口市街古図』(17世紀末成立 山口県文書館蔵 毛利家文庫 58絵図320)には、「上立小路」に沿って石垣があります。
『地下上申絵図』(1728(享保13)年成立 山口県文書館蔵)にも石垣が描かれています。
『行程記』(1746(明和元)年頃成立? 山口県文書館蔵)に西側と北側に石垣が描かれています。
『幕末山口市街図』(1865(慶応元)年〜1868(明治元)年頃 山口県文書館蔵 袋入絵図178)になると、「築山 地方分」にはその石垣はもう見えず、西側に土塁を表すようなものが描いてあります。
江戸末期に毛利氏が長門国萩城から山口城(山口新御屋形)に居城を移したときに大石を運び出し石垣に転用した為、現在の土塁のようになったといいます。
『山口市史 史料編 大内文化』(山口市 平成22)P939〜940に
近藤清石が『山口県地理誌料』(山口県文書館、明治十八年以前)を著す。(略)幕末の藩庁移鎮の際し、築山跡の築地の石を崩し取り、その土をかき上げたものが、現在の築地跡であるとした記述である。現存する土塁状の高まりと、築地の石垣とが結びつく。
とあります。
「築地の石を崩し取り、その土をかき上げた」というのは、2m近くある現在の土塁を見ると、納得がいきます。
『防長古城趾の研究』「第一章 大内氏館趾・築山館趾」(新防長叢書)(御薗生翁甫/著 マツノ書店 1975)P24に、
北に堀の痕跡を残し、西側竪小路に面するところに高い石垣があったのを、香山通り育児園の石垣に転用し、今のは後に築いたのである。
とあります。
山口御屋形の東稜堡の基礎石垣として、今でも香山通りで見ることができます
中には1mを超える石もあります。
参考文献:
『群書類従』巻第四百一 武家部二「大内氏壁書」(第501−502冊)
※国立国会図書館デジタルコレクションでインターネット公開(保護期間満了)されています
『憲法志料』 5篇 巻7(卅六) 築山築地ノ上ニ於テ祇園会其外自然ノ見物制禁
※国立国会図書館デジタルコレクションでインターネット公開(保護期間満了)されています
『山口市史』(山口市 昭和8年)(【復刻版】山口市 マツノ書店 1992年刊)
『山口市史 史料編 大内文化』(山口市 平成22年3月)
P938〜944「大内氏遺跡築山跡」
『大内氏時代山口古図』(山口県文書館蔵)
『地下上申絵図』(山口県文書館蔵 1728)
『行程記』(山口県文書館蔵 1742)
『幕末山口市街図』(山口県文書館蔵)
『防長旧族の館趾古城趾の研究』(御薗生翁甫/著 1962(昭和37))
『防長古城趾の研究』(新防長叢書)(御薗生翁甫/著 マツノ書店 1975)
P19〜25「大内氏館址・築山館址」
【次回に続く】