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こどもと本ジョイントネット21・山口


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脱隊兵の銃弾の跡 @ 正護寺C [2020年09月06日(Sun)]
【前回の続き】

正護寺の本堂の柱の2箇所に、明治初めの脱隊騒動のときの脱隊兵による鉄砲の弾の跡が残っていますぴかぴか(新しい)
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「脱隊兵駐留所・正護寺」説明板。
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 明治二年(一八六九)から始まる脱隊騒動では、脱隊兵は山口に入って藩庁を囲み、不正の多い上官による選抜を批判する藩に出された弾劾書の要求を通そうとしましたが、翌年、木戸孝允の指揮する常備軍がこれを制圧するため山口に向かって進軍し、小郡口、陶峠、鎧ヶ峠、勝坂などで戦闘が起こりました。陶・鋳銭司を経て三田尻に退却しましたが、再び攻め上がって鎮圧しました。
 正護寺は一時多くの脱隊兵が駐留していて、本堂の柱にはその時の銃弾の跡が残っています。


『写真と思い出でつづる明治・大正・昭和の陶』(陶地域交流センター完成記念事業会/編 陶連合自治会 2016.7)P110には、

明治の初めに、脱隊騒動という戦いがあった時、一時正護寺が脱隊兵の本陣になりました。今も本堂の柱に残っている鉄砲の弾の跡は、その時の脱隊兵がやるせない不満を爆発させ、柱をねらって撃ったものだろうといわれています。

とあります。隊士は農家の次男・三男で故郷に居場所などない人が多く、厳しいリストラに、不満を爆発させたのでしょう。


弾が柱にめり込んでいます。
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黒い弾がはっきりと見えます。
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こちらの跡は、弾が貫通していて、向こう側が見えます。
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『木戸孝允日記』第一「明治三年二月八日」「明治三年二月九日」(妻木忠太編 早川良吉 昭和7)(国立国会図書館蔵)には、反乱軍を討つべく大道寺に本陣を構え、進軍させたことが書かれています。
なお、大道寺は、山口市名田島27にあり、正護寺のある陶の近くです。
木戸孝允日記. 第1 明治三年二月八日 (2).jpeg 木戸孝允日記. 第1 明治三年二月九日 (2).jpeg


脱隊諸士は鎮圧され、首謀者らは捕らえられて、柊刑場で斬首され、井戸に投げられたということです。正護寺に陣を構えていた脱隊兵の中にも斬首された人がいたのでしょうか。
諸隊の残党の探索も執拗に行われました。

柊刑場跡には、1893(明治28)年に建立された脱隊諸士招魂碑があります。合掌。

【脱隊騒動】
 明治維新の動乱も終わりを告げた明治2年(1689)、北越・奥羽・北海道の戦場より、奇兵隊をはじめとする約5千人の兵士が輝かしい戦功を立て、郷土へ凱旋してきました。
 しかし、彼らを待っていたのは厳しい現実でした。今まで費やした膨大な軍費により、山口藩政府の財政状況は逼迫していました。同年11月25日、藩政府は帰州した兵士の中から2250人を精選し常備軍を編隊。残りを解散させるという兵制改革に着手します。
 命を賭して国事に尽くしたにもかかわらず、精選から漏れた兵士たち。その半数は農家出身の次男、三男でした。彼らは帰農したところで耕す田畑もなければ、生活の保障もありません。
 改革に反対した兵士たちは、それぞれの陣営を脱走し、宮市(防府市)に集結します。その後も各地から同志が集まり、やがてその数は2千人にふくれ上がりました。中には常備軍に精選されたにもかかわらず、脱隊兵団に加わった兵士の姿もありました。
 不満に火が付いた彼らは武装し、小郡、勝坂、徳地など、各地に砲台や土塁を築き、戦闘準備を整えます。また、藩政府に対して、諸隊幹部の乱脈を衝いた弾劾書や、賞典、給与等に対する要求を記した嘆願書を突き付けます。
 翌明治3年(1870)1月24日、脱隊兵は山口藩庁を囲み、要求を貫くため、強硬手段に出ます。
こうした状況の中、昨年末より帰藩していた木戸孝允は、杉孫七郎らと共に武力討伐を決意。同年2月9日早暁、脱隊兵と、それに対する豊浦、徳山、岩国藩を主とした常備軍との軍で戦闘が開始され、陶峠、鎧ヶ峠、柳井田、勝坂などは激戦地となりました。
 昨日までは味方であった者が、今日は一転、敵に変わったこの戦い。百戦錬磨の脱隊兵も常備軍によって次第に追いつめられ、やがて投降、鎮圧されます。捕らえられた首謀者たちへの処分は厳しく、班内各地での刑死者は130余名を数え、ここ柊の地でも多くの兵士が処罰されました。

(脱隊諸士招魂碑傍に平成25年8月に大内倶楽部により立てられた「長州諸隊の反乱「脱隊騒動」」パネルより抜粋)


【次回に続く】
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