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こどもと本ジョイントネット21・山口


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北川清助 @ 正護寺A [2020年09月04日(Fri)]
前回の続き

正護寺は、平安時代・南北朝時代・江戸時代・明治維新などの遺跡があり、見どころ満載のお寺です。
昨年、正護寺を訪ねた時、北川清助(きたがわせいすけ)の墓をお参りすることができなかったので、今日はお寺の方に場所を聞いて行ってみましたぴかぴか(新しい)

北川清助
文政九年(一八二六)〜明治三五年(一九〇二)。大島郡の貧家に生まれ、幼時陶村の北川家に養われ、その姓を継いだ。少年時代から武技を好み、特に西洋砲術や大砲製造法に通じていた。小郡代官所に勤め、文久年中諸隊を組織して訓練し、福田口に設立された鉄砲製造所の監督を命じられ、農兵頭取を兼ねた。維新後は陶村に居住し農業立国を理想とし、養蚕を奨励したり、また鶏を一千羽飼ったり、あるいは秋穂の竹島に山羊を放牧するなど、当時としては破天荒な近代的多角的農業経営を提唱し、自ら実践したが、その多くは時期尚早のため失敗し、晩年は不遇のうちに過ごした。

(『山口市史』(山口市史編集委員会/編 山口市 昭和57.12)「人物」P808〜9)

山門前の畦道を進んで行くと、墓地の一角に
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北川清助墓所があります。
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墓の後ろには、功績石碑が建っていました。
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自動車道から見るとこんな感じです。
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道路に「北川代官墓所」説明板が建っています。
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小郡宰判(江戸時代の郡役所)の最後の代官、北川清助の墓がこの後にある。
北川代官の屋敷跡は西陶にある。
当時の代官の家は、三階建の桧造りのりっぱな建物で、長い石垣をめぐらして、見晴らしもよかったと伝えられている。
今ではただ石垣と井戸だけが残っている。
北川清助は、文政9年(1862)に大島郡で生まれ、天保9年に陶の士族の北川半右衛門の養子になった
幼児から学問や、武芸に励み、当時は珍しかった西洋の砲術にもすぐれていた。慶応元年(1865)から明治2年までの5年間、小郡宰判の代官として、幕末から明治維新にかけての動乱の時代に大変りっぱな政治をして、人々のために働いた。
その功績により、毛利公から陣羽織や、おほめの沙汰書をたまわった。
陣羽織や沙汰書は正護寺に保存されている。



『木戸孝允日記』第一「明治元年五月八日」(妻木忠太編 早川良吉 昭和7)(国立国会図書館蔵)に「北川清助」等小郡の人が木戸孝允を訪ねて来たことが書いてあります。
木戸孝允日記. 第1 明治元年五月八日 (2).jpeg

同月八日 晴朝 北川清助 寺島□□□□等来る (略)等も亦来る 語已往談将来 小郡之人依舊而懇切 余不忘其厚也 三條 西三條 東久世三卿の短冊を諸子に分與す

「已往(《いおう》往時)を語り将来を談ず。小郡の人は依旧(昔のまま)でしかも懇切である。余はその厚(《こう》心づかいがねんごろ)を忘れざるなり。三條、西三條、東久世三卿の短冊を諸子(みんな)に分与す。」という趣旨のことが書いてあります。


西側の入口に「北川清助の墓」説明板があります。
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  北川清助の墓・正護寺
 北川清助は、文政九年(一八二六)、大島郡で生まれ、幼い時に陶の北川家に養われ、その姓を継ました。小郡代官所に勤め、文久三年(一八六三)、半が小郡の福田口に鉄砲製造所を設置するに当たり、その監督者となっています。元治元年(一八六四)から明治二年(一八六九)の間、代官であったこともあります。
 慶応元年(一八六五)の内訌戦においては、金穀諸隊の要請を入れて金穀援助し、また管内の庄屋・郷士と協力して軍夫を集めるなど諸隊を助け、大田絵堂の戦いで諸隊を勝利に導きました。明治三年脱隊騒動では小郡が戦乱の中心となり、この鎮圧に努力しました。同四年に官職を退きましたが、同十年の西南戦争の時には志願して軍夫を率い従軍しました。その後は陶の地に住んで官途につかず、ひたすら農業経営の改善に努力し、同三十五年に亡くなりました。



毛利公から賜った陣羽織や、おほめの沙汰書が正護寺にあるということですので、ぜひ、次回は見せていただきたい、と思います揺れるハート


【次回に続く】
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