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こどもと本ジョイントネット21・山口


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馬島と『酒中日記』 @ 国木田独歩の足跡を訪ねてI [2020年08月27日(Thu)]
【前回の続き】

柳井から国道188号を通って山口に帰りました。

国木田独歩詩碑ぴかぴか(新しい)
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「国木田独歩の詩碑」説明板。
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   国木田独歩の詩碑
 この詩碑は、昭和二十六年(一九五一)十一月三日文化の日に独歩顕彰会の有志によって建立されたものである。
 独歩は、明治四年(一八七一)七月十五日 国木田専八の子として千葉県銚子市にて出生した。幼名は亀吉、独歩は筆名である。
 明治九年、父が職を山口裁判所に奉ずるに及んで、一家は山口・萩・広島・岩国などへ転居した。十九歳のとき、哲夫と改名する。
 明治二十四年、二十一歳のとき東京専門学校を退学し、一家の居住する麻郷村(現 田布施町)に帰り、吉見家に寄寓し修養に努めると共に多感重厚な詩情を培った。
 また、隣村の麻里府の浅海家に仮寓し、近くの石崎家にしばしば出かけ、初恋の人、石崎トミと出会う。そしてこれらを背景にした「酒中日記」「帰去来」「悪魔」など多くの作品を残している。
  
  なつかしき わが故郷(ふるさと)は何処(いずく)ぞや
  彼処(かしこ)に われは山林の児(こ)なりき
  顧(かえり)みれば 千里紅山(こうざん)
  自由の郷(さと)は雲底(うんてい)に没せんとす
    「山林に自由存す」より

 明治四十一年六月二十三日、神奈川県茅ヶ崎にて逝去する。
 享年 三十八歳
        田布施町教育委員会



詩碑は、以前は麻里府海岸にあったようですが、今は、田布施町麻里府公民館の敷地にあります。
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馬島ぴかぴか(新しい)
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 馬島は、田布施町の麻里府海岸から、南の海上1kmに浮かぶ、面積0.7平方キロメートル、周囲5.8km、人口約50人の小島で、瀬戸内海国立公園の島々のひとつです。
〜島名の由来〜
 昔、周防の国(現在の山口県東部)の島々では、さかんに馬牧・牛牧が行われていたようで、古い文献にそのことが記されています。
 馬島と隣の佐合島(平生町)は、今よりずっと接近しており、一様に「馬かい島」と呼ばれていました。しかし、地殻変動によって距離が離れ、やがて佐合島に人が住み着き、馬島だけに馬牧場が残りました。そして、いつしか「馬かい島」が訛って「馬島」になったと推察されています。
田布施町HP「馬島はどんなところ」より抜粋)

(略)馬島はその田布施町に属し、東隣の平生町との境を流れる田布施川の河口にある麻里府港から南へ1.5kmの海上に浮かぶ。
平安時代に馬の放牧地として利用されていたことから“馬飼い島”と呼ばれ、後に馬島となった。文治2年(1186)以降に本格的に開拓が始められ水軍の拠点になっていたこともある。
日本の島へ行こうHP「馬島」より抜粋)


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馬島は、独歩が仮寓していた麻里府浅海家や、しばしば出かけた近くの石崎家から、その美観を一眸することができたそうです。

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独歩は『欺かざるの記』「明治二十七年十二月二十一日」に次のような句を詠んでいます。

馬島にて
 嶋蔭や時雨れて落ちし三日の月



『明治廿四年日記』の「五月」に馬島辺りで遊んだことが記されています。

日曜十日 此の日はめばる釣に連(行)く可しとの事故、父及余と弟と三人午前八時前より外出、某所に舟に乗じ馬島辺を終日遊び暮す日全くくれて帰宅、同伴者ハ余等の外に船頭共に四人あり凡て七人なり、めま(ば)る釣と称すれども舟遊なりめばるは殆んど釣らず薄暮少しつりたり

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馬島は、1902(明治35)年に雑誌『文芸界』11月号に発表され、1906(明治39)年3月に東京の出版社左久良書房から出版された短篇集『運命』に収めらた小説『酒中日記』の舞台です。
『少年の悲哀』や『帰去来』のように美しい瀬戸内の情景が描かれてはいませんが、東京という場所、教師(校長)という職務、「家」という制度に対する「ユートピア」として描かれています。

馬島で私塾を開き、気楽な生活を送る大河今蔵が書いた「日記」、そこには、五年前の不幸で悲惨な出来事が綴られていて、それを読んで公開した記者の「付記」から構成されています。

五月三日(明治三十〇年)
「あの男はどうなったかしら」との噂、よく有ることで、四五人集って以前の話が出ると、消えて去(な)くなった者の身の上に、ツイ話が移るものである。
 この大河今蔵、恐らく今時分やはり同じように噂せられているかも知れない。
(略)
まさかこの小ちっぽけな島、馬島という島、人口百二十三の一人となって、二十人あるなしの小供を対手(あいて)に、やはり例の教員、然し今度は私塾なり、アイウエオを教えているという事は御存知あるまい。無いのが当然で、かく申す自分すら、自分の身が流れ流れて思いもかけぬこの島でこんな暮(くらし)を為るとは夢にも思わなかったこと。
(略)
「いったいこの男はどうしたのだろう、五年見ない間(ま)に全然(すっかり)気象まで変って了(しま)った」──。
(略)
ああ今は気楽である。この島や島人しまびとはすっかり自分の気に入って了った。瀬戸内にこんな島があって、自分のような男を、ともかくも呑気に過さしてくれるかと思うと、正にこれ夢物語の一章一節、と言いたくなる。
(略)

五月六日
(略)
 さても気楽な教員。酒を飲うが歌おうが、お露を可愛いがって抱いて寝ようが、それで先生の資格なしとやかましく言う者はこの島に一人もない。
 特別に自分を尊敬も為(し)ない代りに、魚(うお)あれば魚、野菜あれば野菜、誰が持て来たとも知れず台所に投(ほう)りこんである。一升徳利をぶらさげて先生、憚(はばか)りながら地酒では御座らぬ、お露の酌で飲んでみさっせと縁先へ置いて去(い)く老人もある。
 ああ気楽だ、自由だ。
(略)
自然生(じねんじょ)の三吉が文句じゃないが、今となりては、外に望は何もない、光栄ある歴史もなければ国家の干城たる軍人も居ないこの島。この島に生れてこの島に死し、死してはあの、そら今風が鳴っている山陰の静かな墓場に眠る人々の仲間入りして、この島の土となりたいばかり。
 お露を妻(かか)に持って島の者にならっせ、お前さん一人、遊んでいても島の者が一生養なって上げまさ、と六兵衛が言ってくれた時、嬉しいやら情けないやらで泣きたかった。
(略)


お露は児のために生き、児は島人(しまびと)の何人(なんぴと)にも抱(いだ)かれ、大河はその望むところを達して島の奥、森蔭暗き墓場に眠るを得たり。



主人公の大河今蔵は、小川今蔵の名前を拝借しています。
お露は、『帰去来』の露子と同様に、石崎家の長女「しも」がモデルだといわれています。

お露は美人ならねどもその眼に人を動かす力あふれ、小柄こづくりなれども強健なる体格を具そなえ、島の若者多くは心ひそかにこれを得んものと互に争いいたる


独歩は『予が作品と事実』に次のように記しています。

  ◎酒中日記(「運命」に在り)
はチヨツとしたことヒントが基になつた作物(さくぶつ)で、此一編に記述せる事は悉く余の作(こしら)へた事である。主人公の小学校々長に似た実在人物及び小学校新築という事実に触れて、それが基となり余の想が出来たので、実際の小学校々長は今も健在である。校舎は早く落成して今は多数の児童を収容して居る。


また、『病床録』「第四 芸術観 余の作品にモデルなきはなし」で、自己の心理体験を表現したものと言っています。
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『病床録』(国立国会図書館蔵)

『酒中日記』にモデルあるは勿論なり。余の作品にしてモデルなきは殆んど無し。嘗て緊迫して原宿にありける際、彼の主人公の如き小学校教師を知れり。酒屋の隠居、学校の改築寄附金募集総て事実なり。唯余はこの小学校の性格に配する半ば自己の性格を以つてせり。
 作中金を拾ふ條下を描ける動機は、その前、霞が岡に逼塞せる頃の実歴譚なり。一夜金策尽きつ茫然として青山の原を家に帰へる時、偶と心頭に逢着せる問題は、今茲に数百金容れたる財布を拾ひ得ならば、今の余は如何に処すべきかの問題なりき。拾得して私かに消散するべきか、将た落したる人を尋ねて返すべきか、余は事実その二途に迷はざるを得ざりき。今にして想へば何んでも無き造作なきその些事が問題なりしなり。隠せ、返せ、と云ふその二つの私が声に迷はされて、余は実際その金を手にせるが如く心迷ひたり。余はそれを正直に描けるのみ。
『酒中日記』を書きたるは、その後鎌倉に寓居して、少し生活の余裕を見出る頃なり。窮迫当時は却って、『帰去来』『小春』の如きものを製作せり。



また、『帰去来』にも馬島が出て来ます。

同村の中に編入して有る馬島、麻里布(府)の岸から数丁を隔つる一小島で住民の七分の已(すで)に釜山仁川に住居して、今は空屋に留守居のみ住んで居る次第である。

馬島の其西端は磯より数十軒の間近に其翠松の枝を翳(かざ)し、


馬島に渡ってみたくなりました。
「国木田独歩の詩碑」のある田布施町麻里府公民館の近くの麻里府港渡船場から渡船「ましま丸」に乗って約8分で着くそうです。
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