長門国一宮 住吉神社に行きましたC本殿
[2020年08月03日(Mon)]
【前回の続き】
長門一の宮・住吉神社は、福岡県の住吉神社、大阪府の住吉大社と並び「日本三大住吉」に数えられます。
本殿。
九間社流造、正面五ヵ所千鳥破風附、檜皮葺
附 玉殿 五基
棟札 四枚
応安三年(一三七〇)長門国守護大内弘世が再建、以後、何度も修理が施されていますが、再建当時の室町初期の神社建築形式をよく留めています。
祭神を祭る本殿は、一間社流造の五つの社殿を相の間(あいのま)で連結し九間社流造の形式を採っていますが、正面に千鳥破風が設けられ、流造としては異例です。身舎(もや)側面は一間で、正面には浜床(はまゆか)および浜縁(はまえん)が取りついています。
また、組物、軒廻り、蟇股(一部後補)などの構造意匠は非常にまとまりがよく、優れています。
桁行22.8m、梁間4.6mあります。
五つの社殿の各正面には、千鳥破風という小さい屋根がつけてあります。
千鳥破風とは、屋根の流れ面に設けた三角形の破風のことをいいます。
各社殿内には玉殿があり、五基とも同一意匠で、本殿の建築と同時代のものと思われ貴重だそうです。また内部の板壁には、彩色された絵が施されています。
2010年11月2日から8日、極彩色の板絵が施された社殿内部と玉殿が公開されました。その時の写真を見ると、玉殿の左右と背面施された板絵には、弓矢を持った武将などの人物画、竹やぶを飛ぶスズメなどの風景画が精密な筆致で描かれています。
玉殿は櫓皮ぶき入母屋造で、御神体を奉安しています。
西の第一殿に表筒男命・中筒男命・底筒男命(住吉大神)の荒魂を主神として祀り、
西の第二殿に応神天皇、
▲「古画類聚 後集 古画 人形服章 肖像1 応神天皇像」(松平定信/編 寛政7年(1795))(原本:応神天皇像(河内国誉田八幡旧蔵))(東京国立博物館蔵)
中の第三殿に武内宿禰命、
▲『武者かゞみ 一名人相合 南伝二』「武内宿禰」(一猛斎芳虎/画 山庄 〔安政6〕)(『慶応頃錦絵帖』より)(国立国会図書館蔵)
東の第四殿に神功皇后、
▲『武者かゞみ 一名人相合 南伝二』「神功皇后」(一猛斎芳虎/画 山庄 〔安政6〕)(『慶応頃錦絵帖』より)(国立国会図書館蔵)
東の第五殿に建御名方命を配祀します。
祭神については、『住吉開基造営等之覚書』は「応神天皇・武内宿祢・神功皇后は、聖務天皇の神亀年中、筑紫の宇美から勧請。建御名方命は後世に奉祭」、
▲宇美八幡宮(福岡県糟屋郡宇美町)
『長門国一宮略記』には、「応神天皇・神功皇后は、聖務天皇の神亀年中。武内宿祢・建御名方命は、朱雀天皇の承平年中の奉祭」、『長門国志』は「応神天皇・神功皇后は、聖務天皇の神亀年中、筑前より勧請。武内宿祢・建御名方命は、勧請年不詳。」
『日本書紀』巻第九「氣長足姬尊 ~功皇后」によれば、三韓征伐の際、新羅に向かう神功皇后に住吉三神(住吉大神)が「和魂服王身而守壽命、荒魂爲先鋒而導師船(和魂は玉身に服いて寿命を守り、荒魂は先鋒となりて師船を導かん)」と神託してその渡海を守護し、
▲『日本書紀』巻第九「気長足姫尊 神功皇后」(国立国会図書館蔵)
帰途、三神が「我荒魂、令祭於穴門山田邑也(我荒魂は穴門の山田邑に祀れ)」と再び神託し、穴門直践立(あなとのあたえほんだち)を荒魂を祀る神主として、「祠立於穴門山田邑(社を穴門(長門)の山田邑に建てた)」のを起源としています。
▲『日本書紀』巻第九「気長足姫尊 神功皇后」(国立国会図書館蔵)
他方、和魂を祀ったのが摂津国一宮の住吉大社です。
927(延長5)年成立の『延喜式』巻10「神名帳」では「長門国」「豊浦郡」に「住吉坐荒御魂神社三座 並名神大」と記載され、三座が名神大社に列しています。
▲『延喜式』巻十 神祇十(藤原時平他)(日本古典全集刊行会 昭和4)(国立国会図書館蔵)
天安3(859)年1月27日、「住吉荒魂神」の神位が従五位下から従五位上になったことが、『日本三代実録』にみえます。その後も、貞観17(875)年10月8日、従五位上から正五位下 (「住吉荒御影神」『日本三代実録』)、貞観17(875)年12月5日、従四位下から従四位上 (「住吉荒魂神」『同』)、仁和2(886)年11月14日、従四位上から正四位下 (「住吉荒魂神」『同』)に進められています。
寛平3(891)年8月21日、「住吉荒御魂神」の神位が正四位下から正四位上になったことが『日本紀略』にみえます。
普通、社殿は中央に第一祭神を祀るのですが、ここ住吉神社では左端に第一祭神の住吉三神が祀ってあります。1370年建立の現在の社殿は南面していますが、それ以前は第一殿の場所に社があり、西の方(新羅の方)を向いており、そこまで、海が迫っていたそうです。(神職の方のお話)
蟇股の大内菱ですが、2つあり、東端の第五殿(前回紹介済)と西端の第一殿のところにあります。
参考文献:
『山口市史 史料編 大内文化』(山口市 2010)
P659〜63「住吉神社」
P115〜19「長門国守護代記」
『武者かゞみ 一名人相合 南伝二』(一猛斎芳虎/画 山庄 〔安政6〕)(『慶応頃錦絵帖』より)
『延喜式』巻9・10「神名帳」
『日本書紀』
※以上3点は国立国会図書館デジタルコレクションでインターネット公開されています
『古画類聚 図版篇』後集
※東京国立博物館の研究情報アーカイブズでインターネット公開しています。
長門一の宮・住吉神社は、福岡県の住吉神社、大阪府の住吉大社と並び「日本三大住吉」に数えられます。
本殿。
九間社流造、正面五ヵ所千鳥破風附、檜皮葺
附 玉殿 五基
棟札 四枚
応安三年(一三七〇)長門国守護大内弘世が再建、以後、何度も修理が施されていますが、再建当時の室町初期の神社建築形式をよく留めています。
祭神を祭る本殿は、一間社流造の五つの社殿を相の間(あいのま)で連結し九間社流造の形式を採っていますが、正面に千鳥破風が設けられ、流造としては異例です。身舎(もや)側面は一間で、正面には浜床(はまゆか)および浜縁(はまえん)が取りついています。
また、組物、軒廻り、蟇股(一部後補)などの構造意匠は非常にまとまりがよく、優れています。
桁行22.8m、梁間4.6mあります。
五つの社殿の各正面には、千鳥破風という小さい屋根がつけてあります。
千鳥破風とは、屋根の流れ面に設けた三角形の破風のことをいいます。
各社殿内には玉殿があり、五基とも同一意匠で、本殿の建築と同時代のものと思われ貴重だそうです。また内部の板壁には、彩色された絵が施されています。
2010年11月2日から8日、極彩色の板絵が施された社殿内部と玉殿が公開されました。その時の写真を見ると、玉殿の左右と背面施された板絵には、弓矢を持った武将などの人物画、竹やぶを飛ぶスズメなどの風景画が精密な筆致で描かれています。
玉殿は櫓皮ぶき入母屋造で、御神体を奉安しています。
西の第一殿に表筒男命・中筒男命・底筒男命(住吉大神)の荒魂を主神として祀り、
西の第二殿に応神天皇、
▲「古画類聚 後集 古画 人形服章 肖像1 応神天皇像」(松平定信/編 寛政7年(1795))(原本:応神天皇像(河内国誉田八幡旧蔵))(東京国立博物館蔵)
中の第三殿に武内宿禰命、
▲『武者かゞみ 一名人相合 南伝二』「武内宿禰」(一猛斎芳虎/画 山庄 〔安政6〕)(『慶応頃錦絵帖』より)(国立国会図書館蔵)
東の第四殿に神功皇后、
▲『武者かゞみ 一名人相合 南伝二』「神功皇后」(一猛斎芳虎/画 山庄 〔安政6〕)(『慶応頃錦絵帖』より)(国立国会図書館蔵)
東の第五殿に建御名方命を配祀します。
祭神については、『住吉開基造営等之覚書』は「応神天皇・武内宿祢・神功皇后は、聖務天皇の神亀年中、筑紫の宇美から勧請。建御名方命は後世に奉祭」、
▲宇美八幡宮(福岡県糟屋郡宇美町)
『長門国一宮略記』には、「応神天皇・神功皇后は、聖務天皇の神亀年中。武内宿祢・建御名方命は、朱雀天皇の承平年中の奉祭」、『長門国志』は「応神天皇・神功皇后は、聖務天皇の神亀年中、筑前より勧請。武内宿祢・建御名方命は、勧請年不詳。」
『日本書紀』巻第九「氣長足姬尊 ~功皇后」によれば、三韓征伐の際、新羅に向かう神功皇后に住吉三神(住吉大神)が「和魂服王身而守壽命、荒魂爲先鋒而導師船(和魂は玉身に服いて寿命を守り、荒魂は先鋒となりて師船を導かん)」と神託してその渡海を守護し、
▲『日本書紀』巻第九「気長足姫尊 神功皇后」(国立国会図書館蔵)
帰途、三神が「我荒魂、令祭於穴門山田邑也(我荒魂は穴門の山田邑に祀れ)」と再び神託し、穴門直践立(あなとのあたえほんだち)を荒魂を祀る神主として、「祠立於穴門山田邑(社を穴門(長門)の山田邑に建てた)」のを起源としています。
▲『日本書紀』巻第九「気長足姫尊 神功皇后」(国立国会図書館蔵)
他方、和魂を祀ったのが摂津国一宮の住吉大社です。
927(延長5)年成立の『延喜式』巻10「神名帳」では「長門国」「豊浦郡」に「住吉坐荒御魂神社三座 並名神大」と記載され、三座が名神大社に列しています。
▲『延喜式』巻十 神祇十(藤原時平他)(日本古典全集刊行会 昭和4)(国立国会図書館蔵)
天安3(859)年1月27日、「住吉荒魂神」の神位が従五位下から従五位上になったことが、『日本三代実録』にみえます。その後も、貞観17(875)年10月8日、従五位上から正五位下 (「住吉荒御影神」『日本三代実録』)、貞観17(875)年12月5日、従四位下から従四位上 (「住吉荒魂神」『同』)、仁和2(886)年11月14日、従四位上から正四位下 (「住吉荒魂神」『同』)に進められています。
寛平3(891)年8月21日、「住吉荒御魂神」の神位が正四位下から正四位上になったことが『日本紀略』にみえます。
普通、社殿は中央に第一祭神を祀るのですが、ここ住吉神社では左端に第一祭神の住吉三神が祀ってあります。1370年建立の現在の社殿は南面していますが、それ以前は第一殿の場所に社があり、西の方(新羅の方)を向いており、そこまで、海が迫っていたそうです。(神職の方のお話)
蟇股の大内菱ですが、2つあり、東端の第五殿(前回紹介済)と西端の第一殿のところにあります。
参考文献:
『山口市史 史料編 大内文化』(山口市 2010)
P659〜63「住吉神社」
P115〜19「長門国守護代記」
『武者かゞみ 一名人相合 南伝二』(一猛斎芳虎/画 山庄 〔安政6〕)(『慶応頃錦絵帖』より)
『延喜式』巻9・10「神名帳」
『日本書紀』
※以上3点は国立国会図書館デジタルコレクションでインターネット公開されています
『古画類聚 図版篇』後集
※東京国立博物館の研究情報アーカイブズでインターネット公開しています。