平子重経の宝篋印塔 @ 源久寺に行きましたA
[2020年07月18日(Sat)]
【前回の続き】
オオガハスも今日の目的の一つだったのですが、山口県内では最も古く最も美しいといわれている「源久寺宝篋印塔」を見るのが第一目的です
源久寺宝篋印塔は、ハスに囲まれた一角にありました
「源久寺宝篋印塔」案内板。
山口県指定有形文化財
源久寺宝篋印塔
指定年月日 昭和四十八年十月十九日
所在地 山口市仁保下郷二九一三番地
この宝篋印塔は平子重経の墓と伝えられており、鎌倉時代の特徴がよく出ている塔である。基礎の反花は複弁の中に、さらに隆起をつくり深い線を彫り、おだやかな美しさを示す。笠の隅飾は二弧で外線は軒に直立していて古風である。年号などの刻銘はないが、鎌倉後期の形式がよく現われている優秀なものである。
平子重経は源頼朝に仕え戦功によりこの地方仁保・深野など六ヶ荘をたまわり、地頭として建久八年(一一九七)に周防へ下向し仁保に居館を構えた。正治元年(一一九九)に頼朝の霊碑安置所として源久寺を建立し、源氏の繁昌長久の祈念道場とし、かつ平子家の菩提寺とした。重経は領内をよく治め二十八年間地頭として威名を四隣に示したが、元仁元年(一二二四)に没した。平子氏は後に仁保氏または三浦氏を称し、大内家、毛利家に仕えた。
凝灰岩製で、総高163cm、基壇を加えると215cmの高さとなります。
最上部の相輪は、宝珠、請花(うけばな)、九段の九輪(宝輪)、請花、伏鉢で、上方の九輪目と線刻の請花・宝珠は新補です。
高さは欠失部を除いて44cm。
笠は軒で58cm角、高さ42cm。
笠の四隅の突起は隅飾(すみかざり)と呼ばれ、二弧輪郭付で、外線は軒に対して直立していいます。
笠の段型は下端は二段、上端は六段ですが、下から上へと高さを逓減しています。
塔身は、30cm角、高さ33cm。
四面とも仏像や梵字など全くない無地です。
基礎は56cm角、高さは反花の上端まで43cm。
基礎上部には反花があります。反花は背が高く、複弁反花で、その中にさらに隆起をつくったていねいなやり方で、深い線で彫り穏やかな美しさを示しています。
基礎は四面とも枠も刻してない素面です。
基壇は塔と同じ凝灰岩で、切石を積んで二段としています。
下方の分は94cm角、高さ27cm。上方は73cm角、高さ25cm。
平子重経の宝篋印塔の後ろには、宝篋印塔や五輪塔が集められています。
周防国仁保荘の地頭であった平子氏(後に仁保氏と称す)には古文書が伝わっています。
平子氏は、系図では桓武平氏三浦氏を始祖としており、相模平子を本拠として平子(たいら
ご)氏と名乗り、鎌倉時代は西遷御家人、室町・戦国時代は守護大名大内氏の家臣、さらに江戸時代は萩藩士として毛利家に仕えました。
江戸時代には三浦を名乗っているので、この文書を三浦家文書といいます。
文書は、守護大内氏に従い、さらに毛利氏に従って活躍する室町・戦国時代のものが中心を占めており、現在山口県文書館に寄託されています。
三浦家は桓武平氏の流れで、建久8年重経の時、鎌倉幕府により周防国仁保庄および恒富保の地頭に任じられて以来、仁保を根拠として活動した名族。時によって平・平子・仁保とも称した。江戸時代には萩藩大組士として活動した。
中世の武家としての活動を示す平子氏本領相伝重書案以下158点と系図、三浦末家の文書23点は『大日本古文書 家わけ14 熊谷・三浦・平賀文書』(東大史料編纂所 1937)に収録されている。その他、江戸時代の萩藩士としての活動に係る文書で構成される。(山口県文書館「三浦家文書」より抜粋)
「建久八年二月廿四日」(1197)に「前右大将家」(源頼朝)が平重経を「周防国恒富保并仁保荘」の「地頭」に「補任」した ことを現地の「住人」に伝えた文書もあります。
「長門守護代等連署奉書」というのがあり「盛見 盛郷二阿武郡紫福郷内ノ知行ヲ充行(あてが)フ」という内容の文書もあります。
源久寺は、宝篋印塔の他、重要文化財1点、県指定文化財2点を所蔵しています。
文化財案内板。
絹本着色仁保弘有像
掛幅装で、寸法は縦76cm、横39cm。
侍烏帽子に素襖(すおう)を着し、上畳に座した仁保弘有の像である。上方に天与清啓の賛があり寛正六年(1465)の制作と知れる。画像の筆者は不明であるが、雪舟筆ではないかといわれている。1465年は弘有の没前34年にあたり、弘有の生前の姿であり貴重である。
弘有は、鎌倉時代に仁保地頭職として補任されて来た平子重経の後裔で、応仁の乱には大内政弘に従って上京し、大いに軍功があった。1499年に没した。
賛を書いた天与清啓は建仁寺の91世、1463年幕府から遣明船の正使を命ぜられ、翌年周防に来ている。そして雪舟らと共に入明している。漢詩文に優れていた。
(山口県文化財HP「絹本着色仁保弘有像」より抜粋)
国指定重要文化財「絹本著色陶弘護像」(龍豊寺蔵 周南市美術博物館寄託)というのがあり、こちらも雪舟とも親交の深かった以参周省が弘護の生涯をつづった賛を添えていることから、雪舟の作ではないかといわれています。写真で見る限り、二作品はよく似ているので、どちらも雪舟の作と思いたいです。
写真をアップできないのが残念ですが、興味のある方はチェックしてみてください。
参考文献:
『仁保の郷土史』 (仁保の郷土史編纂委員会/編 仁保の郷土史刊行会 1987)
P73〜126
『大日本古文書 家わけ14 三浦家文書』(東大史料編纂所 1937)
『山口県史 史料編中世3』(2004)
「山口県文書館所蔵 アーカイブズガイド ―学校教育編―」(web版)
「鎌倉幕府の始まり」
武士の生活(女性の地頭)
オオガハスも今日の目的の一つだったのですが、山口県内では最も古く最も美しいといわれている「源久寺宝篋印塔」を見るのが第一目的です
源久寺宝篋印塔は、ハスに囲まれた一角にありました
「源久寺宝篋印塔」案内板。
山口県指定有形文化財
源久寺宝篋印塔
指定年月日 昭和四十八年十月十九日
所在地 山口市仁保下郷二九一三番地
この宝篋印塔は平子重経の墓と伝えられており、鎌倉時代の特徴がよく出ている塔である。基礎の反花は複弁の中に、さらに隆起をつくり深い線を彫り、おだやかな美しさを示す。笠の隅飾は二弧で外線は軒に直立していて古風である。年号などの刻銘はないが、鎌倉後期の形式がよく現われている優秀なものである。
平子重経は源頼朝に仕え戦功によりこの地方仁保・深野など六ヶ荘をたまわり、地頭として建久八年(一一九七)に周防へ下向し仁保に居館を構えた。正治元年(一一九九)に頼朝の霊碑安置所として源久寺を建立し、源氏の繁昌長久の祈念道場とし、かつ平子家の菩提寺とした。重経は領内をよく治め二十八年間地頭として威名を四隣に示したが、元仁元年(一二二四)に没した。平子氏は後に仁保氏または三浦氏を称し、大内家、毛利家に仕えた。
凝灰岩製で、総高163cm、基壇を加えると215cmの高さとなります。
最上部の相輪は、宝珠、請花(うけばな)、九段の九輪(宝輪)、請花、伏鉢で、上方の九輪目と線刻の請花・宝珠は新補です。
高さは欠失部を除いて44cm。
笠は軒で58cm角、高さ42cm。
笠の四隅の突起は隅飾(すみかざり)と呼ばれ、二弧輪郭付で、外線は軒に対して直立していいます。
笠の段型は下端は二段、上端は六段ですが、下から上へと高さを逓減しています。
塔身は、30cm角、高さ33cm。
四面とも仏像や梵字など全くない無地です。
基礎は56cm角、高さは反花の上端まで43cm。
基礎上部には反花があります。反花は背が高く、複弁反花で、その中にさらに隆起をつくったていねいなやり方で、深い線で彫り穏やかな美しさを示しています。
基礎は四面とも枠も刻してない素面です。
基壇は塔と同じ凝灰岩で、切石を積んで二段としています。
下方の分は94cm角、高さ27cm。上方は73cm角、高さ25cm。
平子重経の宝篋印塔の後ろには、宝篋印塔や五輪塔が集められています。
周防国仁保荘の地頭であった平子氏(後に仁保氏と称す)には古文書が伝わっています。
平子氏は、系図では桓武平氏三浦氏を始祖としており、相模平子を本拠として平子(たいら
ご)氏と名乗り、鎌倉時代は西遷御家人、室町・戦国時代は守護大名大内氏の家臣、さらに江戸時代は萩藩士として毛利家に仕えました。
江戸時代には三浦を名乗っているので、この文書を三浦家文書といいます。
文書は、守護大内氏に従い、さらに毛利氏に従って活躍する室町・戦国時代のものが中心を占めており、現在山口県文書館に寄託されています。
三浦家は桓武平氏の流れで、建久8年重経の時、鎌倉幕府により周防国仁保庄および恒富保の地頭に任じられて以来、仁保を根拠として活動した名族。時によって平・平子・仁保とも称した。江戸時代には萩藩大組士として活動した。
中世の武家としての活動を示す平子氏本領相伝重書案以下158点と系図、三浦末家の文書23点は『大日本古文書 家わけ14 熊谷・三浦・平賀文書』(東大史料編纂所 1937)に収録されている。その他、江戸時代の萩藩士としての活動に係る文書で構成される。(山口県文書館「三浦家文書」より抜粋)
「建久八年二月廿四日」(1197)に「前右大将家」(源頼朝)が平重経を「周防国恒富保并仁保荘」の「地頭」に「補任」した ことを現地の「住人」に伝えた文書もあります。
「長門守護代等連署奉書」というのがあり「盛見 盛郷二阿武郡紫福郷内ノ知行ヲ充行(あてが)フ」という内容の文書もあります。
源久寺は、宝篋印塔の他、重要文化財1点、県指定文化財2点を所蔵しています。
文化財案内板。
絹本着色仁保弘有像
掛幅装で、寸法は縦76cm、横39cm。
侍烏帽子に素襖(すおう)を着し、上畳に座した仁保弘有の像である。上方に天与清啓の賛があり寛正六年(1465)の制作と知れる。画像の筆者は不明であるが、雪舟筆ではないかといわれている。1465年は弘有の没前34年にあたり、弘有の生前の姿であり貴重である。
弘有は、鎌倉時代に仁保地頭職として補任されて来た平子重経の後裔で、応仁の乱には大内政弘に従って上京し、大いに軍功があった。1499年に没した。
賛を書いた天与清啓は建仁寺の91世、1463年幕府から遣明船の正使を命ぜられ、翌年周防に来ている。そして雪舟らと共に入明している。漢詩文に優れていた。
(山口県文化財HP「絹本着色仁保弘有像」より抜粋)
国指定重要文化財「絹本著色陶弘護像」(龍豊寺蔵 周南市美術博物館寄託)というのがあり、こちらも雪舟とも親交の深かった以参周省が弘護の生涯をつづった賛を添えていることから、雪舟の作ではないかといわれています。写真で見る限り、二作品はよく似ているので、どちらも雪舟の作と思いたいです。
写真をアップできないのが残念ですが、興味のある方はチェックしてみてください。
参考文献:
『仁保の郷土史』 (仁保の郷土史編纂委員会/編 仁保の郷土史刊行会 1987)
P73〜126
『大日本古文書 家わけ14 三浦家文書』(東大史料編纂所 1937)
『山口県史 史料編中世3』(2004)
「山口県文書館所蔵 アーカイブズガイド ―学校教育編―」(web版)
「鎌倉幕府の始まり」
武士の生活(女性の地頭)