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こどもと本ジョイントネット21・山口


〜すべての子どもに本との出会いを〜

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茅の輪くぐり @ 今八幡宮 [2020年07月02日(Thu)]
6月30日、今八幡宮では、茅の輪くぐりはできましたが、今年は夏越大祓は神職のみで執行されましたぴかぴか(新しい)
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『釋日本紀 卷第七』にある「備後国風土記逸文」「蘇民将来」の故事が記されています。

『釈日本紀』は『日本書紀』の注釈書で全二八巻です。鎌倉時代中期に卜部懐賢(兼方)によって著されました。
『備後国風土記』(びんごのくにふどき、きびのみちのしりのくにのふどき)は、奈良時代初期に編纂された備後国の風土記です。
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『釈日本紀 』巻七(京都大学附属図書館蔵)

素戔鳴尊乞宿於衆神
備後國風土記曰 疫隅國社 昔 北海坐志武塔神 南海神之女子乎與波比爾坐爾 日暮 彼所蘇民將來二人在伎 兄蘓民將來 甚貧窮 弟將來富饒 屋倉一百在伎 爰塔神 借宿處 惜而不借 兄蘇民將來借奉 即以粟柄爲座 以粟飯等饗奉 既畢出坐 後爾經年 率八柱子還來天詔久 我將奉之爲報答日 汝子孫其家爾在哉止問給 蘓民將來答申久 己女子與斯婦侍止申 即詔久 以茅輪 令着於腰上 隨詔令着 即夜爾 蘓民與女人二人乎置天 皆悉 許呂志保呂保志天伎 即詔久 吾者 速須佐雄能神也 後世仁疫氣在者 汝蘓民將來之子孫止云天 以茅輪着腰上詔 随詔令着 即家在人者 將免止伎詔

(『釈日本紀 巻第七』(京都大学附属図書館蔵)より引用)

備後の国の風土記に日く、疫隈(えのくま)の国つ社。昔、北海に坐(ましま)し武塔(むたふ)の神、南海の神の女子をよばひに坐すに、日暮れぬ。彼(そ)の所に蘇民将来二人在(あ)りき。兄の蘇民将来は甚だ(甚(いた)く)貧窮しく、弟の将来は富饒みて、屋倉一百在りき。爰(ここ)に、(武)塔の神、宿処を借りたまふに、惜しみて借(貸)さず、兄の蘇民将来借(貸)し奉(たてまつ)る。即ち、粟柄(から)を以(も)ちて座(みまし)と為(な)し、粟飯等を以ちて饗(あ)へ奉りき。既ち、畢(を)へて出で坐す後に、年を経て、八柱の子を率て還り来て詔(の)りたまひしく。「我、将に之を奉る為に、報答(むくい)せん【我は将来の報答を為す】。」と曰(のたま)ふ。「汝(いまし)が子孫(うみのこ)其(そ)の家に在りや」と問ひ給ひき。蘇民将来、答へて申ししく。「己が女子と斯の婦と侍り(侍ふ)」と申す。即ち詔りたまひしく、「茅の輪を以ちて、腰の上に着けしめよ」と。詔の隨(まにま)に着けしむるに、即夜(そのよ)に蘇民と女人二人を置きて、皆悉く(悉(つぶさ)に)ころしほろぼしてき。即ち、詔りたまひしく。「吾は速須佐雄(はやすさのを)の神なり。後の世に疾気(えやみ)在らば、汝、蘇民将来の子孫と云ひて、茅の輪を以ちて腰の上に着けよ」と詔(のたま)ふ。「詔の隨に着けしむるに、即ち家に在る人は将に免れんとす」と詔りたまひき。

文献によって細かい部分に差異があり、そこのところは無視できても、こんな大きな違いもあります。
上掲の本の

蘇民與女人二人乎置天 皆悉 許呂志保呂保志天伎

というところが、なんと、

蘇民之女子一人乎置天 皆悉 許呂志保呂保志天伎

というのもあるようです。
これでは、「蘇民の女子一人を置きて、皆悉く、殺し亡ぼしてき」となり、茅を着けた娘だけが助かって、蘇民将来夫婦まで殺されたことになります。


『群書類従 巻第二十二 神祇部二十二 二十二社註式』「祇園社」には
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『群書類従 巻第二十二(神祇部二十二) 二十二社註式』「祇園社」(国立国会図書館蔵)

神社本縁記云 昔 北海坐也武塔神 南海神乃女尓加与比天彼爾出坐尓 日暮多利 彼所仁将來二人在伎 兄蘇民將來止云甚貧窮 弟巨旦將來止云富饒 屋舎一百在伎 爰仁武塔神 借宿處仁 惜天不借 兄蘇民將來借奉留 即以粟柄為席 以粟飯等饗奉流 武塔出坐後尓經年 八柱子率還來 我將奉之爲報答日 汝子孫在哉 蘇民答云 己子女子止婦止侍留止申湏 宣久 茅於以天為輪腰上仁着与 隨詔天着 即夜尓 蘇民之女子止婦止置天 皆悉久 許呂志保呂保志天伎 時仁詔久 吾波 速須佐能神也 後世尓疫氣阿羅波 汝蘇民將來之子孫止云天 以茅輪着腰有人波 將免止詔伎

(祇園)神社本縁記に云く、昔、北海に坐(ましま)すなり武塔神、南海神の女にかよひて彼に出で坐(ま)ししに、日暮たり。彼の所に将來二人在(あ)りき。兄蘇民將來と云ひ、甚だ貧窮。弟巨旦將來と云ひ、富饒。屋舎一百在りき。爰に武塔神、宿處を借りるに、惜しみて借さず。兄蘇民將來、借し奉(たてまつ)る。即ち粟柄以て席と為し、粟飯等を以て饗へ奉る。武塔出で坐しし後に、年を經て、八柱の子を率い還り來て、我、將に奉りの報答を爲さんとす。日く。 「汝に子孫在りや。」 蘇民答て云く。「己(おのれ)に子女、子と婦と侍る」と申す。宣(のたま)はく。「茅を以て輪を為し、腰上に着けよ。」詔に隨ひにて着く。即夜に、蘇民の女(むすめ)、子と婦と置きて、皆悉くころしほろぼしてき。時に詔りたまひしく「吾は、速須佐能神なり。後世に疫氣(えやみ)あらば、汝、蘇民將來の子孫と云ひて、茅の輪を以て腰に着く人有れば、將に免れなむとす」と詔りたまひき。

というように、『二十二社註式』「祇園社」では、兄の名前が蘇民将来、弟の名前は巨旦将来であることや娘と妻(または、子(子供)と婦(成人した娘))の二人が助かったという違いがありますが、『備後国風土記』とほぼ同じ記述です。

まとめると・・・かわいいかわいいかわいい
旅の途中で宿を乞うた武塔神を裕福な弟の蘇民将来(または、巨旦将来)は断り、貧しい兄の蘇民将来は粗末ながらもてなしました。後に再訪した武塔神は、茅の輪を付けさせた蘇民の娘一人(または、蘇民とその妻と娘)(または、蘇民の娘二人)(または、蘇民の妻と娘)を除いて、皆殺しにして滅ぼしました。武塔神は速須佐雄能神(スサノオ)と名乗り、以後、蘇民將來の子孫と言って、茅の輪を付けていれば疫病を避けることができると教えました。


『旧儀式図画帖』第36巻 本文49には、宮中の茅の輪くぐりの様子の絵があります。
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▲『旧儀式図画帖』第36巻 本文49(東京国立博物館蔵)



いつまであるか確認していませんが、しばらくあると思うのですが。
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参考文献:
『釈日本紀』(京都大学附属図書館蔵)
  ※京都大学貴重資料デジタルアーカイブでインターネット公開されています。
『群書類従』(国立国会図書館蔵)
  ※国立国会図書館のデジタルコレクションでインターネット公開されています。
『旧儀式図画帖』(東京国立博物館蔵)
  ※東京国立博物館の研究情報アーカイブでインターネット公開されています。
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