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こどもと本ジョイントネット21・山口


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大内弘幸の墓をお参りしました [2020年06月17日(Wed)]
6月2日、古熊の猿林にある大内弘幸の墓をお参りしましたぴかぴか(新しい)

猿林とは、古熊にあった永興寺跡から現在の古熊神社一帯の山林を指します。
明使 趙秩が山口十境詩「猿林暁月」を詠んだところです。

弘幸は、重弘の子で、山口を開府した弘世の父です。
妙見社の神託により大森銀山を発見したといわれていて、
1352(正平7/観応3)年3月、仁平寺本堂を修造し、3月8日から仁平寺本堂供養会を予定していましたが、3月6日、病気で死んでしまいます。
弘幸は、永興寺に埋葬されました。
高野山 成慶院の『大内殿御過去帳』(高野山 櫻池院蔵)に

         防州大内介為父弘幸公立之
日 観応三年壬辰
永興寺殿寒ー妙厳大禅門  霊位
石 三月六日他界


とあります。
『大内氏壁書』文明十八年九月四日の条に
大内氏実録 巻第10-12 志第一 大内家壁書 文明18年9月4日 (2).png
▲『大内氏実録』「巻第十二 志第一 大内壁書 掟書」(国立国会図書館蔵)

御代々御年忌、至其御寺、各可有出仕当日事

と、代々当主の命日に墓参することを命じています。

永興寺  三月六日

とあり、1486年の政弘の時代には、永興寺があったことが伺えます。
『永興並末山記』に、

延慶二己酉歳大内十五代裔周防権介創建一精舎

とあり、また、

永興寺(ようこうじ)は鎌倉末期の延慶二(1309)年、禅の高僧仏国国師を開山に、大内弘幸によって創建されました。弘幸の子・弘世は、父の菩提を弔うため七堂伽藍を整備し、寺領も大きく広げていきました。同時に幕府より官寺として認められるなど、格式の高い寺として知られるようになります。
永興寺(岩国市横山)HPより)

と、確かに弘幸は岩国市横山にある永興寺を創建しました。
が、山口の永興寺はどうなのでしょうか?
「猿林暁月」の説明板に

大内氏第二十三代弘幸は延慶二年(一三〇九)に臨済宗永興寺を創建したが後に荒廃した。

とありました。
しかしながら、『山口古図』(山口県文書館蔵)には、「永興寺」の名前が見えず、「猿林ノ森」のそばに「永福寺」という名前が見えます。

『防長寺社由来』第3巻(山口県文書館 昭和58.2)の「吉敷郡山口宇野領古熊村 禅宗永福寺由来書」に

本寺周防山口小鯖村禅宗泰雲寺末寺
 山口宇野領古熊村 禅宗永福寺
当寺は往古正応年中(1288〜1293)の頃より禅宗二て永福寺と申候。開基は大内十五代多々良弘幸公ニて御座候。此時の開山は仏国国師の由御座候。其段申伝へ候。伝書左ニ相記申候。右開基逝去の儀は文和元壬辰ノ年三月六日ニて、御法名は永福寺殿寒厳妙厳大禅定門と申候。御位牌御墓共ニ当寺ニ有之候。其後天文十五年只今の開山慶香和尚再興二て御座候。開基は于今右永福寺殿相立申候。


とありました。「永福寺殿」exclamation&question
山口の永興寺や弘幸の墓に関して、近藤清石の『大内氏実録』「巻第一 世家第一 弘幸」に書いてありました!
大内氏実録 巻第1-9 世家第一 弘幸 100% (2).png
▲『大内氏実録』「巻第一 世家第一 弘幸」(国立国会図書館蔵)

吉敷郡上宇野令古熊に葬り。
墓あり。山口久保町永福寺もとこの地に在りて、寺伝に弘幸の建立にて永興寺と云へりと云ふ。実に弘幸の法名永興寺寒厳妙厳と云ひて、其菩提寺なればしか云ふべきのことにて、大内氏壁書に、御代々御年忌、至其御寺、各可有出仕当日事云々、永興寺三月六日、と見えたれば、弘幸の菩提寺は、永興寺なることいはんも更なり。然るに永福寺の位牌に、永福寺殿とある甚疑ふべし。因て今これを熟考するに、永福寺所蔵文書箱の底に明応五年丙辰林鐘日永福永寔。また天文十九年卯月五日の円通寺末山付立に永福寺と見ゆれば、本寺ふるくより、永福寺と云へること決なし。思ふに観音寺を勝音寺とも云ひ、澄清寺を長泉寺とも云へる例にて、一寺二名なりしなるべし。さて上宇野令白石に、また永福寺と云ふ寺ありし由にて、いま影向と字に残れり。これやまことの永興寺ならんと云ふ人もあれど、永興と永福と別寺ならんには、ここに弘幸の墓あるべきことなり。しかるに弘幸の墓古熊に在るを以て考ふれば、堅固の憶説なれど、本寺もと白石にありて、永興とも永福とも云ひしを、弘幸の菩提所としたるが、弘幸の遺骸を古熊山に埋葬したるを以て、後に墓と寺と隔りありては不便なるを以て、白石より古熊に移し、然る後は、専ら永福寺といへるにぞあるべき。玖珂郡横山村にも永福寺ありて、弘幸位牌を安置せり。


とありましたが、どうなのでしょうか???

さて、気を取り直して……。
弘幸の墓のだいたいの場所はわかる(ネット地図で場所が表示してあるものもあり)のですが、はっきりと分からないので、古熊神社の方にお聞きしました。
古熊神社の一の鳥居をくぐり石段を下りると、左手にすぐに細い舗装されていない道があるので、その道を行って、1分位で「猿林」という看板がある、とのとこでした。

言われた道は、ここです。
この先で、すぐに、舗装した市道と合流します。
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市道に合流してからはこの山を目指してしばらく行きます。
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こちらで左に曲がります。
まっすぐ行くと行き止まりのようです。道なりに行きます。
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すると、すぐに、「猿林」の看板が見えますexclamation×2
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古熊神社の方からは、1分位で猿林の看板が見える、と言われたのですが、案の定迷ってそう簡単にはここに行き着きませんでした。でも、迷わなければすぐのところです。
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山口十境の詩
「猿林暁月」
  大内時代 明人 趙秩作
暁色初めて分かれ
天霜を降らす
凄々たる残月は
琳琅を伴う
山人一たび去って
消息無く
哀猿驚起して
空しく断腸す



鳥居が見え、ここが墓所だ!と分かります。
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でも、登り口が分からないちっ(怒った顔)
ちょっと先に手すりのある登り口があり、行ってみましたが、弘幸の墓所からはどんどん離れいきて、明らかに違う、と分かりました。
舗装道まで下り、看板のあったところまで引き返し、「まさかここでは!」というところを登っていきました。
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結構な坂道です。(道はない!)
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すると!
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こちらが、弘幸の墓です。
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今までお参りした大内氏歴代当主(重弘・弘世・盛見・政弘・義興・義隆(長門)・義長(下関)くらいしか行っていません)の墓の中で一番荒れ果てていましたもうやだ〜(悲しい顔)
宝篋印塔だと思うのですが……無残ですちっ(怒った顔)
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「大内弘幸卿墓」碑。
長州藩最後の第14代藩主である毛利元徳が1888(明治21)年に建立したものです。
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こちらは井戸の遺構だと思ったのですが、皆様がネットにあげていらしゃる写真を確認して、祠の朽ち果てた跡だと分かりました。
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瓦も、寺の遺構ではなく、祠の瓦ようです。年代的にも新しい感じがします。
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IMG_1267 (2).JPG

立派な石組みが寂しさを誘います。
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市街地の近くでこんなに景色もいいところなのに、墓所が荒廃していて、とても寂しい思いがしました。
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山口市は看板さえ設置していなく、「空しく断腸す」という思いです。
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近藤清石の『大内氏実録』「巻第一 世家第一 弘幸」などを参考に、弘幸の生涯を簡単にまとめてみました。
大内氏実録 巻第1-9 世家第一 弘幸@ (2).png
▲『大内氏実録』「巻第一 世家第一 弘幸」(国立国会図書館蔵)

1308(延慶元)年、妙見社の神託により大森銀山を発見、採掘。(『石見国銀山要集 銀山通用字録 銀山旧記』(島根県立図書館蔵))
1309(延慶二)年、仏国国師(高峰顕日)(1241〜1316)を開山に不動山永興寺を創建。(『永興並末山記』)
1335(建武2)年11月、新田義貞の指揮下に入り、武家方と戦う。
1335(建武2)年12月、足利尊氏と誼(よし)みを結び、武家方となる。
1335(建武2)年、玉祖神社の社殿・神宝造営。
1336(延元元/建武3)年2月、叔父鷲頭長弘が周防守護代の職に任ぜられる。
1341(暦応4/興国2)年、大内氏氏寺の興隆寺が敵方たる一族(鷲頭方か)の代官某によって放火炎上、寺内坊舎在家に至るまで悉く焼失。(『大内妙厳書状』(暦応4年閏4月15日)(興隆寺文書 山口県文書館蔵))
1344(康永3/興国5)年、興隆寺再建のための造営料として、三ヵ年間矢田令内仁戸田保地頭職を仁戸田土興一丸分一町を除き寄進。(『大内妙厳造営料所寄進状』(康永3年閏2月21日)(興隆寺文書 山口県文書館蔵))
1345(貞和元/興国6)年、室町幕府 足利氏が諸国に安国寺と利生塔を定めたとき、大内御堀の乗福寺の塔をもって、周防国の利生塔にあてる。
1349(貞和5/正平4)年11月、氷上山興隆寺を再建。(『興隆寺本堂供養日記』(応永11年[1404]3月)(興隆寺文書 山口県文書館蔵))
1350(観応元/正平5)年10月、弘幸は子の弘世とともに長弘討伐に乗り出し、東大寺領吉敷郡椹野庄に乱入。
1351(正平6/観応2)年、南朝に帰順し、弘世は南朝より周防国守護に任命。
1352(正平7/観応3)年3月、仁平寺本堂を修造す。(『仁平寺本堂供養日記』(観応3年) (興隆寺文書 山口県文書館蔵)))
1352(正平7/観応3)年3月3日、仁平寺鎮守山王社(現在の菅内日吉神社)に法楽舞を施行。(『仁平寺本堂供養日記』(観応3年) (興隆寺文書 山口県文書館蔵)))
1352(正平7/観応3)年3月6日、死去。(『仁平寺本堂供養日記』(観応3年)(興隆寺文書 山口県文書館蔵)))
1352(正平7/観応3)年、3月8日から予定していた仁平寺本堂供養会を、弘幸死去のため、7日間延期し嗣子弘世が執行。(『仁平寺本堂供養日記』(観応3年)(興隆寺文書 山口県文書館蔵)))


次は、澄清寺の持世の墓に行きたい、と思っています。
15年位前のことですが、宮野(桜畠)に住む知人のYさんが、近所の山の中に大内氏の遺跡があるよ、と言っていたのでそこだと目星を付けています。

ところで、『山口市の石仏・石塔(2)―大殿・白石・湯田―』(山口の文化を守る会/編 山口市教育委員会 2004)を読んでいたら、P123に弘幸の墓にあったものによく似た写真を見つけました。
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永福寺鎮守神」とあり「大雄山永福禅寺神霊」と彫られているそうです。
「永興寺」ではなく「永福寺」ですかexclamation&question

P73の「大内幸弘墓」は明らかに「大内弘幸墓」の誤植だと思うのですが、掲載されている写真も雰囲気がずいぶん違うので、他に「幸弘」というお方がいらっしゃるのかもしれませんちっ(怒った顔)

傍の説明板に
 明治廿一年十二月
 大内幸弘墓
 正二位公爵毛利元徳建


と記載されているので、やっぱり「大内弘幸墓」の誤植ですよね。
でも、何回見直しても、今回撮影した写真と掲載されている写真が違うような・・・・・・。
IMG_1268 (2).JPG

左の塔の横にある宝篋印塔の相輪の宝形と請花(うけばな)のようのものを載せれば掲載写真になる気がします。
市の政弘や盛見の墓にあるような市の説明板が欲しいです。整備もお願いします。



参考文献:
『山口市史 史料編 大内文化』(山口市 2010)
  P370〜71「大内殿過去帳」
  P362〜65「永興並末山記」
  P356〜60「興隆寺本堂供養日記」
  P231〜35「銀山旧記」
『大内氏実録』(近藤清石/著)(国立国会図書館蔵)
  ※国立国会図書館のデジタルコレクションでインターネット公開しています。
『大内氏の領国支配と宗教』(平瀬直樹/著 塙書房 2017)
   P49〜68「本拠地の変遷」
『大内氏史研究』(御薗生翁甫/著 山口県地方史学会 1959)
  「第二十八章 明史趙秩・朱本の山口館待と五山僧春屋妙葩」
『山口市の石仏・石塔(2)―大殿・白石・湯田―』(山口の文化を守る会/編 山口市教育委員会 2004)
  P123「大殿の神」No.2
 
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