清水晩鐘 @ 清水寺に行きました@
[2020年06月08日(Mon)]
山口市宮野下恋路の清水寺参道の苔生した長い階段を登り切って、
左に行けば観音堂、その先の階段をもう少し上がれば山王社というところに
山口十境詩「清水の晩鐘」詩碑はあります
「清水の晩鐘」詩碑。
地元産の変成岩だそうです。
清水晩鐘
暮雲疎雨欲消魂
獨立西風半掩門
大内峯頭C水寺
鐘聲驚客幾黄昏
清水せいすいの晩鐘ばんしょう
暮雲ぼうん疎雨そう、魂たましい消きえんと欲ほっす
独ひとり西風せいふうに立たてば、半なかば門もんを掩とざす
大内おおうち峰頭ほうとう、清水寺せいすいじ
鐘声しょうせい、客かくを驚おどろかすこと幾黄昏いくこうこん
晩鐘…暮れの鐘。入相 (いりあい) の鐘。
暮雲…夕暮れの雲。
疎雨…まばらに降る雨。
消魂…驚きや悲しみのあまり、気力を失うこと。
西風…寂しい秋の風。秋風。
大内峰頭…大内から宮野へ続く山並みの山頂。
客……旅人。ここでは趙秩自身のことをです。
黄昏…日の暮れかかること。夕暮れ。たそがれ。
夕暮れの雲を眺め、まばらに降る雨音に聞き入ると、魂が消え入りそうで胸がいっぱいになる。
一人居ると、折からの吹く一陣の秋風が門扉を半ば閉じたり動かす。
大内から宮野に連なる山並みの頂上に建つ清水寺、
夕暮れの鐘の音は、旅人に故郷への思いをかきたたてる。
「清水寺由来」説明板。
山号を花滝山と呼ぶ清水寺は、寺伝によると大同元年(806)に創建された山口盆地最古の寺院という歴史を持つが、室町時代に至ると塔宇の痛みが著しく、応永年間(1410年の頃)に大内氏25代盛見によって復興造営された。以後江戸時代にも数度にわたる修理により現在に至っている。なお山門には南北朝時代に制作されたという県文化財指定の金剛力士像2体が安置されている。
山号にふさわしく四季各々の自然美と共に山口の歴史を折り込み、明国の使者をして山口十境のひとつに選ばしめた古刹である。
趙秩が山口を訪れたとき、香積寺(瑠璃光寺)の五重塔や国清寺(洞春寺)などの社寺はまだありませんでしたが、ここ清水寺はありました。
平城天皇の御代(806〜809)の創建と伝えられ、1195(建久6)年の国府文書には清水寺のことが記されているので、(現地案内板による)、その当時すでに古刹でした。
「清水の晩鐘」碑への途中に鐘楼があります。
そこだけは視界が開けていて、鳳翩山の峰頭が見えました
山門横にも趙秩の「清水晩鐘」の石碑があります
説明板。
清水晩鐘
この詩は、「和寇」という海賊を取り締ってもうらうために明国から来た使者で、趙可庸、号を秩(趙秩)という人の作詩です。1370年3月・1373年10月の間に大内氏を頼って山口に滞在中に詠んだ山口十境詩の中の一つです。
暮の雲 雨まばらに
魂を消さんと欲す
独り西風に立てば
半ば門を掩う
大内の峯頭 清水寺
晩鐘客を驚かす 黄昏幾し
上田敏夫 奉納
「うえだとしお」というので2019年4月17日から7月28日まで、中原中也記念館で開催されていた企画展「沸騰する精神 ― 詩人・上田敏雄」を思い出しました。
でも、字が違うんですよね。「上田敏夫」となっていますものね。
上田敏雄(1900〜82)は、防府市大道出身で旧制山口中学校卒業後、1925(大正14)年慶応義塾大に在学中に詩壇に登場しました。1928(昭和3)年、弟の保、北園克衛と、日本初のシュルレアリスム宣言を発表し、1929(昭和4)年に詩集『仮説の運動』を刊行し、大きな反響を呼びました。
フランス語を学ぶために1931(昭和6)年に入学した東京外国語学校では中也と同級生の間柄で、中也は詩集『山羊の歌』を上田に贈呈しています。
昭和6年11月16日の安原善弘宛中原中也書簡には、
今晩は生暖い風が吹きます。
可なり強い風です。
上田敏雄と遊んでゐます。
とあります。
上田は、その後中断を経て、昭和20年代に詩の発表を再開し、81歳で亡くなるまで新作を発表し続けました。
1945年、郷里の山口に妻子と共に疎開し、山口経済専門学校(現:山口大学経済学部)の英語講師に就任し、1951年、山口大学文理学部の英語助教授に就任し、1962年の退官後、宇部工業高等専門学校教授に就任し、教育者としても活躍しています。
その企画展は、本邦初公開のスクラップブックなどの展示もあり、展示品の数々はアバンギャルドな詩人の魂に直に触れたようで、とても刺激的なものでした。(なぜ、ブログで紹介しなかったんだろう? 自分でも不思議です。)
ここまで書いて、よくよく碑文を見ると、
平成三年八月吉日 上田敏夫
と入っていました!
1980(昭和57)年に亡くなった詩人の上田敏雄が、1991(平成3)年に奉納できるわけないですね。
早とちりでした お騒がせしました。
因みに最初に紹介した碑は2008年5月に立てられました。
【次回に続く】
左に行けば観音堂、その先の階段をもう少し上がれば山王社というところに
山口十境詩「清水の晩鐘」詩碑はあります
「清水の晩鐘」詩碑。
地元産の変成岩だそうです。
清水晩鐘
暮雲疎雨欲消魂
獨立西風半掩門
大内峯頭C水寺
鐘聲驚客幾黄昏
清水せいすいの晩鐘ばんしょう
暮雲ぼうん疎雨そう、魂たましい消きえんと欲ほっす
独ひとり西風せいふうに立たてば、半なかば門もんを掩とざす
大内おおうち峰頭ほうとう、清水寺せいすいじ
鐘声しょうせい、客かくを驚おどろかすこと幾黄昏いくこうこん
晩鐘…暮れの鐘。入相 (いりあい) の鐘。
暮雲…夕暮れの雲。
疎雨…まばらに降る雨。
消魂…驚きや悲しみのあまり、気力を失うこと。
西風…寂しい秋の風。秋風。
大内峰頭…大内から宮野へ続く山並みの山頂。
客……旅人。ここでは趙秩自身のことをです。
黄昏…日の暮れかかること。夕暮れ。たそがれ。
夕暮れの雲を眺め、まばらに降る雨音に聞き入ると、魂が消え入りそうで胸がいっぱいになる。
一人居ると、折からの吹く一陣の秋風が門扉を半ば閉じたり動かす。
大内から宮野に連なる山並みの頂上に建つ清水寺、
夕暮れの鐘の音は、旅人に故郷への思いをかきたたてる。
「清水寺由来」説明板。
山号を花滝山と呼ぶ清水寺は、寺伝によると大同元年(806)に創建された山口盆地最古の寺院という歴史を持つが、室町時代に至ると塔宇の痛みが著しく、応永年間(1410年の頃)に大内氏25代盛見によって復興造営された。以後江戸時代にも数度にわたる修理により現在に至っている。なお山門には南北朝時代に制作されたという県文化財指定の金剛力士像2体が安置されている。
山号にふさわしく四季各々の自然美と共に山口の歴史を折り込み、明国の使者をして山口十境のひとつに選ばしめた古刹である。
趙秩が山口を訪れたとき、香積寺(瑠璃光寺)の五重塔や国清寺(洞春寺)などの社寺はまだありませんでしたが、ここ清水寺はありました。
平城天皇の御代(806〜809)の創建と伝えられ、1195(建久6)年の国府文書には清水寺のことが記されているので、(現地案内板による)、その当時すでに古刹でした。
「清水の晩鐘」碑への途中に鐘楼があります。
そこだけは視界が開けていて、鳳翩山の峰頭が見えました
山門横にも趙秩の「清水晩鐘」の石碑があります
説明板。
清水晩鐘
この詩は、「和寇」という海賊を取り締ってもうらうために明国から来た使者で、趙可庸、号を秩(趙秩)という人の作詩です。1370年3月・1373年10月の間に大内氏を頼って山口に滞在中に詠んだ山口十境詩の中の一つです。
暮の雲 雨まばらに
魂を消さんと欲す
独り西風に立てば
半ば門を掩う
大内の峯頭 清水寺
晩鐘客を驚かす 黄昏幾し
上田敏夫 奉納
「うえだとしお」というので2019年4月17日から7月28日まで、中原中也記念館で開催されていた企画展「沸騰する精神 ― 詩人・上田敏雄」を思い出しました。
でも、字が違うんですよね。「上田敏夫」となっていますものね。
上田敏雄(1900〜82)は、防府市大道出身で旧制山口中学校卒業後、1925(大正14)年慶応義塾大に在学中に詩壇に登場しました。1928(昭和3)年、弟の保、北園克衛と、日本初のシュルレアリスム宣言を発表し、1929(昭和4)年に詩集『仮説の運動』を刊行し、大きな反響を呼びました。
フランス語を学ぶために1931(昭和6)年に入学した東京外国語学校では中也と同級生の間柄で、中也は詩集『山羊の歌』を上田に贈呈しています。
昭和6年11月16日の安原善弘宛中原中也書簡には、
今晩は生暖い風が吹きます。
可なり強い風です。
上田敏雄と遊んでゐます。
とあります。
上田は、その後中断を経て、昭和20年代に詩の発表を再開し、81歳で亡くなるまで新作を発表し続けました。
1945年、郷里の山口に妻子と共に疎開し、山口経済専門学校(現:山口大学経済学部)の英語講師に就任し、1951年、山口大学文理学部の英語助教授に就任し、1962年の退官後、宇部工業高等専門学校教授に就任し、教育者としても活躍しています。
その企画展は、本邦初公開のスクラップブックなどの展示もあり、展示品の数々はアバンギャルドな詩人の魂に直に触れたようで、とても刺激的なものでした。(なぜ、ブログで紹介しなかったんだろう? 自分でも不思議です。)
ここまで書いて、よくよく碑文を見ると、
平成三年八月吉日 上田敏夫
と入っていました!
1980(昭和57)年に亡くなった詩人の上田敏雄が、1991(平成3)年に奉納できるわけないですね。
早とちりでした お騒がせしました。
因みに最初に紹介した碑は2008年5月に立てられました。
【次回に続く】