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こどもと本ジョイントネット21・山口


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仁平寺跡に行きました [2020年06月01日(Mon)]
山口市菅内の仁平寺跡に行きましたぴかぴか(新しい)

仁平寺は、寺号が示すように仁平年間(1151〜54)に創建したといいますが、開山も開基も不明です。
興隆寺文書の『周防国仁平寺本堂供養日記』(山口県文書館)によると、1352(正平7/観応3)年には、本堂の他大圓坊・常楽坊・十池坊(十地坊?)・蓮池坊・南陽坊・常行坊・大国坊・竹林坊・寳持坊・寳樹坊・妙光坊・報恩坊・東蔵坊などの塔頭や山王社があったことが分かり、
弘幸が本堂を修造し、その供養会が執り行われた様子が書かれています。
山口県文書館の『文書館レキシノオト ♪26 芸能の音@ 寺社の音あれこれ』にはその様子が詳しく書かれていて、供養会の盛大な音色が、聞こえてきそうです。
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▲『文書館レキシノオト ♪26』

また、『大内村史』(河野通毅/編 大内公民館 昭和33)に

地下上申によると大内弘世の時代に京師叡山を仁平寺に勧請して麓に八王字の森、仁王門、弁才天、丈六の地蔵、五重の塔を建立した

とあるそうです。(『サンデー山口』第7217号より引用)
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『サンデー山口』第7217号

大内氏隆盛時代は興隆寺、乗福寺とともに三大寺といわれていましたが、大内氏滅亡後は寺は次第に衰退し、天保年間の記録では、その頃より100年ばかり前には五重塔が朽ちながらも立っていたと記載されています。

「仁平寺跡(にんぺいじあと)」説明板。
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山号を菅内山といい、仁平元年(1151)の創建で、年号をもって寺号とした仁平寺の跡である。注進案によれば、当時は五重の塔があり、本堂にいたる道の左右には本坊、東蔵坊、蓮池坊等があったので、その地名があったという。このことは、本堂供養日記にもその記事があり、これによると、供養は舞楽舞踊が行われる等、頗る盛大であったことがうかがえる。また、五重の塔の礎石が残っていたといわれるが、溜池築造のため取り除かれてしまっている。


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建物  本堂、本坊、秀實坊、禅智坊、蓮池坊、塔頭、五重塔、観音堂、寺家、御風呂屋等があった。
 大内氏の盛時は七道伽藍皆揃っていた。(略)
創建  近衛天皇、鳥羽院政、関白藤原忠通の時代。宗派は天台宗であった。現在は曹洞宗。
縁起  仁平元年といえば多々良氏の名前が見えている位で、大内氏としては古い時代である。この多々良氏が後の大内氏の先祖であるといわれている。年号を持って寺号としたのである。
創建後二百年を経って大内弘幸(二三代)が本堂を修造し正平七年(一三五二)三月八日をもって供養会を修するに定め(、)三日鎮守山王社(現在の菅内日吉神社)に法楽舞を施行した。然し同月六日に弘幸が卒去したので嗣子弘世(二四代)は一七日延期してこれを続修した。が弘世は遠慮して臨席しなかった。このことは、本堂供養日記に出ている。大内時代の盛大であったことはこの供養日記で充分うかがえる。大内氏没落後諸堂は廃頽し、五重塔の礎石のみが残り、本堂のあとには小庵があるばかりで小鯖村の禅昌寺から番僧が来て守りをしていた。尚本堂の鰐口(山口市指定文化財・昭和五一・一二・二一指定)は光厳寺の条につるしてある。
 本堂五重塔については、注進案に次の如く載せられている。
  寺跡の南少し高き所に五重塔の礎在せり(名勝旧蹟図誌ニ歩許四方)土人云、ことし天保一三年(一八四二)より凡そ百年ばかりも前つかたまでは、五重塔朽ちながら立ゐしが、いつ倒れつるを、まのあたり見たりしと古老の語り伝へありとぞ
  其池より塔の朽木を拾ひとりて器財に造りたる人多しといへり。
 五重塔の礎石は溜池を築造するときとり除かれ十六箇ばかり一ケ所に集められている。心臓と思われていた石は溜池の中に残っていたがその溜池もいつしか水は枯れてしまった。その付近に仁平寺の歴住和尚の墓と思われる印塔が数基と開山と彫った一基の墓もある。
 (略)
 仁平寺は明治初年(一八六八)頃には全く荒廃して、僅かに観音堂のみ残り明治三年(一八七〇)十月一八日には小鯖村禅昌寺にひきとられた。
(略)


実際に歩いてみましょう。
こういう石積みを見ると萌えます。
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この道の先に本堂跡があります。
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進んでいくと、畦というか道なき道になってきました。
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石積みがありますが、段々畑のものなのか、遺構なのか?面白いです。
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ここが突き当たり。この辺りに本堂や五重塔があったはずです。
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向こうに見える山は氷上山ではないでしょうか。
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下の道まで下りると左手に日吉神社が見えます。
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日吉神社の参道から見ると、高台になっていて本堂があった場所がよくわかります。
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アップにすると、こんな感じ。
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今は山間部の田んぼにしか見えませんが、明らかに平らに開けています。
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あの石積みは、○○坊があったところと思われます。恐らく。
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1151年に、近衛天皇(このえてんのう)がたてたといわれています。仁平元年にできたので、仁平寺という名がついたということです。大内氏の力がある時には、興隆寺や乗福寺とともにりっぱなお寺でした。しかし、大内氏がほろんだあとは、観音堂(かんのうどう)だけとなり、明治3年には、小鯖(おさば)の禅昌寺(ぜんしょうじ)にひきとられました。そのため、はじめは天台宗(てんだいしゅう)でしたが曹洞宗(とうどうしゅう)にかわりました。その後、明治16年にたてられましたが、台風でたおれたり、またたてなおされたりしました。今の仁平寺は、およそ500メートルはなれた東がわの道路に新しくたてなおされています。そして、ここは、集会所としても地区の人に利用されています。
 このように、今はもうむかしのおもかげはありませんが、大内氏の時代にとてもりっぱだった興隆寺・乗福寺・仁平寺は、大内文化をささえた3大寺といわれています。

『郷土読本 ふるさと大内』 「<仁平寺>−管内− 曹洞宗」引用)


現在、約500メートル東に場所を移して曹洞宗・仁平寺があります。
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「仁平寺本堂供養日記」の説明板が立っているのですが、前に植えてある桜の木が邪魔で読めむことができません。これから新緑の時期になったら更に読むことができなくなりそうです。残念もうやだ〜(悲しい顔)
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1870(明治3)年、下小鯖の禅昌寺に現存するという観音堂はこちらでしょうか?
禅昌寺には「仁平寺」について触れた説明板はなかったもので・・・・・・。
他に観音堂はなかった気がします。
4FF9C069-135E-45E0-A898-3133E5505432.jpeg禅昌寺大慈殿

また、仁平寺の楼門の柱は雲谷庵(山口市天花)を支える柱としてして使われているそうです。(『雲谷菴誌』(近藤清石/著 1884(明治17).9/編集 1884(明治17).12/出版)(山口県文書館蔵 吉田樟堂文庫)参照)
確認しに行きます!

さらに、興隆寺楼門に仁平寺の部材が転用されている可能性があるとされ、古い様式の大内菱が確認できるそうです。


第十図 余蔵氷上山興隆寺楼門古板
  竪壱尺弐寸四分
  横蔓股ヨリ三尺八寸四分

第十図は(墨消)真にから菱といふべき物なり。このから菱の紋ありあし楼門ハ天文年中陶尾張守隆房の建立と寺家にいひ伝へたるも。その時代より古き建築と見えたるが。往年寺家没落して破却したりける時に粗物なとに釘ありて、氷上山に新建せしものにあらず。他より引き移したること知られたり。さてハもといつこの楼門なりしか。氷上山ちかき字問多田に仁平寺という寺ありて。その寺のもの多く氷上山に伝はたりバ。蓋楼門も仁平寺よりうつせるならん。この仁平寺ハ仁平年中ノ創建にて。年号を以て寺号にせりという旧刹にて。大内氏十六世弘幸朝臣本堂を修理し。正平七年三月八日供養会をせんとて三日に試楽までせられたるに。六日に身まかられけれバ、其子弘世朝臣十五日に供養会を修せられた日記氷上山にあり。尋常の寺家ならざりしことハ。旧趾を見てもしらる。果たして十図の古板そのはじめ仁平寺のものなりせバ。大内氏の徽章これより古きハ伝はらじ。そハともかくも蔓ある菱なりけるを。後に蔓を省けるも其称ハ猶ふるき称のまゝを唱へしにこそ。

(『大内飯器』(近藤清石/著 1912(明治45))(山口県文書館蔵 近藤清石文庫)引用



参考文献:
『山口市史 史料編 大内文化』(山口市 2020)
  P981〜2「仁平寺跡」
  P880〜6「大内飯器」
『興隆寺文書を読む ―氏寺の文書から大内氏歴史を探る― その一』(岩崎俊彦/著 大内氏壁書(法令)研究会 2004.3)
  P20〜28「興隆寺文書 第六 仁平寺本堂供養日記」
  P28〜31参考資料『大内村史』「仁平寺」
『大内氏史研究』(御薗生翁甫/著 山口県地方史学会 1959)
  「周防守護の南北対立と弘世の統一」
『大内村史』(河野通毅/編 大内公民館 昭和33)
『サンデー山口』(2020.3.21)【やまぐち深発見紀行】
  No.185「大内・菅内にもあった大内文化伝える五重塔」
『郷土読本 ふるさと大内』(大内小学校/編集・発行 昭和60.12)  
  「<仁平寺>−管内− 曹洞宗」
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