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こどもと本ジョイントネット21・山口


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五十鈴川砂防堰堤 @ 大内政弘の墓&法泉寺跡に行きましたA [2020年05月10日(Sun)]
【前回の続き】

大内政弘の墓を目指して進んで行きましょう。
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左手に「五十鈴川砂防堰堤の碑」があります。
「柳の水 500m」の標識。
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「いすずがわえんてい」とひらがなで書いてあります。
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フジがきれいです。
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南の下流側は、市内が見えます。
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二本の尖塔はザビエルの塔です。
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堰堤によって造られた湖はそれほど大きくはありませんが、湛々と水をたたえています。
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砂防堰堤なので土砂の流出を防ぐ為に設置されていますが、ある程度貯水して川の流速も緩和し、灌漑目的もあるのでしょうか。
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紺碧の湖面は、政弘の墓が誘っているのでしょうか、妖しい雰囲気を醸し出しています。
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とはいって、大内氏の時代には砂防堰堤はありませんでした。
五十鈴川が流れているだけでした。この五十鈴川という名前も、おそらく1520(永正17)年に義興伊勢皇太神宮のご分霊を勧請した頃に付けられたのと思います。
京都から1518(永正15)年10月に11年ぶりに山口に帰ってきた義興はですが、すぐ太神宮を勧請する用意にとりかかり、義興は自らその社地を視察し、高嶺の東麓を境内地と決めました。

永正十五年戌寅従京都御下向是、十月五日山口御着、(略)高嶺麓正法院敷地可然在所云々、正方東向也、南ハ有小山明也今観音堂再興之、西者高嶺峨々として、元観音堂旧跡巌掘在之、北ハ深山遠くめくりて法泉寺・香積寺(今の瑠璃光寺)山所々につゝく、しかるに同十月廿六日、御出有て御歴覧之処、古寺之砌(さい)嚝々(こうこう)たり、石清水湛々(たんたん)として無増減、岩ほならひていさきよし、殊にハ、本社祭礼等に用らるゝ草木まで天然有と云々、早/\地形を引とゝのへ、御社檀御建立の事可相催之由、被仰出事、
(『高嶺太神宮御鎮坐伝記』(山口大神宮蔵))

とあるように、この川の清らかな水の流れも、「高嶺太神宮」境内地の決める際のポイントとなったようです。
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今歩いてきた堰堤の天端。
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こちらには、「五十鈴川砂防堰堤」と漢字で書いてあります。
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実は、堰堤の下流側は「プール」なるものがあり、どうも親水公園として整備したようです。
案内図の傍には、確かに下に降りる階段がありました。
ですが、現在は余りにも痛々しく荒れ果てていて写真を撮る気になりませんでしたもうやだ〜(悲しい顔)
案内図によると「いこいの広場」もあるようですね。
山口市内には、せっかく整備したものの、管理されずに荒れ果てた場所が何か所かあります。
市民・県民としてもったいない気がします。
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あの山は鴻ノ峰だと思います。
山の形は変わらないので、政弘も義隆もこの景色を見たことでしょう。
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松の花が咲いています。
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フジがきれいです。
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政弘の墓はすぐそこでしょう。

この道をさらに進むと柳の水があり、そして法泉寺峠があります。
今歩いている道が、義隆が法泉寺から法泉寺峠を通って吉敷中尾の凌雲寺、肥中街道へと進んだ道だと思うと感慨深いです。
義隆はどんな想いで、政弘の墓の前を通ったのでしょうか。
石仏と中尾の伝説「塩原」 @ 中尾の文化財さんぽA」でも書きましたが、吉敷地域づくり協議会の「中尾の凌雲寺から県庁裏の法泉寺へつうじる道」には、柳の水から吉敷塩原まで踏破された記事が地図と併せて載っていますので、興味のある方はどうぞ。



参考文献:
『山口市史 史料編 大内文化』(山口市 2010)P340〜345「高嶺太神宮御鎮坐伝記」



【次回に続く】
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