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こどもと本ジョイントネット21・山口


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大内氏館(23)龍福寺]龍福寺 @ 大内氏遺跡指定60周年記念バスツアー2019㊳ [2020年05月01日(Fri)]
【前回の続き】

「龍福寺本堂」由緒書。
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重要文化財
 龍福寺本堂
  昭和二九年九月一七日指定
龍福寺は、もとは白石(山口市白石)の地にありましたが、天文二十年(一五五一)に兵火にかかり、そのままになっていたものを、弘治三年(一五五七)毛利隆元が大内義弘の菩提を弔うためにこの地に再興しました。
 明治十四年(一八八一)、龍福寺は火災に遭い、ほとんどの建物が焼失しました。
 そのため、吉敷郡大内村(現在の山口市大内御堀)の大内家の氏寺であった天台宗の興隆寺から釈迦堂を移築し、曹洞宗の龍福寺本堂へ改造しました。
 この本堂は、文明十一年(一四七九)に建立されたと言われており、内部の大虹梁(だいこうりょう)、板蟇股(いたかえるまた)、組物などは室町時代の建築の特徴をよく表しています。
 移築後、約百年が経ち、大規模な修理が必要になったことから、平成十七年から平成二三年にかけて保存修理工事が行われ、建立当初の室町時代の姿に戻されました。
 本堂は桁行五間、梁間五間の入母屋造で、屋根は桧皮葺、正面には蔀戸(しとみど)があります。なかでも内・外陣を隔てる板扉と格子戸の組み合わせによるしつらえは大変珍しいものです。



そもそも龍福寺ってexclamation&question
龍福寺について調べてみましょう。

かわいい1206(建永元)年 満盛白石臨済宗宝珠山瑞雲寺を創建しましたひらめき

当寺はもと高嶺の南麓白石村にありて宝珠山瑞雲寺といへり、土御門院建永元年丙寅年周防権介多々良満盛朝臣剏(そう)建し給ふ臨済宗なり、(『防長風土注進案13山口宰判下』(1841(天保12)年以降))


かわいい弘直が再建し、1336(延元元/建武3)年7月7日、弘直がなくなり、菩提寺となりましたひらめき

再建檀主 大内弘直朝臣 重弘朝臣二男
 瑞雲寺殿恵海浄智大禅定門
 建武三年 改延元元丙子七月七日卒
(『防長風土注進案13山口宰判下』(1841(天保12)年以降))

弘直(〜1336)は重弘の次男で、菩提寺は白石の宝珠山瑞雲寺(現在の龍福寺)で、位牌は龍福寺にあります。


かわいい1454(享徳3)年 教弘が大内氏の祈願所として再建し、雪心和尚を迎え中興開山として曹洞宗に改宗、寺号も瑞雲山龍福寺と改称しましたひらめき

亨(享)徳三甲戌年贈三位多々良教弘卿改めて瑞雲山龍福寺とし、闢雲中興覚隠禅師の高弟雪心和尚をもて開山とせらる、此時始て曹洞宗となれり、(『防長風土注進案13山口宰判下』(1841(天保12)年以降))


かわいい義興の後柏原院勅願所になりましたひらめき

大内義興公の御時、当寺を後柏原院勅願所二被成候、(『山口町 竜福寺』(山口県文書館蔵 寺社由来815))


かわいい義隆は後奈良天皇に奏請して勅願寺として官符を請うて重建しましたひらめき

後奈良院の御宇太宰大弐義隆卿朝廷に奏して勅願寺とし、官を申請ひ重建の事あり、(『防長風土注進案13山口宰判下』(1841(天保12)年以降))

竜福ノ一宇(略)新造二シテ(『大内義隆記』(『群書類従 巻第三九四 合戦部二六』(検校保己一集)))

紫野玉堂和尚ヲ申シ下サレテハ(、)参学ノ師範ト乄(シテ、)座禅ノ床二アカ(ガ)(、)(略)(の)和尚ヲ尊ミ申サレテハ(、)新造に仏閣を構(へ、)竜福寺ト号乄(シテ、)五百貫ノ寺領ヲキフ(寄付)(、)末寺ヲ余多ソへ玉フ(『大内義隆記』(『群書類従 巻第三九四 合戦部二六』(検校保己一集)))

紫野は大徳寺のこと。
玉堂和尚は、大徳寺92世の玉堂宗条(1480〜1561(永禄4))のことです。
義隆は玉堂和尚を龍福寺の住持として1536(天文5)年に山口に招きました。

義隆公大徳寺派え御帰依ニて、大徳寺派玉堂と申僧暫時住職の申承候(『山口町 竜福寺』(山口県文書館蔵 寺社由来815))


かわいい1551(天文20)年に義隆が陶氏に攻められたときに、兵火にかかり焼失してしまいましたひらめき

天文二十年陶晴賢の乱に当寺の諸堂悉く焼亡せり、(『防長風土注進案13山口宰判下』(1841(天保12)年以降))


かわいい1557(弘治3)年7月 再建について後奈良天皇より綸旨が発給されましたひらめき

防州龍福寺事(、)故義隆卿
励志為 勅願所申請官府(符)
建立之(、)然近年令断絶云々(、)
所被歎思食也(、)早相談隆元
被再興者尤可為神妙之由
天気所候也、仍執達如件、
 弘治三年七月十三日  左中弁(花押)
 玉堂和尚禅室
(「後奈良天皇綸旨」(龍福寺蔵))

防州龍福寺の事、故義隆卿志を励す為 勅願所として官府(符)を申し請い之を建立す。然ども近年断絶せしむ云々、歎き思食(おぼしめ)されるところなり、早く隆元に相談し再興せられるは、尤(もっとも)神妙為るべきの由 
天気候所(てんきそうろうところ)なり、仍って(よって)執達件の如し(しったつくだんのごとし)

「天気所候也、仍執達如件」の「天気」は「天皇の意思」ということです。
差出人の左中弁は藤原淳光だそうです。宛名書は玉堂和尚禅堂です。
龍福寺資料館にはこの「後奈良天皇綸旨」と、何度も綸旨を賜ったそうで、綸旨が入っていた箱も展示してあります。

然処義隆公ご逝去、御法名御竜福寺と申候、陶方より寺焼失仕候通後奈良院聞召、当寺え御綸旨被下候、隆元公え申上候て寺建立可被仰付候、(『山口町 竜福寺』(山口県文書館蔵 寺社由来815))

「隆元に再興を相談しなさい」と後奈良天皇(1497(明応5)〜1557(弘治3)(在位: 1526(大永6)〜1557)から寺への綸旨があったわけですね。


かわいい1557(弘治3)年 龍福寺が白石から築山(大内館のこと)に寺が移されましたひらめき

此時大寧寺にを(お)いて義隆の葬儀ありて当時前住職異雪和尚引導焼香し参らせ、龍福寺殿前七州太守瑞雲主殊天大居士の法諱を獻(たてまつ)れり、瑞雲ハすなわち当寺の山なり、これより六年を経て弘治三年といふに後奈良院より当寺再興の綸旨を賜(たま)ひて築山の古處に寺宇を移され、義隆卿の菩提寺となし給ヘリ云々(『防長風土注進案13山口宰判下』(1841(天保12)年以降))

1557(弘治3)年といえば、その前年より毛利は防長経略を行い、その4月に大内氏の最後の当主 義長を滅ぼしました。


かわいい1569(永禄12)年 大内輝元の乱が起こりますひらめき

1569(永禄12)年、豊後大友氏の許に身を寄せていた大内輝弘(政弘の次男高弘の子ども)が山口に乱入し、「築山竜福寺」に立て籠もりました。10日あまりで鎮圧されますが、山口市街は壊滅状態になります。
『戦死武功書出』(山口県文書館蔵 毛利家文庫)に載っているそうですが、確認できていませんちっ(怒った顔)


かわいい1572(元亀3)年 毛利輝元が龍福寺の再興を命じますひらめき

今度龍福寺再興之儀申遣候処、各相談如形相調之由候、誠祝着之至候、於彼寺家者不可指捨儀候間、弥各可付心 事肝要候、謹言
  六月十三日   輝元(花押)
(「毛利輝元書状」(龍福寺蔵 1572))


かわいい1576(天正4)頃、乗福寺の塔頭 同照庵が龍福寺に寄進されましたひらめき

同照庵客殿、龍福寺江可被成御寄進之旨候、被申渡之、頓被引移御建立于(肝)要候、恐々謹言、
 八月六日
  (「毛利氏奉行人連判状」(龍福寺蔵)


かわいい1603(慶長8)年 益田元祥が龍福寺を拝領し破却しました。ひらめき

御打入之時(、)只今寺地益田殿御拝領(、)寺破却(『山口町 竜福寺』(山口県文書館蔵 寺社由来815))

御打入とは、1600(慶長5)年の関ヶ原の戦いで破れ周防・長門二ヶ国の36万石に減封され萩に追いやられた毛利輝元が、1604(慶長9)年11月に山口から 建設中の萩城に入ったことをいいます。
益田殿とは、益田元祥のこと。
御打入のとき、輝元から龍福寺の土地を拝領したことになります。


かわいい1607(慶長12)年 龍福寺が復興されました。ひらめき

又慶長十二年今寺被成御書御建立(『山口町 竜福寺』(山口県文書館蔵 寺社由来815))



明治14年に火災にあい禅堂と山門を残して焼失しました。そこで再建に際し、元大内氏の氏寺であった興隆寺の本堂を移築したのが今の本堂です。
本堂は、桁行5間、梁間5間で、屋根は入母屋造り、桧皮葺です。建築手法は和様で、室町時代の代表的な寺院建築として、昭和29年に国の重要文化財に指定されました


境内に立っている「龍福寺の由緒書」の「毛利元就公の長男隆元公が、養父大内義隆公の菩提寺として、天皇の綸旨を受けて建立した寺である」が気になって調べてみました。
やっぱり少し違うようですね。
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竪小路側の入口には立派な石碑が建っています。
今までの大内氏館の発掘調査では、まだ大門の遺構が出ていないそうです。
もしかしたら、大殿大路側ではなく、竪小路側かもしれません。
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参考文献:
『大内氏館跡12』(山口市教育委員会 2011)
 「龍福寺と寺地の沿革」P19〜26
 「龍福寺の動向と時期区分」P253〜260



【次回に続く】
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