大内氏館(13)唐人小路 @ 大内氏遺跡指定60周年記念バスツアー2019㉘
[2020年04月17日(Fri)]
【前回の続き】
「大内氏館(8)北域の外郭施設」のところで少し触れましたが、「唐人小路」というのがあります。「上竪小路を西へ入る所」(『注進案』)で、そこには、渡来人が居住する「唐人町」という町があり(『山口古図』)、「外国(客)館」が建っていた(『山口名勝旧蹟図誌』)といいます
『山口古図』(山口県文書館蔵 軸物史料218)
雲谷雪舟ニ可庸ノ両人滞留アリ 唐人町ト云
明国ヨリ趙可庸ト言詩人数十年来ルヨリ其名町名ナリ
と、光台寺の辺りに書き込みがあります。
「可庸(かよう)」は、明の使節 趙秩(ちょうちつ)の字(あざな)です。1373(応安6)年、弘世に招かれて山口に滞在し、山口十境詩を作ったと言われています。
『注進案』山口下−山口街志六
唐人小路 上竪小路より西に入る所
郡庁考、寛永の山口町割の図に此名あり、上竪小路西へ入る所もあまたありて今某所を知る人なし、明人張思朝に屋敷一区を賜ひし事あれと、それハ大町にて賜ひしよし見ゆれハこゝに非し、
『山口名勝旧蹟図誌』(近藤清石/著 宮川博古堂 明26,27)
唐人小路
土人の云ひ伝えに大内氏の時に外国館ありしと云ふ。
外客館
古老の伝に唐人小路に在りて、外客この館より大内氏の居館に出るには、竪小路を下り野田町に入り、居館の左側なる唐橋と云ふ橋を渡りて館内に入りしと云ふ。
この3つが示すのは、いずれも、上竪小路。光台寺は今もあるので、だいたいの場所の検討はつきます。
そんな時に思い出したのが、以前、山口ふるさとふれあい総合センターでいただいた絵図の本です。古い絵図に現在の道路や施設を落とし込んでいて、今昔を楽しむようになっています。
その中の古地図シリーズC『幕末山口市街図』(山口県文書館蔵)に、ありました「唐人小路」が説明つきで。
唐⼈⼩路
大内時代に外国館があったと伝えられます。
幕末、一つ橋たもとにあった 藩の養蚕局で、品川弥⼆郎らがひそかに錦の御旗を作らせました。
とありました。錦の御旗製作所は今は観光スポットとして2019年に整備されていて、それを横目で見ながら車で走っていましたが、一度も行ったことがありませんでした。
光台寺と錦の御旗製作所を目指して行ってみましょう。
ただ、この地図は不鮮明なので、山口県文書館のサイトで 『幕末山口市街図』(山口県文書館蔵 袋入絵図178)(慶応元年(1865)〜明治元年(1868)頃)をチェックします。
明治初年頃のもので、市街地の街並みを町ごとに色分けし、裏手の土地等には区画ごとに面積が記入されているとてもきれいな地図です。
何度も見たことのあった地図なのに、ちゃんと「唐人小路」とあるなんて、気づきもしませんでした
大内氏館の北堀から出発し、築山小路に出て、さらに竪小路を北に進みます。
築山跡の築地跡と築山神社を横目で見て、
地下道を渡り、上竪小路を進みます。
この辺りを通る度に、司馬遼太郎『街道をゆく』第1巻「甲州街道、長州路ほか」第5章「長州路」の「瑠璃光寺など」(朝日出版社)を思い出します。
途中、町並みが暗い。道はせまく、両側の軒が車の窓ガラスにせまり、旧街道の趣きが濃く残っている。
竪小路には古い町家が残っています。
こちらが、光台寺。
『山口古図』に「光薹寺 一向」と書き込みがあります。
清末毛利出屋敷長屋門の遺構もあります。
清末藩は毛利の支藩の一つのです。なので、家紋は一文字三星です。
でも、ここまで来たら行き過ぎです。
伊勢小路の次の西への路地が唐人小路です
左折すると錦の御旗製作所広場。
正式名称は「錦の御旗製作所跡ポケットパーク」だそうです。
そろそろ一の坂川が見えてきました。
一の坂川に架かる一つ橋の袂にある「錦の御旗製作所址」。
「錦の御旗」説明板。
今来た道を振り返ってみると……。
古図を参考に歩くことができるっていいですね
ついでに、錦の御旗製作所跡ポケットパークに寄ってみます
「錦の御旗」説明板。
これが錦の御旗。勤王の志士が泊まっていた松田屋ホテルにあるそうです。
こちらに掲示してあった地図を利用させていただいて、唐人小路の地図を作ってみました
『注進案』に、「寛永の山口町割の図に此名あり、上竪小路西へ入る所もあまたありて今某所を知る人なし」とあるように、何も残っていないし、入り口も狭いし、伊勢小路自体がバイパスができて様変わりしているし、わかりにくいのでご参考に。
黄色く塗ったところ
新伊勢橋の方から行く方が間違えが少ないかも・・・・・・。
また、上竪小路の地下道を通って、大内氏館へ戻ります。
国道9号の南側歩道そばに上竪地蔵があります。
安置されている地蔵菩薩は弘直(?〜1336)の作だそうです。弘直は大内23代の弘幸の弟です。
政弘の代に一の坂に祀られ、後に銀山の祈願所になり、大火の際この地に飛来し、お堂に祀ったと伝えられています。
「このお堂は九号バイパスの用地内にあるためやむなくこの地に移転したものです」とあります。
『幕末山口市街図』には、伊勢小路と唐人小路の間の東側に「地蔵堂」があるのですが、これだったのですね
山口ふるさとふれあい総合センター古地図シリーズB『山口町村図』(山口県文書館蔵)(江戸時代末頃)にも見えます。
築山跡が見えてきました。
築山跡にあった地図に「唐人小路」も加えてみました。
唐人たちはこうして、大内氏館に通っていたのですね。
唐橋があったという言い伝えのある大内氏館の北堀から10分もかからない距離です。
参考文献:
『山口市史 史料編 大内文化』(山口市 2010)「唐人小路・唐本屋」P909
『幕末山口市街図』(袋入絵図178 1865(慶応元)〜1868(明治元)年 山口県文書館蔵)
※山口県文書館のサイトでインターネット公開されています。
山口ふるさとふれあい総合センター古地図シリーズB『山口町村図』
山口ふるさとふれあい総合センター古地図シリーズC『幕末山口市街図』
※山口ふるさとふれあい総合センターのサイトでインターネット公開されています。
『大内氏時代山口古図』(山口県文書館蔵 軸物史料218)
※山口県文書館の「高画質画像ダウンロード」サイトでインターネット公開しています。
『山口名勝旧蹟図誌』(近藤清石/著 宮川博古堂 明26,27)
※国立国会図書館のサイトでインターネット公開されています。
【次回に続く】
「大内氏館(8)北域の外郭施設」のところで少し触れましたが、「唐人小路」というのがあります。「上竪小路を西へ入る所」(『注進案』)で、そこには、渡来人が居住する「唐人町」という町があり(『山口古図』)、「外国(客)館」が建っていた(『山口名勝旧蹟図誌』)といいます
『山口古図』(山口県文書館蔵 軸物史料218)
雲谷雪舟ニ可庸ノ両人滞留アリ 唐人町ト云
明国ヨリ趙可庸ト言詩人数十年来ルヨリ其名町名ナリ
と、光台寺の辺りに書き込みがあります。
「可庸(かよう)」は、明の使節 趙秩(ちょうちつ)の字(あざな)です。1373(応安6)年、弘世に招かれて山口に滞在し、山口十境詩を作ったと言われています。
『注進案』山口下−山口街志六
唐人小路 上竪小路より西に入る所
郡庁考、寛永の山口町割の図に此名あり、上竪小路西へ入る所もあまたありて今某所を知る人なし、明人張思朝に屋敷一区を賜ひし事あれと、それハ大町にて賜ひしよし見ゆれハこゝに非し、
『山口名勝旧蹟図誌』(近藤清石/著 宮川博古堂 明26,27)
唐人小路
土人の云ひ伝えに大内氏の時に外国館ありしと云ふ。
外客館
古老の伝に唐人小路に在りて、外客この館より大内氏の居館に出るには、竪小路を下り野田町に入り、居館の左側なる唐橋と云ふ橋を渡りて館内に入りしと云ふ。
この3つが示すのは、いずれも、上竪小路。光台寺は今もあるので、だいたいの場所の検討はつきます。
そんな時に思い出したのが、以前、山口ふるさとふれあい総合センターでいただいた絵図の本です。古い絵図に現在の道路や施設を落とし込んでいて、今昔を楽しむようになっています。
その中の古地図シリーズC『幕末山口市街図』(山口県文書館蔵)に、ありました「唐人小路」が説明つきで。
唐⼈⼩路
大内時代に外国館があったと伝えられます。
幕末、一つ橋たもとにあった 藩の養蚕局で、品川弥⼆郎らがひそかに錦の御旗を作らせました。
とありました。錦の御旗製作所は今は観光スポットとして2019年に整備されていて、それを横目で見ながら車で走っていましたが、一度も行ったことがありませんでした。
光台寺と錦の御旗製作所を目指して行ってみましょう。
ただ、この地図は不鮮明なので、山口県文書館のサイトで 『幕末山口市街図』(山口県文書館蔵 袋入絵図178)(慶応元年(1865)〜明治元年(1868)頃)をチェックします。
明治初年頃のもので、市街地の街並みを町ごとに色分けし、裏手の土地等には区画ごとに面積が記入されているとてもきれいな地図です。
何度も見たことのあった地図なのに、ちゃんと「唐人小路」とあるなんて、気づきもしませんでした
大内氏館の北堀から出発し、築山小路に出て、さらに竪小路を北に進みます。
築山跡の築地跡と築山神社を横目で見て、
地下道を渡り、上竪小路を進みます。
この辺りを通る度に、司馬遼太郎『街道をゆく』第1巻「甲州街道、長州路ほか」第5章「長州路」の「瑠璃光寺など」(朝日出版社)を思い出します。
途中、町並みが暗い。道はせまく、両側の軒が車の窓ガラスにせまり、旧街道の趣きが濃く残っている。
竪小路には古い町家が残っています。
こちらが、光台寺。
『山口古図』に「光薹寺 一向」と書き込みがあります。
清末毛利出屋敷長屋門の遺構もあります。
清末藩は毛利の支藩の一つのです。なので、家紋は一文字三星です。
でも、ここまで来たら行き過ぎです。
伊勢小路の次の西への路地が唐人小路です
左折すると錦の御旗製作所広場。
正式名称は「錦の御旗製作所跡ポケットパーク」だそうです。
そろそろ一の坂川が見えてきました。
一の坂川に架かる一つ橋の袂にある「錦の御旗製作所址」。
「錦の御旗」説明板。
今来た道を振り返ってみると……。
古図を参考に歩くことができるっていいですね
ついでに、錦の御旗製作所跡ポケットパークに寄ってみます
「錦の御旗」説明板。
これが錦の御旗。勤王の志士が泊まっていた松田屋ホテルにあるそうです。
こちらに掲示してあった地図を利用させていただいて、唐人小路の地図を作ってみました
『注進案』に、「寛永の山口町割の図に此名あり、上竪小路西へ入る所もあまたありて今某所を知る人なし」とあるように、何も残っていないし、入り口も狭いし、伊勢小路自体がバイパスができて様変わりしているし、わかりにくいのでご参考に。
黄色く塗ったところ
新伊勢橋の方から行く方が間違えが少ないかも・・・・・・。
また、上竪小路の地下道を通って、大内氏館へ戻ります。
国道9号の南側歩道そばに上竪地蔵があります。
安置されている地蔵菩薩は弘直(?〜1336)の作だそうです。弘直は大内23代の弘幸の弟です。
政弘の代に一の坂に祀られ、後に銀山の祈願所になり、大火の際この地に飛来し、お堂に祀ったと伝えられています。
「このお堂は九号バイパスの用地内にあるためやむなくこの地に移転したものです」とあります。
『幕末山口市街図』には、伊勢小路と唐人小路の間の東側に「地蔵堂」があるのですが、これだったのですね
山口ふるさとふれあい総合センター古地図シリーズB『山口町村図』(山口県文書館蔵)(江戸時代末頃)にも見えます。
築山跡が見えてきました。
築山跡にあった地図に「唐人小路」も加えてみました。
唐人たちはこうして、大内氏館に通っていたのですね。
唐橋があったという言い伝えのある大内氏館の北堀から10分もかからない距離です。
参考文献:
『山口市史 史料編 大内文化』(山口市 2010)「唐人小路・唐本屋」P909
『幕末山口市街図』(袋入絵図178 1865(慶応元)〜1868(明治元)年 山口県文書館蔵)
※山口県文書館のサイトでインターネット公開されています。
山口ふるさとふれあい総合センター古地図シリーズB『山口町村図』
山口ふるさとふれあい総合センター古地図シリーズC『幕末山口市街図』
※山口ふるさとふれあい総合センターのサイトでインターネット公開されています。
『大内氏時代山口古図』(山口県文書館蔵 軸物史料218)
※山口県文書館の「高画質画像ダウンロード」サイトでインターネット公開しています。
『山口名勝旧蹟図誌』(近藤清石/著 宮川博古堂 明26,27)
※国立国会図書館のサイトでインターネット公開されています。
【次回に続く】