赤崎神社(1) @ 大内氏遺跡指定60周年記念バスツアー2019C
[2020年03月24日(Tue)]
【前回の続き】
周防大橋を渡り、次は、山口市秋穂にある赤崎神社に行きました
ブログ記事「赤崎様など @ 山口市大歳三作地区の鎮守」で少しだけ触れたことがあるのですが、牛馬安全守護の神として崇敬されている赤崎神社が、大内氏どう関係あるのでしょうか?
参道入り口と一の鳥居。
「赤崎神社由緒」の説明板。
赤崎神社由緒
鎮座地 山口市秋穂東二五六六番地
御祭神 田心姫命(たごりひめのみこと) 、湍津姫命(たぎつひめのみこと) 、市杵島姫命(いちきしまひめのみこと)
配祭神 大年神(おおとしのかみ) 、天御中主神(あめのみなかぬしのかみ)
大海の氏神赤崎神社は天智天皇の御宇(六七〇)の創建と云う。『道中家文書』によると、宇佐嶋より三女神のお供をして道中大和守水沼重基が、嶋山を巡りはじめて七日七夜の後、この三女神を奉祭するとある。社殿の創建は、奈良時代の神亀四年(七二七)と伝える。
安土桃山時代の文禄四年(一五九五)に社殿焼失、江戸時代の正保元年(一六四四)に再建。更に文化九年(一八一二)社殿再建。この頃、参道の両側にある多くの灯籠等の石造物も奉納されている。又、明治十三年(一八八〇)、拝殿が再建。平成十六(二〇〇四)現本殿再建。
社伝として伝えられる記録によると、鎌倉時代の元暦二年(一一八五)源義経が平家追討のためにこの浦に船をよせられ、当社に参詣された。朝敵退治の御祈祷をし、神楽を奏じつつ「千はやふる神の誓いを今ぞしる」と打ち詠じ給うた。すると、空中より妙なる御声が聞えたので、「さては神明感応ましましけりと信心肝に銘じ給うた」と『風土注進案』には書かれている。
正徳三年(一七一三)に「赤崎大明神縁起」ができ、現存している。
赤崎神社は、「赤崎様」として古来から、牛馬安全・海上安全守護の神として崇敬され、その御分霊を祀る神社は阿知須の赤崎社、長門の赤崎社、平川の赤崎社など県内各地にある。
やっぱり平川の赤崎様は赤崎神社の御分霊だったのですね。
併せて今回資料に載っていた『山口県神社誌』(山口県神社庁 1998)のP22〜23の「赤崎神社」の項も引用ししておきます。
赤崎神社
(略)
由緒沿革 奈良時代の神亀四年(七二七)、鎮座と云う。しかし『道中家文書』によると、それより以前天智天皇の御宇(六六二〜)、三女神のお供をして道中大和守水沼重基が、嶋山を巡りはじめて七日七夜の後、この三女神を奉祭する、とも伝える。又社伝として伝えられる記録によると、鎌倉時代の元暦二年(一一八五)、源義経が平家追討のためにこの浦に船をよせられ、当社に参詣された。朝敵退治の御祈祷をし、神楽を奏じつつ「千はやふる神の誓いを今ぞしる」と打ち詠じ給うた。すると、空中より妙なる御声が聞えたので、「さては神明感応ましましけりと信心肝に銘じ給うた」と『風土注進案』には書かれている。現に、近年まで源義経奉納の鎧と称するものがあったが、現在は見あたらない。又社殿北側にある平らな約二畳余りの石を、「義経汐待ち石」と云い伝えている。安土桃山時代の文禄四年(一五九五)に社殿焼失。江戸時代の正保元年(一六四四)に再建。正徳三年(一七一三)に「赤崎大明神縁起」ができ、現存している。更に文化九年(一八一二)、社殿再建。この頃、参道の両側にある多くの灯籠等の石造物も奉納されている。又、明治十三年(一八八〇)、拝殿が再建されたと云う。当社は、牛馬安全守護の神として崇敬されている。当社の別当坊は、長徳寺(現在の大昌寺)であった。昭和六年(一九三一)村社に列する。(略)
ここにも大内氏についての記述がない!
手水舎の手水。
ここの手水石の穴は盃状穴(はいじょうけつ)だと同行の方が教えてくださいました。
詳しい方がいるのです。
盃状穴とは・・・。
竪小路の築山神社に説明板と実物がありました!
築山神社の盃状穴
手水舎のそばにある「赤崎神社十二の舞」説明板。
山口市指定無形民俗文化財
赤崎神社十二の舞
昭和五十二年三月三十日指定
当社では六月・十一月の申の日に祭が行われるが、特に十二年に一度、申年霜十一月申の日には、国家安全・五穀豊穣を祈願して大祭が行われ、十二の舞が奉納されてきた。
古老の口伝では、当社の西方の森に猿が住みつき、農作物に被害を与え疫病が流行し、この猿と疫病を封じ込めるために十二の舞が奉納されるようになったといわれている。
十二の舞は、神楽舞に始まり、当社の末社・日本(おおもと)の大社諸神・疫神・三宝荒神の勧請の舞が続く。それらの神々の前で、王子の舞(四方四季を司る舞)が行われる。その後、天の岩戸神話を表した岩戸の舞があり、最後に、御前舞(みさきのまい)が行われる。
いつ頃から行われているかは明らかでない。天保七年(一八三六)に初めて一般の人達の神楽となり、赤崎地区の若者達が受け継いで奉納するようになった。
第二次世界大戦一時中断していたが昭和四十八年(一九七三)赤崎地区に保存会が結成され今日に至っている。
拝殿前の狛犬。
1803(享和3)年8月建立。
お顔の風化がかなり進んでいます。
拝殿。
拝殿内部。
社号額と船の奉納額。
「小林和作」の名があります。
秋穂は洋画家の小林和作(1888〜1974)の故郷なので、小林家は氏子だったのでしょうね。
船の奉納額が実は、大内氏が行っていた勘合貿易の遣明船?などと勝手に思っています。
拝殿の天井絵。
植物画の格子天井です。
本殿、幣殿と神饌所。
【次回に続く】
周防大橋を渡り、次は、山口市秋穂にある赤崎神社に行きました
ブログ記事「赤崎様など @ 山口市大歳三作地区の鎮守」で少しだけ触れたことがあるのですが、牛馬安全守護の神として崇敬されている赤崎神社が、大内氏どう関係あるのでしょうか?
参道入り口と一の鳥居。
「赤崎神社由緒」の説明板。
赤崎神社由緒
鎮座地 山口市秋穂東二五六六番地
御祭神 田心姫命(たごりひめのみこと) 、湍津姫命(たぎつひめのみこと) 、市杵島姫命(いちきしまひめのみこと)
配祭神 大年神(おおとしのかみ) 、天御中主神(あめのみなかぬしのかみ)
大海の氏神赤崎神社は天智天皇の御宇(六七〇)の創建と云う。『道中家文書』によると、宇佐嶋より三女神のお供をして道中大和守水沼重基が、嶋山を巡りはじめて七日七夜の後、この三女神を奉祭するとある。社殿の創建は、奈良時代の神亀四年(七二七)と伝える。
安土桃山時代の文禄四年(一五九五)に社殿焼失、江戸時代の正保元年(一六四四)に再建。更に文化九年(一八一二)社殿再建。この頃、参道の両側にある多くの灯籠等の石造物も奉納されている。又、明治十三年(一八八〇)、拝殿が再建。平成十六(二〇〇四)現本殿再建。
社伝として伝えられる記録によると、鎌倉時代の元暦二年(一一八五)源義経が平家追討のためにこの浦に船をよせられ、当社に参詣された。朝敵退治の御祈祷をし、神楽を奏じつつ「千はやふる神の誓いを今ぞしる」と打ち詠じ給うた。すると、空中より妙なる御声が聞えたので、「さては神明感応ましましけりと信心肝に銘じ給うた」と『風土注進案』には書かれている。
正徳三年(一七一三)に「赤崎大明神縁起」ができ、現存している。
赤崎神社は、「赤崎様」として古来から、牛馬安全・海上安全守護の神として崇敬され、その御分霊を祀る神社は阿知須の赤崎社、長門の赤崎社、平川の赤崎社など県内各地にある。
やっぱり平川の赤崎様は赤崎神社の御分霊だったのですね。
併せて今回資料に載っていた『山口県神社誌』(山口県神社庁 1998)のP22〜23の「赤崎神社」の項も引用ししておきます。
赤崎神社
(略)
由緒沿革 奈良時代の神亀四年(七二七)、鎮座と云う。しかし『道中家文書』によると、それより以前天智天皇の御宇(六六二〜)、三女神のお供をして道中大和守水沼重基が、嶋山を巡りはじめて七日七夜の後、この三女神を奉祭する、とも伝える。又社伝として伝えられる記録によると、鎌倉時代の元暦二年(一一八五)、源義経が平家追討のためにこの浦に船をよせられ、当社に参詣された。朝敵退治の御祈祷をし、神楽を奏じつつ「千はやふる神の誓いを今ぞしる」と打ち詠じ給うた。すると、空中より妙なる御声が聞えたので、「さては神明感応ましましけりと信心肝に銘じ給うた」と『風土注進案』には書かれている。現に、近年まで源義経奉納の鎧と称するものがあったが、現在は見あたらない。又社殿北側にある平らな約二畳余りの石を、「義経汐待ち石」と云い伝えている。安土桃山時代の文禄四年(一五九五)に社殿焼失。江戸時代の正保元年(一六四四)に再建。正徳三年(一七一三)に「赤崎大明神縁起」ができ、現存している。更に文化九年(一八一二)、社殿再建。この頃、参道の両側にある多くの灯籠等の石造物も奉納されている。又、明治十三年(一八八〇)、拝殿が再建されたと云う。当社は、牛馬安全守護の神として崇敬されている。当社の別当坊は、長徳寺(現在の大昌寺)であった。昭和六年(一九三一)村社に列する。(略)
ここにも大内氏についての記述がない!
手水舎の手水。
ここの手水石の穴は盃状穴(はいじょうけつ)だと同行の方が教えてくださいました。
詳しい方がいるのです。
盃状穴とは・・・。
竪小路の築山神社に説明板と実物がありました!
築山神社の盃状穴
手水舎のそばにある「赤崎神社十二の舞」説明板。
山口市指定無形民俗文化財
赤崎神社十二の舞
昭和五十二年三月三十日指定
当社では六月・十一月の申の日に祭が行われるが、特に十二年に一度、申年霜十一月申の日には、国家安全・五穀豊穣を祈願して大祭が行われ、十二の舞が奉納されてきた。
古老の口伝では、当社の西方の森に猿が住みつき、農作物に被害を与え疫病が流行し、この猿と疫病を封じ込めるために十二の舞が奉納されるようになったといわれている。
十二の舞は、神楽舞に始まり、当社の末社・日本(おおもと)の大社諸神・疫神・三宝荒神の勧請の舞が続く。それらの神々の前で、王子の舞(四方四季を司る舞)が行われる。その後、天の岩戸神話を表した岩戸の舞があり、最後に、御前舞(みさきのまい)が行われる。
いつ頃から行われているかは明らかでない。天保七年(一八三六)に初めて一般の人達の神楽となり、赤崎地区の若者達が受け継いで奉納するようになった。
第二次世界大戦一時中断していたが昭和四十八年(一九七三)赤崎地区に保存会が結成され今日に至っている。
拝殿前の狛犬。
1803(享和3)年8月建立。
お顔の風化がかなり進んでいます。
拝殿。
拝殿内部。
社号額と船の奉納額。
「小林和作」の名があります。
秋穂は洋画家の小林和作(1888〜1974)の故郷なので、小林家は氏子だったのでしょうね。
船の奉納額が実は、大内氏が行っていた勘合貿易の遣明船?などと勝手に思っています。
拝殿の天井絵。
植物画の格子天井です。
本殿、幣殿と神饌所。
【次回に続く】