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こどもと本ジョイントネット21・山口


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南明秋興 @ 臨済宗南禅寺派南明山乗福寺に行きました@ [2020年03月18日(Wed)]
かねてより念願の山口市大内御堀にある乗福寺に行きましたぴかぴか(新しい)

萩往還沿いにある「乗福寺」という標識を見る度に行きたい、と思いつつも、入り口の道路が狭くて躊躇していたのですが、16日(月)、連れて行ってもらいました。

入ってみると御堀団地という住宅団地が広がり、意外に広くてびっくりしました。
これなら一人で来ることができそうです。

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乗福寺は臨済宗の古寺で、創建は鎌倉時代の終わりの1312(正和元)年に建立されました。本尊は観世音菩薩、開山は盧峰和尚、開基は大内重弘
大内氏歴代は臨済宗を信奉し、乗福寺は周防で最初の禅宗寺院といわれています。
1320(元応2)年3月6日重弘の死後ここに葬られ、菩提寺となりました。
ということは、今年は没後700年ではないですか!

乗福寺の歴代住職には京都五山の高僧が多く入り、1334(建武元)年には後醍醐天皇の勅願寺となり、1336(延元元/建武3)年北朝が勅願寺としました。
1345(興国6/貞和元)年室町幕府 足利氏が諸国に安国寺と利生塔を定めたとき、乗福寺の塔をもって、周防国の利生塔にあてられました。

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駐車場も入口は狭いですが中は広いです。
駐車場に入るとすぐ山口高等商業学校卒業生の植樹記念碑がありました。
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大内弘世(1325(正中2)〜1380(天授6/康暦2))の治世、1372(文中元/応安5)年冬から翌1373(文中2/応安6)年10月の間、山口に滞在した明使 趙秩(ちょうちつ)が名勝十ヵ所を詠んだ漢詩「山口十境詩」があります。
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乗福寺では「南明秋興」を詠みました。
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金玉樓臺擁翠微
南山秋色兩交輝
西風落葉雲門静
暮雨欲來僧未歸


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金玉(きんぎょく)の楼台(ろうだい)、翠微(すいび)を擁(よう)し
南山(なんざんの)の秋色(しゅうしょく)、両(ふた)つながら輝(き)を交(まじ)ふ
西風(せいふう)、葉(は)を落(お)として雲門(うんもん)静(しず)かなり
暮雨(ぼう)、来(き)たらんと欲(ほっ)して僧(そう)未(いま)だ帰(かえ)らず


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 南明の秋興の由来
金箔や珠玉をちりばめた、
美しく高い建物に、
山のみどりのもやがうっすらとかかり、
乗福寺の境内の秋景色は、
楼台と翠微との彩が照り映えて、えもいわれぬ。
折から一陣の秋風が吹いて
樹々の葉を落として通りすぎ、
高くそびえる山門のあたりは静寂そのもの。
夕暮れの雨が降りそうな気配がするのに、
寺の和尚は未明になってもまだ帰ってこない。


詩碑と山門を一緒に写してみましたが、こんな侘びた世界ではなかったと思います。
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大内御堀の南明山乗福寺の秋景色を詠んだ詩である。乗福寺は二十二代大内重弘による開基で、境内には琳聖太子の供養等、大内重弘・弘世の墓がある。
なお、詩の意訳は山口市在住の郷土史家荒巻大拙氏による。


荒巻大拙先生は母校 山口高校の国語の先生で、在学中、先生の現国の授業も大好きだったのですが、卒業後も交流があり、先生の著書『山口十境詩考 : 弘世公の開府宣言 : かがやける大内文化の精華(荒巻大拙 2000.4)もいただきました。
なので、趙秩の「山口十境詩」詩碑に出合うと嬉しくなります。


文明末年(1486年)には、五山十刹のうちの十刹となります。
永正(1504〜1521)末年頃、火災により伽藍のほとんどを焼失し荒れてしまったと伝えられ、その後、大内義隆(1507(永正4)〜1551(天文20))の再建で、1531(享禄4)年に法堂が落成し、山門供養が行われました。
寺運の盛んな時は、塔頭36ケ寺、末寺88ケ寺あったといわれますが、大内氏滅亡とともに衰退しました。

毛利氏時代になり、寺は解かれて、乗福寺の塔頭は大内弘世の菩提所である正寿院を残して、全て博多(福岡市)の黒田氏に贈られました。黒田氏はこれで菩提寺の崇福寺を建立したといわれています。(『栄光と挫折の賦 ― 守護大名大内氏(山本一成/著 大内文化探訪会 2006.4)参照)(著者の山本先生も山高の日本史の先生でした。私は日本史は窪田先生に習ったので山本先生の授業は受けていません。)

そして寺跡には小庵を建てわずかにその名を存していましたが、1668(寛文8)年には近火により類焼しました。
そこで塔頭の正寿院を転じて乗福寺とし、1691(元禄4)年に本堂を再建したと伝えられています。

火災などで幾多の寺宝が失われましたが、乗福寺文書乗福寺伽藍図などが今に伝わっています。
乗福寺文書には、大内義隆の外交文書を書いた南禅寺の僧 梅屋宗香(ばいおくそうこう)(?〜1545)が乗福寺にいたことが記された文書もあります。
乗福寺伽藍図は創建当時のものと考えられ、唐様の建物が描かれています。

昨年、山口市歴史民俗資料館で開催された 大内氏遺跡指定60周年記念事業特別展「大内氏のトビラ 〜 山口をつくった西国大名」で乗福寺文書が2点展示してありました。
『多々良氏譜牒』(乗福寺文書 貞享2年写)と『琳聖太子来朝記』(乗福寺文書 永正13年写)の2点です。

また、乗福寺跡から出土した瓦 軒丸瓦(乗福寺跡出土 室町)と滴水瓦(乗福寺跡出土 室町)と
龍頭(乗福寺跡出土 室町)も3点展示してありました。
「近年の発掘調査では、朝鮮半島に由来を持つ龍や鳳凰の文様の瓦が大量に出土しています。この瓦には、朝鮮の技術者が直接作成した可能性が高いもの、山口の技術者が朝鮮の意匠を取り入れて作成した可能性の高いものの二種があります。」(山口市歴史民俗資料館学芸員さんのお話)


駐車場広場には他にもこんなものがありました。
歴代の住職の墓。
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これは?
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手水?
方形だし、礎盤ではないかと妄想しています。
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【次回に続く】
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