中原中也直筆原稿「冬の日の記憶」「この小児」 @ 中原中也記念館 特別展示
[2020年02月18日(Tue)]
26年前の今日1994(平成6)年2月18日に中原中也記念館は開館しました。
それを記念して、2月14日(火)から24日(日)まで、中原中也記念館で「冬の日の記憶」と「この小児」の中也の直筆原稿が展示されています
▲2月15日付読売新聞
中也の第二詩集『在りし日の歌』に収録された「含羞」「春の日の歌」「冬の日の記憶」「この小児」の直筆原稿を2019年6月に所有者の岩田英子さんより寄託され、「含羞」「春の日の歌」は、10月22日の中也の命日に合わせて2019年10月16日(火)から27日(日)まで公開されました。
今回は、「冬の日の記憶」「この小児」の公開です。
公開された「冬の日の記憶」の直筆原稿は、1936(昭和11)年に雑誌『文學界』に掲載された際の印刷原稿と推定されます。
「冬の日の記憶」の直筆原稿が公開されるのは今回が初めてです
冬の日の記憶
昼、寒い風の中で雀を手にとつて愛してゐた子供が、
夜になつて、急に死んだ。
次の朝は霜が降つた。
その子の兄が電報打ちに行つた。
夜になつても、母親は泣いた。
父親は、遠洋航海してゐた。
雀はどうなつたか、誰も知らなかつた。
北風は往還を白くしてゐた。
つるべの音が偶々(たまたま)した時、
父親からの、返電が来た。
毎日々々霜が降つた。
遠洋航海からはまだ帰れまい。
その後母親がどうしてゐるか……
電報打つた兄は、今日学校で叱られた。
幼少時に亡くなった次弟 亜郎のことを思って書いた「冬の日の記憶」の制作は1935(昭和10)年12月と推定されています。その一年後、最愛の息子 文也が亡くなるとは…。
父親は、遠洋航海してゐた。
軍医だった父 謙助は、朝鮮に赴任中でした。
その子の兄が電報打ちに行つた。
電報を打ったりして、中也は長子の役割を小学生ながら果たしたことがうかがえます。
4歳の亜郎が亡くなったのは1915(大正4)年1月9日、中也は8歳でした。
1936(昭和11)年に書かれた「我が詩観」に添えられた「詩的履歴書」に、
詩的履歴書。―― 大正四年の初め頃だつたか終頃であつたか兎も角寒い朝、その年の正月に亡くなつた弟を歌つたのが抑々(そもそも)の最初である。学校の読本の、正行(まさつら)が御暇乞(おいとまごひ)の所、「今一度天顔を拝し奉りて」といふのがヒントをなした。
詩作をはじめたのは亜郎の死を歌ったのが最初だった、と中也は記しています。どんな詩だったのでしょうか?読んでみたいです。
実のところ、中也は、たくさんの肉親の死、友人の死を経験しています。
1915(大正4)年 中也8歳 次弟・亜郎(つぐろう)4歳
1921(大正10)年 中也14歳 養祖父・政熊66歳
1925(大正14)年 中也18歳 富永太郎24歳
1928(昭和3)年 中也21歳 父・謙助52歳
1931(昭和6)年 中也24歳 三弟・恰三(こうぞう)19歳
1932(昭和7)年 中也25歳 祖母・スヱ74歳
1935(昭和10)年 中也27歳 養祖母・コマ72歳
1936(昭和11)年 中也29歳 長男・文也2歳
「この小児」は、妖精(コボルト)が登場する幻想的な詩です。中也が父親になったとき、子どもに対して抱いた愛情と不安がうかがえます。
展示されている直筆原稿は、同じように雑誌『文學界』に1935(昭和10)年に掲載された際の印刷原稿と考えられています。
この小児
コボルト空に往交(ゆきか)へば、
野に
蒼白の
この小児[しょうに]。
黒雲[くろくも or こくうん]空にすぢ引けば、
この小児
搾(しぼ)る涙は
銀の液……
地球が二つに割れゝばいい、
そして片方は洋行すればいい、
すれば私はもう片方に腰掛けて
青空をばかり――
花崗の巌(いはほ)や
浜の空
み寺の屋根や
海の果て……
15日観に行きましたが、推敲のあとや活字の大きさなどにもこだわっていたことがよく分かりました。
是非実物から「詩人の息づかい」を感じてください。
なお、中原中也記念館では、「清家雪子展 ― 「月に吠えらんねえ」の世界」とテーマ展示「教科書で読んだ中也の詩 ― 思い出の一篇」を開催中です。
(写真はNHK「情報維新!やまぐち」2月14日放映分)
それを記念して、2月14日(火)から24日(日)まで、中原中也記念館で「冬の日の記憶」と「この小児」の中也の直筆原稿が展示されています
▲2月15日付読売新聞
中也の第二詩集『在りし日の歌』に収録された「含羞」「春の日の歌」「冬の日の記憶」「この小児」の直筆原稿を2019年6月に所有者の岩田英子さんより寄託され、「含羞」「春の日の歌」は、10月22日の中也の命日に合わせて2019年10月16日(火)から27日(日)まで公開されました。
今回は、「冬の日の記憶」「この小児」の公開です。
公開された「冬の日の記憶」の直筆原稿は、1936(昭和11)年に雑誌『文學界』に掲載された際の印刷原稿と推定されます。
「冬の日の記憶」の直筆原稿が公開されるのは今回が初めてです
冬の日の記憶
昼、寒い風の中で雀を手にとつて愛してゐた子供が、
夜になつて、急に死んだ。
次の朝は霜が降つた。
その子の兄が電報打ちに行つた。
夜になつても、母親は泣いた。
父親は、遠洋航海してゐた。
雀はどうなつたか、誰も知らなかつた。
北風は往還を白くしてゐた。
つるべの音が偶々(たまたま)した時、
父親からの、返電が来た。
毎日々々霜が降つた。
遠洋航海からはまだ帰れまい。
その後母親がどうしてゐるか……
電報打つた兄は、今日学校で叱られた。
幼少時に亡くなった次弟 亜郎のことを思って書いた「冬の日の記憶」の制作は1935(昭和10)年12月と推定されています。その一年後、最愛の息子 文也が亡くなるとは…。
父親は、遠洋航海してゐた。
軍医だった父 謙助は、朝鮮に赴任中でした。
その子の兄が電報打ちに行つた。
電報を打ったりして、中也は長子の役割を小学生ながら果たしたことがうかがえます。
4歳の亜郎が亡くなったのは1915(大正4)年1月9日、中也は8歳でした。
1936(昭和11)年に書かれた「我が詩観」に添えられた「詩的履歴書」に、
詩的履歴書。―― 大正四年の初め頃だつたか終頃であつたか兎も角寒い朝、その年の正月に亡くなつた弟を歌つたのが抑々(そもそも)の最初である。学校の読本の、正行(まさつら)が御暇乞(おいとまごひ)の所、「今一度天顔を拝し奉りて」といふのがヒントをなした。
詩作をはじめたのは亜郎の死を歌ったのが最初だった、と中也は記しています。どんな詩だったのでしょうか?読んでみたいです。
実のところ、中也は、たくさんの肉親の死、友人の死を経験しています。
1915(大正4)年 中也8歳 次弟・亜郎(つぐろう)4歳
1921(大正10)年 中也14歳 養祖父・政熊66歳
1925(大正14)年 中也18歳 富永太郎24歳
1928(昭和3)年 中也21歳 父・謙助52歳
1931(昭和6)年 中也24歳 三弟・恰三(こうぞう)19歳
1932(昭和7)年 中也25歳 祖母・スヱ74歳
1935(昭和10)年 中也27歳 養祖母・コマ72歳
1936(昭和11)年 中也29歳 長男・文也2歳
「この小児」は、妖精(コボルト)が登場する幻想的な詩です。中也が父親になったとき、子どもに対して抱いた愛情と不安がうかがえます。
展示されている直筆原稿は、同じように雑誌『文學界』に1935(昭和10)年に掲載された際の印刷原稿と考えられています。
この小児
コボルト空に往交(ゆきか)へば、
野に
蒼白の
この小児[しょうに]。
黒雲[くろくも or こくうん]空にすぢ引けば、
この小児
搾(しぼ)る涙は
銀の液……
地球が二つに割れゝばいい、
そして片方は洋行すればいい、
すれば私はもう片方に腰掛けて
青空をばかり――
花崗の巌(いはほ)や
浜の空
み寺の屋根や
海の果て……
15日観に行きましたが、推敲のあとや活字の大きさなどにもこだわっていたことがよく分かりました。
是非実物から「詩人の息づかい」を感じてください。
なお、中原中也記念館では、「清家雪子展 ― 「月に吠えらんねえ」の世界」とテーマ展示「教科書で読んだ中也の詩 ― 思い出の一篇」を開催中です。
(写真はNHK「情報維新!やまぐち」2月14日放映分)