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こどもと本ジョイントネット21・山口


〜すべての子どもに本との出会いを〜

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忌宮神社 → 覚苑寺 @ 下関市長府@ [2019年12月07日(Sat)]
12月4日(水)、下関市長府の 法輪山覚苑寺 に行きましたぴかぴか(新しい)

忌宮神社より覚苑寺に向かって歩きました。
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これが歩いた道。
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旧松岡家長屋門
江戸時代に長府藩医を努めた松岡家の長家門で、江戸時代後期の建築と推定されています。城下町長府を象徴する長家門の一つであるため、文化財保護の見地から解体修理を行い、当初の位置から三m後退させて、練堀とともに整備しました。
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下関市立長府中学校を左手に見ながらしばらくすると、右手に曲がり少し歩くと法輪山覚苑寺です。ゆっくり歩いて10分足らず。

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  覚苑寺 安養寺町
 黄檗宗 元禄十一年(一六九八)長府藩主毛利綱元が 宇治黄檗山万福寺七世・悦山道宗禅師(中国福建省の人)を招き創建 功山寺・笑山寺とともに長府藩の菩提寺となる 
 悦山以来学僧相次ぎ 藩士の中から従学する者多く 長府藩文教興隆の拠点となった 堂宇は明の黄檗流の様式を備え庫裏は明治六年に勝山御殿の一部を移したもの
 境内地は わが国最初の金属貨幣「和同開珎」を鋳造した長門国鋳銭所の跡地で 国の史蹟指定を受け鋳銭遺物は重要文化財として現在長府博物館に寄託展示されている
 春の梅 桜 秋の紅葉の名所として知られる
 平成六年三月三十一日 長府観光協会
            城下町長府まちづくり協議会


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雑賀以空(さいがいくう)句碑
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而して櫻は塵となりにけり 


山門。
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狩野芳崖像
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近代日本画の傑作「悲母観音」で有名な狩野芳崖(1828-1888)は、長府印内で、長府藩の御用絵師 狩野晴皐の子として生まれ、初め父に画技を学び、19歳のとき、江戸に出て狩野勝川院雅信のもとに入門して画事を学びました。明治初期、フェノロサに見いだされ、日本画革新運動の強力な推進者となりました。東京美術学校(現東京芸大)創立に尽力しましたが開校を待たずして死去しました。
当山は狩野家の菩提寺で、芳崖は幕末期の名僧霖龍和尚のもとで参禅し、大きな精神的感化を受けました。のちに「芳崖」の画号のもとになった「禅の極致は法に入りて法の外に出ること(法外)」という言葉も霖龍和尚から与えられたもので、当初「法外」と号していたのを「芳崖」と改めたのもまた和尚の勧めだったと言われています。
1923年に芳崖の銅像は、1923年に一度建てられましたが、1943年に戦時供出の憂き目に遭い、現在の像(左画像)は1979年に生誕150年を記念してつくられたものです。
覚苑寺HPより)


杉聴雨先生頌徳碑
杉聴雨とは杉孫七郎のことです。
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長門鋳銭所跡
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  国指定史跡 長門鋳銭所跡(ながとのじゅぜんしょあと)
   指定年月日 昭和四年十二月十七日
 「長門鋳銭所跡」は、奈良・平安時代に長門鋳銭司(使)が置かれ、銭貨の鋳造を行った官営工房跡です。
 江戸時代前期の寛永年間(一六二四〜一六四三年)には鋳銭遺物の出土が記録されており、現在まで、数度におよぶ発掘や調査が行われ、「和同開珎(わどうかいちん)」 銅銭やその鋳型、坩堝(るつぼ)、鞴羽口(ふいごはぐち)などの銭貨鋳造用具のほか、貨幣鋳造に伴う副産物である銅滓(どうさい)などが多数出土しています。このことから、最も著名な古代流通貨幣である 「和同開珎」 の鋳造場所であることが明らかであるとして、その一部が 「史跡長門鋳銭所跡」 として国の史跡指定を受けています。また、長門鋳銭所跡の出土品の内、下関市立長府博物館所蔵品のほか一部の出土品が、「長門国鋳銭遺物(ながとのくにちゅうせんいぶつ)」として国の重要文化財に指定(昭和三十九年(一九六四)一月二十八日指定 考古資料)されています。
 さらに、平成二十二年五月、史跡長門鋳銭所跡の近接地で、和同開珎をはじめ大量の鋳造遺物と共に、数百点以上の古代木簡を発見しました。
 この内一点には、「天平二年(七三〇)五月四日」の墨書が認められ、『続日本紀』天平二年三月十三日条に、長門国での銅銭鋳造の目的で、周防国から送られたと記される銅の行き先が、ここ長門鋳銭所跡であり、鋳造された銭貨が和同開珎であることが明らかとなりました。
 また、このことから、「長門鋳銭司(ながとのじゅぜんし)」の所在と操業時期が改めて明らかとなりました。
    下関市教育委員会


長門鋳銭所跡は古代の貨幣鋳造機関の遺跡。下関市長府国分寺跡の西北部にあたり、現在は覚苑寺(かくおんじ)境内及び畑地となっている。遺跡の地下60〜90pの土中から和同開珎を作ったときの遺物等が出土したことにより長門鋳銭所として国史跡に指定された。長門鋳銭所は、おそくとも奈良時代の730(天平2)年頃には鋳造を開始していたと考えられている。
史跡地内からは、708(和銅1)年から鋳造が開始された貨幣である和同開珎1枚とそれを作ったときの型、るつぼや鞴口などが出土しており、これも長門国鋳銭遺物として国の重要文化財に指定されている。
山口県の文化財HP) 


本堂(大雄宝殿)が見えてきました。
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下関市指定有形文化財(建造物)
  覚苑寺本堂
   指定月日 昭和61年(1986)5月10日
   建築面積 159.239㎥(裳階側柱内側面積)
 法輪山覚苑寺は、元禄11年(1697)に創建された黄檗宗寺院。開基は黄檗宗に帰依した長府藩第三代藩主毛利綱元で、黄檗大本山である萬福寺第7代悦山道宗(えっさんどうしゅう)を開山とする。
 この建物は、周防三田尻(現・防府市)にあった黄檗宗寺院の醍醐寺の本堂として寛政6年(1794)に建立されたもので、明治8年(1875)、廃寺となっていた醍醐寺から覚苑寺に移築された。以後、当寺の本堂(大雄宝殿)として利用されている。
 本堂は、乱石積の基壇上に建ち、入母屋造(いりもやづくり)、本瓦葺、桁行三間・梁間三間の身舎(もや)に裳階(もこし)が付く、前面の裳階を吹放ちとする。柱は全て面取が施された角柱とし、角形の石造礎盤の上に建つ。柱頭は粽形(ちまきがた)、足元は丸面をつける。床は土間とする。身舎は、中央間四面及び両脇間を虹梁(こうりょう)で繋ぐ。身舎の虹梁上に角形の大瓶束(だいへいづか)を立てて各天井(かくてんじょう)を支え、天井高の高い内部空間を構成している。内陣中央後方に禅宗様須弥壇を置く。組物は、身舎は出三斗(でみつと)、裳階は大斗(だいと)拳鼻付肘木(ひじき)とする。
 この建築は、虹梁、台輪などに見られる禅宗様の形式や細部の大斗肘木などに和様の影響が見られるものの、裳階前面を吹放ちとする点や角形の石造礎盤に江戸時代の黄檗建築の特徴が表れており、建築史の上で高い価値を有している。
          下関市教育委員会


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内陣。
釈迦三尊像が祀ってあります。

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中央に釈迦牟尼仏、両脇侍に迦葉、阿難の両尊者。
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覚苑寺第四代素岳禅師像。
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鐘楼
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庫裡(方丈)
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  勝山御殿玄関跡(移築)
 現在当山の庫裡として使われている当建物は、元々勝山御殿本丸の玄関部分として建てれられたものであり、明治初期、勝山御殿解体の後、此処に移築された。
 幕末期、長州藩は攘夷運動の高まりを受け、関門海峡を通る外国船に砲撃を加えたが、その報復を恐れた長府毛利家は、藩邸を海の側(現在の豊浦高校一帯)から急遽内陸部勝山の地へ移す必要に迫られ、わずか五ヶ月の工事で完成させた。
 幕府の築城禁止令に触れないよう勝山御殿と称したが、実態は総石垣造りの本格的な城であったという。


黄檗普茶料理」とありますが、やっているのでしょうか?
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「三十三か所観音菩薩 巡拝の御案内」説明板。
長府毛利家墓所もあります。
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乃木希典像
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乃木希典像台座前面碑文。
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武士(もののふ)は 玉も黄金(こがね)も なにかせむ いのちにかへて 名こそをしけれ


生田蝶介歌碑
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ふるさとの赤松山のおもひでの松の匂ひをしのぶ秋の日
   蝶介



寺の縁起。
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   縁起
 当山は禅宗の一派、黄檗宗の寺院である。(略)
 当山の前身は市内綾羅木にあった元享山利済寺という古刹であるが、長府藩主第三代毛利綱元公が元禄十年(一六九八年)、それを当地へ移し替え名を法輪山覚苑寺と改め、悦山道宗禅師(黄檗山万福寺の第七代住持であった中国僧)を勧請開山として創建された。歴代藩主の崇敬厚く、寺禄百二石を有し、長府毛利家菩提寺の一つとなった。創建以来、学僧高僧が集まり、藩中の士の従学する者も多く、藩の学問所的な性格も兼ね備えていたという。また、黄檗宗別格地の寺格を有し、地域における黄檗宗寺院の中心として大いに栄えた。
 江戸地代に描かれた絵図によると、かつては七堂伽藍を有していたが、明治に入り寺禄を失い、(略)諸堂は取り壊された。しかし、明治六年には、解体された勝山御殿が解体された後、当山の庫裏として、また、明治八年には、三田尻(防府市)の廃寺となっていた黄檗宗寺院、醍醐寺の本堂が解体され当山の本堂として、それぞれ移築され今日に至る。
 境内には、長府毛利家(三代綱元公 六代匡広公 十三代元周公 元周正室)の墓があり、県の文化財に指定されている。

 (略)

【次回に続く】
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