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こどもと本ジョイントネット21・山口


〜すべての子どもに本との出会いを〜

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ランボーと泡鳴と『春と修羅』 @ 富永太郎と中原中也展B [2019年09月26日(Thu)]
【前回の続き】

次のケースは、大正13年10月2日付村井康男宛書簡
中也とフランス大家新作画展覧会を観た感想を報告しています。
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 中央美術主催の仏展を見た。
 見るべきものはローランサンとブラックだけ。(略)
 ローランサン“Amies”にはすっかり参ってしまった。(略)
 会場を出てから 一緒に行ったダゞイスト(略)が、ポケットから今月の「青銅時代」を出して、(略)
 Symbol is a symbol (略)
といふアミエルの句を出して見せて
「ローランサンの絵を見て、それからこの句を読むと全く安心しますね。」と言った。
(略)


隣には、忠三郎の「日記帖6」(1924(大正13)年9月15日〜1925(大正14)年7月8日)が展示されています。
忠三郎は、太郎や中也の交友の様子を詳細に日記に綴っています。


次のケースには、前期は、中也の「創作ノート1924」の上田敏訳・ランボー「酔いどれ船」(『上田敏詩集』(玄文社 1923(大正12))を筆写した頁が展示されていました。
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これは 1924(大正13)年の秋に筆写されたと考えられ、11連で終わっています。

太郎の「詩帖1」にはこの原詩「Bateau ivre」全25連のうち12連目まで転記されています。(※「詩帖1」の展示は表紙のみ)
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それに呼応して、中原中也訳・ランボー『ランボー詩集』(野田書房 1937(昭和12).9.15)が展示してありました。
B9151972-7694-4ED1-B758-E45E50203160.jpeg


前期に展示してあった、大正12年6月13日付正岡忠三郎宛書簡には、次のようにありました。

 近頃「表象派の文学運動」の序文からだんだん岩野泡鳴にひきつけられてゐる。(略)
  
それに呼応して、岩野泡鳴訳・シモンズ『表象派の文学運動』(新潮社 1913(大正2).10.28)が展示してありました。
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当時余り知られていなかった宮沢賢治『春と修羅』(関根書店 1924(大正13).4)をダダイストの辻潤が「読売新聞」で評価した記事を、太郎は切り抜いてとっておいたそうです。
春と修羅.jpg

そして、太郎は「詩帖1」に「原体剣舞連」を筆写しました。(※「詩帖1」の展示は表紙のみ)(※この詩について展覧会では言及されていませんでした)

  原体剣舞連
    (mental sketch modified)


   dah-dah-dah-dah-dah-sko-dah-dah
こんや異装《いさう》のげん月のした
鶏《とり》の黒尾を頭巾《づきん》にかざり
片刃《かたは》の太刀をひらめかす
原体《はらたい》村の舞手《おどりこ》たちよ
鴇《とき》いろのはるの樹液《じゅえき》を
アルペン農の辛酸《しんさん》に投げ
生《せい》しののめの草いろの火を
高原の風とひかりにさゝげ
菩提樹《まだ》皮《かわ》と縄とをまとふ
気圏の戦士わが朋《とも》たちよ
青らみわたる気《かうき》をふかみ
楢と掬《ぶな》とのうれひをあつめ
蛇紋山地《じゃもんさんち》に篝《かゞり》をかかげ
ひのきの髪をうちゆすり
まるめろの匂のそらに
あたらしい星雲を燃せ
   dah-dah-sko-dah-dah
肌膚《きふ》を腐植と土にけづらせ
筋骨はつめたい炭酸に粗《あら》び
月月《つきづき》に日光と風とを焦慮し
敬虔に年を累《かさ》ねた師父《しふ》たちよ
こんや銀河と森とのまつり
准《じゅん》平原の天末線《てんまつせん》に
さらにも強く鼓を鳴らし
うす月の雲をどよませ
  Ho! Ho! Ho!
     むかし達谷《たった》の悪路王《あくろわう》
     まっくらくらの二里の洞
     わたるは夢と黒夜神《こくやじん》
     首は刻まれ漬けられ
アンドロメダもかゞりにゆすれ
     青い仮面《めん》このこけおどし
     太刀を浴びてはいっぷかぷ
     夜風の底の蜘蛛《くも》おどり
     胃袋はいてぎったぎた
  dah-dah-dah-dah-dah-sko-dah-dah
さらにただしく刃《やいば》を合《あ》わせ
霹靂《へきれき》の青火をくだし
四方《しほう》の夜《よる》の鬼神《きじん》をまねき
樹液《じゅえき》もふるふこの夜《よ》さひとよ
赤ひたたれを地にひるがへし
雹雲《ひゃううん》と風とをまつれ
  dah-dah-dah-dahh
夜風《よかぜ》とどろきひのきはみだれ
月は射《ゐ》そそぐ銀の矢並
打つも果《は》てるも火花のいのち
太刀の軋《きし》りの消えぬひま
  dah-dah-dah-dah-dah-sko-dah-dah
太刀は稲妻《いなづま》萱穂《かやほ》のさやぎ
獅子の星座《せいざ》に散る火の雨の
消えてあとない天《あま》のがはら
打つも果てるもひとつのいのち
  dah-dah-dah-dah-dah-sko-dah-dah



展示してある大正14年1月15日付正岡忠三郎宛書簡には、次のようにあります。
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 近頃発見した面白い詩をお目にかける。
 これは 宮沢賢治といふ人の「春と修羅」といふ詩集の中にある。その中のすべてがこれほどの傑作だといふわけではないが、近頃大へん立派な詩集だと思ってゐる。


そして、「蠕虫舞手《アンネリダタンツエーリン》」が転写されています。

(えゝ 水ゾルですよ
  おぼろな寒天《アガア》の液ですよ)
日は黄金《きん》の薔薇
赤いちひさな蠕虫《ぜんちゆう》が
水とひかりをからだにまとひ
ひとりでをどりをやつてゐる
 (えゝ 8《エイト》 γ《ガムマア》 e《イー》 6《スイツクス》 α《アルフア》
  ことにもアラベスクの飾り文字)
羽むしの死骸
いちゐのかれ葉
真珠の泡に
ちぎれたこけの花軸など
 (ナチラナトラのひいさまは
  いまみづ底のみかげのうへに
  黄いろなかげとおふたりで
  せつかくをどつてゐられます
  いゝえ けれども すぐでせう
  まもなく浮いておいででせう)
赤い蠕虫舞手《アンネリダタンツエーリン》は
とがつた二つの耳をもち
燐光珊瑚の環節に
正しく飾る真珠のぼたん
くるりくるりと廻つてゐます
 (えゝ 8《エイト》 γ《ガムマア》 e《イー》 6《スイツクス》 α《アルフア》
  ことにもアラベスクの飾り文字)
背中きらきら燦《かがや》いて
ちからいつぱいまはりはするが
真珠もじつはまがひもの
ガラスどころか空気だま
 (いゝえ それでも
  エイト ガムマア イー スイツクス アルフア
  ことにもアラベスクの飾り文字)
水晶体や鞏膜《きようまく》の
オペラグラスにのぞかれて
をどつてゐるといはれても
真珠の泡を苦にするのなら
おまへもさつぱりらくぢやない
   それに日が雲に入つたし
   わたしは石に座つてしびれが切れたし
   水底の黒い木片は毛虫か海鼠《なまこ》のやうだしさ
   それに第一おまへのかたちは見えないし
   ほんとに溶けてしまつたのやら
それともみんなはじめから
おぼろに青い夢だやら
 (いゝえ あすこにおいでです おいでです
  ひいさま いらつしやいます
  8《エイト》 γ《ガムマア》 e《イー》 6《スイツクス》 α《アルフア》
  ことにもアラベスクの飾り文字)
ふん 水はおぼろで
ひかりは惑ひ
虫は エイト ガムマア イー スイツクス アルフア
   ことにもアラベスクの飾り文字かい
   ハツハツハ
 (はい まつたくそれにちがひません
   エイト ガムマア イー スイツクス アルフア
   ことにもアラベスクの飾り文字)

    (一九二二、五、二〇)
 


後に、中也は『春と修羅』を何冊も買い込んで友人たちに配っていました。

 宮沢賢治全集第一回配本が出た。死んだ宮沢は、自分が死ねば全集が出ると、果して予測してゐたであらうか。
 私にはこれら彼の作品が、大正十三年頃、つまり「春と修羅」が出た頃に認められなかつたといふことは、むしろ不思議である。私がこの本を初めて知つたのは大正十四年の暮であつたかその翌年の初めであつたか、とまれ寒い頃であつた。由(ママ)来この書は私の愛読書となつた。何冊か買つて、友人の所へ持つて行つたのであつた。(略)(一九三四、一一、一九)
(『宮沢賢治研究 第一号』(草野心平/編 宮沢賢治友の会 1935(昭和10).4.20)掲載の「宮沢賢治全集」より引用」)(※この文章は掲示されていませんでした)


次のケースに展示してある太郎の「詩帖1」(1924(大正13))。
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壁面投影には、長谷川泰子の証言。

私達はよく町をほつつきあるきましたが、富永太郎が現れた頃から、家に落着き、富永太郎も私共の家に来ては入りびたつて居りました。詩論にあきると二人は連れ立って、町々をあるき廻つたやうです、二人共、お釜帽子に毛を長くなびかせ、パイプをくはへて、ゆつくり散歩する姿は、京都の古びた町にも似つかふやうに、人々に見送られて居りました。
(中垣(長谷川)泰子「中原の思ひ出」(『中原中也全集月報3』(創元社 1951))


 富永との交友を通して得られた、文学の知識や教養は、中也の詩人としての感性を養い、思想を形作る上で大きな役割を果たしました。
(『特別企画展 富永太郎と中原中也』パンフレット(中原中也記念館 2019.8.1)P8より引用)

【次回に続く】
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