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こどもと本ジョイントネット21・山口


〜すべての子どもに本との出会いを〜

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初夏の東鳳翩山に登りました@ [2019年06月17日(Mon)]
6月10日(月)、KさんとFさんと東鳳翩山に登りましたぴかぴか(新しい)

地蔵峠に車を停めて、地蔵峠コースを登ります揺れるハート
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天花の方からは小中高大学生の頃何度か登ったことはありますが、吉敷側からは初めてですわーい(嬉しい顔)
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地蔵峠は、西鳳翩山と東鳳翩山の間にある峠です。
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東鳳翩の西山麓の峠を「地蔵が峠」(五三三、三b)といい、ここを越して中尾から旭村の高津に至る。
(『―温かいふるさとー 中尾の今昔』(難波要二 1997(平成9).4)

「地蔵峠 旭村・山口市 峰越林道完成記念」碑。
1977(昭和52)年3月建立。
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東・西鳳翩山縦走路案内図。
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中国自然歩道経路図。
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ところで、地蔵峠にはお地蔵様があります。
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地下上申(1728年)に地蔵峠の地名があるので、この時は既に地蔵があったと思われる。
(『山口市の石仏・石塔(1) ―平川・大歳・吉敷―』(山口の文化を守る会/編 山口市教育委員会 2002.3)P209より引用)
 
 この峠に地蔵様が祭られていることから、この名前があることは確かである。享保一三年の「地下上申」にもこの地名が記載されているので、この地蔵様もすくなくとも二七〇年は、ここにお座りになっているということになる。
(上掲『―温かいふるさとー 中尾の今昔』P10より引用)

お地蔵様に手を合わせて、いざ出発exclamation×2
登山道はとても整備されていて、登りやすいです。
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この林の中の道を抜けると、ササユリの自生地がありますかわいい
「ササユリ自生地」の表示が見えます。
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黄金馬伝説コース案内板。
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上掲『―温かいふるさとー 中尾の今昔』P97記載の「鳳翩山の黄金の馬」とは少し違いますが、 黄金馬伝説はこんなお話です。
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 カッチン、カッチンと石のみの音が坑内に重く響いています。坑夫等は、日光に恵まれず、青白い顔をして、毎日同じ仕事をしています。
 その日は「やま」といって、昔から坑に入ると山の神のたたりがあると恐れられていました。 
 しかし、どうしたことか、その日に限って、しきたりを破ってしまいました。普段と違ってなかなか仕事がはかどりません。
 その時、坑夫の一人が「おやおや」という異様な声で叫びました。その声のする方に目を注ぐと、電光のような光が岩の間から漏れたと思うと、黄金の馬が現れました。
 彼らの驚きはたちまち狂気に変わりました。「これさえあれば、働かなくても一生安楽に暮らせるぞ」と黄金の馬をめがけて突進しました。しかし馬は動うともしません。
 いょいょ近づいて、つかんだと思った途端、一大音響とともに周囲の岩石が崩れだし、底気味の悪い地鳴りが響きました。
 その場に打伏したり、入口めがけて逃げ出そうとしましたが、崩れる岩や石に押し崩され、おびえで声さえ出ませんでした。
 しばらくして我に返ったときには、そこにはもうあの黄金の馬は見えませんでした。
 おきてを破ってまで一儲けしようとしてはならないという戒めの伝説ですが、その後、鳳翩山には黄金の馬が一頭埋められており、その足の一本は誰かが掘り取ったが、残り三本は隠されているという話が伝えられています。また、青竹を斜めに切って地中深く差し込むと、竹筒にいっぱいの金がつまって出たという話も伝えられています。
 こうした話から、鳳翩山がかって金山として栄えていたことが伺えます。

(『ふるさとだよりよしき』732号(吉敷地区地域づくり協議会 2017.3)P3「よしき四方山ばなしNo.1「鳳翩山の金の馬」」引用)

ベンチでたっぷり休憩をとって、出発。
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肩の広場。
西の肩より仰ぐ山頂は、以前は一帯がカヤトでしたが、今は樹木が鬱蒼と生え様相が一変していて、自分の中の記憶にある山とあまりに違っていましたふらふら
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振り返ると、
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西鳳翩山がきれいに見えました。
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そして、頂上制覇わーい(嬉しい顔)
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ただ今の気温23℃です。
さわやかです。
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登山家岩崎元郎氏が新日本百名山に選びました。
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標高は734.2mです。
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『続日本紀』(しょくにほんぎ)は、平安時代初期に編纂された勅撰史書ですが、そこにある

天平二年三月吉敷郡逵理山所出の銅

逵理山(きりやま)は、東鳳翩山のことだといわれています(※別の説もあり)

東鳳翩山は、享保一三年(一八四二(※おそらく1728の間違い。1842は天保13年))の村図には「コシキ嶽」とあり、吉敷でも中尾でも明治の頃までは、村人は「ヨシキ嶽」と呼んでいたようである。現在のように「鳳翩山」と呼ぶようになったのは確かではないが、おそらく明治以降のようである。
(上掲『―温かいふるさとー 中尾の今昔』P8より引用)

甑(こしき)は古代中国を発祥とする米などを蒸すための土器です。

『行程記』は、23帖からなる江戸までの長大な参勤交代路を描く街道絵図ですが、萩往還部分は、明和元(1746)年頃に、萩藩絵図方の有馬喜惣太が中心となって描いたものといわれます。うち第1帖に、

方便山 此山防長境山也

とあります。

「方便」が「鳳翩」となったのは、周防生まれの儒学者、片山鳳翩(1740−1808)からとったものとされています。(上掲『―温かいふるさとー 中尾の今昔』P9参照)

天保年間(1830 〜 1843)にまとめられた『防長風土注進案』によりますと、東鳳翩山のことを、「方便山、一に鳳翩とも書けり中尾村子丑の方に聳へたる高山にして、山の北東面は阿武郡へ附し、是を東方便ケ嶽と呼ふ、……」と記されていますが、
(「山口県・なぜ方便が鳳翩となったのか?」(小林弘之)(『登山月報』第591号(公益社団法人日本山岳・スポーツクライミング協会 2018.6)P6より引用))


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【次回に続く】
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