おいとまして葉ざくらのかげがながくすずしく @ 一の坂川逍遥B
[2019年04月03日(Wed)]
4月2日(火)、昨日より暖かいので、花見客がさらに増えています
一の坂川逍遥を楽しんでいたらこんなものを見つけました
種田山頭火句碑
おいとまして葉ざくらのかげがながくすずしく
山頭火
種田山頭火は、1934(昭和9)年当時、山口市小郡の其中庵に住んでいました。
『其中日記』の1934(昭和9)年「六月廿九日」に「山口後河原風景」としてこの句があります。
山頭火はこよなく後河原を愛し、旧田辺家の句会に何時も出席し、一の坂川河畔を散策したようであります。(説明版より)
六月廿九日
晴、昨日今日、梅雨には珍らしい青天、そして暑気だ。
九時の汽車へゆく、もう米もないし、米代もないから。
朝から失敗した、年はとりたくないもの、此頃は物忘れして困る、といふのは煙草代と汽車賃だけはある銭入を忘れて出立したのである、八百屋のおばさんに事情を説いて、時計を預けて、五十銭玉一つを借りる、おかげでバツトが吸へて、ガソリンカアに乗れた。
古本として多少の銭になりさうな弐冊、それが八十銭になつた、さつそく一杯、そしてS家を訪ねる、周二さんはまだ帰郷してゐない、赤の事で当局に油をしぼられてゐるらしい。
湯田の千人風呂で一浴、バスで上郷まで、新町で下車して、朝のマイナスを返す、やれ/\。
二時半帰庵、うちほど楽なものはない。
(略)
山口後河原風景
おいとまして葉ざくらのかげがながくすずしく
(以下略)
(種田山頭火『其中日記』より)
「中世の山口の地名」碑
「澗底蛍」碑
澗底蛍
ほたるかも菊咲秋にあらねとも
星をうかふる谷川の水
大内政弘著「拾塵和歌集」より
大内政弘(1446(文安3)年〜1495(明応4)年)は大内家弟29代当主(第14代という説も)として応仁の乱などで活躍した大名です。文化的にも政治的にも優れた人物だといわれています。
大内政弘は和歌に長けており、私家集『拾塵和歌集』を編纂し、自作の歌1100余首を残しています。
『拾塵和歌集』の中にこのように桜の花を詠んだものもあります。
雨中花
見る人も花もしほるる木の本に匂ひぞぬれぬ夕暮の雨
「「大内盛見詠草」蛍」碑
蛍
とふほたる をもひのみこそ しるへとや
み草かくれに よるはもゆらむ
多々良朝臣盛見
60首からなる私家集『大内盛見 詠草』の1首です。
そばに説明板があります。
真っ暗な闇を恐がりもせず飛ぶ蛍は、自らの思いだけを道しるべがわりに飛ぶと言う。自分は、み草の陰に隠れて一晩中飛ばない蛍のようであり、そのうち、夜は燃え尽き、朝が来てしまう。小さな虫に負けないように、先行きの読めない困難な時代を乗りきってゆかなくては…。国宝・瑠璃光寺(当時は香積寺)五重塔を建立したことで知られる大内氏二十六代・盛見公は、小さな蛍から大きな励ましを得ておられたのだと分かる。
「手づくり郷土(ふるさと)賞」碑
国土交通省(当時は建設省)の昭和62年度手づくり郷土(ふるさと)賞 水辺の風物詩30選に選定されたのを記念して建立されました。
受賞理由として「ホタル護岸工事など施工。(略)天然記念物源氏ホタルの育成保護。市民のオアシスとして、また遠来の人も足を運ぶふるさと」とあります。
碑にも「潤いのあるこの美しい環境を守りましょう」とあります。
新元号は令和となりましたが、次の世に伝えていきたいものです。
こんなものもありました。
いわずとしれた毛利敬親さんです。
一の坂川逍遥を楽しんでいたらこんなものを見つけました
種田山頭火句碑
おいとまして葉ざくらのかげがながくすずしく
山頭火
種田山頭火は、1934(昭和9)年当時、山口市小郡の其中庵に住んでいました。
『其中日記』の1934(昭和9)年「六月廿九日」に「山口後河原風景」としてこの句があります。
山頭火はこよなく後河原を愛し、旧田辺家の句会に何時も出席し、一の坂川河畔を散策したようであります。(説明版より)
六月廿九日
晴、昨日今日、梅雨には珍らしい青天、そして暑気だ。
九時の汽車へゆく、もう米もないし、米代もないから。
朝から失敗した、年はとりたくないもの、此頃は物忘れして困る、といふのは煙草代と汽車賃だけはある銭入を忘れて出立したのである、八百屋のおばさんに事情を説いて、時計を預けて、五十銭玉一つを借りる、おかげでバツトが吸へて、ガソリンカアに乗れた。
古本として多少の銭になりさうな弐冊、それが八十銭になつた、さつそく一杯、そしてS家を訪ねる、周二さんはまだ帰郷してゐない、赤の事で当局に油をしぼられてゐるらしい。
湯田の千人風呂で一浴、バスで上郷まで、新町で下車して、朝のマイナスを返す、やれ/\。
二時半帰庵、うちほど楽なものはない。
(略)
山口後河原風景
おいとまして葉ざくらのかげがながくすずしく
(以下略)
(種田山頭火『其中日記』より)
「中世の山口の地名」碑
「澗底蛍」碑
澗底蛍
ほたるかも菊咲秋にあらねとも
星をうかふる谷川の水
大内政弘著「拾塵和歌集」より
大内政弘(1446(文安3)年〜1495(明応4)年)は大内家弟29代当主(第14代という説も)として応仁の乱などで活躍した大名です。文化的にも政治的にも優れた人物だといわれています。
大内政弘は和歌に長けており、私家集『拾塵和歌集』を編纂し、自作の歌1100余首を残しています。
『拾塵和歌集』の中にこのように桜の花を詠んだものもあります。
雨中花
見る人も花もしほるる木の本に匂ひぞぬれぬ夕暮の雨
「「大内盛見詠草」蛍」碑
蛍
とふほたる をもひのみこそ しるへとや
み草かくれに よるはもゆらむ
多々良朝臣盛見
60首からなる私家集『大内盛見 詠草』の1首です。
そばに説明板があります。
真っ暗な闇を恐がりもせず飛ぶ蛍は、自らの思いだけを道しるべがわりに飛ぶと言う。自分は、み草の陰に隠れて一晩中飛ばない蛍のようであり、そのうち、夜は燃え尽き、朝が来てしまう。小さな虫に負けないように、先行きの読めない困難な時代を乗りきってゆかなくては…。国宝・瑠璃光寺(当時は香積寺)五重塔を建立したことで知られる大内氏二十六代・盛見公は、小さな蛍から大きな励ましを得ておられたのだと分かる。
「手づくり郷土(ふるさと)賞」碑
国土交通省(当時は建設省)の昭和62年度手づくり郷土(ふるさと)賞 水辺の風物詩30選に選定されたのを記念して建立されました。
受賞理由として「ホタル護岸工事など施工。(略)天然記念物源氏ホタルの育成保護。市民のオアシスとして、また遠来の人も足を運ぶふるさと」とあります。
碑にも「潤いのあるこの美しい環境を守りましょう」とあります。
新元号は令和となりましたが、次の世に伝えていきたいものです。
こんなものもありました。
いわずとしれた毛利敬親さんです。