「大岡昇平と中原中也」を観に行きましたA @ 中原中也記念館
[2018年08月13日(Mon)]
【前回の続き】
1944(昭和19)年、戦争が拡大し、いよいよ前線に駆り出されるのが確実になった頃、川崎重工業に勤めていた大岡昇平は、中也とスタンダールを手に取ります。
1944(昭和19)年、出征したフィリッピンのミンドロ島で、10月、立哨中、ふと、中也の「夕照」に節を付けて歌いました。
丘々は、胸に手を当て
退けり。
落陽は、慈愛の色の
金のいろ。
原に草、
鄙唄[ひなうた]うたひ
山に樹々、
老いてつましき心ばせ。
かゝる折しも我ありぬ
少児に踏まれし
貝の肉。
かゝるをりしも剛直の、
さあれゆかしきあきらめよ
腕拱[く]みながら歩み去る。
1945(昭和20)年1月、アメリカ軍の俘虜になった大岡は、
レイテ島の俘虜収容所で終戦を迎え、
12月、家族の疎開先である神戸に復員しました。
翌年の1946(昭和21)年から大岡は、
@従軍記
Aスタンダール
B富永太郎、中原中也論
の執筆を始めます。
1947(昭和22)年1月、中也についての執筆に行き詰った大岡は、山口線湯田温泉駅(当時は、湯田駅)に降り立ちます。
【続きはまた…】
1944(昭和19)年、戦争が拡大し、いよいよ前線に駆り出されるのが確実になった頃、川崎重工業に勤めていた大岡昇平は、中也とスタンダールを手に取ります。
1944(昭和19)年、出征したフィリッピンのミンドロ島で、10月、立哨中、ふと、中也の「夕照」に節を付けて歌いました。
丘々は、胸に手を当て
退けり。
落陽は、慈愛の色の
金のいろ。
原に草、
鄙唄[ひなうた]うたひ
山に樹々、
老いてつましき心ばせ。
かゝる折しも我ありぬ
少児に踏まれし
貝の肉。
かゝるをりしも剛直の、
さあれゆかしきあきらめよ
腕拱[く]みながら歩み去る。
1945(昭和20)年1月、アメリカ軍の俘虜になった大岡は、
レイテ島の俘虜収容所で終戦を迎え、
12月、家族の疎開先である神戸に復員しました。
翌年の1946(昭和21)年から大岡は、
@従軍記
Aスタンダール
B富永太郎、中原中也論
の執筆を始めます。
1947(昭和22)年1月、中也についての執筆に行き詰った大岡は、山口線湯田温泉駅(当時は、湯田駅)に降り立ちます。
【続きはまた…】