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こどもと本ジョイントネット21・山口


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琳聖太子伝説から五重塔の建立まで @ 大内氏の歴史講演会 [2022年01月30日(Sun)]
3月19日(土)、山口市吉敷地域交流センターで、大内氏の歴史講演会「琳聖太子伝説から五重塔の建立まで」が開催されますぴかぴか(新しい)

大内氏の歴史講演会.PNG
▲『ふるさとだより よしき』2022年2月号(NO.791)(吉敷地区広報委員会 2022.2)

吉敷は、中尾地区に30代大内義興が創建したとされる国指定史跡の凌雲寺跡があるなど、大内氏と関わりの深い地域です。
このため、より多くの方に大内氏の魅力に触れていただくため、大内氏の歴史講演会をシリーズで開催することといたしました。
講師は、山口市交流創造部歴史文化のまちづくり推進担当理事の古賀信幸氏にお願いしています。
古賀氏は、昨年山口市交流創造部文化交流課において発行された『大内氏がわかる本』の編集に中心となって取り組んでおられます。


るんるん日時るんるん 2022年3月19日(土)10:00〜11:30
るんるん場所るんるん 山口市吉敷地域交流センター 講堂
るんるん演題るんるん 琳聖太子伝説から五重塔の建立まで
るんるん講師るんるん 古賀信幸(山口市交流創造部歴史文化のまちづくり推進担当理事)
るんるん定員るんるん 40名
るんるん主催・申込るんるん 吉敷地区地域文化振興会 
      電話 083-922-3344


かわいい講師プロフィールかわいい
山口市交流創造部歴史文化のまちづくり推進担当理事。『西国の権力と戦乱』(中世の西国社会巻一)など多数。

『西国一の御屋形様 大内氏がわかる本 入門編』
(山口市 2021.7)
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大内氏と大内御膳展 @ JR新山口駅  [2022年01月27日(Thu)]
1月28日(金)〜2月11日(金・祝)、JR新山口駅で、「大内氏と大内御膳展」が開催されますぴかぴか(新しい)

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明応九年(1500年)三月五日、室町幕府の第十代将軍だった足利義稙が山口の大内義興を訪問した際に、大内氏側は三十二献・110品以上に及ぶ料理で歓待しました。同時代に京都で催された宴でも、もてなし料理は二十献が最大。それ以上の中世最大の宴を、地方都市の一大名である大内氏が開いたのです。その時の記録『明応九年三月五日将軍御成雑掌注文』を2010年に再現しました。本展では、そのレプリカを一部展示するとともに、パネルでも紹介、加えて、大内文化の映像や、全国各地の「歴食」も紹介します。

るんるん日 時るんるん 1月28日(金)〜2月11日(金・祝)9:00〜18:00
るんるん場 所るんるん JR新山口駅中2階「交流活動ホール」
       (北口観光案内所側)
るんるん入場料るんるん 無料
るんるん主催・問合先るんるん 一般財団法人山口観光コンベンション協会
        山口市惣太夫町2-1 JR山口駅2階 
        電話 083-933-0088


当ブログ「大内氏館(10)宴」で、『明応九年三月五日将軍御成雑掌注文』について触れています。
https://blog.canpan.info/jointnet21/archive/923
大内のお殿様を知る @ 山口市菜香亭 [2021年10月10日(Sun)]
10月29日(金)、山口市菜香亭で、講演会「大内のお殿様を知る」が開催されますぴかぴか(新しい)

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 大内氏には系図が何種類か存在します。系図だけをながめているとスムーズに家督が相続されているように見えてしまいますが、当時は戦国、争乱の時代で、実際には様々ないきさつがありました。
 今回は、大内の殿様の代替わりを中心に、現在好評発売中の『西国一の御屋形様 大内氏がわかる本』に携わった古賀信幸氏をお招きし、分かりやすく紹介します。

 
るんるん日 時るんるん 2021年10月29日(金)18:00〜20:00  受付:17:30〜
るんるん会 場るんるん 山口市菜香亭 大広間
るんるん講 師るんるん 古賀信幸(山口市教育委員会事務局文化財担当理事)
るんるん定 員るんるん 60人(要申込・先着申込順)
るんるん参加費るんるん 200円
るんるん申込先るんるん 山口市菜香亭 電話 083-934-3312
るんるん主 催るんるん 山口市、NPO法人歴史の町山口を甦らせる会(山口市菜香亭指定管理者)
※山口ゆめ回廊博覧会関連事業として開催

『西国一の御屋形様 大内氏がわかる本 入門編』
(山口市 2021.7)
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鰐鳴八幡宮A [2021年09月15日(Wed)]
前回の続き

鰐鳴八幡宮は山口県道21号山口防府線沿いにありますぴかぴか(新しい)

IMG_3679 (2).JPG

脱隊騒動の扇動者一人ではないかと、山口藩庁から疑われ呼び出された大楽源太郎は、

小鯖八幡宮前の店屋「杉屋」に一休憩した時、

そこからから逃亡した、と内田伸さんの著書『大楽源太郎』(風説社(山口市木町) 1971(昭和46).4.5)のP88に書かれています。
その店屋はどこにあったのでしょうか。この辺りでしょうか。

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前回言及した司馬遼太郎にも『大楽源太郎の生死』(初出「小説新潮」1972年2月号)という短篇があり、これには、内田伸さんも登場します。
さて、この作品でもまた、「小鯖」に「こさば」とルビが振ってあるのではないかと、危惧したのですが、

 やがて反乱軍が鎮圧され、長州の秩序が回復すると、政府は大楽をこの反乱(脱隊騒動)の有力な首謀者と見、さらには大村(益次郎)殺しの教唆者であるという疑いをも濃厚にした。藩政府は3月5日、大楽に対し、山口まで出頭せよ、と命じた。いきなり逮捕しなかったのは大楽の旧功に対する礼遇のつもりであった。しかし出頭すればよくて切腹、わるくゆけば斬首であろう。
 大楽は、脱走した。
 漁船をやとって、姫島(大分県)へ渡った。


司馬遼太郎短篇全集 第12巻 1968.12〜76.9.jpg 木曜島の夜会 司馬遼太郎.jpg

とあり、小鯖のくだりは書いていないのです。よかったです。


社頭。一の鳥居。
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社頭の狛犬阿形。
IMG_3671 (2).JPG IMG_3672 (2).JPG

社頭の狛犬吽形。
IMG_3673 (2).JPG IMG_3674 (2).JPG

一の鳥居をくぐると、右手に御旅所と
IMG_3678.JPG

小鯖の板碑とがあります。
IMG_3681 (2).JPG 

参道はお彼岸の頃、彼岸花で緋毛氈を敷き詰めたようです。
IMG_3686.JPG IMG_3685.JPG IMG_3684.JPG IMG_3683.JPG IMG_3670.JPG IMG_3668.JPG IMG_3667 (2).JPG


【次回に続く】
鰐鳴八幡宮 [2021年09月12日(Sun)]
山口市上小鯖の鰐鳴八幡宮、通称 小鯖八幡宮は、参道の桜並木、彼岸花が有名ですぴかぴか(新しい)
9月10日に行ってみましたが、さすがにまだ、彼岸花は咲き始めというところでしたふらふら

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社伝によれば、平安時代中期、大分県の宇佐八幡宮から勧請したと伝えられ、神霊を宇佐に迎えに行っての帰途、山口湾から椹野川を遡り、山口の鰐石に上陸したとき、ここまで従い来ていた鰐が別れを惜しんで鳴いたという故事によって鰐鳴八幡宮といいます。

大内FANとしてのチェックポイントは、
@貞治6(正平22)(1367)年の銘のある板碑
A『防長風土注進案』に文安5(1448)年の大内教弘(1420〜1465)の社領安堵状がみえること
B楼門に大内義隆家臣の相良遠江守武任筆と伝わる三十六歌仙の歌が掛けられていることひらめき


かわいい小鯖の板碑かわいい
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板碑は塔婆の一種で鎌倉時代から江戸時代初期頃まで多くつくられている。板状の石を使っているのが普通であるが、必ずしも板状のものばかりでなく厚みのある角柱状のものもある。
小鯖のこの板碑は自然石で、高さは約二メートルある。正面上部に三つの梵字があり、上が阿弥陀如来、右が聖観音、左が勢至菩薩である。下に貞治六年丁未九月甘六日と刻してあるが、貞治は北朝年号で、六年は南朝の正平二十二年(一三六七) に当る。
山口県下には記年銘のある板碑は少なく市内では最古唯一の板碑である。


地上100cm部分の断面は、前面及び背面各50cm、右側33cm、左側34cmでほぼ長方形で、下部に台座などはなく、地中に埋め込んであります。
はっきりは分かりませんが、正面上部に3つの梵字があり、その下に「僧国俊貞治六年丁未九月廿六日敬白」の刻銘があります。

IMG_3676 (2).JPG2020年10月4日撮影

1367(正平22/貞治6)年といえば、大内弘世の治世の時代です。1363(正平18/貞治2)年、北朝の室町幕府に再び帰服しました。


かわいい三十六歌仙の歌(大内義隆家臣、伝相良遠江守武任筆)かわいい
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相良武任(さがらたけとう)(1498〜1551)といえば大内義隆に対して弁明した「相良武任申状」が有名です。
文人として優れていたそうですから、もしかして・・・。でも、ほとんど消えかかっていていて、残念な状態ですがく〜(落胆した顔)
「相良武任申状」については、「築山大明神U @ 築山跡G」で触れています。
https://blog.canpan.info/jointnet21/archive/1364



ところで、司馬遼太郎の短編小説『有隣は悪形にて』(『司馬遼太郎短篇全集 第12巻 1968.12〜76.9』(文藝春秋 2006.3))を読んでいたら、「小鯖」に「こさば」とルビが振ってありました。気になったので、『木曜島の夜会』(文藝春秋 1977.4)に所収されている『有隣は悪形にて』を調べてみましたが、やっぱり、「こさば」となっていました。
『有隣は悪形にて』の初出は「オール讀物」第27巻5号(文藝春秋 1972.5)。

司馬遼太郎短篇全集 第12巻 1968.12〜76.9.jpg 木曜島の夜会 司馬遼太郎.jpg

司馬遼太郎が自分でつけたのか、編集部が組んだのか気になるところです🤔
再版するときは、「おさば」としてくださ〜いるんるん


鰐鳴八幡宮の境内の紹介は後日また。
第19回 雪舟サミット 〜歴史文化資源を生かした多様な交流が生まれるまちづくり〜 [2021年08月19日(Thu)]
10月16日(土)、山口市民会館大ホールで、「第19回 雪舟サミット 〜歴史文化資源を生かした多様な交流が生まれるまちづくり〜」が開催されますぴかぴか(新しい)

第19回雪舟サミット.PNG 第19回雪舟サミット 裏.PNG

 雪舟ゆかりの自治体(岡山県総社市、岡山県井原市、広島県三原市、島根県益田市、山口県防府市、山口市)の首長が集い、雪舟の業績を顕彰するとともに、雪舟を通じて友好の輪を広げることを目的とした「第19回 雪舟サミット」を開催します。 

 本サミットでは、各市における歴史文化を生かしたまちづくりの発表のほか、お笑いコンビ「笑い飯・哲夫」さんの講演や日本水墨画美術協会の濱中応彦先生による雪舟をテーマとした記念講演、山口鷺流狂言保存会の公演を行います。

 また、会場ロビーでは、6市の観光情報コーナーや日本水墨画美術協会の協力による「現代水墨画優秀作品展」、山口商工会議所が取り組まれた雪舟生誕600年記念創作チョコ菓子「塔やまぐち」の販売や取組紹介(Chocofuror Yamaguchi!!(チョコフロールヤマグチ)等があります。


るんるん日 時るんるん 2021年10月16日(土)
       開場 12:30/開演 13:00(終演予定 16:30) 
るんるん会 場るんるん 山口市民会館大ホール(山口市中央2丁目5番1号)
       ※公共交通機関または近隣の民間駐車場を利用

るんるんタイムスケジュールるんるん
13:30〜13:40 開催地挨拶
13:40〜14:00 オープニング
        山口鷺流狂言保存会公演
14:10〜14:40 記念講演「雪舟の居所」
        濱中応彦((一社)日本水墨画美術協会 理事長)
14:55〜15:55 サミット自治体リレートーク
        サミット宣言
16:10〜16:40 ゲストトーク
        「笑い飯 哲夫のおもしろ仏教講座
          〜画僧・雪舟の原点〜」

るんるん入場料るんるん 無料(要申込)
るんるん定 員るんるん 570人(応募者多数の場合は抽選)
るんるん問 合るんるん 第19回雪舟サミット実行委員会事務局
       電話 083-934-4155(平日8:30〜17:00)
るんるん主 催るんるん 第19回雪舟サミット実行委員会
       (岡山県総社市、井原市、広島県三原市、島根県益田市、山口県防府市、山口市)
るんるん後 援るんるん 山口市教育委員会
るんるん協 力るんるん 一般社団法人 日本水墨画美術協会、山口県立美術館

るんるん観覧申込方法るんるん 「郵便往復はがき(私製を除く)」で受付

【往信用裏面】
(1)郵便番号(2)住所(3)名前(4)代表者電話番号(5)観覧希望者数(4人まで) 
  ※18歳未満の方が応募の場合、保護者氏名、連絡先を記載
【返信用表面】
(1)郵便番号(2)住所(3)名前

<あて先>
〒753-8650 山口市亀山町2-1
山口市交流創造部文化交流課 歴史文化のまちづくり推進室
「第19回雪舟サミット」係

<締 切>2021年8月31日(火)必着


かわいい大ホールロビー展示イベントかわいい
雪舟サミット加盟市観光等情報コーナー
現代水墨画優秀作品展
雪舟生誕600年記念チョコ菓子販売



かわいい関連イベントかわいい

山口県立美術館 コレクション特別企画
「雪舟流の魅力」 黄金の花鳥/雪舟の仏画/雪舟の山水画

るんるん開催日 2021年9月18日(土)〜12月19日(日)9:00〜17:00(入場は16:00まで)
るんるん場 所 山口県立美術館(山口市亀山町3-1)
るんるん休館日 月曜日(祝日・休日の場合は開館。特別展開催中のファーストマンデー(第1月曜日)は開館)
るんるん観覧料(予定) 一般 500円/70歳以上 300円/学生 300円

 
「日本水墨画美術協会展2021」(公募展)

るんるん期 間 2021年10月14日(木)〜17日(日)10:00〜17:00 (最終日は16:00まで)
るんるん場 所 山口市民会館 小ホール(山口市中央2丁目5番1号)
るんるん入場料 無料
るんるん主 催 一般社団法人 日本水墨画美術協会
大内ナイト3 〜祈りの回廊音楽祭〜 [2021年08月18日(Wed)]
9月23日(木・祝)、山口市菜香亭で「大内ナイト3 〜祈りの回廊音楽祭〜」が開催されますぴかぴか(新しい)

大内ナイト3.PNG

山口の歴史を感じながら音楽を楽しむ夜っていいよね!
「大内ナイト」は大内文化特定地域のにぎわいの創出と山口市の歴史文化の共有等を目的とした音楽イベントです。


るんるん日時るんるん 2021年9月23日(木・祝)17:30〜20:30
るんるん場所るんるん 山口市菜香亭 歴史巡りの庭
      山口市天花1-2-7
るんるん駐車場るんるん 駐車台数に限りがあり。できるだけ徒歩・自転車、または公共交通機関を利用のこと

るんるん内容るんるん
異文化ステージパフォーマンス
キッチンカーのフードコート
大内文化関連映像の上映
山口市菜香亭大広間の無料開放 (17:00〜20:30)
   菜香亭(大広間)の夜間観覧
泉谷しげる トーク&ライブ(19:00〜20:30)
   MC:金光一昭
 ※泉谷しげるトーク&ライブのステージ前観覧席(100席)への入場は事前申込必要
 ※ステージ前観覧席外での立ち見は申込不要
 ※トーク&ライブの模様は、FM山口の公開収録として、
   10月3日(日)19:00〜19:55 放送予定 

るんるん料金るんるん 無料
るんるん問合るんるん 電話 083-934-4155
るんるんイベント当日の連絡先るんるん 山口市菜香亭 電話 083-934-3312
るんるん主催るんるん 山口市(交流創造部文化交流課 歴史文化のまちづくり推進室)
  【開庁時間】月曜〜金曜日の8:30〜17:15(土曜・日曜日、祝日は閉庁)
  【住所】〒753-8650 山口市亀山町2番1号 
  【ホームページ】https://www.city.yamaguchi.lg.jp/

かわいい泉谷しげるトーク&ライブかわいい
申込方法 
往復はがきに下記の事項を記載の上、申込先まで送付
申込多数の場合は抽選
複数の申込でも1件として取り扱う
記入内容
【往信裏面】@イベント名「大内ナイト3 泉谷しげるトーク&ライブ」、A観覧人数(最大4人まで)、B代表者氏名、ふりがな、年齢、C代表者住所、電話番号
【返信表面】返信先の住所、代表者氏名
※消せるボールペンは使用不可
申し込み期限
8月31日(火)必着
申込先
〒753-8650山口市亀山町2-1
山口市役所文化交流課「大内ナイト3 泉谷しげる トーク&ライブ」係
月見松 @ 築山跡H [2021年07月12日(Mon)]
前回の続き

築山跡に「大内氏月見之松紀念」石碑があることは述べましたが、もう一度、月見松について述べさせていただきますぴかぴか(新しい)

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月見松というのは、大内公遺愛の老樹で名木でした。
『大内氏時代山口古図』(山口県文書館蔵 軸物史料218)を見ると、「大内御殿」のところに「月見松」が描かれています。

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▲山口ふるさと伝承総合センター前にある地図より


『山口名勝旧蹟図誌』(近藤清石/著 宮川博古堂 明26,27)「月見松址」に

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『山口名勝旧蹟図誌』「月見松址」(国立国会図書館蔵)

  芳樹
この松は。大内氏の月見の松とて。野田といふ處にてたりけるか。ころの葉月の十一日の夕。なる神おちかゝりて枯れにけり。かの時より残りとゝまれるもの。かれたれなきにしもあらさりしかと。おふかた皆年ふるまゝにやふを損はれはゝ。昔のなこりのこせるいとすくなくなりけるに此一木しも翠のこけ常盤にて。千とせもかはらぬ色を見せはゝ。まことにそのかみのかたみなりけれは。砕きて薪になさんと事を惜みて。某等かくうの形を繪がゝさせ根より三丈はかり上なる所を圓くくりなし。褖にてうして。枯しときの大きさを後にはたふるになん。
 めくりあふ秋はあらしと枯れにけり 
   月の名おへる古郷の松
 てる月も雲のよそよりなけくらん
   やとりなれにし木の間たつねて
上宇野令村鎮座今八幡宮楼壇□掲扁額
  蕉齊縮拲
某氏□筆有月見松園再模寫之時歳安政四丁巳八月十有五日
  尾張 湟宏



『防長旧族の館跡防長古城趾の研究』(御薗生翁甫/著 山口県地方史学会 1962)に、

月見松一名管弦松というのは、大内公遺愛の老樹とて名木であったが、安政三(1856)年八月十一日雷火の為焼けて枯れた。根より三丈計り上りて皮付きのところを遺して中を丸く刳り、それを縁として額を造り、その松を画き由来を記して今八幡宮に奉納した。絵は尾張の人湟宏、文は近藤芳樹にて、左の和歌二首を添えた。
  めぐりあふ秋はあらじと枯れにけり月の名おへるふるさとの松
  てる月も雲のよそよりなげくらむ宿しなれにし木の間たずねて
 
     
とあります。

「今八幡宮に奉納」とあるので、今八幡宮に行ってみましたが、

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見当たりませんでしたちっ(怒った顔)

築山跡にある八坂神社楼拝殿

4B747E44-43AE-402F-A8C0-5925ADF3644F.jpeg左向き三角1八坂神社

松で造った額に入った松の絵が飾ってあります。
確かに立派な松が描いてありますが、近藤芳樹(1801(享和元)〜1880(明治13))の添えた文は確認できません。
果たしてこれなのでしょうか?

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今八幡宮の隣に鎮座する豊栄神社野田神社絵馬堂

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松の額に松の絵が飾ってありましたぴかぴか(新しい)

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こちらは近藤清石(1833(天保4)〜1916(大正5))が文を書いています。

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高いところに飾ってあるので、全文を読み取ることができませんが、「月見松」「今八幡」など読めます。

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月見松に関わる伝説として、1546(天正15)年9月13日夜、大内義隆が築山館で月見の宴を開いているとき現れた妖獣を松原隆則が退治したという「築山の山姥退治」の話があります。
松原隆則は大寧寺の乱で大内義隆を守って戦い、築山神社に祀られています。

伝説の方は、『山口名勝旧蹟図誌』と『山口市史 各説篇』では、少し違いますが、さくっと要約すると、

1546(天正15)年9月13日夜、大内義隆が築山館で月見の宴を開いているとき、館の塀の上に黒いものがたっていました。義隆は急ぎ宿直の者を呼びつけて、松原隆則にこれを撃つように命じます。は弓矢を取り出してヒューッとと射放つと、矢は見事に命中し、怪物はどーっと庭へと落ちてきました。が、また起き上がり逃げようとするので、今度は太刀で横に払うと確かに手応えがあり、そこには、片足のみ転がっていました。血の跡をたどると、天花畑の山奥に潜む山姥の姿で、これを見事退治した松原隆則は大いにその面目を施したといいます。

というようなお話です。

山口名勝旧跡図誌 月見松址 築山の山姥退治 (2).jpeg
『山口名勝旧蹟図誌』「月見松址」(国立国会図書館蔵)


参考文献:
『大内氏時代山口古図』(山口県文書館蔵 軸物史料218)
  ※山口県文書館デジタルアーカイブで見ることができます
『山口名勝旧蹟図誌』(近藤清石/著 宮川博古堂 明26,27)(国立国会図書館蔵)
  P30〜32「月見松址」
  ※国立国会図書館デジタルコレクションでインターネット公開(保護期間満了)されています
『防長旧族の館趾古城趾の研究』(御薗生翁甫/著 1962(昭和37))
『防長古城趾の研究』(新防長叢書)(御薗生翁甫/著 マツノ書店 1975)
『山口市史 各説篇』(山口市史編纂委員/編 山口市 1971.3)
  P467〜469「築山の山姥退治」



【次回に続く】
築山大明神U @ 築山跡G [2021年07月02日(Fri)]
前回の続き

築山大明神は大内氏の崇敬する社であったようで、『大内氏壁書』にも築山大明神のことではないかと思える記述がありますぴかぴか(新しい)


 築山掃除之事
築山社頭至松原同小川?)掃除之事(、)可為毎月晦日也(、)普請衆之事(、)百石分限仁壱人宛(、)司有支配之(、)普請奉行人并可出普請衆之人数(、)兼日可被相定之(、)若風雨之時者(、)可待天気也(、)此等之次第(、)所被仰出(、)壁書如件
  文明十九年三月晦日
   修理進 奉 弘途


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▲『群書類従』巻第四百一 武家部二「大内氏壁書」(第501−502冊)(国立国会図書館蔵)

【書き下し文】
 築山掃除の事
築山社頭より松原同小川(門?)に至る掃除の事、毎月晦日たるべき也。普請衆の事、百石分限に一人宛、之を支配有るべきなり。普請奉行人并(ならび)に普請衆を出すべきの人数(にんじゅ)、兼日(けんじつ・兼ねての日)之を相定めらるべし。若し風雨の時は、天気を待つべき也。此等の次第、仰せ出さるる所、壁書件の如し。
  文明十九(1487)年三月晦日
   修理進 奉(うけたまわる) 弘途

【意訳】
 築山掃除の事
築山社頭から松原同小川(門?)までの掃除に関しては、毎月末日に行うこととする。掃除に従事する人は、所領百石につき一人を割り当てるものとする。掃除責任者ならびに掃除従事構成員は、期日までに定めておかなければならない。もし、当日が風雨の時は、天気のよい日に実施することとする。  

「築山社頭」の「社」というのは、まさに、築山大明神のことかもexclamation
「奉」というのは、奉行人が大内政弘の命を受け、壁書が発布されたことをしめしていますので、「修理の進」という修理職の役人よることや、「普請」という言葉があることから、単に清掃だけでなく、築地などの補修も定期的に実施していたのではないでしょうか。


祇園祭や築山のところでも取り上げた「築山築地ノ上ニ於テ祇園会其外自然ノ見物制禁」ですが、

築山築地之上(、)祇園會其外自然之見物(、)被加制止訖(、)御寶殿(、)鎮守邊諸人群集(、)剰於右築地之上(、)構棧敷事(、)堅固御禁制也(、)m新豊院殿仰之時者(、)従寺家對寺奉行可尋之(、)若此旨有違背之族者(、)可被處厳科之由(、)所被仰出(、)壁書如件(。) 
 延徳四年壬子 六月 日


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『群書類従』巻第四百一 武家部二「大内氏壁書」(第501−502冊)(国立国会図書館蔵)

【書き下し文】
築山築地の上に於いて、祇園会其の外自然の見物、制止を加えられ訖(きつ)んぬ。殊に御宝殿、同鎮守辺に諸人群集し、剰(あまつさ)え石築地の上に於いて、棧敷を構うる事、堅固に御禁制なり。mし、新豊院殿仰せの時は、寺家より寺奉行に対し之を尋ぬべし。若し此の旨違背の族有らば、厳科に処せらるべき由、仰せ出さるるところ、壁書件の如し。
 延徳四(1492)年 六月 日

【意訳】
築山館の築地の上において、祇園祭やその外の見物を禁止する。ことに御宝殿や同鎮守あたりの築地にたくさんの見物人が群がり集まり、その上、石築地の上に棧敷を構える事は固く禁じる。ただし、新豊院殿がお言いつけの時は、寺から寺社奉行に対し見物について申し出ること。もしこの禁制に違反する者があれば厳罰に処する。

ここにある「御宝殿」とはまさに、築山大明神の御宝殿つまり本殿のことではないでしょうか。
「鎮守」も築山大明神のこと。


1551(天文20)年、相良武任(さがらたけとう)(1498〜1551)が大内義隆に対して弁明した「相良武任申状」に、

(略)
右、重矩言上の儀、若し、武任虚言を構へ申し候はば梵天、帝釈、四大天王、惣じて日本国大小神祇、殊に氷上山妙見大菩薩、築山大明神の御罸、子々孫々に至り罷り蒙る可く候。
此の状、上覧に備へられ候はば、一々御証明有る候条、誓詞に及ばずといえども、重矩謀略の儀、天道を仰ぎ奉る可きため、神名に載せ申し候也矣。
 天文二十年正月五日     
    武任
 杉豊後守殿


と、「築山大明神」が見えます。


大内氏滅亡後も歴然たる社であったらしく、今八幡宮旧大宮司小方氏所蔵文書には、毛利元就(1497〜1571)の

改年の祈念の為、八幡春日築山の御久米到来

という記述があり、輝元(1553〜1625)の

築山御神事相調、従大宮司御久米到来

という記述が残っているそうで、輝元の時代も儼(厳)存していたようです。


では、いつ頽廃したのでしょうか?
江戸時代後期の多賀社大宮司 高橋有文は、父 勘解由が物語ったところによると祖父右近の代に、百年前までは焼残った鳥居などが野田町の方に向ってあった、と書いているとのことです。

1556(弘治2)年に大内家旧臣の杉重輔と内藤隆世による戦いで山口の町は焦土と化しており、この時に築山館とともに焼けたのでしょうか。

多賀社大宮司 高橋延実によれば、本社頽廃の後、常栄寺(つまり、もとの国清寺)の鎮守社に合わせて祀り、毎年十一月中の巳午の日、形ばかりの祭式を執行していたといいます。

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▲国清寺山門

後に廃観音寺(大内持盛の菩提寺)、また廃凌雲寺(大内義興の菩提寺)の神牌には、その神名の中に築山大明神があるということです。
国清寺(大内盛見の菩提寺)など大内氏の菩提寺の鎮守社には築山大明神を祀っていたことと思われます。

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▲滝の観音寺 仏殿(現 洞春寺観音堂)

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▲凌雲寺跡

実は、昨年一年にわたり、陶氏館跡に建つ正護寺の古文書整理のお手伝いをさせていただいたのですが、その時、たくさんの神々にならんで築山大明神に回向する回向文が見つかりました。
大内滅亡後、江戸時代にも筑山大明神の信仰が脈々と続いたということが、ここでも分かります。
山口市歴史民俗資料館『令和2年度指定新指定速報展(西郷文書・築山神社)』(2021年4月6日〜25日)でその文書が展示されたのですが、残念ながら展示を見ることができませんでしたもうやだ〜(悲しい顔) どのような説明文が添えてあったのか、とても興味がありますわーい(嬉しい顔) 築山神社が昨年度、山口市指定文化財に指定されたことに因んでの展示だとは思うのですが、大内氏の時代に築山館にあった築山大明神と明治期になって築山跡に遷座した築山神社をどう関連づけていたのか、気になるところです。いや、名前が似ているけど、非なるものだとズバリ書いてあったのかも……。ああ、行きたかった・・・。

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▲正護寺

正護寺は陶氏二代目弘政の創建です。
正護寺が大内氏ゆかりのお寺だから築山大明神の名が見えるのか、または、陶地域として築山大明神が広く信仰されていたのか、研究成果が待たれるところです。

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▲左側は「正護寺殿」つまり陶弘政の墓、右側は「開山塔」つまり傑山寂雄(けっさんじゃくゆう)大和尚の墓


『山口名勝旧蹟図誌』に「築山大明神址」についてありましたexclamation
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▲『山口名勝旧蹟図誌』「築山大明神址」(国立国会図書館蔵)

築山大明神址
同上の土塁の西方の上にあり。
文明十九年文明十九(1487)年三月晦日の壁書に築山社頭とある是にて。
今は小き石祠あり。本社の事。大内実録に委(くわし)くいへりことながけとば。更にいはんもうるさければ。ここには省けり。下に翻するは本社の址にある石なり。故高橋有文がかけるものに五扉ある様に見ゆとあれど。現今にては下に図するが如し


今近藤清石の頃とほぼ同じですが、傍の木が成長したせいか、少々動いていますね。
説明板を立て、大切な史跡として残していって欲しいものです揺れるハート


参考文献:
『大内氏實録』(近藤清石/著 中元壮作、宮川臣吉 1885)巻第八「世家第八 教弘」
  ※国立国会図書館デジタルコレクションでインターネット公開(保護期間満了)されています
『群書類従』巻第四百一 武家部二「大内氏壁書」(第501−502冊)
  ※国立国会図書館デジタルコレクションでインターネット公開(保護期間満了)されています
『山口名勝旧蹟図誌』(近藤清石/著 宮川博古堂 明26,27)
  P29〜30「築山大明神址」
  ※国立国会図書館デジタルコレクションでインターネット公開(保護期間満了)されています
『趣味の山口』(防長史談会/編・出版 1931(昭和6).10)



次回に続く
築山大明神T @ 築山跡F [2021年06月30日(Wed)]
前回の続き

築山大明神とはなんでしょうかexclamation&question
築山跡の地に屋敷がおかれたのは、大内教弘が家督を政弘に譲った後に別々の居所を構えてから、教弘が亡くなるまでの間で、その後は、政弘が父・教弘を祀った築山大明神の祠が設けられたものとみられています。

政弘の家集である『拾塵和歌集』の巻九に、

 文明十八年八月亡父に贈三位の  (三字分空白) 宣旨(せんじ)・同位記などを送給しを 築山の廟にてよみ奉(たてまつ)るとて
花の咲おりもある世を朽はつる身ぞと思ひし椎柴の陰
 おなじ時よみ侍ける
くもりなく位の山の月影を今夜や苔の下に見る覧
 

巻十にも

 同じ(文明19年)四月三日亡父に大明神号の宣旨を下され侍りければ 築山の廟に奉納し侍とて
勅なれば光ことなるつき山のあきらけき神ぞいともかしこき
 

と「築山の廟」とあります。
宣旨ですから、朝廷から教弘に築山大明神の号が贈られたということです揺れるハート

『寛政重修諸家譜』「多々良氏系図」の「教弘」のところに

長亨(享)元年四月三日筑(築)山明神と崇む

『系図纂要』「多多良朝臣姓大内」の「教弘」のところにも

長享元年四ノ三宣築山明神

とあります。

『山口市史 通史編』(山口市 1955)にも、

寛正五年翺之恵鳳は教弘のために「大内氏亭下飛松の記」を作つている。後に築山館の西北隅に築山祠が建てられ、教弘を奉祀した。今の築山神社の地に相当している。文明十九年(長享元年)四月三日、後土御門天皇は築山祠に築山大明神の宣旨を賜つた。教弘の子政弘はこれを築山祠に奉告するとともに、次の如き和歌を詠じた。
  勅なれば光ことなるつき山の
   あきらけき神ぞいともかしこき


とあります。

『大内氏實録』(近藤清石/著 中元壮作、宮川臣吉 1885)巻第八「世家第八 教弘」にも、

また一社を創立して其(教弘の)霊を祀る。(社伝)後年社号築山大明神たるべき宣旨を賜ふ。(社伝)長享元年四月三日とす。

とあります。
(※文明19年7月20日に長享に改元したので、「長享元年」ではなく「文明十九年」が正確)


ところが、築山大明神の成立には別の説もありますひらめきひらめき
『大内氏實録』(近藤清石/著 中元壮作、宮川臣吉 1885)巻第八「世家第八 教弘」に、

大友家が大内を襲う、茲に因り、教弘卿の遺言が有り、甲胃、太刀・弓箭(や)・槍等の武器を揃え、築山御所に埋め、永しく大内家の守護と為し、築山大明神と号し、春秋に祭典を行い、時弘綱蒙が祭祀の職に蒙(こうむ)る。
(書き下し文に変えました)

とあり、教弘の遺言で築山館の敷地内に甲冑や武器を埋め、大内家の守護として「築山大明神」を祀ったというものです。


また、別の説もありますひらめきひらめきひらめき
『大内氏史研究』(御薗生翁甫/著 山口県地方史学会 1959)には、

教弘(略)築山館を大内氏衙(が)門の北続きに構築した。八坂・築山両社の境内外付属地に亘る。築山ありしによって名とした。廓内に築山大明神を建て、また闢雲院を創めた。剃髪して教弘法師といった。

とあり、教弘が築山館の敷地内に築山大明神を建てたというものです。


さらに、こんな説もありますひらめきひらめきひらめきひらめき
『山口市史 通史編』(山口市 1955)に、

教弘は兵部卿師成親王と歌道で師弟関係があり、交情極めて密なるものがあつた。それで築山大明神は表面、教弘の霊を祀ると称したが、実は教弘が生前、師成親王を祀つたとの説もある。

とあり、

『大内氏實録』(近藤清石/著 中元壮作、宮川臣吉 1885)巻第八「世家第八 教弘」には、

故人高橋延実は、実は兵部卿師成親王(が)法泉寺にて薨(こう)じたまへるも、教弘卿(は)築山館内に小社を創建し、其御霊を祀られたる社を、政弘卿が父の遺言にて宏壮に造替せられるしなり。されど当時は足利氏への聞を憚り、武器を埋めた等々と声高に唱へしなりとの云ひ伝ありとかたりき。

とあり、法泉寺で亡くなった師成親王を祀るために、教弘が築山館内に小さな社を建てたというものです。政弘が父の遺言に従って宏壮に造り替えたといいます。
(高橋家は山口の多賀社の大宮司の家系です。多賀社は、大内氏によって勧請されたと伝える山口五社の一つで、もとは宇野令にありましたが、現在は山口大神宮の境内地に遷座しています。高橋右延は大寧寺で大内義隆に殉じています。その息子 言延(ことのぶ)は毛利輝元の求めに応じて『大内様御家根本記』を著わしました。有文の代には、大内氏の故事、逸文、ならびに山口を中心とする文書記録を集め、文庫を形成しました。)

証なきことながら、李花集奥書に、此本先師兵部卿師成親王、出家号竺源恵梵(じくげんえぼん)也。教弘相伝之、時享徳改元仲冬日、多々良朝臣とあれば、その事なしともいひがたし。猶よく考ふべし。

師成親王(1361(正平16/康安元)〜?)は、後村上天皇の第五皇子で、南朝の親王で、出家して臨済宗仏光派に属し、竺源恵梵と号しました。
1399(応永6)年10月大内義弘が足利幕府軍と戦った「応永の乱」では、義弘と共に堺で戦いました。12月義弘は堺で討死し、翌1400(応永7)年2月山口に逃れ、法泉寺に入り、同寺に住した後、伊勢南陽寺に住し、後また、山口に帰り、薨去したといいます。
歌人としても優れていた師成親王は教弘の和歌の師となり、自分の叔父の宗良親王の遺した歌集『李花集』を自ら書写し、1452(享徳元)年に教弘(1420(応永27)〜1465(寛正6))が賜ったということが、『李花集』の奥書に書かれています。

此本書、先師兵部卿師成親王出家号恵梵筆跡也、教弘相伝之、
  旹享徳改元仲冬廿日
      多々良朝臣(大内教弘)印判


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『李花集 : 宗良親王御集』(宗良親王/著 紅玉堂書店/出版 昭和2)国立国会図書館蔵)


築山大明神址に立つと、北北西の方向に三角形の形の良い山が見えます。

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この山こそ、政弘の墓師成親王の墓がある山です。
F442431C-5A70-449F-8277-CF7ED1F90B14.jpeg大内政弘の墓 
98C5DC64-801E-4BA0-9FA0-B6B2A26A4385.jpeg伝師成親王御廟

ここに立つと、訳あってこの場所に建てたと思えるのです。


築山大明神の成立について、ざっくとまとめてみます。
1政弘が教弘の霊を祀った祠を設けた。文明19年(長享元年)4月3日、後土御門天皇より社号を築山大明神の宣旨を賜った。
2教弘が築山館の敷地内に築山大明神を建てた。
3教弘の遺言で、政弘が築山館の敷地内に甲冑や武器を埋め、大内家の守護として築山大明神を祀った。
4法泉寺で亡くなった師成親王の霊を祀るために、教弘が築山館内に小さな社を建て、政弘が父の遺言に従って宏壮に造り替えた。 


参考文献:
『山口市史 史料編 大内文化』(山口市 2010.3)
  P412〜423『拾塵和歌集』
  P13「多々良氏系図」「●教弘」
  P52「多々良朝臣姓大内」「教弘」
  P617〜8「新葉和歌集富岡本」
  P618「李花集」
  P938〜944「大内氏遺跡築山跡」
『山口市史 通史編』(山口市 1955)
  P63〜64「築山祠に大明神の宣旨」
『大内氏實録』(近藤清石/著 中元壮作、宮川臣吉 1885)
  巻第八「世家第八 教弘」
  ※国立国会図書館デジタルコレクションでインターネット公開(保護期間満了)されています
『大内氏史研究』(御薗生翁甫/著 山口県地方史学会 1959)
  「師成親王と崇光院三ノ宮法泉寺方丈」
  「伊予の動乱と大内教弘」 
「大内氏歴代当主と山口D 28 大内教弘」(山口ふるさと伝承総合センター)
『李花集 : 宗良親王御集』(宗良親王/著 紅玉堂書店/出版 昭和2)
  ※国立国会図書館デジタルコレクションでインターネット公開(保護期間満了)されています
『山口市の石仏・石塔(2)大殿・白石・湯田』(山口の文化財を守る会/編 山口市教育委員会 2004)
  P103「大殿の塔」No.92「大内政弘墓(五十鈴ダム東)」
     No.93「伝師成親王御廟(五十鈴ダム東)」



次回に続く
築山大明神址 @ 築山跡E [2021年06月29日(Tue)]
前回の続き

「大内氏歴代当主と山口D 本拠山口から 大内教弘」(山口ふるさと伝承総合センター「伝承センター通信」(2019.12))に、築山大明神址の写真が掲載されているのを見てから、築山跡のどこにあるのか気になって仕方ありませんでした。

『大内氏實録』(近藤清石/著 中元壮作、宮川臣吉 1885)巻第八「世家第八 教弘」

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▲『大内氏実録』巻第八「世家第八 教弘」(国立国会図書館蔵)

旧址今の築山神社の西側の築地上にありて、南面に幅五寸許の葛石を敷き、これに方四寸九許許の石柱六本を立つ。三本は折れ、一本は前面闕損、全きもの二本あり。長二尺一寸六分許、柱より柱の間の長二尺二寸五分にて、柱の向ひ合たる方及び葛石に樋がありて、これに厚さ二寸六分五厘、幅一尺二寸一分の石の板を入る。其石板の上面にも樋あり、凹字型となす。おもふに、この上に石の板一枚を入れて其下面凸字型をなし、これにくひ合ひしが失せたるなるべし。なにの為にしたるものか考ふべからず。

とあるのを見つけました。
これをもとに、築山神社の西側の築地上に、築山大明神址と伝わる石屏を探してみましたぴかぴか(新しい)

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すると、ありましたひらめき

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C5D887C4-A670-49A5-9D7A-5DB4B52B8AC3.jpeg2021年6月26日撮影 59878CC2-650F-4750-AFDD-073A5A77E304.jpeg E2F1E2F5-F9ED-46A6-9EEA-081B652E3EE7.jpeg 
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『大内氏實録』のように6本ではありませんが、3本の柱があります。
「葛石」は「社寺・宮殿などの基壇の上端の縁にある、縁石 (へりいし) を兼ねる長方形の石」のこと。
「樋」は「表面につけた細長い溝」の意。

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きれいに加工されています。

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一つずつ見てみましょう。
一番左側の石柱。
両側が凹字型になっています。
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真ん中の石柱。
両側が凹字型になっています。
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三番目の石柱。
左側のみ凹字型になっています。
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間の石板は左右が凸字型です。上に窪みがあります。
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さて、築山大明神とはなんでしょうか。


参考文献:
「大内氏歴代当主と山口D 28 大内教弘」(「伝承センター通信」(2019.12))(山口ふるさと伝承総合センター)
『大内氏實録』(近藤清石/著 中元壮作、宮川臣吉 1885)巻第八「世家第八 教弘」
  ※国立国会図書館デジタルコレクションでインターネット公開(保護期間満了)しています


次回に続く
市川少輔七郎元教之墓 @ 築山跡D [2021年06月25日(Fri)]
前回の続き

築山神社北側の土塁の上から移された市川少輔七郎元教供養塔
市川元教は大内氏再興を企て動いた人として大内氏代々の霊が祀ってある築山神社に合祀されています。
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最近、案内板「毛利氏家臣 市川元教の墓」も設置されました。
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説明板「市川少輔七郎元教の墓」も、昨年建てられました。
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毛利氏家臣で高嶺城代・山口奉行を務める市川経好の嫡男。
豊後の大友宗麟と大内家再興を企てるが露呈して、天正六年(一五七八)、毛利氏配下により討たれる。
墓石はもと築山神社北側の土塁上にあったが、周辺整備に伴い、平成三十年この場所に移設された。
 

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無縫塔。80cm。
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そばの灯籠は、1827(文政10)年、元教の250回忌に市川家の人によって建てられたものです。
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市川少輔七郎元教墓

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 文政十丁亥三月
松金洞岩居士
 二百五十回忌建立


C7DF4EED-06E3-4C02-8351-405C7FDAF7EA.jpeg裏面

市川三右衛門経□
同  亀之助経□


刻まれている「市川三右衛門経□」は、『閥閲録(ばつえつろく)(『萩藩閥閲録』)の巻140にみえる「遠近附」の「市川三右衛門」のことでしょうか。「経」の後が判読できないのは、残念です。
『萩藩閥閲録』も読んでみなくてはいけません。

こちら石も墓所のそばに以前建っていたり倒れていたものを一緒に移設してそばに建てられています。
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土塁に登って、墓が以前あった場所を探してみましたが、草で覆われていてよく分かりませんでした。
それにしてもこんな場所になぜ建てられたのでしょうか?

元教(?〜1578)は、毛利氏家臣で山口奉行を務める市川経好(1520〜1584)の嫡男として生まれました。
母は、1569(永禄12)年大内義興の甥である大内輝弘(1520〜1569)が山口に乱入したとき【大内輝弘の乱】、北九州 立花山城をめぐって大友氏と対陣中の夫・経好に代って、高嶺城を無事に守り、毛利輝元から「比類なし」との感状をもらった市川の局です。
1578(天正6)年に豊後国の大友義鎮(宗麟)に内応し反乱を企て、そのことを父 経好に察知され、経好の密命を受けた雑賀隆利や内藤元輔らによって討ち取られました。
元教は謡曲「采女の山郭公」の小鼓が得意であったため、元教の死後、山口では采女を謡うことを控えたと言われています。


「父 経好が飯田町の観音堂で切腹させた」という自刃説もあります。
『山口名勝旧蹟図誌』(近藤清石/著 宮川博古堂 明26,27)「市川少輔七郎元教之墓」に

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『山口名勝旧蹟図誌』「市川少輔七郎元教之墓」(国立国会図書館蔵)

とあります。
『山口市史 地区篇』(山口市史編纂委員会/編 山口市役所 1961(昭和36).3)P92にも

今の築山神社の裏の築地(略)の上に苔蒸した墓一基が今も所在なげに立つている。これは市川少輔七郎元教という若武者の奥都城であるが、この元教は大内氏滅亡の後、毛利氏に仕えて山口の城番となった市川伊豆守経好の子で、父経好が他国へ出陣していた留守中元教が首謀となつて大内氏再興の密議を凝らしたとの嫌疑がかゝり、それを伝え聞いた経好がいそぎ山口に帰つて、子息元教を飯田町の観音堂に捕え、その場で切腹させた。この元教は平素謡曲をよくし、特に「采女」を好んで謡つていたが、その死後元教の霊が町の一人に憑り移つて、そつくりな声で「采女」を謡つたということが評判に立つたので、それからは、たゝりをおそれて、謡曲「采女」をうたわぬようにしている。

と同様の記述があります。


飯田町の観音堂に行ってみましょうわーい(嬉しい顔)
『幕末山口市街図』(1865(慶応元)年〜1868(明治元)年頃 山口県文書館蔵 袋入絵図178)に「下立小路町」に面した「飯田町」に「観音堂」があります。

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今の「石山(せきざん)観音堂」のことだと思われます。

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久しぶりに観音堂を訪れた時、2013(平成25)年にコンクリート造に建て替えられいて、唖然としたのを覚えています。前は風情のある木造の小さなお堂でした。

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「石山観音堂縁起」。
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 安永三(一七七四)年に浄土宗 善生寺住職浄誉天髄が地元の古老の口実を聞き取り、書き取った文書を善生寺十六世寛誉嶺光が文化八(一八一一)年に書き改めた「周州吉敷郡山口荘竪街 観音堂略縁起」があります。
 これによると、大内氏第二十四代 弘世、康暦二(一三八〇)年の世に下竪小路に楼閣を建立し大内氏北廰の持佛 聖観世音菩薩を奉安しました。しかし、永禄十二(一五六九)年に大内輝弘が豊後より山口に乱入したおり観音堂は焼失しましたが、本尊と厨子(大内菱の紋あり)は焼け残り、その後、里人は力を合わせて観音堂のあった場所に小堂を造り本尊を奉安したということです。
(略)

観音堂のそばに宝篋印塔があります。
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 徳雲孤巖禅尼
寶篋塔
 昌巖智榮禅尼


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一字一石諸経
明咒所謂宝篋
印陀羅尼大般
若経法華妙典
佛顧尊勝陀羅
尼経等也


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明治丗七年三月三日
玉道祖a尼首座
陰暦正月相當


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願主沙門尼
徳雲孤巖
明和六己丑(1769)
三月吉日



『山口市の石仏・石塔(2)大殿・白石・湯田』(山口の文化財を守る会/編 山口市教育委員会 2004)のP88「大殿の塔」No.46「宝篋印塔」に

市川小輔七郎元敬の供養塔との説がある。

とありますが・・・・・exclamation&question
市川元敬って誰?「市川輔七郎元」は誤植で「市川輔七郎元」が正しいと思います。


参考文献:
『山口市の石仏・石塔(2)大殿・白石・湯田』(山口の文化財を守る会/編 山口市教育委員会 2004)
  P90「大殿の塔」No.52「市川少輔七郎供養塔」
  P88「大殿の塔」No.46「宝篋印塔」
『幕末山口市街図』(1865(慶応元)年〜1868(明治元)年頃 山口県文書館蔵 袋入絵図178)
『山口名勝旧蹟図誌』(近藤清石/著 宮川博古堂 明26,27)(国立国会図書館蔵)
  P29〜30「市川少輔七郎元教之墓」
  ※国立国会図書館デジタルコレクションでインターネット公開(保護期間満了)されています
『山口市史 地区篇』(山口市史編纂委員会/編 山口市役所 1961(昭和36).3)
  P91〜92「第十章 伝承 五 伝説と民話」「禁断の謡曲」


次回に続く
祇園稲荷・石仏・石塔 @ 築山跡C [2021年06月24日(Thu)]
【前回の続き】

八坂神社と築山神社の間に祇園稲荷もあります。
13E6C5C1-7990-4979-831C-3EA9E7BFD3FD.jpeg2021年6月23日撮影 IMG_7379.JPG2018年7月15日撮影 IMG_7380.JPG IMG_7382 (2).JPG 9A8D07F8-C5CA-4B70-8EA7-249F970086BF.jpeg


一角に石仏・石塔を集めた場所があります。
IMG_7381.JPG2018年7月15日撮影

2018年には市川少輔七郎供養塔も築山神社北側の築地跡上から移されました。
14BE147B-00B6-424E-8C31-A8C055A79420.jpeg2020年7月13日撮影 7AF62786-A26E-450E-86DA-E297E514B157.jpeg 09E18CD9-205F-4BCD-95C3-C0951CB83F4C.jpeg2021年6月23日撮影


誄方社
祠堂。後方の石柱に「誄方社」とあります。
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祇園大神
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祇園大神霊 堅牢大地神」と彫られています。
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庚申塔
自然石。58cm。
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庚申
自然丸石。70cm。
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参考文献:
『山口市の石仏・石塔(2)大殿・白石・湯田』(山口の文化財を守る会/編 山口市教育委員会 2004)
  P112〜13「大殿の庚申」No.12「庚申塔」、No.13「庚申」
  P129〜30「大殿の神」No.21「誄方社」、No.22「祇園大神」



【次回に続く】
大内義興碑・大内氏月見之松紀念碑・箏曲組歌発祥之地碑 @ 築山跡B [2021年06月23日(Wed)]
【前回の続き】

築山跡は、大内氏顕彰の場となっていますぴかぴか(新しい)


大内義興碑
1B778835-221C-4461-9761-2733DAD52CDA.jpeg2021年6月23日撮影

大内義興の顕彰ために1890(明治23)年2月に建てられました。
IMG_7373.JPG2018年7月15日撮影

撰文は楫取素彦です。
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篆額「大内義興卿碑」。
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篆額は毛利元徳の筆です。
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「大内氏月見之松紀念」石碑
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月見松というのは、大内公遺愛の老樹で名木でした。
『大内氏時代山口古図』(山口県文書館蔵 軸物史料218)を見ると、「大内御殿」のところに「月見松」が描かれています。

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▲山口ふるさと伝承総合センター前にある地図より

しかしながら、1856(安政3)年8月11日雷火のため焼けて枯れました。そののち友津田典が、根より三丈計り上りて皮付きのところを遺して中を丸く刳り、それを縁として額にし、月見松の絵を尾張の人湟宏に描いてもらい、文は近藤芳樹(1801〜1880)が記し、和歌二首を添えたものを作りました。
現在八坂神社楼拝殿に、松で造った額に入った松の絵が飾ってありますが、それでしょうか?
傍に近づけないので、文字があるかどうか、よく分かりません。

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その句は『防長旧族の館跡防長古城趾の研究』(御薗生翁甫/著 山口県地方史学会 1962)に、

めぐりあふ秋はあらじと枯れにけり 
  月の名おへるふるさとの松

てる月も雲のよそよりなげくらむ
  宿しなれにし木の間たずねて
 
     
とあります。

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「箏曲組歌発祥之地」石碑
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碑の裏側
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昭和四十年十一月建立
  題字揮毫 内閣総理大臣 佐藤栄作
  発起人  箏正派家元  中島路雅楽之都
  同    山口県知事  橋本正之
  同    山口市長   兼行恵雄
  同    山口県熊毛町 林 泰


「建碑の由来」。
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大内義隆(1507年〜1551年)は武人で且つ高度の文化人として 芸術 学問 宗教 特に管弦 詩歌に深く心を寄せた人でありました
 応仁の乱後 京都をのがれた文化人や殿上人は 次々と大内家へ身を寄せ ここに輝やかしい地方文化の花を開かせたのであります
 「箏曲組歌」はこの大内文化を母体として生まれました 若き殿上人の楽人たちはこの地に集まり 自己の詩情を即興的に作詞作曲して 優雅な遊びの興趣を高めました 雅楽 「越天楽」の楽式による優美で気品ある風格の高い この組曲は その後 筑紫流 八橋流 生田流 山田流と 変遷を経ながらうけつがれ すぐれた伝統音楽として 今なお多くの人々に愛奏されております
 この記念碑は全国の第一線に活躍する箏曲教授家や 箏曲を愛する篤志家が 組歌の発祥を末永く記念して建てたものであります
 大内文化の生命が現代にいきいきとよみがえる時 私たちは「芸術は長く人生は短し」 の至言に敬虔の念をいっそう強めるものであります
 昭和四十年(一九六五年)十一月十一日世界平和記念の日
   中島路雅楽之都 誌す


「協賛者芳名録」
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「箏曲組歌発祥之地」説明板。
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 組歌は八橋検校(一六一四〜八五)が確立した箏曲の根本形式です。その整然とした楽式の源流は古くは雅楽曲〈越 天楽〉にまで遡りますが、そこから発生した箏の弾き歌いの音楽は, まず中世末期に賢順(一五三四?〜一六二三)により筑紫箏として大成され、さらに八橋検校による新工夫が加えられて、今日の箏曲の創始に至りました。
 一方、数首の歌を組み合わせた歌詞については、 安永天明の頃(1780前後)の箏曲組歌の譜本「箏曲大意抄」の中に, おおよそ次のような話が伝えられています。

天文年間(一五三二〜五四)のこと、 山口の大内義隆卿は、 京から迎えた北の方を慰めるために、しばしば都の公卿殿上人や楽人などを招いて詩歌管弦の遊びを催したが、ある時その席で七人の若い殿上人が 一首ずつ歌を作り、つぎつぎに箏で弾き歌いすることが行われた。これが箏の組歌の起源であり、歌の組合せなので組歌と言う。これゆえ最初の組歌 の曲《ふき》の歌詞は七首になっが、 やがて一人が早世したため以後の曲では六首になった。

 この話には疑点もあってすべてそのままには受け取れませんが、当時この地に花開いた大内文化を考えますと、むげに否定し去れない面もあり、興味深い所伝です。
 この「箏曲組歌発祥之地」の碑は、この所伝をよすがとして箏曲組歌の誕生期に思いを馳せ、あわせて往時の大内文化の繁栄を偲ばんとする各地各界の多数の人々の熱意と浄財によって、昭和四十年十一月、ここ大内氏ゆかりの地に建立されたものです。
    昭和六十一年十一月八日 上参郷祐康述


若い殿上人は、「則春、清政、春孝、重頼、高雅、行道、是正」の七人であり、早世したのは、「行道」だそうです。


参考文献:
『山口市史 史料編 民俗・金石文』(山口市 2015(平成27).3)
  P801〜802「大内義興碑」
『大内氏時代山口古図』(山口県文書館蔵 軸物史料218)
『山口市史 各説篇』(山口市編纂委員会/編 山口市 1971(昭和46).3)
  P685〜686「築山亭」
『山口市史 史料編 大内文化』(山口市 2010(平成22).9)
  P938〜944「大内氏遺跡築山跡」



【次回に続く】
連歌師宗祇「池は海 こすゑは 夏の深山かな」 @ 築山跡A [2021年06月22日(Tue)]
【前回の続き】

築山跡には、1953(昭和28)に建てられた連歌師飯尾宗祇(1421〜1502)の句碑があります。

宗祇句碑
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1480(文明12)年、大内政弘に迎えられて山口を訪れた宗祇が、築山館(屋形)で開かれた連歌会で詠んだ発句が刻まれています。

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池は海 こすゑは 夏の深山かな

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この句は宗祇の『老葉(わくらば)に収められています。 

 西国にくだりし時 大内京兆(けいちょう) 筑(築)山にて一座興行のとき、此所のさまをつかふまつるべきよし所望侍りしに

とあります。「西国にくだりし時」とは1480(文明12)年、「大内京兆」とは大内政弘のことです。

また、このときの旅行は『筑紫道記(つくしみちのき)として書き表されています。

二毛のむかしより六十いまにいたるまで、をろかなる心ひとすちにひかれて、いり江のあしのよしあしにまよひ、身をうき草のうきしづむなげきたえずして、移りゆく夢うつつの中にも、時にしたがふ春秋のあはれ思ひ捨てがたく侍るままに、国々の名ある所見まほしく侍る程に、(略)
左京兆のかぐはしき契ふかうして、(略)文明十二の年水無月のはじめ周防国山口にといふにくだりぬ
今日は長月の六日なれば、彼野の宮の暁に、音な鳴そへそなと侍りしも、おもひ残す事なし。(略)
 立出し日より今日まで三十六日にや成侍らん。(略)けふは神無月十二日、山口のやどに帰りて、此たびの日記はしるしとどめ侍る事しかり。

60歳の宗祇が1480(文明12)年9月6日に山口を出て、大宰府・博多をめぐって10月12日に山口にもどる36日間の旅日記です。

碑の裏面。
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宗祇は1489(長享3、延徳元年)年5月から7月にかけて再び山口を訪れ、『宗祇山口下着抜句』によると、宗祇を迎え、連歌歌会18回うち殿中で9回連歌会が催されています。

宗匠種玉庵宗祇長享三年(延徳元年)五月八日至山口下着之、同一七日初殿中御会(略)


また、伊勢物語の講釈をして『伊勢物語山口記』を残しています。
1489(永徳元)年、山口で政弘に講じた内容を、ある初心者のために書き与えた注釈書です。宗祇に関連する『伊勢物語』の注釈書は数多く存在しますが、宗祇自身の手によって記された注釈書は本書のみで、延徳年間(1489〜92)に作成されました。
宗祇自身の奥書に、周防国(現在の山口県)滞在中に、初学者を対象として編まれたことが述べられています。

此一冊者 延徳之初之比 防州山口にして此物語之講尺之後 初心之輩所望之間書之 然者形のやうな事共なるへし 於余情者筆舌難及 只任其心耳
   宗祇

   (『鉄心斎文庫伊勢物語古注釈叢刊』第3巻)


「池は海」の句から、築山館(屋形)には、大規模な池のある庭園があったと考えられてきました。
園池の跡は残っていましたが、この池も江戸時代中頃周囲の築地の土をもって埋めてしまい、現在のようになったといわれています。

『大内家古実類書』巻之二二 築山之事(山口県文書館蔵 多賀社文庫)に

築山旧跡之境内
 八拾間四面


と図示し、また、「四方竹藪之事」に天明2・3(1782・3)年頃に敷地内の竹藪を切り開いた土で池を埋め畠としたことや、「泉水之水之手之事」に天花から水を引き大内氏館の堀に流したなどの伝承を記しています。

『防長旧族の館跡古城趾研究』(御薗生翁甫/著 山口県地方史学会 1962)に

天明23年頃恵海僧正の代に四方竹藪なりしを伐り払い、竹藪の土を以て池を埋め、庭石は或いは砕き或いは他に運び、今は八坂神社玉垣の前に少数屹立し、その他湯田の高田園の泉石に転用した。

とあります。

CE617513-342B-4E69-9C5B-B9237F4113BC.jpeg八坂神社 豊後立石 992F08AE-29AD-4CFA-B440-1153930F1DB0.jpeg 
EB90819E-ECF7-486F-8865-D2C83EBD919F.jpeg井上(高田)公園 瓢箪池



政弘からさまざまな援助を受け、宗祇は、自らが中心となって、兼載、三条西実隆とともに連歌撰集『新撰菟玖波集(しんせんつくばしゅう)を編纂します。1495(明応4)年に後土御門(ごつちみかど)天皇から勅撰に准ずるものとして認められました。
政弘75句、教弘7句、持世6句、大内家人(大内氏被官人)数句採られています。


山口県立山口図書館が所蔵する『仮御手鑑』には、大内義隆(1507〜1551)が開催した和歌会短冊が含まれています。
小槻伊治代筆による義隆和歌短冊をはじめとして義隆被官人の45点和歌短冊です。

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▲山口県立山口図書館蔵

宗祇が訪れて以来、山口では連歌が大変盛んになりました。「周防山口連歌師」「大内殿内連歌師」の和歌短冊が37点あり、義隆時代の連歌の隆盛を伝えています。

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▲山口県立山口図書館蔵

ただ、この「大内連歌師」「大内殿内連歌師」などとよばれた連歌の名手の中には大内氏の家臣が多数含まれていました。


山口県立山口博物館に「宗祇坐像」(安土桃山時代 (慶長期)写)、山口県文書館に「宗祇法師画像」(元文年間写)があります。
山口博物館本は、法体で端坐する座像で、白髭を蓄えた宗祇が、墨染めの衣に袈裟を掛けた姿で、左手に中啓を持ち、上畳に左向きに座しています。
山口県文書館本もよく似ています。
山口博物館本には「宗祇老人肖像」とあり、上部色紙形二枚に、

うつしをくわが影ながら世のうさをしらぬおきなぞうらやまれぬる

世にふるはさらに時雨のやどり哉
年のわたりはゆく人もなし
老の波いくかへりぜばはてならむ

『宗祇集』所載の和歌一首と、『萱草』『新撰菟玖波集』所載の発句、『宗祇終焉記』所載の付句2句(1502(文亀2)年)が書き込まれています。


参考文献:
「山口県文書館所蔵 アーカイブズガイド―学校教育編―」(web版)
  「室町文化(連歌)
『山口市史 史料編 大内文化』(山口市 平成22年3月)
  P464〜472『宗祇山口下着抜句』
  P496〜497『初編本老葉』
  P560〜574『筑紫道記』 
  P625『伊勢物語山口記』
  P938〜944「大内氏遺跡築山跡」
『山口市史 各説篇』(山口市編纂委員会/編 山口市 昭和46年)
  P685〜686「築山亭」
『山口市史 通史篇』(山口市編纂委員会/編 山口市 昭和30年)
  P101〜105「宗祇の山口来訪」
宗祇坐像」(山口県立山口博物館蔵)
  ※山口県立山口博物館の高画質画像ダウンロードで見ることができます
宗祇法師画像」(山口県文書館蔵 軸物類92)
  ※山口県文書館のデジタルアーカイブで見ることができます



【次回に続く】
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