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こどもと本ジョイントネット21・山口


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雲谷庵に行きましたA [2020年06月04日(Thu)]
【前回の続き】

雲谷庵は、明治時代の初めに取り壊され跡地は畑になっていましたが、1884(明治17)年に郷土史家の近藤清石が中心となって有志と図り、再建しましたぴかぴか(新しい)
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その際、大内時代の古材を集めて一宇を再建したそうです揺れるハート
 
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『雲谷菴誌』(近藤清石/著 1884(明治17).9/編集 1884(明治17).12/出版)(山口県文書館蔵 吉田樟堂文庫))を手がかりに一つずつ見ていきましょう。

かわいい仁平寺楼門の柱
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仁平寺については、「仁平寺跡に行きました」で紹介しましたが、『大内飯器』(近藤清石/著 1912(明治45))(山口県文書館蔵 近藤清石文庫)に

仁平寺ハ仁平年中ノ創建にて。年号を以て寺号にせりという旧刹にて。

とあるように仁平年間(1151〜54)に創建したといわれる寺です。現在別の場所に建つ仁平寺の案内板に

仁平寺は明治初年(一八六八)頃には全く荒廃して、僅かに観音堂のみ残り明治三年(一八七〇)十月一八日には小鯖村禅昌寺にひきとられた。

とあることから、近藤清石らが雲谷庵を再建した1884(明治17)年には仁平寺の塔宇はなかったはずです。
では、この柱はどこにあったのでしょうか。『大内飯器』に

寺のもの多く氷上山に伝はたりバ。蓋(けだし)楼門も仁平寺よりうつせるならん。

とあり、興隆寺に移築した仁平寺の楼門の柱を持って来たのでしょうか?
『雲谷菴誌』に次のようにありました。

楼門柱及び楼上窓扇。仁平寺廃後移氷上山。明治十五年頽破。本菴太柱及茶室戸是也。

AC1B7E8E-41FE-4034-A56C-25F9CAE8DD6D.jpeg現在の興隆寺中興堂(釈迦堂)


かわいい旧観音寺の窓
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観音寺は「洞春寺A観音堂 @ 香山公園G」で書いたことがあります。
5E842B02-CA78-441F-BB70-EF1F1D9A5AC0.jpeg滝の観音寺仏殿 
5A352E37-6A04-417A-861F-AB73D2A7801A.jpeg滝の観音寺仏殿花頭窓

1430(永享2)年大内持盛を開基とする滝の観音寺(後に勝音寺と改まり、さらに江戸時代になって、大通院と改まりました)の仏殿は、大正4年に洞春寺の境内に移築されました。


かわいい高嶺宮(山口大神宮)の蟇股
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かわいい興隆寺の僧房の扉
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かわいい大内氏別宅の菊水紋
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かわいい宝現霊社拝殿の柱
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宝現霊社については「大内氏館(16)龍福寺V宝現霊社」で触れました。
77276F48-0FDE-4513-9165-BDA6C6911F16.jpeg現在の宝現霊社


かわいい小野為八が描いた龍
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長州藩の砲術師範だった小野為八(1829(文政12)〜1907(明治40))は、等魁という画号を持つ雲谷派の絵師でもありました。
維新後写真家としても活躍し、小野為八の撮った萩城の写真は有名です。
1875(明治8)年山口に写真館を開いたといわれていました。
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だだ、今では明治20年前後に旧士族の松原繁が写真館として建築したと考えられ、その後現在の河村写真館に変わったというのが定説のようです。


かわいい板戸の絵。
この板戸のことはどこから持って来たのでしょうか?『雲谷菴誌』には載っていませんが・・・・・・。
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玄関のたたきは敷瓦になっていていました。
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庵敷地内には、一段高くなったところがあり、そこからは塀の上から瑠璃光寺五重塔が眺められます。
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五重塔がきれいに見えました!
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雪舟はここ雲谷庵の軒端に香積寺の五重塔を望みながら絵筆をふるっていたといいます。
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手水。
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池。
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引き込み水路。
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今年は雪舟の生誕600年です。
茅葺屋根の一部を新調したそうで、明らかに屋根の色が違います。
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『サンデー山口』第7213号 2020年3月7日「【やまぐち深発見紀行】No.183「大殿・『雲谷庵跡』改修工事経て再公開」
雲谷庵に行きました@ [2020年06月03日(Wed)]
山口市天花、七尾山の南麓にある雲谷庵に行きましたぴかぴか(新しい)
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「雲谷庵」説明板。
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 ここは、室町時代の画聖雪舟のアトリエ「雲谷庵」の跡です。
 雪舟は、一四二〇年に備中の赤浜(現在の岡山県総社市)の生まれで、若くして僧籍に入り、後に京都にでて、禅を学ぶかたわら絵を学んだ。雪舟は四〇才頃にはすでに第一流の画家として名声も高く、さらに大きい希望をもって絵を勉強するために当時中国、朝鮮から新しい文化が入ってきていた山口に住むようになりました。
 その後、応仁元年(一四六七)に遣明船に乗って中国に渡り三年間中国に滞在しました。日本に帰った後も山口に住みアトリエ「天開図画楼(てんかいとがろう)」を開いて画禅一致の生活をしました。
 雪舟六七才の時生涯最大の力作国宝「四季山水図」も此処で描いたものです。
 雪舟の没年や場所には諸説がありますが、永正三年(1506)八七才の時この雲谷庵で没したといわれています。
 雪舟死後庵は荒廃しましたが、大内氏の跡をついだ毛利氏が雪舟画脈の廃絶を惜しみ雲谷宗家にこの地を与えましたが、明治になって廃絶しました。そこで郷土史家の近藤清石(こんどうきよし)が中心となって有志と図り、明治一七年(一八八四)に大内時代の古材を集めて一宇を再建しました。現在の庵がそれです。


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扉を開けて、中に入ってみましょう。
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猫が入るので扉を閉めてください、と注意書きがあります。
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靴を脱いぐようになっています。
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上がってみましょう。
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パネル「この庵のこと」。
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パネル「雪舟とその作品」。
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まず奥の部屋から。
板張りの間に、炉が切ってあります。
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自在鉤が掛っていますが、『雲谷菴誌』に「自在鉤」のことが出てきます。
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床。
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軸の絵は、常栄寺にある「絹本墨画淡彩雪舟等楊像」からとったと思われます。雪舟の自画像を雲谷等益が模写したものです。
大徳寺の玉舟宗璠(1600〜68)の讃があり、山口県指定文化財になっています。
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花頭窓。
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扉の板絵がすばらしかったです。
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もう一間は畳の部屋になっていました。
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ここも花頭窓があります。
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連子窓があり、
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五重塔が見えるかと目を凝らしましたが、ご近所の屋根が邪魔して見えませんでした。
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「四季山水図巻」が掛けてありました。
雪舟67歳の時の作です。
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文明十八年嘉平日天童前第一座雪舟叟東楊六十有七歳筆受

の款記があります。文明18(1486)年は、興隆寺が勅願寺になった年(木造扁額「氷上山」裏面(興隆寺蔵))でもあり、また、政弘の長子 亀童丸(義興)の妙見上宮社参(「多々良亀童丸氷上山妙見上宮社参目録」(文明一八年二月一三日)(興隆寺文書)という、大内氏にとって重要な年でした。これを記念して、雪舟は大パトロンの政弘に献呈したものと考えられます。

説明板「雪舟の足跡」(外に掲示)。
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事績の表にある国宝「破墨山水図」(雪舟/筆 雪舟/自序 月翁周鏡・蘭坡景茞・天隠龍沢・正宗龍統・了庵桂悟・景徐周麟/賛 1495(明応4) 国立東京博物館蔵)は、雪舟が76歳の時、自分の許を去る弟子の如水宗淵に描いて与えたものです。
雪舟の長文の自賛は貴重です。
雪舟 破墨山水図@ (2).jpg 雪舟 破墨山水図A (2).jpg 雪舟 破墨山水図 (2).jpg


なお、雲谷庵跡は山口市指定文化財です。

雲谷庵跡は、画聖雪舟の旧居跡で天花七尾山の南麓にある。雪舟は、応永27年(1420)備中 赤浜に生まれ、12歳の頃生家に近い宝福寺に入って僧になったと伝えられている。その後、京都の相国寺に入り、禅とともに画技を学んだ。40歳前後に山口に来住し、寛正5年(1464)45 歳の頃 には、この地にあった雲谷庵に住んでいたといわれる。応永元年(1467)遣明船で中国に渡り、四明天童山で禅堂首座に列せられ、また彩色や破墨の画法を学び帰国した。帰国後も、雪舟は雲 谷庵に定住し作画活動と弟子の養成に努めたが、永正3年(1506)87歳のとき山口で没したといわれている。雪舟の死後、雲谷庵には弟子の周徳、次いで3世等薩がその画統をついだが、大内氏の滅亡とともに庵はいつしか荒廃してしまった。毛利輝元は、雪舟の画脈が絶えることを惜しみ、肥前の原治兵衛を召し出し、雲谷庵の地を与え、ここに居住させた。原は雲谷を姓とし、名を等顔と改め雪舟の画脈4世を称し、その子孫は代々毛利氏に仕えた。 明治の廃藩後、雲谷庵は無くなりその跡も忘れられるようになったので、有志等が図り、明治17年に古い社寺等の古材により庵を復興した。昭和57年に発掘調査が行われ、青磁片や瓦質土器片が見つかり、室町時代の遺構が存在する可能性が強まった。
山口市指定文化財概要 〜 史跡・史跡及び天然記念物 〜 史跡「雲谷庵跡」引用)


参考文献:
「破墨山水図」(雪舟/筆 雪舟/自序 月翁周鏡・蘭坡景茞・天隠龍沢・正宗龍統・了庵桂悟・景徐周麟/賛 1495(明応4))
  ※東京国立博物館「研究情報アーカイブズ」でインターネット公開されています。
『山口市史 史料編 大内文化』(山口市 2020)
  P801〜11「雪舟関係」
『大内氏の領国支配と宗教』(平瀬直樹/著 塙書房 2017)
『室町戦国日本の覇者 大内氏の世界をさぐる』(大内氏歴史文化研究会/編 勉誠出版 2019)
『雪舟への旅』(展覧会図録)(山口県立美術館 2006)



【次回に続く】  
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菅内の日吉神社に行きました [2020年06月02日(Tue)]
仁平寺への入口の西側に日吉神社がありますぴかぴか(新しい)
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日吉神社は、かつては山王社(日吉山王社)といい、仁平寺の鎮守として、仁平寺と同時期の1151(仁平元)年、大内氏家臣であった河野という人が創建しました。
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今八幡宮、古熊神社とともに、山口三社といわれているそうです。
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鳥居。
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鳥居の傍に石塔。
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まっすぐ参道が伸びています。
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楼拝殿造の社殿が見えてきました。
「楼拝殿」は山口地方の特徴的な社殿です。
門の左右に翼廊を付し、楼門・翼廊ともに板床を張ったものです。
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狛犬。
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文政三庚辰」と入っていました。1820年です。
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「日吉神社」由緒書。
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所在  菅内三八七-三番地(字河内)
祭神  大己貴之命(オホナムチノミコト)(別名 大国主之命)
旧号  山王社
(略)
社殿  本殿一間社流れ造十三坪
    幣殿十三坪 拝殿十二坪二階ヤグラ而坪(略)
縁起  仁平元年(一一五一)大内家臣河野某京師比叡山より勧請建立されました。
社殿は山口三社と称せられ(今八幡宮、古熊天神、日吉神社)最も古き歴史を物語っています。(略)
 仁平寺の鎮守社とするとのことです。
 寛永六年(一六六六)秋、領主益田氏が再建しました。
 現在の社殿は、宝永元年(一七〇四)十二月二十三日に益田織部就高の造立です。
 楼門は延享二年(一七四五)の再建です。
 明治四年山王社をに日吉神社と改号しました。
 末社に河内社、人丸社、弁天社等があります。
(略)

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木鼻。
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蟇股(かえるまた)。
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賽銭箱にも大内菱があります。
今まで見た大内菱とちょっと感じが変わっています。
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本殿の蟇股は大内菱です。
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楼門上層の
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腰板に3つ大内菱があります。
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わかりますか?
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本殿。
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河内社。
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愛宕社。
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「愛宕社」説明板。
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御大典記念碑。
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人丸社。
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猿田彦大神と庚申塔。
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1352年、仁平寺の供養会に先だって、3月3日にここ仁平寺の鎮守山王社の社頭で法楽舞が行われたのですね。
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仁平寺日吉山王社の鰐口が問田の光厳寺に伝わり、山口市指定文化財になっています。

銘は表面の銘帯に陰刻され、左に「奉懸仁平寺日吉山王社鰐口」、右に「右志者為天長地久持信心法主恒受快楽之故如志」、中央下方に「応永廿五正月廿四日」とあり、応永 25 年(1418)に寄進されたことがわかる。
銘文にある仁平寺は、寺伝によれば仁平元年(1151)の創建で、年号を以て寺号としたという。この鰐口が掲げられた日吉山王社は仁平寺の鎮守で、仁平寺の創建と同時に近江国日枝の山から勧請したと伝えられている。

『山口市指定文化財概要 工芸品』「鰐口」(山口市文化財保護課)より抜粋)



参考文献:
『山口市史 史料編 大内文化』(山口市 2020)
  P981〜2「仁平寺跡」
仁平寺跡に行きました [2020年06月01日(Mon)]
山口市菅内の仁平寺跡に行きましたぴかぴか(新しい)

仁平寺は、寺号が示すように仁平年間(1151〜54)に創建したといいますが、開山も開基も不明です。
興隆寺文書の『周防国仁平寺本堂供養日記』(山口県文書館)によると、1352(正平7/観応3)年には、本堂の他大圓坊・常楽坊・十池坊(十地坊?)・蓮池坊・南陽坊・常行坊・大国坊・竹林坊・寳持坊・寳樹坊・妙光坊・報恩坊・東蔵坊などの塔頭や山王社があったことが分かり、
弘幸が本堂を修造し、その供養会が執り行われた様子が書かれています。
山口県文書館の『文書館レキシノオト ♪26 芸能の音@ 寺社の音あれこれ』にはその様子が詳しく書かれていて、供養会の盛大な音色が、聞こえてきそうです。
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▲『文書館レキシノオト ♪26』

また、『大内村史』(河野通毅/編 大内公民館 昭和33)に

地下上申によると大内弘世の時代に京師叡山を仁平寺に勧請して麓に八王字の森、仁王門、弁才天、丈六の地蔵、五重の塔を建立した

とあるそうです。(『サンデー山口』第7217号より引用)
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『サンデー山口』第7217号

大内氏隆盛時代は興隆寺、乗福寺とともに三大寺といわれていましたが、大内氏滅亡後は寺は次第に衰退し、天保年間の記録では、その頃より100年ばかり前には五重塔が朽ちながらも立っていたと記載されています。

「仁平寺跡(にんぺいじあと)」説明板。
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山号を菅内山といい、仁平元年(1151)の創建で、年号をもって寺号とした仁平寺の跡である。注進案によれば、当時は五重の塔があり、本堂にいたる道の左右には本坊、東蔵坊、蓮池坊等があったので、その地名があったという。このことは、本堂供養日記にもその記事があり、これによると、供養は舞楽舞踊が行われる等、頗る盛大であったことがうかがえる。また、五重の塔の礎石が残っていたといわれるが、溜池築造のため取り除かれてしまっている。


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建物  本堂、本坊、秀實坊、禅智坊、蓮池坊、塔頭、五重塔、観音堂、寺家、御風呂屋等があった。
 大内氏の盛時は七道伽藍皆揃っていた。(略)
創建  近衛天皇、鳥羽院政、関白藤原忠通の時代。宗派は天台宗であった。現在は曹洞宗。
縁起  仁平元年といえば多々良氏の名前が見えている位で、大内氏としては古い時代である。この多々良氏が後の大内氏の先祖であるといわれている。年号を持って寺号としたのである。
創建後二百年を経って大内弘幸(二三代)が本堂を修造し正平七年(一三五二)三月八日をもって供養会を修するに定め(、)三日鎮守山王社(現在の菅内日吉神社)に法楽舞を施行した。然し同月六日に弘幸が卒去したので嗣子弘世(二四代)は一七日延期してこれを続修した。が弘世は遠慮して臨席しなかった。このことは、本堂供養日記に出ている。大内時代の盛大であったことはこの供養日記で充分うかがえる。大内氏没落後諸堂は廃頽し、五重塔の礎石のみが残り、本堂のあとには小庵があるばかりで小鯖村の禅昌寺から番僧が来て守りをしていた。尚本堂の鰐口(山口市指定文化財・昭和五一・一二・二一指定)は光厳寺の条につるしてある。
 本堂五重塔については、注進案に次の如く載せられている。
  寺跡の南少し高き所に五重塔の礎在せり(名勝旧蹟図誌ニ歩許四方)土人云、ことし天保一三年(一八四二)より凡そ百年ばかりも前つかたまでは、五重塔朽ちながら立ゐしが、いつ倒れつるを、まのあたり見たりしと古老の語り伝へありとぞ
  其池より塔の朽木を拾ひとりて器財に造りたる人多しといへり。
 五重塔の礎石は溜池を築造するときとり除かれ十六箇ばかり一ケ所に集められている。心臓と思われていた石は溜池の中に残っていたがその溜池もいつしか水は枯れてしまった。その付近に仁平寺の歴住和尚の墓と思われる印塔が数基と開山と彫った一基の墓もある。
 (略)
 仁平寺は明治初年(一八六八)頃には全く荒廃して、僅かに観音堂のみ残り明治三年(一八七〇)十月一八日には小鯖村禅昌寺にひきとられた。
(略)


実際に歩いてみましょう。
こういう石積みを見ると萌えます。
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この道の先に本堂跡があります。
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進んでいくと、畦というか道なき道になってきました。
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石積みがありますが、段々畑のものなのか、遺構なのか?面白いです。
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ここが突き当たり。この辺りに本堂や五重塔があったはずです。
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向こうに見える山は氷上山ではないでしょうか。
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下の道まで下りると左手に日吉神社が見えます。
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日吉神社の参道から見ると、高台になっていて本堂があった場所がよくわかります。
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アップにすると、こんな感じ。
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今は山間部の田んぼにしか見えませんが、明らかに平らに開けています。
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あの石積みは、○○坊があったところと思われます。恐らく。
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1151年に、近衛天皇(このえてんのう)がたてたといわれています。仁平元年にできたので、仁平寺という名がついたということです。大内氏の力がある時には、興隆寺や乗福寺とともにりっぱなお寺でした。しかし、大内氏がほろんだあとは、観音堂(かんのうどう)だけとなり、明治3年には、小鯖(おさば)の禅昌寺(ぜんしょうじ)にひきとられました。そのため、はじめは天台宗(てんだいしゅう)でしたが曹洞宗(とうどうしゅう)にかわりました。その後、明治16年にたてられましたが、台風でたおれたり、またたてなおされたりしました。今の仁平寺は、およそ500メートルはなれた東がわの道路に新しくたてなおされています。そして、ここは、集会所としても地区の人に利用されています。
 このように、今はもうむかしのおもかげはありませんが、大内氏の時代にとてもりっぱだった興隆寺・乗福寺・仁平寺は、大内文化をささえた3大寺といわれています。

『郷土読本 ふるさと大内』 「<仁平寺>−管内− 曹洞宗」引用)


現在、約500メートル東に場所を移して曹洞宗・仁平寺があります。
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1870(明治3)年、下小鯖の禅昌寺に現存するという観音堂はこちらでしょうか?
禅昌寺には「仁平寺」について触れた説明板はなかったもので・・・・・・。
他に観音堂はなかった気がします。
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また、仁平寺の楼門の柱は雲谷庵(山口市天花)を支える柱としてして使われているそうです。(『雲谷菴誌』(近藤清石/著 1884(明治17).9/編集 1884(明治17).12/出版)(山口県文書館蔵 吉田樟堂文庫)参照)
確認しに行きます!

さらに、興隆寺楼門に仁平寺の部材が転用されている可能性があるとされ、古い様式の大内菱が確認できるそうです。


第十図 余蔵氷上山興隆寺楼門古板
  竪壱尺弐寸四分
  横蔓股ヨリ三尺八寸四分

第十図は(墨消)真にから菱といふべき物なり。このから菱の紋ありあし楼門ハ天文年中陶尾張守隆房の建立と寺家にいひ伝へたるも。その時代より古き建築と見えたるが。往年寺家没落して破却したりける時に粗物なとに釘ありて、氷上山に新建せしものにあらず。他より引き移したること知られたり。さてハもといつこの楼門なりしか。氷上山ちかき字問多田に仁平寺という寺ありて。その寺のもの多く氷上山に伝はたりバ。蓋楼門も仁平寺よりうつせるならん。この仁平寺ハ仁平年中ノ創建にて。年号を以て寺号にせりという旧刹にて。大内氏十六世弘幸朝臣本堂を修理し。正平七年三月八日供養会をせんとて三日に試楽までせられたるに。六日に身まかられけれバ、其子弘世朝臣十五日に供養会を修せられた日記氷上山にあり。尋常の寺家ならざりしことハ。旧趾を見てもしらる。果たして十図の古板そのはじめ仁平寺のものなりせバ。大内氏の徽章これより古きハ伝はらじ。そハともかくも蔓ある菱なりけるを。後に蔓を省けるも其称ハ猶ふるき称のまゝを唱へしにこそ。

(『大内飯器』(近藤清石/著 1912(明治45))(山口県文書館蔵 近藤清石文庫)引用



参考文献:
『山口市史 史料編 大内文化』(山口市 2020)
  P981〜2「仁平寺跡」
  P880〜6「大内飯器」
『興隆寺文書を読む ―氏寺の文書から大内氏歴史を探る― その一』(岩崎俊彦/著 大内氏壁書(法令)研究会 2004.3)
  P20〜28「興隆寺文書 第六 仁平寺本堂供養日記」
  P28〜31参考資料『大内村史』「仁平寺」
『大内氏史研究』(御薗生翁甫/著 山口県地方史学会 1959)
  「周防守護の南北対立と弘世の統一」
『大内村史』(河野通毅/編 大内公民館 昭和33)
『サンデー山口』(2020.3.21)【やまぐち深発見紀行】
  No.185「大内・菅内にもあった大内文化伝える五重塔」
『郷土読本 ふるさと大内』(大内小学校/編集・発行 昭和60.12)  
  「<仁平寺>−管内− 曹洞宗」
猿林暁月 @ 山口十境詩 [2020年05月31日(Sun)]
古熊神社の鳥居をくぐったところに
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『山口十境詩』の一つである「猿林暁月」 の詩碑がありますぴかぴか(新しい)
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「猿林暁月」石碑。
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猿林暁月
曙色初分天雨霜
凄々残月伴琳琅
山人一去無消息
驚起哀猿空斷腸


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猿林えんりんの暁月ぎょうげつ
曙色しょしょく、初はじめて分あきらかなり
てんの霜しもをして雨らしむる、と
凄々せいせいたる残月ざんげつ、琳琅りんろうを伴ともな
山人さんじんひとたび去って、消息しょうそく
驚起きょうきすれば、哀猿あいえんむなしく腸はらわたを断


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猿林の由来
あけぼのの陽光によって、ようやく晴れあがってきた。
寒気のきびしい霜の朝である。
さむざむとした残月が、玉がふれ合って
鳴る音色を奏でるように空にある。
山居していた隠者はひとたび去って以来
たよりひとつもよこさない。
夜明けにおどろいて起きれば、
野猿が悲しげに鳴く声に断腸の思いがする。


古熊猿林について
 猿林とは、古熊にあった永興寺跡から現在の古熊神社一帯の山林を指す。
 大内氏第二十三代弘幸は延慶二年(一三〇九)に臨済宗永興寺を創建したが後に荒廃した。
 大内氏の学問の源流は重弘、弘幸、弘世三代の禅宗信仰によるもので、鎌倉末期から大内氏の臨済宗信仰はとくに厚く室町以後の山口文化の根底は、大内氏と京都五山名僧との交流によって展開された。
 古熊神社は應安六年(一三七三)に大内弘世が京都北野天神を勧請し市内北野小路に鎮座していたものを、元和四年(一六一八)に毛利秀就が古熊に移した。菅原道真が祭神で本殿、拝殿ともに国指定重要文化財となっている。



古熊猿林とは、古熊にあった永興寺跡から現在の古熊神社一帯の山林を指すそうです。

椹野川に架かる赤い天神橋を渡って山の方に向かって行くと古熊神社あります。
道の両脇は田園風景だったという思い出がありますが、今は家が建ち並び様変わりしていました。
以前は確か途中に「古熊の猿林」の大きな標識があったと思いますが、それもありませんでした。

中国では、猿の鳴き声は悲しく響くとされています。
杜甫の「登高」にも

風急天高猿嘯哀   風急に天高くして猿嘯くこと哀し
風が激しく吹き、空は抜けるように高く澄み渡って、猿の啼く声が悲しい

とあります。

明使 趙秩が山口に滞在したのは、1372〜1373年のことです。
古熊神社つまり弘世の勧請した「北野天神」が遷座したのは1373(応安6)年10月ですが、それは北野小路であり、もちろん、この地にありませんでした。
弘世の父 弘幸(?〜1352(正平7/観応3))の菩提寺である永興寺はありましたが・・・・・・。

当時はこの辺りはまだまだ寂しいところだったのでしょう。
虹橋跨水 @ 山口十境詩 [2020年05月23日(Sat)]
萩往還の山口市木町橋の傍に、
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『山口十境詩』の一つである「虹橋跨水」 の詩碑がありますぴかぴか(新しい)
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虹橋は、木町橋のことではなく、山口市の天花にあった橋です。
1983(昭和58)年3月に治水ダムとして完工した一の坂ダム錦鶏湖に水没しました。
下の写真は、東鳳翩山山頂から一の坂ダム、錦鶏湖を写した写真です。
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「山口十境の詩について」の説明板。
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 山口市に天花という地名を持つ集落がある。室町時代の大内文化を偲ばせる優雅なひびきをもっている。
 大内文化は山口に「西の都」といわれる京風の街つくりをした大内弘世時代の五山文学普及によってつくられてきた。
 五山文学とは、室町幕府が京都五山として寺格を制定した天龍寺、相国寺、建仁寺、東福寺、万寿寺の各禅僧によって成立される。
 一三七三(文中二)年、明国から日本に渡来した趙秩が山口も訪れ、当時の景観から十カ所を選び作詩をした。今から約六三〇年前のことであった。

猿林暁月(古熊)
梅峯飛瀑(法泉寺)
初P晴嵐(宮野江良
C水晩鐘(宮野恋路
氷上滌暑(氷上)
南明秋興(御堀)
虹橋跨水(天花)
象峯積雪(象頭山)
鰐石生雲(鰐石)
温泉春色(湯田)
 
 以上の詩のうち、当時の風趣が残されていない場所はわずかであり、山口の自然はおだやかで美しい。十境の詩碑はその伝統に裏打ちされた歴史文化都市山口の証である。


「虹橋跨水」石碑。
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盤浸甃玉按東流
鞭石尋仙興未休
借得紫虹飛欲去
扶桑何處是三洲


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虹橋にじはし、水かわに跨またがる          
盤浸甃玉ぼんしんしゅうぎょく、東流に按じふ
石を鞭むちうち、仙せんを尋たずねて興きょういまだ休まず
りに紫虹しこうを得なば、飛んで去らんと欲ほっ
扶桑ふそう、何いずれの処ところか、是これ、三洲さんしゅう


「虹橋跨水」の詩の内容説明板。
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虹橋、水に跨る
水中に在る岩や美しく平らな岩が
東流する一の坂川に交わり出迎える
私は始皇帝よろしく海を渡り東方にある不老長寿の
神仙の世界を探し求めて興味が尽きない
仮に木造の虹橋ならぬ大空にかかる虹の橋を
渡れるならば空を浮遊して人間界から去ってしまいたい
仙界の扶桑はどのあたりか 、三州はいづこにありや

(虹橋はもと一の坂川上流の天花にあったが、ダム下に水没した。)

  詩の意訳と解説は郷土史家荒巻大拙氏による。


 【扶桑】日の出る東海(日本海)中にあり、扶桑(神木)が繁っている神仙の国
 【三州】渤海中にある蓬莱(ほうらい)、方丈(方壺)、嬴州(えいしゆう)の三神山

大空をわたる虹の橋に例えられような虹橋とは、どんな橋だったのでしょう。
学生の頃、一の坂川を上り、天花方面から東鳳翩山に登る学校行事がありましたが、もしかしたらその時、虹橋を渡っていたかも・・・・・・。

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「山口ゲンジボタル発祥地」の説明板もありました。
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ホタルの舞う季節になりました。
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法泉寺のシンパク @ 大内政弘の墓&法泉寺跡に行きましたE [2020年05月14日(Thu)]
【前回の続き】

法泉寺跡には「法泉寺のシンパク」という国の天然記念物のイブキの木がありますぴかぴか(新しい)
法泉寺の山門の側に植えたものといわれ、現在でもこの地は「山門の壇」と呼ばれているとのことです。

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国指定 天然記念物
法泉寺のシンパク
   昭和三年一月一八日指定
   所在地 山口市滝町一九〇四番の一
 シンパクはイブキの別名で、ヒノキ科の常緑中高木で主幹は直立する。
 このシンパクは、大内氏時代ここにあった法泉寺の山門脇に植えられていたものであったという。法泉寺は一四〇〇年応永年間創建されたといわれ仏殿の壇、経蔵の壇、方丈の壇などの地名が残っており、当時の規模をすることができる。しかし寺は大内氏滅亡後は廃絶したらしく、このシンパクが残っているのみである。
 このシンパクは三株が相接して成育しているように見えるが、一株が根元から直に三分岐したものである。根元の周囲は九.八メートルを超える。三幹の内 東側の株が樹勢おう盛でよく繁茂して高さは約十二メートル、目通り周囲は三.三mある。
 他の二幹は目通り周囲はほぼ三メートルに近い。老樹であるので内部は腐朽しているらしいが、新しい樹皮で包まれて奇形を呈している。


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文化遺産オンラインの「法泉寺のシンパク」項に

山口県山口市上宇野令
指定年月日:19280118
管理団体名:山口市(昭3・2・9)
史跡名勝天然記念物
天然紀念物調査報告(植物之部)第八輯 七一頁 参照
根元ヨリ三大支幹ニ分ル根元ノ總周囲三丈一尺、西北ノ支幹ハ傾斜セリ大内氏時代ノ遺木ニシテいぶき Juniperus chinensis L. ノ代表的巨樹ナリ


『天然紀念物及名勝調査報告 植物之部 第八輯』(三好學/著 内務省 1928(昭和3).4)(国立国会図書館蔵)P71〜74「法泉寺の槙柏」で1927(昭和2)年に行われた調査の報告を読んでみましょう。

所在 山口県吉敷郡山口町大字上宇野(令)字幼松院(民有)
槙柏は山口県庁六七町を距る山地にありて、里道の西方に接する田畝の中に立てり。この點は応永の頃大内義弘(政弘の間違い)の菩提寺法泉寺の在りし処にして、槙柏(イブキ)は当時の遺木なりと云ふ。
本樹は根元より北南西の三大支幹に分かる。
(略)
本樹は巨樹及老樹として有数なものなれば、天然記念物として指定されんことを望む。

とあります。「田畝(でんぽ)」とは「たはた」のことなので、もうしかしたら、「法泉寺跡」で掲載した石垣のいずれかは、段々畑の名残ではないかと不安になりましたふらふら

1927(昭和2)年当時の貴重な写真を国立国会図書館デジタルコレクションから転載させていただきます。
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参考文献:
『天然紀念物及名勝調査報告 植物之部』第8輯(史蹟名勝天然紀念物保存協会/編 刀江書院 1928(昭和3))
  ※国立国会図書館デジタルコレクションでインターネット公開されています。
法泉寺跡 @ 大内政弘の墓&法泉寺跡に行きましたD [2020年05月13日(Wed)]
【前回の続き】

次は、来た道を戻り、法泉寺跡を目指しますぴかぴか(新しい)
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林の間からシンパクが見えるので、どこかに行く近道がないか、探しましたが、ありませんでした。
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結局、分岐点まで戻りました。
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     多々良朝臣政弘
 はなれがたきはまじはりの中
折れわびぬはふ木あまたの藤のはな


『新撰菟玖波集』の政弘の歌です。
この時期本当にフジがきれいです。
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五十鈴川の水は清らかです。
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この標識が目印です。
車の場合は、このまま直進すると堰堤下に数台程度の駐車場があります。
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左手にあるこの道を入って行きます。
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登りついたところは、石垣で檀が造ってあります。
「檀」とは 土を小高く盛り、上を平らにした場所です。

近藤清石の『大内氏実録』「巻九 世家第九 政弘」に

法泉寺舊址(きゅうせき)には古栝(かつ、「いぶき」のこと)の大樹一株残りて。仏殿檀。経蔵檀。方丈嶽。風呂谷。山門檀。御廟野等の字あり。

とあり、この辺りは、山門檀というようです。
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さらに上に登ってみました。
すっかり藪になっていますが、やはり「檀」になっています。
この辺りを、「仏殿檀」それとも「経蔵檀」というのでしょうか。
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「山口県の文化財」HPでは、同じサイトであるもかかわらず、法泉寺の創立について異なることが書いてあります。

法泉寺は応永年間(1394〜1427)頃に大内氏が建立した寺で、大内氏滅亡後は廃絶した。このシンパクは、(略)法泉寺の山門の側に植えたものといわれ、現在でもこの地は「山門の壇」と呼ばれている。
(「山口県の文化財」HP「法泉寺のシンパク」より抜粋)

応永年間(1394〜1427)というと、義弘(1356〜1400)または盛見(1377〜1431)が創建したということになります。

 法泉寺という寺号は、大内氏29代政弘(1446〜95)の法号に由来する。すなわち大内氏30代義興(1477〜1529)は父政弘(法泉寺殿直翁正大禅定門)の菩提を弔うために自らが建立した凌雲寺(現在跡地は国指定史跡)の東南瀧の地に七堂伽藍の美をつくした臨剤宗法泉寺を建立した。
 しかし、天文20年(1551)8月28日、陶氏の山口攻め入り、大内氏滅亡によって寺は焼失し、今は山門付近にあったというシンパク(国指定天然記念物)が周辺の石垣とともに住時をしのばせている。

(「山口県の文化財」HP「法泉寺厨子」より抜粋)

と、こちらでは「義興が建立」とあります。


『大内氏実録』には、
大内氏実録 政弘 (2).png
『大内氏実録』「巻九 世家第九 政弘」(近藤清石/著 中元荘作 明18)(国立国会図書館蔵)

秋七月病む。重り。九月十八日の夜卒す。享年五十歳なり。(※1)遺命にして薄葬にせしむ。(※2)十九日。吉敷郡上宇野令瀧の法泉寺に殯(ひん(もがりのこと))す。(※3)廿二日。法泉寺の後山に葬り。(※4)法泉寺(※5)直翁(※6)直正を法名す。従三位を贈らる。(※7)政弘深く和歌に志をよせ。終焉の夕まで猶吟詠せしめば。秀逸ども多かるる。(※8)一重なる人もぞあると世を知れば薄き衾もさゑぬ夜半哉。と云ふ歌ハ。もとも人の賞する所なり。また連歌に技巧にて。宗祇の新撰菟玖波集ハ。政弘のすゝめによりての撰なりと云ふ。(※9)

※1 系図。長禄三年(1459年)氷上山上宮参詣目録に。十四歳とあり。本年五十歳なり。
※2 朝迺雲(『あしたの雲』)
※3 同上。
※4 同上。
※5 系図。古文書。幻松院古位牌。
※6 系図古位牌。
※7 公卿補任。系図。大系図。扶桑拾葉集作者目録。新撰菟玖波集。
※8 朝迺雲。
※9 朝迺雲。


とありますが、ほぼ、「大内政弘の墓」のところに『奉悼法泉寺殿辞(あしたの雲)』を揚げましたが、ほぼその記述通りで、政弘が死去した際には、すでに法泉寺があったことが読み取れます。

法泉寺についての註にさらにこうあります。

法泉寺は開山を圓悟碩溪と云ふ。創建年月知れず応永年中道朴と云ふ僧あり。其名氷上山興隆寺蔵経勧進帳に見えたり。またこれより先に。応永七年二月兵部卿師成親王本寺にて御落飾の叓と南朝編年記略に見えたれば。古刹なるや。(略)御廟野ハ。やや距たれり。古墓あまたありて。其中におもたちたるもの二あり。一を政弘興の墓。一を兵部卿師成親王の御墓と云へり。(略)


法泉寺の寺号は棯小野に伝えられたようです。

法泉寺厨子 (棯小野)
法泉寺は禅宗で、大内政弘の菩提寺として山口にあったが、天文20年(1551年)の陶氏の反乱の時、捻小野龍岩山に避難し、その後毛利輝元によって弘治3年(1557年)にそこで復興された。元和7年(1621年)に浄土真宗に改宗し、現在地に移ったのは宝永2年(1705年)である。 法泉寺には山口県指定の仏を納める厨子と、宇部市指定の「銅造浮彫菩薩形半像」の文化財がある。これらは大内氏の祈願所寿明院にあったもので、厨子は大内文化建築の特色を残しており、銅仏は大内氏の祖の琳聖太子が渡来時に持参したものと伝えられる。

(防長風土注進会「山口県史跡かわらばん」HP『ふるさと小野 史跡案内』(小野地区部落長会/制作 小野郷土史懇話会/編集 宇部市教育委員会/発行 2009(平成21)年3月))

法泉寺は明応年間(1492〜1501)に、大内氏によって山口に建立された禅宗寺院で、大内氏滅亡後は小野に移されました。また大内氏は享禄年間(1528〜32)に棯小野に寿明院観音堂も建立していました。この厨子は観音堂にあったといわれ、寿明院が廃寺後に、大内氏ゆかりということから法泉寺に移されたと考えられます。
(宇部市HP「法泉寺厨子」より引用)

宇部市のHPでは、法泉寺は義興が建てたという説のようです。


義興の凌雲寺といい、政弘の法泉寺といい、寺跡はあるのに詳しいことがわからないとは……。


 あしたの露ハ夕の風に残る事なく(、)宵のいなつ(づ)まは暁の雲にとゝ(ゞ)まるためしなし(。)谷の菊をもてあそひ(び)(、)園の桃を愛せし人も(、)皆むかしか(が)たりにそ(ぞ)成にける(。)常なき世の消息(、)今更おと(ど)ろくもおろかなるに似たり(。)
猪苗代兼載『奉悼法泉寺殿辞』(『大内氏実録土代』巻二十 「近藤清石文庫」 山口県文書館)より)



参考文献:
『大内氏実録』(近藤清石/著 中元荘作 明18)
  ※国立国会図書館のデジタルコレクションでインターネット公開されています。
『奉悼法泉寺殿辞』(『大内氏実録土代』巻二十 「近藤清石文庫」 山口県文書館)
  ※山口年文書館のサイトで(『大内氏実録土代』巻二十の58画面〜)公開されています。

   

【次回に続く】
師成親王の墓 @ 大内政弘の墓&法泉寺跡に行きましたC [2020年05月12日(Tue)]
【前回の続き】

政弘の墓の近くに師成(もろなり)親王の墓があるというので、行ってみましたぴかぴか(新しい)

現地に標識などないので、要注意です。
こんな時に先ほどあった現地案内図が役に立ちますわーい(嬉しい顔)
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大内政弘の墓を左手に見て右折して進みます。
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道らしきものがないので、少し不安です。
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しばらく草叢(?)を進むと、杉林の中、左手に墓が見えてきます。
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ありましたひらめき
こちらが師成親王の墓所です。
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師成親王の墓。
宝篋印塔です。
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師成親王(1361(正平16/康安元)〜)は、後村上天皇の第五皇子で、南朝の親王です。
出家して臨済宗仏光派に属し、竺源恵梵(じくげん えぼん)と号しました。
1399(応永6)年10月義弘が足利幕府軍と戦った「応永の乱」では、義弘と共に堺で戦いました。12月義弘は堺で討死し、翌1400(応永7)年2月山口に逃れ、法泉寺に入り、同寺に住した後、伊勢南陽寺に住し、後また、山口に帰り、薨去したといいます。
歌人としても優れていた師成親王は教弘の和歌の師となり、自分の叔父の宗良親王の遺した歌集『李花集』を自ら書写し、1452(享徳元)年教弘が賜ったというがことが、『李花集』の奥書に書かれています。

此本書、先師兵部卿師成親王出家号恵梵筆跡也、教弘相伝之、
  旹享徳改元仲冬廿日
      多々良朝臣(大内教弘)印判


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『李花集 : 宗良親王御集』(宗良親王/著 紅玉堂書店/出版 昭和2)国立国会図書館蔵)

伊勢の南陽寺にいたというのは、『新葉和歌集』の奥書でわかります。

応永卅年三月書写之、于時勢州安芸郡栗真庄南陽寺泉昌庵、行年六十三
同四月三日、以耕雲自筆本校合了、
(略)
  応永卅弐年月日  釈竺源叟恵梵志之


山口で薨去したという周防説は、現在では有力ではないようですが、師成親王が書写した『新葉和歌集』や『李花集』は大内氏に相伝され、その文芸活動に少なからず影響を与えたことに間違いありません。

師成親王の墓でないとすれば、誰の墓でしょうか?


参考文献:
御薗生翁甫 「師成親王と崇光院三ノ宮法泉寺方丈」(『大内氏史研究』(山口県地方史学会 1959))
『山口市史 史料編 大内文化』(山口市 2020)
  P617〜8「新葉和歌集富岡本」
  P618「李花集」
『李花集 : 宗良親王御集』(宗良親王/著 紅玉堂書店/出版 昭和2))
  国立国会図書館デジタルアーカイブでインターネット公開されています



【次回に続く】
大内政弘の墓 @ 大内政弘の墓&法泉寺跡に行きましたB [2020年05月11日(Mon)]
【前回の続き】

堰堤天端を渡り、しばらく堰堤湖沿いを歩くと、右手にもしかしたら元は公園として整備していたのではないかという場所があり、壊れかけたようなトイレがあります。
その向こうに墓がありますが、それが目的の墓ではありません。
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その先に、駐車場があります。
案内板が道路から見えるところに立っています。
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大内政弘の墓
     50m登る
大内政弘は大内氏二九代の武将で、文安三年(一四四六)に築山館を建てた教弘の長男として生まれました。
応仁元年(一四六七)に始まった応仁の乱では、山名宗全に味方して大兵を率いて上京し、西軍の将として戦っています。戦乱で京都は焼野原になり多くの文化人が政弘を頼って山口を訪ずれるようになりました。
政弘は京でも武将として名を上げた半面、芸術文化にも大変な関心を示しています。京都に在陣の頃から和歌や連歌の道に親しみ、帰国後も宗祇を山口に招いて、築山館で連歌の会をたびたび催しています。家臣達もたしなみ、山口は文化都市として大いに栄えました。また、画僧雪舟も政弘の保護の下で技術を磨き、わが国の水墨画を完成させています。
明応四年(一四九五)九月、病により五〇歳で他界。菩提寺は法泉寺。当時の連歌師猪苗代兼載は政弘の墓に詣でて次のような歌を詠んでいます。
   いたづらに吹くぞかなしきなき人も
     かへらぬ野辺の葛のうら風


ここから50m先ということですね。
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杉林の山道を進んでいきます。
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こちらが大内政弘墓所です。
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大内政弘の墓です。
宝篋印塔だとは思うのですが、相輪の部分は明らかにどこからか持ってきたものですよね。
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こちらは?
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こちらは?
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「大内政弘卿墓」の碑。
長州藩最後の第14代藩主である毛利元徳(もとのり)が建立したものです。
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盛見の墓にも、義隆の墓にもありましたね。
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猪苗代兼載(いなわしろけんさい)(1452(享徳元)〜1510(永正7))の『奉悼法泉寺殿辞(あしたの雲)』(『大内氏実録土代』巻二十「近藤清石文庫」 山口県文書館)によると

明応四のはじめの秋、(略)長月の中の八日の夜(つまり9月18日)、終に空敷(むなしく)見なし侍りぬ。
(やが)てその暁天(ぎょうてん)、なにがしの寺(法泉寺)迄出し侍るに、道すがら有明月(ありあけづき)うすぐもりつつ、もの心ぼそきに、誰とはしらず打なくこゑなど、いはんかたなし。さて、おさめ侍る事は、廿二日の明けがたなるべし。かの寺(法泉寺)のうしろの山に、此春頃より終の栖をしめ置、道など迄付てをかれけるとなり。かかるべしとかねてさとり給へる、いたりふかく不思儀(議)なる事なるべし。四方に嶺つらなり、古杉(松)老杉ならび立、飛泉石上にいさぎよく、誠に霊地と覚ゆ。


と生前よりこの場所を墓所として用意していたことがわかります。
前からどうしてこんな場所に、と思ってはいたのです。他のサイトさんでは、鬱蒼とした山の中とか、そんな記述が多く、初めから自分では行くことのできない場所と決めつけていました。
今回、応仁の乱と室町幕府にはまっている猫に誘ってもらわなければ、絶対来ませんでした。
でも、来てみると、杉林も間伐されていて、思ったよりずっと明るい(?)場所でした。車も停められるし、車道からすぐだし。

政弘は、深山幽谷の風情を愛で、ここを墓所に定めたのではないでしょうか。
実際に訪れてみて、山々を眺め、水のせせらぎを感じ、そう思うようになりました。

葬式の儀は、遺命に任て、何事も事そがれ侍ると也。

とあったにもかかわらず、

諸寺諸山の僧達、所もなく立ちこみ、鈸(ばつ)鼓のひゞき雲にこたへ、貴賤のかなしびのよそほひ霧にむせび、数千の人々藤の衣にやつれたる中に、

と大々的に行われたようです。
ここで、「藤の衣」でましたね。ここでは、「喪服」のことです。
跡継ぎの義興(1477〜1529)はどうだったかというと、

家をつぎ玉へる別駕のあるじ(大内義隆)、はたち計にてすがたよしげにもの/\しく、何事かはかの朝臣(大内政弘)にをとり給ふべきととぞ見えける。色ふかき袖に位牌などさゝげもちてねりわたり玉にぞ、見る人泪はせきあへざりける。

「せきあふ(塞き敢ふ)」とは、「おさえて我慢する」こと。

 かくて、ふかき山の中におさめ捨侍りて、皆立かへるもなさけなく、世はうきものなりけりとおもひしらる。
  千々の人なびき仕し君を今あしたの雲と見るぞかなしき

(略)
   前七州太守法泉寺殿早世の時、つくしにてしるす。
       法橋兼載


『奉悼法泉寺殿辞』(ほうせんじどのをいたみてまつるじ)は、政弘の終焉と葬儀の様子を述べつつ、特に政弘の文事における業績を讃えています。
兼載は、大内政弘の後援を得た、宗祇の『新撰菟玖波集』の編纂にも参加していることもあって、政弘の死を悼んだのですね。

『新撰菟玖波集』より政弘の歌(巻第一・春連歌上)を。

      多々良朝臣政弘
 み山のかげ春のさびしさ
うぐひすの人くとつぐる人はこで
  
  


参考文献:
『山口市史 史料編 大内文化』(山口市 2020)
  P574〜579「奉悼法泉寺殿辞(あしたの雲)」
  P488〜495「新撰菟玖波集実隆本」



【次回に続く】
五十鈴川砂防堰堤 @ 大内政弘の墓&法泉寺跡に行きましたA [2020年05月10日(Sun)]
【前回の続き】

大内政弘の墓を目指して進んで行きましょう。
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左手に「五十鈴川砂防堰堤の碑」があります。
「柳の水 500m」の標識。
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「いすずがわえんてい」とひらがなで書いてあります。
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フジがきれいです。
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南の下流側は、市内が見えます。
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二本の尖塔はザビエルの塔です。
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堰堤によって造られた湖はそれほど大きくはありませんが、湛々と水をたたえています。
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砂防堰堤なので土砂の流出を防ぐ為に設置されていますが、ある程度貯水して川の流速も緩和し、灌漑目的もあるのでしょうか。
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紺碧の湖面は、政弘の墓が誘っているのでしょうか、妖しい雰囲気を醸し出しています。
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とはいって、大内氏の時代には砂防堰堤はありませんでした。
五十鈴川が流れているだけでした。この五十鈴川という名前も、おそらく1520(永正17)年に義興伊勢皇太神宮のご分霊を勧請した頃に付けられたのと思います。
京都から1518(永正15)年10月に11年ぶりに山口に帰ってきた義興はですが、すぐ太神宮を勧請する用意にとりかかり、義興は自らその社地を視察し、高嶺の東麓を境内地と決めました。

永正十五年戌寅従京都御下向是、十月五日山口御着、(略)高嶺麓正法院敷地可然在所云々、正方東向也、南ハ有小山明也今観音堂再興之、西者高嶺峨々として、元観音堂旧跡巌掘在之、北ハ深山遠くめくりて法泉寺・香積寺(今の瑠璃光寺)山所々につゝく、しかるに同十月廿六日、御出有て御歴覧之処、古寺之砌(さい)嚝々(こうこう)たり、石清水湛々(たんたん)として無増減、岩ほならひていさきよし、殊にハ、本社祭礼等に用らるゝ草木まで天然有と云々、早/\地形を引とゝのへ、御社檀御建立の事可相催之由、被仰出事、
(『高嶺太神宮御鎮坐伝記』(山口大神宮蔵))

とあるように、この川の清らかな水の流れも、「高嶺太神宮」境内地の決める際のポイントとなったようです。
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今歩いてきた堰堤の天端。
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こちらには、「五十鈴川砂防堰堤」と漢字で書いてあります。
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実は、堰堤の下流側は「プール」なるものがあり、どうも親水公園として整備したようです。
案内図の傍には、確かに下に降りる階段がありました。
ですが、現在は余りにも痛々しく荒れ果てていて写真を撮る気になりませんでしたもうやだ〜(悲しい顔)
案内図によると「いこいの広場」もあるようですね。
山口市内には、せっかく整備したものの、管理されずに荒れ果てた場所が何か所かあります。
市民・県民としてもったいない気がします。
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あの山は鴻ノ峰だと思います。
山の形は変わらないので、政弘も義隆もこの景色を見たことでしょう。
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松の花が咲いています。
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フジがきれいです。
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政弘の墓はすぐそこでしょう。

この道をさらに進むと柳の水があり、そして法泉寺峠があります。
今歩いている道が、義隆が法泉寺から法泉寺峠を通って吉敷中尾の凌雲寺、肥中街道へと進んだ道だと思うと感慨深いです。
義隆はどんな想いで、政弘の墓の前を通ったのでしょうか。
石仏と中尾の伝説「塩原」 @ 中尾の文化財さんぽA」でも書きましたが、吉敷地域づくり協議会の「中尾の凌雲寺から県庁裏の法泉寺へつうじる道」には、柳の水から吉敷塩原まで踏破された記事が地図と併せて載っていますので、興味のある方はどうぞ。



参考文献:
『山口市史 史料編 大内文化』(山口市 2010)P340〜345「高嶺太神宮御鎮坐伝記」



【次回に続く】
梅峯飛瀑 @ 大内政弘の墓&法泉寺跡に行きました@ [2020年05月09日(Sat)]
大内政弘の墓とその菩提寺 法泉寺跡に行きましたぴかぴか(新しい)

車でも行けそうですが、初めてなので、山口県庁奥の駐車場に車を停めて行くことにしました。
右側に流れているのは、五十鈴川です。
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すぐに分岐点があります。
まず「大内政弘墓」に行くことにしします。
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「大内政弘墓」の標識はありませんが、「柳の水 800m」の標識の方へ真っ直ぐ進みます。
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沿道の花の写真を撮りながら、ハイキング気分です。
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車が離合できそうな道幅です。離合場所も設けられています。
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この季節、山藤がきれいです。
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「梅峯の滝 入り口130m先」の標識。
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ここの梅峯の滝が山口十境詩「梅峯飛瀑」に詠まれた滝です。
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梅峯の滝にはずいぶん昔、山口県立山口博物館の植物採集のイベントで行ったことがあります。
狭くて暗い山道を登っていくと、滝があり、まるで幽玄の世界に入り込んだようで、感動したことを今でも覚えています。
今日は先を急ぐのでここからの景色で我慢です。
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こちらにもヤマフジが。
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右手に五十鈴川砂防堰堤が見えてきました。
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左手に祠がありました。
中にあるのは、よく見ると親鸞聖人像?
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地図が設置してありました。
「五十鈴川都市対策砂防ダム及び周辺案内図」
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一応地図は持ってきましたが、こういう現地案内図があると本当にありがたいです。
実際後々大変役に立ちました。
目的地はここですかわいい
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案内図のすぐそばに、「山口十境詩」碑があります。
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現地案内図の「山口十境詩」説明。
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 中世において西日本の守護大名であった大内弘世の時代(一三七三)に、当時西の京と呼ばれた山口を訪れた明国(現中国)の使節趙秩は、市内の名勝十ヶ所を選び
「猿林暁月」「梅峰飛瀑」「虹橋跨水」「鰐石生雲」「温泉春色」「鰐石生雲」「清水晩鐘」「初瀬晴嵐」「氷上滌暑」「南明秋興」「象山積雪」
と題して十境の詩を詠んだ。


「山口十境詩」碑。
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石碑「山口十境詩」。
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梅峯峰飛瀑
銀河誰挽玉龍翔
白練懸崖百尺長
噴向梅梢雨花落
濺人珠玉帶C香


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梅峰の飛瀑
ばいほうのひばく

銀河、誰か挽く、玉竜の翔
ぎんが、だれかひく、ぎょくりゅうのしょう

白練、崖に懸かれり、百尺の長
はくれん、がけにかかれり、ひゃくしゃくのちょう

噴は梅の梢に向こうて、雨花落つ
いぶきはうめのこずえにむこうて、うかおつ

人に濺ぐ珠玉は、清香を帯びたり
ひとにそそぐしゅぎょくは、せいかをおびたり

「梅峰の滝の由来」案内板。
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梅峰の滝の由来
空を仰ぐと銀河。美しい竜が、天がまさにけっている
その雄姿を、いったい誰が挽っぱっているのか。
その直下に、高い崖の上から
白いねり絹のような滝が懸かっている。
その長さといったら百尺程もあろうか。
滝の激しい水しぶきが、
梅の梢に向かって勢いよく吹きつけ、
水をふくんだ梅の花びらは、はらはらと落ちてゆく。
滝を仰ぎみる人々の上に降りそそぐ、
真珠のようなしずくは、
梅の清らかな香りをしっとりと帯びている。


二十四代大内弘世開基の法泉寺跡近くにある滝を詠んだ詩で、現在は地名も滝町である。二十九代大内政弘の墓所で、梅・桜の名所として、三十一代義隆は観梅の宴を催したといわれている。
なお、詩の意訳は山口市在住の郷土史家荒巻大拙氏による。


 ※案内板や碑によって、「梅峯」と「梅峰」と表記の揺れがありますが、それに従いました。
 ※『山口市史 史料編 大内文化』(山口市 2010)P534〜5「山口十境詩」では、「梅峯飛瀑」となっていました。「初瀬晴嵐」は「長谷晴嵐」となっていました。


政弘の墓はもう少しのようです。


【次回に続く】
大内氏館(26)惣門 @ 大内氏遺跡指定60周年記念バスツアー2019㊶ [2020年05月04日(Mon)]
【前回の続き】

『大内氏時代山口古図』(山口県文書館蔵 軸物)を見ていて気になるのが「惣門」です。
竪⼩路の北と南の⼆箇所にあるのですぴかぴか(新しい)
この門の内側が大内家当主が住む大内氏館を中⼼とした武家地を示すのでしょうか。


一つは木町から一の坂川を超えて竪小路に入る辺り。⽊町橋の南側ですひらめき
ここは、いかにも、町のはずれを示す門のような気がします。
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もう一つは、法界寺の先の竪小路と久保小路との交差点です。
久保=窪だったようです。
こちらは、町方との境界に設け、往来を制限していたのでしょうか。
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平瀬直樹さんの『大内氏の領国支配と宗教』(塙書房 2017)(第2部 第1章「山口の都市空間」P115〜142)にそのことが少し書いてあります。

どんな門だったのか、想像しています。



参考文献:
『大内氏時代山口古図』(山口県文書館蔵 軸物資料218)
 ※山口県文書館の高画質画像ダウンロードで公開されています。



【次回に続く】
大内氏館(25)龍福寺Ⅻ山門脇の土塁 @ 大内氏遺跡指定60周年記念バスツアー2019㊵ [2020年05月03日(Sun)]
【前回の続き】

「史跡(大内氏遺跡附凌雲寺跡) 大内館跡」案内板に、
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館は、百間四方の堀と土塁に囲まれた中に造られていたと言われています。現在は、ほとんどその面影を見ることは出来ませんが、山門の東側竹藪の中に土塁の一部を見ることができます。

と、土塁の名残を見ることができる、とあり、ずっと、どこだろうと探していましたが、今回、その場所が分かりましたぴかぴか(新しい)
山門脇に竹藪があり、少しだけこんもりしていました。

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大内氏館第24次調査の結果、土塁の名残とされた山門脇の高まりは、16世紀中頃から後半の遺構群をおおいかぶせたものであるとことが確認されたとのことです。
つまり、大内氏館の遺構ではなく、大内氏館廃絶後の遺構だということです。

考えられるものは、2つあるようです。

かわいい大内輝弘の乱の名残ひらめき

1569(永禄12)年、豊後大友氏の許に身を寄せていた大内輝弘(政弘の次男高弘の子ども、つまり、義隆のいとこ)が山口に乱入し、「築山竜福寺」に立て籠もりました。
岩国領の家老香川正矩によって編纂された『陰徳記』四六巻(山口県文書館蔵 藩政文書 三卿伝史料417)に、

築山ノ付近ニモ塀ヲ付、堀ヲホリ、矢倉ヲ上ゲテ用心堅固

とあり、山口への入り口のあちらこちらに逆茂木(さかもぎ)を備えさせたり、堀を作らせたりなどし、また、松木入道一佐の「どうして堀など構える必要があるのですか。」という進言を押し切って、築山の館の周りにも塀を取り付けて堀を掘り、矢倉を構えて堅固に用心したようです。
輝弘の乱は、毛利軍によってわずか10日あまりで鎮圧されました。
もしかしたら、そのときの跡ではないか、とも考えられるそうです。


少し話がそれるのですが、山口市中矢原の石州街道沿いに「調べの森」というのがあります。
もう、住宅が建ち並びその面影は全く残っていませんが、大内輝弘が豊後の国から押し寄せ秋穂白浜に着岸した際、毛利側は関所を設けて通行人を調べたことによるといいます。そして「矢原にて火を立て(のろしを上げ)候はば、鴻ノ峰(城)より火を合わせ申し候」とあります。
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高嶺城跡から望むと、ここからは山口盆地が一望できます。大内氏館跡、築山跡ももちろん調べの森のある矢原も。
当時は今のように樹木はなくもっとよく見えたはずです。矢原であげたのろしもきっと見えたことでしょう。
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市川経好(いちかわつなよし)を城番として置きました。永禄十二年(一五六九)に大内輝弘が山口に攻め入った際に、毛利勢はこの城の守りを固めて寄せ付けなかったといわれています。」と案内板にあります。
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大内輝弘は秋穂に上陸し「お上使道」を通り、梅の木峠を越え、陶に至り、陶峠を越えて山口に入ったといわれています。
陶峠の麓に正護寺という寺があります。
陶氏ゆかりの寺で「大内輝弘の乱で兵火にかかり、今の地「陶の館」の跡に移転建立された。」と案内板にあります。
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その他にも山口市内には、大内輝弘関係の史跡があるようです。田中穣 編著 『秋穂町の史跡と伝説』「輝弘の乱と秋穂付近の伝説」に詳しいのでそちらをご覧ください。



かわいい益田元祥が龍福寺を拝領し仮寓したときの名残ひらめき

毛利氏の重臣の益田元祥(1558〜1640)が関ヶ原の戦い(1600(慶長5))後、輝元から龍福寺を拝領しました。
『寺社由来』の「山口町 竜福寺」(山口県文書館蔵 寺社由来815)項に、

御打入之時(、)只今寺地益田殿御拝領(、)寺破却(、)又慶長十二年今寺被成御書御建立

とあります。
もしかしたら、そのときの跡ではないかとも考えられるそうです。



参考文献:
『大内氏館跡12』(山口市教育委員会 2011)「龍福寺の動向と時期区分」P253〜260
『大内氏館跡13』(山口市教育委員会 2012)P186〜7



【次回に続く】
大内氏館(24)龍福寺Ⅺ本堂 @ 大内氏遺跡指定60周年記念バスツアー2019㊴ [2020年05月02日(Sat)]
【前回の続き】

龍福寺の本堂は、以前は自由に中を拝観できたと思うのですが、今は檀家さんのみが入ることができます。
「甦れ歴史空間 〜大内文化まちづくり〜」さんのサイトの「龍福寺」では、復原の様子や内陣などもアップされていますので、詳しいことはそちらを参考にしてください。

龍福寺の本堂ですぴかぴか(新しい)
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この本堂が興隆寺にあったら氷上にあったままだったらどうだったのか、考えています。


【次回に続く】
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