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田山花袋「丘の上の家」 @ 「第34回やまぐち朗読Cafe 〜朗読と蓄音器ジャズの夕べ〜」に参加しましたA [2022年04月03日(Sun)]
前回の続き

私は、田山花袋『東京の三十年』より「丘の上の家」を朗読しましたぴかぴか(新しい)

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▲『東京の三十年』(田山花袋/著 博文館 1917(大正6))

「丘の上の家」は、当時の武蔵野であった渋谷、明治の文学青年(文学者)の交友の様子などが活写されていて、魅力的な回想記です。

「丘の上の家」に住んでいたのは、国木田独歩(1871(明治4) 〜 1908(明治41))です。

国木田独歩 国立国会図書館蔵.jpg
国立国会図書館「近代日本人の肖像」 
 
IMG_E3699.JPG
▲山口県政資料館 旧県会議事堂 パネル

「丘の上の家」は、豊多摩郡渋谷村上渋谷154番地にありました。現在の公園通りの坂の上あたり、NHK放送センターの南側、渋谷公会堂の裏手、現住居表示は「宇田川町7-21」です。
25歳の独歩は、1896(明治29)年に妻信子と離婚し、9月4日に、山路愛山の紹介で「丘の上の家」に転居し、翌年の5月まで暮らしました。

そこに――このさびしい丘の上の家に、かれは、お信さんにわかれた後の恋の傷痍を医してゐたのであつた。

 夏の末から、翌年、日光に行くまで、國木田君は、その丘の上の家で暮した。

 それは明治二十九年で、その四月の二十日に、私たちは飛鳥山の花を見捨てて日光のS院に行つて寓した。そして一月そこにいて、六月の初めに東京に帰つて来たが、その時はその丘の上の家を弟の北斗君が留守にたたんでしまつて、麹町の番町の二松学舎の近所に下宿しなければならなくなつていた。


当時「丘の上の家」辺りは、武蔵野の自然が広がり、小川や林などの自然豊かな場所でした。花袋の文章を読むと、風光明媚だった「渋谷村」の風景が鮮やかに頭に浮かびます。

 それは十一月の末であつた。東京の近郊によく見る小春日和で、菊などが田舎の垣に美しく咲いてゐた。(略)
 渋谷の通を野に出ると、駒場に通ずる大きな路が楢林について曲つてゐて、向うに野川のうねうねと田圃の中を流れてゐるのが見え、その此方の下流には、水車がかゝつて頻りに動いてゐるのが見えた。地平線は鮮やかに晴れて、武蔵野に特有な林を持つた低い丘がそれからそれへと続いて眺められた。私達は水車の傍の土橋を渡つて、茶畑や大根畑に添つて歩いた。
(略)
『ぢや、あそこだ。牛乳屋の向うの丘の上にある小さな家だ。』
 かう言つてある人は教へた。
 少し行くと、果して牛の五六頭ごろごろしてゐる牛乳屋があつた。『あゝ、あそこだ、あの家だ!』かう言つた私は、紅葉や栽込みの斜坂の上にチラチラしてゐる向うに、一軒小さな家が秋の午後の日影を受けて、ぽつねんと立つてゐるのを認めた。
(略)
 路はだらだらと細くその丘の上へと登つて行つてゐた。斜草地、目もさめるやうな紅葉、畠の黒い土にくつきりと鮮かな菊の一叢二叢、青々とした菜畠――ふと丘の上の家の前に、若い上品な色の白い痩削な青年がぢつと此方を見て立つてゐるのを私達は認めた。
(略)
『好い処ですね、君。』
『好いでせう。丘の上の家――実際吾々詩を好む青年には持つてこいでせう。山路君がさがして呉れたんですが、かうして一人で住んでゐるのは、理想的ですよ。来る友達は皆な褒めますよ。』
『好い処だ……。』
『武蔵野つて言ふ気がするでせう。月の明るい夜など何とも言はれませんよ。』
(略)
縁側の前には、葡萄棚があつて、斜坂の紅葉や穉樹を透して、渋谷方面の林だの丘だの水車だのが一目に眺められた。
(略)
それに、その丘の上の家の眺めが私達を惹いた。(略)
(略)
 丘の上の後の方には、今と違つて、武蔵野の面影を偲ぶに足るやうな林やら丘やら草藪やらが沢山にあつた。私は國木田君とよく出かけた。林の中に埋れたやうにしてある古池、丘から丘へとつづく路にきこえる荷車の響、夕日の空に美しくあらはれて見える富士の雪、ガサガサと風になびく萱原薄原、野中に一本さびしさうに立つてゐる松、汽車の行く路の上にかゝつてゐる橋――さういふところを歩きながら、私達は何んなに人生を論じ、文芸を論じ、恋を論じ、自然を語つたであらうか。



花袋は、「山林に自由存す」も、『武蔵野』も、この丘の家の印象だと言っています。

 玉茗君、柳田君、湖処子君などの感化があつたと見えて、その頃から、國木田君は例の『獨歩吟』の中にある詩をつくるやうになつた。『山林に自由存す』といふ詩も、『遠山雪』といふ詩も、『翁』も『去年の今日』も皆その丘の上の家で出来たのだ。
『春や来し、冬やのがれし』といふ詩の出来たばかりのを、私は其処で朗吟してきかせられたのを覚えてゐる。


 夏の末から、翌年、日光に行くまで、國木田君は、その丘の上の家で暮した。思ふに、國木田君に取つても、この丘の上の家の半年の生活は、忘るゝことが出来ないほど印象の深いものであつたらうと思ふ。紅葉、時雨、こがらし、落葉、朝霧、氷、さういふものが『武蔵野』の中に沢山書いてあるが、それは皆なこの丘の上の家での印象であつた。


この本を読んで、今の学生のノリと同じだと思いました。
花袋は、渋谷のはずれに住んでいた独歩の家を大田玉茗と初めて訪ねます。
花袋と独歩はその日が初対面でした。
独歩の日記『欺かざるの記』の明治29年11月12日に

新知の人、昨今兩日の中に三人を得たり。一人は留岡孝助氏なり。他の二人は田山花袋、大田玉茗なり。

とあります。

太田玉茗君と一緒に湖処子君を道玄坂のばれん屋といふ旅舎に訪ねると、生憎不在で、帰りのほどもわからないといふ。『帰らうか』と言つたが、『構ふことはない。國木田君を訪ねて見ようぢやないか。何でもこの近所ださうだ。湖処子君から話してある筈だから、満更知らぬこともあるまい。』かう言つて私は先に立つた。玉茗君も賛成した。

と、訪ねて行きます。

(略)ふと丘の上の家の前に、若い上品な色の白い痩削な青年がぢつと此方を見て立つてゐるのを私達は認めた。
『國木田君は此方ですか。』
『僕が國木田。』
 此方の姓を言ふと、兼ねて聞いて知つてゐるので、『よく来て呉れた。珍客だ。』と喜んで迎へて呉れた。かれも秋の日を人懐しく思つてゐたのであつた。
『湖処子君ゐませんでしたか。何処へ行つたかな先生、今日はゐる筈だがな……。又、妹でも恋しくなつて帰つて行つたかも知れない。』若い私達には一種共通の処があつて、一面識でも十年も前から交際でもしてゐる人のやうに、心に奥底もなく、君、僕で自由に話した。

(略)
 その時は何を話したか、今はすつかり忘れて了つたが、尠くとも若い心は、さはるものなくお互の会話の中に流れ合ひ混り合つて行つたに相違なかつた。ツルゲネフのことも話したらう。トルストイのことも話したらう。ハイネの詩やウオルズウオルスの詩のことも話頭に上つたらう。殊に玉茗君はその時分湖処子、嵯峨の屋などと共に、詩の方のチヤンピオンであつたので、詩についての話は、私より一層國木田君と共鳴したに相違なかつた。私達は日の暮れて行くのも忘れて話した。

と、初対面にかかわらず、すっかり友達になります。
そして、こんな日もありました。

 何うかすると、何処かに行つてゐないこともあつた。さういふ時には、私はひとり上にあがつて、一二時間待つてゐたりなどした。ある時雨の降る日には、矢張留守ではあつたが、ふと見るとそこに読みたいと思つた二葉亭の『かた恋』が置いてある。で、私は一人そこにねそべつて、一日静かにそれを読んで、帰つて来た。『昨日は君は留守だつたが、「かた恋」があつたので、それを読んで、静かに君の家で日を暮した。いろいろなことを考へた。忘れられない一日だ、』こんな手紙をそのあくる日書いてやつた。


面白いのは、ライスカレーを食べるくだりです。

 帰り支度をすると、
『もう少し遊んで行き給へ。好いぢやないか。』
 袖を取らぬばかりにして國木田君はとめた。
『今、ライスカレーをつくるから、一緒に食つて行き給へ。』かう言つて、國木田君は勝手の方へ立つて行つた。勝手の方では、下のその上さんがかれの朝夕の飯を炊いて呉れるのであつた。その上さんの名は忘れたが何でも磯といふ大工の嚊で、新宿で女郎をしてゐて、年が明けてそこに来て一緒になつたのであつた。『もう、飯は出来たから、わけはない。』かう言つて國木田君は戻つて来た。
 大きな皿に炊いた飯を明けて、その中に無造作にカレー粉を混ぜた奴を、匙で皆なして片端からすくつて食つたさまは、今でも私は忘るゝことが出来ない。
『旨いな、実際旨い。』かう言つて私達も食つた。


一度、炊きたてのご飯にカレー粉を混ぜただけのライスカレーを作ってみようと思っています。


 なつかしい丘の上の家は今は何うなつたか。もう面影もなくなつて了つたことであらう。林も、萱原も、草藪も、あのなつかしい古池も……。

と、花袋は「丘の上の家」を書き終えます。
花袋が記した1917(大正6)年頃には、「丘の上の家」辺りも様変わりしていたようです。


※『東京の三十年』(田山花袋/著 博文館 1917(大正6))は、国立国会図書館デジタルコレクションでインターネット公開されています。「丘の上の家
※「丘の上の家」の後半部分を略した「丘の上の家 抄」が「青空文庫」で公開されています。
※山口県立山口図書館は、『東京の三十年』(田山花袋/著 博文館 1917(大正6))を蔵書しています。請求番号/TA98(禁帯出)


作家の自伝25 田山花袋.jpg
▲『作家の自伝25 田山花袋 東京の三十年(抄)/私の経験』
(田山花袋/著 佐伯彰一・松本健一/監修 相馬庸郎/編 日本図書センター 1995.11.25)
朗読と講演「独歩文学との新たな出会いのために」 @ 国木田独歩生誕150年記念イベント [2022年03月21日(Mon)]
今日3月21日(祝・月)、アクティブやないで、国木田独歩生誕150年記念イベント「朗読と講演「独歩文学との新たな出会いのために」」が開催されますぴかぴか(新しい)

国木田独歩 国立国会図書館蔵.jpg
(国立国会図書館蔵)

昨年の8月22日(日)に開催予定でしたが、新型コロナウィルス影響のため2月27日(日)に延期され、再び延期となっていたイベントです。

国木田独歩 2022年2月27日(日).jpg
▲2月27日のチラシ

るんるん日 時るんるん 2022年3月21日(祝・月)13:30〜16:00
      (開場12:30/開演13:30)
るんるん場 所るんるん アクティブやない ※8月22日とは会場が違います
        柳井市柳井3718-16
        電話 0820-24-0081

るんるん内 容るんるん 
第1部 独歩朗読セレクション
 『帰去来』堀永州平さん
 『置土産』瀬川嘉さん
 『武蔵野』中島歩さん(動画参加)

第2部 高橋源一郎さんの講演「最初の小説家」

るんるん定 員るんるん 312名(先着順)
るんるん入場料るんるん 無料
るんるん問 合るんるん やない独歩クラブ 携帯電話 090-7993-1653
るんるん主 催るんるん やない独歩クラブ
るんるん共 催るんるん 柳井市・柳井市教育委員会

かわいい中島歩かわいい
1988年生まれ。国木田独歩の玄孫(孫の孫)にあたり、「歩」の名は独歩に由来。2014年、NHK連続テレビ小説「花子とアン」に出演。

かわいい高橋源一郎かわいい
1951年生まれ。小説家、翻訳家、文芸批評家、学芸・文化・時事評論家として広範なメディアで活躍中。小説に『日本文学盛衰史』など。
生誕150年 国木田独歩を読む @ 旧山口電信局舎交流事業「まわるわ ― 旧山口電信局舎から始る まわる・つくる・まわる ―」 [2021年09月19日(Sun)]
10月21日(木)、旧山口電信局舎で、「生誕150年 国木田独歩を読む」が開催されますぴかぴか(新しい)

国木田独歩 国立国会図書館蔵.jpg
(国立国会図書館蔵)

今年は国木田独歩の生誕150年にあたります。
148歳の旧山口電信局舎とは同年代ですね。
そして独歩は、旧山口電信局舎が位置する白石地区の小学校(現在の白石小学校の前身である今道小学校)、旧制中学校(山口中学校、現在の山口県立山口高等学校の前身である山口中学校)に通っていました。
そんな場所で、独歩の世界を道案内してくださるのは、近代文学に造詣の深い中原豊さん(中原中也記念館館長)です。
特別な場所で、特別な時間を過ごしていただけることと思います。


るんるん日 時るんるん 10月21日(木)18:00〜19:30
るんるん場 所るんるん 旧山口電信局舎
        山口市白石一丁目
るんるん案内人るんるん 中原豊(中原中也記念館館長)
るんるん定 員るんるん 6名
るんるん参加費るんるん 1,000円(お茶、お菓子つき)
るんるん申込方法るんるん 9月16日よりメールにて
   イベント名、参加者(代表者)氏名、参加人数、代表者の連絡先電話番号を明記
るんるん申込先るんるん denxinyamaguchi-event@yahoo.co.jp
るんるん主 催るんるん 旧山口電信局舎交流事業実行委員会
るんるん後 援るんるん 山口市・山口市教育委員会



今道尋常高等小学校碑
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山中健児の碑
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山口県立山口中学校沿革碑
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国木田独歩生誕150年記念フォト・コンテスト [2021年07月15日(Thu)]
7月31日(土)まで、「国木田独歩生誕150年記念フォト・コンテスト」で、田布施、平生、柳井のそこここに豊富に点在する国木田独歩の旧跡、名作ロケーション(現地風景)およびこの地域の自然景観が醸し出す独歩作品の心象風景などを撮影した写真を募集していますぴかぴか(新しい)

国木田独歩生態150年記念 フォト・コンテスト.jpg 国木田独歩生態150年記念 フォト・コンテスト 裏.jpg

2021年は、明治の文豪・国木田独歩の生誕150年の年となります。
独歩が青春時代を過ごした柳井市では、国木田独歩ゆかりの地として記念イベントを行っています。

国木田独歩(1871〜1908)は、1891(明治24)年5月から翌年4月頃までのおよそ1年間、現在の山口県田布施町・平生町・柳井市に居住しました。この温暖で繊細な自然風土の中で、山林海浜を散策し、海川の釣を楽しみ、隠棲する維新の豪傑・富永有隣を訪ね、吉田松陰のひそみに倣って私塾を開くなど、自由闊達な活動の日々を送りました。
地元の人びととの交流、寄寓先の縁で知り合った少女への恋慕などを通じての、21〜22歳の青春ならではなし得ぬ感性と思考の錬磨が、まさにこの時行われたに違いありません。およそ10年の時を経て矢継ぎ早に発表された「置土産」「帰去来」「富岡先生」「少年の悲哀」「酒中日記」などの名作の舞台や題材が、この時期この地域に設定されているのも、また当然と言えましょう。まさに「周東独歩カントリー」とも称すべきこの地域の景物を題材に、独歩文学の心象風景を存分に画像化していただきたいと思う次第です。


るんるん募集期間るんるん 2021年4月15日(木)〜7月31日(土)(当日消印有効)
るんるん募集テーマるんるん 田布施・平生・柳井のそこここに豊富に点在する国木田独歩の旧蹟、名作ロケーション(現地風景)、およびこの地域の自然景観が醸し出す独歩作品の心象風景など
るんるん応募形式るんるん A4サイズ(ワイド六ツ切可)印画紙にプリント(モノクロ可)、画像データは各自保存のこと
るんるん応募資格るんるん 不問
るんるん応募規定るんるん 
●応募者本人が撮影し、著作権を有する未発表の作品1人5点まで。ただし、表彰は1点限り
●作品の裏面に@タイトル、A撮影場所、B名前(フリガナ)、C住所、D電話番号を記入、あるいは貼付
●応募作品の著作権は応募者に帰属。当コンテストの主催者が催す発表会・展示会のほか、主催者が関係する「国木田独歩生誕150年記念」事業のPRのために各種メディアに無償で使用
●特定の人が写っている場合、必ず被写体本人の承認を得ること
●応募作品は返却しない
るんるん表 彰るんるん
  優秀作品1点 賞状、記念品
  佳作3点 賞状、記念品
  入選10点前後
るんるん選 考るんるん 主催者・共催者において行い、結果は8月中旬に地元紙に発表
るんるん応募方法るんるん 郵送または持参
るんるん郵送先るんるん 柳井市観光協会 〒742-0021 山口県柳井市柳井3714
るんるん持参先るんるん 田布施町観光協会、平生町観光協会、柳井市観光協会、大畠観光協会
るんるん問合先るんるん やない独歩クラブ 
       柳井市大畠920 phone to 090-7993-1653
るんるん主 催るんるん やない独歩クラブ
るんるん共 催るんるん 田布施町観光協会、平生町観光協会、柳井市観光協会、大畠観光協会
       柳井市観光協会ホームページ http://www.kanko-yanai.com/
田布施町にゆかりのある明治の文豪 国木田独歩生誕150年を祝う記念行事 [2021年07月14日(Wed)]
7月15日(木)、「田布施町にゆかりのある明治の文豪 国木田独歩生誕150年を祝う記念行事」が開催されますぴかぴか(新しい)
また、田布施町観光協会の公式YouTubeでLIVE配信されますぴかぴか(新しい)

国木田独歩の生誕150周年を祝う 田布施町.PNG

 国木田独歩生誕150年を祝う会実行委員会が、明治の文豪国木田独歩の生誕150年を記念して記念講演など行います。
 実行委員会は、記念行事の企画をされた委員の藤山照夫さんを中心に、昨年より取り組みを続け、国木田独歩の生まれた7月15日に合わせて記念行事を開催します。
 記念行事は、実行委員会の坂本委員長が、自ら会長として運営に携わる田布施町観光協会により、YouTubeでLIVE配信を行います。

https://youtube.com/channel/UCfXgFgjtTALfCqQ7s3H3Z_w
https://welcome-tabuse.com/

国木田独歩は、明治24年、田布施町麻郷や麻里府に住んでいました。麻郷小学校で英語を教えたり、波野英学塾を開設したことも記録にあり、田布施町を舞台に書かれた作品もあります。
これを機会に作品に触れたり、その時代に思いを馳せてみてはいかがでしょうか。


るんるん日 時るんるん 2021年7月15日(木)9:00〜12:00
るんるん会 場るんるん 田布施町商工会館 サリジエ
       熊毛郡田布施町大字下田布施814-1
       電話 0820-52-2983
るんるん内 容るんるん

かわいい記念講演「独歩の人間性を探る」 9:15〜10:45
   講師 松島幸夫(柳井市教育委員会 社会教育指導員)

かわいい映像で見るゆかりの地 11:00〜12:00
   藤山照夫(国木田独歩生誕150年を祝う実行委員会 事務局)

るんるん対 象るんるん 山口県内在住者(要事前申込・先着順)
       ※YouTubeのLIVE配信は申込不要
るんるん参加費るんるん 無料
るんるん申込先るんるん 国木田独歩生誕150年を祝う実行委員会
       事務局 田布施町教育委員会 社会教育課
       電話 0820-52-5813
るんるん主 催るんるん 国木田独歩生誕150年を祝う実行委員会


かわいい「ゆかりの地を巡るウォーク」開催予定
 るんるん開催時期 2021年10月頃(予定)
 るんるん問合先 国木田独歩生誕150年を祝う実行委員会 事務局
中島歩 朗読ライブ「音と本」 × 高橋源一郎 講演「最初の小説家」 @ 国木田独歩生誕150年記念イベント「朗読と講演「独歩文学との新たな出会いのために」」 [2021年07月08日(Thu)]
8月22日(日)、サンビームやないで、国木田独歩生誕150年記念イベント「朗読と講演「独歩文学との新たな出会いのために」」が開催され、中島歩さんの朗読ライブ「音と本」高橋源一郎さんの講演「最初の小説家」がありますぴかぴか(新しい) 

独歩文学との新たな出会いのために.PNG

るんるん日 時るんるん 2021年8月22日(日)13:30〜16:00(開場 12:30)
       第1部 13:30〜14:15  
       第2部 14:30〜16:00
るんるん場 所るんるん サンビームやない(新型コロナ対応客席数492席)
       柳井市柳井3670-1 電話 0820-22-0111
るんるん内 容るんるん 
  第1部 中島歩さんの朗読ライブ「音と本」:
     『武蔵野』『帰去来』など

  第2部 高橋源一郎さんの講演:「最初の小説家」

るんるん参加費るんるん 無料
るんるん問合先るんるん やない独歩クラブ
       〒749-0102 柳井市大畠920番地 
       電話 090-7993-1653
るんるん主 催るんるん やない独歩クラブ
るんるん共 催るんるん 柳井市・柳井市教育委員会


かわいい中島歩さんかわいい
1988年生まれ。宮城県出身。国木田独歩の玄孫(孫の孫)にあたり、「歩」の名は独歩に由来。2014年、NHK連続テレビ小説「花子とアン」に出演。

かわいい高橋源一郎さんかわいい 
1951年生まれ。小説家、翻訳家、文芸批評家、学芸・文化・時事評論家として広範なメディアで活躍中。小説に『日本文学盛衰史』など。


※緊急事態宣言などの地域へ往来した人の入場を断る場合がある
※新型コロナ情勢変動による開催/延期の確認は、会場または主催者に問い合わせる
国木田独歩とやまぐち 〜 国木田独歩生誕150周年記念講座 〜 @ 令和3年度 山口県立大学・柳井市サテライトカレッジ [2021年05月21日(Fri)]
7月3日(土)、柳井市文化福祉会館で、令和3年度 山口県立大学・柳井市サテライトカレッジ「国木田独歩とやまぐち 〜 国木田独歩生誕150周年記念講座 〜」が開催されますぴかぴか(新しい)

国木田独歩とやまぐち 柳井市.jpg

るんるん日 時るんるん 2021年7月3日(土)10:00〜11:30
るんるん場 所るんるん 柳井市文化福祉会館(柳井市柳井3718 電話 0820-22-0680)
るんるん演 題るんるん 国木田独歩とやまぐち
るんるん講 師るんるん 加藤禎行(山口県立大学郷土文学資料センター研究員) 
るんるん受講料るんるん 無料
るんるん定 員るんるん 30名(先着順)
るんるん申込方法るんるん 電話、FAXまたはハガキで住所・氏名・電話番号を知らせる
るんるん申込先るんるん 柳井市教育委員会 生涯学習・スポーツ推進課
        〒742-8417 柳井市南町一丁目10番2号
        電話 0820-22-2111 fax to 0820-23-7371
るんるん申込締切るんるん 2021年6月25日(金)
るんるん問合先るんるん 柳井市教育委員会 生涯学習・スポーツ推進課 電話 0820-22-2111
       山口県立大学地域共生センター 電話 083-928-5622
国木田独歩直筆書簡(河井大介宛・明治27年2月26日付)を観に柳井市立柳井図書館 に行きましたA [2021年05月19日(Wed)]
前回の続き

一方、独歩は『欺かざるの記 前編』「第三」「明治二十七年二月」「二十一日。」の項に

十九日(略)夜、収二及父上より來状。柳井印刷所、讓り受け難き由申し來る、吾直ちに一書を裁して是非に成功す可しと申す、且つ讓らんば借り受ける可しと申しやる。

と記しており、「柳井印刷所」と呼んでいたようです。
印刷所の名称については、『青年時代の国木田独歩』(谷林博/著 柳井市立図書館 1970(昭和45).7.10)のP.55に 

 わたしはかって東条耕平夫人ハナにこの印刷事業について尋ねたことがある。すると「私は明治二十八年(一八九五年)に嫁いで来ましたが、その前年すなわち独歩が交渉した明治二十七年に、柳井津印刷会社は東条家で経営することになって東条活版所と改称しました」と語っていた。

とあり、「東条活版所」とするのが正しいのかもしれません。



独歩は、1892(明治25)年2月から1894(明治27)年9月までの、20歳から23歳の時に、父の勤務の関係で柳井にいた時期があります。
「柳井にいた」と書くと約2年8ヶ月の間ずっと住んでいたように誤解される方もいらっしゃる思いますが、決してそうではありません。
柳井に「住んでいた」といえるのは、1892(明治25)年2月に父母の居住していた柳井村第1041番神田継治に転居し、4月父専八の知人市山増太郎の借家(これが現在「国木田独歩旧宅」と呼ばれている家)に家族で同居し、1893(明治26)年6月上旬上京するまでの約1年4ヶ月といえるのではないでしょうか。
柳井 独歩旧宅2 (2).jpg

独歩は、「柳井」を「国許」と呼び、「帰国する」とか、「帰省する」などと記しています。
1893(明治26)年9月東京より帰省し、鶴谷学館の教師をするために佐伯に行きます。12月末から1894(明治27)年1月の正月休みに帰宅し、3月印刷所経営交渉のため帰省します。8月初旬佐伯より両親が転居した柳井町宮本の藤坂屋の家作に帰国し、9月初旬上京します。
05E9FA6A-6BB2-44B3-BE19-7820228EFFB6.jpeg右側の建物

後に、柳井を舞台にした『少年の悲哀』
70CED2F2-C997-4E0A-93C1-0421AA117214.jpeg独歩曽遊の地 0367BA88-6843-49AD-A6C2-6EB9119E4AAC.jpeg光台寺楼門 771F1C15-6DE7-4F06-B6F1-79284B831FAD.jpeg妙見社

『置土産』といった作品を生み出しました。
IMG_5754 (2).JPG藤坂屋本店  
ADAF1CFA-E616-4CFB-84C6-77813CEED56C.jpeg「置土産」碑


ということもあって、柳井市立柳井図書館には獨歩文庫があります。

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独歩文庫は、早くから充実をはかっていたそうで、昭和60年、独歩が暮らしていた柳井市姫田の市山家(当主市山太郎氏)の援助もあり、現在、191冊を所蔵しています。

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文庫を見ると、初版本や貴重な書籍が揃っています揺れるハート
『陶庵隨筆』(西園寺公望/(述) 國木田獨歩/(編) 新聲社 1903.1)
『運命』(國木田獨歩/著 左久良書房 1908.9)(初版本は、佐久良書房・1906.3発行)
『涛聲』(國木田獨歩/著 彩雲閣 1908)(初版本は、彩雲閣・1907.5発行)
『病牀録』(國木田獨歩/著 眞山彬/編輯 新潮社 1908.7)
『獨歩集 第二』(國木田獨歩/著 彩雲閣 1908.7)
『獨歩全集 前編』(國木田獨歩/著 博文館 1910.6)
『獨歩詩集』(國木田獨歩/著 東雲堂書店 1913)
『獨歩手記』(國木田獨歩/著 國木田治子/編纂 天分社 1919)(初版本は、早稻田文學社・1916.2)



また、国木田独歩像もあります。
こちらは1891(明治24)年満20歳の像です。

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柳井には他にも国木田独歩像があります。
町並み資料館に建つ国木田独歩像。
説明板に「22歳の頃の写真をもとに制作したもの」とあり、独歩が「〈明治廿五年二月七日 国木田哲夫 吉見ハル 於柳井玉光堂(館の誤り)写」と署名した写真がもとになっているのではないかと思われるので、満20歳の独歩です。
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国木田独歩旧宅にある国木田独歩の像(山本辰昭/作)。
2001年町並み資料館前に設置されたブロンズ像の原型です。
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しらかべ学遊館にある独歩レリーフ。
独歩の二男 国木田哲二作です。
明治二十五年二月 柳井に於ける国木田哲夫」とあるので20歳の独歩です。
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図書館の独歩像と他の3点は少し雰囲気が違う気がします。


次回は時間をたっぷりとって、ぜひ、独歩文庫の初版本や貴重書を見せていただきたい、と思います。



柳井市立柳井図書館の特別の許可を得て、独歩文庫、国木田独歩像を撮影させていただきました。
柳井市立柳井図書館の所蔵です。
ブログへのアップについて、柳井市立柳井図書館の許諾を得ています。
国木田独歩直筆書簡(河井大介宛・明治27年2月26日付)を観に柳井市立柳井図書館 に行きました [2021年05月18日(Tue)]
5月15日(土)、国木田独歩直筆書簡(河井大介宛・明治27年2月26日付)を観に柳井市立柳井図書館に行きましたぴかぴか(新しい)

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『欺かざるの記 前篇』(國木田獨歩/著 佐久良(さくら)書房 1908.1)の「第三 明治二十七年二月」二十七日に、

河井大助氏に発信す。印刷所借用の件相談、依頼するところありたり。

とあります。
まさにその手紙が展示してありました揺れるハート

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封筒には、

山口縣周防國玖珂郡柳井
河井大介 様


とあります。
河井大介は、印刷所の経営者の一人で、俳人です。

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前年10月に柳井津区裁判所を定年退官した父専八のため、柳井津金屋の印刷所の借入れ交渉をしたものです。

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そして、

      (略)吾か
一家若し茲に柳井の地に
業を得ば永く柳井の人と
なり及ばず乍ら土地の為め
にも幾分かの盡力致し得る
事と存候(略)


とあります。

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結局借り上げはうまくはいかないのですが、もし、印刷所を独歩一家が借り受けていたら、どうなっていたでしょうか?

書簡は明治27(1894)年2月26日付です。
独歩は、大分県佐伯町(現佐伯市)の鶴谷学館の教師をしていて、満22歳(数えで24歳)でした。
 
 二十七年二月二十六日夜
      国木田哲夫拝
河井大介様
並び印刷処 
持主諸君  貴下


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書簡は、河井大介から、同じく経営者の一人高田弥太郎(柳井甘露醤油本舗「ともや」の十代目)へ回覧され、現在まで高田家で保存されていました。
この3月に柳井市に寄贈され、柳井市立柳井図書館の所蔵となりましたひらめき

印刷所のあった場所は、白壁の町並みの一角にある佐川醤油店のあたりだそうです。ぴかぴか(新しい)

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ところで、印刷所の名前は何だったのでしょうか?

この書簡は、独歩が大分県佐伯町(現佐伯市)の鶴谷学館教師時代に、明治二十七年二月二十六日付で、前年十月に柳井津区裁判所を定年退官した父専八のため、柳井津町の東条活版所(金屋在)の借入れ交渉をしたものである。時に独歩は二十四歳。宛先の河井大介は、東条活版所(印刷所)の経営者の一人であった。
(『柳井図書館叢書第三集 独歩文庫・小松茂美文庫目録』(柳井市立柳井図書館 1988.3))


独歩の初めての事業として柳井津印刷会社の借用の計画があった。独歩が佐伯にいたとき新事業によって一家の生計をたてようとした。たまたま独歩は柳井津第四百十六番に柳井津印刷会社があり、これに目をつけて借用したいと会社の庶務、会計係であった河井大祐に明治二十七年(一八九四年)二月二十六日に手紙を出して懇請した。
(『青年時代の国木田独歩』(谷林博/著 柳井市立図書館 1970(昭和45).7.10)P.53〜54)

明治二十七年二月、独歩は柳井印刷所(柳井津第四百十六番、現在の古市佐川醤油店付近)の借用のため、佐伯より第二回目の帰省をこころみる。
(『国木田独歩―山口時代の研究―』(桑原伸一/著 笠間書房 1972(昭和47).5.30)P.83)



書簡は柳井市立柳井図書館の所蔵です。
写真撮影に関しては、特別の許可を得ました。
ブログ掲載について、柳井市立柳井図書館の許諾を得ています。
写真の転載はお断りします。

『欺かざるの記』(國木田獨歩/著 春陽堂 1922.1)は、国立国会図書館デジタルコレクションでインターネット公開されています。



【次回に続く】
国木田独歩生誕150年記念 読後エッセイ・コンテスト「独歩のここが面白い!」 [2021年05月16日(Sun)]
「国木田独歩生誕150年記念 読後エッセイ・コンテスト「独歩のここが面白い!」」と題し、独歩の作品や生きざまの「面白さ」をテーマにしたエッセイを募集していますぴかぴか(新しい)

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るんるん募集内容るんるん 
国木田独歩作品の読後の感想はもとより、文体や小説作法、社会活動、処世術などを具体的に取り上げ、それを「面白い」と思う理由をまとめた1000字以内の小エッセイ

るんるん募集期間るんるん 2021年4月15日(木)〜7月15日(木)(当日消印有効)
るんるん応募資格るんるん 不問。応募は一人2点まで
るんるん応募形式るんるん 
 日本語で1000字居ないにまとめ、必ず表題を付す
 原稿はワープロで印字し、筆名(任意)、本名、住所、連絡先を付記
 ※応募原稿は返却しない
るんるん応募方法るんるん 郵送または持参
 郵送: 柳井図書館 独歩のここがおもしろい係! 
      〒742-0021 山口県柳井市柳井3670-1
 持参: 柳井図書館、大畠図書館、田布施図書館、平生図書館
るんるん表彰選考るんるん
 賞 : 優秀作1点 記念品、 佳作2点 記念品
 発表: 選考結果および受賞作は、8月中旬の山口新聞紙上
るんるん選考者るんるん 中島礼子さん(国士舘大名誉教授・独歩研究者)
るんるん問合先るんるん やない独歩クラブ 
        柳井市大畠920 電話 090-7993-1653
るんるん主催るんるん やない独歩クラブ
るんるん共催るんるん 柳井図書館、大畠図書館、田布施図書館、平生図書館、山口新聞社

かわいい選考者からのメッセージかわいい
「国木田独歩の文学者としての主な活動は10年間です。その中で生み出された文学作品は今なお色あせていません。独歩は活動的にさまざまなことに挑戦し、独歩が接した人々から愛され慕われました。多くの方々が独歩の作品や生涯に触発されて、それぞれが抱かれた“面白い”とする理由を自由に記してくださることを楽しみにしています」
国木田独歩直筆書簡(河井大介(大祐)宛・明治27年2月26日付)展示 @ 柳井市立柳井図書館 [2021年05月15日(Sat)]
今日5月15日(土)まで、国木田独歩生誕150周年記念イベントの一つとして、柳井市立柳井図書館で、国木田独歩直筆書簡(河井大介(大祐)宛・明治27(1894)年2月26日付)が初公開されていますぴかぴか(新しい)

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本年8月30日に生誕150周年を迎える明治の文豪「国木田独歩」(1871(明治4)〜1908(明治41))直筆の貴重な書簡を、令和3年3月に高田耕市郎様から柳井市に寄贈いただきました。
この書簡は、独歩が大分県佐伯町(現佐伯市)の鶴谷学館教師時代に、明治27年2月26日付で、前年10月に柳井津区裁判所を定年退官した父専八のため、柳井津金屋の東条活版所(印刷所)の借入れ交渉をしたもので、当時独歩は24歳でした。
宛先の河井大介(大祐)は、東条活版所の経営者の一人でした。
書簡は、河井大介(大祐)から、同じく経営者の一人高田弥太郎(柳井甘露醤油本舗「ともや」の十代目)へ回覧され、現在まで高田家で保存されていました。


るんるん日時るんるん 2021年4月17日(土)〜5月15日(土) 
      ※図書館開館日(月曜日と祝日の翌日は休館)
      平日 9:30〜18:00  土・日・祝日 9:30〜17:15
るんるん場所るんるん 柳井市立柳井図書館 2階
      柳井市柳井3670番地1
るんるん問合先るんるん 柳井市立柳井図書館 電話 0820-22-0628


『読売新聞』2021年5月13日号に「独歩の書簡 初公開」の記事が掲載されていました。
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国木田独歩ゆかりの地を巡る〜田布施・柳井編〜 [2021年05月14日(Fri)]
5月15日(土) 、「国木田独歩ゆかりの地を巡る〜田布施・柳井編〜」が開催されますぴかぴか(新しい)

国木田独歩生誕150年に合わせ、国木田独歩が過ごした地を巡るウォーキングツアーを開催します

るんるん日程るんるん 2021年5月15日(土)  ※雨天中止
るんるん時間るんるん 8:00集合/15:30解散予定
るんるん場所るんるん 集合/解散 山陽本線JR柳井駅
るんるんコースるんるん
柳井駅 → 別府バス停 → 麻里布 → 吉見家跡 → 昼食 → 田布施町郷土館 → 波野英学塾跡 → 田布施駅 → 柳井駅 → しらかべ学遊館 → 国木田独歩旧宅 → 柳井駅
るんるん距離るんるん 約10km
るんるん所要時間るんるん 約7時間50分
るんるん定員るんるん 20名(要申込・先着順)
るんるん参加費るんるん 1200円(保険料、弁当代込み)
      別途電車賃200円、バス代570円が必要
るんるん申込・問合るんるん 柳井市観光協会 電話 0820-23-3655
るんるん主催るんるん 柳井市観光協会、柳井にっぽん晴れ街道協議会

※新型コロナウイルスの感染拡大防止のため、県外からのお申し込みはお断りさせていただいております。
※申込期間が過ぎている可能性があります。


かわいい麻里布の国木田独歩詩碑
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かわいい田布施町郷土館
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かわいいしらかべ学遊館
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かわいい国木田独歩旧宅
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4月17日(土)には、「国木田独歩ゆかりの地を巡る〜平生・柳井編〜」が開催されましたぴかぴか(新しい)
コース:柳井駅 → 帰去来の田布路木峠碑 → しらかべ学遊館 → 国木田独歩旧宅 → 置土産碑 → 柳井港駅

かわいい置土産碑
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馬島と『酒中日記』 @ 国木田独歩の足跡を訪ねてI [2020年08月27日(Thu)]
【前回の続き】

柳井から国道188号を通って山口に帰りました。

国木田独歩詩碑ぴかぴか(新しい)
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「国木田独歩の詩碑」説明板。
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   国木田独歩の詩碑
 この詩碑は、昭和二十六年(一九五一)十一月三日文化の日に独歩顕彰会の有志によって建立されたものである。
 独歩は、明治四年(一八七一)七月十五日 国木田専八の子として千葉県銚子市にて出生した。幼名は亀吉、独歩は筆名である。
 明治九年、父が職を山口裁判所に奉ずるに及んで、一家は山口・萩・広島・岩国などへ転居した。十九歳のとき、哲夫と改名する。
 明治二十四年、二十一歳のとき東京専門学校を退学し、一家の居住する麻郷村(現 田布施町)に帰り、吉見家に寄寓し修養に努めると共に多感重厚な詩情を培った。
 また、隣村の麻里府の浅海家に仮寓し、近くの石崎家にしばしば出かけ、初恋の人、石崎トミと出会う。そしてこれらを背景にした「酒中日記」「帰去来」「悪魔」など多くの作品を残している。
  
  なつかしき わが故郷(ふるさと)は何処(いずく)ぞや
  彼処(かしこ)に われは山林の児(こ)なりき
  顧(かえり)みれば 千里紅山(こうざん)
  自由の郷(さと)は雲底(うんてい)に没せんとす
    「山林に自由存す」より

 明治四十一年六月二十三日、神奈川県茅ヶ崎にて逝去する。
 享年 三十八歳
        田布施町教育委員会



詩碑は、以前は麻里府海岸にあったようですが、今は、田布施町麻里府公民館の敷地にあります。
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馬島ぴかぴか(新しい)
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 馬島は、田布施町の麻里府海岸から、南の海上1kmに浮かぶ、面積0.7平方キロメートル、周囲5.8km、人口約50人の小島で、瀬戸内海国立公園の島々のひとつです。
〜島名の由来〜
 昔、周防の国(現在の山口県東部)の島々では、さかんに馬牧・牛牧が行われていたようで、古い文献にそのことが記されています。
 馬島と隣の佐合島(平生町)は、今よりずっと接近しており、一様に「馬かい島」と呼ばれていました。しかし、地殻変動によって距離が離れ、やがて佐合島に人が住み着き、馬島だけに馬牧場が残りました。そして、いつしか「馬かい島」が訛って「馬島」になったと推察されています。
田布施町HP「馬島はどんなところ」より抜粋)

(略)馬島はその田布施町に属し、東隣の平生町との境を流れる田布施川の河口にある麻里府港から南へ1.5kmの海上に浮かぶ。
平安時代に馬の放牧地として利用されていたことから“馬飼い島”と呼ばれ、後に馬島となった。文治2年(1186)以降に本格的に開拓が始められ水軍の拠点になっていたこともある。
日本の島へ行こうHP「馬島」より抜粋)


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馬島は、独歩が仮寓していた麻里府浅海家や、しばしば出かけた近くの石崎家から、その美観を一眸することができたそうです。

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独歩は『欺かざるの記』「明治二十七年十二月二十一日」に次のような句を詠んでいます。

馬島にて
 嶋蔭や時雨れて落ちし三日の月



『明治廿四年日記』の「五月」に馬島辺りで遊んだことが記されています。

日曜十日 此の日はめばる釣に連(行)く可しとの事故、父及余と弟と三人午前八時前より外出、某所に舟に乗じ馬島辺を終日遊び暮す日全くくれて帰宅、同伴者ハ余等の外に船頭共に四人あり凡て七人なり、めま(ば)る釣と称すれども舟遊なりめばるは殆んど釣らず薄暮少しつりたり

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馬島は、1902(明治35)年に雑誌『文芸界』11月号に発表され、1906(明治39)年3月に東京の出版社左久良書房から出版された短篇集『運命』に収めらた小説『酒中日記』の舞台です。
『少年の悲哀』や『帰去来』のように美しい瀬戸内の情景が描かれてはいませんが、東京という場所、教師(校長)という職務、「家」という制度に対する「ユートピア」として描かれています。

馬島で私塾を開き、気楽な生活を送る大河今蔵が書いた「日記」、そこには、五年前の不幸で悲惨な出来事が綴られていて、それを読んで公開した記者の「付記」から構成されています。

五月三日(明治三十〇年)
「あの男はどうなったかしら」との噂、よく有ることで、四五人集って以前の話が出ると、消えて去(な)くなった者の身の上に、ツイ話が移るものである。
 この大河今蔵、恐らく今時分やはり同じように噂せられているかも知れない。
(略)
まさかこの小ちっぽけな島、馬島という島、人口百二十三の一人となって、二十人あるなしの小供を対手(あいて)に、やはり例の教員、然し今度は私塾なり、アイウエオを教えているという事は御存知あるまい。無いのが当然で、かく申す自分すら、自分の身が流れ流れて思いもかけぬこの島でこんな暮(くらし)を為るとは夢にも思わなかったこと。
(略)
「いったいこの男はどうしたのだろう、五年見ない間(ま)に全然(すっかり)気象まで変って了(しま)った」──。
(略)
ああ今は気楽である。この島や島人しまびとはすっかり自分の気に入って了った。瀬戸内にこんな島があって、自分のような男を、ともかくも呑気に過さしてくれるかと思うと、正にこれ夢物語の一章一節、と言いたくなる。
(略)

五月六日
(略)
 さても気楽な教員。酒を飲うが歌おうが、お露を可愛いがって抱いて寝ようが、それで先生の資格なしとやかましく言う者はこの島に一人もない。
 特別に自分を尊敬も為(し)ない代りに、魚(うお)あれば魚、野菜あれば野菜、誰が持て来たとも知れず台所に投(ほう)りこんである。一升徳利をぶらさげて先生、憚(はばか)りながら地酒では御座らぬ、お露の酌で飲んでみさっせと縁先へ置いて去(い)く老人もある。
 ああ気楽だ、自由だ。
(略)
自然生(じねんじょ)の三吉が文句じゃないが、今となりては、外に望は何もない、光栄ある歴史もなければ国家の干城たる軍人も居ないこの島。この島に生れてこの島に死し、死してはあの、そら今風が鳴っている山陰の静かな墓場に眠る人々の仲間入りして、この島の土となりたいばかり。
 お露を妻(かか)に持って島の者にならっせ、お前さん一人、遊んでいても島の者が一生養なって上げまさ、と六兵衛が言ってくれた時、嬉しいやら情けないやらで泣きたかった。
(略)


お露は児のために生き、児は島人(しまびと)の何人(なんぴと)にも抱(いだ)かれ、大河はその望むところを達して島の奥、森蔭暗き墓場に眠るを得たり。



主人公の大河今蔵は、小川今蔵の名前を拝借しています。
お露は、『帰去来』の露子と同様に、石崎家の長女「しも」がモデルだといわれています。

お露は美人ならねどもその眼に人を動かす力あふれ、小柄こづくりなれども強健なる体格を具そなえ、島の若者多くは心ひそかにこれを得んものと互に争いいたる


独歩は『予が作品と事実』に次のように記しています。

  ◎酒中日記(「運命」に在り)
はチヨツとしたことヒントが基になつた作物(さくぶつ)で、此一編に記述せる事は悉く余の作(こしら)へた事である。主人公の小学校々長に似た実在人物及び小学校新築という事実に触れて、それが基となり余の想が出来たので、実際の小学校々長は今も健在である。校舎は早く落成して今は多数の児童を収容して居る。


また、『病床録』「第四 芸術観 余の作品にモデルなきはなし」で、自己の心理体験を表現したものと言っています。
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『病床録』(国立国会図書館蔵)

『酒中日記』にモデルあるは勿論なり。余の作品にしてモデルなきは殆んど無し。嘗て緊迫して原宿にありける際、彼の主人公の如き小学校教師を知れり。酒屋の隠居、学校の改築寄附金募集総て事実なり。唯余はこの小学校の性格に配する半ば自己の性格を以つてせり。
 作中金を拾ふ條下を描ける動機は、その前、霞が岡に逼塞せる頃の実歴譚なり。一夜金策尽きつ茫然として青山の原を家に帰へる時、偶と心頭に逢着せる問題は、今茲に数百金容れたる財布を拾ひ得ならば、今の余は如何に処すべきかの問題なりき。拾得して私かに消散するべきか、将た落したる人を尋ねて返すべきか、余は事実その二途に迷はざるを得ざりき。今にして想へば何んでも無き造作なきその些事が問題なりしなり。隠せ、返せ、と云ふその二つの私が声に迷はされて、余は実際その金を手にせるが如く心迷ひたり。余はそれを正直に描けるのみ。
『酒中日記』を書きたるは、その後鎌倉に寓居して、少し生活の余裕を見出る頃なり。窮迫当時は却って、『帰去来』『小春』の如きものを製作せり。



また、『帰去来』にも馬島が出て来ます。

同村の中に編入して有る馬島、麻里布(府)の岸から数丁を隔つる一小島で住民の七分の已(すで)に釜山仁川に住居して、今は空屋に留守居のみ住んで居る次第である。

馬島の其西端は磯より数十軒の間近に其翠松の枝を翳(かざ)し、


馬島に渡ってみたくなりました。
「国木田独歩の詩碑」のある田布施町麻里府公民館の近くの麻里府港渡船場から渡船「ましま丸」に乗って約8分で着くそうです。



以上、2019年7月7日に国木田独歩の足跡を訪ねて柳井地方を訪れた時の記事です。
藤坂屋・三角餅と『置土産』 @ 国木田独歩の足跡を訪ねてH [2020年08月26日(Wed)]
【前回の続き】

『置土産』のモデル藤坂屋本店に行きましたぴかぴか(新しい)
独歩の父母は、お店の隣、右側の建物に住んでいたといいます。
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『欺かざるの記』の「明治二十七年九月四日」にあるように、1894(明治27)年8月に、姫田の市村家の借家より柳井村第二百十六番屋敷の宮本の藤坂太一郎の借家に移りました。

吾が父母、吾が兄弟の未だ佐伯より帰省せざる殆んど一箇月の前姫田なる家を去りて、柳井町を少しく隔たりて海に近き宮本てふ処に転居したり。此の借家の本家は隣家の餅屋なり。
此の餅屋は宮本の三角餅とて名物なり。


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『欺かざるの記』(春陽堂 大正11)(国立国会図書館蔵)


「置土産」の碑
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「国木田独歩と藤坂屋」の説明板。
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  国木田独歩と藤坂屋
 この藤坂屋の向かって右側の建物は、明治の文豪国木田独歩一家が居住した家である。明治二七年(一八九四)父専八は家族とともに、柳井市姫田の市山医院からここに移住した。その頃独歩は大分県佐伯から引き揚げて上京するまでの1ヶ月間ここに住んだ。
 その頃の作品として『置土産』『欺かざるの記』などがあり、独歩にとって柳井は忘れがたいところであった。
 なお、この庭の「置土産」の碑は、独歩が岩国小学校在学のとき、同級であった代議士永田新之丞氏の揮毫によって、昭和四三年に建てられた。


『置土産』(『太陽』(1900(明治33).12)初出。『武蔵野』(民友社 1901(明治34).3)所収)は、三角餅の紹介で始まります。

 餅は円形(まる)きが普通(なみ)なるを故意(わざ)と三角に捻(ひね)りて客の眼を惹かんと企(たく)みしやうなれど実は餡(あん)を包むに手数のかゝらぬ工夫不思議にあたりて、三角餅の名何時(いつ)しか其の近在に広まり、此茶店の小さいに似ぬ繁盛、(略)

残念ながら、三角餅は、現在、製造営業は中止しているということですもうやだ〜(悲しい顔)
あの三角形の箱に入った三角餅をもう一度食べたいです。

続いて、当時の藤坂屋周辺の描写をしています。

 戸数五百に足らぬ一筋町の東の外(はづれ)に石橋あり。それを渡れば商家でもなく百姓家でもない藁葺屋根の左右両側(りょうそく)に建並ぶこと一丁ばかり、其処に八幡宮ありて、其鳥居の前からが片側町(かたかはまち)、三角餅の茶店は此外(このはづれ)にあるなり。前は青田、青田が尽きて塩浜、堤高くして海面(うみづら)こそ見えね、間近き沖には大島小島の趣も備わりて、まず眺望(ながめ)には乏しからぬ好地位を占むるがこの店繁盛の一理由なるべし。それに町の出口入り口なれば村の者にも町の者にも、旅の者にも一休息(ひとやすみ)腰を下(おろ)すに下ろしよく、ちょっと一ぷくが一杯となり、章魚(たこ)の足を肴に一本倒せばそのまま横になりたく、置座(おきざ)の半分遠慮しながら窮屈そうに寝ころんで前後正体なき、ありうちの事ぞかし。

八幡宮とは藤坂屋の傍の代田八幡宮のことですが、写真を撮り忘れてしまいましたもうやだ〜(悲しい顔)
作品の重要なスポットなのに・・・・・・。

登場人物は、油の小売り商の吉次・八幡宮神主の忰・三角餅屋主人の幸衛門夫妻、そして、

 店は女房まかせ、これを助けて働く者はお絹お常とて一人は主人(あるじ)の姪、一人は女房の姪、お絹はやせ形の年上、お常は丸く肥りて色白く、都ならば看板娘の役なれどこの二人は衣装(なり)にも振りにも頓着なく、糯米(もちごめ)を磨(と)ぐことから小豆(あずき)を煮ること餅を舂(つ)くことまで男のように働き、それで苦情一つ言わずいやな顔一つせず客にはよけいなお世辞の空笑いできぬ代わり愛相よく茶もくんで出す、

お絹・お常です。
『欺かざるの記』では、

此の餅屋は主人夫婦に老母一人、他に二男二女ありて七人の家族をなす、されど此の二男二女共に主人夫婦の子女に非ずして悉く甥姪に当るものなり。(略)一女は岩と称して十九歳、一女はきぬと称して十六歳。(略)
此の混合家族は不思議なる好人物の集合なり。(略)殊に主人夫婦はめづらしき好人物、主人は品格のある四十前後の丈夫なり。一家族悉く勉励なる労働者、


と、岩ときぬとあります。

茶店のことゆえ夜(よ)に入れば商売なく、冬ならば宵から戸を閉しめてしまうなれど夏はそうもできず、置座を店の向こう側なる田のそばまで出しての夕涼み、お絹お常もこの時ばかりは全くの用なし主人の姪らしく、八時過ぎには何も片づけてしまい九時前には湯を済まして白地の浴衣に着かえ団扇を持って置座に出たところやはりどことなく艶かしく年ごろの娘なり。

お店の前にあった立派の藤棚は、道路拡張のため取り除かれましたが、藤坂屋の対面の一角には、藤棚が復興され「置土産」の石碑があります。登場人物たちが置座を持ち出し、夕涼みをしながら語り合い、「置座会議」をしたのは、もしかしたらこの辺りだったのでしょう。
『欺かざるの記』でも、密かに恋心を抱いたのではないかと推察される表現があります。

此の如き家族を本家とし隣家となす事ゆゑ、吾たちまち交を結びぬ。夏の夕暮吾は談話の主人となりぬ。盆踊は二女と共に見物したり。
若き男女の間には言ふに言はれぬ縁を来たすものなり。其は明白なる挙動に現はれずして一言のうち一笑の際に己に永久の涙を價ひするの縁あらしむ。


『置土産』を読むまでは、「置土産」というのは三角餅のことだと思っていましたが、実際は、軍夫を思い立った吉次がせめてもの置土産と買い求めた鼈甲(べっこう)の櫛二枚のことでした。
ですが、なかなか打ち明けられず、別れを告げることもできず、お絹お常に渡すことができず、

紙包みのまま櫛二枚を賽銭箱の上に置き、他(ほか)の人が早く来て拾えばその人にやるばかり彼二人がいつものように朝まだき薄暗き中に参詣するならば多分拾うてくれそうなものとおぼつかなき事にまで思いをのこしてすごすごと立ち去りけり。

『欺かざるの記』によると、実際に、独歩も置土産を渡そうとしたようです。

吾此の二女等と一度別れんか、決して何時遭ふとも期し難き互いの境遇なる事を知れり。
天地悠々として転じ、人生日月と共に逝く。相遇ふ何の縁、相知る何の縁、吾は彼女たちの恋愛の呼吸をさとりぬ。嗚呼これ可憐の極に非ずや。
せめてはと思ひ、ハンケチ二枚を求めてひそかに彼女等に送らんものと、一昨夜其の機をまちぬ。夜更けて機失す。
(略)

お常のモデルのきぬさんの談です。

来栖きぬさん談
「独歩さんは立派な青年でした。私が十四五歳位で書物には年齢と名前が反対にわざと書いてあります。独歩さんは廿三四頃よく東京から帰られ収二さんは一七八歳でした。小説にあるハンカチをもらったのは事実です。一家は藤坂屋の裏に居られ新宅藤坂(三角餅屋の東隣り)のさきの小路や、本家の店から出入りしていられました。」

(『独歩回想』(上杉久吉 柳井独歩会 昭和28.9.10))

小説では、名前は実名の岩は使われていないし、置土産はハンカチではなく櫛ですが、とにもかくにも、吉次と違って独歩はハンカチを渡すことができたようですね。『欺かざるの記』を読む限り渡せなかったと思っていましたが。

また、

永年の繁盛ゆえ、かいなき茶店ながらも利得は積んで山林田畑の幾町歩は内々できていそうに思わるれど、ここの主人に一つの癖あり、とかく塩浜に手を出したがり餅でもうけた金を塩の方で失くすという始末、俳諧の一つもやる風流気(ぎ)はありながら店にすわっていて塩焼く烟(けむり)の見ゆるだけにすぐもうけの方に思い付くとはよくよくの事と親類縁者も今では意見する者なく、

と描かれた幸衛門のモデル藤坂太一郎ですが、実際に俳句もし塩田に投資したりしていたとのことです。


藤坂屋のおもやは三角餅の本舗。当時は茶屋風の構えで店の半分は土間、左側が畳の店座敷で大きな台がすえて在り、其の上にガラスのフタをした、餅箱が並んで、紅白の三角餅が入れてあった。右側の土間や屋垂れにかけて縁台が二つ三つそれへ客が腰をかけて餅やうどんを食べるわけで、店の奥にある大薬缶にはいつも番茶が沸かされて居たものであった。(略)代田八幡宮に参詣した帰りには、必ず立ち寄って土産の三角餅を求めたことも当時のならわしであった。
(神田継治「柳井と独歩」(「柳井地方史の研究」(柳井市立図書館 昭和44.6.25))


「山口県柳井ブランド 藤坂屋本店の三角餅」というのがYou Tubeにあって、そこで藤坂邦子さんが話しているのによると、1805(文化2)年、藤坂金造さんが今までの丸型の菓子を三角に変えて売り出したそうです。元々は「三角(さんかく)餅」と呼ばれていましたが、明治28年と明治31年に62代村上天皇第三皇子具平親王の末裔の北畠姓村上兼助翁が来店し食したところ大変美味しかったので「「帝(みかど)餅」にしては?」と、提案しましたが、恐れ多いとのことで「三角」を「みかど」と読ませて「三角(みかど)餅」としたそうです。
視聴していて気になったことがあります。藤坂邦子さんの背景にある「帝餅」「三角餅」と書かれた看板に「藤坂太市郎」とありました。「太一郎」のことですよね。

返す返すも、藤坂屋の三角餅が食べらないこと、とても残念です。


【次回に続く】
佐川醤油店 @ 国木田独歩の足跡を訪ねてG [2020年08月25日(Tue)]
【前回の続き】

明治二十七年二月、独歩は柳井印刷所(柳井津第四百十六番、現在の古市佐川醤油店付近)の借用のため、佐伯より第二回目の帰省をこころみる。
(『国木田独歩―山口時代の研究―』(桑原伸一/著 笠間書房 昭和47.5.30)P.83)

独歩の初めて事業として柳井津印刷会社の借用の計画があった。独歩が佐伯にいたとき新事業によって一家の生計をたてようとした。たまたま独歩は柳井津第四百十六番に柳井津印刷会社があり、これに目をつけて借用したいと会社の庶務、会計係であった河井大祐に明治二十七年(一八九四年)二月二十六日に手紙を出して懇請した。
(『青年時代の国木田独歩』(谷林博/著 柳井市立図書館 昭和45.7.10))

白壁の町並みの一角に佐川醤油店はありましたぴかぴか(新しい)
このあたりでしょうか?柳井印刷所があったのは……。
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『欺かざるの記』の明治二十七年二月二十七日には、

河井大助氏に発信す。印刷所借用の件相談、依頼するところありたり。

とあります。
そして、その河井大介宛の手紙には、

(略)吾か一家若し茲に柳井の地に業を得ば永く柳井の人となり及ばず乍ら土地の為にも幾分かの尽力致し得る事と存候(略) 謹言
    二十七年二月二十六日夜
      国木田哲夫拝
 河井大介様
 並び印刷処 
 持主諸君 貴下


とあります。結局うまくはいかないのですが、もし、柳井印刷所を独歩一家が借り受けていたら、どうなっていたでしょうか?

そんなことを妄想しながら、白壁の町並みの散策を楽しみました。

白壁の町並み
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掛屋小路と古い町割りの排水溝
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国森家住宅
柳井市柳井津金屋467。
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甘露醤油資料館「佐川醤油蔵」
柳井市柳井古市3708-1。
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名水が飲めるようになっていました。
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やない西蔵
柳井市柳井3700-8(古市)。
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大正時代末期に建てられた木造平屋建・白壁土蔵造りの建物で、1980年頃まで醤油蔵として使用されていましたが、1998(平成10)年に所有者より寄贈を受け、改修後、2001(平成13)年4月に複合型観光施設に生まれ変わりました。
金魚ちょうちん製作体験や柳井縞機織体験などができるほか、ギャラリ―として使われています。

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商家博物館むろやの園
柳井市柳井津金屋439。
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江戸時代、西日本でも有数の油商であった小田家の屋敷で、「むろや」とは、の油商小田家の屋号です。古市、金屋と続く白い漆喰壁の町家の代表的なもので、鰻の寝床といわれる細長い敷地割になっています。南北に119mの奥行きがあり、屋敷面積は約800坪と国内に現存する町家の中でも最大級のものといわれています。
小田家住宅は町家は「商家博物館むろやの園」として公開されており、日常生活、農業、運搬、商業などの用具、文書などを展示しています。
県指定重要有形民俗文化財です。

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マンホール
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柳井市柳井津金屋447の藤坂屋白壁店を探しました。確か、JR柳井駅からまっすぐ歩いて、白壁地区への入り口辺りにあったと記憶しています。
国木田独歩の小説『置土産』の中に登場する柳井名物 三角餅(みかどもち)の藤坂屋さんが経営するみやげ物店でした。
こし餡を餅で三角形に包んだ三角餅を久しぶりに食べたかったのですが……。
ということは、やっぱり、藤坂屋本店に行かなくてはなりません。


【次回に続く】
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