CANPAN ブログ検索
Loading
  • もっと見る

こどもと本ジョイントネット21・山口


〜すべての子どもに本との出会いを〜

子どもと本をむすぶ活動をしています


検索
検索語句
<< 2021年03月 >>
  1 2 3 4 5 6
7 8 9 10 11 12 13
14 15 16 17 18 19 20
21 22 23 24 25 26 27
28 29 30 31      
最新記事
カテゴリアーカイブ
プロフィール

こどもと本ジョイントネット21・山口さんの画像
月別アーカイブ
最新コメント
タグクラウド
日別アーカイブ
https://blog.canpan.info/jointnet21/index1_0.rdf
https://blog.canpan.info/jointnet21/index2_0.xml
馬島と『酒中日記』 @ 国木田独歩の足跡を訪ねてI [2020年08月27日(Thu)]
【前回の続き】

柳井から国道188号を通って山口に帰りました。

国木田独歩詩碑ぴかぴか(新しい)
148167C2-4AF4-41EB-AF83-C41B9FDBFF82.jpeg 5680FD25-6DBD-4B79-A7C2-840CF73E4996.jpeg A56CEE6E-3886-4AD3-AF84-A573D4E144CF.jpeg

「国木田独歩の詩碑」説明板。
5266D3CC-7E33-4C89-A95C-DA492886D0B5.jpeg

   国木田独歩の詩碑
 この詩碑は、昭和二十六年(一九五一)十一月三日文化の日に独歩顕彰会の有志によって建立されたものである。
 独歩は、明治四年(一八七一)七月十五日 国木田専八の子として千葉県銚子市にて出生した。幼名は亀吉、独歩は筆名である。
 明治九年、父が職を山口裁判所に奉ずるに及んで、一家は山口・萩・広島・岩国などへ転居した。十九歳のとき、哲夫と改名する。
 明治二十四年、二十一歳のとき東京専門学校を退学し、一家の居住する麻郷村(現 田布施町)に帰り、吉見家に寄寓し修養に努めると共に多感重厚な詩情を培った。
 また、隣村の麻里府の浅海家に仮寓し、近くの石崎家にしばしば出かけ、初恋の人、石崎トミと出会う。そしてこれらを背景にした「酒中日記」「帰去来」「悪魔」など多くの作品を残している。
  
  なつかしき わが故郷(ふるさと)は何処(いずく)ぞや
  彼処(かしこ)に われは山林の児(こ)なりき
  顧(かえり)みれば 千里紅山(こうざん)
  自由の郷(さと)は雲底(うんてい)に没せんとす
    「山林に自由存す」より

 明治四十一年六月二十三日、神奈川県茅ヶ崎にて逝去する。
 享年 三十八歳
        田布施町教育委員会



詩碑は、以前は麻里府海岸にあったようですが、今は、田布施町麻里府公民館の敷地にあります。
21F15E50-470B-4746-8BFB-B54A6AA3A314.jpeg


馬島ぴかぴか(新しい)
6629F9E9-0D35-4D80-A9B6-208482F71FA3.jpeg

 馬島は、田布施町の麻里府海岸から、南の海上1kmに浮かぶ、面積0.7平方キロメートル、周囲5.8km、人口約50人の小島で、瀬戸内海国立公園の島々のひとつです。
〜島名の由来〜
 昔、周防の国(現在の山口県東部)の島々では、さかんに馬牧・牛牧が行われていたようで、古い文献にそのことが記されています。
 馬島と隣の佐合島(平生町)は、今よりずっと接近しており、一様に「馬かい島」と呼ばれていました。しかし、地殻変動によって距離が離れ、やがて佐合島に人が住み着き、馬島だけに馬牧場が残りました。そして、いつしか「馬かい島」が訛って「馬島」になったと推察されています。
田布施町HP「馬島はどんなところ」より抜粋)

(略)馬島はその田布施町に属し、東隣の平生町との境を流れる田布施川の河口にある麻里府港から南へ1.5kmの海上に浮かぶ。
平安時代に馬の放牧地として利用されていたことから“馬飼い島”と呼ばれ、後に馬島となった。文治2年(1186)以降に本格的に開拓が始められ水軍の拠点になっていたこともある。
日本の島へ行こうHP「馬島」より抜粋)


B09839F8-6CB3-4892-A248-708461E84A63.jpeg

馬島は、独歩が仮寓していた麻里府浅海家や、しばしば出かけた近くの石崎家から、その美観を一眸することができたそうです。

B6DF8A6E-E430-4776-88D5-EE972F6A1E77.jpeg

独歩は『欺かざるの記』「明治二十七年十二月二十一日」に次のような句を詠んでいます。

馬島にて
 嶋蔭や時雨れて落ちし三日の月



『明治廿四年日記』の「五月」に馬島辺りで遊んだことが記されています。

日曜十日 此の日はめばる釣に連(行)く可しとの事故、父及余と弟と三人午前八時前より外出、某所に舟に乗じ馬島辺を終日遊び暮す日全くくれて帰宅、同伴者ハ余等の外に船頭共に四人あり凡て七人なり、めま(ば)る釣と称すれども舟遊なりめばるは殆んど釣らず薄暮少しつりたり

6A61CF84-A56B-4255-9394-1922BD7AE4AB.jpeg

馬島は、1902(明治35)年に雑誌『文芸界』11月号に発表され、1906(明治39)年3月に東京の出版社左久良書房から出版された短篇集『運命』に収めらた小説『酒中日記』の舞台です。
『少年の悲哀』や『帰去来』のように美しい瀬戸内の情景が描かれてはいませんが、東京という場所、教師(校長)という職務、「家」という制度に対する「ユートピア」として描かれています。

馬島で私塾を開き、気楽な生活を送る大河今蔵が書いた「日記」、そこには、五年前の不幸で悲惨な出来事が綴られていて、それを読んで公開した記者の「付記」から構成されています。

五月三日(明治三十〇年)
「あの男はどうなったかしら」との噂、よく有ることで、四五人集って以前の話が出ると、消えて去(な)くなった者の身の上に、ツイ話が移るものである。
 この大河今蔵、恐らく今時分やはり同じように噂せられているかも知れない。
(略)
まさかこの小ちっぽけな島、馬島という島、人口百二十三の一人となって、二十人あるなしの小供を対手(あいて)に、やはり例の教員、然し今度は私塾なり、アイウエオを教えているという事は御存知あるまい。無いのが当然で、かく申す自分すら、自分の身が流れ流れて思いもかけぬこの島でこんな暮(くらし)を為るとは夢にも思わなかったこと。
(略)
「いったいこの男はどうしたのだろう、五年見ない間(ま)に全然(すっかり)気象まで変って了(しま)った」──。
(略)
ああ今は気楽である。この島や島人しまびとはすっかり自分の気に入って了った。瀬戸内にこんな島があって、自分のような男を、ともかくも呑気に過さしてくれるかと思うと、正にこれ夢物語の一章一節、と言いたくなる。
(略)

五月六日
(略)
 さても気楽な教員。酒を飲うが歌おうが、お露を可愛いがって抱いて寝ようが、それで先生の資格なしとやかましく言う者はこの島に一人もない。
 特別に自分を尊敬も為(し)ない代りに、魚(うお)あれば魚、野菜あれば野菜、誰が持て来たとも知れず台所に投(ほう)りこんである。一升徳利をぶらさげて先生、憚(はばか)りながら地酒では御座らぬ、お露の酌で飲んでみさっせと縁先へ置いて去(い)く老人もある。
 ああ気楽だ、自由だ。
(略)
自然生(じねんじょ)の三吉が文句じゃないが、今となりては、外に望は何もない、光栄ある歴史もなければ国家の干城たる軍人も居ないこの島。この島に生れてこの島に死し、死してはあの、そら今風が鳴っている山陰の静かな墓場に眠る人々の仲間入りして、この島の土となりたいばかり。
 お露を妻(かか)に持って島の者にならっせ、お前さん一人、遊んでいても島の者が一生養なって上げまさ、と六兵衛が言ってくれた時、嬉しいやら情けないやらで泣きたかった。
(略)


お露は児のために生き、児は島人(しまびと)の何人(なんぴと)にも抱(いだ)かれ、大河はその望むところを達して島の奥、森蔭暗き墓場に眠るを得たり。



主人公の大河今蔵は、小川今蔵の名前を拝借しています。
お露は、『帰去来』の露子と同様に、石崎家の長女「しも」がモデルだといわれています。

お露は美人ならねどもその眼に人を動かす力あふれ、小柄こづくりなれども強健なる体格を具そなえ、島の若者多くは心ひそかにこれを得んものと互に争いいたる


独歩は『予が作品と事実』に次のように記しています。

  ◎酒中日記(「運命」に在り)
はチヨツとしたことヒントが基になつた作物(さくぶつ)で、此一編に記述せる事は悉く余の作(こしら)へた事である。主人公の小学校々長に似た実在人物及び小学校新築という事実に触れて、それが基となり余の想が出来たので、実際の小学校々長は今も健在である。校舎は早く落成して今は多数の児童を収容して居る。


また、『病床録』「第四 芸術観 余の作品にモデルなきはなし」で、自己の心理体験を表現したものと言っています。
病床録 余の作品にモデルなきはなし (2).jpeg
『病床録』(国立国会図書館蔵)

『酒中日記』にモデルあるは勿論なり。余の作品にしてモデルなきは殆んど無し。嘗て緊迫して原宿にありける際、彼の主人公の如き小学校教師を知れり。酒屋の隠居、学校の改築寄附金募集総て事実なり。唯余はこの小学校の性格に配する半ば自己の性格を以つてせり。
 作中金を拾ふ條下を描ける動機は、その前、霞が岡に逼塞せる頃の実歴譚なり。一夜金策尽きつ茫然として青山の原を家に帰へる時、偶と心頭に逢着せる問題は、今茲に数百金容れたる財布を拾ひ得ならば、今の余は如何に処すべきかの問題なりき。拾得して私かに消散するべきか、将た落したる人を尋ねて返すべきか、余は事実その二途に迷はざるを得ざりき。今にして想へば何んでも無き造作なきその些事が問題なりしなり。隠せ、返せ、と云ふその二つの私が声に迷はされて、余は実際その金を手にせるが如く心迷ひたり。余はそれを正直に描けるのみ。
『酒中日記』を書きたるは、その後鎌倉に寓居して、少し生活の余裕を見出る頃なり。窮迫当時は却って、『帰去来』『小春』の如きものを製作せり。



また、『帰去来』にも馬島が出て来ます。

同村の中に編入して有る馬島、麻里布(府)の岸から数丁を隔つる一小島で住民の七分の已(すで)に釜山仁川に住居して、今は空屋に留守居のみ住んで居る次第である。

馬島の其西端は磯より数十軒の間近に其翠松の枝を翳(かざ)し、


馬島に渡ってみたくなりました。
「国木田独歩の詩碑」のある田布施町麻里府公民館の近くの麻里府港渡船場から渡船「ましま丸」に乗って約8分で着くそうです。
藤坂屋・三角餅と『置土産』 @ 国木田独歩の足跡を訪ねてH [2020年08月26日(Wed)]
【前回の続き】

『置土産』のモデル藤坂屋本店に行きましたぴかぴか(新しい)
独歩の父母は、お店の隣、右側の建物に住んでいたといいます。
05E9FA6A-6BB2-44B3-BE19-7820228EFFB6.jpeg

『欺かざるの記』の「明治二十七年九月四日」にあるように、1894(明治27)年8月に、姫田の市村家の借家より柳井村第二百十六番屋敷の宮本の藤坂太一郎の借家に移りました。

吾が父母、吾が兄弟の未だ佐伯より帰省せざる殆んど一箇月の前姫田なる家を去りて、柳井町を少しく隔たりて海に近き宮本てふ処に転居したり。此の借家の本家は隣家の餅屋なり。
此の餅屋は宮本の三角餅とて名物なり。


欺かざるの記 明治27年9月4日@ (2).jpeg 欺かざるの記 明治27年9月4日 (2).jpeg
『欺かざるの記』(春陽堂 大正11)(国立国会図書館蔵)


「置土産」の碑
ADAF1CFA-E616-4CFB-84C6-77813CEED56C.jpeg 7B6D2B54-18A5-465D-947E-2E0894A6A73C.jpeg

「国木田独歩と藤坂屋」の説明板。
8F7C5A51-49B4-43BA-A642-3286882A826C.jpeg

  国木田独歩と藤坂屋
 この藤坂屋の向かって右側の建物は、明治の文豪国木田独歩一家が居住した家である。明治二七年(一八九四)父専八は家族とともに、柳井市姫田の市山医院からここに移住した。その頃独歩は大分県佐伯から引き揚げて上京するまでの1ヶ月間ここに住んだ。
 その頃の作品として『置土産』『欺かざるの記』などがあり、独歩にとって柳井は忘れがたいところであった。
 なお、この庭の「置土産」の碑は、独歩が岩国小学校在学のとき、同級であった代議士永田新之丞氏の揮毫によって、昭和四三年に建てられた。


『置土産』(『太陽』(1900(明治33).12)初出。『武蔵野』(民友社 1901(明治34).3)所収)は、三角餅の紹介で始まります。

 餅は円形(まる)きが普通(なみ)なるを故意(わざ)と三角に捻(ひね)りて客の眼を惹かんと企(たく)みしやうなれど実は餡(あん)を包むに手数のかゝらぬ工夫不思議にあたりて、三角餅の名何時(いつ)しか其の近在に広まり、此茶店の小さいに似ぬ繁盛、(略)

残念ながら、三角餅は、現在、製造営業は中止しているということですもうやだ〜(悲しい顔)
あの三角形の箱に入った三角餅をもう一度食べたいです。

続いて、当時の藤坂屋周辺の描写をしています。

 戸数五百に足らぬ一筋町の東の外(はづれ)に石橋あり。それを渡れば商家でもなく百姓家でもない藁葺屋根の左右両側(りょうそく)に建並ぶこと一丁ばかり、其処に八幡宮ありて、其鳥居の前からが片側町(かたかはまち)、三角餅の茶店は此外(このはづれ)にあるなり。前は青田、青田が尽きて塩浜、堤高くして海面(うみづら)こそ見えね、間近き沖には大島小島の趣も備わりて、まず眺望(ながめ)には乏しからぬ好地位を占むるがこの店繁盛の一理由なるべし。それに町の出口入り口なれば村の者にも町の者にも、旅の者にも一休息(ひとやすみ)腰を下(おろ)すに下ろしよく、ちょっと一ぷくが一杯となり、章魚(たこ)の足を肴に一本倒せばそのまま横になりたく、置座(おきざ)の半分遠慮しながら窮屈そうに寝ころんで前後正体なき、ありうちの事ぞかし。

八幡宮とは藤坂屋の傍の代田八幡宮のことですが、写真を撮り忘れてしまいましたもうやだ〜(悲しい顔)
作品の重要なスポットなのに・・・・・・。

登場人物は、油の小売り商の吉次・八幡宮神主の忰・三角餅屋主人の幸衛門夫妻、そして、

 店は女房まかせ、これを助けて働く者はお絹お常とて一人は主人(あるじ)の姪、一人は女房の姪、お絹はやせ形の年上、お常は丸く肥りて色白く、都ならば看板娘の役なれどこの二人は衣装(なり)にも振りにも頓着なく、糯米(もちごめ)を磨(と)ぐことから小豆(あずき)を煮ること餅を舂(つ)くことまで男のように働き、それで苦情一つ言わずいやな顔一つせず客にはよけいなお世辞の空笑いできぬ代わり愛相よく茶もくんで出す、

お絹・お常です。
『欺かざるの記』では、

此の餅屋は主人夫婦に老母一人、他に二男二女ありて七人の家族をなす、されど此の二男二女共に主人夫婦の子女に非ずして悉く甥姪に当るものなり。(略)一女は岩と称して十九歳、一女はきぬと称して十六歳。(略)
此の混合家族は不思議なる好人物の集合なり。(略)殊に主人夫婦はめづらしき好人物、主人は品格のある四十前後の丈夫なり。一家族悉く勉励なる労働者、


と、岩ときぬとあります。

茶店のことゆえ夜(よ)に入れば商売なく、冬ならば宵から戸を閉しめてしまうなれど夏はそうもできず、置座を店の向こう側なる田のそばまで出しての夕涼み、お絹お常もこの時ばかりは全くの用なし主人の姪らしく、八時過ぎには何も片づけてしまい九時前には湯を済まして白地の浴衣に着かえ団扇を持って置座に出たところやはりどことなく艶かしく年ごろの娘なり。

お店の前にあった立派の藤棚は、道路拡張のため取り除かれましたが、藤坂屋の対面の一角には、藤棚が復興され「置土産」の石碑があります。登場人物たちが置座を持ち出し、夕涼みをしながら語り合い、「置座会議」をしたのは、もしかしたらこの辺りだったのでしょう。
『欺かざるの記』でも、密かに恋心を抱いたのではないかと推察される表現があります。

此の如き家族を本家とし隣家となす事ゆゑ、吾たちまち交を結びぬ。夏の夕暮吾は談話の主人となりぬ。盆踊は二女と共に見物したり。
若き男女の間には言ふに言はれぬ縁を来たすものなり。其は明白なる挙動に現はれずして一言のうち一笑の際に己に永久の涙を價ひするの縁あらしむ。


『置土産』を読むまでは、「置土産」というのは三角餅のことだと思っていましたが、実際は、軍夫を思い立った吉次がせめてもの置土産と買い求めた鼈甲(べっこう)の櫛二枚のことでした。
ですが、なかなか打ち明けられず、別れを告げることもできず、お絹お常に渡すことができず、

紙包みのまま櫛二枚を賽銭箱の上に置き、他(ほか)の人が早く来て拾えばその人にやるばかり彼二人がいつものように朝まだき薄暗き中に参詣するならば多分拾うてくれそうなものとおぼつかなき事にまで思いをのこしてすごすごと立ち去りけり。

『欺かざるの記』によると、実際に、独歩も置土産を渡そうとしたようです。

吾此の二女等と一度別れんか、決して何時遭ふとも期し難き互いの境遇なる事を知れり。
天地悠々として転じ、人生日月と共に逝く。相遇ふ何の縁、相知る何の縁、吾は彼女たちの恋愛の呼吸をさとりぬ。嗚呼これ可憐の極に非ずや。
せめてはと思ひ、ハンケチ二枚を求めてひそかに彼女等に送らんものと、一昨夜其の機をまちぬ。夜更けて機失す。
(略)

お常のモデルのきぬさんの談です。

来栖きぬさん談
「独歩さんは立派な青年でした。私が十四五歳位で書物には年齢と名前が反対にわざと書いてあります。独歩さんは廿三四頃よく東京から帰られ収二さんは一七八歳でした。小説にあるハンカチをもらったのは事実です。一家は藤坂屋の裏に居られ新宅藤坂(三角餅屋の東隣り)のさきの小路や、本家の店から出入りしていられました。」

(『独歩回想』(上杉久吉 柳井独歩会 昭和28.9.10))

小説では、名前は実名の岩は使われていないし、置土産はハンカチではなく櫛ですが、とにもかくにも、吉次と違って独歩はハンカチを渡すことができたようですね。『欺かざるの記』を読む限り渡せなかったと思っていましたが。

また、

永年の繁盛ゆえ、かいなき茶店ながらも利得は積んで山林田畑の幾町歩は内々できていそうに思わるれど、ここの主人に一つの癖あり、とかく塩浜に手を出したがり餅でもうけた金を塩の方で失くすという始末、俳諧の一つもやる風流気(ぎ)はありながら店にすわっていて塩焼く烟(けむり)の見ゆるだけにすぐもうけの方に思い付くとはよくよくの事と親類縁者も今では意見する者なく、

と描かれた幸衛門のモデル藤坂太一郎ですが、実際に俳句もし塩田に投資したりしていたとのことです。


藤坂屋のおもやは三角餅の本舗。当時は茶屋風の構えで店の半分は土間、左側が畳の店座敷で大きな台がすえて在り、其の上にガラスのフタをした、餅箱が並んで、紅白の三角餅が入れてあった。右側の土間や屋垂れにかけて縁台が二つ三つそれへ客が腰をかけて餅やうどんを食べるわけで、店の奥にある大薬缶にはいつも番茶が沸かされて居たものであった。(略)代田八幡宮に参詣した帰りには、必ず立ち寄って土産の三角餅を求めたことも当時のならわしであった。
(神田継治「柳井と独歩」(「柳井地方史の研究」(柳井市立図書館 昭和44.6.25))


「山口県柳井ブランド 藤坂屋本店の三角餅」というのがYou Tubeにあって、そこで藤坂邦子さんが話しているのによると、1805(文化2)年、藤坂金造さんが今までの丸型の菓子を三角に変えて売り出したそうです。元々は「三角(さんかく)餅」と呼ばれていましたが、明治28年と明治31年に62代村上天皇第三皇子具平親王の末裔の北畠姓村上兼助翁が来店し食したところ大変美味しかったので「「帝(みかど)餅」にしては?」と、提案しましたが、恐れ多いとのことで「三角」を「みかど」と読ませて「三角(みかど)餅」としたそうです。
視聴していて気になったことがあります。藤坂邦子さんの背景にある「帝餅」「三角餅」と書かれた看板に「藤坂太市郎」とありました。「太一郎」のことですよね。

返す返すも、藤坂屋の三角餅が食べらないこと、とても残念です。


【次回に続く】
佐川醤油店 @ 国木田独歩の足跡を訪ねてG [2020年08月25日(Tue)]
【前回の続き】

明治二十七年二月、独歩は柳井印刷所(柳井津第四百十六番、現在の古市佐川醤油店付近)の借用のため、佐伯より第二回目の帰省をこころみる。
(『国木田独歩―山口時代の研究―』(桑原伸一/著 笠間書房 昭和47.5.30)P.83)

独歩の初めて事業として柳井津印刷会社の借用の計画があった。独歩が佐伯にいたとき新事業によって一家の生計をたてようとした。たまたま独歩は柳井津第四百十六番に柳井津印刷会社があり、これに目をつけて借用したいと会社の庶務、会計係であった河井大祐に明治二十七年(一八九四年)二月二十六日に手紙を出して懇請した。
(『青年時代の国木田独歩』(谷林博/著 柳井市立図書館 昭和45.7.10))

白壁の町並みの一角に佐川醤油店はありましたぴかぴか(新しい)
このあたりでしょうか?柳井印刷所があったのは……。
90E31E94-7C1E-4DBC-99E8-33255B7B9EF9.jpeg 04243A21-989C-43BF-99B5-0B67C59CFA40.jpeg 0FCBEA5A-6CFC-4458-93A7-BEE953525964.jpeg 89C28F74-4EEA-4C93-83DC-1AD64AFEF6A6.jpeg 3253914E-27FA-494F-8675-DEC9FB463978.jpeg 3EBDBFDF-6816-4F0B-960E-DC158C2065AE.jpeg

『欺かざるの記』の明治二十七年二月二十七日には、

河井大助氏に発信す。印刷所借用の件相談、依頼するところありたり。

とあります。
そして、その河井大介宛の手紙には、

(略)吾か一家若し茲に柳井の地に業を得ば永く柳井の人となり及ばず乍ら土地の為にも幾分かの尽力致し得る事と存候(略) 謹言
    二十七年二月二十六日夜
      国木田哲夫拝
 河井大介様
 並び印刷処 貴下
 持主諸君


とあります。結局うまくはいかないのですが、もし、柳井印刷所を独歩一家が借り受けていたら、どうなっていたでしょうか?

そんなことを妄想しながら、白壁の町並みの散策を楽しみました。

白壁の町並み
DA746D9C-3E2B-483E-A58B-308C1C893C24.jpeg 155AB4B5-E8C6-4CCB-BD9C-15A66221D9EF.jpeg 柳井白壁町並み.jpg 31FC893E-F7FE-4B35-83D1-41613C9C5F9B.jpeg D5E27534-2BD0-46D6-AC81-D996808A75AB.jpeg 


掛屋小路と古い町割りの排水溝
499BBC0D-3B30-431B-A336-E02CBF3D96D3.jpeg 
3F64601C-AA3A-48B2-B26C-8A4F6BCC614C.jpeg 78238CF6-2F2D-41D9-92ED-DF314F15B195.jpeg 
60324370-2D78-4BA9-ABBA-4C3098CE53A5.jpeg


国森家住宅
柳井市柳井津金屋467。
9CE6B4ED-AECF-483C-95CC-287CCF81D0F5.jpeg 3E20D5D0-CB2A-41B0-9F6E-4D325B471267.jpeg 904CC3B2-5BE9-442E-A356-8E62E72A9653.jpeg 柳井 国森家住宅.jpg 柳井 国森家住宅2 (2).jpg 柳井 国森家住宅4.jpg 柳井 国森家住宅3.jpg


甘露醤油資料館「佐川醤油蔵」
柳井市柳井古市3708-1。
9ACFDAA4-2F1D-42C9-8D58-1A87A511B3BB.jpeg 
0C5023DE-3A62-4A54-9A82-22BB788A09B3.jpeg 
BEDF06FF-DACB-45BB-BC53-69A62BCFA43A.jpeg 

名水が飲めるようになっていました。
42BEFA2F-1ABC-49EA-A05A-3B6685E1EFC9.jpeg
 
7FDE9237-200E-4933-8D30-4A0521294ACA.jpeg 
44D9D217-E2D0-4BB7-B688-A7233EE70D11.jpeg 
D1F659DA-9CAE-4F93-ABBC-BDFCF5AFC845.jpeg 


やない西蔵
柳井市柳井3700-8(古市)。
柳井 やない西蔵 (2).jpg

大正時代末期に建てられた木造平屋建・白壁土蔵造りの建物で、1980年頃まで醤油蔵として使用されていましたが、1998(平成10)年に所有者より寄贈を受け、改修後、2001(平成13)年4月に複合型観光施設に生まれ変わりました。
金魚ちょうちん製作体験や柳井縞機織体験などができるほか、ギャラリ―として使われています。

9D5B1CE2-D3DF-4377-B465-79B5487626E7.jpeg 5EF6C0B7-1B8A-432A-8453-0751FE6D8182.jpeg


商家博物館むろやの園
柳井市柳井津金屋439。
柳井 商家博物館むろや2 (2).jpg 柳井 商家博物館むろや.jpg

江戸時代、西日本でも有数の油商であった小田家の屋敷で、「むろや」とは、の油商小田家の屋号です。古市、金屋と続く白い漆喰壁の町家の代表的なもので、鰻の寝床といわれる細長い敷地割になっています。南北に119mの奥行きがあり、屋敷面積は約800坪と国内に現存する町家の中でも最大級のものといわれています。
小田家住宅は町家は「商家博物館むろやの園」として公開されており、日常生活、農業、運搬、商業などの用具、文書などを展示しています。
県指定重要有形民俗文化財です。

柳井 商家博物館むろや3.jpg 柳井 商家博物館むろや4.jpg 柳井 商家博物館むろや5.jpg


マンホール
CA3F6761-3E5B-4555-8179-8A7400642B3F.jpeg 98EF4656-2076-44BC-962D-A3859C746585.jpeg


柳井市柳井津金屋447の藤坂屋白壁店を探しました。確か、JR柳井駅からまっすぐ歩いて、白壁地区への入り口辺りにあったと記憶しています。
国木田独歩の小説『置土産』の中に登場する柳井名物 三角餅(みかどもち)の藤坂屋さんが経営するみやげ物店でした。
こし餡を餅で三角形に包んだ三角餅を久しぶりに食べたかったのですが……。
ということは、やっぱり、藤坂屋本店に行かなくてはなりません。


【次回に続く】
しらかべ学遊館 国木田独歩展示室 @ 国木田独歩の足跡を訪ねてF [2020年08月24日(Mon)]
前回の続き

しらかべ学遊館ぴかぴか(新しい)
柳井 しらかべ学遊館.jpg

柳井市柳井津495番地(古市)にある、商家を改装した歴史民俗資料館です。
「柳井市古市金屋伝統的建造物群保存地区」内の西側に位置し、建物は江戸時代後期から明治時代初期の頃に建築されたと推定される白壁土蔵造りです。明治時代後期から油、呉服、繊維卸などの商家として、白壁の町並みに繁栄をもたらしました。
「曳家工法」により約1.3m後方に移動させ、軒を復元し、2004(平成16)年にオープンしました。

B578D14D-06E0-4ACC-B3B2-B6470BA81B17.jpeg

こちらにも、国木田独歩展示室がありますぴかぴか(新しい)

パネル展示「国木田独歩」
99371A11-D1BE-4887-B89A-524204768C8E.jpeg

 独歩は、父の転勤により4・5歳を山口で過ごし、12歳の時に、再び山口で小中学校時代を過ごしました。
 明治21(1888)年、東京専門学校(現 早稲田大学)に入学しましたが、学生運動に関係し、明治24(1891)年に学校を中退しました。
 山口に帰り、兵隊に入るための検査を受けて不合格となり、雑誌の編集や教員をして暮らしていました。明治27(1894)年に国民新聞社に入社。日清戦争の時に新聞記者として軍艦千代田に乗り込みました。
 独歩の家族は明治25(1892)年から2年間を柳井でくらしており、独歩は柳井を「国許」とよんで「帰国する」とか「帰省・帰村」などと表現していたそうです。
 その後、独歩は「国民之友」や「家庭雑誌」の編集をしながら執筆活動を続け、明治30(1897)年に処女小説「源叔父」を発表。明治34年、「武蔵野」で世に認められました。
 独歩の作品は、優れた性格描写と民衆の視点に立った社会批判を盛り込んだ作風が特徴で、「自然主義の先駆者」と称されています。


明治04年 00歳 旧暦7月5日、千葉県に生まれる。幼名 亀吉
明治09年 04歳 父が山口裁判所勤務となり山口へ移住。
明治11年 06歳 父が岩国区裁判所勤務となり岩国へ移住。
明治16年 12歳 父が山口地方裁判所勤務となり山口へ移住。
明治18年 13歳 山口中学初等科入学。
明治20年 15歳 山口中学制改革のため退学。
明治21年 16歳 東京専門学校(現 早稲田大学)英語普通科に入学。
明治22年 17歳 亀吉を哲夫と改名。
明治23年 19歳 父が柳井津区裁判所に転勤。(註:平生出張所勤務)
明治24年 19歳 東京専門学校中退。5月、熊毛郡麻郷村(現 田布施町)の吉見家の父母の許に帰省。
明治24年 20歳 8月、隣村の麻里府(現 田布施町)の浅海家に仮住まいし10月、田布施村に波野英学塾を開く。
明治25年 20歳 2月、独歩一家が柳井津金屋の堀江家に移る。4月、姫田川筋の市山家に転居(現独歩記念館)。6月、弟とともに上京。
明治26年 22歳 大分県佐伯町(現 佐伯市)の鶴谷学館教師として赴任。10月、父が定年退官。
明治27年 22歳 父のため柳井で印刷業を計画、失敗。
明治27年 23歳 8月、鶴谷学館を辞職、柳井村宮本の藤坂屋に仮住まい中の父母の許に帰り、「置土産」のモデル等と会う。9月、柳井を去って上京。
明治41年 36歳 6月23日、結核のため神奈川県茅ヶ崎南湖院にて没す。



年譜で、1点気になりました。
明治25年2月、独歩一家が柳井津金屋の堀江家に移る。」とありますが、堀江家を借りたのは、明治24年12月で、明治25年2月に転居したのは山根の神田の借家です。
1891(明治24)年10月27日付で、独歩の父は、柳井津区裁判所平生出張所から柳井津区裁判所検事局に転勤を任じられ、着任したのは12月18日でした。
また、「明治25年6月、弟とともに上京。」とありますが、「5月」という説もあります。


パネル展示「柳井地方と独歩」
11E82951-DFFF-42EC-A6D9-A9B032FF8EA2.jpeg 
F5088DCE-E2B9-499F-91CF-53896CF52C7C.jpeg2A80704D-05A1-47DF-834A-A5E7A555456C.jpeg 
458C0027-5626-4941-99A2-B5885A30B399.jpeg D2C17C44-290C-49D7-AD0F-744EDAE0A783.jpeg


写真
明治25年2月7日撮影したもので、左は吉見ハルです。
97E2AFA5-6D9E-46C9-A3BD-138A3B57E20D.jpeg

その裏面には、〈明治廿五年二月七日、国木田哲夫、吉見ハル、柳井玉光堂〉と独歩自筆の署名がある。柳井玉光堂は柳井姫田にあって、独歩らの引っ越した山根の借家にはごく近いところにあった。
(『国木田独歩―山口時代の研究―』(桑原伸一/著 笠間書房 昭和47.5.30)P.69〜70)


写真キャプション「柳井在住時代に近所の少女と撮影」。
「柳井在住時代に」とありますが、この写真が撮影された明治25年2月7日にはまだ独歩は柳井に転居していませんでした。
また、「近所の少女」とありますが、一緒に写っているのは「吉見ハル」(後に有田久治と結婚し、東家に入り、「東ハル」となる)であり、独歩が寄寓していた吉見家のミチ(早世)、チヨ、ハル、アヤの四姉妹のうちの三女です。

東ハルの談話によると、二月七日に独歩につれられて人力車に乗り柳井津姫田の玉光館に写真を撮影にいったそれは近く吉見家と別れるので記念にということであった。写真の裏に「〈明治廿五年二月七日 国木田哲夫 吉見ハル 於柳井玉光堂(館の誤り)写」と署名している。
(『青年時代の国木田独歩』(谷林博/著 柳井市立図書館 昭和45.7.10))

独歩の『欺かざるの記』の「昭和27年8月24日」に

「吾が知る少女の事を記す」てふ文を草す。家庭雑誌に投せんとてなり。吉見春嬢の事也。

とあり、吉見ハルのことを書いた小品があります。
『家庭雑誌』第4巻37号(明治27年8月24日)に署名「てつぷ」で発表し、改造社版全集第4巻に所収されました。


  吾が知る少女の事を記す
 吾が知る家に三人の少女あり。長女は今年十六歳、次女は十二歳、末は八歳。今茲に記さんと思ふは次女が事なり。次女名を春と云ふ。姓は之をかくし置かん。
 たゞそれ少女が事のみ。別だん面白き事のあるにあらず。たゞ此の少女、其性質いかにも美はしく、逢ふて見る毎に、語る毎に、共に戯るゝ毎に、いたく吾を動かすところあればなり。
 少女が家は大体の地勢より言えば海浜なれども、実際は海より十数丁を隔(へだた)りたる小丘起伏の木陰にあり。吾が家族かって此家族と同居し、いと親しき交りあれば、少女等も吾を呼びて「兄様」といふ。此家勿論近在の富家なり、地下のものは少女等を呼びて皆な嬢様といふ。
 われ常に思へらく春嬢は決して地上のものに非ず、山林の女神殊に朝な/乀露をあつめて此少女が心に吹き込みしならめと。玲瓏(れいろう)として玉の如く清し。少しも虚飾といふを知らず。野の百合花の如く自然そのまゝなり。凡(すべ)ての少児は悉く無邪気なり、されど此少女に至りては単に無邪気といはんよりも、一種口にも言ひ難き品性をそのふ。
(略)
 此少女今は山間寂寞の境に生長しつゝあり。此天使の如少女が五年十年の後如何、五十百年の後はいかなる可き。


独歩レリーフ
独歩の二男 国木田哲二作。
1AE39BD9-DCB0-42DB-82AD-BEB4E379D911.jpeg 

22歳。
明治二十五年二月 柳井に於ける国木田哲夫
D2A6E048-A6D4-43E2-8475-A4C3BA72F8A1.jpeg

36歳。
明治四十一年六月 茅ヶ崎に於ける独歩
B30B4A26-8017-4969-90B8-56872D8D943D.jpeg


独歩自筆日記
DD2732F8-D062-491D-976F-E79C5A9B29D1.jpeg 
733C5425-75C5-4B73-B79F-9B4445886F27.jpeg


初版本『独歩全集』(前編)
 発行:明治43年6月16日 博文館
 価格:2円(現在の価格で約2,200円)
3F12E97C-94A8-47F9-8126-CBD0D8DE53F7.jpeg


初版本『独歩全集』(後編)
 発行:明治43年8月31日 博文館
 価格:2円(現在の価格で約2,200円)
BEA0E63C-4E0D-4FA9-9196-CB29EF364C47.jpeg


国木田独歩曽遊の地
DC921495-CDC3-48C8-A1DC-352B67D840D1.jpeg


茶碗
FBD8029F-8ADA-4208-923C-E2421A162077.jpeg



学習室には、国木田独歩関係の書籍も集められていました。
時間が許せば、手に取ってゆっくり読んでみたいです。
177127CA-B927-47DB-BB3F-39F492248E49.jpeg



壺庭に咲いていた花。
何の花でしょう、とても綺麗でした。
93E70D65-6B8D-4236-9146-A5CE2F38BFDE.jpeg


【次回に続く】
町並み資料館 @ 国木田独歩の足跡を訪ねてE [2020年08月23日(Sun)]
前回の続き

「柳井市古市金屋伝統建築物群保存地区」のプレート。
DF6B19E1-60B6-446A-AD3C-3465F9C0257A.jpeg 08FA1129-4B46-4A08-B5B4-95EE25D2CA7C.jpeg 柳井白壁町並み.jpg


町並み資料館(柳井ふれあい館)ぴかぴか(新しい)
5AF2FA6C-4DF2-4E72-9FB1-4F44065EA041.jpeg

柳井市町並み資料館(松島詩子記念館)は、周防銀行本店として、長野宇平治の高弟 佐藤節雄の設計により、1907(明治40)年に建てられました。
周防銀行はその後合併を重ね、最後は、山口銀行柳井支店となりました。
(株)山口銀行から平成10年末に柳井市に寄贈され、平成13年から、1階は「町並み資料館」として、また、2階は柳井市出身の歌手 松島詩子さんの「松島詩子記念館」として公開されています。
明治期の銀行の重厚な姿を今に伝える洋風建物の一つとして、国の登録有形文化財となっています。

86F62006-9FA8-4B0E-A5A1-D3ED620D4381.jpeg

「国木田独歩ゆかりの地」プレート
9807C353-51BA-4437-887E-CD5924D9B877.jpeg

明治の文豪、国木田独歩が柳井で過ごしたのは、明治25年から27年で、独歩が20歳から23歳の頃にあたります。多感な青年時代を過ごした柳井地方は独歩にとって第二の故郷であり、かつ独歩文学の揺籃の地でもありました。柳井地方を舞台にした作品も数多く残されており、光台寺周辺を散歩していた時によく出会った美しい少女をモデルにした名作『少年の悲哀』や『置土産』などがあります。独歩記念館として保存されている独歩旧宅のほか、「読書の戒」をはじめとした文学碑も、柳井での見どころのひとつとなっています。

資料館玄関の左右には、独歩ファン必見のものが!
57A1525B-36E8-48CD-9B1A-F0EEEBC6EE48.jpeg

国木田独歩の像
0C87D220-8B8D-451E-BAA3-78B314C6E686.jpeg 柳井 国木田独歩像 (2).jpg 1EE1C207-D476-4086-A1E4-473454C5DD2F.jpeg

  国木田独歩の像
   山本辰昭・作
 明治の文豪・国木田独歩(1871〜1908)は、20歳から23歳までの多感な青年期を父母とともに、ここ柳井に過ごしました。「柳井」を国許と呼び、帰国するとか、帰省するなどと記しています。
 数ある作品の中で、短編「少年の悲哀」「置土産」は柳井での生活がモチーフとなっています。 
 ここに建つ像は、22歳の頃の写真をもとに制作したものです。銘板の「山林に自由存す」は、独歩の直筆を複製し刻んだものです。



台座「山林に自由存す」
BADCB5E1-7712-4CD0-9B41-56E22681E3EA.jpeg

山口市亀山に建つ「山林に自由存す」詩碑と同じ字ですね。
F4C5A809-7983-4729-8253-6F0C538FB24E.jpeg

 
文学碑「読書の戒め」
FA463C6C-8DB9-4C75-A9D5-B57B247566C5.jpeg

独歩が、田布施町麻里布の浅海家に仮寓していた1891(明治24)年、近所の石崎ゆり・みねの二少女に「よく勉強するように」と書き与えたのが『読書の戒』です。

独歩が浅海家にいたころユリは小学校三年生、ミネは一年生であった。ある日独歩は次の文章を書いて与えた

  読書の戒
書を読むは多きを貪るにあらず 唯章句熟読を要す 静思すること久しければ義理自然に貫通す

 二人とも小学校から帰ると独歩のいる部屋に入り込んで遊んだ。そのためよく勉強せよといって書いてくれたのではないかとユリ・ミネさんが語っていた。二人とも大切にもっていたが、浅海家の火災やユリの朝鮮引揚げのときに紛失した。

(『青年時代の国木田独歩』(谷林博/著 柳井市立図書館 昭和45.7.10))


資料館の受付の人に聞きました。
「独歩旧宅に行ってきたとこですが、他に、独歩関係のみどころありますか?」と聞いたところ、
「ああ、市山医院のところね・・・。独歩一家は、引っ越しを繰り返しているし・・・・・・。特に、ないですね。」
との言葉。盛り上がっているのは私だけでしょうか。でも、パンフレットはゲットしました。
74CCF8AE-6D78-42F3-AF01-FBA1F7FDB3E3.jpeg

受付の人は素っ気なかったのですが、ここ、柳井市町並み資料館は、もともとは、周防銀行本店であり、それ以前は、独歩の両親が麻郷から柳井に転居して初めて借りた家が建っていた場所です。
1891(明治24)年12月のことです。

国木田家が初めて借りた家は、柳井津町第四百三十五番地(現在の金屋町の山口銀行柳井支店)の敷地内であった
(『青年時代の国木田独歩』(谷林博/著 柳井市立図書館 昭和45.7.10))

父専八は、独歩と収二はそのまま浅見家に残し、妻まんと二人で柳井町本町の堀江貞助(通称平貞、柳井津町第四百三十五番)方の別宅(現在の金屋町の山口銀行柳井支店の敷地内)に寄遇する。
(『国木田独歩―山口時代の研究―』(桑原伸一/著 笠間書房 昭和47.5.30)P.68)

平貞の店がまえは、暖簾をのき先に下げた昔風の店、右側の土間の奥へ通り抜けると誓光寺の麓に近く部屋があった。この部屋の前は中庭で、小池もあり、石のそり橋が架けられていた。部屋は八畳、六畳の二間、前廊下があって、なかなかこった建物であった。専八氏はこの部屋を借りて住んでいた。
(『柳井と独歩』(神田継治/著 昭和32.2))(神田継治「柳井と独歩」(『柳井地方史研究』柳井市立図書館 昭和44.6.25)))


後ろに見えるのが誓光寺
D938D972-E992-43EF-97BA-125764EB9781.jpeg AC5C9796-BEBB-4D71-B483-007C701D7CA4.jpeg


1892(明治25)年2月下旬頃、独歩の両親は柳井津町山根 神田静治の借家に転居しました。

弟収二と共に両親の許柳井村第一千四十一番地(山根)の神田静治(現原田一恵住居広さ約十九・三坪)に移り、
(『国木田独歩―山口時代の研究―』(桑原伸一/著 笠間書房 昭和47.5.30)P.69)

ということから、ここに独歩の両親は約3ヶ月暮らしたことになります。


【次回に続く】
国木田独歩曽遊の地 @ 国木田独歩の足跡を訪ねてD [2020年08月22日(Sat)]
前回の続き

国木田独歩記念館として残っている独歩旧宅はもともとは、丘のふもとの市山家の敷地内に建っていました。ここから光台寺への緩やかな坂道は、独歩が好んで散策した道で「独歩曾遊の道」「独歩の散歩道」といわれていますぴかぴか(新しい)
DFED9ADA-3F0C-44F1-A440-C3E0B217B8CA.jpeg

光台寺の中国風の楼門が見える辺り、山門手前にいぬいとみこ『光の消えた日』の文学碑が建てられています。
A767C0D4-64DF-405D-8E5A-2464867CD107.jpeg 

児童文学作家 いぬいとみこは、昭和19年から昭和22年までの3年間柳井に居住し、柳井幼稚園、柳美幼稚園、ほまれ保育園(ほまれ園)に勤務しました。
碑には『光の消えた日』の一節が刻まれています。
EA881E90-6F31-4935-AC94-F7A6F6C92A6B.jpeg

左側の松林の上に、そりのついた瓦屋根のやぐらをのせた、白いしっくい塗りの山門が見えた。小さいながら古風なつくりの山門は、あたりからくっきりと切りたって見える。光台寺の古風なこの山門を見ると、朋子は‥‥

『光の消えた日』(いぬいとみこ/著 長新太/絵 岩波書店 1978)
光の消えた日.jpg

光台寺の山門。
FF4769C0-23DD-4F82-A096-6A77AB92BFA2.jpeg

光台寺の境内は今は幼稚園になっていて、山門傍には「柳井幼稚園」という看板が立っています。
そのため中は一般には公開されていませんが、楼門までは自由に見学ができます。

楼門の右上横に「國木田独歩曽遊の地」碑が建っています。
CC3C5EAB-25EB-43AE-82B3-276544E44E76.jpeg 70CED2F2-C997-4E0A-93C1-0421AA117214.jpeg 柳井 国木田独歩曽雄の地 (2).jpg

1951(昭和26)年2月に建てられ、寄付者30名の氏名が刻まれているそうです。

 柳井獨歩記念碑 昭和廿六年上杉玉舟の奔走で、独歩が好んで逍遙した光台寺境内、楼門わき小丘に建立、仝三月廿五日除幕式並に懇談会を行うた。「国木田独歩曾遊之地」の碑文は時の町長窪田秀夫氏が揮毫し、建立協賛者並に出席者は左記諸氏。
市山正
(略)
(『独歩回想』(上杉久吉 柳井独歩会 昭和29.6.3))

光台寺の瓦。
3EB9F6E7-E8B6-4B01-84F5-5288E5B3A17A.jpeg

 このころ(註:神田家の借家に入った頃をさす)の独歩について専八と柳井津区裁判所で席を並べていた松野幹は、上杉玉舟の「国木田独歩青春像」(昭和三十四年七月)において「独歩は柳井に移り神田静治の借家で四・五人の子供に英語を教えたり、麻郷や麻里府を往復したり、読書や散策に明け暮れていた」と談話が残っている。松野家のすぐ上に国木田家があったので日頃顔を合わせて事情に通じていた。
(『国木田独歩――山口時代の研究――』(桑原伸一 笠間書院 1972(昭和47).5.30)P47〜48)
 
 この家(註:神田家の借家をさす)は現存していて建物は十九、三坪で町はずれの見晴らしのよいところである。
(『国木田独歩――山口時代の研究――』(桑原伸一 笠間書院 1972(昭和47).5.30)P47)

 独歩が神田の借家で近所の子供に英語を教えていたころのエピソードとして、市山正の談話が残っている。彼の塾生がすぐ丘の光台寺にゆき垣にいたずらをした。これを住職の松井雪渓が見つけて叱りつけた。これを聞いて独歩は馳せつけて住職と大声をあげて論争したという。松井雪渓は漢学塾で柳井の青少年を指導した教育家であり、独歩はクリスチャンでその論争は市山正の印象として強く残ったのであろう。
(『国木田独歩――山口時代の研究――』(桑原伸一 笠間書院 1972(昭和47).5.30)P48)

上杉玉舟の筆塚もありました。
C926D82E-E473-46F8-B61E-5E25E12CF65B.jpeg

光台寺の楼門。
0367BA88-6843-49AD-A6C2-6EB9119E4AAC.jpeg 柳井 光台寺 (2).jpg


妙見社(みょうけんしゃ)。
独歩は、光台寺の楼門をくぐり、お寺から上に少しのぼったところにある妙見社にお参りをし、そこから望める柳井の町並みや、瀬戸内海のすばらしい景色を満喫していたそうです。
771F1C15-6DE7-4F06-B6F1-79284B831FAD.jpeg

この妙見社への散歩の途中、よく出会った美しい娼婦がいました。
独歩は『病床録』の中の「第四 芸術観 『少年の悲哀』中の娼婦」で、

 『少年の悲哀』は事實譚にあらず、作中の娼婦も若者も共に架空の人物なり。されど娼婦だけは全くモデルなきに非ず。余が二十一二の頃豊後より東京に來る時なり。柳津に暫く滞在して、某の山に上るを日課としぬ。頂上祠あり。風光極めて好く、柳津の町を瞰下(かんか)す可し。而して余は殆ど毎朝の如く此山上にて會ひたる女あり。 十六七の、顏蒼褪めて背のすらりと高き少女なりき。友禅模様を置ける金巾の小袖を検束(だらし)なく着たる、昨夜(よべ)の白粉が襟の邊に残り居れる、無論いかゞはしき種類の女とは一目に知れたれど、面長にて睫毛の長き實に印象の深き顔の女にて、何時も御堂の白壁にもたれて、便りなき目遣いに凝ツと向かふを見詰めて立つて居るなり。 
 その女、余はそれ限り會はず。而も、名も所も素性すらも好く知らぬ其女の事が気になりて、何時までも忘るゝこと能(あた)はざりき。今にても回想すれば、其剃髣髴として、言い難き哀愁を覚ゆ。知れぬ者なら尋ねて話して見たいやうな気もするなり。後幾度かその女を描き見んと思ひしもの成らず、偶々『少年の悲哀』を稿するに当り、その時の感じを表はさんと力めたり。


病床録 表紙 (2).jpeg 
病床録 少年の悲哀中の娼婦 (2).jpeg 病床録 少年の悲哀中の娼婦A (2).jpeg
『病床録』(『独歩叢書. 第10 (独歩病床録)』(新潮社 大正14)(国立国会図書館蔵) 

と回想しています。

平生湾両岸に舞台を移して描いた作品が『少年の悲哀』(こどものかなしみ)といわれていますが、『病床録』では、

『少年の悲哀』中の叙景は、余の眼に熟したる 柳津の町を書けるものなり。

と語っています。

『少年の悲哀』の冒頭文から

 少年(こども)の歓喜(よろこび)が詩であるならば、少年(こども)の悲哀(かなしみ)もまた詩である。自然の心に宿る歓喜にしてもし歌うべくんば、自然の心にささやく悲哀もまた歌うべきであろう。


【次回に続く】
国木田独歩旧宅と月琴 @ 国木田独歩の足跡を訪ねてB [2020年08月21日(Fri)]
前回の続き

国木田独歩旧宅へ向かいます。
D671C3C2-06A0-45DC-B108-3B636BB5C38F.jpeg

1B6733A2-55F5-470E-8F83-22C75ED05AB8.jpeg

E9AABD38-6444-4F5F-BA1B-E82C999830DD.jpeg


独歩碑」の表示ぴかぴか(新しい)
3341F0A4-26F5-4D25-9EAB-E4F81440892F.jpeg 
203EB08F-411C-45B3-AF16-8AECECBA279E.jpeg

国木田独歩旧宅」の表示ぴかぴか(新しい)
こちらからは内部を見学することはできません。
B64A2098-FE3C-48A3-B5CB-92D7038396AA.jpeg

(明治二十五年)四月になると、専八の知人で当時柳井小学校の教師をしていた市山増太郎(柳井村第四百八十一番屋敷)が、国木田家のために新市一丁目にあった自分の借家を邸内に引き入れて提供する。当時の市山家にはタキ・ユフ・正の姉弟があって独歩兄弟とは格別の中であったという。この市山家は現在姫田にある市山医院のことで、その一隅の丘には、昔のままに借家の一部(六畳・四畳の二間)が建てられており、当時の面影が偲ばれる。
(『国木田独歩――山口時代の研究――』(桑原伸一 笠間書院 1972(昭和47).5.30)P70)

独歩之碑ぴかぴか(新しい)
906587EB-4058-4061-8F94-A5B69EBC0CE9.jpeg 025989E1-7872-4010-B8C0-93F836E7018F.jpeg F8CBB8E3-D256-4C30-9B7C-34E093574144.jpeg

市山正氏談(柳井町姫田の医師)
「私の所に家族がおられたのでよく知つております、両親はお酒がすきだったが独歩は端正で実にきちんとした男でした。私より六つ七つ年上でよくかわいがり光台寺や大師山につれて行つてくれました。手紙のやりとりをしておりましたが例の千代田艦の「愛弟通信」の頃には巻紙に美文でたよりをくれたのですが、今は独歩の書いたものは一つも残っておりません(略)

(『独歩回想』(上杉久吉 柳井独歩会 昭和29.6.3))

71CA2B04-9B3A-4D9F-BD34-39AFA2564AF6.jpeg 3A3BB536-DB3F-4D9C-A021-20E246DFE9D0.jpeg

 国木田独歩は明治二十五年頃父母と共にしばらくこの地に居住した。
 独歩旧居を記念して市山正は生前碑文を揮毫し妻たきが茲に建てた。
   昭和四十五年五月



独歩旧宅」の表示ぴかぴか(新しい)
いったん道に出て、こちらから入ります。
FF0B8DF3-3641-4891-9816-BE9083F82735.jpeg

国木田独歩旧宅は、国木田独歩の一家が、1892(明治25)年〜1894(明治27)年の間住んでいた家です。
市山家の初代 増太郎(当時柳井小学校の教師)は、自宅の庭のまん中付近に国木田家のために家を新築し貸し与えました。
もともとは、この建物がある丘のふもとにあった市山家の敷地内に建っていました。
その後、市山家は病院となり、大正時代に入って病室が建てられる際に、現在建つ丘の上に移築されました。
今は、柳井市の所有となり修復ののち国木田独歩記念館として保存されています。 

国木田独歩記念館ぴかぴか(新しい)
柳井 独歩旧宅 (2).jpg 柳井 独歩旧宅2 (2).jpg 5BD0D867-4290-4F77-916F-3BD6A16269A5.jpeg

 当時は姫田川の橋を渡ると一間幅の道があった。その右側は畑、この畑の中央に一坪以上にはびこった大きな山椒の木があった。左側は生がきに囲まれた市原家の花庭で、中に小さな池もあったのが忘れられぬ。道を十間ばかり行くと右上の家を国木田で借りていたのであった。部屋と呼ばれていたその家の前はあまり手入れがして無いので生がきが伸びて茂ったようになり、入口のあたりが小暗い感じであったことが思い出せる。道の右側、つまり国木田の前にある一畝そこそこの木のある畑は専八氏が借り受けて、休みの日には畑の手入れを楽しんでいた姿が思い出せると市山さんが話された。部屋は木造かわらぶき平屋建、向って左側に入り口があった。格子戸をあけると土間で前方は台所に通じ、上がり口が右側の三畳敷でそれから六畳、三畳、四畳半の三間であった。六畳には押入れがあり一番奥の四畳半が床のある座敷、その南側の廊下を右にまわれば便所と言う具合で、二・三人の家族には恰好に造られてあった。それも道理でこの家は国木田家の人達を入れるために市山でわざわざ建てた言われているのだから――。この家の建築費に六十円かかったと言うことも後で話の種になったが、何としても今日から見て想いも及ばぬ物価である。
 道を上って左上が市山のおもや、その間には小広い空地があった。部屋の方に寄って奥角に夫婦つるべで酌む井戸があったことが、印象に残っている。この井戸は国木田家の炊事に使っていたものであった。

(神田継治 「柳井と独歩」(『柳井地方研究』(柳井市立図書館 昭和44.6.25)))

F3808158-C8C3-4316-97C4-66C80FE18ACA.jpeg

国木田独歩旧宅には独歩ゆかりの品などが展示してあり、随時見学が可能ですが、建物の外部から見学なので、時間によるとは思いますが、ガラス戸が邪魔して中がよく見えませんふらふら


月琴ぴかぴか(新しい)
ガラス戸越しに独歩愛用の月琴が見えます揺れるハート
90E0F2C6-DE87-42BB-AA8C-D7257F5C5848.jpeg

1891(明治24)年5月、独歩は東京専門学校を中退し、父母の居た麻郷村(現、田布施町麻郷)第四百九十七番地の吉見トキ方(独歩の両親は1890(明治23)年より借りていました)に帰省し、読書に励み、昼は野山の散策や、釣りを楽しみます。

金曜二十二日 美日(略)平生町に至り三木より月琴借り来る、
(『明治廿四年日記(六月)』より)

独歩が月琴を借りた「三木」とは、三木延助のことで、当時は、平生町の戸長(町長)で、父 専八の友人でした。

ときさん談
「哲夫兄さんはよく野山を歩く人でした。そのときはいつでもふところに書物を入れていて、野原や山にねそべつて読むのです。月琴が好き、浄るりが好き、尺八が好き、酒も少しはいけたようです。そして私たちにやさしかったので、みんな哲兄さん/乀と慕っていました。(略)

(『独歩回想』(上杉久吉 柳井独歩会 昭和28.9.10))

1891(明治24)年8月、麻里府村(現、田布施町麻里府)第五十五番屋敷 別府の浅海謙助の別宅に仮寓します。
独歩は浅海家の親戚で、近所の麻里府村第六十五番屋敷の石崎松兵衛の四女ため家庭教師として通うようになります。六女ゆりの談です。

山根ゆり子さんの談「さあ、私が十二三の頃でした。こんな田舎ですから目立つたあかぬけした美男子で、読書家でしたが一番印象に残っているのは月琴の上手なことでした。たまには尺八も吹いていました。その月琴は私方の前の妹みね子の嫁入り先浅海庄一の所に大切に保存しています。月の出た夜など、ごらんの通り見晴らしのよい海ですもの、柱にもたれかかって鳴らした月琴の音は今でもかすかな思い出となっています。」
(『独歩回想』(上杉久吉 柳井独歩会 昭和29.6.3))

 父と合奏
  浅海庄一氏
国木田哲雄氏は寄寓中亡父と非常に親しみ毎夜食後に音楽を楽しみおり候。仝君は月琴を、父は尺八をもつて合奏いたしおり候。その際用ひし古びたる月琴の残骸は小生方の倉庫に有之候
愛好といえば頗る誇大なるも使用せしことはたしかにて小生は記念品として保存致居候
  (筆者、熊毛郡麻里府村医師)

(『独歩回想』(上杉久吉 柳井独歩会 昭和29.6.3))

ということから、この月琴は、三木から借りたもので、浅海ミネが保管していたものだと思われます。月琴を持った浅海(旧姓石崎)みねの写真が上杉玉舟の『独歩回想』や桑原伸一『国木田独歩』に掲載されています。
展示説明はあったかも知れませんが、とにかく中が見えづらく、残念でしたもうやだ〜(悲しい顔)
他にも独歩愛用のものがあったかも知れない・・・・・・がく〜(落胆した顔)



国木田家は柳井に3年ばかり住み、その間に四回転居しています。
1 1891(明治24)年12月、両親が柳井津町第四百三十五番地 金屋(今の柳井市金屋)の堀江力助の別邸に転居。
独歩は、両親が転居後も弟収二と麻郷村の吉見家に住んでいた。

2 1892(明治25)年2月下旬頃(?)、両親が柳井村第千四十一番地 山根の神田静治の借家へ転居。
その後、独歩も弟収二とともに神田家へ移る。

3 4月、姫田川筋の柳井村第四百八十一番屋敷 姫田の市山増太郎の邸内の建屋に一家で転居。
同年6月、弟収二とともに上京。

4 1894(明治27)年8月、両親は柳井村第二百十六番屋敷 宮本の藤坂家の借家へ転居。


【次回に続く】
姫田川 @ 国木田独歩の足跡を訪ねてA [2020年08月18日(Tue)]
【前回の続き】

柳井市に着きました。
まず腹ごしらえ。
たまたま入ったお店ですが、とっても美味しかったです。
E5185587-7044-4828-AD2B-ACC07B4C5481.jpeg

柳井市姫田の国木田独歩旧宅を目指して、姫田川を上っていきます。
姫田川は、今から約1400年前、豊後の般若姫が、 後の用明天皇である橘豊日皇子の元に上る途中、ここ柳井へ上陸し、この川で手を洗ったことから呼ぶようになったそうです。

途中、姫田川沿いに普慶寺という立派なお寺があったので、寄り道しました。
7EB803C8-0AA9-4FEF-A3F7-A31CEB864CC3.jpeg CF1A679F-D3DB-4BB9-A0A8-E71AB0D4F291.jpeg

831(天長8)年、弘法大師の開山と伝えられ、旧柳井町内では最古刹だそうです。
85D6FA91-8D70-4FD7-99F9-EEBAB0AE00F9.jpeg 83A41EAE-0975-42B9-ADF7-749C4BBEFD51.jpeg 

71853D5C-8B61-4ECD-B988-18B2DF87D387.jpeg

楼門。
34DE253E-11E2-489D-A36D-5440696942E4.jpeg 
21DE3FC5-1145-44B9-9D46-D924955FDFE1.jpeg

仁王像。
D765CF8D-2858-4081-9BEA-C206AA313143.jpeg 328DE912-D956-46E4-82C6-66F2C5067058.jpeg

本堂。
ご本尊の千手観音菩薩立像は、像高30cmの銅製鋳造、平安時代末期から鎌倉時代初期ごろの様相がうかがえる仏像で、大内弘貞が百済から持ち帰り、1278(弘安元)年に納めたといわれている由緒あるお寺でした。ただ、秘仏なので、見ることができません。
A07F45BE-C8FE-46F1-B852-424375464C40.jpeg

愛染護摩堂。
13A72468-9125-435C-90FF-675B1B063A30.jpeg

愛染明王像は、真っ赤な身体で、天に向けて矢を引く容姿から天弓愛染明王といわれ、恋愛・縁結び・家庭円満などご利益があるとされ、パワースポットとしても脚光を浴びているとか・・・。
6E891A9C-4094-445E-A9CD-C9BDF7C098D7.jpeg

愛宕大権現。
A06E8E6A-7249-4611-9E7B-A35FDF53D8A6.jpeg 6F88746F-DF6C-4FBC-80D5-28840C64B70A.jpeg

塔。
89E2B995-7BCC-4157-B9D7-BD3AE94DF6C8.jpeg

日限地蔵(ひぎりじぞう)尊。
「日を限って祈願すると願いが叶えられる」といわれる地蔵菩薩。
64FFFE6D-1073-4742-A9E2-A90F182AE942.jpeg

「南無大師遍照金剛」と彫ってあります。
681A5957-D570-4E78-9737-2B586403A4FF.jpeg

雨月庵破笠(うげつあんはりゅう)の墓。
CB92373C-4AE5-4ED5-8C46-5821835AB48A.jpeg

破笠は、江戸時代の中期から昭和10年代まで続いた正風美濃派(松尾芭蕉が創始者)の柳井俳諧第二代宗匠で、彼が亡くなった1790(寛政2)年に、その門弟によって建てられたものです。
A46F623A-9E10-4E6C-9A5B-8E8859F0FB6D.jpeg

苗しろや小雨の潤いかけんまで

最上稲荷大明神。
商売繁盛にご利益。
816AB142-6DEF-400E-B9F3-13109DDE30B2.jpeg

粟島大明神。
女性の守護神。
9D9D26C5-FD82-45C0-A585-2AC98B96BC1E.jpeg

お寺を出て姫田川沿いには、他にもいろいろありました。
愛宕大権現。
41E5F5B0-1CAF-4C2F-89BB-AC13F8D7D206.jpeg

子守大明神。
D48EDF99-CBDD-450E-B320-4AA7CB4F29D5.jpeg

秋葉大明神。
97BDB27E-BD49-4045-97EF-831C2D8A50E7.jpeg

三寳大荒神。
3473F396-B0BC-46B0-AF4F-7AD24E30DF38.jpeg 46F3E553-8528-48BF-9AD0-A13C3B466F72.jpeg

日除地蔵大菩薩。
B54B4E7D-0F6B-4B52-99B0-2E5B1BCE2326.jpeg

やっと独歩旧居の矢印が見えてきました。
独歩のことに全く触れていませんが、きっと独歩もこの辺りを歩いただろうということで、お許しください。


次回に続く
田布施町郷土館 @ 国木田独歩の足跡を訪ねて@ [2020年08月17日(Mon)]
『山の力』を読んでから、学校の大先輩でもある国木田独歩にどはまりしている私ですが、「柳井の方に行ってみよう」と声をかけていただき、喜び勇んで出掛けましたわーい(嬉しい顔)

途中、田布施を通りました。
田布施といえば、独歩の波野英学塾のあったところ揺れるハート
また、『帰去来』『富岡先生』『少年の悲哀』『酒中日記』などは田布施が舞台となっています。

駅なら何か情報があるのではないかと、JR田布施駅に寄りました。
駅前に看板がありました。
219FA88A-3F7B-4E75-90B0-F7AC99B0435B.jpeg

田布施町郷土館というのがあるようです。
CD82840C-2CEB-40F4-A175-D317452FB8FD.jpeg

それも、程近くに。
3C758307-11E4-4721-A466-8696F86D44B4.jpeg

なので、田布施郷土館へ行ってみましたぴかぴか(新しい)
81D92B39-4B47-437A-A8D4-16982902AB4A.jpeg

もちろん独歩のコーナーがありました揺れるハート
田布施町ゆかりの人々の遺品展示室というところです。

パネル「国木田独歩」。
E7C01161-D06D-4052-A3BC-9D62AFA5AC68.jpeg

 詩人・小説家
国木田独歩
 1871〜1908
明治4年(1871)7月、千葉県銚子に生まれる。本名 哲夫。
東京専門学校(現早稲田大学)に学ぶ。青年時代一時期父親の勤め(柳井津句裁判所平生出張所書記)の関係上、熊毛郡麻郷村吉見家に寄寓(この間、隣村麻里府村浅海家の別宅に仮寓)。在住中、田布施村に波野英学塾を開設し、子弟に英語、数学の教授をした。
『酒中日記』をはじめ、この地方を舞台とした数々の小説を残している。
明治41年(1908)6月逝去、享年38歳。



写真。
7E0D859D-BC0D-4E51-814F-04346AB2C508.jpeg


田布施町の馬島が舞台となった『酒中日記』(しゅちゅうにっき)の主人公・大河今蔵は、実在する小川今蔵の名を借りたものですが、その小川今蔵宛の独歩の手紙が展示してありました。

(年月不明)三十一日 小川今蔵宛(封書)
B71B6E8C-2D87-4A93-9179-91BBC0C57ACC.jpeg

前略失禮
此三冊御母上御歸宅に付托し申候
御一讀あらまほしく候
先達借用の□少しの間願上候
      國木田哲夫
   卅一日     
 小川今藏大兄 貴下



明治31年5月7日 小川今蔵宛(封書、毛筆、封筒なし) 
044568A5-1FD0-483B-A2F5-3D74E5A4ACF2.jpeg

海洋嶌海戰記念品一個
右はC國軍艦より發せし砲丸の我西京丸に中て破裂せし者の斷片なり
小生西京丸便乘の節船員より受けし品也
右進呈□
幾久しく御秘藏被下度□
     國木田哲夫  
  丗一年五月七日
 小川今藏大兄



B4A0151A-6863-44A5-825A-4A11B067DEC7.jpeg 710C5589-EC83-478D-A9C1-4FF6237862C5.jpeg


小川今蔵が自分宛の独歩の手紙を山本信次に引き継ぐという手紙。
E5E5A633-F7DF-4557-BA33-CAD6193F0080.jpeg


富永有隣を田布施の定基塾に訪ねたことを独歩が書いた文章「吉田松陰及び長州先輩に関して」
BEAAFB9E-0F64-42A5-B9B9-15A33DA9C3DD.jpeg



そばには『富岡先生』のモデルである富永有隣のコーナーがありました。
1FB4B0BC-5DAC-4732-9140-0F70956423B4.jpeg

写真。
BD2502C2-D00C-42D1-9959-01F2A7C8DD44.jpeg

『占録』『中之説』(複本)。
5B813D75-C76E-4B34-921F-DD340BAF4B4E.jpeg

富永家伝来の天秤・分銅。
7004FB6E-FF92-4222-A641-1DB7A2647B89.jpeg



田布施町の地図。
5461AA91-6136-48A6-9E65-8BE0C5794F53.jpeg


国木田独歩仮寓吉見家の跡
9DACDBB1-CA08-4250-980A-9D8638E8B8E4.jpeg 2881F73D-E1F3-45A1-AC7B-8AA9EC8A692D.jpeg 
0A963509-DAB8-4AAA-8A65-BF9828B5F3A1.jpeg


富永有隣旧跡
A2CA3268-8A88-4860-BB28-8084935A9EEC.jpeg E291E2D6-DAA6-48A0-AA9C-6A2C406E96E1.jpeg 
D68BA9D9-0F11-4688-BF22-2A7DDAE99B41.jpeg



その他、考古学的資料などが展示してありました。
C8FB060F-CEE8-483D-BE33-4F035D7B18C8.jpeg 349E286E-8A2E-421A-8CA0-68F1C2C36BD9.jpeg 
06974068-60BE-4B15-ABA0-19476896D56B.jpeg 
E97F34C8-D0E7-43D9-8C52-769B11068347.jpeg


田布施町のホームページ「国木田独歩の紹介」はわかりやすいので、チェックしてみてください。

『田布施時代の国木田独歩』(郷土館叢書第二集)(林芙美夫/著 田布施町教育委員会 1995.11)には田布施町時代の独歩のことが詳しく載っています。


「富岡先生」という題名の短編が、明治の小説家の国木田独歩にある。この富永有隣がモデルであることがあきらかな作品で、世に捨てられた田舎塾の先生をしている老人のすさまじい狷介ぶりを、作者自身、愛情をもってかいている。
 国木田独歩は長州人ではなかったが、父専八が山口裁判所の事務職員として山口県に赴任したため、ここで少年期をおくった。萩にもいたらしく、いまでも萩の商店街のひとすみに、独歩が住んでいたという借家ふうの家がのこている。
 独歩は、明治二十年代に吉田松陰の文章に関心をもち、註釈に似たようなことまでしたが、そういうことがあって松陰にうちこむようになり、あるとき松陰とともに松下村塾をやったという老人がまだ生きているということをきき、東京から訪ねて行った。明治二十四年の春である。

【国木田独歩と富永有隣(出所:司馬遼太郎 「世に棲む日々」第二巻「村塾のひとびと」から引用)】

【次回に続く】
独歩記念事業 柳井市短詩型文学祭 [2020年04月28日(Tue)]
文豪 国木田独歩を記念し、短歌・詩・俳句を募集、優秀作品を選出、表彰する令和2年度独歩記念事業 柳井市短詩型文学祭が行われますぴかぴか(新しい)

DBC6C4B5-F495-4BB8-B4AD-9B73D495014A.jpeg

るんるん応募規定るんるん
【短歌部門】自由詠 2首1組
【俳句部門】自由詠 2句1組
【詩 部 門】 自由詩 800字(400字詰め原稿用紙2枚)以内
応募点数は、短歌および俳句は各一人1組、詩は一人1点。
応募作品は、楷書で丁寧に書き、特別な読み方をする字にはフリガナをふる。
 字が読めない場合は、無効。

るんるん応募資格るんるん
18歳以上(高校生は不可)で山口県内在住者。

るんるんその他るんるん
いずれの部門も創作、未発表の作品に限る。
※盗作・類似作品・二重投稿が明らかになった場合は、賞の発表後でもこれを取り消すことがある。
応募された原稿は返却しない。
応募作品の著作権は柳井市に帰属。

るんるん応募方法るんるん
部門名・郵便番号・住所・氏名(フリガナ)・年齢・電話番号を明記のうえ、
短歌・俳句はメールまたはハガキ
詩はメールまたは封書
で送る。

るんるん応募締切るんるん
2020年5月29日(金) 必着(消印)

るんるん成績発表るんるん 
2020年6月23日(火) 
発表とともに入賞者に直接通知。

るんるんるんるん
各部門1位 賞状・図書カード 8,000円分
各部門2位 賞状・図書カード 4,000円分
各部門3位 賞状・図書カード 2,000円分

るんるん応募・問合先るんるん
〒742-8714 柳井市南町一丁目10番2号 柳井市教育委員会
 生涯学習・スポーツ推進課内 中央公民館文学祭係
電話 0820-22-2111 内線331
mail to chuokominkan@city-yanai.jp

0C87D220-8B8D-451E-BAA3-78B314C6E686.jpeg柳井市町並み資料館前独歩像
国木田独歩「山の力」 @ 初夏の東鳳翩山に登りましたF [2019年06月23日(Sun)]
【前回の続き】

6月23日は、独歩忌ですぴかぴか(新しい)
明治の文豪 国木田独歩(1871(明治4)年〜1908(明治41)年6月23日)が亡くなった日です。

独歩は、少年時代の多感な時期を山口市で過ごしました揺れるハート

その独歩に、東鳳翩山を描いた「山の力」という短編小説があります。

D6C78929-7F41-49B4-A73F-BD9ACF00ECA6.jpeg

「山の力」では、東鳳翩山は「東方便山」となっています。
その頃は、「方便」と書くの一般的だったのでしょうか?

「山の力」が収められた『定本国木田独歩全集』第三巻(学習研究社 1964.10)の「解題」(福田清人)に

 この作は明治三十六(1903)年八月十一日発行の『少年界』第二巻第九号に発表された。(略)従来この作は初出が明白にされず、死後まもなく出た博文館本の最初の『独歩全集』後編(明治四十三年八月刊)に収められ、改造社版『国木田独歩全集』第三巻(昭和五年十一月刊)によって一般に流布してゐた。
(略)
 友人の兄によって示された磁石石を採りに近くの山に登り、一度は失敗したが二度目に成功する少年の好奇心、探究心を明るく描いてゐるが、前にも述べた幼時追懐的な少年小説として興味がある。
 独歩は明治十八年七月山口中学校に入学、二十年上京するまで山口市に在住した。作中の方便山(鳳翩山)には、この期間に登つたことがあつたのであらう。


とあります。(※旧字体を新字体に変更)
1876(明治9)年2月、4歳の時に吉敷郡山口町(今の山口市)に移住し、翌年1877(明治10)年まで住んでいました。
そして、1883(明治16)年11月、12歳の時に再び山口へ移住し、山口の今道小学校(現在の山口市立白石小学校)に学んでいます。
1885(明治18)年9月、14歳の時に山口中学校に入学します。
学制改革のため、1887(明治18)年3月、15歳の時山口中学校を退学し、上京します。
(※年齢は満年齢にしています。)

前置きはこれくらいにして、「山の力」を読んでいきましょう。

 私が未だ十四位の時でした、

友達の

其頃尋常中学校の生徒で年は十六七

の兄から

(略)この石は東方便山の絶頂にあるのだ。然し容易なことでは採れはしない。(略)運が可ければ磁石力のある石を得るし、運が悪いと、二十も三十も拾った石がまるでただの石のことがある。(略)

と天然に磁力をもった不思議な石の存在を知らされ、友達と二人だけの秘密で、若葉の時候の日曜日、東方便山の絶頂を目指すことにします。

 私共の町から方便山の麓までは一里半位あります。山の道程が一里、それで絶頂まで往復五里です。県下で一二を争ふ高山でありますから、町から見ますと其頂は近いよ―に見えても、登る日になると容易なことではないのです。殊に麓には樹木の繁った孫山が相重なって居るので直線で見たのよりも、其道は非常に迂回して居るのあります。

小学生の当時、独歩が住んでいたのは山口市道場門前で、裁判所の近くだそうです。(中学生の時は、寮に入っていました。)
今と違って麓まで車で行く訳でもなく、登山道が整備されている訳でもなく、小学生にとって大冒険でした。

 さてさうなると人に逢ふことが漸々少なくなり、途は益々分かれて来る、二人は次第に心細くなって来て、話の数は減と共に足も初ほど活発に動かないよーになりました。

 幸と途には迷ひませんでしたといふものは、最後に逢た十二三の樵夫の言葉に、猶三四丁ゆくと木立の間をぬけて草山になる、さうすれば此幅の広い道のみを辿ると自然に方便の絶頂に達するといふことで、(略)
 教えの通り間もなく草山に出ました。今更のよーに眼界が開け、見渡す限りの草茫々として、まるで青絨毯を敷き連ねたよーで、草間には菫や蒲公英が咲き出て奇麗でありました。そして遥かに方便の頂は見えます。


というところなど今回の鳳翩山登山を彷彿とさせ、その後の金山の跡の場面など、鳳翩山には実際に鉱山跡があることから、独歩も鳳翩山に本当に登ったと思われます。

結局のところ、天候の不順のため目的を達成することができませんでしたが、3週間経って、7月の中旬に再チャレンジします。

 二人は夢中になって、或いは拾い、或いは金槌を以て、土地の底にかくれて居る岩角を闕き取りました。

そして、

二人は運動場から遥かに方便山の頂を望んで顔を見合してくすくす笑ひました。

独歩の通った今道小学校は、山口駅のすぐ近くの山口県林業会館(山口市駅通り2-4-17)のところに当時ありました。そこの運動場から鳳翩山は見えたのでしょうか?
それとも、今の山口県立美術館の辺りにあった山口中学校から見ていたのでしょうか?

方便山の恐ろしい磁石力は、私共をすら引き着けて居るのでした。
   
で「山の力」は終わります。

 国木田独歩の「山の力」、ぜひ、読んでみてください。
 鳳翩山の磁力を味わってください。

7A6F10D8-E4C7-47E7-ADBB-1FD631C96781.jpeg
(▲西鳳翩山から望む東鳳翩山 2018年11月5日撮影)

 
 かわいい追記かわいい
『―温かいふるさとー 中尾の今昔』(難波要二 1997(平成9).4)P9に、

この山には滑石(なめらいし)が一部に露出し、中尾の者は砥石として掘りに行っていた。

とあります。もちろん、磁石ではありませんが、そういう話を独歩が聞いて、この物語を書くきっかけの一つになったのではないのかなど、思いを馳せます。
  
【次回に続く】
図書館おとな塾「国木田独歩とやまぐち」 @ ふるさと山口文学ギャラリー企画展「国木田独歩とやまぐち」 [2019年02月04日(Mon)]
山口県立山口図書館で、現在開催中のふるさと山口文学ギャラリー企画展「国木田独歩とやまぐち」に関連して、国木田独歩と山口とのかかわりについて学ぶ講座「図書館おとな塾「国木田独歩とやまぐち」」が開かれますぴかぴか(新しい)

国木田独歩とやまぐち.jpg

るんるん日 時るんるん 2019年3月23日(土)13:30〜15:00
るんるん場 所るんるん 山口県立山口図書館 2階 第1研修室

るんるん内 容るんるん
1.講演「国木田独歩とやまぐち」 
 時間 13:30〜14:30
 講師 加藤禎行(かとうよしゆき)(山口県立大学国際文化学部文化創造学科准教授)

2.ギャラリートーク 
 時間 14:30〜15:00
 内容 講師及び山口県立山口図書館職員による企画展の展示説明

るんるん対 象るんるん 一般県民 
るんるん定 員るんるん 30名(先着順)
るんるん参加費るんるん 無料
るんるん申込先るんるん 山口県立山口図書館
       〒753-0083 山口市後河原150-1
       電話083-924-2111 fax to083-932-2817
るんるん申込方法るんるん 電話・FAXまたは電子メールにて、氏名及び連絡先を
るんるん申込期限るんるん 2019年3月15日(金)
るんるん主 催るんるん 山口県立山口図書館・山口県立大学郷土文学資料センター


かわいいふるさと山口文学ギャラリー企画展「国木田独歩とやまぐち」かわいい
国木田独歩(1871〈明治4〉年〜1908〈明治41〉年)は、千葉県銚子に生まれましたが、山口県とゆかりが深く、岩国や柳井、熊毛や山口と、県内に多くの足跡を残した小説家です。小説「武蔵野」で近代文学における自然描写の新境地を開いた国木田独歩は、日露戦争後の文壇で、自然主義文学の先駆者として高く評価され、その評価の絶頂のなかで死去しています。

国木田独歩の小説には、青年時代を過ごしたやまぐちの風景や出会った人々が、折に触れて登場しています。短編集『運命』は、「馬上の友」「画の悲み」など、やまぐちでの少年時代の体験を素材とした小説が多く収録されていることでも知られています。

今回は、山口県立大学郷土文学資料センターが所蔵する資料に、山口県立山口図書館の所蔵資料を加えて、展示を行います。これらの資料を通じて、国木田独歩とやまぐちの関わり合いをうかがうことができればと考えています。


るんるん期間るんるん 2019年1月8日(火)〜4月25日(木)
るんるん場所るんるん 山口県立山口図書館 2階 ふるさと山口文学ギャラリー
るんるん主催るんるん 山口県立山口図書館、山口県立大学郷土文学資料センター
るんるん共催るんるん やまぐち文学回廊構想推進協議会


国木田独歩は私の学校の先輩です。揺れるハート
国木田独歩は今道小学校(今の山口市立白石小学校)、山口中学校(今の山口県立山口高等学校)の出身です揺れるハート揺れるハート
84AFD031-77E7-4C76-B4EF-42072CDDA638.jpeg
(アニメ「文豪ストレイドッグス」の世界展「山口を第二の故郷とした国木田独歩」(2018年1月 山口市狐の足あと))
新発見!独歩文学の魅力 @ 国木田独歩没後110年記念講演会 柳井市 [2018年06月09日(Sat)]
明治の文豪 国木田独歩没後110年に合わせ、柳井市で記念講演会が開かれますぴかぴか(新しい)

C4973E10-E0F5-45C5-A20F-14D3401F8437.jpeg
(2018年6月8日付読売新聞)


柳井ゆかりの明治の文豪
国木田独歩(1871−1908)は岩国山口で育ち、東京遊学後の19歳から20歳にかけて田布施平生柳井に居住して、後年この地の風物・人物を題材に、たくさんの名作を残しました。それらの作品や旧跡は、私たちにとって大切な‘地域のたからもの’です。

“文学熱”の時代を拓く
独歩文学の魅力とは何か。幕末維新という政治動乱後の明治の社会で、独歩は何を見つめ、何を想い、どんな文学を生みだしたのか。独歩文学の独創性に新しい光を当てて「サントリー学芸賞」を受賞した気鋭の研究者、上智大学文学部准教授木村洋さんにお話しいただきます。

チラシより)


国木田独歩講演会 柳井.png

るんるん日 時るんるん 2018年6月10日(日)14:00〜15:30(開場13:30)
るんるん場 所るんるん アクティブやない(柳井市柳井3817-16)
るんるん臨時駐車場るんるん 柳井小学校グラウンド(会場東側徒歩1分)
るんるん参加費るんるん 無料
るんるん申 込るんるん 不要
るんるん問 合るんるん 柳井市役所政策企画課
       電話 0820-22-2111(内線472)
       fax to 0820-23-4595
       メール seisakukikaku@city-yanai.jp
るんるん主 催るんるん 柳井市


国木田独歩は、『文豪ストレイドッグス』でも主要キャラです。
84AFD031-77E7-4C76-B4EF-42072CDDA638.jpeg
アニメ「文豪ストレイドッグス」の世界展「国木田独歩」展示(山口市狐の足あと)


かわいい講師 木村洋さんからのメッセージかわいい 
国木田独歩は日本近代文学の成立において指導的な役割を果たしました。
『武蔵野』『忘れえぬ人々』『牛肉と馬鈴薯』などの小説は、今なお私たちの心を揺さぶります。
独歩は柳井市と縁が深い文学者でもあります。
独歩の魅力と革新性はどこにあるのか。
また独歩は明治期の社会をどのように描いたのか。
そのことを最新の研究成果をもとにお話しします。

(チラシより)


かわいい講師 木村洋さんプロフィールかわいい
上智大学文学部准教授・博士(文学)
1981年兵庫県生まれ。
神戸大学文学部卒業。同大学大学院人文学研究科博士後期課程修了。
2011年熊本県立大学文学部講師、2014年同准教授。
2018年から現職。
著書『文学熱の時代ー慷慨から煩悶へ』(名古屋大学出版会 2015)は、第 38 回(2016 年)サントリー学芸賞(社会・風俗部門)を受賞。