田山花袋「丘の上の家」 @ 「第34回やまぐち朗読Cafe 〜朗読と蓄音器ジャズの夕べ〜」に参加しましたA
[2022年04月03日(Sun)]
【前回の続き】
私は、田山花袋の『東京の三十年』より「丘の上の家」を朗読しました

▲『東京の三十年』(田山花袋/著 博文館 1917(大正6))
「丘の上の家」は、当時の武蔵野であった渋谷、明治の文学青年(文学者)の交友の様子などが活写されていて、魅力的な回想記です。
「丘の上の家」に住んでいたのは、国木田独歩(1871(明治4) 〜 1908(明治41))です。

▲国立国会図書館「近代日本人の肖像」

▲山口県政資料館 旧県会議事堂 パネル
「丘の上の家」は、豊多摩郡渋谷村上渋谷154番地にありました。現在の公園通りの坂の上あたり、NHK放送センターの南側、渋谷公会堂の裏手、現住居表示は「宇田川町7-21」です。
25歳の独歩は、1896(明治29)年に妻信子と離婚し、9月4日に、山路愛山の紹介で「丘の上の家」に転居し、翌年の5月まで暮らしました。
そこに――このさびしい丘の上の家に、かれは、お信さんにわかれた後の恋の傷痍を医してゐたのであつた。
夏の末から、翌年、日光に行くまで、國木田君は、その丘の上の家で暮した。
それは明治二十九年で、その四月の二十日に、私たちは飛鳥山の花を見捨てて日光のS院に行つて寓した。そして一月そこにいて、六月の初めに東京に帰つて来たが、その時はその丘の上の家を弟の北斗君が留守にたたんでしまつて、麹町の番町の二松学舎の近所に下宿しなければならなくなつていた。
当時「丘の上の家」辺りは、武蔵野の自然が広がり、小川や林などの自然豊かな場所でした。花袋の文章を読むと、風光明媚だった「渋谷村」の風景が鮮やかに頭に浮かびます。
それは十一月の末であつた。東京の近郊によく見る小春日和で、菊などが田舎の垣に美しく咲いてゐた。(略)
渋谷の通を野に出ると、駒場に通ずる大きな路が楢林について曲つてゐて、向うに野川のうねうねと田圃の中を流れてゐるのが見え、その此方の下流には、水車がかゝつて頻りに動いてゐるのが見えた。地平線は鮮やかに晴れて、武蔵野に特有な林を持つた低い丘がそれからそれへと続いて眺められた。私達は水車の傍の土橋を渡つて、茶畑や大根畑に添つて歩いた。
(略)
『ぢや、あそこだ。牛乳屋の向うの丘の上にある小さな家だ。』
かう言つてある人は教へた。
少し行くと、果して牛の五六頭ごろごろしてゐる牛乳屋があつた。『あゝ、あそこだ、あの家だ!』かう言つた私は、紅葉や栽込みの斜坂の上にチラチラしてゐる向うに、一軒小さな家が秋の午後の日影を受けて、ぽつねんと立つてゐるのを認めた。
(略)
路はだらだらと細くその丘の上へと登つて行つてゐた。斜草地、目もさめるやうな紅葉、畠の黒い土にくつきりと鮮かな菊の一叢二叢、青々とした菜畠――ふと丘の上の家の前に、若い上品な色の白い痩削な青年がぢつと此方を見て立つてゐるのを私達は認めた。
(略)
『好い処ですね、君。』
『好いでせう。丘の上の家――実際吾々詩を好む青年には持つてこいでせう。山路君がさがして呉れたんですが、かうして一人で住んでゐるのは、理想的ですよ。来る友達は皆な褒めますよ。』
『好い処だ……。』
『武蔵野つて言ふ気がするでせう。月の明るい夜など何とも言はれませんよ。』
(略)
縁側の前には、葡萄棚があつて、斜坂の紅葉や穉樹を透して、渋谷方面の林だの丘だの水車だのが一目に眺められた。
(略)
それに、その丘の上の家の眺めが私達を惹いた。(略)
(略)
丘の上の後の方には、今と違つて、武蔵野の面影を偲ぶに足るやうな林やら丘やら草藪やらが沢山にあつた。私は國木田君とよく出かけた。林の中に埋れたやうにしてある古池、丘から丘へとつづく路にきこえる荷車の響、夕日の空に美しくあらはれて見える富士の雪、ガサガサと風になびく萱原薄原、野中に一本さびしさうに立つてゐる松、汽車の行く路の上にかゝつてゐる橋――さういふところを歩きながら、私達は何んなに人生を論じ、文芸を論じ、恋を論じ、自然を語つたであらうか。
花袋は、「山林に自由存す」も、『武蔵野』も、この丘の家の印象だと言っています。
玉茗君、柳田君、湖処子君などの感化があつたと見えて、その頃から、國木田君は例の『獨歩吟』の中にある詩をつくるやうになつた。『山林に自由存す』といふ詩も、『遠山雪』といふ詩も、『翁』も『去年の今日』も皆その丘の上の家で出来たのだ。
『春や来し、冬やのがれし』といふ詩の出来たばかりのを、私は其処で朗吟してきかせられたのを覚えてゐる。
夏の末から、翌年、日光に行くまで、國木田君は、その丘の上の家で暮した。思ふに、國木田君に取つても、この丘の上の家の半年の生活は、忘るゝことが出来ないほど印象の深いものであつたらうと思ふ。紅葉、時雨、こがらし、落葉、朝霧、氷、さういふものが『武蔵野』の中に沢山書いてあるが、それは皆なこの丘の上の家での印象であつた。
この本を読んで、今の学生のノリと同じだと思いました。
花袋は、渋谷のはずれに住んでいた独歩の家を大田玉茗と初めて訪ねます。
花袋と独歩はその日が初対面でした。
独歩の日記『欺かざるの記』の明治29年11月12日に
新知の人、昨今兩日の中に三人を得たり。一人は留岡孝助氏なり。他の二人は田山花袋、大田玉茗なり。…
とあります。
太田玉茗君と一緒に湖処子君を道玄坂のばれん屋といふ旅舎に訪ねると、生憎不在で、帰りのほどもわからないといふ。『帰らうか』と言つたが、『構ふことはない。國木田君を訪ねて見ようぢやないか。何でもこの近所ださうだ。湖処子君から話してある筈だから、満更知らぬこともあるまい。』かう言つて私は先に立つた。玉茗君も賛成した。
と、訪ねて行きます。
(略)ふと丘の上の家の前に、若い上品な色の白い痩削な青年がぢつと此方を見て立つてゐるのを私達は認めた。
『國木田君は此方ですか。』
『僕が國木田。』
此方の姓を言ふと、兼ねて聞いて知つてゐるので、『よく来て呉れた。珍客だ。』と喜んで迎へて呉れた。かれも秋の日を人懐しく思つてゐたのであつた。
『湖処子君ゐませんでしたか。何処へ行つたかな先生、今日はゐる筈だがな……。又、妹でも恋しくなつて帰つて行つたかも知れない。』若い私達には一種共通の処があつて、一面識でも十年も前から交際でもしてゐる人のやうに、心に奥底もなく、君、僕で自由に話した。
(略)
その時は何を話したか、今はすつかり忘れて了つたが、尠くとも若い心は、さはるものなくお互の会話の中に流れ合ひ混り合つて行つたに相違なかつた。ツルゲネフのことも話したらう。トルストイのことも話したらう。ハイネの詩やウオルズウオルスの詩のことも話頭に上つたらう。殊に玉茗君はその時分湖処子、嵯峨の屋などと共に、詩の方のチヤンピオンであつたので、詩についての話は、私より一層國木田君と共鳴したに相違なかつた。私達は日の暮れて行くのも忘れて話した。
と、初対面にかかわらず、すっかり友達になります。
そして、こんな日もありました。
何うかすると、何処かに行つてゐないこともあつた。さういふ時には、私はひとり上にあがつて、一二時間待つてゐたりなどした。ある時雨の降る日には、矢張留守ではあつたが、ふと見るとそこに読みたいと思つた二葉亭の『かた恋』が置いてある。で、私は一人そこにねそべつて、一日静かにそれを読んで、帰つて来た。『昨日は君は留守だつたが、「かた恋」があつたので、それを読んで、静かに君の家で日を暮した。いろいろなことを考へた。忘れられない一日だ、』こんな手紙をそのあくる日書いてやつた。
面白いのは、ライスカレーを食べるくだりです。
帰り支度をすると、
『もう少し遊んで行き給へ。好いぢやないか。』
袖を取らぬばかりにして國木田君はとめた。
『今、ライスカレーをつくるから、一緒に食つて行き給へ。』かう言つて、國木田君は勝手の方へ立つて行つた。勝手の方では、下のその上さんがかれの朝夕の飯を炊いて呉れるのであつた。その上さんの名は忘れたが何でも磯といふ大工の嚊で、新宿で女郎をしてゐて、年が明けてそこに来て一緒になつたのであつた。『もう、飯は出来たから、わけはない。』かう言つて國木田君は戻つて来た。
大きな皿に炊いた飯を明けて、その中に無造作にカレー粉を混ぜた奴を、匙で皆なして片端からすくつて食つたさまは、今でも私は忘るゝことが出来ない。
『旨いな、実際旨い。』かう言つて私達も食つた。
一度、炊きたてのご飯にカレー粉を混ぜただけのライスカレーを作ってみようと思っています。
なつかしい丘の上の家は今は何うなつたか。もう面影もなくなつて了つたことであらう。林も、萱原も、草藪も、あのなつかしい古池も……。
と、花袋は「丘の上の家」を書き終えます。
花袋が記した1917(大正6)年頃には、「丘の上の家」辺りも様変わりしていたようです。
※『東京の三十年』(田山花袋/著 博文館 1917(大正6))は、国立国会図書館デジタルコレクションでインターネット公開されています。「丘の上の家」
※「丘の上の家」の後半部分を略した「丘の上の家 抄」が「青空文庫」で公開されています。
※山口県立山口図書館は、『東京の三十年』(田山花袋/著 博文館 1917(大正6))を蔵書しています。請求番号/TA98(禁帯出)

▲『作家の自伝25 田山花袋 東京の三十年(抄)/私の経験』
(田山花袋/著 佐伯彰一・松本健一/監修 相馬庸郎/編 日本図書センター 1995.11.25)
私は、田山花袋の『東京の三十年』より「丘の上の家」を朗読しました


▲『東京の三十年』(田山花袋/著 博文館 1917(大正6))
「丘の上の家」は、当時の武蔵野であった渋谷、明治の文学青年(文学者)の交友の様子などが活写されていて、魅力的な回想記です。
「丘の上の家」に住んでいたのは、国木田独歩(1871(明治4) 〜 1908(明治41))です。

▲国立国会図書館「近代日本人の肖像」
▲山口県政資料館 旧県会議事堂 パネル
「丘の上の家」は、豊多摩郡渋谷村上渋谷154番地にありました。現在の公園通りの坂の上あたり、NHK放送センターの南側、渋谷公会堂の裏手、現住居表示は「宇田川町7-21」です。
25歳の独歩は、1896(明治29)年に妻信子と離婚し、9月4日に、山路愛山の紹介で「丘の上の家」に転居し、翌年の5月まで暮らしました。
そこに――このさびしい丘の上の家に、かれは、お信さんにわかれた後の恋の傷痍を医してゐたのであつた。
夏の末から、翌年、日光に行くまで、國木田君は、その丘の上の家で暮した。
それは明治二十九年で、その四月の二十日に、私たちは飛鳥山の花を見捨てて日光のS院に行つて寓した。そして一月そこにいて、六月の初めに東京に帰つて来たが、その時はその丘の上の家を弟の北斗君が留守にたたんでしまつて、麹町の番町の二松学舎の近所に下宿しなければならなくなつていた。
当時「丘の上の家」辺りは、武蔵野の自然が広がり、小川や林などの自然豊かな場所でした。花袋の文章を読むと、風光明媚だった「渋谷村」の風景が鮮やかに頭に浮かびます。
それは十一月の末であつた。東京の近郊によく見る小春日和で、菊などが田舎の垣に美しく咲いてゐた。(略)
渋谷の通を野に出ると、駒場に通ずる大きな路が楢林について曲つてゐて、向うに野川のうねうねと田圃の中を流れてゐるのが見え、その此方の下流には、水車がかゝつて頻りに動いてゐるのが見えた。地平線は鮮やかに晴れて、武蔵野に特有な林を持つた低い丘がそれからそれへと続いて眺められた。私達は水車の傍の土橋を渡つて、茶畑や大根畑に添つて歩いた。
(略)
『ぢや、あそこだ。牛乳屋の向うの丘の上にある小さな家だ。』
かう言つてある人は教へた。
少し行くと、果して牛の五六頭ごろごろしてゐる牛乳屋があつた。『あゝ、あそこだ、あの家だ!』かう言つた私は、紅葉や栽込みの斜坂の上にチラチラしてゐる向うに、一軒小さな家が秋の午後の日影を受けて、ぽつねんと立つてゐるのを認めた。
(略)
路はだらだらと細くその丘の上へと登つて行つてゐた。斜草地、目もさめるやうな紅葉、畠の黒い土にくつきりと鮮かな菊の一叢二叢、青々とした菜畠――ふと丘の上の家の前に、若い上品な色の白い痩削な青年がぢつと此方を見て立つてゐるのを私達は認めた。
(略)
『好い処ですね、君。』
『好いでせう。丘の上の家――実際吾々詩を好む青年には持つてこいでせう。山路君がさがして呉れたんですが、かうして一人で住んでゐるのは、理想的ですよ。来る友達は皆な褒めますよ。』
『好い処だ……。』
『武蔵野つて言ふ気がするでせう。月の明るい夜など何とも言はれませんよ。』
(略)
縁側の前には、葡萄棚があつて、斜坂の紅葉や穉樹を透して、渋谷方面の林だの丘だの水車だのが一目に眺められた。
(略)
それに、その丘の上の家の眺めが私達を惹いた。(略)
(略)
丘の上の後の方には、今と違つて、武蔵野の面影を偲ぶに足るやうな林やら丘やら草藪やらが沢山にあつた。私は國木田君とよく出かけた。林の中に埋れたやうにしてある古池、丘から丘へとつづく路にきこえる荷車の響、夕日の空に美しくあらはれて見える富士の雪、ガサガサと風になびく萱原薄原、野中に一本さびしさうに立つてゐる松、汽車の行く路の上にかゝつてゐる橋――さういふところを歩きながら、私達は何んなに人生を論じ、文芸を論じ、恋を論じ、自然を語つたであらうか。
花袋は、「山林に自由存す」も、『武蔵野』も、この丘の家の印象だと言っています。
玉茗君、柳田君、湖処子君などの感化があつたと見えて、その頃から、國木田君は例の『獨歩吟』の中にある詩をつくるやうになつた。『山林に自由存す』といふ詩も、『遠山雪』といふ詩も、『翁』も『去年の今日』も皆その丘の上の家で出来たのだ。
『春や来し、冬やのがれし』といふ詩の出来たばかりのを、私は其処で朗吟してきかせられたのを覚えてゐる。
夏の末から、翌年、日光に行くまで、國木田君は、その丘の上の家で暮した。思ふに、國木田君に取つても、この丘の上の家の半年の生活は、忘るゝことが出来ないほど印象の深いものであつたらうと思ふ。紅葉、時雨、こがらし、落葉、朝霧、氷、さういふものが『武蔵野』の中に沢山書いてあるが、それは皆なこの丘の上の家での印象であつた。
この本を読んで、今の学生のノリと同じだと思いました。
花袋は、渋谷のはずれに住んでいた独歩の家を大田玉茗と初めて訪ねます。
花袋と独歩はその日が初対面でした。
独歩の日記『欺かざるの記』の明治29年11月12日に
新知の人、昨今兩日の中に三人を得たり。一人は留岡孝助氏なり。他の二人は田山花袋、大田玉茗なり。…
とあります。
太田玉茗君と一緒に湖処子君を道玄坂のばれん屋といふ旅舎に訪ねると、生憎不在で、帰りのほどもわからないといふ。『帰らうか』と言つたが、『構ふことはない。國木田君を訪ねて見ようぢやないか。何でもこの近所ださうだ。湖処子君から話してある筈だから、満更知らぬこともあるまい。』かう言つて私は先に立つた。玉茗君も賛成した。
と、訪ねて行きます。
(略)ふと丘の上の家の前に、若い上品な色の白い痩削な青年がぢつと此方を見て立つてゐるのを私達は認めた。
『國木田君は此方ですか。』
『僕が國木田。』
此方の姓を言ふと、兼ねて聞いて知つてゐるので、『よく来て呉れた。珍客だ。』と喜んで迎へて呉れた。かれも秋の日を人懐しく思つてゐたのであつた。
『湖処子君ゐませんでしたか。何処へ行つたかな先生、今日はゐる筈だがな……。又、妹でも恋しくなつて帰つて行つたかも知れない。』若い私達には一種共通の処があつて、一面識でも十年も前から交際でもしてゐる人のやうに、心に奥底もなく、君、僕で自由に話した。
(略)
その時は何を話したか、今はすつかり忘れて了つたが、尠くとも若い心は、さはるものなくお互の会話の中に流れ合ひ混り合つて行つたに相違なかつた。ツルゲネフのことも話したらう。トルストイのことも話したらう。ハイネの詩やウオルズウオルスの詩のことも話頭に上つたらう。殊に玉茗君はその時分湖処子、嵯峨の屋などと共に、詩の方のチヤンピオンであつたので、詩についての話は、私より一層國木田君と共鳴したに相違なかつた。私達は日の暮れて行くのも忘れて話した。
と、初対面にかかわらず、すっかり友達になります。
そして、こんな日もありました。
何うかすると、何処かに行つてゐないこともあつた。さういふ時には、私はひとり上にあがつて、一二時間待つてゐたりなどした。ある時雨の降る日には、矢張留守ではあつたが、ふと見るとそこに読みたいと思つた二葉亭の『かた恋』が置いてある。で、私は一人そこにねそべつて、一日静かにそれを読んで、帰つて来た。『昨日は君は留守だつたが、「かた恋」があつたので、それを読んで、静かに君の家で日を暮した。いろいろなことを考へた。忘れられない一日だ、』こんな手紙をそのあくる日書いてやつた。
面白いのは、ライスカレーを食べるくだりです。
帰り支度をすると、
『もう少し遊んで行き給へ。好いぢやないか。』
袖を取らぬばかりにして國木田君はとめた。
『今、ライスカレーをつくるから、一緒に食つて行き給へ。』かう言つて、國木田君は勝手の方へ立つて行つた。勝手の方では、下のその上さんがかれの朝夕の飯を炊いて呉れるのであつた。その上さんの名は忘れたが何でも磯といふ大工の嚊で、新宿で女郎をしてゐて、年が明けてそこに来て一緒になつたのであつた。『もう、飯は出来たから、わけはない。』かう言つて國木田君は戻つて来た。
大きな皿に炊いた飯を明けて、その中に無造作にカレー粉を混ぜた奴を、匙で皆なして片端からすくつて食つたさまは、今でも私は忘るゝことが出来ない。
『旨いな、実際旨い。』かう言つて私達も食つた。
一度、炊きたてのご飯にカレー粉を混ぜただけのライスカレーを作ってみようと思っています。
なつかしい丘の上の家は今は何うなつたか。もう面影もなくなつて了つたことであらう。林も、萱原も、草藪も、あのなつかしい古池も……。
と、花袋は「丘の上の家」を書き終えます。
花袋が記した1917(大正6)年頃には、「丘の上の家」辺りも様変わりしていたようです。
※『東京の三十年』(田山花袋/著 博文館 1917(大正6))は、国立国会図書館デジタルコレクションでインターネット公開されています。「丘の上の家」
※「丘の上の家」の後半部分を略した「丘の上の家 抄」が「青空文庫」で公開されています。
※山口県立山口図書館は、『東京の三十年』(田山花袋/著 博文館 1917(大正6))を蔵書しています。請求番号/TA98(禁帯出)

▲『作家の自伝25 田山花袋 東京の三十年(抄)/私の経験』
(田山花袋/著 佐伯彰一・松本健一/監修 相馬庸郎/編 日本図書センター 1995.11.25)