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こどもと本ジョイントネット21・山口


〜すべての子どもに本との出会いを〜

子どもと本をむすぶ活動をしています


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ハロウィン誕生祭&歴食 @ イタリア食堂ベケ︎!? [2021年11月24日(Wed)]
10月31日(日)、山口市の八坂神社

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前にあるイタリア食堂ベケ︎!?さんの「ハロウィン誕生祭&歴食」に参加しましたぴかぴか(新しい)

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床の間のしつらえは、ハロウィンっぽくオレンジ色で統一されていました。

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今年は「歴食=料亭菜香亭の明治時代の洋食再現ディナー」です。
もと八坂神社にあった料亭菜香亭の建物を現在地に移築後の2011年に、使われなくなった襖の下張から、明治時代後半の台帳が出てきました。
これらの中に、洋食のメニューが書かれたものがありました。
その中のいくつかが、今回いただいたメニューにコピーされていました。

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洋食弐人前
一 パン
一 ソツプ
   ミルク
    玉子
一 エビフライ
   ユズ
一 ヲムレツ


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 洋食弐皿
  フイツシユソテー
   ミルクソース
  ○くずな半本
  小トリノグレヱー
   マツシイモ
  ○小とり弐羽
右隈本様


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洋食弐皿
 パン粉フライ
 ハトシチユー
   玉ネギ
右隈本様


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洋食弐皿
 キヂノカツレツ
  マツシイモ
 フウガデン
  ミルクソース

右湯原様


そのメニューをもとに、菜香亭三代目主人の齊藤泰一が学んだ上野精養軒

上野公園内西洋軒 東京景色写真版 (2).jfif
▲1893(明治26)年頃の上野精養軒「上野公園内西洋軒」(『東京景色写真版』(江木商店 明26?)より))

主人述『西洋料理 厨(くりや)の友 精養軒主人口授(くじゅ)(服部國太郎/編 服部書店 1902(明治35).1)(服部國太郎/編 大倉分店 1902(明治35).8)という精養軒主人の名で著された家庭向けの明治時代の料理書のレシピより

西洋料理 厨の友 精養軒主人口授.jpg 西洋料理 厨の友 精養軒主人口授 大倉分店 (2).jfif

粉川妙さんが再現された明治30年代の「歴食」をいただきました🍽

かわいい乾杯ドリンク:林檎水

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かわいい前菜:フーカデン  ミルクソース 
    マセドアンサラダ添え


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フーカデンはいわゆるミートローフです。今回はひき肉の中にうずらの卵を包み込み、天火で焼いたものでした。
マセドアンサラダの「マセドアン」とは、フランス語で「さいの目切り」という意味で、小さく角切りにした野菜を、自家製マヨネーズで和えてあります。


かわいいスープ:7種類の野菜のプレ

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プレとはピューレのことで、7つの野菜は「にんじん、かぶら、オランダ三つ葉、たまねぎ、にらねぎ、チサ、小ハボタン」と『西洋料理 厨の友』にあります。
妙さん曰く、オランダ三つ葉はスープセロリ、にらネギはリーキ(今回は長ネギを使用)、小ハボタンは芽キャベツだそうです。


かわいいパン:酒粕を発酵種にしたパン

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かわいいメインディッシュ:キジのグリル マッシュポテト添え

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「マツシイモ」が「マワシイモ」としか読めずどんな料理だろうかといろいろ考えていたところ、「ワ」が「ツ」だと分かり、一挙に解決したそうです。
2011年2月11日から4月3日に山口市菜香亭で企画展「料亭菜香亭の襖の下貼りからみる明治の洋食」が開催され、それに併せて、2月25日「料亭菜香亭の明治の洋食再現ディナー」がありました。そこで出された料理の中に「まわし芋」とあり、「「まわしいも」…芋を回しながら焼く」(KRYのレポーターの言)と言われているように、この時は、ベイクドポテドだったようです。


かわいいデザート:アップルジェリー

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ストーリーテラーの方のお二人の「明治時代の山口」やおごうさんこと齊藤清子さんのお話も面白かったです。
私も何度かおごうさんに会ったことがあります。

みなさんの明治・大正時代の仮装、すてきでした。

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Mitsukoさんのカボチャの帽子ハロウィンは最高!クオリティが高い光るハート

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もちろん、ワインも飲みましたマティーニ(カクテルグラス)

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楽しい時間でした。皆さん、ありがとう。



【参考資料】
『東京景色写真版』(江木商店 明26?)は国立国会図書館デジタルコレクションでインターネット公開されています
『西洋料理 厨の友 精養軒主人口授』(服部國太郎/編 大倉分店 1902(明治35).8)は国立国会図書館デジタルコレクションでインターネット公開されています。
  Apple Water(林檎水)
  マヨネーズ ソース
  Vegetable Purée(野菜プレ)
  Apple Jelly(林檎のジェリー)
萩城址(11)西の浜 @ はぎ散歩K [2021年11月23日(Tue)]
前回の続き

石彫公園から西の浜に出てみると、とても気持ちがよかったです。
右手に奇岩の景勝、正面に紺碧の海、白波が打ち寄せる白い砂浜、左手に砂防用の松原、さらにに玉江の港や倉江から三見にかけての海岸線が美しい黒ハート 最高のビューポイントです。
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ハマナデシコ(浜撫子)
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アゼトウナ(畔唐菜、畔冬菜)
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ハマヤブマオ(浜藪苧麻)
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帰りは、内堀から天守台の眺めを満喫しながら帰りました。

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久しぶりに来た萩城址は、石垣の魅力的な場所でした。
萩城址(10)岡崎矢倉跡・八間矢倉跡・青海矢倉跡 @ はぎ散歩J [2021年10月21日(Thu)]
前回の続き

岡崎矢倉跡手前から天守台を望む。
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岡崎矢倉跡(岡崎門跡)
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登ってみました。
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岡崎矢倉とそれに続く石垣。
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内堀から天守台を望む。
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天守台から岡崎矢倉を望む。
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八間矢倉の土塀あと。崩れて抜け道になっています。
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八間矢倉跡
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この辺りにお住まいの方に青海矢倉(青貝矢倉)の場所を教えていただきました。
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昔は、岡崎矢倉も八間矢倉も青海矢倉も海に面していたようです。
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【次回に続く】
萩城址(9)洞春寺跡・妙玖寺跡・妙玖寺矢倉跡 @ はぎ散歩I [2021年10月20日(Wed)]
前回の続き

二の丸西側には、臨済宗洞春寺、臨済宗妙玖寺、妙玖寺矢倉・岡崎矢倉・八間矢倉・青海矢倉(青見矢倉)がありましたぴかぴか(新しい)

西門を抜けて、しばらく歩くと、「岡崎矢倉跡」の標識の手前に「洞春寺跡、妙玖寺跡」への標識があります。
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岡崎矢倉跡の石垣だと思われます。ここから、指月山の山裾に入っていきます。石彫公園北側という感じです。
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すぐに「洞春寺跡→」「妙玖寺跡→」という標識があります。
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右手に石垣が見え、坂道があります。洞春寺跡への道です。
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洞春寺跡
登っていくと、広大な敷地が広がり、石垣が残っていて、往時を偲ばせます。
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洞春寺跡」説明板。
洞春寺跡 説明板 (2).jpg

 臨済宗洞春寺は、毛利元就の菩提寺で、1606(慶長11)年、安芸国(現在の広島県)からこの地に移された。境内には、徳川家康の木像や歴代将軍の位牌を祀った霊牌殿、元就の木像を祀った顕西殿があった。毎年、3月14日から16日まで、大般若経千部の読誦が行われ、遠くから多くの人が訪れたと伝えられている。
 1863(文久3)年、山口へ移された後、残された建物は1869(明治2)年、山崩れで破壊され、現在石垣が残っている。


洞春寺は元就の没後の翌年、1572(元亀3)年、元就の菩提寺として元就の孫・輝元、小早川隆景によって安芸国吉田郡山の城内(現在の広島県安芸高田市)に建立されました。開山は嘯岳鼎虎(しょうがくていこ)禅師です。
その後、輝元が広島に築城するに及び、広島城下の十日市に移りました。
さらに、関ヶ原の戦い後、防長二州への移封にともない、1603(慶長8)年に山口の香積寺(現在、瑠璃光寺)に一時移りました。
次いで1606(慶長11)年に香積寺の解体資材を使って萩城二の丸内に建立されました。
萩城二の丸にあった洞春寺は、明治維新後の1869(明治2)年大雨による山崩れのため建物が破壊され、1871(明治4)年に再び萩から山口市の現在地(国清寺⇒常栄寺⇒藩武器庫など)に移されました。

説明板には「1863(文久3)年、山口へ移された」とありますが、山口の現在地は、1863(文久3)年の山口への藩庁移転時には武器などの貯蔵庫として藩に借り上げられた(1863(文久3)年に常栄寺は宮野に移転)はずですが・・・・・・。

詳しくは、「洞春寺@山門 @ 香山公園F」をご覧ください。

洞春寺跡の石垣をあとにして、妙玖寺跡に向かいましょう。
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途中、洞春寺跡の一段上がったところにも開けた場所がありました。ここも、洞春寺の敷地ではないでしょうか。
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井戸がありました。
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妙玖寺跡
洞春寺跡の西隣に位置し、石組の基壇が残っています。
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妙玖寺跡」説明板。
妙玖寺跡 説明板 (2).jpg

 臨済宗妙玖寺は、毛利元就の正室、妙玖の菩提寺で、1612(慶長17)年、この地に建立された。
本尊は釈迦牟尼仏、脇侍は普賢・文殊菩薩、客殿は7間に6間、庫裏は6間に5間の広さであった。
 1869(明治2)年、万年寺に合併され廃寺となり、現在、西側の山手に石組の基壇が残っている。


『萩ネットワーク』第14号(萩ネットワーク協会 1997.3)P.5には、

妙玖寺は毛利元就の正室の菩提寺で、初め安芸国吉田郡山にありましたが、慶長17年に萩城二の丸に建立されたといいます。その後、明治2年に洞春寺に合併され、廃寺となりました。
(「毛利元就ゆかりの史跡を訪ねて』(萩市郷土博物館学芸員 樋口尚樹)引用)

とあります。
万年寺に合併」「洞春寺に合併」、どちらが正しいのでしょうか?
万年寺というお寺を調べましたが、よく分かりませんでした。


さらに「妙玖寺跡兵倉跡(展望台)」の標識に従って進んでみました。
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妙玖寺跡兵倉跡(展望台)
しばらく歩くと着いたのですが、展望台というのは、名ばかりで、草ボウボウで足元が不安で、進むことができません。それでも、木々の間から見える眺望はなかなかのものでした。

北側の眺望(指月山西側海岸)。
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西側の眺望。
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南側の眺望。
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フジバカマの白花 or ヒヨドリバナ?が咲いていました。
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帰途につきました。
木々の間から、石彫り公園が見えるところもあります。
昔はその辺りは海だったはずです。
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道は草も刈ってあり、江戸時代のでしょう、石段もあり歩きやすかったです。
ただ、10月半ばなのに、ヤブ蚊がすごかったです。
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萩城案内図 (5).jpg


【次回に続く】
萩城址(8)西門跡・仰コ神社跡・詰丸跡 @ はぎ散歩H [2021年10月19日(Tue)]
前回の続き

本丸北西部に石段があり、指月山の詰丸へ登っていけるようになっています。
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入口には「詰丸跡」説明板が元はありましたが、今ありません。
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詰丸跡 説明板@ (2).jpg

詰丸跡(国指定史跡萩城跡の一部)
 萩城は、山の名をとって指月城とも呼ばれ、ふもとの平城とあわせ山頂に詰丸を設け、せまいながら本丸・二の丸を置いて陸と海とを監視するため、矢倉数箇所・天水溜二箇所などをもつ望楼であった。
 昭和四十一年度に山口県の補助をうけ、市民の憩いの場として整備され、登山道約七百三十メートル、所要時間二十分で詰丸跡に達します。

指月山(国指定天然記念物)
 今から約三百年前から、お城山と呼ばれていたこの指月山城は、犯しがたいものとして人手を加えられないままに、樹木は成長し現在ではうっそうと木木は茂り、美しい森林となっています。
 シイ・タブノキなどの常緑かつ葉樹が最も多く、落葉樹もまざり、ふもとの海岸には黒松林があって、この附近ではめずらしい原生林であります。

指月山のミカドアゲハ(萩市指定文化財)
 ミカドアゲハは南方産の蝶であって指月山では昭和三十二年にはじめて発見されました。
 現在わが国における本種分布の北限地であります。
 捕らえないように保護しましょう。



詰丸跡に行くその途中に仰徳神社跡があります。
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登山口を出発してすぐに平坦な場所に出ます。この付近が仰徳(こうとく)神社跡です。
1762(宝暦12)年、7代藩主重就によって建立され、毛利氏の始祖天穂日命(しそあめのほひのみこと)と元就・隆元・輝元・初代藩主秀就が祀られていました。
1863(文久3)年、宮崎八幡宮に合祀された後、元就の霊は山口の豊栄神社に、その他は東京の毛利邸に移され、土地神だけが残りました。その後、1908(明治41)年、志都岐山神社本殿の東側に移されました。現在、「重建大祖神廟記」碑と「奉寄進」と刻まれた自然石の石碑が残っています。

「奉寄進」石碑
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重建大祖神廟記の碑
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「重建大祖神廟記の碑」説明板。
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 この石碑は、明和7(1770)年、第7代萩藩主毛利重就によって建てられ、萩城鎮護の社として毛利氏の崇敬を受けていた仰徳神社の由来を記したものである。仰徳神社は、もと春日神社の境内に祠(ほこら)があったが、火災に遭って100年ばかり祭祀を廃していたものを、宝暦12(1762)年、この石碑の右側の平地に、重就によって社殿が建立され、明和7(1776)年に仰徳大明神の社号を賜った。
 例祭は毎年9月末日と10月1日に執行され、身分の上下を問わず士庶の参詣が許され、社前では連歌や舞楽が奉納されて、多くの人々で賑わっていた。現在、社殿は志都岐山神社の東隣に移されている。



その先に詰丸への道が続いていますが、今日はここまでで引き返すことにしますもうやだ〜(悲しい顔)
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西門跡(西高門跡)
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【次回に続く】
萩城址(7)御台所御門跡・井上矢倉跡・井上御門跡 @ はぎ散歩G [2021年10月18日(Mon)]
前回の続き

本丸北東部に行ってみましょう。

御台所御門跡
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登ってみました。
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井上矢倉跡
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井上御門跡の先には、料金所(休業中?)があります。


池泉回遊式庭園の東園は二の丸跡にあるのですが、井上御門跡近くにあるので、ここであげておきます。

東園
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「東園」説明板。
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 東園は、萩城本丸の東北方面に位置し、二の丸内につくられた回遊式の庭園で、池の側には御茶屋もあった。
 萩藩の儒学者山県周南が著した「東園記」によると、6代藩主毛利宗広(1717〜1751)の時に、、この地に古くからあった池を浚渫し、庭をつくって東園と成し、高い館を建てて園を総覧できるようにしたとある。そして、7代藩主毛利重就(1725〜1789)が家督を継いだ時も、旧に従いこの地を遊息の地とし、庭内の各所に六景二十勝の名称をつけ、その景観を装飾したという。
 なお、東園と名づけて整備される以前にも、この地には御花畠と称した庭園があり。御茶屋も建てられていた。



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▲萩城本丸門跡にある説明板の地図を一部抜粋


【次回に続く】
萩城址(6)萩城跡指月公園 @ はぎ散歩F [2021年10月17日(Sun)]
前回の続き

1879(明治12)年に本丸跡に歴代藩主をまつる「志都岐山神社」が創建され、その8年後に城跡が都市公園「指月公園」として整備されました。


志都岐山神社鳥居
本丸門を過ぎると参道が伸びており、志都岐山神社の大きな鳥居があります。
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連理のマツ
傍に連理のマツが植えてあります。
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「連理のマツ」説明板。
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志都岐山神社の狛犬。
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志都岐山神社のミドリヨシノ
右側の狛犬の奥にある桜です。
純白の花と緑色のガクが特徴です。
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「志都岐山神社のミドリヨシノ」説明板。
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 本樹は指月公園内の志都岐山神社参道、旧明倫館遺構万歳橋の東側に位置している。根元の幹周1.7m、幹は基部で三分岐し、一幹は枯損。主幹は目通り周0.8m、樹高6mのさして大木とはいえないが、この種は日本で萩市のみに知られる稀品であり、植物分類学的位置を評論する場合の基準標本の原木として貴重である。
 本種は桜の中で最も一般的なソメイヨシノに似ているが、萼が緑色であるところからミドリヨシノと名づけられた。花は純白色で、遠望すればナシ類の花を思わせる風情は格別であり、また特色の一つでもある。
いずれにしても学術的に貴重な樹木といえる。



万歳橋
志都岐山神社前の庭池に架かっている石橋で、元々は、萩藩校明倫館に架かっていた橋です。
明倫館は、1718(享保3)年、5代藩主毛利吉元により萩城三の丸の南側に創建され、1849(嘉永2)年に毛利敬親により現在地(江向)に移転新築、拡充されました。そのとき、諸侯の学校であることを象徴して聖廟前に池を掘り、そこに架けられたのがこの橋です。
1878(明治11)年、萩城本丸跡内に志都岐山神社の前身である山口の豊栄・野田神社の遙拝所ができたとき、庭池がつくられ現在の場所に移されたといわれています。
江戸時代の藩校の貴重な遺構として、1973(昭和48)年に萩市の文化財に指定されました。
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「明倫館 遺構 万歳橋」説明板。
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 嘉永2年(1849)江向に新築された明倫館には、多くの藩校と同じように聖廟(せいびょう)の前に水を巡らし、その中央に石橋が架けてあった。泮水(はんすい)は泮池ともいい、中国上代の形式を模倣したもので、諸侯の学校であることの象徴である。泮は半と同じ意味で、聖廟周囲の南半分にしか水がないことを意味している。橋は花崗岩で造られており、長さ4.05m、幅員3.15mの直橋で、橋脚はなく両岸の石垣の橋台に2本のアーチ式橋桁(はしげた)を渡し、その上に10個の短冊石(たんざくいし)を横に並べて造られており、中国風のデザインを施した太鼓橋(たいこばし)である。


楫取素彦寄進の井戸
奉寄進明治十二年巳卯十一月」「群馬県令従五位香楫取素彦」とあります。
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「楫取素彦寄進の井戸」説明板。
(写真がブレていて掲載できません)
 楫取素彦は文政12年(1829)、萩藩医松島瑞璠(ずいばん)の次男として萩に生まれ、12歳の時に萩藩の儒者小田村吉平(きっぺい)の養子となり、小田村伊之助と名乗った。藩校明倫館で儒学を講じ、嘉永6年(1853)吉田松陰の妹寿(ひさ)と結婚した。松蔭の再入獄後は後継者として、松下村塾でも指導にあたった。慶応元年(1865)の四境(しきょう)戦争(幕長戦争)では幕府側との交渉にあたり、慶応3年藩命により楫取素彦と改名した。明治9年(1876)初代群馬県令となり、同17年(1884)まで蚕糸業の振興や教育の充実に尽力した。明治14年(1881)寿と死別後、同16年に松陰の妹で久坂玄瑞の未亡人文(ふみ)(美和子)と再婚した。大正元年(1912)没、享年84。
 志都岐山神社は明治12年(1879)に建立され、毛利元就・隆元・輝元・敬親・元徳を主神とし、初代から12代までの萩藩主を配祀している。この井戸は、明治12年11月の志都岐山神社創建時に、当時群馬県令であった楫取素彦が寄進したものである。



山根秀介寄進の灯籠
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「馬島先生之碑」石碑。
馬島春海は長州藩士で、松下村塾出身の漢学者です。
1857(安政4)年、16〜7歳のとき吉田松陰門下となりました。
高杉晋作の奇兵隊では書記を務め、文久年間まで国事に奔走しましたが、辞任して萩に帰り、1863(文久3)年に漢学塾「晩成堂」を開き、1871(明治4)年まで続けました。
のちに東京に出て、1905(明治38)年11月、66歳で亡くなりました。
この碑は門下生が建てたもののようです。
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志都岐山神社社殿。
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「志都岐山神社」説明板。
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 志都岐山神社は、明治11年(1878)、旧本丸付近に萩の有志が山口の豊栄(祭神 毛利元就)・野田(祭神 毛利敬親)両神社の遥拝所を建立したのが始まりで、その後、指月神社とされていたが、明治15年(1882)(県社に列せられ)現在の志都岐山神社となった。
 祭神は、毛利元就・隆元・輝元・敬親・元徳の5柱で、その他に、初代から12代までの萩藩主が祀られている。現在も例祭が毎年4月と10月に行われている。




萩城址碑
本丸中央付近にが建っています。
長州藩最後の藩主であった毛利元徳の長男である元昭によって、1919(大正8)年に建てられました。
萩城の来歴が記されています。
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「萩城址碑」説明板。
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 この石碑は、大正8年(1919)11月、公爵毛利元昭によって建てられ、萩城の来歴を記したもので、子爵杉孫七郎の撰文、高島張輔(日本画家高島北海の実兄)の書である。萩城は毛利輝元によって築城され、慶長9年(1604)に工事に着手し、4年後の慶長13年に完成した。以後260年間、萩藩主の居城として、また周防・長門両国の藩政の中枢機関として偉容を誇った。しかし、第13代藩主敬親の代に至り、幕末の多端な国事の処理に不便なため、文久3年(1863)4月、藩府を山口に移した。その後、藩主の居館、諸役所などが漸次取り除かれついに明治6年(1873)には政府から萩城払い下げ令が下り、翌年天守閣、矢倉などすべてが解体された。


本丸跡には萩城址碑の他にもたくさんの萩に縁のある人物などの顕彰碑が建っています。

その内の1つが、近藤元統の碑です。
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「近藤元統の碑」説明板。
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 萩城建築以前に、ここに屋敷を持っていた近藤元統の屋敷跡及び墓所であるといわれる。元統の孫露竹の代、毛利輝元による萩城築城の際に、この地を献上した。
 露竹は輝元の萩打入りを迎え、深野太郎左衛門とともに、塩屋町・今魚店町の取り立てに尽力した。
 この碑は、明治30年(1897)12月、近藤氏の子孫にあたる史家近藤清石(きよし)によって、その旧跡に建てられ、清石は、
  あわれ其恵の露のかからでは
   かからざらまし露の草むら
という和歌を詠んだ。


近藤清石には『大内氏実録』『山口名勝旧蹟図誌』などで、とてもお世話になっているので、感激しましたわーい(嬉しい顔)


また、梨羽家茶室旧福原家書院、花江茶亭が移築されています。

花江茶亭
幕末13代藩主毛利敬親が安政年間に藩主別邸・花江御殿に増築し、家臣とともに茶事に託して時勢を論じた茶室「花江茶亭」が明治22年に園内に移築されています。
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【次回に続く】
萩城址(5)着見矢倉・雁木・天守閣跡 @ はぎ散歩E [2021年10月16日(Sat)]
前回の続き

着見矢倉
本丸南東部にあります。
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着見矢倉を内堀の方から望みます。
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本丸門の左側の石垣に登ることのできる階段があるので、登ってみました。
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石垣は左に着見櫓まで続いてます。
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石垣を右に少し行くと、途中で。 右に折れて、
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十数メートル先でまた、左に折れ曲がり(振り返ってみたところ)、
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その先は天守台の下まで続いていて、
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途中に面白い石柱もあり
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天守台に続く内堀沿いの石垣に長い雁木(石段)が設けられており、
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天守台の手前まで石垣の上を歩きました。
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雁木。 
全国でも最大規模だそうです。
有事の際には一斉に兵士が石垣の上(多聞櫓)に上がることが出来る構造になっています。
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天守台への階段。
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「萩城天守閣跡」標識。
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「萩城天守」説明板。
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 萩城は、関ヶ原の戦いに敗れた毛利輝元が防長二州・三十六万石の居城として、慶長9年(1604)に起工し、同13年(1608)に完工した。 
 (桃山初期の形式を示す)白亜五層の天守は、高さ8間(14.4m)。初層平面規模は東西11間(19.8m)、南北9間(16.2m)、最上層は東西3間半(6.3m) 、南北3間(5.4m)である。初層は石垣全面にわたって半間分を張出し、俯射装置(石落し)とした。
 明治7年(1874)に解体されるまで270年間 天守は、 毛利氏13代にわたる萩城の象徴として偉容を誇っていた。


天守台へ登ってみましょう。
天守閣の礎石が礎石がしっかり残っています。
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古写真によると、5層の天守は2層の入母屋造の台座の上に3層の望楼型が載っている形で、1層目が石垣より大きい張出構造になっていいます。史料によると赤瓦を葺き漆喰壁を持つ白亜の望楼型天守だったようです。
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天守台の上から北西方面の内堀を見下ろすと、堀が複雑な形になっています。
北側、指月山の眺望。
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西側の眺望。
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東側、極楽橋の眺望。
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【次回に続く】
旧山口電信局舎 [2021年10月15日(Fri)]
山口市白石にある旧山口電信局舎ぴかぴか(新しい)
周りはすっかり変わってしまったけれど、この建物は健在です。

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1872(明治5)年に開通の東京⇔長崎の電信ケーブルが架設され、1873(明治6)年に山口電信局舎として建てられました。

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国の登録有形文化財です。

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木造総2階建、方形造、桟瓦葺、入母屋造。
外壁はオイルペイント塗り、下見板張りで、軒蛇腹と胴蛇腹の飾りがあります。

IMG_E1016.JPG北側 
IMG_E1003.JPG北東側 
IMG_E1009.JPG南側 
IMG_E1012.JPG南西側 
IMG_E1010.JPG西側(裏側)

窓は、鎧戸付の縦長両開き窓です。

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私が子どもの頃(小学生から中学生にかけて)、よく見ていたのはこちら側、裏側(西側)です。そばの道もよく歩いていました。
今はちょっと残念な感じですが、以前は、玄関側(東側)と同じように鎧戸付の縦長両開き窓が4つあったように記憶しています。
子ども心に、お洒落な建物だなあ、と思っていました。もと電信局があったこともちゃんと認識していて、「電信局」と呼んでいたような気がします。

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元の持ち主の表札がまだかかっています。

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玄関ポーチと一部の窓、内部を改修しています。
さあ、入ってみましょう。

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照明もステキなんです。

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この建物の中で、今日10月15日(金)〜24日(日)旧山口電信局舎交流事業「まわるわ ― 旧山口電信局舎から始る まわる・つくる・まわる ―」が開催されますぴかぴか(新しい)
期間中は申込不要、無料で入館できます。
個人宅で一般に公開されていなかった建物内部に入ることのできるいいチャンスなのでぜひどうぞわーい(嬉しい顔)

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カフェメニューも充実しています揺れるハート

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カフェコーナーでドリンクを注文すると、オリジナルコースターが1枚もらえます。
どれを選ぶか悩みますね。

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萩城址(4) @ はぎ散歩D [2021年10月07日(Thu)]
前回の続き

萩城本丸は、指月山を背後にした本丸御殿を中心に、南西部に天守を、南東部に着見矢倉、北東部の隅に井上矢倉を配した曲輪ですぴかぴか(新しい)
広さは東西約200m・南北約145mありました。

戦国時代、吉見氏が、指月山に出城を築いたとされます。萩博物館には、「吉見正頼銘琵琶」があり、その内部には

天正八年庚辰 七月十九日 長門萩之浦 於指月城下作也 吉見 正頼(花押)

と記されています。

1600(慶長5)年関ヶ原の合戦に敗れ、領国を長門・周防に減封された毛利氏は、本拠広島城からの移転を余儀なくされ、「山口の鴻ノ峰(高嶺城跡)」、「三田尻(防府市)の桑山」、「萩の指月山」を候補地として挙げたところ、幕府は最も不便な萩を選んだといわれています。輝元自身が選んだともいわれています。
築城は1604(慶長9)年に開始し、1608(慶長13)年に完成しました。

幕末になると、1863(文久3)年に交通の便がよく、海からの砲撃を受けることのない山口城へ、幕府に無断で移りました。
明治維新後の1873(明治6)年「全国城郭存廃ノ処分並兵営池塘選定方」(廃城令)により「廃城」となり、1874(明治7)年に天守閣、矢倉などの建物は全て解体され、現在は石垣と堀の一部が昔の姿をとどめています。

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右側は城内にある「志都岐神社」石碑
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左には「史跡 萩城址」石碑
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「国指定史跡 萩城跡」説明板。
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 萩城は関ヶ原の役後、毛利輝元が慶長九年(一六〇四)築城に着手し、四年後の同十三年(一六〇八)に至って完成したものである。萩市街の西北隅、指月山(標高一四三メートル)の麓に位置し山名をとって指月城とも呼ばれた。山麓の平城と頂上の山城とを併せた平山城である。当時輝元は隠居していたがその子、初代藩主秀就が幼少のため、築城後も政務を執っていた。以後代を重ねること、十三代敬親に至って幕末多端な国事を処理するに不便なため文久三年(一八六三)四月山口に移った。ついで明治七年(一八七四)建物のすべてが解体された。本丸には高さ十四、五メートルの五層の天守閣があったが、今はその台座のみ残っている。周囲には石塁を築き内部には藩主の居館ならびに藩役所と附属建物があった。この城は二五九年間防長両国政治の中心であり明治維新に大きな役割を果たした重要拠点でもあった。


正面となる南側には本丸門と極楽橋を設けていました。
本丸門は、内側の渡櫓門と外側の高麗門で構成される内枡形の虎口です。
極楽橋は、現在は土橋ですが、往時は木橋でした。橋の長さは6間(約12m)、幅が2間(約4m)余りあり、有事の際には、敵の侵入を防ぐためすぐ落とせるように工夫されていました。
二の丸との間には幅20間(約40m)の内堀・石垣を巡らせていました。

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本丸門から入ったところにあるこの案内板にご注目くださいひらめき
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まず、この地図がすばらしい。
矢倉跡や門跡をチェックして歩くのにとても役に立ちましたひらめき
矢倉跡・門跡は、『御城内御作事謝御悩所坪数其他目録』天明6年(1786)をもとに記載」とあります。
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萩博物館所蔵の「慶安5年萩城下町絵図」までありますひらめきひらめき
この絵図は、山口県立文書館も所蔵していて、こちらはインターネット公開しています(無断転載不可)。
見比べてみると、彩色の仕方など少し違うようです。
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そして、「明治時代初期の古写真」ひらめきひらめきひらめき
小野為八が撮ったものといわれています。
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小野為八(1829(文政12)〜1907(明治40))については、「雲谷庵に行きましたA」のところで書きましたが、長州藩の砲術師範であり、等魁という画号を持つ雲谷派の絵師でもありました。維新後写真家としても活躍しました。
1875(明治8)年山口に写真館を開いたといわれていて、山口市の八坂神社にある河村写真館がそれとされていましたが、今では明治20年前後に旧士族の松原繁が写真館として建築したと考えられ、その後現在の河村写真館に変わったというのが定説のようです。

DA9C1F35-56C5-4538-9DCA-F2252170FAF6.jpeg小野為八が描いた龍 F6446035-BDFB-4DB3-8A20-797A98A22B34.jpeg河村写真館


小野為八さんと同じ写真を撮ろうと頑張りましたが、ちょっと高い位置から撮っているのがよくわかりました。
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ただ、新しい説明板は西部分が省略されているがとても残念で、かけ替える以前の「萩城跡 指月公園案内図」説明板もあげておきます。
萩城案内図.jpg 萩城跡 指月公園案内図 (2).jpg


次回に続く
萩城址(3)二の丸東側 @ はぎ散歩C [2021年10月06日(Wed)]
前回の続き

二の丸東側を北に向かって、さらに進んでみましょう。海に面して石垣が続きます。
菊ヶ浜の方に面した東側には渡櫓門式の潮入門やいくつかの埋門(うずみもん)(石垣などをくり抜くように作られた門)がありました。
華矢倉・紙矢倉・荒川矢倉・満願寺矢倉(三摩寺院矢倉)・北矢倉が築かれていました。
また、蔵元役所、真言宗満願寺・三摩地寺院・宮崎八幡宮などの寺社、東園(回遊式庭園)などがありましたぴかぴか(新しい)


ハギの花の向こうに石垣が見えますが、こちら側は二の丸、あちら側は本丸です。
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華矢倉跡。 
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階段があります。
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埋門跡でしょうか。
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外に出てみましょう。
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戻ります。
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登ってみましょう。
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紙矢倉跡
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銃眼土塀(二の丸土塀)
鉄砲狭間があるため「銃眼土塀」と名付けられています。
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登ってみました。
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鉄砲狭間から覗いてみました。
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内堀の方を見ると、この辺りで内堀は切れています。
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鉄砲を撃つための四角い穴をあけた銃眼(鉄砲狭間)土塀が潮入門まで巡っていたそうです。
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「二の丸土塀(銃眼土塀)」説明板。
二の丸土塀(銃眼土塀)説明板 (2).jpg

二の丸は東西一三五間、南北五八間で、その内に一三の矢倉(二の丸にあるのは12の矢倉では?)、井戸三四ヶ所、蔵元役所などがありました。東門から潮入門に至る土塁に城壁が続いていましたが、この土塀は昭和四〇年(1965)春一部復元したものです。
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潮入門跡からの方から二の丸(銃眼)土塀を臨みます。
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潮入門跡
二の丸東門から潮入御門まで城塁が築かれていたといいます。
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展望所があったので登ってみました。
「皇太子殿下 行啓之所」碑がありました。
大正ということなので、昭和天皇が来られた場所ですね。
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西側に目を移すと東園があります。
東園は二の丸にあったものですが、次回、指月公園内の項で紹介します。


荒川矢倉跡があるはずなのですが、鎖が巡らせてあり入れないようになっています。


土塀が残っています。
三摩地寺院跡でしょうか?
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三摩地寺矢倉跡? 
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瓦も残っていないさらに崩れかけた土塀もありました。
満願寺跡でしょうか?
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お寺か神社の跡と思われます。
宮崎八幡宮跡でしょうか。
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北矢倉跡
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石垣の間から海が見えます。
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海に突き出ているここに来ると、「海城」と感じます。
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二の丸東側は北端にある北矢倉跡の高さ約4.5メートルの石垣をはじめ、4〜5メートルの石垣や土塁が延々と続いていて、見応えがありますわーい(嬉しい顔)


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▲萩城本丸門跡にある説明板の地図を一部抜粋


次回に続く
萩城址(2)二の丸南門跡・東門跡 @ はぎ散歩B [2021年10月05日(Tue)]
前回の続き

萩城二の丸南門跡の前には萩史料館と旧厚狭毛利家萩屋敷長屋があります。

旧厚狭毛利家萩屋敷長屋
二の丸南門の近くにあり、梁間5メートル、桁行51.5メートルの長大な入母屋造り本瓦葺きの建物は、萩に現存する武家屋敷のなかでも最大の規模を誇り、国の重要文化財に指定されています。
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「旧厚狭毛利家萩屋敷長屋(きゅうあさもうりけはぎやしきながや)附(つけたり)棟札(むねふだ)1枚」説明板。
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 厚狭毛利家は、毛利元就の5男元秋(もとあき)を始祖とする毛利氏一門で、厚狭郡厚狭(現山陽小野田市)に知行地(ちぎょうち)(8,370石余)をもっていたのでこのように呼ばれた。萩の屋敷は萩城大手門の南100mの要地に位置し、面積約15,500uの広大なものであった。
 棟札(むねふだ)によるとこの長屋は10代元美の時、安政3年(1856)に建てられたもので、桁行51.4m、梁間5.0mの長大な構造で、現在萩に残っている武家屋敷の中で最も大きい。
 屋根は入母屋造(いりもやづくり)、本瓦葺(ほんかわらぶき)、南面は廂構桟瓦葺(ひさしがまえさんかわらぶき)で、妻飾りは木連格子、南に向かって玄関および濡れ縁を設け、障子を立てて開放的に作られている。手法の特に目立つものはないが、建築年代がはっきりした貴重な建物である。



萩史料館のそばの指月駐車場に車を停めました。
この辺りに中堀があったそうです。
二の丸南側は幅16間(約32m)の中堀で囲まれていました。
しかしながら、1926(大正15)年に橋本川の水を迂回させて水害を防止するために指月川(萩疎水)が造られた時に、埋め立てられました。

中堀跡
南門入口の石垣の前に建っています。
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いよいよ二の丸です。
二の丸は、本丸と指月山を囲むように造られた曲輪で、12基の矢倉、34の井戸、蔵元役所、寺社(東側に真言宗満願寺・宮崎八幡宮、西側に臨済宗妙玖寺・臨済宗洞春寺・仰徳神社など)、6代藩主毛利宗広により東園と名付けられた回遊式庭園などがありました。

まず、二の丸(二の曲輪)への入り口となる南門跡があります。
築城した毛利輝元の像もあります。

「舊長藩 指月城址」石碑
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舊長藩(きゅうちょうはん)」(「舊」は「旧」の旧字)とは聞き慣れない言葉なので、調べてみましたサーチ(調べる)
国立国会図書館に『松下村塾零話 : 附・大村公逸話、舊長藩十二士伝』(天野御民 /著 山陽堂 明41.4)や山口県立山口図書館に『舊長藩殉難者名録』(時山弥八 /著 時山弥八 大正2(1913))という本を所蔵しており、その書誌説明に「長州藩・・・云々」とありました。『稿本 毛里乃志希里(もりのしげり)』(時山弥八 /著 時山弥八 大正5)にも「舊長藩内学館表」「舊長藩架橋及開作表」「舊長藩内陶窯表」「舊長藩士卒階級一覧表」「舊長藩職役一覧表」「舊長藩諸隊表」「舊長藩軍艦表」が所収され、「萩藩および毛利氏の便覧的な資料」と説明されていました。
ということで、やはり「長州藩」のことでした揺れるハート


毛利輝元公像
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「毛利輝元」説明板。
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 毛利輝元は、天文22年(1552)毛利隆元の長男として安芸国吉田郡山城(現在、広島県安芸高田市)に生まれた。戦国時代中国地方の覇者となった毛利元就の孫にあたる。永禄6年(1563)、父隆元の死去にともない(十才で)家督を継ぎ、祖父元就の手によって養育された。
 織田信長や豊臣秀吉と覇を競い、中国地方8ヶ国112万石を領有する大大名に成長し、 天正17年(1589)広島に居城を築いた。豊臣政権下では五大老の一人として権勢を誇ったが、慶長5年(160))関ヶ原の戦いで敗れ、 周防・長州2ヶ国36万9千石に減封された。慶長9年(1604)、居城を萩に選定し、同年11月11日、城に入城した。萩開府にあたって、城下町の建設を推し進めるとともに、萩藩経営の安定に腐心した。
 寛永2年(1625)73才で没し、 萩城三の丸(堀内)の天樹院に葬られた。
 


南門跡
内枡形虎口城門で、大手門である南門は虎口内部に突き出た石垣を設けて「コ」の字型とする構造となっており、塩矢倉が設けられていました。
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正面玄関だけあって、大きな石がふんだんに用いらています。
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鏡石。
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塩矢倉跡
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振り返って見ると・・・。
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土塁の下に設けられて穴。
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土塁に上がってみました。
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二の丸を抜けると、本丸門前の内堀に出ますが、東門跡の方へ行ってみましょう。

指月小橋
指月川(指月疎水)に架っかています。
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萩八景を巡る「萩八景遊覧船」が見えます。
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向こうは、日本海です。
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東門は、外門(高麗門)・内門(渡櫓門)に加えて、三重の東矢倉・二重の時打矢倉の2つの櫓が設けられていました。

東門跡
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東矢倉跡
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時打矢倉跡
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内堀の方から東門へ。
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東門跡から内堀方面へ。
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▲萩城本丸門跡にある説明板の地図を一部抜粋


次回に続く
萩城址(1)三の丸 @ はぎ散歩A [2021年10月04日(Mon)]
久しぶりに萩城址に行きましたぴかぴか(新しい)

萩城とその城下町は、阿武川の三角州上に造られています。
城は北に向かって突き出た指月山と南東側山麓に展開しています。
指月山山頂の「詰丸(要害)」、指月山東南部の藩の政庁と藩主の住まいがあった「本丸(天守曲輪)」・「二の丸(二の曲輪)」、重臣たちの屋敷があった「三の丸(三の曲輪)」で萩城は構成されていました。

橋本川に架かる常盤橋より指月山を望む。
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外堀
萩城外堀は、萩城三の丸と城下を隔てていた堀です。
江戸時代の初めに掘られ、当初は20間(約40m)の幅がありましたが、その後、14間(約28m)、8間(約16m)と狭くなりました。
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外堀に架かる白漆喰仕上げの土塀付き土橋が再現されています。
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北の総門
萩開府400年を記念して2004(平成16)年復元された日本最大級の脇戸付高麗門で、切妻造、本瓦葺、柱間約5.9m、高さ約7mです。
藩政時代、城下から三の丸に入るために、「北の総門」、「中の総門」、「平安古(ひやこ)の総門」の三か所の総門がありました。
当時は、門番が常駐して人の出入りを監視していました。
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説明板「北の総門の概要」。
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 北の総門は三の丸(堀内)の入口である総門の一つです。総門は北、中、平安古の3か所があり、あわせて「大手三つの門」と呼ばれていました。昼間は門番が常駐して出入りする者を監視し、夜は門を閉じて鑑札を持つものしか通れませんでした。
  天文年間(1739〜1740)の絵図によると、 北、中の総門前に新たな枡形と南北の船着場が描かれています。枡形と土橋には土塀が巡り、船着場に続く箇所は喰い違いになっています。この時期に北、中の総門周辺が再整備されたことがうかがえます。
 

井戸も復元されています。
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旧益田家物見矢倉
北の総門通りにあります。
北の総門の見張り台も兼ねた矢倉(武器を収納した倉)です。
高さ1.8mの石塁の上に立つ、長さ11m、奥行約5mの堅固な単層の建物です。。
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「旧益田家物見矢倉」の説明板。
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 益田家は萩藩(一二、〇六二石余)の家柄で、 阿武郡須佐に領地をもっていた。
 建物は木造本瓦葺き、入母屋造、 桁行一一・〇六メートル、梁間は五・〇六メートルである。
 石組の上に単層の堅固な建物で、「矢倉長屋」と称され、物見も兼ねていた。棟瓦、懸魚(げぎょ)、格子窓などの意匠や規模がすぐれている。
 当家幕末の当主、益田規施は藩主毛利敬親のとき、国家老などの要職をつとめ、 藩政改革に尽したが、 元治元年(一八六四)禁門の変の責任者として徳山藩へお預けとなり、切腹されられた。年三十二歳



旧繁沢家長屋門
繁沢家は北の総門近くにあります。
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「旧繁沢家長屋門」説明板。
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 繁沢家は阿川毛利家(7391石余)の分家で、萩藩寄組(1094余石)に属し、 給領地を大津郡三隅村(現在の長門市)と阿武郡小川村(現在の萩市)などに持っていた。
 建物は桟瓦葺き、切妻造り、桁行35.5m、梁間4.9m、 中央から左寄りに門が設けられている。  同家藩政初期の当主、繁沢就充(はんざわなりみつ)は藩要職として活躍した。



大野毛利家隅矢倉
中の総門には大野毛利家の隅矢倉がありました。
大野毛利家屋敷跡に萩博物館が建設され、大野毛利家の隅矢倉は、大正時代の写真を元に萩博物館の建物として復元されました。
C679741C-84C9-4DA7-ADAD-989F18D3FEAA.jpeg 大野毛利家隅矢倉(復元)・萩博物館駐車場側@.JPG
 

平安橋
萩城三の丸の平安古の総門(南の総門)前の外堀の新堀川に架けられた橋です。
慶安5(1652)年の城下町絵図には木橋として描かれていますが、明和年間(1764〜1771)に石造りに架け替えられたものと推定されるそうです。
橋桁6.04m、幅員3.95m、堀底からの高さ2.5m、吊り桁・定着桁を備えたゲルバー桁橋を持った無橋脚の玄武岩の石橋です。
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旧児玉家長屋門
児玉家は萩城三の丸の平安古総門に隣接していました。
幕末の萩城下町絵図によると同家の表門は平安古総門に面して南向きであったとみられ、この長屋は屋敷の西側道路に沿って建てられたものです。旧児玉家に隅矢倉がありました。
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次回に続く
萩キリシタン殉教者記念公園 @ はぎ散歩@ [2021年10月03日(Sun)]
萩市堀内の指月城あたりを走っていると、「熊谷元直」と彫った大きな石碑が目にとまり、

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車から降りてみると「萩キリシタン殉教者記念公園」とありましたぴかぴか(新しい)
そういえば、指月川にかかる橋を渡る際、そんな案内板があったような・・・。

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十字架のついた門をくぐると、

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説明板があり、

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キリシタン殉教者と記念碑
 明治元年(一八六八)に続いて明治三年、政府はキリスト教弾圧政策をとり、長崎の浦上村全信徒三千八百人を全国各地に流刑した。これがいわゆる「浦上崩れ」である。このうち約三百人が萩の地に流された。
 進行篤い彼らを改宗させるために三年間続けられた過酷な拷問と飢えのため、四十余名が英雄的な殉教を遂げた。そのうち二十名がここに埋葬さらえていた。
 在りし日の迫害、忍苦の跡を偲んで萩カトリック教会初代司祭ビリヨン神父は、明治二十四年(一八九一)に、信徒が拷問されていたこの岩国屋敷跡に、寒天に裸体にされて責められたという庭石を集め、それを基礎として記念碑を造り、「奉教致死之信士於天主之尊前」の碑文を刻んだ。
 またここには、慶長十年(一六〇五)に棄教をを拒んで殉教した毛利藩重臣熊谷元直の碑等がある。


真っすぐに進むと、

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「信仰之為生命を奉げたカトリック教徒記念の聖地」碑があり、

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正面には石碑がありました。

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「奉教致死之信士於天主之尊前」と刻まれています。
信仰のために亡くなった信者は、神の前に貴いという意味です。

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碑の周りには殉教した切支丹の墓石が並んでいます。

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G_01_kirisitanjunkyoshakinenkouen_12_02.jpg山口県Photo素材集より


一番始めに紹介した大きな碑は、「熊谷元直」碑。
そばの碑は左が「萩城建築者 伯多禄天野元信 殉教ス」、右が「伯多禄巻村 狩野半右衛門 殉教ス」

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そばには、熊谷元直についての説明板がありました。

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五郎太石事件の際、キリシタン信者であったために毛利輝元によって処刑された、熊谷元直と天野元信の殉教碑の碑です。

キリシタン墓もあります。

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ビリヨン神父についてはこちらに記しています。
「大道寺に行きました」https://blog.canpan.info/jointnet21/archive/992
オモダカ @ 萩城外堀北の総門C [2021年09月29日(Wed)]
前回の続き

ミズアオイを観察していたらそばに、矢尻形をした葉が目につきました。

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オモダカ(沢瀉・澤瀉・面高)ですぴかぴか(新しい)

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オモダカの語源は諸説あるのですが、葉面に隆起した模様があることから「オモダカ(面高)」と名付けられという説があります。

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「ハナグワイ(花慈姑)」「なまい」ともいいます。

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平安時代の本草書である『本草和名』(深根輔仁撰)(国立国会図書館蔵)全2巻の上巻「澤瀉」の項に、

和名奈末為 一名於毛多加

とあります。

オモダカ 本草和名上巻A (2).jfifオモダカ 本草和名上巻 (2).jfif

食用のクワイはこの変種です。
夏の季語です。

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白色3弁の花を長い花穂につけます。

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毛利氏の家紋は「三つ星一文字」が知られていますが、沢瀉紋も使用しました。
毛利元就が、沢瀉に蜻蛉が止まったのを目にし、「勝ち草に勝ち虫、勝利は疑いなし」と全軍に号令し合戦に大勝利したことにちなみ沢瀉紋を使い始めたと伝えられます。

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毛利家関係の建造物や什物によく取り入れられています。
下の写真は、防府市の毛利邸では見つけた沢瀉(オモダカ)の一部です。

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IMG_5273 (2).JPG釘隠し 
IMG_5285 (2).JPG釘隠し 
IMG_5288 (2).JPG照明具 
IMG_5302 (2).JPG欄間 IMG_5302 (3).JPG

毛利のオモダカと、徳川のアオイ(実際はミズアオイですが!)が仲良く生えているのがととも面白かったです揺れるハート

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ここまで書いていて、何なんですが、葉っぱが幅広の感じで、もしかして、クワイ(慈姑)かも????
クワイは、オモダカの栽培種ということで、お許しください。

オモダカは、『本草図譜』第10冊 巻76果部 水果類5(国立国会図書館蔵)「慈姑」の項にあり、「野慈姑」として載っていました。

クワイ 本草図譜 第10冊 巻76果部水果類5A (2).jfif クワイ 本草図譜 第10冊 巻76 果部水果類5 (2).jfif

新井白石の『東雅20巻目1巻3(巻之12-16)』(国立国会図書館蔵)にも、「澤瀉(ナマヰ) 烏芋(クワヰ)」に一緒に書いてありました。

クワイ 東雅 20巻目1巻 3(巻之12-16) (2).jfif

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