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こどもと本ジョイントネット21・山口


〜すべての子どもに本との出会いを〜

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神福寺に行きましたA [2020年06月21日(Sun)]
【前回の続き】

神福寺ではチェックすべきポイントが三つありますぴかぴか(新しい)

かわいい木造十一面観音立像
宮野の泊瀬観音堂にあった十一面観音があります。(秘仏なので拝観できませんが)

観音堂。
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「木造十一面観音立像」説明板。
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重要文化財 
木造十一面観音立像
   大正六年八月十三日指定
   所在地 山口市八幡馬場八一三番地
この像は、寺伝によれば大内氏の祖である琳聖太子が百済国から来朝したときに請来されたものと伝えられている。中国唐代の作と考えられる。一木造り、素地で、材は楠とも桜ともいわれはっきりしない。後には大内政弘の念持仏として、宮野の泊瀬観音堂の本尊になっていたが、堂の荒廃にともなって神福寺に移され祀られている。
秘仏のためふだんは公開されていない。蓮華座の上に立つ高さ49.5cmの小像であるが、製作年代が古いことと作りがすぐれていることにより、指定されている。
十一面観音の特徴は、頭上に十一面の化仏を載せていることで、祈念すれば現世利益十種と来世の果報四種の功徳があるといわれている。
本像は化仏の多くが脱落しており、五面しか残っていない。また、両手の指先、鼻頭や口唇に破損している所があるのは惜しいことである。
  秘仏であるので、通常は拝することはできない。
     山口県教育委員会
     山口市教育委員会


観音堂の蟇股。
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毎月21日には、ここの扉は開かれるのでしょうか、来てみないといけません。
ただ、厨子に入っている十一面観音は見ることできません。次のご開帳はいつなのでしょうか?
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周防国三十三番観音の二十九番となっています。
因みに、二十八番は花滝山清水寺、三十番は大梅山大通四海寺です。
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享保七年(一七二二)出版の「当国(周防国)順礼手引き」によれば、南北朝時代に大内弘世は深く観音を信仰し、所領の本国防州内に三三番の観音堂を定めたことに始まると伝えている。その二十六番から三十三番までが吉敷郡内の観音霊場である。
(略)
○二十九番同郡山口蜘蛛山泊瀬寺
 当山者大内之建立、本尊十一面観音、唐仏也
  みなひとのねがふこころはみねのつき、あまねくてらすのちのよまで
 どうは二けん四めん、たつみむき、はせよりだいつういんへ三十丁

(『山口市史 各説篇』(山口市史編纂委員会/編 山口市役所 昭和46.3)P337〜8抜粋)

大阪市立美術館「仏像 中国・日本〜中国彫刻2000年と日本展・北魏仏から遣唐使そしてマリア観音へ」(2019年10月12日(土)〜12月8日(日))で展示されていたとのこと、行けばよかった・・・・・・残念もうやだ〜(悲しい顔)
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▲大阪市立美術館 特別展「仏像 中国・日本〜中国彫刻2000年と日本展・北魏仏から遣唐使そしてマリア観音へ」チラシ

チラシの一番左の仏像が神福寺の十一面観音ですexclamation×2
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東京国立博物館 特別展「名作誕生−つながる日本美術」(2018年4月13日(金)〜5月27日(日)でも展示されていたみたいですね。



かわいい古い宝篋印塔
裏山(七尾山)の墓地に行く途中の僧侶墓地と思われる一角にあります。

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永正17年(1520年)の宝篋印塔。義興の時代です。
永正拾七季十月廿日」とはっきり入っています。
基礎、軸部、屋根は一揃いのようですが、相輪を欠失しています。
88cmの小型の宝篋印塔です。
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天文22年(1553年)の宝篋印塔。義隆の時代です。
相輪の宝珠欠失以外は完全です。
74cmです。
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天文廿二年
 法印宥任
 六月□日

 
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かわいい近藤清石翁の墓
墓地にあります。

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近藤清石(1833(天保4)〜1916(大正5))は、萩の豪家大玉新右衛門二男として生まれ、のち藩士近藤家を嗣ぎました。藩校明倫館に1859(安政)6年に入学、国学者近藤芳樹に師事し国学を修めました。諸国を遊歴、伊勢の足代弘訓から強い影響を受けました。
萩藩士(御手廻組)として密用方助筆、右筆役などを歴任しました。
1866(慶応2)年には戊午(安政5年)以来の事跡編纂掛となり、古記録の調査にあたりました。
1868(明治元)年、議政局書記を経て、1872(明治5)年、山口県庁御用掛、山口県神官教導職管事を兼任。1873(明治6)年、玉祖神社宮司、地誌訂正取調掛兼務となり、社家の指導につとめる一方、地誌および旧記の編纂に尽力しました。この間に『山口県地誌略属用地図』(宮川臣吉 1878)、『山口県史略』(博古堂 1883)などを著しました。
旧記掛時代の1881(明治14)年、同掛の編纂費用を用い興隆寺の蔵を購入、県庁へ移築。「旧記庫」として利用し、旧藩庁文書などの記録保存の基盤を整備しました。
1885(明治18)年に地誌局廃止のため退官。以後、郷土史の研究を精力的に行い、『防長旧族志』、『大内氏実録』(中元壮作・宮川臣吉 1885)、『山口名勝旧蹟図誌』(宮川博古堂 1894)など防長両国の史実に関する数多くの著作を残しました。
1901(明治34)年、山口県から防長風土記編纂方を委嘱され、4年半をかけて研究の集大成となる『山口県風土誌』をまとめました。
また、和歌・随筆・絵画にも秀で、後に山口の特産品となる大内塗を復興し、1884(明治17)年には雪舟の古跡雲谷庵を再建しました。 

50903907-1F81-46D7-AF77-23C45DF257D1.jpeg玉祖神社(防府市) 
28E7B4B4-01A5-44EA-BCD3-25DA27345CE1.jpeg大内塗 
IMG_1517.JPG雲谷庵(山口市天花)    



参考文献:
『山口市史 各説篇』(山口市史編纂委員会/編 山口市役所 昭和46.3)
  P337〜9「周防国三十三番観音」
『山口県地誌略属用地図』『山口県史略』『大内氏実録』『山口名勝旧蹟図誌』
  ※国立国会図書館のデジタルコレクションでインターネット公開されています。
『山口市史 史料編 民俗・金石文』(山口市 平成27.3)
  P588「神福寺墓地宝篋印塔(一)」
  P590「神福寺墓地宝篋印塔(二)」
『山口市の石仏・石塔(2)―大殿・白石・湯田―』(山口市の文化財を守る会/篇 山口市教育委員会 2004.3)
  P91「大殿の塔」No.55,No.56※@


※@には以下のようにありました
 天文五年
 法印宥任
 六月□日
 


【次回に続く】
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