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こどもと本ジョイントネット21・山口


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大内政弘の墓 @ 大内政弘の墓&法泉寺跡に行きましたB [2020年05月11日(Mon)]
【前回の続き】

堰堤天端を渡り、しばらく堰堤湖沿いを歩くと、右手にもしかしたら元は公園として整備していたのではないかという場所があり、壊れかけたようなトイレがあります。
その向こうに墓がありますが、それが目的の墓ではありません。
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その先に、駐車場があります。
案内板が道路から見えるところに立っています。
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大内政弘の墓
     50m登る
大内政弘は大内氏二九代の武将で、文安三年(一四四六)に築山館を建てた教弘の長男として生まれました。
応仁元年(一四六七)に始まった応仁の乱では、山名宗全に味方して大兵を率いて上京し、西軍の将として戦っています。戦乱で京都は焼野原になり多くの文化人が政弘を頼って山口を訪ずれるようになりました。
政弘は京でも武将として名を上げた半面、芸術文化にも大変な関心を示しています。京都に在陣の頃から和歌や連歌の道に親しみ、帰国後も宗祇を山口に招いて、築山館で連歌の会をたびたび催しています。家臣達もたしなみ、山口は文化都市として大いに栄えました。また、画僧雪舟も政弘の保護の下で技術を磨き、わが国の水墨画を完成させています。
明応四年(一四九五)九月、病により五〇歳で他界。菩提寺は法泉寺。当時の連歌師猪苗代兼載は政弘の墓に詣でて次のような歌を詠んでいます。
   いたづらに吹くぞかなしきなき人も
     かへらぬ野辺の葛のうら風


ここから50m先ということですね。
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杉林の山道を進んでいきます。
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こちらが大内政弘墓所です。
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大内政弘の墓です。
宝篋印塔だとは思うのですが、相輪の部分は明らかにどこからか持ってきたものですよね。
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こちらは?
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こちらは?
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「大内政弘卿墓」の碑。
長州藩最後の第14代藩主である毛利元徳(もとのり)が建立したものです。
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盛見の墓にも、義隆の墓にもありましたね。
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猪苗代兼載(いなわしろけんさい)(1452(享徳元)〜1510(永正7))の『奉悼法泉寺殿辞(あしたの雲)』(『大内氏実録土代』巻二十「近藤清石文庫」 山口県文書館)によると

明応四のはじめの秋、(略)長月の中の八日の夜(つまり9月18日)、終に空敷(むなしく)見なし侍りぬ。
(やが)てその暁天(ぎょうてん)、なにがしの寺(法泉寺)迄出し侍るに、道すがら有明月(ありあけづき)うすぐもりつつ、もの心ぼそきに、誰とはしらず打なくこゑなど、いはんかたなし。さて、おさめ侍る事は、廿二日の明けがたなるべし。かの寺(法泉寺)のうしろの山に、此春頃より終の栖をしめ置、道など迄付てをかれけるとなり。かかるべしとかねてさとり給へる、いたりふかく不思儀(議)なる事なるべし。四方に嶺つらなり、古杉(松)老杉ならび立、飛泉石上にいさぎよく、誠に霊地と覚ゆ。


と生前よりこの場所を墓所として用意していたことがわかります。
前からどうしてこんな場所に、と思ってはいたのです。他のサイトさんでは、鬱蒼とした山の中とか、そんな記述が多く、初めから自分では行くことのできない場所と決めつけていました。
今回、応仁の乱と室町幕府にはまっている猫に誘ってもらわなければ、絶対来ませんでした。
でも、来てみると、杉林も間伐されていて、思ったよりずっと明るい(?)場所でした。車も停められるし、車道からすぐだし。

政弘は、深山幽谷の風情を愛で、ここを墓所に定めたのではないでしょうか。
実際に訪れてみて、山々を眺め、水のせせらぎを感じ、そう思うようになりました。

葬式の儀は、遺命に任て、何事も事そがれ侍ると也。

とあったにもかかわらず、

諸寺諸山の僧達、所もなく立ちこみ、鈸(ばつ)鼓のひゞき雲にこたへ、貴賤のかなしびのよそほひ霧にむせび、数千の人々藤の衣にやつれたる中に、

と大々的に行われたようです。
ここで、「藤の衣」でましたね。ここでは、「喪服」のことです。
跡継ぎの義興(1477〜1529)はどうだったかというと、

家をつぎ玉へる別駕のあるじ(大内義隆)、はたち計にてすがたよしげにもの/\しく、何事かはかの朝臣(大内政弘)にをとり給ふべきととぞ見えける。色ふかき袖に位牌などさゝげもちてねりわたり玉にぞ、見る人泪はせきあへざりける。

「せきあふ(塞き敢ふ)」とは、「おさえて我慢する」こと。

 かくて、ふかき山の中におさめ捨侍りて、皆立かへるもなさけなく、世はうきものなりけりとおもひしらる。
  千々の人なびき仕し君を今あしたの雲と見るぞかなしき

(略)
   前七州太守法泉寺殿早世の時、つくしにてしるす。
       法橋兼載


『奉悼法泉寺殿辞』(ほうせんじどのをいたみてまつるじ)は、政弘の終焉と葬儀の様子を述べつつ、特に政弘の文事における業績を讃えています。
兼載は、大内政弘の後援を得た、宗祇の『新撰菟玖波集』の編纂にも参加していることもあって、政弘の死を悼んだのですね。

『新撰菟玖波集』より政弘の歌(巻第一・春連歌上)を。

      多々良朝臣政弘
 み山のかげ春のさびしさ
うぐひすの人くとつぐる人はこで
  
  


参考文献:
『山口市史 史料編 大内文化』(山口市 2020)
  P574〜579「奉悼法泉寺殿辞(あしたの雲)」
  P488〜495「新撰菟玖波集実隆本」



【次回に続く】
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